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18.夢と現の狭間で

Author: 渡瀬藍兵
last update publish date: 2026-07-22 11:03:00

「誠也っ!」

 病室の外から、聞き間違えるはずのない声が響いた。

「お母さん……?」

 答える間もなく、扉が勢いよく開く。

 お母さんは転びそうなほど慌てて僕のところまで走ってくると、ベッドに横たわる僕を軽々と抱き上げた。

「わぁ……っ!」

 そのまま、ぎゅうっと胸の中へ閉じ込められる。

 身体が潰れちゃうんじゃないかと思うくらい、強く、強く。

 久しぶりに嗅いだ、お母さんの匂いだった。

 ずっと会いたかった。忘れるはずなんてなかった。胸の奥まで温かくなる、僕がいちばん安心できる匂いだ。

 僕の身体は思うように動かなかったけれど、どうにか指先を持ち上げ、お母さんの服を掴んだ。

「ごめんね……誠也。長い間ひとりにして、本当にごめんね……」

 耳元で、お母さんが何度も謝ってくる。

「大丈夫だよ、お母さん。誠也は大丈夫だから。それより、お仕事は?」

 そう尋ねても、お母さんは答えてくれなかった。

 ただ、僕を抱きしめる力が、もっと強くなる。

「お、お母さん……誠也、潰れちゃうよ」

 困ったように言ってみた。

 いつもなら、きっと笑いながら腕を緩めてくれるはずなのに、お母さんは何も言わない。

 僕を抱いたまま、小さく震えていた。

「どうしたの? 何か、悲しいことがあったの?」

 お母さんがゆっくりと顔を上げる。

 その顔は、涙でぐしょぐしょになっていた。

「お母さん……どうして泣いてるの? 誠也のせい?」

「ううん、違うの。誠也は何も悪くないわ。ただ……悲しいの」

 そのとき、もう一度、病室の扉が開いた。

「お父さん! お兄ちゃん!」

 嬉しくて、いつもよりずっと大きな声が出た。

 お父さんはどこか暗い顔をしていた。それでも僕と目が合うと、いつものように優しく笑ってくれた。

 お兄ちゃんは――どうしてだろう。

 僕に会えたはずなのに、今にも泣き出しそうな顔をしていた。

「誠也、お見舞いに来たんだ。それでさ、渡したいものがあるんだよ」

「渡したいもの? なあに?」

 お兄ちゃんが僕の前へ差し出したのは、小さな木彫りの犬だった。

 片方の耳が少しだけ大きくて、背中には細かな削り跡が残っている。決して綺麗な形ではなかったけれど、その犬は楽しそうに笑っているように見えた。

「これ、お兄ちゃんが作ったの?」

「ああ。学校の図工で彫刻刀の使い方を習ってさ。父さんに庭の木を切ってもらって、少しずつ削ったんだ」

 お兄ちゃんは照れくさそうに鼻の下を擦った。

「一年くらい、かかっちゃったけどな」

「一年も……?」

 僕は木彫りの犬を受け取った。

 指先で背中を撫でると、でこぼことした削り跡が伝わってくる。

 お兄ちゃんが僕のために、一年もかけて作ってくれた。

 そう思った途端、胸の奥がいっぱいになって、涙が勝手に溢れてきた。

「うわあああん……!」

「おい、泣くなよ。男だろ?」

 お兄ちゃんはそう言いながら、僕の頭をくしゃくしゃと撫でた。

 だけど、その声も少しだけ震えていた。

 男の子だって言われても、涙は止まらなかった。

 本当に、みんなに会いたかった。

 なかなか会えない日が続いて、ずっと寂しかった。

 夜になって廊下から人の足音が消えるたび、この広い病室にひとりだけ取り残されたような気がした。

 咳をするたびに苦しくなって、口から赤いものが出るたびに、このまま僕はひとりでお星様になっちゃうのかなって、ずっと怖かった。

 でも、みんなが来てくれた。

 お母さんに抱きしめてもらえて、お父さんの顔も見られて、お兄ちゃんから贈り物までもらえた。

 嬉しくて、嬉しすぎて、泣き止むことなんてできなかった。

 それなのに。

 お父さんは寂しそうな顔のまま僕のそばまで来ると、大きな手で僕の頭を撫でた。

「すまない、誠也。俺たちは、もう……」

 そこで、お父さんの言葉が止まる。

 何を言おうとしているのか、僕には分からなかった。

 けれど、胸の中がざわざわする。

 この先を聞いちゃいけない。

 なぜか、そんな気がした。

「誠也、ごめんな。俺たち……もう、誠也に会いに来られなくなったんだ」

 えっ。

 どうして?

 なんで、もう会えないの?

 もしかして、みんな、誠也のことが嫌いになっちゃったの?

 嫌だ。

 嫌だよ。

 そう叫んだつもりなのに、声が出なかった。

 いくら口を動かしても、喉の奥から擦れた息が漏れるだけだった。

「誠也、忘れないで」

 お母さんの両手が、僕の頬を包む。

「私たちは、あなたを嫌いになったんじゃない。ずっと、ずっと誠也を愛してる。それだけは、絶対に忘れないで」

「そ、それなら……そばにいてよ……! 行っちゃやだよぉ……!」

 行く?

 どこに?

 みんなは、どこへ行っちゃうの?

 自分でも、どうしてそんな言葉が出たのか分からなかった。

 けれど、三人とも今にも泣き出しそうな顔をしている。

 きっと、何かがあったんだ。

 嫌だ。

 嫌だ、嫌だ、嫌だ。

 またひとりになるなんて、絶対に嫌だ。

 だって、みんなのところへ帰るために、苦い薬も、痛い治療も、ずっと我慢してきたのに。

 みんなに会えないなら、僕は何のために病気を治せばいいの?

 ――行かないで。

 そう言おうとしたとき、目の前にいるみんなの姿が、白い靄の向こうへ溶けるようにぼやけ始めた。

「えっ……な、何が起きてるの? お母さん! お父さん!」

 必死に手を伸ばす。

 けれど、もう誰にも届かなかった。

「誠也」

 消えかけたお兄ちゃんが、泣きそうな顔で笑う。

「上で、待ってるから」

「上って、どこ……?」

 答えが返ってくるより先に、僕の目の前は真っ白に染まった。

 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸

 夢……?

 目を開くと、見慣れた病室の白い天井があった。

 ピッ、ピッ、ピッ――。

 枕元から、規則正しい機械の音が聞こえている。

 口元には透明なマスクがつけられていた。そこから冷たい空気が絶えず流れ込み、弱った僕の呼吸を助けている。

「せ、誠也くん!」

 病室の扉が勢いよく開き、じいちゃん先生が飛び込んできた。

 いつもはゆっくり歩くじいちゃん先生が、今日は息を切らしている。その顔は真っ青で、何かとても怖いことが起きたようだった。

「誠也くんのご家族が……」

 じいちゃん先生の唇が震える。

「交通事故に遭ったと、今、連絡が……」

「……え?」

 マスクの下から、かすかな声が漏れた。

 じゃあ、さっきのは夢じゃなかった。

 お母さんたちは、本当に僕に会いに来てくれたんだ。

 もう会いに来られないって、最後のお別れを伝えるために。

『上で、待ってるから』

 お兄ちゃんの声が、もう一度、頭の中で響いた。

 ピッ、ピッ、ピッ、ピッ――!

 枕元の機械が、急に速く鳴り始める。

 胸の奥が強く締めつけられた。マスクから空気が流れ込んでくるのに、吸っても、吸っても、少しも息ができない。

「っ!! 誠也くん! しっかりするんだ!」

 じいちゃん先生が僕の肩を掴む。

「き、君、すぐに看護師たちを呼んできてくれ! 誠也くんの容態が急変した!」

「は、はい!」

 扉のそばにいた白衣のお姉さんが、慌ただしく廊下へ駆け出していく。

「誠也くん! 私の声が聞こえるか! 誠也くん!」

 じいちゃん先生の叫び声が、すぐそばで響いていた。

 けれど、その声も、機械の音も――少しずつ遠ざかっていった。

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