LOGIN昔から女性に言い寄られることが多いのは、この仕事に役立っているといえるだろう。しかし和彦が自分の容貌を評価している最大の理由は、一欠片でも同性に性的な興味を持っている男の目を惹きつけられるからだ。
よくわからないが、和彦からはそういう空気が立ち昇っているらしい。その空気に惹きつけられた一人が、千尋というわけだ。 「ぼくが目立つと、澤村先生の人気を奪いそうだから、ぼくの顔写真の使用は遠慮してもらおう」 「おう、よく先輩を立てる術を知ってるな。昼飯を奢ってやる」 勢いよく立ち上がった澤村が白衣を脱ぎ、笑みをこぼしながら和彦も倣う。ありがたく、今日の昼食は奢ってもらうことにした。 さっそく二人が医局を出ようとしたとき、背後から呼び止められた。 「佐伯先生、電話だよ」 澤村に待ってもらい、和彦は一番近くの電話に出る。 「お電話代わりました、佐伯です」 咄嗟に和彦の頭に浮かんだのは、午後から手術をすることになっている女性患者の存在だった。やはり、今日の手術は延期したいと言ってきたのだろう。そう思ったのだが――。 電話から返ってくる声はなかった。このとき和彦の中に、ヒヤリとした感覚が駆け抜ける。 またか、という言葉が頭に浮かんだ。 また、無言電話がかかってきた。この一週間ほど、和彦の元には無言電話が毎日かかってきている。不気味なのは、その無言電話が病院にだけかかってくるわけではないことだ。 最初にかかってきたのは、自宅の固定電話だった。次が、携帯電話。そして病院に。まるでローテーションでも組んでいるように、毎日一回、こうして違う電話にかかってくる。 「もしもし?」 念のため呼びかけて返答がないことを確かめると、すぐに受話器を置く。澤村を促して、足早に医局から離れた。*
*
春の暖かな陽気を浴びながら、せっかくのテラスでの昼食だというのに、和彦は憂うつだった。昼食に出かける前にかかってきた無言電話のせいだ。 無意識のうちに周囲に鋭い視線を向け、他のテーブルの客や、カフェの外を行き交う人たちを観察する。無言電話の犯人が、どこかで自分を観察しているようで落ち着かない。 澤村の話に適当な相槌を打ちながら、頬杖をついた和彦は犯人の心当たりがないか、じっと考えていた。人から恨まれるほど深い人つき合いはしていないし、唯一何かありそうな仕事絡みにしても、クリニックでの人間関係に問題はない。手術の結果が気に入らない患者が恨んで、というパターンが一番ありえそうなのだが、生憎、和彦が手がけた手術に関して、それらしいクレームは入っていなかった。 ただ、逆恨みで、密かに和彦を憎んでいる〈誰か〉となると、見当をつけるのはお手上げだ。 順風満帆な日常において、ほんのわずかについたシミのようだった無言電話が、まさか一週間ほどで、ここまで危機を感じるものになるとは予想外だった。 和彦がそっとため息をついたとき、ふいに傍らに誰かが立つ。 「――今日は調子が悪そうですね、佐伯先生」 丁寧で柔らかな口調で話しかけられ、条件反射で和彦は姿勢を正す。視線を上げると、テーブルの横にこのカフェのウェイターが立っていた。日焼けした端正な顔に、人好きのする笑顔を浮かべている。この笑顔見たさに常連になる女性客もいるだろう。 三日前、ベッドの中で和彦を貪り尽くしながら、満足そうに浮かべていた笑顔とは大違いだ――。 「佐伯先生は、アレの日なんだ」 品のない受け答えをした澤村の足を、テーブルの下で軽く蹴りつける。大げさに痛がる澤村を見てウェイター――千尋が小さく笑い声を洩らす。白と黒を基調にした上品な制服を着ていると、笑い方まで品がよくなるらしい。 千尋を見上げながら、和彦はそんなことを考える。和彦も最初は、千尋のこんな表情にすっかり騙されたのだ。まさか、あんなに〈やんちゃ〉だったとは、想定外だ。もちろん、いい意味で。せめて、賢吾にメールを送っておこうと思いはするものの、体がもう動かない。ふっと和彦の意識は遠のく。 普段であれば、このまま深い眠りについてしまうはずなのだが、意識の一部はひどく研ぎ澄まされている。慣れない場所で一人ということもあり、絶えず辺りの様子をうかがっているのだ。 総和会の男たちが同じ階に控えていて、何か起こるはずもないのに――。 自分が起きているのか眠っているのかわからない状態に陥り、浸っていると、前触れもなく異変は起こった。 マットの傍らに誰かが立っている気配を感じたのだ。 本能的な怯えから和彦は体を強張らせる。次にどんな行動を取るか、ほんの数瞬の間に考えて実行に移そうとしたが、その前に動けなくなった。顔全体にふわりと柔らかな感触が触れたからだ。それが薄い布の感触だとわかったとき、和彦の中で蘇ったのは、守光宅の客間での出来事だった。 驚きと戸惑いによって和彦が動けないのをいいことに、侵入者はいきなり大胆な行動に出る。マットの上に上がり、和彦の体にかかった毛布を剥ぎ取ったのだ。 急速に恐怖に支配され、顔にかかった布を外そうとしたが、すかさず片手で手首を掴まれてマットに押さえつけられる。大きくて力強い男の手だった。和彦の手首を折るぐらい簡単にできそうだ。言葉も発さない相手の意図を察し、和彦はささやかな抵抗すらできなくなる。 トレーナーの下に分厚く硬い手が入り込み、肌をまさぐられる。生理的な反応から鳥肌が立つが、相手は意に介さず、トレーナーをたくし上げて、無遠慮に撫で回してくる。手つきも、手の感触すらもまったく違うというのに、和彦の存在を探るかのように触れてきた守光のことが、頭から離れない。 手つきの荒々しさとは裏腹に、男は時間をかけて和彦の体に触れてきた。そして興味をひかれたように、胸の突起を特に念入りに弄り始める。 てのひらで捏ねるように転がされ、自分ではどうしようもできない反応として硬く凝ると、指の腹で押し潰され、再び反応を促すように乱暴に摘み上げられて、引っ張られる。痛みに小さく呻いた和彦は、ここでようやく、頑なに閉じたままだった目を開けた。 薄い布を通した電気の光に、一瞬目が眩む。だがすぐに、自分の上に馬乗りになっ
「腸閉塞だな。わかりやすく言うなら、腸が詰まっているんだ。だから、飲食したものがすべて逆流して、嘔吐が続くし、腹痛も起こる。先日の手術で内臓の組織が癒着して、腸が圧迫されたんだろうな。それに、寝たきりのストレスも、腸によくない影響を与える」 部屋にいる男たちに淡々と説明をしながら、輸液の準備をする。一方で頭の片隅では、この場にいるのは、南郷率いる第二遊撃隊の人間ばかりなのだろうかと考えてもいた。 手術を行ったときは、男が怪我を負った簡単な経緯だけは聞いたが、それ以外のことは何も知らされなかった。唯一はっきりしていたのは、総和会から回ってきた仕事、ということだけだ。だが、帰宅する車で南郷と乗り合わせ、さほど知りたくなかった事情を、大まかながら教えられた。 総和会の中で詰め腹を切らせるために、男は生きていなくてはならないのだ。 こういう事実を知ってプレッシャーを感じるぐらいなら、何も知らなかったほうがありがたい。 医者として患者を救いたいのは当然だが、この世界で求められるのは、そういう道徳や倫理といったものではない。優先されるべきは、組織の都合であり、事情なのだ。結果として患者を救えるのだから文句はないだろうと、南郷なら平然と言いそうだった。 必要以上に南郷を悪辣な男として捉えてしまうのは、やはり苦手だからだ。 車中での出来事が蘇り、和彦は眉をひそめる。背筋を駆け抜けたのは、不快さだった。気を取り直し、男の腕に点滴の針を刺す。「当分、食事はおろか、水を飲むことも厳禁だ。点滴で栄養をとりながら、胃腸を休ませる」「……また、手術をすることになるんですか?」 和彦の指示に従い、新しい洗面器を持ってきた男が問いかけてくる。なんとなく見覚えがある顔だと思ったら、先日、南郷と同乗した車を運転していた男だ。 咄嗟に和彦は、質問に対して、まったく関係ない質問で返していた。「――南郷さんもここに来ているのか?」 男はわずかに目を見開いたあと、すぐに無表情となって首を横に振った。「いえ、今日は会長と行動をともにしているので」「そうか……」
秦だけでなく、その秦の後ろ盾となった長嶺組――賢吾からも。「組長には報告しておきましたから、当分先生には、窮屈な思いをさせるかもしれません」「……基本的に、どこに行くにも護衛をつけてもらっているから、ぼくの場合、さほど生活に影響があるとも思えないが……。あっ、護衛が面倒だから、夜は出歩くなと言うことか?」 和彦としては真剣に問いかけたのだが、怪我をしている組員までもが、苦笑に近い表情を浮かべて首を横に振る。「先生に、そんな野暮は言いませんよ。ただ、俺たちみたいな連中の面倒を見てくれる大事な人なんですから、気をつけてほしいだけです」「それを言うなら、君らもだ。日ごろ振り回して、世話になっているからな」 短く息を吐き出して和彦は、今度こそ切り傷の縫合に取り掛かった。**** 午後の診察時間の終了まで一時間近く残して、クリニックにはすでに緩やかな空気が漂っていた。最後の患者を見送ってしまうと、完全予約制のこのクリニックでは、あとは仕事が限られるのだ。 週明けに入っている予約について打ち合わせを済ませてから、あるスタッフは医療用品や薬剤の在庫を確認し、手が空いているスタッフは掃除を始める。和彦も、診察室を――というより、自分が使っているデスクの上を片付ける。 それが終わると今度は、コピー用紙を一枚取ってきて、卓上カレンダーを眺める。「――……ついこの間、花見でバタバタしていたのにな……」 ぽつりと洩らした和彦は、簡単な文面を考えてコピー用紙に書いていく。すると、診察室の掃除のため入ってきた女性スタッフが、ススッと近づいてきた。「何を書いているんですか、佐伯先生」「ゴールデンウィークの休業日のお知らせ。患者さんにはもう電話で伝えてあるけど、配達業者が困るかもしれないから、そろそろ玄関のドアに貼っておこうと思って」「はあ、この間開業したと思ったら、もうゴールデンウィークなんですねー。バタバタしていたから、なんだかあっという間です
**** 突然、電話が鳴り、ビクリと体を震わせた和彦は考えるより先に起き上がると、サイドテーブルの子機を取り上げた。『――お休み中、申し訳ありません』「いや……」 寝起きで掠れた声を発した和彦は、反射的に時間を確認する。室内の暗さから見当はついたが、深夜だった。 こんな時間、長嶺組の組員からかかってくる電話の内容は、ほぼ決まっている。『うちの組の者がトラブルに巻き込まれて、怪我をして戻ってきたんです。ひどく痛がっていて、どうやら骨折をしているようで……。それで、クリニックのほうで診てもらいたいのですが』「そうだな。レントゲンを撮る必要があるから、クリニックのほうが都合がいい。麻酔もすぐに準備できる」 話しながらベッドを下りた和彦は、イスの上に置いた着替えを取り上げる。『すでに車は待たせてあります。準備ができたら降りてください』 五分で降りると返事をして、電話を切る。 ジーンズに穿き替えながら和彦は、最近急に物騒になってきたように感じていた。先日は、総和会の第二遊撃隊が面倒を見ることになったという男を手術したが、やはり、外を出歩いているときに襲われて大怪我を負ったと教えられた。 普段は無用な揉め事を避けたがる世界だが、些細なことで様相は一変する。血生臭い空気に当てられて小さないざこざが起こり、それが大きな闘争へと繋がる危うさと緊迫感をいつでも孕んでいるからだ。もっとも、こんな世界に身を置き、医者をしている和彦だけがいつ血の匂いがするかと身構えており、男たちにとってはこれが当たり前なのかもしれない。 和彦はTシャツを着込み、その上からパーカーを羽織って、慌ただしく玄関に向かおうとしたが、すぐに引き返して洗面所に飛び込む。眠気はとっくに消えてしまったが、顔を洗って気持ちを切り替える。 一階に降りると、すでに待機している長嶺組の車に乗り込み、まっすぐクリニックへと向かった。 患者を含めた数人の組員たちはすでに到着しており、待合室にいた。和彦の姿を見るなり素早く立ち上がり、一斉に頭を下げ
そんな和彦の気持ちを知ってか知らずか、千尋は大きなあくびをしたあと、にんまりと笑いかけてきて、布団の上を軽く叩いた。ここに座れと言いたいらしい。 髪を拭いていたタオルを手に、和彦は渋々従う。すかさず千尋が肩を抱いてきた。「先生、また一緒に寝よう。じいちゃんに知られたって、別にいいじゃん。俺だって、先生のことで主張できる権利がある」「何を主張する権利だ」「わかってるのに、聞くんだ」 さきほどの寝ぼけていた姿は演技だったのか、すでに千尋の両目は生気を漲らせ、強い光を湛えている。 和彦はまじまじと千尋の顔を覗き込み、頬を撫でてやる。おそらく千尋に犬の尻尾が生えていたら、今この瞬間、ブンブンと振っていることだろう。そんな想像をしてしまうぐらい、嬉しそうな表情を浮かべたのだ。「――お前と一緒にいるときは、ぼくは、お前のオンナだ」「悪いオンナの台詞だよなー、それ。オヤジやじいちゃんと一緒にいるときも、同じことを言うんだろ。言う相手が違うだけで」「ぼくにそれを求めたのは、物騒で怖い、長嶺の男たちだ」「だって俺たち、先生に骨抜きだからね」 千尋に優しく唇を啄ばまれ、すぐに舌先を触れ合わせて、相手をまさぐる。朝から交わすには露骨でいやらしい口づけへと変化するのは、あっという間だった。 執着心をぶつけてくるように、千尋の舌に荒々しく口腔をまさぐられる。和彦は、そんな千尋を受け入れ、応じていた。 ようやく唇が離されると、千尋は少し困惑したように洩らした。「この部屋、なんか変な感じがする。ここで先生がじいちゃんに初めて……とか思うと、嫉妬より先に、すげー興奮するんだ。じいちゃんと張り合いたい気分になるっていうか」「……前々から感じていたが、妙な性癖を持ってるだろ、お前」 とにかく自分の部屋に戻れと言いながら、和彦は千尋の体を布団から押し出そうとする。しかし千尋はごろりと横になり、あっという間に布団に包まってしまう。「こらっ、千尋――」「俺、先生に怒られるの好き」 もっとかまってくれと言わんばかりに千尋が
両足を抱えられ、大きく左右に開いたしどけない姿で、和彦は犯される。 逞しい部分で内奥をこじ開けられ、襞と粘膜を蹂躙するように擦り上げられるたびに、ビクビクと上体を震わせるが、懸命に声は堪える。和彦のそんな姿に、千尋の欲望は煽られているようだった。「たまんない、今の先生の姿。つらそうな顔してるのに、ここはこんなに悦んでてさ」 千尋はゆっくりと腰を突き上げながら、開いた両足の間で揺れる和彦の欲望を握り締めてくる。咄嗟に唇を噛んで嬌声を押し殺したが、そんな和彦を追い詰めるように千尋は欲望を手荒く扱き始める。内奥では、力強く脈打つものが蠢き、鳥肌が立つほど感じてしまう。「うっ、うっ、うぅっ――」「感じまくってるね、先生。中、興奮して、ギュウギュウ締まりまくってる。……溶けそうなぐらい、気持ちいい……」 両足を抱え直されて、一度だけ大きく内奥を突き上げられる。息を詰めて仰け反った和彦は、数秒の間を置いて熱い吐息を洩らしていた。 和彦が脆くなっていると感じ取ったのか、千尋が甘えるように覆い被さってくる。求められ、唇を吸い合ってから、舌を絡める。その間も千尋は、緩やかな律動を内奥で刻み、無意識のうちに和彦は腰の動きを同調させて受け止める。さらに深く、奥まで千尋のものを呑み込むために。「んあっ……、はっ、あっ、あっ、千、尋っ……」 千尋の肩にすがりつき、和彦は控えめに声を上げ始める。「先生、いつもみたいに、もっと声出してよ。じいちゃんの部屋まで聞こえるような、すごい声」 上体を起こした千尋が、繋がった部分を指で擦ってくる。和彦は首を横に振るが、さすがに長嶺の男だけあって、欲しい答えを引き出すために千尋は淫らな手段を行使してきた。反り返って震える和彦の欲望を指先でくすぐったあと、柔らかな膨らみをきつく揉みしだき始めたのだ。「うああっ」 たまらず和彦が声を上げると、内奥に収まっている千尋のものがさらに大きさを増す。 内奥を強く突き上げられたかと思うと、次の瞬間には柔らかな膨らみを手荒く愛撫される。それを
どこか楽しげな口調で呟いた賢吾に両膝の裏を掴まれ、足を抱え上げられる。何をされるのかと身構える間もなく、柔らかな膨らみに舌が這わされた。唇を噛んで声を堪えた和彦だが、淫らな愛撫にすぐに理性は陥落する。 熱い口腔に含まれて舐られると、はしたなく腰を揺すり、放埓に声を上げて感じてしまう。刺激が強すぎてつらくなってくるが、和彦がいくら賢吾の頭を押し退けようとしても、愛撫がとまることはない。「はっ……、やめ……、つらい、んだ」 和彦は必死に訴えながら、押し寄せてくる快感に爪先を突っ張らせる。顔を上げた賢
「俺としては、先生の機嫌より、艶っぽい表情をしていた理由のほうが気になるな。南郷に口説かれていると思って、そういう顔になったのだとしたら、俺も嫉妬に狂う男にならないと」 冗談めかしてはいるが、こちらを見据えてくる賢吾の目は蛇のように冷たい。牙を突き立ててくるように和彦の心を容赦なく抉ってこようとしているのだ。 痛みを与えることだけが、相手を恐れさせる手段ではない。賢吾を目の前にすると、それがよくわかる。 脳裏に蘇りそうになる昼間の出来事を、和彦は必死に抑え込む。賢吾と里見の存在を交わらせるわけにはいかないのだ。 どちらも、和彦にとっては特別
** タクシーに乗っている間、二人はまったく会話を交わさなかった。携帯電話に三田村から連絡が入って和彦が出ようとしたときも、無言のまま素早く取り上げられて、電源を切られたぐらいだ。 張り詰めた車中の空気は覚えがあった。長嶺組の人間に拉致されて、わけもわからないまま車に乗せられたときと同じだ。一緒にいるのが千尋とはいえ、和彦はひどく緊張していた。 千尋に限って、手荒なことをするとは思えないが――。 タクシーは、千尋が住むワンルームマンションの前で停まり、支払いを済ませた千尋に促されるまま和彦はタクシーを降りる。
** 自分の車に千尋を乗せて和彦が向かったのは、繁華街の中にある、飲食店ばかりが入った雑居ビルだった。とにかく人目を避け、なおかつ人に紛れ込みたかったのだ。これだけ飲食店があれば、仮に尾行がついていたとしても、二人の姿を容易に見つけ出せないはずだ。 もっとも、千尋と二人きりになった時点でアウトな気もするが、肝心の千尋が和彦から離れないのだから仕方ない。 混み合うエレベーターを途中で降り、階段を使って上がる。入ったのは、個室が使える居酒屋だった。すでに盛り上がっているグループやカップルを横目に、二人は黙り込んだまま個室に案内してもらう