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第41話(11)

Author: 北川とも
last update publish date: 2026-07-28 11:00:09

「見てわかるだろうが、ここは元は保育所だった。無認可保育所っていうのか。……よくわからんが。――経営者が借金で首が回らなくなって、いろいろあって手放すことになったようだ。買い手がつきそうなら、とっとと更地にでもして売りに出すんだが、そうはいかない事情があって、何年もこのままだ」

 南郷はこちらの反応など求めていないだろうと判断して、和彦は返事をしなかった。それどころではなかったというのもある。

 踊り場で何げなく顔を上げて、ハッと息を詰める。正面の壁に大きな鏡があり、そこに和彦自身の姿が映っていたのだ。

 今は、自分の顔は見たくなかった。視線を逸らし、その拍子に、いつの間にか立ち止まっていた南郷の背にぶつかる。またよろめくことになった和彦に、振り返った南郷は表情も変えない。何事もなかったように二人はまた階段を上がる。

「倉庫代わりに使うだけなのももったいないから、一時期は、若い連中を住まわせるかという話も出たが、この辺りは、昔から住んでいる人間が多くて、新参者は目立ちすぎる。だから、荷物を運び込むのも気を使う」<
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  • 血と束縛と   第41話(14)

     かつて自分が受けていた里見からの優しい囁きと、情熱的な愛撫を、今は英俊が受けている。それがどんな光景であるか、思い描くのは容易だった。 大事なものを奪われた。 そう、和彦自身が認めたとき、胸を切り裂かれ、血が噴き出したような痛みと喪失感を覚えた。その感触があまりにリアルなのは、意識が夢の中を漂っているからだ。悪い夢の中を。 急に息苦しさに襲われて無我夢中でもがくが、もどかしいほどに手足は動かず、声すら上げられない。その間にも、和彦の中で競り上がってくる感情の塊があった。 それは、憎悪や嫉妬という名を持つかもしれない。噴き出した血の代わりに体を満たし、開いた胸を塞いでいくそれらに、自分が支配されてしまいそうな予感があった。「い、やだっ」 叫びが、声となって口を突いて出る。それがきっかけとなって目が覚めていた。 和彦は思い切り息を吸い込み、瞬きもせずに明るい天井を見上げる。じわじわと手足に感覚が戻っていき、全身から汗が噴き出す。初めての場所で、慣れない硬いベッドで横になっていたせいか、体が強張り、節々が痛い。眠りながらも、緊張が解けていなかったのかもしれない。 明かりの眩しさに目を瞬かせながら、ぎこちなく息を吐き出す。今日起こった出来事の何もかもが夢であればよかったのにと、子供じみたことを願った次の瞬間、嗚咽が漏れた。夢の中で号泣した余韻を引きずっており、高ぶった感情を制御できなかった。「ふっ……」 ぐっと喉を締め付けられたようになり、行き場を失ったものが、一気に両目から溢れ出してきた。こめかみを伝い落ちる熱い液体の感触に、和彦はそっと指先を這わせる。泣いているという自覚はなかったが、確かに涙は出ていた。 涙の理由は、いくつもあるだろう。悲しさと悔しさ、もどかしさと切なさ。怒りも含まれているかもしれない。感情の区別はつくが、それが誰に向けられているものか、考えたくはなかった。 和彦は震えを帯びた息を吐き出し、その拍子に小さくしゃくり上げる。それがひどく子供っぽく感じられ、一人恥じ入る。 そう、部屋には自分一人しかいないと思っていたのだ。「――あんたは、泣かない人間なのか

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     和彦は重苦しいため息を一つつくと、懐中電灯を手に部屋を出て、一階へと下りる。すでに廊下の電気は消されており、懐中電灯で辺りを照らす。さすがにシャワーを浴びる気分ではなく、ひとまず、南郷が言っていた〈給食室〉を探し当て、中に入ってみた。 予想はついていたが、ようは炊事場で、ここで子供たちの食事を作っていたらしい。電気をつけると、広い作業台がまっさきに視界に入る。二階の部屋とは違い、こちらは片付いているようだった。小型冷蔵庫と電気ポットがあるぐらいで、調理器具や食器は見当たらない。 作業台の上にスーパーの袋が置いてあり、カップラーメンの他に、割り箸や使い捨て容器が入っている。そこで和彦は、自分が俊哉との食事で、料理にほとんど箸をつけられなかったことを思い出す。もっとも、空腹感はなかった。 足元から這い上がってくる寒さに、大きく体を震わせる。水を取ってくるだけのつもりだったが、気が変わった。ペットボトルの水を電気ポットに注ぐと、湯が沸くまでの間に、シャワー室で顔を洗ってくる。 本当はカップがあればよかったのだが、いくら探しても見つけることはできず、仕方なく紙コップに白湯を注いで二階に戻る。子供用の小さなイスをベッドの傍らに置き、それをテーブル代わりにした。 ベッドに腰掛けた途端、まるで鉛でも背負わされたように体が重くなる。同時に、部屋の明かりが急に眩しく感じられ、忘れかけていた頭痛がぶり返す。せめて頭上の明かりだけでも消そうと思ったが、立ち上がれなかった。 肉体的にも精神的にも、とうに限界を迎えていたことを、ようやく和彦は悟る。そうなると、何もかもどうでもよくなってきた。自分を取り巻く環境への、尽きることのない憂慮も、男たちへの配慮も。何も、考えたくなかった。 今は――、と声に出すことなく呟き、和彦は紙コップを取り上げる。息を吹きかけながら少しずつ白湯を口に含む。部屋は暖まってきたというのに、体の内側がひどく冷えているようだった。 紙コップを空にすると、もそもそと毛布を広げてベッドに横になる。強い眩暈に襲われて、きつく目を閉じる。 まったく眠気は感じていなかったが、現実から逃れるように意識が急速に遠退いた。**

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    「いつ寝首を掻かれてもおかしくないことを、さんざんしてきた――というより、している最中だからな。そんな自覚があるからこそ、他人に住み家を知られるのが嫌なんだ。もっとも、多かれ少なかれ、極道ってのは、そういうもんだが。慎重な分、長生きできる確率が上がる。臆病だと誹られようがな」 いつだったか、賢吾も似たようなことを言っていたなと、ふと思い出した。 賢吾の顔が脳裏に浮かんだ途端、ギシギシと音を立てて和彦の胸は軋む。罪悪感のせいだけではなく、痛切に今、賢吾に会いたいと思ってしまったためだ。そんな和彦に追い打ちをかけるように、南郷が言った。「――長嶺組長も同じタイプだ。むしろ、俺よりも慎重なぐらいだ。……ああ、最近は少しばかり、様子が変わったみたいだな。前までなら、護衛をつけずに出歩く人じゃなかった。しかも、オンナのためという理由で」 嘲りを含んだ言葉の響きに、和彦は伏せていた視線を上げる。南郷に、おそろしく冷やかな眼差しで見つめられていた。 南郷がなんのことを言っているのか、すぐにわかった。一瞬うろたえた和彦だが、次の瞬間には、ゾッとした。護衛もつけずに賢吾と二人だけで出かけたことを、当然のように南郷が把握していたからだ。 このときまで、自分のことばかりに気を取られていたが、鈍くなった頭でようやく和彦は思い出す。 今晩起こった予定外の出来事に対して、南郷は怒っているのだ。秘密裏に行われるはずだった俊哉との対面に、里見という未知の存在が割り込み、一人になりたいと和彦がワガママを言い出し――。 さらにどんな容赦ない言葉を投げつけられるのかと、身を硬くする。しかし南郷は、何事もなかったように話題を変えた。「トイレは二階にもあるが、シャワーを浴びたかったら、一階に下りてくれ。さっき俺が入った部屋の隣が、狭いがシャワー室になっていて、バスタオルなんかも揃っている。それと、〈給食室〉という名札がかかった部屋があるから、腹が減っているなら、そこにあるポットで湯を沸かしてカップ麺でも食ってくれ。冷蔵庫に水が入っている。あとは何を言っておけばいいんだ――、ああ、懐中電灯は、そこのテーブルの上だ。必要なら使ってくれ」「&helli

  • 血と束縛と   第41話(11)

    「見てわかるだろうが、ここは元は保育所だった。無認可保育所っていうのか。……よくわからんが。――経営者が借金で首が回らなくなって、いろいろあって手放すことになったようだ。買い手がつきそうなら、とっとと更地にでもして売りに出すんだが、そうはいかない事情があって、何年もこのままだ」 南郷はこちらの反応など求めていないだろうと判断して、和彦は返事をしなかった。それどころではなかったというのもある。 踊り場で何げなく顔を上げて、ハッと息を詰める。正面の壁に大きな鏡があり、そこに和彦自身の姿が映っていたのだ。 今は、自分の顔は見たくなかった。視線を逸らし、その拍子に、いつの間にか立ち止まっていた南郷の背にぶつかる。またよろめくことになった和彦に、振り返った南郷は表情も変えない。何事もなかったように二人はまた階段を上がる。「倉庫代わりに使うだけなのももったいないから、一時期は、若い連中を住まわせるかという話も出たが、この辺りは、昔から住んでいる人間が多くて、新参者は目立ちすぎる。だから、荷物を運び込むのも気を使う」 二階に着いたところで、さらに上に続く階段に気づく。屋上には何があるのだろうかと思いはしたが、わざわざ南郷に問うほどのことではない。 和彦は、手招きされるまま、三部屋並んだうちの一部屋に足を踏み入れた。 本当に保育所だったのだなと、室内を見回して改めて納得する。 オルガンやロッカー、子供サイズのテーブルやイスが壁際へとまとめて押しやられ、部屋の半分ほどを占めているが、それでも窮屈だとは感じない広さがあった。適当に片付けられた雑多さはあるが、同時に、なんともいえない物寂しさも感じる。 精神的に弱っているせいか、やけに感傷的になる和彦とは対照的に、南郷は暖房を入れて効きを確かめると、すぐに部屋を出ていく。足音からして、どうやら隣の部屋に向かったらしい。 和彦は所在なく立ち尽くしていたが、やはり外の様子が気になって、窓に近づく。分厚いカーテンの隙間から外を見ると、テラスに出られるようになっていた。南郷が出て行った扉のほうにちらりと目を向けてから、テラスへと出る。 非常時の避難路なのか、二階から庭へと下りられるよ

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    ** 移動する車中で、和彦と南郷は一言も口を利かなかった。 どこに連れて行かれるのかという不安に駆られながらも和彦は、同時に投げ遣りな気持ちにもなっていた。あまりに様々なことを知って、とにかく疲弊しきっていたのだ。心が擦り切れて、いまさら南郷に傷つけられたところで、どうでもいいという心境にすら陥っている。 頭は痛み続け、吐き気は治まらない。シートに身を預けたまま、外の様子をうかがうために視線を動かすことすら、つらい。それでも心は葛藤し続けていた。コートのポケットに入れてある携帯電話を取り出し、せめて電源ぐらい入れるべきではないだろうかと。 しかし、即座にかかってくるはずの電話に出て、事情を話す勇気はなかった。今の自分の言葉には、きっと毒が滲み出ていると和彦は思うのだ。誰にも触れさせたくない、物心ついたときから心の底に溜まり続けていた毒だ。それは、和彦の本性ともいえる。 一人で抱え、苦しむべきなのだ――。 和彦は知らず知らずのうちに、暗い眼差しを目の前の運転席へと向けていた。南郷になら、むしろ毒を叩き込んでやりたいと、ふっと考え、そんな自分にゾッとする。 和彦が身じろぎをするたびに、南郷がこちらの様子をうかがう素振りを見せる。だが、やはり声はかけてこない。 伏せ続けていた視線をようやく上げると、車はいつの間にかまったく見覚えのない場所を走っていた。郊外の住宅街といった景観で、どこか画一的な住宅が並んでいる。 そこを抜けると、昔ながらの町並みが残っているようだが、ぽつぽつと灯った街灯だけでは、辺りの様子すべてを把握することはできない。 向かっている先の見当がまったくつかず、押し潰されそうな不安に耐えかねた和彦は、とうとうコートのポケットに手を忍び込ませる。携帯電話に指先が触れた瞬間、唐突に南郷が話しかけてきた。「――黄色っぽい建物が見えるか?」 ビクリと体を震わせた和彦は、反射的に背筋を伸ばす。「えっ……」「暗くて見えにくいが、黄色くて四角い建物だ。あんたの今夜の宿泊場所だ」 南郷が前方を指さした先には、確かに黄色っぽい角ばった二階建ての建

  • 血と束縛と   第41話(9)

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  • 血と束縛と   第11話(20)

     外から男二人のにぎやかな話し声が聞こえてくる状況で、求められるまま、やむをえず舌を絡め合い、唾液を交わす。引き出された舌を痛いほど吸われると、たまらず和彦は鷹津の肩にすがりついていた。 ますます鷹津の腕の力が強くなり、和彦の中で奇妙な変化が起こっていた。鷹津のことがどうしようもなく嫌いで、嫌悪しているのに、そんな男にねじ伏せられるように口づけを交わしていると、高揚感に襲われ、体の奥深くから強引に官能を引き出される。 官能に形を借りた、サソリの毒かもしれないと、ふとそんな考えが脳裏を過る。鷹津の毒を注入され、体も心も侵されていくのだ。 思わず身じろごう

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  • 血と束縛と   第4話(27)

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