Masuk「ヤクザの言うことは、頭から疑うことにしている。そのぼくが、あんたを一目見て感じたんだ。嫌な奴だと。実際、ヤクザより嫌な奴だ……」
「口には気をつけろよ。このまま警察署に連行してやってもいいんだぞ」「……なんの罪で?」 ここで鷹津はニヤリと笑った。「お茶をご馳走してやるためだ」 ちょうど信号待ちで車が停まる。迷わず和彦はバックルに手をかけようとしたが、鷹津に手首を掴まれて止められた。和彦は一瞬怯えてしまい、目を見開いたまま粗野な男の顔を見つめる。鷹津は煙草を指に挟み、こちらに煙をふっと吹きかけてきた。「――俺は悪党で嫌な奴だろうが、少なくとも、お前からヤクザという疫病神を引き離すことはできる」 この瞬間、和彦の気持ちは大きく揺れた。救われたとすら思ったかもしれない。 すぐに我に返ったが、そんな和彦に鷹津は、口元には笑みを浮かべながら、しかし怖いほど鋭い眼差しを向けていた。車のライトで浮かび上がる鷹津の目は、冷たい光を湛えながら、ドロ体がじわりと熱くなってきたところで和彦は、相手の意図を知った。 三日前、和彦は鷹津と体を重ねた。そのとき鷹津から受けた愛撫の痕跡がまだいくつか肌に残っており、それを辿っているのだ。 急に羞恥と後ろめたさに襲われて身じろごうとしたが、すかさず敏感なものをてのひらに包み込まれて動けなくなる。 和彦のささやかな抵抗すら封じ込めると、相手の手つきは、冷静に体を検分するものから、官能を刺激するものへと変わる。そして和彦は、逆らえない。 相手がベッドを下りる気配がした。もちろん、行為がこれだけで終わるはずもなく、和彦の耳に衣擦れの音が届く。すぐにベッドが揺れ、再び相手の手が和彦の体に触れる。 愉悦を与えられる手順の何もかもが、あの夜と同じように思えた。 和彦のものは再びてのひらに包み込まれ、緩やかに上下に扱かれる。もう片方の手が腿から腰、胸元へと這わされ、撫で回してくる。相手の手つきはあくまで丁寧で、緊張で強張っている体を解そうとしているのだ。 和彦はゆっくりと呼吸を繰り返し、てのひらの感触が肌に馴染んでいくのを感じていた。目隠しの下で目を閉じながら、さきほどまで自分が身を置いていた状況を思い返し、目まぐるしく思考を働かせる。 あの場にいた男たちに、自分はどんな存在として認知されているのだろうか。ふとそれが気になったが、喉元にまでてのひらが這わされて我に返る。一瞬、首を絞められるのではないかと危惧したのだ。 当然だが、そんな物騒なことはされなかった。 あごの下をくすぐられ、頬を撫でられて、耳の形をなぞられる。唇には指先が擦りつけられた。考えてみれば、前回は顔全体に布をかけられていたため、このように触れられることはなかったのだ。 そしてまた、胸元から腰にかけててのひらを這わされる。「ふっ……」 腰の辺りに疼くような心地よさが広がり、和彦は小さく声を洩らす。絶えず愛撫を与えられている和彦のものは、すでに身を起こしていた。それを待っていたように相手の手が、今度は和彦の柔らかな膨らみにかかった。 爪先をベッドに突っ張らせて、和彦はビクビクと腰を震わせる。怖い、と咄嗟に思ったが、足を閉じ
「知ることで、どんどんこの世界の深みにハマる。そうやって、長嶺の男たちが大事にしている先生を、逃がさないようにしている」 本気とも冗談とも取れることを言って、守光は声を上げて笑った。さすがにその声に驚いたのか、店内の男たちが一斉にこちらに向き、和彦一人がうろたえてしまう。 視線を避けるようにグラスを取り上げ、水割りを飲もうとしたところで、膝の上に置かれたままの守光の手に気づいた。その手が意味ありげに動き、膝を撫でて離れる。たったそれだけのことだが、肌に直接触れられたような生々しさを感じ、和彦は体を硬直させる。「――賢吾も千尋も、あんたをこの世界から逃すまいと、必死だ。そしてわしも、同じ気持ちだ」 片手を出すよう守光に言われ、おずおずと従う。てのひらにそっとカードキーがのせられた。それが何を意味しているか瞬時に理解した和彦は、顔を強張らせつつも、体が熱くなっていくのを止められなかった。「あんたをもっと、この世界の奥深くに取り込みたい。わしの家で一泊したあとも、あんたは長嶺の庇護の下から逃げ出さなかった。つまり、こう解釈できる。あんたはどんな形であれ、長嶺の男〈たち〉を受け入れてくれる、と」「……よく、わかりません……。いろいろと考えることが多くて、ぼくはどうすればいいのか……」「だが、佐伯和彦という人間はここにいる。わしの隣に、こうして行儀よく座ってな。それはもう、流されているにせよ、一つの選択肢を選んだということだ」 守光が顔を寄せ、耳元にあることを囁いてくる。和彦は瞬きもせず守光の顔を凝視していた。 いつも賢吾に対してそうしているせいか、半ば習性のように目の奥にあるものを探る。息づいているのは大蛇ではなく、だが確かに物騒な気配を漂わせた〈何か〉だ。 怖いが、目を背けられず、触れてみたいとすら思ってしまう。 和彦は視線を伏せると、浅く頷いた。** バスローブ姿でベッドの隅に腰掛けた和彦は、閉じたカーテンをぼんやりと眺めていた。カーテンの向こうには、いくら眺めても飽きないほどの夜景が広がっているとわかっ
「人間の価値を決めるのは本人ではなく、関わりを持つ人間たちだ。あんたにとっては、世間から嫌われ、恐れられている我々ということだ。わしらに価値を認めてもらったところで、嬉しくはないだろうがね」 和彦は、静かに視線を周囲に向ける。守光を絶対の存在として仕えている総和会の男たちは、鉄の壁だ。総和会という組織と、総和会会長を守るための。そんな男たちが和彦という存在にどれだけの価値を見出しているのか、推し量る術はない。ただ、守光が言うのなら、それが男たちにとっては絶対となるのだろう。「あなた方が、佐伯家についてどれだけ調べているのか知りませんが、佐伯家にとってぼくは、そう価値がある存在ではありませんでした。佐伯の姓を持つから、存在を認めてもらっているんです。正直、こんなに大勢の人たちに、ここまで大事にしてもらったことはありません」 ここでボーイがスマートな動作で歩み寄ってきて、空になった和彦のグラスを取り替えてくれる。さきほどからこの繰り返しで、意識しないまま和彦の酒量は増えていた。「――近いうちに、春の行事の打ち合わせも兼ねて、泊まりでちょっと遠出することになっている。医者であるあんたに同行してもらえるとありがたいんだが」 グラスに口をつけた和彦に、守光が思いがけない提案をしてくる。唐突な話題に戸惑うと、守光は物腰の柔らかさには似合わない、ゾクリとするほど冷徹な眼差しを向けてきた。いや、本当は眼差しすらも柔らかいのかもしれないが、少なくとも和彦にとっては怖かった。「泊まった先で、おもしろい話をしてやろう。千尋はもちろん、賢吾すら知らない話だ。わしとあんたの秘密……というには大げさだが、あんたにとっても興味深い話のはずだ」 守光の眼差しは、怖くある反面、強烈に和彦を惹きつける。太く艶のある声で語られる言葉には、好奇心を刺激される。「ぼくの、一存では……」「賢吾が許可すれば、来てくれると?」 ためらいつつも、和彦は頷く。守光ほどの人間が、子供騙しのようなウソをつくとは思えなかった。「わかっているとは思いますが、ぼくは内科は専門外です。同行しても、いざというときお役に立てるかは――」
そんなことを漫然と考えているうちに、車はある雑居ビルの前に停まる。夜に差しかかろうとしている時間帯の繁華街はにぎわっており、人通りも多い。そんな中、行き交う人たちとは明らかに異質な空気を放つスーツ姿の男が、素早く車に歩み寄ってきた。それが総和会の出迎えの人間だとわかり、和彦はシートベルトを外す。 降りる準備をしながら、ここで今日は別れることになる運転手の組員に、さきほどデパートで買い込んだものをマンションの部屋に運ぶよう頼んでおく。 車を降りると、一礼した男に周囲から庇うようにしてビルの中へと案内される。やけに入り組んだビル内を歩き、狭い通路の奥まった場所に、年齢もばらばらの数人の男が立っていた。特別服装が崩れているというわけでもないのに、一目で筋者とわかる。持っている空気が、とにかく鋭い。 賢吾と出かけたときに、さんざんこういった光景を目にしているが、やはり総和会会長ともなると、警護の厳重さが違う。 会釈した男たちの向こうに重々しい扉があり、総和会会長がいることを物語っていた。 扉が開けられ、促されるまま中に足を踏み入れた和彦は、妙齢の着物姿の女性に出迎えられた。わけがわからないままコートを預け、席へと案内される。 当然だが、クラブは貸切となっていた。テーブルのいくつかは埋まっているが、それはすべて総和会の人間だろう。落ち着いた雰囲気の中、会話を楽しんでいる様子はあるが、やはり何かが違う。 緊張するあまり、息苦しさすら覚えた和彦が喉元に手をやったとき、ある男と目が合った。南郷だ。 テーブルの一角に二人の男たちと陣取り、何事か話し込んでいる様子だったが、和彦を見るなりのっそりと立ち上がり、頭を下げた。無視するわけにはいかず、テーブルの側を通るとき和彦も会釈をする。 そしてやっと、和彦を招いた本人と対面が叶う。「――よく来てくれた、先生」 ソファに腰掛けたノーネクタイで寛いだ姿の守光が、笑いかけてくる。和彦もぎこちないながらも笑みを浮かべて挨拶をする。すると、守光と同じテーブルについていた男が立ち上がり、和彦に着席を促した。恭しい手つきで示されたのは、守光の隣の席だ。 何も考えられず、求められるままに行動する。この状況
**** 三田村が言うところの『世俗的なイベント』を、和彦は無視できなくなっていた。誕生日を祝ってくれた男たちに対して、ささやかなお返しをしようと考えたとき、これ以上ない口実として利用できるからだ。 仕事を終え、いつもより早めにクリニックを閉めた和彦は、組員に頼んでデパートへと寄ってもらう。 そこで、自分の考えがチョコレートよりも甘いことを痛感させられた。 バレンタインデー前日のデパートのチョコレート売り場は、目を瞠る混雑ぶりだ。 こんなときだからこそ、豊富な種類が揃ったチョコレートをじっくり見て回ろうと思っていたが、ショーケースに近づくのも苦労しそうだ。とにかく女性客でごった返しており、心なしか殺気立っているようにも感じる。 すでに他のフロアで買い物を済ませた和彦だが、さすがにこのフロアでの自分の場違いぶりを肌で感じ、怯んでしまう。辺りに漂う甘い香りが、その感覚に拍車をかける。 当然といえば当然だろう。バレンタインデーのために買い物をするのは、やはり女性だ。もしくは、勇気あるチョコレート好きの男性か。実際、女性客に交じって、ちらほらと男性客の姿もある。 同性の恋人のために――と勘繰るほど悪趣味ではない和彦は、自分もチョコレート好きなのだと思い込むことで、大勢の女性客の中を進んでいく。 誰に対する言い訳なのか、自分も食べるから、と心の中で繰り返しつつ、少し値の張るチョコレートをいくつも買い込む。長嶺の本宅に置いておけば、組員の誰かが摘まんでくれるだろう。もちろん、買い込んだチョコレートの中には、〈本命〉に渡すものもある。 いくつかの袋を手に、和彦はやっと売り場から抜け出す。 自意識過剰だと思いつつも、途中までは他の客の視線が気になっていたが、買い物好きの気質は、こういうとき便利だ。チョコレート選びに夢中になってしまうと、他人どころではなくなった。どうせ一年に一回のことだと、開き直るのも容易だ。 肩の荷が下りた気分で歩いていた和彦だが、すぐに歩調を緩め、手にした袋を見下ろす。チョコレートを買って気分が浮ついている一方で、自分のズルさがチクチクと胸に突き刺さる。いつもなら
通訳を介しながら外国人患者相手に治療手順を説明してから、レントゲンを撮り、局所麻酔のあとに傷を洗い、皮膚を縫い合わせるという一通りのことをこなしたが、大変なのは、むしろそのあとだった。患者が貧血を起こし、大きな体で卒倒したのだ。さんざんアルコール臭い息を吐いていたが、どうやらようやく酔いが醒め、現状を認識したらしい。 患者をベッドで休ませている間に、和彦やスタッフはクリニックを片付け、組員は慌しくスケジュールの変更を電話で告げていた。 幸いにも、患者は三十分ほどで目を覚まし、自分の足でしっかりと立ち上がった。 まるで儀式のように、組員たちは律儀に和彦に頭を下げ、礼を言う。力ない声でそれに応じた和彦は、非常口から来訪者とスタッフを見送った。 ここで、ずっと和彦の傍らに控えていた護衛の組員が口を開く。「先生も疲れたでしょう。すぐにお送りします」「そうだな……」 和彦は緩慢な動作で腕時計に視線を落とす。疲れ果ててはいても、簡単な計算ぐらいはできる。今からマンションに戻ったところで、横になれるのはわずかな時間だろう。 とにかくすぐにでも横になりたかったため、和彦が結論を出すのは早かった。「――……今日はもう、このままクリニックに泊まる。そのための仮眠室だし。だからもう、君は引き上げていいよ」「しかし、夜のクリニックに先生一人を残すわけには……」「平気だ。ここはセキュリティーシステムも入れてあるし、仮眠室のドアはしっかり中から鍵をかける。組長には、ぼくからあとで説明しておく――」 ここで和彦は、たまらずあくびを洩らす。話すのもつらくなってきたと察してくれたのか、組員は一礼したあと、気をつけるよう何度も和彦に念を押して帰っていった。 一人となった和彦は、給湯室でお湯を沸かす間に玄関の施錠を確認し、防犯システムを作動させる。 熱いお茶の入ったカップを手に仮眠室に入ったとき、すでに和彦はふらふらの状態だった。ベッドの傍らの小さなテーブルにカップを置くと、スウェットの上下に着替える。仮眠室はひどく寒いが、スタッフの休憩室からヒー
そんなものでわかるはずがないと、いまさら言ったところで仕方がない。和彦は、こうして捕えられてしまった。 「お前は、こちらの命令に逆らえない。そのために、こうしてビデオに録画している。もし逆らうようなマネをしたら――わかるな?」 和彦が浅く頷くと、千尋の父親が男の一人に片手を差し出す。 「こいつの名前がわかるものはないか」 和彦がわずかに視線を動かすと、拉致されたときに落としたと思ったブリーフケースが男の手にあり、中から名刺入れを取り出していた。滅多に外で配ることはないが、そこには和彦の名刺が数枚収まっている。 そのうちの一枚を受け
** 連れて行かれたのは、先日のビルとは違う、普通のマンションだった。住人もいるらしく、ちらほらと部屋に電気がついている。やや拍子抜けして、駐車場からマンションを見上げる和彦に、あごに傷跡のある男が声をかけてきた。 「――先生、急いでくれ」 和彦はハッとして、男を見る。車中で素っ気なく自己紹介されたが、男は三田村といい、若頭補佐という肩書きが一応あるらしい。ただし組長である千尋の父親が、三田村を若頭から預かる形となっており、組長直属という形でさまざまな雑事を処理しているのだそうだ。 三田村の説明を聞いて、わけがわから
部屋の中央に置かれたベッドの上に男が一人横たわっていたが、様子が尋常ではなかった。苦しげに喘ぎ、ときおり呻き声を洩らしている。その理由は一目見てわかった。腰の辺りにタオルを当てているが、そのタオルが血に染まっている。ベッドの傍らには二人の男がいて、汗を拭ったり、声をかけてやっていた。それしかできないのだ。 締め切った部屋の中には、ムッとするような血と汗の匂いがこもっている。目の前の異常な光景も相まって、和彦は軽い眩暈に襲われていた。 「……何、してるんだ……」 誰に向けたものでもないが、和彦の呟きに応じたのは賢吾だった。 「うちの若衆
** タクシーに乗っている間、二人はまったく会話を交わさなかった。携帯電話に三田村から連絡が入って和彦が出ようとしたときも、無言のまま素早く取り上げられて、電源を切られたぐらいだ。 張り詰めた車中の空気は覚えがあった。長嶺組の人間に拉致されて、わけもわからないまま車に乗せられたときと同じだ。一緒にいるのが千尋とはいえ、和彦はひどく緊張していた。 千尋に限って、手荒なことをするとは思えないが――。 タクシーは、千尋が住むワンルームマンションの前で停まり、支払いを済ませた千尋に促されるまま和彦はタクシーを降りる。