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last update Last Updated: 2025-06-16 17:00:35

 投薬を始めてそろそろ四カ月くらいが経とうとしている。段々と声が若干高くなり始めたり、胸が何となく全体的に痛くなってきたりしていて、蓮本先生によると順調に薬が効いてきている証拠だという。身近に同じような治療をしたり悩みを抱えたりしている人がいないことなので順調だと専門家から言われるとすごくホッとする。

 通院は基本ひとりで行っているけれど、診察してもらって聞いて来たことは平川さんに報告するようにしている。マネージャーとして知っておきたいという話でそうしているけれど、単純に彼女が心配なこともあるんだと思う。

『順調ならよかった。体調はどう? 吐き気とかまだある?』

 通院した日の夕方、帰ってから昼寝をして起きたあとで報告のメッセージを送ったら電話がかかって来た。平川さんはメッセージより電話の方が話のニュアンスが伝わりやすいと考えているところがあるので、報告はよくテキストだけのメッセージからホログラム表示の電話になってしまいがちだ。

「吐き気はまあ、いつものことかなぁ。あとはまあ、胸がちょっと丸くなってきてる気がする」

『そっかぁ、ママになってきてるって言うのかしらね、そういうのも』

「まだ妊娠もしてないのに?」

 俺が笑うと、それもそうだね、と、平川さんも笑う。こうして身体の話をしていると、本当に彼女が俺の家族のような気がしてくるから不思議だ。代理にしかすぎないし、俺が本当に家族になりたいのは朋拓なのに。

 でもその彼にまだコウノトリプロジェクトのことは何一つ話せていない。こんな状態でいるのに、家族になりたいと言っても彼はうなずいてくれるだろうか。悪いことではないはずのこととは言え、本音を隠している俺のことを、この先も愛してくれるだろうか。

 平川さんとの会話は明日以降のスケジュールの確認をして終えて、俺はそのままソファにだらりと横になって伸びをする。今日は疲れたから、もうディーヴァとしても仕事をしないつもりだ。

 治療を始めてから、時々こうやって仕事をしない日を設けるようになった。最初の方こそ体調不良で遅れを取った分を取り戻そうとしたんだけれど、そうすればするほど体調が悪化するばかりなので無理をしない方がいいと判断してこの方法にシフトしたのだ。

 とは言っても、スケジュールを変更するというわけではなくて、家でする作業の時間を濃縮するようになっただけの話だ。だらだらとしないで集中してやる、という感じでやっている内容に大差はない。

 ただそういうやり方は体力があって体調がよくないとこなせないので、こうして何もしない日を設け、体力を温存する。休むことも仕事の内と考えて。

「“――おねむりよい子 あまいミルクに つつまれて

    おねむりよい子 あったか毛布に くるまれて

    よいゆめを よいあすを おねむり おねむり――”」

 何もしていないでぼんやりしていると、あの子守歌が頭の中に響き始めていつの間にか俺も口ずさんでいる。メロディはもういつ聞いたのか憶えていないぐらい遠い昔に耳にしたきりのはずなのに、一音も違(たが)うことなく口ずさめてしまうのは、それだけ繰り返し唄ってきたからだ。

 歌声と一緒にいつもどこからともなく生臭い……とも少し違う、でもどこか生々しさを覚えるにおい――きっと|潮《しお》のあたたかで湿ったにおい――が歌声と絡みつくように記憶の底からにおってくる。

 においと歌声の狭間には静かな波の音が聞こえ、それは幼い頃から俺の心を落ち着かせてくれる。

 俺の一番古い記憶はこの歌を聞きながらうとうととあたたかな腕の中で眠りかけているところだ。そこは家よりも明るく陽射しが強い。だけど時折誰かが俺の顔を覗き込み、触れてきて影をなす。その感触のやさしさはとろりと睡魔に飲み込まれるように眠たくて心地よくて、思い出すだけで甘い気分になる。

 一体どれくらい前の記憶何だろう。ぼやけた視界に写るのはきっと俺の手だけれど、それは丸くふっくらとしたシルエットだ。まるで、街中でたまに見かける赤ん坊の指先に見える。

 その向こうに、ぼんやりと誰かがこちらを見ているのが見える。あれは――

「――ママ? パパ?」

 思わず口をついて出た言葉に、いつも気付けば涙があふれている。悲しいとか寂しいとかではない、ただあふれて止まらない涙はぼんやりと夢の中のように熱い。

 拭いながら起き上がるとそこは薄暗いリビングで、俺はひとりきりだ。波の音も潮のにおいもない。

 あの記憶の中の人は俺を見てどう思っていたんだろう。笑っていたのか、泣いていたのか、それさえもわからない。

 わかるのは、海の近くらしい場所であの歌を唄っていたことだけ。それだけが俺の記憶に刻まれている。

 遺伝子レベルで刻まれたそれを、俺は誰かに伝えたい。出来ることなら俺と同じぬくもりを感じられる存在に。

(――ああ、やっぱり家族が……子どもが欲しい……)

 ひとりきりのリビングのソファでうずくまりながら、俺は改めてそう思いながら膝を抱いた。

 先日のプリプロと並行して、この所立て続けに行われたリハの本番であるライブが、明日行われる。もちろん俺はCG処理されたディーヴァとして設定している八頭身のキャラクターの画像でステージに立ち、遠隔操作で唄いまわるのだ。

 ディーヴァの姿はリリースされる楽曲やツアーのテーマごとに変化するが、基本は性別も国籍も年齢も簡単に推測できない中性的な肌が透けるようですらりと背の高い姿をしている。

 髪色と、覆面で隠れているけれど一応瞳の色はリンクしていて、キャラクターのシルエットなどは実際の俺の基本的な造りをベースとしている。覆面の下からわずかに覗く鼻は少し俺より高めにして、唇はぽってりと厚めに、と言う感じにアレンジが多少しているけれど。その方がセクシーに見えるからだそうだ。髪型は曲に応じて変化する仕様になっている。

 そして声は俺の実際の歌声を楽曲によって重ねたりピッチを微調整したりして誰かわからないようにしているし、何より俺の地声より透明感のある仕上がりにしている。それでも朋拓は俺なんじゃないかと言い当てたのだけれど。

 そんな作り物の歌姫を、世間は奇跡だと言ってもてはやすのだ。

「唯人はなんで覆面のディーヴァでい続けてるの? 顔出しとか考えてないの?」

 出会って俺がディーヴァだと朋拓が知ってから何度も訊かれてきたことを、折角家のベッドでふたりゆっくりしている時間に口にしてくる朋拓のデリカシーのなさに軽く苛立ってしまう。

 俺が覆面で唄い続けているのは、ビジュアルや言動という余計なノイズを考慮しないで歌声と曲だけで俺を評価して欲しいと考えているからだ。

 奇抜なビジュアルや言動は俺というアイコンを知るきっかけや好きでいてくれる理由の一つにはなるかもしれないけれど、継続してファンでい続けてもらうには俺が本来武器としている音楽や歌声で支持されなくては意味がない。そうじゃないアーティストもこの世にはごまんといるけれど、俺はそういうその他大勢にはなりたくなかった。

 それを毎度訊かれるたびに答えるのだけれど、朋拓はすんなり納得してくれない。理由は、俺の顔や姿がきれいだからと言うのだ。

「唯人はこんなにきれいでかわいいんだから、ビジュアルでも支持されると思うけどなぁ。睫毛も長いし、髪も肌もきれいじゃん」

「冗談言うなよ。俺なんて十人並みだし、発言だってそんな気の利いたこと言えない。折角曲や歌声でファンになってくれた人たちをがっかりさせるに決まってるから、いまのままでいい」

 謙遜とか卑下とかでなく、俺は小柄で痩せっぽちで、色白で二十一にもなって子どものような姿である以外取り立てて容姿がきれいでも、スタイルがいいわけでもないのは事実だ。その姿をどうにかしようと金をかける暇があるなら俺は音楽に注力したいと思っている。

 デビューするにあたっていくつかの衣装やらメディア用のアバターやら様々な俺の姿、名前まで用意してもらったけれど、俺は覆面で性別も国籍も年齢もわからない姿のデザインと、ディーヴァという名前を選んだ上でのいまがあるのはそういう理由からだ。

 その話をだいたい毎度訊かれるたびにするのだけれど、答えが変わるわけではないのに朋拓はいつもすべてを聞きたがるし、聞いている。それもふたりベッドで並んで眠ろうとしていたりソファでくつろいだりしている時なんかが多くて、朋拓は俺の言葉をまるで夜伽話のように耳を傾けてにこにこしている。

 そして、決まってこう呟いて満足そうにうなずくのだ。

「そっかぁ……じゃあ、ディーヴァの本当の姿がこんなにかわいくてきれいなのを知っているのは俺だけなんだね」

 うっとりと垂れ目の目許を余計にとろかせ、俺の髪や頬に触れてキスもしてくる。

 最初の頃こそどうして俺が顔出しをしないのかを純粋に気になっていたのかもしれないけれど、このごろはその疑問を自分に納得させるために俺に訊くというよりも、自分が世界のディーヴァに好きに触れたり抱いたりできている所有権みたいなのを確認しているような気がする。

 所有権と言うと朋拓が俺を物のように扱っているように聞こえるけれど、決してそうではない。要は彼がディーヴァという誰の手にも届かないような存在の真の秘密を知っていることと、そして愛し合えているという喜びを確かめたいから、時々こういうひと時に俺がディーヴァでいる理由を訊いてくるのかもしれない。

 繰り返し聞かれることにいら立ちがなかったといえば嘘になるけれど、ある時ふと、俺の答えを聞いた後にいつも嬉しそうに俺に触れて抱きしめてきたり頬ずりしたりするようにしてくる様子からもしかして朋拓なりの愛情の確認とか甘えたい気分という事なのかな? と気づいてからは以前ほど苛立たなくなった。

 とは言っても、一緒にいる時にディーヴァの映像や音源を流されたり夢中で見られたりするのはやっぱり恥ずかしいのでいい気分ではないのだけれど、朋拓が他意もない様子でディーヴァが好きだと言ってくれるので何がなんでもやめろとは言い難い。

「明日は何時入り?」

「朝の十時に平川さんが迎えに来るよ。朋拓は何時に来るの?」

 明日のライブには朋拓も一般チケットを買って会場に来ることになっている。

 自分で言うのもなんだけれど、ディーヴァのチケットは超プラチナチケットだ。少し前なら関係者枠でチケットを用意することもできたのだけれど、噂を聞いた関係者の遠い知り合いまで欲しがるようになった上に転売行為も発覚したりしたこともあったので、最近では関係者枠でさえほぼ用意されなくなってきている。

 それこそ同じ戸籍の家族とかであれば俺が朋拓にも用意できるのだけれど、まだ同棲すらしていない恋人同士でしかないのでチケットを用意してやれなかったのだ。

 なのに、今回朋拓はチケットをどうにか手に入れたという。

「明日楽しみだなぁ、久々にディーヴァがリアルで見られるんだから。しかも配信なしだし」

「でもよくチケット取れたね。今回は俺でも用意できなかったのに」

 今回は配信なしのリアルステージのみのライブで、しかも会場のキャパシティはスタンディングで百名程度。配信ライブか数千人規模の会場でのリアルライブを中心にしてきたディーヴァにしては破格の規模であるため、プラチナ中のプラチナチケットになってしまった。

「蒼介って憶えてる? あいつが取ってくれたんだよ」

「……ああ、あいつ……」

 蒼介というのは、朋拓の学生時代からの親友で、プロのベーシストだ。一度だけ、朋拓が会わせたい奴がいるから、というと強く言うので会いに行ったことがある。

 人懐っこくてよく喋る朋拓とは違って、無愛想とも言えるほど物静かな雰囲気をまとうのが蒼介だった。

「蒼介、見た目と違ってすっげー面倒見良いんだよ」と、その時居酒屋で酒を飲みながらほろ酔いで話す朋拓に対し、「見た目と違っては余計だ」とメガネの奥で顔をしかめていたのを憶えている。

「蒼介はディーヴァと共演したこともあるくらいの腕前もあって業界で顔が広いからね、チケットが手に入ったのかな」

「……そうかもね」

 そう言いながら俺にまた啄むような口づけをしてくる朋拓の言葉に、俺は溜め息を小さくついた。

 ディーヴァである俺でさえ用意するのが難しいチケットを、使える伝手を使いまくってまでしてもディーヴァのライブを見たがる朋拓の執念に呆れるを通り越して恐ろしささえ感じながらも、これも愛ゆえかと自分を納得させるしかなかった。

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