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مؤلف: 伊藤あまね
last update تاريخ النشر: 2025-06-16 17:00:35

 投薬を始めてそろそろ四カ月くらいが経とうとしている。段々と声が若干高くなり始めたり、胸が何となく全体的に痛くなってきたりしていて、蓮本先生によると順調に薬が効いてきている証拠だという。身近に同じような治療をしたり悩みを抱えたりしている人がいないことなので順調だと専門家から言われるとすごくホッとする。

 通院は基本ひとりで行っているけれど、診察してもらって聞いて来たことは平川さんに報告するようにしている。マネージャーとして知っておきたいという話でそうしているけれど、単純に彼女が心配なこともあるんだと思う。

『順調ならよかった。体調はどう? 吐き気とかまだある?』

 通院した日の夕方、帰ってから昼寝をして起きたあとで報告のメッセージを送ったら電話がかかって来た。平川さんはメッセージより電話の方が話のニュアンスが伝わりやすいと考えているところがあるので、報告はよくテキストだけのメッセージからホログラム表示の電話になってしまいがちだ。

「吐き気はまあ、いつものことかなぁ。あとはまあ、胸がちょっと丸くなってきてる気がする」

『そっかぁ、ママになってきてるって言うのかしらね、そういうのも』

「まだ妊娠もしてないのに?」

 俺が笑うと、それもそうだね、と、平川さんも笑う。こうして身体の話をしていると、本当に彼女が俺の家族のような気がしてくるから不思議だ。代理にしかすぎないし、俺が本当に家族になりたいのは朋拓なのに。

 でもその彼にまだコウノトリプロジェクトのことは何一つ話せていない。こんな状態でいるのに、家族になりたいと言っても彼はうなずいてくれるだろうか。悪いことではないはずのこととは言え、本音を隠している俺のことを、この先も愛してくれるだろうか。

 平川さんとの会話は明日以降のスケジュールの確認をして終えて、俺はそのままソファにだらりと横になって伸びをする。今日は疲れたから、もうディーヴァとしても仕事をしないつもりだ。

 治療を始めてから、時々こうやって仕事をしない日を設けるようになった。最初の方こそ体調不良で遅れを取った分を取り戻そうとしたんだけれど、そうすればするほど体調が悪化するばかりなので無理をしない方がいいと判断してこの方法にシフトしたのだ。

 とは言っても、スケジュールを変更するというわけではなくて、家でする作業の時間を濃縮するようになっただけの話だ。だらだらとしないで集中してやる、という感じでやっている内容に大差はない。

 ただそういうやり方は体力があって体調がよくないとこなせないので、こうして何もしない日を設け、体力を温存する。休むことも仕事の内と考えて。

「“――おねむりよい子 あまいミルクに つつまれて

    おねむりよい子 あったか毛布に くるまれて

    よいゆめを よいあすを おねむり おねむり――”」

 何もしていないでぼんやりしていると、あの子守歌が頭の中に響き始めていつの間にか俺も口ずさんでいる。メロディはもういつ聞いたのか憶えていないぐらい遠い昔に耳にしたきりのはずなのに、一音も違(たが)うことなく口ずさめてしまうのは、それだけ繰り返し唄ってきたからだ。

 歌声と一緒にいつもどこからともなく生臭い……とも少し違う、でもどこか生々しさを覚えるにおい――きっと|潮《しお》のあたたかで湿ったにおい――が歌声と絡みつくように記憶の底からにおってくる。

 においと歌声の狭間には静かな波の音が聞こえ、それは幼い頃から俺の心を落ち着かせてくれる。

 俺の一番古い記憶はこの歌を聞きながらうとうととあたたかな腕の中で眠りかけているところだ。そこは家よりも明るく陽射しが強い。だけど時折誰かが俺の顔を覗き込み、触れてきて影をなす。その感触のやさしさはとろりと睡魔に飲み込まれるように眠たくて心地よくて、思い出すだけで甘い気分になる。

 一体どれくらい前の記憶何だろう。ぼやけた視界に写るのはきっと俺の手だけれど、それは丸くふっくらとしたシルエットだ。まるで、街中でたまに見かける赤ん坊の指先に見える。

 その向こうに、ぼんやりと誰かがこちらを見ているのが見える。あれは――

「――ママ? パパ?」

 思わず口をついて出た言葉に、いつも気付けば涙があふれている。悲しいとか寂しいとかではない、ただあふれて止まらない涙はぼんやりと夢の中のように熱い。

 拭いながら起き上がるとそこは薄暗いリビングで、俺はひとりきりだ。波の音も潮のにおいもない。

 あの記憶の中の人は俺を見てどう思っていたんだろう。笑っていたのか、泣いていたのか、それさえもわからない。

 わかるのは、海の近くらしい場所であの歌を唄っていたことだけ。それだけが俺の記憶に刻まれている。

 遺伝子レベルで刻まれたそれを、俺は誰かに伝えたい。出来ることなら俺と同じぬくもりを感じられる存在に。

(――ああ、やっぱり家族が……子どもが欲しい……)

 ひとりきりのリビングのソファでうずくまりながら、俺は改めてそう思いながら膝を抱いた。

 先日のプリプロと並行して、この所立て続けに行われたリハの本番であるライブが、明日行われる。もちろん俺はCG処理されたディーヴァとして設定している八頭身のキャラクターの画像でステージに立ち、遠隔操作で唄いまわるのだ。

 ディーヴァの姿はリリースされる楽曲やツアーのテーマごとに変化するが、基本は性別も国籍も年齢も簡単に推測できない中性的な肌が透けるようですらりと背の高い姿をしている。

 髪色と、覆面で隠れているけれど一応瞳の色はリンクしていて、キャラクターのシルエットなどは実際の俺の基本的な造りをベースとしている。覆面の下からわずかに覗く鼻は少し俺より高めにして、唇はぽってりと厚めに、と言う感じにアレンジが多少しているけれど。その方がセクシーに見えるからだそうだ。髪型は曲に応じて変化する仕様になっている。

 そして声は俺の実際の歌声を楽曲によって重ねたりピッチを微調整したりして誰かわからないようにしているし、何より俺の地声より透明感のある仕上がりにしている。それでも朋拓は俺なんじゃないかと言い当てたのだけれど。

 そんな作り物の歌姫を、世間は奇跡だと言ってもてはやすのだ。

「唯人はなんで覆面のディーヴァでい続けてるの? 顔出しとか考えてないの?」

 出会って俺がディーヴァだと朋拓が知ってから何度も訊かれてきたことを、折角家のベッドでふたりゆっくりしている時間に口にしてくる朋拓のデリカシーのなさに軽く苛立ってしまう。

 俺が覆面で唄い続けているのは、ビジュアルや言動という余計なノイズを考慮しないで歌声と曲だけで俺を評価して欲しいと考えているからだ。

 奇抜なビジュアルや言動は俺というアイコンを知るきっかけや好きでいてくれる理由の一つにはなるかもしれないけれど、継続してファンでい続けてもらうには俺が本来武器としている音楽や歌声で支持されなくては意味がない。そうじゃないアーティストもこの世にはごまんといるけれど、俺はそういうその他大勢にはなりたくなかった。

 それを毎度訊かれるたびに答えるのだけれど、朋拓はすんなり納得してくれない。理由は、俺の顔や姿がきれいだからと言うのだ。

「唯人はこんなにきれいでかわいいんだから、ビジュアルでも支持されると思うけどなぁ。睫毛も長いし、髪も肌もきれいじゃん」

「冗談言うなよ。俺なんて十人並みだし、発言だってそんな気の利いたこと言えない。折角曲や歌声でファンになってくれた人たちをがっかりさせるに決まってるから、いまのままでいい」

 謙遜とか卑下とかでなく、俺は小柄で痩せっぽちで、色白で二十一にもなって子どものような姿である以外取り立てて容姿がきれいでも、スタイルがいいわけでもないのは事実だ。その姿をどうにかしようと金をかける暇があるなら俺は音楽に注力したいと思っている。

 デビューするにあたっていくつかの衣装やらメディア用のアバターやら様々な俺の姿、名前まで用意してもらったけれど、俺は覆面で性別も国籍も年齢もわからない姿のデザインと、ディーヴァという名前を選んだ上でのいまがあるのはそういう理由からだ。

 その話をだいたい毎度訊かれるたびにするのだけれど、答えが変わるわけではないのに朋拓はいつもすべてを聞きたがるし、聞いている。それもふたりベッドで並んで眠ろうとしていたりソファでくつろいだりしている時なんかが多くて、朋拓は俺の言葉をまるで夜伽話のように耳を傾けてにこにこしている。

 そして、決まってこう呟いて満足そうにうなずくのだ。

「そっかぁ……じゃあ、ディーヴァの本当の姿がこんなにかわいくてきれいなのを知っているのは俺だけなんだね」

 うっとりと垂れ目の目許を余計にとろかせ、俺の髪や頬に触れてキスもしてくる。

 最初の頃こそどうして俺が顔出しをしないのかを純粋に気になっていたのかもしれないけれど、このごろはその疑問を自分に納得させるために俺に訊くというよりも、自分が世界のディーヴァに好きに触れたり抱いたりできている所有権みたいなのを確認しているような気がする。

 所有権と言うと朋拓が俺を物のように扱っているように聞こえるけれど、決してそうではない。要は彼がディーヴァという誰の手にも届かないような存在の真の秘密を知っていることと、そして愛し合えているという喜びを確かめたいから、時々こういうひと時に俺がディーヴァでいる理由を訊いてくるのかもしれない。

 繰り返し聞かれることにいら立ちがなかったといえば嘘になるけれど、ある時ふと、俺の答えを聞いた後にいつも嬉しそうに俺に触れて抱きしめてきたり頬ずりしたりするようにしてくる様子からもしかして朋拓なりの愛情の確認とか甘えたい気分という事なのかな? と気づいてからは以前ほど苛立たなくなった。

 とは言っても、一緒にいる時にディーヴァの映像や音源を流されたり夢中で見られたりするのはやっぱり恥ずかしいのでいい気分ではないのだけれど、朋拓が他意もない様子でディーヴァが好きだと言ってくれるので何がなんでもやめろとは言い難い。

「明日は何時入り?」

「朝の十時に平川さんが迎えに来るよ。朋拓は何時に来るの?」

 明日のライブには朋拓も一般チケットを買って会場に来ることになっている。

 自分で言うのもなんだけれど、ディーヴァのチケットは超プラチナチケットだ。少し前なら関係者枠でチケットを用意することもできたのだけれど、噂を聞いた関係者の遠い知り合いまで欲しがるようになった上に転売行為も発覚したりしたこともあったので、最近では関係者枠でさえほぼ用意されなくなってきている。

 それこそ同じ戸籍の家族とかであれば俺が朋拓にも用意できるのだけれど、まだ同棲すらしていない恋人同士でしかないのでチケットを用意してやれなかったのだ。

 なのに、今回朋拓はチケットをどうにか手に入れたという。

「明日楽しみだなぁ、久々にディーヴァがリアルで見られるんだから。しかも配信なしだし」

「でもよくチケット取れたね。今回は俺でも用意できなかったのに」

 今回は配信なしのリアルステージのみのライブで、しかも会場のキャパシティはスタンディングで百名程度。配信ライブか数千人規模の会場でのリアルライブを中心にしてきたディーヴァにしては破格の規模であるため、プラチナ中のプラチナチケットになってしまった。

「蒼介って憶えてる? あいつが取ってくれたんだよ」

「……ああ、あいつ……」

 蒼介というのは、朋拓の学生時代からの親友で、プロのベーシストだ。一度だけ、朋拓が会わせたい奴がいるから、というと強く言うので会いに行ったことがある。

 人懐っこくてよく喋る朋拓とは違って、無愛想とも言えるほど物静かな雰囲気をまとうのが蒼介だった。

「蒼介、見た目と違ってすっげー面倒見良いんだよ」と、その時居酒屋で酒を飲みながらほろ酔いで話す朋拓に対し、「見た目と違っては余計だ」とメガネの奥で顔をしかめていたのを憶えている。

「蒼介はディーヴァと共演したこともあるくらいの腕前もあって業界で顔が広いからね、チケットが手に入ったのかな」

「……そうかもね」

 そう言いながら俺にまた啄むような口づけをしてくる朋拓の言葉に、俺は溜め息を小さくついた。

 ディーヴァである俺でさえ用意するのが難しいチケットを、使える伝手を使いまくってまでしてもディーヴァのライブを見たがる朋拓の執念に呆れるを通り越して恐ろしささえ感じながらも、これも愛ゆえかと自分を納得させるしかなかった。

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أحدث فصل

  • 覆面ディーヴァの俺は最愛の我が子に子守歌を唄いたい   *エピローグ

    “――おねむりよい子 あまいミルクに つつまれて    おねむりよい子 あったか毛布に くるまれて    よいゆめを よいあすを おねむり おねむり――” 陽だまりのにおいのするブランケットに包まれた小さなぬくもりが曇りのない瞳で唄う姿を見つめている。いつか見たかもしれない記憶のどこかに眠る景色に俺は目を細めて眺めてしまう。 やさしい歌声が繰り返し口ずさむ子守唄に、小さな瞳は無邪気な笑みを返してくる。「もーう、ご機嫌なのはわかるけど、お昼寝してくれよ、カナデぇ」 かれこれ一時間近く子守唄を唄ったり寝たふりで誘導したりしても、ちっとも眠る気配のない小さなカナデと呼びかけられた赤ん坊に、朋拓がとうとう|音《ね》を上げた。当のカナデはケタケタと機嫌よく笑っている。 すっかり我が子におちょくられている朋拓の姿がおかしくて思わず俺が笑うと、子どものように拗ねた顔をした朋拓か助けを求められた。「唯人ぉ、笑ってないで助けてよ~。カナデ、俺が唄うと笑って寝ないんだもん」「朋拓の声は寝かしつけるって言うより元気になる歌声だから」 俺がそう言いながらベビーベッドを覗き込むように立っている朋拓の隣に立って中を覗き込むと、カナデは嬉しそうに声をあげる。手を差し出すとしっかりと力強く小さな手で握りしめてくる。そのぬくもりと力強さに、俺はいつも胸がきゅっとしてしまう。 ほんの半年前、カナデは俺がこの世に産み出した正真正銘の血を分けた俺と朋拓の娘だ。目許は俺にそっくりで、口元は朋拓によく似ている。笑うとますます朋拓に似ていて、寝ている姿は俺にそっくりだと朋拓は言う。 長く決して平坦と言えなかったコウノトリプロジェクトの治療とそれによる妊娠期間を経て授かったカナデは、生誕時こそ小さめであったけれど、いまはすくすくとミルクを飲み、そろそろ離乳食を始めようかという頃だ。 朋拓に

  • 覆面ディーヴァの俺は最愛の我が子に子守歌を唄いたい   *32

     それから俺は朦朧とした意識のまま酸素マスクを宛がわれて手術室へと運ばれていった。「独島さーん、わかりますか? いまから麻酔して、赤ちゃん誕生させますからねぇ」「唯人! 唯人!! 先生、唯人をお願いします!!」 病院と思われるところに到着してからはただ目許に明るいものと冷たい感覚がある事しかわからず、朋拓の顔も有本さんの顔もわからないままだ。ただずっと、手術室に入りきってしまうまでずっと誰かが手を握っていてくれたのが嬉しくてホッとしていた。「唯人、大丈夫、俺、待ってるからね」 意識が途切れていく直前、耳元に届いた声に俺は小さくうなずけた気がしたけれど、本当のところはわからない。ひとつ、ふたつ、みっつ……ゆっくりとまぶたに移る光の数を数えていたらゆっくりと意識が深いところへ落ちていく感覚がして、やがて何も見えなくなった。 それから俺は、気付けばやわらかであたたかなところを小さな手に繋がれてどこまでも歩いていた。(これは夢? 現実……にしては、俺の姿は妊娠前の姿なんだけれど……?) あたりは薄っすら明るいけれどぼやけていて、あたたかいけれど少し蒸し暑い。知らない場所のはずなのに、どこか懐かしく思える。 遠く、潮のにおいとさざ波の音が聞こえる……そう、感じた時には俺はあたたかな砂浜の上を歩いていた。降り注ぐ陽射しは熱いくらいに眩しく、俺は目をこらす。 隣には、俺の手を牽く小さな光の塊のような誰かがいる。『こっち、こっち』 俺の手を牽く小さな手のそれはそう言って俺を引っ張っていく。熱いほど温かなその手は、小さいのにしっかりと俺の手を握りしめている。まるで、手術室に入るまで俺の手を

  • 覆面ディーヴァの俺は最愛の我が子に子守歌を唄いたい   *31

     それから朋拓が窓口になって例のメールの相手の連絡先を探り、コンタクトを取ってくれた。 相手は四十代の女性で、俺の父親にあたる人はいまは傍にいないと言う。「シングルマザーだったんだ……だから捨てられたのかな」「そうだったとしても、もう少し早く会いに来るべきじゃなかったのかな」 朋拓を介して数回やり取りをし、今日いまからふたりで会いに行くことになっている。 蒼介から借りた車に乗り、待ち合わせの指定場所――それはあの江の島の海のそばの公園だった――を目指す。「指定された場所もなんだかなぁ……もっと人目があるとこならわかるんだけど」 俺の母親と言う人に会うことが決まってから、朋拓はずっと機嫌が悪い。普段が機嫌が好すぎるくらいなのでかえって不機嫌さのすごみが増す。 だからなのか、俺は余計なことばかりひとりで喋ってしまう。俺の好きな海のそばだなんてすごい偶然だな、海が好きな人なのかな、とか、これからも会えたりするかな、とかはしゃいで喋る一方で、俺が子ども産むことを嫌がったりしないかな、と不安になる気持ちも同じくらい胸によぎる。「唯人、落ち着いて。お腹の子に響くよ」「……ごめん」 いつになく静かな朋拓の口調に、冷や水をかけられたように気持ちがしぼんでいく。朋拓はそんな俺の様子を居た堪れない様子で横目で見ているのだけれど、いつものように慰めてくれない。それが、ちょっとショックだった。 確かに、俺が捨てられたことを許せるかと言われると、わからない。でも、パートナーもいない経済的に苦しい状況だったとしたら、もっと何か事情があるのなら……俺は、棄てられたことを責めるべきなんだろうか?「……ねえ、朋拓。俺、ママを責めた方がいいのかな?」

  • 覆面ディーヴァの俺は最愛の我が子に子守歌を唄いたい   *30

     帝王切開での出産を迎える俺の予定日は十月二十四日。偶然にもその日は俺と朋拓が初めてメタバースのSUGAR内で出会った日だった。 きちんと俺が憶えていたわけではなく、朋拓に予定日を告げたらそう教えてくれたのだ。「え、そうだったっけ?」「そうだよー。まあ、唯人はそういうのこだわらないのは知ってるけどさ。俺はすっげぇテンション上がったんだよ、運命だー! って」「でもそう言われると確かに運命的な気がしてくるね」 俺が大きく丸くなったお腹をさすりながら言うと、その手に朋拓も重ねてくる。お腹の中の子はこの八カ月ちょっとの間、大きなトラブルに見舞われることなく順調に育ってきているらしく、とても元気がいい。現にいまも俺らに存在を誇示するように胎動している。「っはは、元気だなぁ。自分が話題の中心だからかな」「主張が激しい子みたいだね」「いいじゃん、自己主張は大事だよ、唯人」 苦笑する俺に朋拓が嬉しそうに笑い、俺もそうだねとうなずく。 手術にあたっては、数日前から準備のために俺は入院して、朋拓は前日の今日から付き添いで明日の手術まで泊まり込んでくれることになっている。 大きな手術はコウノトリプロジェクトを含めて全くの初めてで、手術は万一に備えて全身麻酔で行われることになっているんだけれど、不安が全くないと言えば嘘になる。 いまこうして朋拓と笑い合っているけれど、あと一ヶ月ほどあともそうしていられるかわからなくて、ふとした時に考え込んで口をつぐんでしまう。「唯人?」「あ、ごめ……なんだっけ?」「疲れた? もう休もうか」 朋拓が心配そうに優しく顔を覗き込んでくる。それに微笑んで返そうとしたけれど、なんだかうまく笑えない。震えそうになる指先を、朋拓がそっと握りしめてくれる。「唯人、怖い?」

  • 覆面ディーヴァの俺は最愛の我が子に子守歌を唄いたい   *29

     ボーナストラックのレコーディングの三日後に俺は病院からの連絡を受け、無事受精で来た卵子を腹腔に入れてもらった。 通常体外受精をしたあとは特に行動に規制なく日常生活を送れるというのだけれど、俺の場合は無事着床が確認できるまでは絶対安静を言い渡されているので、そのまま入院して様子見となる。 今回は絶対安静なので部屋の中であっても動き回ることは制限されていて、基本ベッドに寝ているしかない。勿論歌うなんてとんでもないので絶対禁止だ。「大声で笑うのも禁止だって言うからさぁ、お笑い番組も見るのためらっちゃうよ」『そっかぁ、それは退屈すぎるね』 ホログラム表示のおかげで寝ころんだままでも難なく対面しているように通話はできるけれど、着床が確認できるまでは家族であっても面会ができない。それくらいの安静なのだ。『起き上がるのってご飯の時くらい?』「うん、そう。あとはずーっと寝てる」『本とか読む?』「飽きちゃったよ。面白くても笑っていいかわかんないし」『少しくらいならいいんじゃない?』「そうかなぁ……なんかさ、物心ついてからずーっと唄ってたから、こうやって唄えない毎日ってすごく変な感じ。まるで自分の一部が使えなくなってるみたい」 唄うことは俺にとって生きていく|術《すべ》でありながら表現であり、意思表示でもあったから、それを制限されるとどうしていいのかわからなくなる。物足りないというよりも何かが欠けている気がしてしまう。 そして同時に、こんな日々が永遠に続いたらどうしようという不安も漠然とある。「俺、またディーヴァになれるのかな。唄い方とか忘れないかな」 自嘲するようにそう呟くと、朋拓が『忘れないよ、絶対』と強い口調で返してきた。 問うように見つめると、朋拓は真剣な顔をしてこう続ける。「唯人は

  • 覆面ディーヴァの俺は最愛の我が子に子守歌を唄いたい   *28

     妊娠前最後になるだろうという事からかなりいつもより激しめにセックスをしたことで俺は意識を飛ばしてしまい、病院からの連絡に気付くのが遅れてしまった。 病院からの連絡とは昼間採取して提出した精子の状態の報告であり、更に先日先に作成していた俺の卵子と受精するかどうかという話だ。「病院、何だって?」 伝言メモの音声を聞き終えた俺に朋拓がそわそわした様子で訊ねてくる。コウノトリプロジェクトで妊娠を希望していても、相手の精子が弱かったりなかったりして、不妊であることが発覚するケースが少なくはないと病院で聞いているので、朋拓がそわそわして病院からの話を気にするのも当然だろう。「精子、良好だって。だからすぐにでも受精させるって」 俺がそう言って朋拓の方を見ると、朋拓は心底ほっとしたように息を吐いてくたっとしなだれかかるように俺の隣に寝ころんだ。「良かった~……ちゃんとした精子なんだ~」「精子の健康状態なんてこういう機会でもないと知ることもないだろうしねぇ。卵子も良好みたいだから、たぶん大丈夫だよ」「うん、そうだね……唯人、今度いつ病院行くの?」「んー、病院から連絡きてからなんだけど、たぶん一週間以内に来てくれって言われると思う」「そっか……そしたらいよいよ、なんだね」 卵子に精を受精させるのはその日のうちに行われるらしいけれど、胎内(俺の場合は腹腔だけど)に戻すまでには数日程を要するらしく、着床させるのは更にその後になるという。 着床して、さらに胎児の心音が確認できれば無事妊娠したと認められるのだけれど、そこまでの道のりは険しいし、そのあとも妊娠を維持させる努力をしなくてはいけない。「んまあ、そうだけど、それまでにあれをやっちゃわないと」 受精卵を入れ

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    「ディーヴァの覆面歌手というコンセプトが大当たりしたからね。色んなものが出回っているいまの時代、確実に売れているって言えるものが滅多に出てこないからこそ、社長たちもあんたが本当に貴重だと思ってるのよ。だから唯人が多少の無理を言いだしても聞いてくれるんだろうね。期待に応えなきゃね」 アーティスト本人が作品も宣伝も配信できて、場合によってはプライベートを切り売りするような真似をしている奴だっていなくはない中、正体を何もかも隠してここまでのし上がってきた例はそうそうない。 それは俺にも自覚があるから、期待には応えていきたいし、俺なら応

  • 覆面ディーヴァの俺は最愛の我が子に子守歌を唄いたい   *7

     コウノトリプロジェクトの治療を始めたとはいえ、やっていることは薬を飲むことだけなので、いまのところ生活にも体調にも大きな変化はない。毎食後に投薬すること以外、俺の生活にも取り巻く景色にも変わったところは見当たらない。 基本的に、自宅で歌の録音をしたり曲作りをしたりしている日々なので、人に会わないとなるととことん会わない生活だ。ちょうど朋拓の仕事も繁忙期に入ったとかで連絡がメッセージアプリ経由ばかりだ。 なんだ、思っていたよりはたいしたことないな――そう、思い始めて五回目の診察日を控えた前日の夜だった。「&hel

  • 覆面ディーヴァの俺は最愛の我が子に子守歌を唄いたい   *6

     初めての診察日は、五日後の午後だった。産科は基本女性しかいないのと、コウノトリプロジェクトがなかなかデリケートなことなので、俺の場合は、午前中の外来が終わった後に診察と治療が行われるんだという。 しんとしていて、ほとんど人がいない大学病院のフロアは独特の静けさがある。パステルピンクを基調とした産科のフロアは明るくて、どことなくやわらかなやさしいにおいがする。「独島さんはぁ……身長が一六〇センチで、体重が五〇キロ……血圧は……」&

  • 覆面ディーヴァの俺は最愛の我が子に子守歌を唄いたい   *5

    「あらぁ、そう。でもそれはまあそうでしょうねぇ」 翌日、自分の部屋に戻りながらの道中、次の曲のコンセプトの話し合いをレコーディングスタッフとリモート会議の前に、平川さんと二人で話をする時間があったので昨日の話……というか、愚痴を言った。そしたらこの反応。「それはそう、って……でもさぁ、もしかしたら俺がそういうのを望んでいるかもってチラッとでも想像してくれたって良くない?」「まあそうではあるけれど、それはちゃんと口にしてみないとわか

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