Se connecter12億円の借金を返し終えたその夜。明里は、これでようやく安心して眠れると思っていた。ところが、大地の頭の中にはまだ息子のことがある。「新しく買った邸宅は、川沿いで眺めも空気も最高だ。いっそ一緒にあっちへ引っ越さないか?お前もそこでゆっくり体を休めて、早く元気になれば、俺たちも早く息子に会えるんじゃないのか?」その瞬間、明里の眠気は完全に吹き飛んだ。冗談じゃない!ついさっき、その邸宅を売り払ったばかりなのだ。しかも手にした12億円は、すでに凪に渡してしまっている。今さら引っ越すと言われても、住むところなんてどこにもない。「大地。あの子は今住んでる家で授かったから、やっぱりここに住んでいた方が、息子も戻ってきやすいと思うよ」「急がなくていいさ。まずは向こうで体を整えて、お前が完全に元気になったら、またこっちへ戻ればいい。せっかくあんな高い邸宅を買ったのに、空けたままじゃもったいないだろ?」明里を強く抱きしめ、大地の言葉の端々からは愛おしさが溢れている。明里は少しでも引き留めようと反論したが、拒絶しすぎて不信感を抱かれるのを恐れ、とりあえず大地をなだめて寝かせ、明日の策を練ることにした。またしても、一睡もできない夜になった。翌日。大地はすっきりした顔で起きると、秘書に引っ越し業者を手配させ、家財道具の整理まで始めさせた。もう逃げ道はない。明里は、このままでは真実が露見すると焦り、すぐ葵を呼びつける。「私のへそくりが数千万円あるから、今すぐ人を探して、売った別荘を借り戻して!お父さんが向こうへ引っ越して、家がもう私たちのものじゃないって気づいたら、私たちはもう終わりよ!」青ざめた葵は、冷や汗をかきながら急いで売り払った邸宅を借りに向かった。買い手は、昨日売ったばかりなのに今度は借りたいと言い出した売り手を不思議には思ったが、金を払うというなら、断る理由もない。「年間の賃料として数千万なら、高くはないでしょう」買い手は平然と吹っかけてきた。葵は危うく怒鳴り返しそうになったが、大地の引っ越しはもう始まっているため、涙を飲んで了承した。「分かりました。でも、この件は口外しないようにお願いしますね」「もちろん」あっさり承諾した買い手。葵は年間賃貸料として、身を切られるような思
明里は、葵の期待をばっさりと切り捨てる。「もったいないなんてことはないわよ。早く凪に12億円を返しちゃえば、もう脅されることもない。その時こそ、二宮グループは私たちだけのものになるんだから。邸宅なんて、一軒どころか、十軒だって買えちゃうんだから」「はーい」葵は名残惜しかったが、売却の手続きを進めることにした。12億円は決して小さな金額ではなかったが、別荘は立地もよく、相場も高かったため、すぐに内見希望者が現れ、そのまま購入の話まで進んだ。明里は大喜びで契約へ向かい、署名を済ませて代金を受け取ると、そそくさとその場を離れた。背後から、ずっと見張られているとも知らずに……猫のワクチン接種に出かけようとしていた凪のもとに、明里を監視させていた人から報告が入った。【明里さんが大地さんに買ってもらった邸宅を売りました。金額は12億円です】【決済はもう済んだの?】【2時間前には決済済みです。銀行から出てくる明里さんも確認しました】2時間……それなのに、明里からは何の連絡もない。まさか12億円を手元に置いて運用し、ぎりぎりまで増やしてから返そうとしているのか?だが明里に金を増やす才覚があるなら、そもそも今日のような状況にはなっていない。あの女の手元に置いておけば、消えてなくなるのと同じだ。それに、今のミツキホールディングスには資金が必要だった。凪はすぐに明里へメッセージを送る。【12億円はまだ?】【もう少し待ってよ。そんな大金、簡単に用意できるわけないでしょ?】明里はそう返しながら、株や投資信託の冊子を次々めくっていた。せっかく手に入った12億円を、そのまま全部凪へ渡すなんてもったいない。先に少し運用して増やし、その利益だけでも自分のものにできれば――そんなことを考えていた矢先に、凪から電話がかかってきた。「お金があるのに返さないで、投資で溶かしたら何で返すつもり?」「なっ……なんでわかったのよ!」明里は驚きすぎて、手にしていた冊子を放り落とした。慌てて周囲を見回す。だが、誰かに見張られている様子はない。それなのに、なぜ凪は12億円を手にしたことを知っているのだ?電話の向こうで、凪が笑った。「さっきまでは知らなかったけど、今、確信に変わった」明里の顔は、一瞬で青ざめ
凪はその答えに大満足だった。忍から回ってきた大型案件は、今のミツキホールディングスでは受け切れないため、無理に奪ったところで意味がない。それよりも、母の資産をひとつずつ、自分の手へ取り戻す方が大事だ。凪は空の手のひらを、そっと指先でつつく。空の険しかった目元が、ようやく少しだけ和らぐ。「じゃあ、そうしよう」そう言うと、空は挨拶すらせず、凪を連れて堂々と二宮家を後にした。車に乗り込むと、空が傷の状態を尋ねるよりも先に、凪が自ら距離を詰めて、少しだけ微笑んだ。「今日は助けてくれてありがとうございました」空が来なくても自分の身は守れただろうが、母の資産まで取り戻すことはできなかった。凪の笑顔が少しずつ近づいてくる。空はしばらく黙ったまま見つめていたが、やがて少し気まずそうに視線を逸らすと、何事もなかったように、凪のシートベルトを締めた。「まだ怪我人なんだから、あちこち動き回るな。帰ったらゆっくり休め」「分かりました」凪は素直にシートベルトを締められながら、心の中では、少し予想外のことだと思っていた。空さんって、人にシートベルトまでしてあげるんだ。以前、他の女の子にもこうしてあげたことがあるのだろうか?そんな他愛もないことを心の中で考えていたが、疲れには勝てず、ほどなく深い眠りへ落ちていった。その間も、空の視線は、ずっと凪から離れなかった。……数日後。帰宅した明里は、葵の額の傷と、所有していた一軒の邸宅が手元から消えたことを知り、あまりの怒りで危うく気を失いかけた。そのまま大地の書斎へ乗り込み、泣き崩れる。「大地!私は息子を失ったばかりなのに、どうして今度は、唯一の娘までこんな酷い目に遭わせるの!?」大地は驚き、ふらつく明里を慌てて支えた。「俺が葵に何をしたっていうんだ?葵がケガをしたのは、凪に食ってかかって、自分から棚に頭をぶつけただけだろ?誰のせいでもなく、あいつ自身のせいだ」明里は一瞬、言葉に詰まった。だがすぐに態度を切り替え、力なく大地の胸へもたれかかった。「葵がああなったのは……私たち二人で甘やかして育てたせいよ。でもね、大地。お医者様が言ってたの。ちゃんと体を休めれば、また妊娠できるかもしれないって。ねえ、前に大地と美月さんの間に子供ができた時、邸宅を買ってあ
凪は立ち上がるどころか、大地につかまれて傷口が痛むふりをして、包帯の巻かれた腕をぎゅっと押さえた。唇を軽く噛み、弱々しくつぶやく。「……痛い」大地は怒りで危うく息が止まるところだった。何も触ってないだろうが!大地が慌てて弁解しようとしたその時、玄関から、空の冷え切った声が響いた。「凪を呼び戻しておいて、こんな風にもてなしてくれてたのか?」空は足早にこちらへ向かってくる。入口付近にいた親戚たちは、その視線を浴びただけで息苦しさを覚え、自然と左右へ分かれて道を開けた。空は凪のそばへしゃがみ込み、立たせようと手を伸ばす。だが凪はその袖をぎゅっとつかみ、小さな声で言った。「父が……私のせいで明里さんと葵が酷い目に遭ったから、罰を与えるって……」「凪のせい?」空は一語一句確かめるように言った。立ち上がることもせず、そのまま凪の細く冷たい手首を包み込み、怒りを含んだ目で大地を見た。「葵は故意に人を傷つけようとしたのに、それでも黒崎家はあいつを刑務所送りにはしなかった。かなり譲歩したつもりだったんだがな。なのに今日は事実をねじ曲げて、さらには黒崎家から補償まで受け取っているのに、凪に復讐する?何の罪もない彼女に手をあげ、皮膚が裂けるまで叩けば満足なのか?」空は凪の腕をそっと引き、自分の胸元へ抱き寄せ、指先で昨日処置した部分を慎重に確かめる。血は滲んでいない、傷口も開いていない。それを確認しても、その瞳の冷たさはむしろ増すばかり。大地は背中に冷たい汗が流れるのを感じた。娘を少し叱ろうとしただけなのに、どうして空の口から出ると、復讐になってしまうんだ?大地は慌てて弁解する。「誤解だ、全て誤解なんだ!凪はまだ怪我をしているんだから、父親の私が、本当に皮膚が裂けるほど叩くはずがないじゃないか。ただ大輔さんの婚約披露宴の件で姉妹喧嘩をはじめて、凪が葵に酷いことをしたから、少し躾けるつもりで……」その言葉を聞いた凪は、空の胸元にもたれたまま顔を向ける。「じゃあ、私が葵に婚約式を壊せって命令したの?それとも、私が葵の頭をつかんで棚にぶつけた?父親っていう立場は本当に便利ね。口を開けば何でも私のせいにできるんだから」「その、俺は……」大地は説明しようにも、何ひとつ筋が通らない。空はそれを聞き終えると、
使用人は急いで竹刀を取りに行った。床に血が広がる光景を見てしまった親戚たちは、それ以上葵を責める勇気を失っていたが、かといって凪をかばう者もいない。葵は大地の腕の中で、凪に挑戦的な笑みを浮かべていた。凪の瞳が冷える。これ以上付き合う気はない、そう思い振り返ってその場を離れようとした。「捕まえろ!」大地の怒号により、外にいた警備員が駆け込んできて、凪を押さえつけた。「離して!」凪は必死に抵抗したが、多勢に無勢。リビングの真ん中に押さえ付けられ、膝を激しく床に打ちつけた。激痛で目の前が真っ暗になる。「竹刀です」使用人が竹刀を持ってきた。身動きが取れない凪を見下ろす大地の手に、冷酷な光が宿った。「母親がいなくなってから、君はY市へ逃げ、縁談の話も断り続けてきた。それが、黒崎家に取り入った途端、この俺を馬鹿にして、好き勝手するつもりか?そんな親不孝な娘を俺が直々に躾けてやろうというのに、その不貞腐れた態度は何だ?また、空さんに助けてもらうつもりか?そもそも、君たちの縁談をまとめてやったのはこの俺だ。俺が娘を躾けようと、黒崎家に口出しする権利なんかないんだよ!」凪は顔を上げ、ふっと鼻で笑う。「確かに、黒崎家が二宮家のことに口を出す権利はないかもしれない。でも、黒崎グループが回してくれたプロジェクトや、中島グループとの提携、私抜きで最後までやり切れるの?莉子さんがミツキホールディングスで横領していた証拠はまだ私の手元にある。今は二宮グループで働いてるけど、その証拠を提出してミツキホールディングスを破産させたらどうなると思う?債務が膨らんだうえ、親会社と子会社で人員の混同が認められれば、ミツキホールディングスの債務は二宮グループにも降りかかる。そうなれば、二年は配当なんて出せないでしょうね。その穴埋めをして、事業を完遂できるっていうなら、好きにすれば?」大地の手が止まる。中島グループの案件は、確かに、凪がいなければ取れなかった。そして、ミツキホールディングス……親戚の情で莉子を入社させたものの、グループ内の負債が絡むことなど思いもしなかった。ミツキホールディングスが倒産すれば負債の連鎖で、黒崎家から稼いだ分が相殺されてしまい、利益など吹き飛ぶ。そばで黙って見ていた親戚たちも、「二年間配当なし」
【明里が流産したって聞いて、親戚たちが皆、見舞いに来ているんだ。今夜は家に戻って食事をしろ。車は病院の下に待たせてあるから】凪は画面を見つめながら、小さくため息をつく。完全に拒否権なし、ということらしい。凪は渋々二宮家へと向かった。案の定、親戚たちはすでに集まっていて、葵を囲んで慰めていた。「明里さんは流産しただけだから、少し体を休めれば、また子どもはできるさ」「そうそう。いずれ大地に男の子が生まれれば、二宮家にも跡継ぎができる。そうなれば、君たち姉妹が政略結婚で家のために道を作る必要もなくなるしな」葵は大勢に慰められながら、しくしくと泣いている。自分が大輔の婚約披露宴を台無しにしかけたことなど、もう忘れているらしい。凪は相手にする気にもなれず、そのまま大地を探しに行こうとした。すると、葵がいきなり泣き声を張り上げた。「ううっ……お姉さんがあんな頭のおかしい女を家に連れてこなかったら、お母さんだって階段から落ちて流産なんてしなかったのに!」その瞬間、親戚たちの視線が一斉に凪へ集まった。凪は歩みを止めた。火の粉が降りかかってきた以上、避ける必要もない。ゆっくり振り返ると、冷たく笑った。「そもそも他人の婚約披露宴を壊そうとしたのは誰?自分の部屋から出てきて謝って、せいぜい顔を引っかかれるくらいで済ませていれば、それで終わった話なのにね。あなたがやったことを認める勇気もなく部屋に閉じこもってたから、あなたを守ろうとした明里さんが階段から落ちて流産した。一番の原因を作ったあなたが、私を責めるわけ?あなたの顔と、二宮家の跡継ぎ……どっちが大事?」凪の言葉が響いて、叔父たちは口を閉ざした。彼らが葵を可愛がっているのも、所詮は表向きだけ。本心では誰もが男児を重んじていたし、中には、自分の息子を大地の養子に入れようと考えている者さえいる。葵の顔と、二宮家の男の跡継ぎ……比べるまでもないだろう。これを聞いた葵は、激昂して叫んだ。「お姉さんはもういい家に嫁げたから、私なんてどうなってもいいんだよね!だからあの狂った女に私の顔をズタズタにさせて、二度とお嫁に行けなくなればいいって思ってたんでしょ!本当に酷い!」「あなたは大輔さんの婚約披露宴を台無しにしようとした。もし彼がステージから落ちて命を落として
「渉、食事が冷めるぞ」悠斗はそう言うと、エビを一つ、凪のお皿に乗せてやった。悠斗がその場を収めてくれてはいたものの、食事は気まずい雰囲気のまま、お開きとなった。帰り際、渉は凪をバス停に置き去りにすると、何も言わずに車を走らせて行ってしまった。……そのことについて、凪は特に何も感じなかった。静かにホテルに戻ると、彼女から渉に連絡することはなかった。凪はテキパキと雑務を片付けて、Y市でのしがらみを一つ一つ断ち切っていった。時折、直美から送られてくるメッセージを開いた。トーク画面には、ここ数日、二人が何をしたのかが、細かく報告されていた。心の痛みが麻痺してくると、
名家に生まれた人間であれば、直美に染み付いた育ちの悪さは一目で見抜けるものだ。どんなに取り繕ったところで、無駄なことだった。静香は凪のことすら気に入らないのだから、直美のことなど好きになるはずもなかった。凪が現れると、静香の怒りは一気にそちらへ向かった。「自分の男もろくに繋ぎ止められないなんて、だらしないわね。あんな女を家に上げるなんて」渉は直美を背後にかばい、冷たく威圧するような声で言った。「直美は俺の友達だ。おばさん、言葉には気をつけて!」凪は初めて中島家に来たときのことを思い出した。あの頃は家に入る前から、渉に何度も念を押されたものだった。中島家の人たちと
達也が不意に言った。「二宮さん、松浦グループに来る気はありますか?あなたには……」彼が言い終わる前に、凪はきっぱりと断った。「ありません!」その華奢な後ろ姿を見つめる達也の瞳に、特別な感情が宿った。それは感心であり、少しのときめきでもあった。……メモに書いておいた用事が、また一つ片付いた。凪はホテルで半日休んでから、家に戻った。庭はひどく荒れていた。直美が、彼女の服を着て、高そうなショールを羽織っていた。そして、まるで家の女主人のように、使用人たちに大切に育てられた花を根こそぎ引き抜けと指示していた。凪が車から降りるのを見て、直美は得意げな表情を浮かべた
「水でも飲んで。直美がまだ目を覚まさないから、そばを離れられないんだ。凪ちゃん、いい子だからさ。俺も疲れてる。これ以上、わがまま言って俺を困らせないでくれるか?」電話は、一方的に切られた。ツー、ツー、という無機質な音が耳に突き刺さり、凪は目の奥がツンと熱くなった。昔、胃穿孔で手術を終え目覚めたとき、渉は彼女を抱きしめて長いこと泣いていた。ベッドのそばにひざまずき、大きな体を丸めて、まるで迷子になった大型犬のように彼女の首筋に顔をうずめていた。その声はひどく嗄れていた。「凪ちゃん、俺も辛かった。お前が手術室にいた時、胸が張り裂けるほど苦しかったんだ。分かるか?お前は、俺の命そ