ログイン空が反論するより先に、忍はそのまま話を続けた。「そこまで仲がいいなら、新居や結婚式のことも、そろそろ本格的に考えたらどうだ?せっかく正式な夫婦なのに、世間に隠しているから好き勝手書かれるんだ。いくら仲が良くても、凪が黒崎家に玉の輿に乗っただけだなんて馬鹿なことまで言われている。だったら堂々と公表して、仲のいい夫婦だと分からせてやればいいんだ!」忍の一言一言には、力がこもっていた。そばに控えていた執事が気まずそうに咳払いし、タブレットを差し出す。昨夜の写真が投稿されたページには、確かに凪が黒崎家に取り入ったという書き込みや、根拠のない噂がいくつも出始めていた。中には過去を掘り返そうとする者までいて、このままいけば渉との関係にまでたどり着きそうな勢いだ。さらに、これまで女性の噂ひとつなかった空が凪に骨抜きにされ、彼女の過去も気にせずすべてを捧げようとしている――おもちに数百万円もするスーツを破られても怒らないのがその証拠だ、といった皮肉まで並んでいる。凪は眉をひそめた。朝は上に表示されるコメントばかり見ていて、こんな書き込みには気づかなかった。渉との過去を知られること自体は、別に怖くない。気になるのは、自分と空の関係をまだきちんと公にしていない段階で、ここまで悪意のある噂が広がっていることだった。まるで誰かが意図的に煽っているようにも見える。心当たりなら、いくつかある。渉との過去は、自分に見る目がなかっただけだ。だからといって、そのせいで空まで「女に惑わされて判断を誤った男」扱いされるのは納得できない。それに……新居や結婚式の話も、いずれ向き合わなければならないことではある。凪はそれほど迷わなかった。「新居も結婚式も、できるだけ早く考えるようにします。おじいさん、そんなに怒らないでください。私も空さんも、少しずつ進めていこうと思っていただけなんです。でもまさか、昨日動物病院へ行ったところが撮られて、こんな噂になるなんて思ってもいませんでした」凪は忍のそばへ歩み寄ると、機嫌をなだめるように肩を揉んだ。ようやく忍の表情が和らぎ、凪の手を優しくさする。「まったく、凪は何でも先延ばしにするんだから……二宮家の連中にろくな扱いをされなかったせいで、安心して人を頼れなくなったのかもしれんな。これからは、
ところが写真の中では、見つめ合う2人の間に甘い空気が漂い、まるで恋愛ドラマのワンシーンのように見える。病院の前でおもちを抱き、少しじゃれ合っていただけの写真もそうだった。凪と空、そして腕の中のおもち。切り取られた1枚だけを見れば、なぜか家族写真のようにさえ見えてしまう。「このカメラマン、撮るの上手すぎ」凪は思わずそう呟いた。ぼさぼさになった自分の髪も、おもちに引っかかれて破れた空のスーツも、しっかり写っているというのに。コメント欄は大騒ぎだった。【黒崎社長と奥様、お似合いすぎる!奥様、すっぴんなのに何でこんなに綺麗なの?もう、大好き!】【御曹司社長と華やか美人って強すぎ。日常を撮っただけで恋愛ドラマじゃん】【この二人、芸能界入ってくれないかな。最近、親の七光りで出てくる微妙な二世タレントばっかりで、目が腐りそう】【黒崎社長夫妻がドラマなんか出るわけないでしょ。経済ニュース追ってたほうがまだ写真見られるよ。下手な芸能人より華があるし】本当に過去の写真を探し始めた人までいた。以前二人が出席したパーティーの写真はもちろん、黒崎家の会見で空が凪を妻だと公表したときの映像まで掘り起こされている。コメント欄はすっかり二人を応援する人たちの盛り上がりで埋め尽くされていた。【奥さんがすっぴんなの、旦那さんが何してても可愛いって言ってくれるから気にしてない説】【猫に数百万円のスーツ破られても怒らないの、奥さんの猫だからでしょ。愛じゃん】次々流れてくる勝手な想像に、凪はだんだん頭が痛くなってきた。「みんな思い込み激しすぎ。私と空さんはそんな関係じゃ……」「黒崎先輩、あんなにすごい人なのに一途なんですから、社長も絶対逃しちゃだめですよ!」陽菜の声が一気に弾む。どうやら自分たち二人をくっつけたがっているのは、コメント欄の人々だけではないらしい。「……」凪は呆れて言葉を失った。そういえば陽菜は、以前から大学の先輩である空をかなり尊敬していた。これは何を言っても無駄だ。凪はさっさと電話を切った。最近の芸能ニュースに飽きた人たちが、珍しく財界夫婦の私生活を面白がっているだけだろう。そう考えて、深く気に留めなかった。だが、空が直接訪ねてきた。「おじいさんが一度実家に来いって」「え?おじいさんが?
空の声には、不思議と人を安心させる力があった。凪はその一言で、過去へ沈みかけていた意識を引き戻される。顔を上げると、まっすぐに自分を見つめる空の深い瞳とぶつかった。そのうち慣れる?何に?年上の人に頼ることに?ビジネスパートナーとして助けてもらうことに?それとも、この結婚に関わる何かにだろうか?考えを巡らせる間もなく、獣医師の声が響いた。「点滴が終わったので、おもちちゃん、もう連れて帰って大丈夫ですよ」「はい!」凪は振り返り、抱かれて出てきたおもちを見るなり、急いで立ち上がった。さっきまで胸に引っかかっていた疑問など、一瞬でどこかへ消えてしまう。一方、空はまだ先ほどの姿勢のまま、獣医師へ冷ややかな視線を向けていた。獣医師はなぜか背筋が寒くなる。いや、こっちは猫を治療しただけなのだが……しばらくして、凪がおもちを抱きしめ、その頭に何度もキスしているのを見届けてから、空もようやく立ち上がった。「帰ろう」「うん!おもち、家にあるお試し用の猫缶はしばらくしまっておこうね。元気になってから、少しずつ食べてみようか?」「みぃ……」おもちは弱々しく鳴くと、凪の腕の中から前足を伸ばし、空の腕にじゃれついた。次の瞬間、「ビリッ」という音がした。二人そろって動きを止める。空のスーツの袖が、見事に爪で裂かれていた。「……」また一着、弁償するものが増えたらしい。凪はおもちの頭を指先で軽く小突いた。「こら。いたずらしないの」「みぃ!」叱られたおもちは、いかにも傷ついたように凪の胸へ顔を埋め、そのまま動かなくなる。凪は困ったように空の袖を見た。「明日、ちゃんと弁償……」「猫缶、3日間禁止」空がおもちの頭をつん、と指で押した。意味が分かったのか、おもちの耳がぴんと立つ。「みぃ、みぃ!」今度は爪をきちんと引っ込めたまま凪の腕を必死にかき、大きな瞳で訴え始めた。助けを求められても、凪は首を横に振る。「先に空さんの服を破ったのはおもちでしょ。3日間、缶詰なし。これは決定」絶望したのか、おもちはとうとう鳴くことすらやめ、凪の胸に顔を埋めて死んだふりを始めた。その姿がおかしくて、凪は思わず笑ってしまう。ふと顔を上げると、空と視線が重なり、空の口元にもほんのわずかな笑みが浮かんでいるのに気が
そう考えた途端、空の中に少しばかり年上としての自覚が芽生えた。凪の額で跳ねていた髪を指先でそっと整え、そのまま手のひらを頭に乗せて軽く撫でる。まるで、いつもおもちにしているような手つきだった。「仕事に呼び戻されたわけじゃない。ちょっと返信してただけだから、心配しなくていい」本当は、凪と別れてひとりきりの部屋へ戻るのが惜しくて、あの場に残っていただけだった。だが、さすがにそこまでは言えない。そんなことを正直に口にすれば、凪を困らせるだけだろう。凪はきょとんと空を見つめた。説明は分かった。分からないのは、頭に乗せられた温かな手のひらだ。この撫で方、さっきおもちにしていたのと同じでは?もしかして、自分まで猫扱いされてる?それはちょっと納得がいかない。凪は空との距離を詰めると、不満そうにその手をつかんで頭から下ろした。「ねえ、私のこと猫かなにかだと思ってません?」「……違う」珍しく、空の返事が一瞬詰まった。どうやら凪は、自分とはまるで違う受け取り方をしたらしい。それがおかしくて、空は思わず笑う。「年上が年下を落ち着かせるとき、こうすることもあるだろ?自然に手が出ただけで、猫扱いしたわけじゃないさ」そもそも、凪ほど大きな猫などいるはずもない。仮にいたとしても、凪ほど可愛くはないだろう。その言葉に、凪はふいに目を見開いた。改めて空の顔を見つめてみる。輪郭はくっきりとしていて、頬にも余計な丸みはない。対して、少し顔を横へ向ければ、鏡に映る自分は明らかに若かった。華やかな顔立ちではあるものの、頬にはまだ柔らかな丸みがわずかに残っている。こうして比べれば、年齢差は意外とはっきりしている。凪はそこでようやく気づいた。一緒にいると、空が自分よりずっと年上だということを、いつも忘れてしまう。「そういえば、空さんって私よりかなり年上でしたよね」「かなり?」空の眉間に深いしわが寄った。そこまで離れてないだろ。年齢差など、これまで生きてきた時間のほんの一部にすぎない。これから先には、凪と一緒に過ごせる時間がいくらでもある。そう思った空は確かめるように身を屈め、凪の顔を覗き込んだ。「君、俺のことそんなに年寄りだと思ってるのか?」「……」空の目が徐々に険しくなる。まずいところを踏んだらしい。凪
動物病院。消毒の行き届いた処置室で、おもちはぐったりと横たわっていた。力なく「みぃ」と鳴き、いつもはぴんと立っている小さな耳もしょんぼり垂れている。ガラス越しにこちらを見つめる潤んだ瞳に、凪は胸を締めつけられた。ひと通り診察を終えた獣医師が、処置室から出てくる。「ワクチンは済んでいますが、保護される前に外で暮らしていた頃から、少し体調を崩しやすかったのかもしれませんね。点滴をして、しばらく薬を飲ませれば大丈夫でしょう。胃腸が弱い子なので、フードもあまりいろいろな種類を与えないようにしてください」その言葉を聞いた瞬間、凪はようやく肩の力を抜いた。猫を飼うのは初めてだ。家に入った時は、いつものようにおもちと少し遊んでから休もうと思っていた。ところが玄関を上がってすぐ、給餌器のそばで、目は半分閉じたまま、息も弱く、かすかに震えるひげだけが苦しそうに動いていたおもちを見つけた。頭が真っ白になった凪は、慌ててタオルでそっと包み、そのまま抱きかかえて部屋を飛び出したのだ。大事には至らないと分かった今、ようやく長く息を吐くことができた。それでも心配は尽きず、凪は獣医師の後をついて歩きながら、家で気をつけることを次々と尋ねていく。そして、そのさらに後ろを空が黙ってついてきていた。獣医師は先ほどから、妙な緊張を感じていた。猫の飼い主は若くて綺麗な女性なのに、その後ろには、背の高い男が夜の白い照明の下、影のようについて歩いている。一言も発しないのに、妙な存在感があり、しかも猫を一度確認したあとは、ずっと猫の飼い主の横顔を見つめているのだ。ひと通り説明を終えた獣医師は、その視線に耐えきれなくなったように足を止め、軽く咳払いする。「注意事項はあとでまとめてお送りします。ええと……その前に、後ろの方にも声をかけてあげたほうがいいかもしれませんね。かなり緊張されているようなので」「え?」凪が勢いよく振り返る。すると、それまで冷たい雰囲気をまとっていた空も獣医師の言葉を聞いたらしく、すっと表情を戻した。「緊張してません。ただ待っていただけです」低く落ち着いた声で答える。いかにも空らしい。凪はむしろ、獣医師が空の無愛想さに怯えているのではないかと心配になった。「この人、いつもこんな感じなんです。気にしないでください
これ以上、気の利く側近がどこにいるだろうか?隆は我ながら完璧だと言わんばかりに、得意げな笑みを浮かべていた。凪も何となく引っかかるものは感じたが、隆の笑顔はあまりにも堂々としているし、何より空の目元に浮かぶ疲れは本物だ。これで空の負担も減るというのなら、確かに双方にとって悪くない話なのだろう。「それなら、ありがたく引き受けさせていただきますね」凪はもう遠慮せず、ろくに書類へ目を通さないまま次々と署名していった。最後の1枚にサインし、ペンを置いたところで空が口を開く。「君、外でもそんなふうに契約書へサインしてるのか?」凪が損をするようなことがあっては困る。空は眉を寄せ、声まで少し低くなっていた。叱っているというより、本気で理解できないらしい。凪も不思議そうに瞬きをする。「ほかの契約書なら、ちゃんと読みますよ?でも、これは空さんが用意してくれたものですよね?私、空さんのことは信じてますから」カチリ、とペンを置く小さな音が響く。空は一瞬、表情を保てなくなった。胸の奥をそっと叩かれたような感覚が、いつまでも消えずに残っている。自分だから。ほかの誰でもなく、自分だから信じてくれた。「夕飯、一緒に食べないか?」気づけば、そんな言葉が口をついていた。同時に、頭の中で近くの店を思い出し、その中から凪が喜びそうな店を選び始める。凪は笑ってうなずいた。「もちろん。でも、最高のビジネスパートナーがこんなにたくさん案件をくださったので、今日は私にごちそうさせてください」午後の日差しが二人の横顔を照らしていた。少し暑いくらいの陽気に背中を押されるように、凪は近くの落ち着いた店を選び、空と一緒にカフェを後にする。残された隆は、テーブルの上の書類を片づけながら、先ほどの空の様子を思い出して笑いをこらえた。「社長があんな顔する日が来るとは……」……夕食を終えて外へ出ると、心地よい夜風が吹いていた。腹も満たされ、珍しく時間にも余裕がある。せっかくだからと、二人は歩いて帰ることにした。並んで歩きながら、最近の景気や株式市場について話したかと思えば、互いの会社の近況へ話題が移る。話すのは凪のほうが多く、空は相変わらず口数が少ない。それでも返ってくる言葉は的確で、会話が途切れることはなかった。
「渉、食事が冷めるぞ」悠斗はそう言うと、エビを一つ、凪のお皿に乗せてやった。悠斗がその場を収めてくれてはいたものの、食事は気まずい雰囲気のまま、お開きとなった。帰り際、渉は凪をバス停に置き去りにすると、何も言わずに車を走らせて行ってしまった。……そのことについて、凪は特に何も感じなかった。静かにホテルに戻ると、彼女から渉に連絡することはなかった。凪はテキパキと雑務を片付けて、Y市でのしがらみを一つ一つ断ち切っていった。時折、直美から送られてくるメッセージを開いた。トーク画面には、ここ数日、二人が何をしたのかが、細かく報告されていた。心の痛みが麻痺してくると、
名家に生まれた人間であれば、直美に染み付いた育ちの悪さは一目で見抜けるものだ。どんなに取り繕ったところで、無駄なことだった。静香は凪のことすら気に入らないのだから、直美のことなど好きになるはずもなかった。凪が現れると、静香の怒りは一気にそちらへ向かった。「自分の男もろくに繋ぎ止められないなんて、だらしないわね。あんな女を家に上げるなんて」渉は直美を背後にかばい、冷たく威圧するような声で言った。「直美は俺の友達だ。おばさん、言葉には気をつけて!」凪は初めて中島家に来たときのことを思い出した。あの頃は家に入る前から、渉に何度も念を押されたものだった。中島家の人たちと
達也が不意に言った。「二宮さん、松浦グループに来る気はありますか?あなたには……」彼が言い終わる前に、凪はきっぱりと断った。「ありません!」その華奢な後ろ姿を見つめる達也の瞳に、特別な感情が宿った。それは感心であり、少しのときめきでもあった。……メモに書いておいた用事が、また一つ片付いた。凪はホテルで半日休んでから、家に戻った。庭はひどく荒れていた。直美が、彼女の服を着て、高そうなショールを羽織っていた。そして、まるで家の女主人のように、使用人たちに大切に育てられた花を根こそぎ引き抜けと指示していた。凪が車から降りるのを見て、直美は得意げな表情を浮かべた
「水でも飲んで。直美がまだ目を覚まさないから、そばを離れられないんだ。凪ちゃん、いい子だからさ。俺も疲れてる。これ以上、わがまま言って俺を困らせないでくれるか?」電話は、一方的に切られた。ツー、ツー、という無機質な音が耳に突き刺さり、凪は目の奥がツンと熱くなった。昔、胃穿孔で手術を終え目覚めたとき、渉は彼女を抱きしめて長いこと泣いていた。ベッドのそばにひざまずき、大きな体を丸めて、まるで迷子になった大型犬のように彼女の首筋に顔をうずめていた。その声はひどく嗄れていた。「凪ちゃん、俺も辛かった。お前が手術室にいた時、胸が張り裂けるほど苦しかったんだ。分かるか?お前は、俺の命そ







