ANMELDEN宗一郎は立ち上がり、窓辺へと歩み寄って鷹斗に背を向けた。その声は沈み、微かな疲労が滲んでいた。
「儂も年をとった。最近はすっかり体が弱ってな。あと何年持つか分からん。今回お前に手を貸したのは、雅也の顔に免じてのことでもあり、お前自身にそれなりの力があると見込んでいるからだ。だが、次はないと思え」
宗一郎は振り返り、刃のように鋭い視線を鷹斗へ真っ直ぐに向けた。
「もし次また同じようなことが起きれば、儂の非情さを恨むなよ。その時は、歩を捨てて飛車を生かすような真似をするしかなくなる」
『歩』が誰を指し、『飛車』が誰を指すのかは、言うまでもない。
鷹斗は答えず、ただ静かにそこに座っていた。
「もういい、下がれ。スマホを忘れるな」
宗一郎は机の上のスマートフォンを前に押しやり、手で払うようにして退室
鷹斗は澪を凝視し、思考が一瞬完全に停止した。「……詳細を聞かなくていいのか?」澪は顔をぷいと背け、耳の先まで真っ赤に染めていた。「だって、本当の結婚じゃないでしょう?ただの契約なんだし。その、『詳細』なんて言われても……私、まだ高校生だから、そういうことはよく分からなくて」鷹斗の眉間の皺が、さらに深くなった。何かがおかしい。いつもの澪とは全く違う。それに、顔まで赤くしている。鷹斗はふとある可能性に思い至り、体が微かに強張った。――まさか澪は、俺の言った『詳細』という言葉を、夫婦の夜の営みのことだと勘違いしているのではないか……鷹斗の声が急に真面目なトーンに変わった。「俺の言う契約がどういう意味か、本当に分かっているのか?」澪は緊張したように、布団の端をきつく握りしめた。「分かってるよ。要するに……そういうことでしょ」「そういうこと、とは?」澪の顔は限界まで赤くなり、しばらく口ごもっていたが、やがて自暴自棄になったかのように勢いよく布団を跳ね除けた。「だから……夫婦間で、するべきことっていうか。あーもう、まどろっこしいわね!変に隠し立てするのはやめよう。事ここに至っては、お互い包み隠さずいこうよ。安心して、私はそんな面倒な女じゃないから。責任を取っ
だが、鷹斗はそれ以上深く追及しなかった。高熱の治りかけで、まだ意識がはっきりしていないのだろうと考えたのだ。鷹斗はそう言って、スマートフォンの画面を澪の目の前で軽く揺らしてみせた。「君から位置情報が送られてきたんだ。ここへ着いてみたら鍵が開いていたから、勝手に入らせてもらったよ」澪は布団を上まで引き上げ、顔の半分を隠してくぐもった声を出した。「私……たぶん、熱で頭がおかしくなっていて……その……ごめんなさい、昨日の夜、私……」鷹斗は手を伸ばし、布団越しに澪の背中を優しく撫でた。「いいんだ、気にしないで。昨夜はひどい土砂降りだった。雨に濡れて熱を出し、自分が何をしたのか覚えていないだけだろう?」澪はどうしていいか分からなかったが、それでも鷹斗の言葉に合わせるようにコクンと頷いた。「たぶん……そうだと思う。ごめん、迷惑をかけて……」「迷惑だなんて、とんでもない」鷹斗は微かに微笑んだ。その瞳の奥には、水面のように静かで柔らかな感情が揺蕩っている。ただ、怜にメッセージを送らせてよかったと心底安堵していた。そうでなければ、澪がこれほど酷い熱を出していることすら知る由もなかったのだ。ここへ来る道すがら、鷹斗は多くのことを考えた。宗一郎の考えには賛同したくなかった。あの老人は一見物分かりが良さそうに見えて、その実、言葉の端々にまで計算が張り巡らされている。だが、一点だけ、鷹斗も認めざるを得ないことがあった。
部屋の中は暖房が効きっぱなしで、甘ったるい香水の匂いと、何とも形容しがたい空気とが入り混じって充満していた。鷹斗の視線は、真っ先にベッドの上へと向けられた――澪がそこに横たわっていた。白い布団に包まり、顔の半分だけを覗かせている。髪は枕の上に散らばり、顔色は青白かったが、呼吸は規則正しかった。鷹斗が近づきながらナイトテーブルへ視線を走らせると、そこにはスマートフォン、シート状の解熱剤、そして半分ほど空になったミネラルウォーターのボトルが置かれていた。澪は……具合が悪いのか?鷹斗はベッドの縁に腰を下ろし、手を伸ばして澪の額に触れた。よかった。熱は下がっている。ほっとして胸をなでおろしたが、直後にもっと複雑な感情に支配された。なぜ澪が一人でラブホテルの部屋に寝かされているんだ?昨夜、一体何があった?なぜ熱を出している?その時、ベッドの上の澪がふいに身じろぎした。---澪は、奇妙な温もりの中で目を覚ました。長い夢を見ていた。夢の中で誰かに抱きしめられていた。その人の胸板は広く、体温は高く、まるで巨大で安全な熱源のように、自分を氷のように冷たい深淵から少しずつ引き上げてくれた。鉛のように重い瞼を、それでも懸命に持ち上げる。ぼやけていた視界が徐々にピントを結び、ひとつの顔が映し出された。鷹斗がベッドの脇に座り、こっちを見下ろしていた。目の下には薄く隈ができ、顎にはうっすらと青ひげが伸びている。ひどく疲弊しているようだったが、澪を見つめるその瞳には、馴染みのある、安心させるような温もりが宿っていた。「……鷹斗さん
1時間後、ホテルのバスルームからシャワーの水音が聞こえてきた。やがて水音が止む。修はバスタオルを腰に巻き、濡れて水滴の滴る黒髪のまま姿を現した。暗闇の中、修は無表情でベッドの傍らに立ち、横たわる女を冷ややかに見下ろした。澪はまだ意識を失っており、呼吸はいくらか落ち着いていたが、頬には不自然な赤みが差している。修の口角が歪み、不格好な笑みを浮かべた。この女を手に入れたというのに、なぜか計画が成功したことへの得意げな感情も、密かな喜びも一切湧いてこなかった。ただ胸の奥が重苦しく、ひどく塞ぎ込んでいる。それどころか、微かな自己嫌悪を伴う悲哀すら感じていた。修は頭を振り、鳥の巣のようにボサボサになった髪を乱暴に掻き回すと、きびすを返して窓辺へと歩いた。ズボンのポケットから煙草を1本取り出し、口にくわえる。大人の真似事をしてライターで火をつけたが、一口吸い込んだだけでひどくむせ返り、顔をしかめた。それでもやめず、立て続けに煙を肺へと流し込んだ。吸い殻の熱が指先に伝わってくるまで吸い続けると、ようやく窓枠に押し付けて火を揉み消した。その時、ふいにナイトテーブルの上が光った。澪のスマートフォンの画面が明るくなったのだ。修は歩み寄り、スマートフォンを手に取った。ロック画面には、メッセージのプレビューが表示されていた。【澪、君に話があるんだ。少し会えないかな。鷹斗】差出人は見知らぬ番号だった。修の顔色がどす黒く沈んだ。修は、画面が自動的に暗転するまで、そのメッセージをじっと見つめていた。
ブレザーを脱がせるのは案外スムーズにいった。下に着ている白いブラウスはずぶ濡れで、布地が肌にぴったりと張り付き、肩紐の輪郭がうっすらと透けて見えていた。修の視線はそこへ1秒も留まることなく、慌てて目を逸らした。耳の先は血が滴るほどに真っ赤に染まっている。修はバスタオルを澪の体に巻きつけたが、その動作はまるで爆弾を処理しているかのように不器用だった。「よし、これで……」その言葉が終わらないうちに、澪の体がビクッと震えた。澪は体を丸く縮こまらせ、歯の根が合わずにカタカタと小さな音を立て始めた。顔色は青白く、唇は紫色に変色している。エアコンの暖房の風を浴びているにもかかわらず、その体はコントロールを失ったかのように震え続けていた。「寒い……」その声はひどく細く弱々しく、まるで遠くから漂ってきたかのようだった。修の心臓がギュッと締め付けられた。掛け布団を引き寄せ、澪の体をすき間なく包み込み、さらにその上から自分のブレザーを被せた。それでも澪は震えを止めず、小さく丸まっていた。修は唇を噛み締め、ベッドの脇で数秒間立ち尽くした後、布団をめくって自らもベッドへ潜り込んだ。手を伸ばし、澪を自分の胸の中に抱き寄せ、自らの体温で温めようとした。澪の体は氷のように冷たく、バスタオルとブラウス越しにも、ひどく震えているのが伝わってきた。修は布団を引き上げ、2人ごとすっぽりと包み込むと、澪の頭のてっぺんに顎を乗せ、静かに目を閉じた。「……もう大丈夫。俺がいる」修の声はひどく掠れていた。腕の中の少女は
タクシーは、西橋町の裏路地にひっそりと佇むラブホテルの前で停車した。入り口は狭く、看板には怪しげなピンク色のネオンでハートマークが描かれている。こういう場所の最大の利点は、名前も聞かれず、素性も詮索されないことだ。支払いも簡素で、互いの事情に深入りせず、ただ目的を果たすためだけの空間が提供される。修が澪を抱き抱えたまま受付に入ると、フロントの従業員は顔を上げることすらなく、ただ機械的な動作でルームキーと料金表を差し出してきた。「ご利用は休憩ですか、それともお泊まりですか?」修は一瞬ためらったが、「泊まりで」と短く答えた。「一泊15000円になります」修は財布を取り出し、紙幣を数枚抜き取ってカウンターに叩きつけた。従業員はそこでようやく重い瞼を上げ、澪の蒼白な顔に1秒だけ視線を留めた。「お飲み物はお部屋へお持ちしましょうか?酔い覚ましのお茶やホットココア、それから――」「解熱剤と氷はあるか」修は言葉を遮った。「ございます。後ほどお部屋へお持ちします」修はルームキーを掴み取り、澪を抱えたままエレベーターへと向かった。エレベーターの扉がゆっくりと閉まり、ロビーの淫靡な照明と空気を遮断した。修は腕の中の少女を見下ろした。澪の睫毛は微かに震え、眉間には深い皺が寄っている。時折、意味の分からない寝言を漏らしていた。修はふと、喉の奥が引き締まるような感覚を覚えた。修は自分自身に言い聞かせた。あいつをこんな場所へ連れてきたのは、決して何かをするためではない。ただ静かな場所を探して、ずぶ濡れの服を着替えさせ、布団に包んで温かい白湯を飲ませ、熱が下がるのを待つためだ。ただそれ







