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目覚ましの電子音が、薄いカーテン越しの青い光を震わせるように鳴った。
ベッドの上で丸くなっていた長谷陸斗は、枕に顔を押しつけたまま手だけ伸ばし、枕元のスマホを探った。何度か空を切って、ようやく端末を掴み、画面も見ずにアラームを止める。
部屋はまだ完全には明るくない。官舎の二階、六畳の洋室。教科書と参考書が積まれた棚、机の上には昨夜開きっぱなしの問題集と、途中で乾いたままの蛍光ペンが一本転がっている。壁際には、安いフレームに入れた家族写真がひとつ。小さい頃の自分と、若い父と、少しだけふっくらした母が並んで笑っている。
布団から上半身を起こすと、ひやりとした空気が肌に張りついた。秋口の朝の冷たさだ。窓際のカーテンの隙間から差し込む淡い光が、空気中の埃を細かく浮き上がらせている。
「……おきろ」
自分に向かって呟くように言ってから、陸斗は布団をはいだ。足裏が畳ではなくフローリングの冷たさを受け止める。スリッパを履き、首と肩を回しながら大きく伸びをする。
廊下の向こうから、僅かに食器の触れ合う音と、テレビのニュースキャスターの声が聞こえてきた。低く平板な、朝の情報番組のトーン。それに混じって、出勤する車の音や、官舎の廊下を走る子どもの足音もかすかに届く。
いつもの朝だ、と陸斗は思う。
洗面所に行き、冷たい水で顔を洗いながら鏡をのぞく。濡れた前髪が額に張りつき、睫毛から水滴が落ちる。少し伸びてきた黒髪と、寝不足でわずかに赤い目。高校二年にもなれば、自分の顔のつくりがそれなりに整っていることくらいは分かっていたが、見慣れたそれに特別な感想は抱かない。
タオルで顔を拭き、洗面所を出ると、ダイニングキッチンから味噌汁の匂いが流れてきた。だしと、わかめと、豆腐。鼻の奥に馴染んだ香りが染み込む。
ダイニングに入ると、四人掛けのテーブルに新聞が広げられ、その向こう側に父の慎一が座っていた。ジャージ姿に、警察手帳の入った小さな黒いポーチが椅子の背にかけられている。片手で湯気の立つマグカップを持ち、もう片方の手で新聞のページをめくっていた。
「おはよう」
父が、新聞から顔を上げずに言う。
「……おはよう」
陸斗も、少し声を掠らせて返す。眠気の残る身体で椅子に座ると、テーブルの上に既に用意されている朝食が目に入った。焼き鮭、卵焼き、サラダ、白いご飯、小さな味噌汁椀。彩りはシンプルだが、どれもまっすぐな線で並んでいる。
「味噌汁、冷める前に食えよ」
父が、マグを一口含んでから言った。
「うん」
箸を取り、味噌汁を一口すすると、舌に塩気とだしの旨味が広がった。胃のあたりがじんわりと温まる。外の廊下を誰かが駆ける足音がして、扉越しに母親らしき声が飛んだ。
「走らないの!」
子どもの「はーい」という返事が続く。官舎らしい朝の騒がしさ。隣の部屋からは、ニュース番組の音と、一緒に笑う家族の低い声が漏れている。
父は新聞から視線を上げ、時計をちらりと見た。壁に掛けられたデジタル時計は、七時三十分少し前を示している。
「今日、帰り遅くなるかもしれん」
「また夜勤?」
「いや、夕方からの当番。そのまま残るかもしれんけどな」
父は新聞を畳みながら答えた。その表情に特別な影はない。ずっと見てきた、公務員の父の、ごく普通の出勤前の顔だった。
「またかよ」
陸斗は、わざとらしく大げさなため息をつきながら言った。
「こっちはテスト前なんだよ。家にいてもらわないと、集中できないんだけど」
「それは嘘だな」
慎一は淡々とした口調で言い、新聞をテーブルの端に置いた。口元が、少しだけ緩む。
「俺が家にいるときの方が、勉強してないだろ。この前なんか、一緒に刑事ドラマ二本見てたじゃないか」
「それは、父さんが勝手にテレビつけるから」
「俺のせいか」
「父親のせいってことにしときたい年頃なんだよ」
自分で言って、自分で少し笑う。父も肩を揺らした。
「テスト、いつからだ」
「来週」
「じゃあ、今週はテレビ禁止だな」
「ちょっと待って、それは話が違う」
「今度のテスト結果見てから機嫌決めるか。平均七十切ってたら、刑事ドラマ一ヶ月禁止な」
「それ、俺の人権に関わると思う」
「じゃあ勉強すればいい」
父のやりとりは、いつもこうだった。柔らかい冗談に、現実的な一言を混ぜる。押しつけがましくはないのに、逃げ道を作りすぎもしない。そのバランスに、長い時間をかけて慣らされてきた。
卵焼きをひとつ頬張りながら、陸斗は斜め向かいの父を眺めた。
少し寝不足そうな目の下に、薄いクマがある。髪にところどころ白いものが混じり始めたが、まだ全体としては若々しい顔だった。制服ではなくジャージ姿なのは、夜勤明けで一度戻ってきたからだろう。さっき玄関前で、同じ階の奥さんに小さく会釈していた気配があった。
父のマグカップには、黒いコーヒー。表面から立ちのぼる香りは苦味が強く、子どもの頃はそれだけで顔をしかめていた。いまは、その匂いを嗅ぐと「父がいる朝だ」と胸のどこかが落ち着いた。
「今日の晩飯どうする」
父が、味噌汁を飲み干しながら尋ねた。
「別に、適当にコンビニでもいいよ」
「適当は禁止だ。腹は正直だからな」
「じゃあ、なんか作っといてよ」
「俺がか」
「夜勤じゃないなら、できるよね。父さんの得意料理って何」
「カレーならいくらでも食える」
「作る方の話してるんだけど」
「作る方もカレーだ」
即答する父に、陸斗は思わず笑った。
「カレー以外のレパートリー増やした方がいいと思う」
「お前が増やせ」
「俺?」
「高校二年だろ。そろそろ自炊くらい覚えてもいい頃だ」
父の言うことは、正論だ。正論なのだが、朝からそれを真正面から受け止める気力はなかった。陸斗はお茶を飲み、少しだけ視線をそらす。
テーブルの端、冷めてきた湯のみの向こうに、写真立てが見えた。数年前の写真。病院のベッドの上で、痩せた母が笑っていて、その両側に父と幼い自分が座っている。
母が死んだのは、小学四年のときだ。長くはなかったが、確かに病院に通い詰めた時間がある。あの日も、やはりこうして朝食を食べて、父に連れられて病院に行った。あの日の味噌汁の味や、病室のカーテンの色までは覚えていない。ただ、父がいつもより口数が少なかったことと、母が少し息苦しそうに笑っていたことだけが、ぽつぽつとした点のように残っている。
あのとき、父は泣かなかった。ただ、いつも通りの声で「宿題やれよ」と言った。葬儀のあとも、四十九日のあとも、生活を淡々と続けていくことに必死だったのだと、今になって分かる。
父は、自分の悲しみをきちんと見せたことがない。見せないまま、「普通の暮らし」を続けることで、二人分の喪失を支えようとしていた。
「どうした」
写真を見つめていた視線に気づいたのか、父が問うた。
「別に」
反射的にそう答えてから、少し間を置く。
「…母さんのこと、ちょっと思い出しただけ」
父は、ほんの一瞬だけ目を伏せた。その仕草は、誰かに見られることを前提としていないものだった。
「そうか」
短く言ってから、マグカップをテーブルに戻す。カップが木の天板に当たる小さな音が響いた。
「…なんか、夢見た気がして」
陸斗は、自分でも意外な言葉を口にしていた。今朝方の夢は、すでに輪郭がぼやけている。ただ、白い病室と、笑う母の顔と、「いってらっしゃい」という声だけが残っていた気がする。
「夢?」
「うん。細かいとこは忘れたけど、母さんが…」
彼は言葉を探し、見つからなくて、結局肩をすくめる。
「なんか、元気そうだった気がする」
父はしばらく黙っていた。テレビからは、どこかの国の選挙のニュースが流れている。経済だの景気の先行きだの、遠い話ばかりだ。
「…元気だよ」
ようやく絞り出された父の声は、普段より少し低かった。
「写真の中じゃいつも元気だ。あいつは、そういう顔しか残さなかったからな」
陸斗は、視線を写真に戻す。白い枕に頭を預けた母の顔は、確かに笑っている。頬は少しこけていても、目元は柔らかい。
「…うん」
そう返して、箸を動かした。朝から重くなりすぎないように、いつもどおりの調子を保つことが、父との暗黙の約束のようにも感じていた。
「そういえばさ」
話題を切り替えるように、陸斗は口を開いた。
「今度の模試で、英語と数学上がったら、なんかご褒美くれるって言ってたよね」
「言ってないな」
即座に否定される。
「言ってた。たぶん言ってた」
「たぶんは当てにならん」
父はわずかに笑いながら、片付けに立ち上がる。空になった味噌汁椀を持ち、シンクに運ぶ音がする。水道の蛇口をひねる音と、流れる水が陶器を叩く音。日常の音たちが、小さな官舎の部屋に満ちる。
「じゃあ、今言ってよ」
陸斗は追い打ちをかけるように言った。
「今度の模試で英語と数学七十超えたら、なんかひとつ買ってくれるって」
「七十どころか、前回の数学お前五十八だったろうが」
「そこを伸び代と呼ぶんだよ」
「伸び代は自分で伸ばせ」
冷たいようで、それ以上でもそれ以下でもない返し方だった。父のそういうところが、嫌ではなかった。むしろ、自分の甘えが見透かされている安心感すらあった。
テレビから、天気予報に変わるジングルが流れた。今日の東京の最高気温は二十二度、最低十五度。通学にはカーディガンがあると良いでしょう、と明るい声が告げる。
「傘、持ってけよ」
キッチンから、父の声がした。
「え、晴れるって」
「午後から一時的に降るって言ってただろ。どうせ部活帰りに降られて、びしょ濡れで帰ってくるんだから、先に対策しろ」
「部活ない日でも言うじゃん、それ」
「予防だ」
からかい半分のやりとりを続けながら、陸斗はご飯を平らげ、箸を揃えて茶碗の横に置いた。椅子から立ち上がり、自分の食器をシンクへ運ぶ。その横で父がスポンジを握り、洗い物を始めている。袖を捲った腕に、細い筋肉がついているのが見えた。
ふと、父の横顔を見上げる。顎のラインに沿って薄く髭が伸びている。剃るタイミングを逃したのだろう。夜勤明けの日は、だいたいこんな感じだ。
「父さん」
「ん」
「…また、帰ってきたら飯作るからって言っていい?」
自分でもよく分からない言葉が口をついた。いつかの夜勤前、同じようなことを言った記憶がある。あのときの父の笑い方や、玄関で交わした「行ってきます」「いってらっしゃい」の響きが、不意に鮮明に蘇る。
父は少し目を丸くしてから、顔を洗い物に戻した。
「作る気があるなら、いいんじゃないか」
「カレー以外だよ」
「条件が多いな」
「当然でしょ」
冗談めかしながらも、心臓の奥の方が少しだけ早く打っているのを、陸斗は自覚していた。何かを確かめたいような、何かを聞き出したいような、しかし、まだその「何か」が自分でもはっきり形になっていないような、不思議な感覚。
洗面所から戻ってきた父が、タオルで手を拭きながら時計を見る。
「そろそろ支度しろ。電車一本逃したら、また走ることになるぞ」
「分かってる」
陸斗は自室に戻り、クローゼットから制服のブレザーを取り出した。白いシャツにネクタイを通し、鏡の前で結び目を整える。ネクタイの長さを何度か直していると、母がよくしてくれた手つきが思い出された。昔は、ぶかぶかの小学校のネクタイを母の指が器用に整えてくれたものだ。いま、その役目は完全に自分に移っている。
鞄に教科書を詰め直し、机の端から筆箱と単語帳を放り込む。最後に、充電器につながれていたスマホを抜き、ポケットに滑り込ませた。
部屋を出ると、ダイニングのテーブルに、黒い弁当箱が置かれていた。ふたには、見覚えのある小さな傷がついている。何度も落として、何度も洗ってきた印だ。
「弁当」
父が、冷蔵庫から牛乳を出してグラスに注ぎながら言った。
「冷蔵庫入ってるから、出る前に取りなさい。今日は卵焼きうまくできた」
「ほんとに?」
「ほんとにだ」
「じゃあ楽しみにする」
グラスの牛乳を一気に飲み干し、陸斗は玄関へ向かった。靴箱の上には、鍵と、父の警察手帳が一時的に置かれている。壁のフックには、ネイビーのジャンパーと黒いコート。
スニーカーを履き、しゃがんだ姿勢のまま靴紐を結んでいると、背後で足音がして、父が玄関に現れた。
ジャージの上に、紺色のジャンパーを羽織っている。そのポケットには、さっきの黒いポーチが収まっていた。
「駅まで一緒に行くか」
「いいよ。父さん、そこから署の方が遠回りじゃん」
「歩くの嫌いじゃない」
「俺が嫌なんだけど」
腰を上げながら言うと、父は肩をすくめた。
「高校生にもなると、父親と並んで歩くのが恥ずかしい年頃か」
「…そういうわけじゃないけど」
「どっちだ」
「…どっちでもいい」
答えになっていない返事に、父は小さく笑った。
「じゃあ、ここで我慢してやる」
「何を」
「俺の父親としての出番を」
その言い方に、陸斗は一瞬言葉に詰まった。冗談のようでいて、どこか本音が混じっている気がしたからだった。
父は靴を履きながら、扉の鍵の方をちらりと見る。
「行ってきます」
当たり前のようにその言葉を口にされた瞬間、胸の中に小さな波紋が広がる。
「…いってらっしゃい」
返す声は、自分でも驚くほど素直に出た。言ったあとで、少し照れくさくなり、視線を靴のつま先に落とす。
ドアが開くと、廊下の冷たい空気と、他の部屋の生活の匂いが入り込んできた。味噌汁の残り香、洗剤の香り、子どもの笑い声。遠くで、出動するパトカーのエンジン音も聞こえる。
父は一歩外に出て、振り返る。
「カギ、ちゃんとかけて出ろよ」
「分かってる」
「変な勧誘来ても開けるな」
「こう見えてももう高校生なんだけど」
「高校生が一番騙される」
そう言って、父は片手をひょいと上げた。大げさでもなく、照れくさそうでもなく、ただ日常の一部としての仕草だった。
ドアが閉まるまでの一瞬、父の背中が見え、その向こうに長い官舎の廊下が続いているのが見えた。窓から差し込む朝の光が、廊下の床に帯のような影を落としている。
ドアが閉じる音は、いつもよりほんの少しだけ遅れて聞こえたような気がした。金属のラッチがはまる乾いた音が、胸の奥で小さく反響する。
陸斗は、その場に立ち尽くし、しばらくドアの方を見つめた。ノブには、父の体温がまだ残っているような気がする。手を伸ばして触れようとして、途中でやめた。
なんとなく、変な胸騒ぎがした。
理由は分からない。母の夢を見たからかもしれない。さっきの会話のせいかもしれない。父の「出番を我慢する」という言葉のせいかもしれない。
言葉にならない違和感が、喉の奥に小さな棘のように引っかかったままだった。
学校に遅れる、と頭のどこかで冷静な声が告げる。彼はその声に従うように、寝室に戻り、鞄を肩にかけた。ダイニングのテーブルから弁当箱を取り、玄関に戻る。
靴紐をもう一度確かめ、鍵を手に取る。ドアを開けると、廊下の空気が頬を撫でた。外の光はさっきより少しだけ強まっている。遠くから、誰かの「行ってきます」という声が聞こえた気がした。
陸斗は、振り返らないまま官舎の廊下を歩き出した。階段を降り、外に出ると、朝の光が一気に目に飛び込んでくる。マンションの前の駐車場には、既に何台かの車が出払っていて、その空いたスペースのアスファルトが冷たく光っていた。
空は、薄い雲に覆われている。天気予報どおりなら、午後には少し雨が降るのだろう。今はまだ、雨の気配はどこにもない。
鞄の中で、弁当箱が小さく揺れて音を立てた。その音が、妙に心に残った。
何も特別なことは起きていない。ただ、いつもの朝だ。いつもと変わらない時間が、いつもと同じように流れている。そう自分に言い聞かせるように、陸斗は駅へ向かって歩き出した。
この時の彼は、玄関で交わした「行ってきます」と「いってらっしゃい」が、もう二度と同じようには戻ってこない言葉になるのだということを、まだ知らなかった。
土曜の昼の光は、平日のそれより少しゆるい。窓から差し込む陽射しが、リビングの床に長方形の明るさをつくり、その上にほこりがふわふわと漂っていた。陸斗は、その光をぼんやりと眺めながら、段ボールの山の前に座り込んでいた。生活安全課の三浦が手配してくれた段ボールが十枚、玄関脇に積まれている。ベージュ色の紙の肌はまだ新しく、折り目すらついていない。ガムテープと黒マジックのペンが、その隣でやる気を出せと言わんばかりに横たわっていた。やる気は、まだ出ない。インターホンが鳴ったのは、昼の少し前だった。「長谷」ドア越しの声は聞き慣れたものだった。モニターを覗く前に、誰だか分かる。玄関の鍵を開けると、高瀬が立っていた。その隣に、少し眠そうな顔の充がいる。高瀬はスーツ姿で、しかしネクタイは少しだけ緩んでいた。充はグレーのパーカーに黒いジャージというラフな格好で、肩にスポーツバッグを提げている。「おう」充が片手を上げる。「本日の力仕事要員、参上」「…よろしくお願いします」陸斗は、少しだけ頭を下げた。高瀬も、軽く笑う。「そんな改まるなよ。こっちも半分個人的な用事だし」三人で玄関を上がると、狭い土間に靴が増えた。父の革靴、自分のスニーカーに、仕事用の黒い革靴と、充の白いスニーカーが加わる。靴箱の上には、粗大ごみの案内チラシが貼られている。「段ボール、届いてるな」高瀬がリビングを覗き込みながら言う。「じゃ、まずは書類関係からやっつけるか」彼が真っ先に向かったのは、寝室だった。慎一の部屋には、クローゼットとは別に、警察関係のものがまとめてある棚がある。そこには、制服や制帽、表彰状の入った筒、書類のファイルがぎっしり詰まっている。「これは署で預かる」高瀬は、制服の入ったスーツカバーを持ち上げた。「遺族控えって形で、式典のときとかに使うこともある。長谷さんの階級章とか、辞令とかも、こっちに」「はい」
平日の午後の光は、学校の教室の蛍光灯よりやわらかいはずなのに、今はどこか白々しく見えた。正門を出るとき、担任が背中越しに何か言っていた気がする。「無理するなよ」とか「いつでも戻っておいで」とか、そういう類いの言葉。聞こえていないわけじゃなかったが、耳の奥のどこかで弾かれていった。校門の外で待っていたのは、生活安全課の三浦だった。葬儀場の和室で何度か顔を合わせた、あのスーツの男だ。ネクタイは地味な青、書類の入った黒い鞄を手に提げている。「早退させてもらえたか」「…はい」短く答えると、三浦は小さく頷き、駐車場の方へ先に歩き出した。二人で乗り込むのは、つやのないグレーの小型車。パトカーではないが、なぜか警察の匂いがした。シートベルトを締めると、カチャリと金具がはまる音がやけに大きく響く。エンジンがかかり、車が静かに動き出した。窓の外を流れていく街は、いつも通りの色をしていた。コンビニの看板、クリーニング店の赤い旗、自転車に乗った中学生。どれも、「自分がいない間に世界が勝手に変わっていた」気配はない。変わってしまったのは、自分の方だけだ。「官舎では…ちゃんと寝られてるか」ハンドルを握ったまま、三浦がぽつりと尋ねる。「…あんまり」正直に言うと、彼は少しだけ眉を寄せた。「そうか」それ以上、無理に続けてくることはなかった。車内には、ラジオも音楽も流れていない。タイヤがアスファルトを踏む音と、信号で止まるたびに聞こえるブレーキのきしむ音だけが、一定のリズムで耳に届く。官舎の敷地に入ると、見慣れた建物が目に入った。白い壁に、同じ形の窓がいくつも並んでいる。廊下の手すりには、誰かの洗濯物が揺れていた。カラフルなタオルと無地のシャツ。自分の家のベランダにも、ついこの間まで同じような光景があった。駐車スペースに車を停めると、三浦はエンジンを切った。「少しの間、失礼するよ」「はい」二人で車を降り、階段を上る。コンクリートの段差が、靴の底に硬く当た
控室の障子が、風もないのに揺れたような気がした。実際には、人の出入りで空気が動いただけだろう。葬儀会館の廊下から、誰かの足音と、小さく抑えられた話し声が近づいてきては遠ざかっていく。そのたびに、木枠がわずかにきしむ。座卓の上では、さっき生活安全課の男が書いたメモ用紙が、まだそこにあった。日付と予定と、「官舎 退去目安 三ヶ月以内」の文字。黒いインクが、やけに鮮やかだ。紙の隅っこが、空調か誰かの動きのせいで、ほんの少しだけめくれ上がる。まるで、「まだ決まっていない」と主張するみたいに、小刻みに震えている。「…まあ、いずれにしても、長谷くんが高校を卒業するまでは、進学も含めてサポートしていく形で」生活安全課の男が、言葉を続けていた。「児童相談所とも連携しながら、最善の方法を…」その「最善」という言葉が、この場にいる誰の顔も具体的には思い浮かべていないように聞こえる。パンフレットの文面の中だけで完結している「最善」。紀子は相変わらず、膝の上でハンカチを握りしめている。叔父は腕を組み、どこか決まり悪そうな顔をしている。上司らしい男は、腕時計をちらりと見た。高瀬は、座卓の端で黙っている。彼の前の紙コップの緑茶は、もう完全に冷めているだろう。「…とりあえず、今日はこのくらいに」生活安全課の男が一息ついた。「詳細は、追ってご連絡差し上げます。担当の者もつけますし…」また名刺が配られる気配がした。紙が擦れる音。誰かが名刺入れを取り出す金属の音。陸斗は、自分の前に差し出された名刺を、ぼんやり見つめた。「警視庁 生活安全課 家庭支援係」。さっきと同じ名前と肩書き。何枚も配られているのだろう。まるで、同じスタンプをいろんな紙に押しているみたいだ。自分の指先が、その名刺の端に触れた。ほんの少しだけ、紙の角が皮膚を押す感覚がある。その程度の現実感に、妙に救われる。「…今日は本当に、皆さんお疲れのところ、ありがとうございました」生活安全課の男が頭を下げ
畳の匂いが、妙に生々しく鼻にまとわりついていた。葬儀会館の二階、一番奥の小さな和室。入り口には「関係者控室」とだけ書かれた札が掛かっている。襖を開けると、四畳半ほどの部屋の真ん中に低い座卓が置かれ、その周りを座布団が取り囲んでいた。テーブルの上には、紙コップと、出されてしばらく経った緑茶の入ったポット。湯気はもうほとんど立っていない。コンビニのおにぎりと、個包装の煎餅、ふやけかけた漬物が、ラップをされた皿の上で所在なげに並んでいる。壁際には、葬儀会社のロゴが入ったティッシュ箱と、ごみ袋がいくつか。天井の蛍光灯は一つだけで、白い光が部屋全体に均一に降り注いでいた。障子の向こうは曇り空で、自然光と蛍光灯の境目が分からない。畳の上に座布団を二つ並べ、その片方に陸斗が座っている。斜め向かいには、父の妹の紀子がいた。黒い喪服のスカートに黒いタイツ。膝の上でハンカチを握りしめている。その隣に、遠縁の叔父と、その妻。反対側には、スーツ姿の男が二人。ひとりは高瀬で、ジャケットを脱ぎ、ワイシャツの腕を少し捲り上げている。もうひとりは見知らぬ男で、名刺を配るときに「生活安全課の○○です」と名乗っていた。全員が座卓を囲んで座り、どこか居心地悪そうに姿勢を正している。遠くで、小さく機械の鳴る音がした。火葬炉のボタンを押す音なのか、エレベーターの到着音なのか分からない。どちらにしても、今この瞬間、父の身体は別の場所で火にくべられている。その事実を頭の隅で理解しながらも、陸斗は視線を目の前のテーブルに落とした。紙コップの中の緑茶は、うっすらと表面に膜のようなものが張りかけている。茶渋が縁に残っているのが見える。口をつける気にはならなかった。「…では、少し、お時間をいただいてもよろしいでしょうか」生活安全課の男が、控えめに咳払いをして口を開いた。四十代半ばくらいだろうか。地味な紺のスーツに、派手ではないネクタイ。机の上には、クリアファイルがいくつか置かれている。「長谷さんの今後の生活について、現時点での選択肢を、簡単にお話しさせていただければと」「はい…」
葬儀会館の裏手に出るドアには、「職員以外立入禁止」の札と、その下に小さく「喫煙所」と書かれた紙が貼ってあった。ドアノブに手をかけた瞬間、ひやりとした金属の感触が指先に伝わる。中と外の温度差が、ほんの少しだけそこに残っているみたいだった。押し開けると、冷たい外気が一気に流れ込んできた。コンクリートの床は、まだうっすらと濡れている。さっきまで小雨が降っていたのだろう。排水溝の方には水たまりが残り、その上に薄く灰色の空が映っていた。喫煙所と書かれた青い看板の下に、銀色の丸い灰皿と、木製のベンチが一つ置かれている。その灰皿から、細く白い煙が立ち上っていた。高瀬がいた。黒いスーツの上着を少しだけはだけ、ネクタイを緩めた状態で、ベンチの端に腰掛けている。片肘を膝に乗せ、反対の手に挟んだ煙草をゆっくりと口元に運んだところだった。充は、ドアを閉める前に一瞬だけ躊躇したが、そのまま外に出る。パタン、とドアが閉まる音が、室内のざわめきとの境界線を作った。「…よ」短く声をかける。高瀬が振り返った。目の下に濃いクマができている。喪服にも似た黒いスーツの肩は、さっきまでの儀礼で少しこわばっていたのか、僅かに持ち上がっていた。「来てたのか」高瀬は、煙を肺から吐き出しながら言った。「ああ」充は、ポケットから自分の煙草を取り出す。喪服ではない。濃いグレーのシャツに黒いジャケット、黒いパンツ。全体的に地味な色合いではあるが、周囲の画一的な喪服や制服に比べると、どこか浮いて見えるだろう。葬儀会場に入ったときにも、それは嫌というほど感じた。黒い海の中で、自分だけが微妙にトーンの違う岩みたいに転がっている感覚。親戚でもなく、警察でもなく、友人でもない。「何者」とも言い切れない立場。高瀬が、木そう言いながらも、充はベンチに腰を下ろした。立っている方が落ち着かない。膝にかかる冷たさが、かろうじて現実とつながる感覚をくれる。ポケットから取り出した箱から一本抜き、ライターを探す。いつもなら指が勝手に動くはずの動作が
告別式の朝、葬儀場のホールは、昨日と同じなのにどこか違って見えた。白い布に囲まれた祭壇、中央の遺影、両脇の花の塔。配置は変わらない。けれど、今日はそれらの輪郭が、妙にはっきりしている。蛍光灯の白い光が、花の一枚一枚、リボンの端、祭壇の段差をくっきりと浮かび上がらせていた。その手前に、きのうよりもきちんと整列した黒が広がっている。黒い喪服、黒い制服。前列には、肩章に金色の飾りのついた警察幹部たちが座り、その後ろに一般の警察官、そのさらに後ろに親戚や近所の人たちが続く。まるで、黒い海が波打たずに静止しているようだった。正面の遺影では、慎一が相変わらず、制服姿でわずかに口元を緩めている。「ここ」案内係の女性に促され、陸斗は一番前の、家族席の端に腰を下ろした。右隣に、父の妹が座る。左隣には、どこか遠縁の叔父がいる。そのさらに隣には、警察の幹部らしき男が立っていた。黒い革張りの椅子の座面は、冷たくも熱くもなかった。座った瞬間、「自分は今、遺族代表としてここに座っている」という感覚が、ようやく現実として降りてくる。…遺族。胸の奥で、その言葉がうまく形にならない。自分が「遺族」というカテゴリーに入れられてしまったことが、まだ他人事のように思える。ホールの後方では、司会者がマイクの調整をしている。ハウリングを防ぐために軽く音を出すたび、「本日は…」といった断片的な声が空気に溶ける。昨日の夜、控室の布団に横になっても、ほとんど眠れなかった。まぶたを閉じると、病院の白い天井と、安置室の冷たい空気と、父の顔が浮かんできて、そこから先に進めない。気づけば薄明かりが障子越しに差し込んでいて、誰かがそっと部屋の襖を開け、「そろそろ準備を」と小声で告げていた。眠れていないわりに、頭は妙に冴えている。眠気よりも、空腹よりも、「何も感じないこと」への焦りの方が勝っている。「それでは、ただいまより…」司会者の声が、マイクを通して響いた。「故 警部補 長谷慎一 殿の告別式を執り行います」その名が、ホールの