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遺言のある部屋―託された息子、救われた青年
遺言のある部屋―託された息子、救われた青年
ผู้แต่ง: 中岡 始

1.いつもの朝、最後の朝

ผู้เขียน: 中岡 始
last update ปรับปรุงล่าสุด: 2025-12-23 08:37:16

目覚ましの電子音が、薄いカーテン越しの青い光を震わせるように鳴った。

ベッドの上で丸くなっていた長谷陸斗は、枕に顔を押しつけたまま手だけ伸ばし、枕元のスマホを探った。何度か空を切って、ようやく端末を掴み、画面も見ずにアラームを止める。

部屋はまだ完全には明るくない。官舎の二階、六畳の洋室。教科書と参考書が積まれた棚、机の上には昨夜開きっぱなしの問題集と、途中で乾いたままの蛍光ペンが一本転がっている。壁際には、安いフレームに入れた家族写真がひとつ。小さい頃の自分と、若い父と、少しだけふっくらした母が並んで笑っている。

布団から上半身を起こすと、ひやりとした空気が肌に張りついた。秋口の朝の冷たさだ。窓際のカーテンの隙間から差し込む淡い光が、空気中の埃を細かく浮き上がらせている。

「……おきろ」

自分に向かって呟くように言ってから、陸斗は布団をはいだ。足裏が畳ではなくフローリングの冷たさを受け止める。スリッパを履き、首と肩を回しながら大きく伸びをする。

廊下の向こうから、僅かに食器の触れ合う音と、テレビのニュースキャスターの声が聞こえてきた。低く平板な、朝の情報番組のトーン。それに混じって、出勤する車の音や、官舎の廊下を走る子どもの足音もかすかに届く。

いつもの朝だ、と陸斗は思う。

洗面所に行き、冷たい水で顔を洗いながら鏡をのぞく。濡れた前髪が額に張りつき、睫毛から水滴が落ちる。少し伸びてきた黒髪と、寝不足でわずかに赤い目。高校二年にもなれば、自分の顔のつくりがそれなりに整っていることくらいは分かっていたが、見慣れたそれに特別な感想は抱かない。

タオルで顔を拭き、洗面所を出ると、ダイニングキッチンから味噌汁の匂いが流れてきた。だしと、わかめと、豆腐。鼻の奥に馴染んだ香りが染み込む。

ダイニングに入ると、四人掛けのテーブルに新聞が広げられ、その向こう側に父の慎一が座っていた。ジャージ姿に、警察手帳の入った小さな黒いポーチが椅子の背にかけられている。片手で湯気の立つマグカップを持ち、もう片方の手で新聞のページをめくっていた。

「おはよう」

父が、新聞から顔を上げずに言う。

「……おはよう」

陸斗も、少し声を掠らせて返す。眠気の残る身体で椅子に座ると、テーブルの上に既に用意されている朝食が目に入った。焼き鮭、卵焼き、サラダ、白いご飯、小さな味噌汁椀。彩りはシンプルだが、どれもまっすぐな線で並んでいる。

「味噌汁、冷める前に食えよ」

父が、マグを一口含んでから言った。

「うん」

箸を取り、味噌汁を一口すすると、舌に塩気とだしの旨味が広がった。胃のあたりがじんわりと温まる。外の廊下を誰かが駆ける足音がして、扉越しに母親らしき声が飛んだ。

「走らないの!」

子どもの「はーい」という返事が続く。官舎らしい朝の騒がしさ。隣の部屋からは、ニュース番組の音と、一緒に笑う家族の低い声が漏れている。

父は新聞から視線を上げ、時計をちらりと見た。壁に掛けられたデジタル時計は、七時三十分少し前を示している。

「今日、帰り遅くなるかもしれん」

「また夜勤?」

「いや、夕方からの当番。そのまま残るかもしれんけどな」

父は新聞を畳みながら答えた。その表情に特別な影はない。ずっと見てきた、公務員の父の、ごく普通の出勤前の顔だった。

「またかよ」

陸斗は、わざとらしく大げさなため息をつきながら言った。

「こっちはテスト前なんだよ。家にいてもらわないと、集中できないんだけど」

「それは嘘だな」

慎一は淡々とした口調で言い、新聞をテーブルの端に置いた。口元が、少しだけ緩む。

「俺が家にいるときの方が、勉強してないだろ。この前なんか、一緒に刑事ドラマ二本見てたじゃないか」

「それは、父さんが勝手にテレビつけるから」

「俺のせいか」

「父親のせいってことにしときたい年頃なんだよ」

自分で言って、自分で少し笑う。父も肩を揺らした。

「テスト、いつからだ」

「来週」

「じゃあ、今週はテレビ禁止だな」

「ちょっと待って、それは話が違う」

「今度のテスト結果見てから機嫌決めるか。平均七十切ってたら、刑事ドラマ一ヶ月禁止な」

「それ、俺の人権に関わると思う」

「じゃあ勉強すればいい」

父のやりとりは、いつもこうだった。柔らかい冗談に、現実的な一言を混ぜる。押しつけがましくはないのに、逃げ道を作りすぎもしない。そのバランスに、長い時間をかけて慣らされてきた。

卵焼きをひとつ頬張りながら、陸斗は斜め向かいの父を眺めた。

少し寝不足そうな目の下に、薄いクマがある。髪にところどころ白いものが混じり始めたが、まだ全体としては若々しい顔だった。制服ではなくジャージ姿なのは、夜勤明けで一度戻ってきたからだろう。さっき玄関前で、同じ階の奥さんに小さく会釈していた気配があった。

父のマグカップには、黒いコーヒー。表面から立ちのぼる香りは苦味が強く、子どもの頃はそれだけで顔をしかめていた。いまは、その匂いを嗅ぐと「父がいる朝だ」と胸のどこかが落ち着いた。

「今日の晩飯どうする」

父が、味噌汁を飲み干しながら尋ねた。

「別に、適当にコンビニでもいいよ」

「適当は禁止だ。腹は正直だからな」

「じゃあ、なんか作っといてよ」

「俺がか」

「夜勤じゃないなら、できるよね。父さんの得意料理って何」

「カレーならいくらでも食える」

「作る方の話してるんだけど」

「作る方もカレーだ」

即答する父に、陸斗は思わず笑った。

「カレー以外のレパートリー増やした方がいいと思う」

「お前が増やせ」

「俺?」

「高校二年だろ。そろそろ自炊くらい覚えてもいい頃だ」

父の言うことは、正論だ。正論なのだが、朝からそれを真正面から受け止める気力はなかった。陸斗はお茶を飲み、少しだけ視線をそらす。

テーブルの端、冷めてきた湯のみの向こうに、写真立てが見えた。数年前の写真。病院のベッドの上で、痩せた母が笑っていて、その両側に父と幼い自分が座っている。

母が死んだのは、小学四年のときだ。長くはなかったが、確かに病院に通い詰めた時間がある。あの日も、やはりこうして朝食を食べて、父に連れられて病院に行った。あの日の味噌汁の味や、病室のカーテンの色までは覚えていない。ただ、父がいつもより口数が少なかったことと、母が少し息苦しそうに笑っていたことだけが、ぽつぽつとした点のように残っている。

あのとき、父は泣かなかった。ただ、いつも通りの声で「宿題やれよ」と言った。葬儀のあとも、四十九日のあとも、生活を淡々と続けていくことに必死だったのだと、今になって分かる。

父は、自分の悲しみをきちんと見せたことがない。見せないまま、「普通の暮らし」を続けることで、二人分の喪失を支えようとしていた。

「どうした」

写真を見つめていた視線に気づいたのか、父が問うた。

「別に」

反射的にそう答えてから、少し間を置く。

「…母さんのこと、ちょっと思い出しただけ」

父は、ほんの一瞬だけ目を伏せた。その仕草は、誰かに見られることを前提としていないものだった。

「そうか」

短く言ってから、マグカップをテーブルに戻す。カップが木の天板に当たる小さな音が響いた。

「…なんか、夢見た気がして」

陸斗は、自分でも意外な言葉を口にしていた。今朝方の夢は、すでに輪郭がぼやけている。ただ、白い病室と、笑う母の顔と、「いってらっしゃい」という声だけが残っていた気がする。

「夢?」

「うん。細かいとこは忘れたけど、母さんが…」

彼は言葉を探し、見つからなくて、結局肩をすくめる。

「なんか、元気そうだった気がする」

父はしばらく黙っていた。テレビからは、どこかの国の選挙のニュースが流れている。経済だの景気の先行きだの、遠い話ばかりだ。

「…元気だよ」

ようやく絞り出された父の声は、普段より少し低かった。

「写真の中じゃいつも元気だ。あいつは、そういう顔しか残さなかったからな」

陸斗は、視線を写真に戻す。白い枕に頭を預けた母の顔は、確かに笑っている。頬は少しこけていても、目元は柔らかい。

「…うん」

そう返して、箸を動かした。朝から重くなりすぎないように、いつもどおりの調子を保つことが、父との暗黙の約束のようにも感じていた。

「そういえばさ」

話題を切り替えるように、陸斗は口を開いた。

「今度の模試で、英語と数学上がったら、なんかご褒美くれるって言ってたよね」

「言ってないな」

即座に否定される。

「言ってた。たぶん言ってた」

「たぶんは当てにならん」

父はわずかに笑いながら、片付けに立ち上がる。空になった味噌汁椀を持ち、シンクに運ぶ音がする。水道の蛇口をひねる音と、流れる水が陶器を叩く音。日常の音たちが、小さな官舎の部屋に満ちる。

「じゃあ、今言ってよ」

陸斗は追い打ちをかけるように言った。

「今度の模試で英語と数学七十超えたら、なんかひとつ買ってくれるって」

「七十どころか、前回の数学お前五十八だったろうが」

「そこを伸び代と呼ぶんだよ」

「伸び代は自分で伸ばせ」

冷たいようで、それ以上でもそれ以下でもない返し方だった。父のそういうところが、嫌ではなかった。むしろ、自分の甘えが見透かされている安心感すらあった。

テレビから、天気予報に変わるジングルが流れた。今日の東京の最高気温は二十二度、最低十五度。通学にはカーディガンがあると良いでしょう、と明るい声が告げる。

「傘、持ってけよ」

キッチンから、父の声がした。

「え、晴れるって」

「午後から一時的に降るって言ってただろ。どうせ部活帰りに降られて、びしょ濡れで帰ってくるんだから、先に対策しろ」

「部活ない日でも言うじゃん、それ」

「予防だ」

からかい半分のやりとりを続けながら、陸斗はご飯を平らげ、箸を揃えて茶碗の横に置いた。椅子から立ち上がり、自分の食器をシンクへ運ぶ。その横で父がスポンジを握り、洗い物を始めている。袖を捲った腕に、細い筋肉がついているのが見えた。

ふと、父の横顔を見上げる。顎のラインに沿って薄く髭が伸びている。剃るタイミングを逃したのだろう。夜勤明けの日は、だいたいこんな感じだ。

「父さん」

「ん」

「…また、帰ってきたら飯作るからって言っていい?」

自分でもよく分からない言葉が口をついた。いつかの夜勤前、同じようなことを言った記憶がある。あのときの父の笑い方や、玄関で交わした「行ってきます」「いってらっしゃい」の響きが、不意に鮮明に蘇る。

父は少し目を丸くしてから、顔を洗い物に戻した。

「作る気があるなら、いいんじゃないか」

「カレー以外だよ」

「条件が多いな」

「当然でしょ」

冗談めかしながらも、心臓の奥の方が少しだけ早く打っているのを、陸斗は自覚していた。何かを確かめたいような、何かを聞き出したいような、しかし、まだその「何か」が自分でもはっきり形になっていないような、不思議な感覚。

洗面所から戻ってきた父が、タオルで手を拭きながら時計を見る。

「そろそろ支度しろ。電車一本逃したら、また走ることになるぞ」

「分かってる」

陸斗は自室に戻り、クローゼットから制服のブレザーを取り出した。白いシャツにネクタイを通し、鏡の前で結び目を整える。ネクタイの長さを何度か直していると、母がよくしてくれた手つきが思い出された。昔は、ぶかぶかの小学校のネクタイを母の指が器用に整えてくれたものだ。いま、その役目は完全に自分に移っている。

鞄に教科書を詰め直し、机の端から筆箱と単語帳を放り込む。最後に、充電器につながれていたスマホを抜き、ポケットに滑り込ませた。

部屋を出ると、ダイニングのテーブルに、黒い弁当箱が置かれていた。ふたには、見覚えのある小さな傷がついている。何度も落として、何度も洗ってきた印だ。

「弁当」

父が、冷蔵庫から牛乳を出してグラスに注ぎながら言った。

「冷蔵庫入ってるから、出る前に取りなさい。今日は卵焼きうまくできた」

「ほんとに?」

「ほんとにだ」

「じゃあ楽しみにする」

グラスの牛乳を一気に飲み干し、陸斗は玄関へ向かった。靴箱の上には、鍵と、父の警察手帳が一時的に置かれている。壁のフックには、ネイビーのジャンパーと黒いコート。

スニーカーを履き、しゃがんだ姿勢のまま靴紐を結んでいると、背後で足音がして、父が玄関に現れた。

ジャージの上に、紺色のジャンパーを羽織っている。そのポケットには、さっきの黒いポーチが収まっていた。

「駅まで一緒に行くか」

「いいよ。父さん、そこから署の方が遠回りじゃん」

「歩くの嫌いじゃない」

「俺が嫌なんだけど」

腰を上げながら言うと、父は肩をすくめた。

「高校生にもなると、父親と並んで歩くのが恥ずかしい年頃か」

「…そういうわけじゃないけど」

「どっちだ」

「…どっちでもいい」

答えになっていない返事に、父は小さく笑った。

「じゃあ、ここで我慢してやる」

「何を」

「俺の父親としての出番を」

その言い方に、陸斗は一瞬言葉に詰まった。冗談のようでいて、どこか本音が混じっている気がしたからだった。

父は靴を履きながら、扉の鍵の方をちらりと見る。

「行ってきます」

当たり前のようにその言葉を口にされた瞬間、胸の中に小さな波紋が広がる。

「…いってらっしゃい」

返す声は、自分でも驚くほど素直に出た。言ったあとで、少し照れくさくなり、視線を靴のつま先に落とす。

ドアが開くと、廊下の冷たい空気と、他の部屋の生活の匂いが入り込んできた。味噌汁の残り香、洗剤の香り、子どもの笑い声。遠くで、出動するパトカーのエンジン音も聞こえる。

父は一歩外に出て、振り返る。

「カギ、ちゃんとかけて出ろよ」

「分かってる」

「変な勧誘来ても開けるな」

「こう見えてももう高校生なんだけど」

「高校生が一番騙される」

そう言って、父は片手をひょいと上げた。大げさでもなく、照れくさそうでもなく、ただ日常の一部としての仕草だった。

ドアが閉まるまでの一瞬、父の背中が見え、その向こうに長い官舎の廊下が続いているのが見えた。窓から差し込む朝の光が、廊下の床に帯のような影を落としている。

ドアが閉じる音は、いつもよりほんの少しだけ遅れて聞こえたような気がした。金属のラッチがはまる乾いた音が、胸の奥で小さく反響する。

陸斗は、その場に立ち尽くし、しばらくドアの方を見つめた。ノブには、父の体温がまだ残っているような気がする。手を伸ばして触れようとして、途中でやめた。

なんとなく、変な胸騒ぎがした。

理由は分からない。母の夢を見たからかもしれない。さっきの会話のせいかもしれない。父の「出番を我慢する」という言葉のせいかもしれない。

言葉にならない違和感が、喉の奥に小さな棘のように引っかかったままだった。

学校に遅れる、と頭のどこかで冷静な声が告げる。彼はその声に従うように、寝室に戻り、鞄を肩にかけた。ダイニングのテーブルから弁当箱を取り、玄関に戻る。

靴紐をもう一度確かめ、鍵を手に取る。ドアを開けると、廊下の空気が頬を撫でた。外の光はさっきより少しだけ強まっている。遠くから、誰かの「行ってきます」という声が聞こえた気がした。

陸斗は、振り返らないまま官舎の廊下を歩き出した。階段を降り、外に出ると、朝の光が一気に目に飛び込んでくる。マンションの前の駐車場には、既に何台かの車が出払っていて、その空いたスペースのアスファルトが冷たく光っていた。

空は、薄い雲に覆われている。天気予報どおりなら、午後には少し雨が降るのだろう。今はまだ、雨の気配はどこにもない。

鞄の中で、弁当箱が小さく揺れて音を立てた。その音が、妙に心に残った。

何も特別なことは起きていない。ただ、いつもの朝だ。いつもと変わらない時間が、いつもと同じように流れている。そう自分に言い聞かせるように、陸斗は駅へ向かって歩き出した。

この時の彼は、玄関で交わした「行ってきます」と「いってらっしゃい」が、もう二度と同じようには戻ってこない言葉になるのだということを、まだ知らなかった。

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