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2.叱られて、救われて

Author: 中岡 始
last update Last Updated: 2025-12-24 09:01:50

コンビニの明かりだけがやけに白く浮いて見える夜だった。

新宿の外れ、駅から少し歩いた先の交差点脇にある二十四時間営業の店。その前のスペースに、原付が二台、斜めに寄せて止めてある。マフラーにべたべたとステッカーを貼られたそれは、どこか安っぽい威嚇をまとっていた。

店先の灰皿の前で、桜井充はコンビニ袋を片手でぶらぶらさせながら、もう片方の手でタバコを弄んでいた。細長いフィルターを唇に咥えるが、火はつけない。ただ咥えていると、口の中が落ち着く気がした。

「おい充、はやくしろよ」

自販機の横に腰を掛けていた連れの男が、缶チューハイを振りながら声をかけてくる。金髪に近い茶髪を盛り、ジャージの上から安っぽいダウンを着た、街に腐るほどいるタイプの夜の若者だ。

「待てって。あいつらの分も買ってきてんだろ」

充は袋の口を覗き込み、スナックとカップ麺と、安酒の缶を確認した。冷気が頬を撫でる。吐く息が白い。

コンビニの出入り口から、別の連れがのそっと現れた。ピアスをいくつもつけた細身の男だ。

「店員、めっちゃ睨んでたな。もう出禁になりそう」

「そりゃこんだけたむろってればな」

金髪が笑い、空になった缶を足元のゴミ箱に放り込む。缶が中で軽く音を立てた。

充は肩をすくめた。

「どうせまた新しいとこ見つけりゃいいだろ。コンビニなんていくらでもあるし」

「それもそうか。で、どこ行く?このままカラオケ?」

「金ねえって」

「さっきのとこで払ってなかったくせに」

「払ってねえから金ねえんだろ」

馬鹿みたいなやりとりをしながらも、体の中には何かを持て余した熱が渦巻いていた。どこにぶつけていいか分からない苛立ち。家に帰りたくないから夜に出る。夜に出ても、別に行き先があるわけじゃない。

電光掲示板から漏れる赤や青の光が、路面を斑に染める。街全体がぼんやりとした熱気とだるさに包まれているようだった。

「じゃ、とりあえず走るか」

金髪が言い、原付にまたがる。エンジンをかけると、排気音が静まりかけた住宅街に無遠慮に鳴り響いた。

「は?こんな時間に?」

「いいじゃん。ちょっとだけだよ、ちょっとだけ。風当たってくると目ぇ覚めるし」

ピアスの男も、もう一台に跨がる。充は一瞬迷い、それから肩の力を抜いた。

どうせ帰っても、薄暗い部屋と、無言の父親の背中しかない。家の中の空気は、外の冷気よりよほど重かった。テーブルの上の飲みかけの酒瓶と、灰皿に吸い殻が山になっている光景が容易に想像できる。

「…どこまで」

「適当。甲州街道ぐるっと回って、また戻ってくりゃいいだろ」

「警察見つけたら?」

「逃げる」

笑いながら言った金髪に、充は自分で苦笑した。

「馬鹿だろ」

「お前もな」

からかい合いながら、彼は身体を前に傾けた。バイクを運転するのは金髪のやつで、充は後ろに乗る。ヘルメットなんて、そもそも誰もかぶっていない。

冷えたシートの感触が太ももに伝わる。足で地面を蹴り、原付がふらりと動き出した。アクセルをひねる音。排気ガスの匂いが鼻を刺す。

夜風が頬に当たると、それまでまとわりついていた倦怠感が少しだけ剥がれ落ちる気がした。街灯が一定のリズムで通り過ぎ、信号の色が赤から青に変わる。

こんなことに何の意味があるのか、自分でも分かっている。何の意味もない。ただ、何もしていないと、自分の中の空洞と向き合わされる。それが嫌で、何かしていたいだけだ。

甲州街道に出たところで、金髪が調子に乗ったのかアクセルを一気に開いた。原付が小さく唸り、速度が上がる。信号が黄色になっていくのが見えたが、彼はそのまま突っ切った。

「おい」

思わず充が声を上げたときだった。

背後から、鋭く短いサイレンの音がした。

その音を耳が捉えた瞬間、体のどこかが冷たく固まる。振り返ると、少し後方で赤色灯がくるくると回っていた。白と黒の車体。見慣れた、そして見慣れたくない色。

「やべ」

運転していた金髪が小さく呟き、さらにアクセルをひねる。

「馬鹿、やめろ」

充は前の彼の腰にしがみついた。体が後ろに振られそうになるのを必死でこらえる。風の音が強くなり、目が乾きそうになる。

サイレンがもう一度鳴った。追いかけてきている。車線の端に寄せろ、というスピーカー越しの声がかすかに聞こえた。

「とりあえず曲がる」

金髪が言い、ハンドルを切る。脇道に逸れようとして、前方の車に気づくのが一瞬遅れた。

「おい、ブレー…」

叫ぶより早く、タイヤが悲鳴のような音を立てた。視界がぶれる。身体が前方に投げ出されそうになる感覚。金属の擦れる声。ヘッドライトの光が、思いがけず近くで反射した。

幸いにも、正面衝突にはならなかった。ただバイクが横滑りし、二人まとめて路面に投げ出された。

冷たいアスファルトが頬と手のひらを打つ。息が詰まった。膝に鈍い痛みが走る。

「いって…」

かすれた声が漏れる。耳の奥で、まだサイレンの音が鳴っている。

視界の隅に、パトカーのタイヤが見えた。車が急ブレーキをかけて止まる音。ドアが開く。靴音が近づいてくる。

「お前ら、そこ動くな」

短く鋭い声が頭上から降ってきた。

その声には聞き覚えがあった。数ヶ月前、別の場所で同じように響いた声。

面倒くせえ、と充は心の中で舌打ちした。

立たないわけにはいかなかった。アスファルトに手をついて体を起こすと、膝に擦り傷ができているのが見えた。ジーンズの生地が破れ、血がじわりと滲んでいる。

金髪の方は肩を押さえてうめいている。大した怪我ではなさそうだが、動揺しているのが分かった。

パトカーから降りてきた警察官は二人。一人は若い巡査で、もう一人は見慣れた顔だった。

長谷慎一。

制服の上に防寒用のジャンパーを着て、こちらを見下ろしている。街灯の光が横から当たり、目元に影を落としていた。その視線は冷静で、しかし冷たいわけではなかった。

「原付二人乗りノーヘル、信号無視、おまけに逃走。盛りだくさんだな」

慎一は淡々と言った。

「…別に、逃げてねえし」

口の端が勝手に動く。充は自分の声の震えを隠すように、わざとふてぶてしい調子を作った。

「止まりきれなかっただけだろ」

「信号無視した時点でアウトだ」

慎一は短く返し、隣の若い警官に目で合図を送る。

「こっちの子の怪我、見て。救急呼ぶほどじゃなさそうだけど」

「はい」

若い警官が金髪に歩み寄り、彼の肩や頭を確認し始める。その間に、慎一は充の方に近づいた。

「立てるか」

「立てるけど」

「じゃ、立て」

言われるまま、充は足に力を入れて立ち上がる。膝がじくじくと痛む。身体のあちこちが抗議しているが、骨が折れている感じはなかった。

慎一は充の服装と顔を一瞥し、ため息を吐いた。

「お前、またか」

「…」

反論しようとして、言葉が出てこなかった。数ヶ月前、万引きした友達と一緒に補導されたとき、向かいの席に座っていたのもこの男だった。その前、深夜に公園でたむろっていたときに声をかけてきたのも。

顔だけじゃなく、声も覚えてしまっているくらいには、何度も会っている。

「名前」

「…桜井充」

「年齢」

「十七」

「高校は」

「今は行ってねえ」

少し前までは行っていた。中途半端に二年の途中で行かなくなり、そのままズルズルとフェードアウトした。学校側からの電話は何度か家にかかってきたが、父がまともに取り合ったことはない。

慎一の眉が、わずかに動いた。

「三ヶ月前は“休んでるだけ”って言ってたな」

「…そんな前のこと、いちいち覚えてんの」

「あいにく、仕事柄な」

淡々と返される。言葉自体には刺はないが、内容は容赦がなかった。

「まあいい。とりあえず、署まで来てもらう」

「は?」

「事情聴取と、保護者への連絡と、今後の話。ここで全部済ますには寒すぎる」

確かに、夜風が膝の傷を冷やして痛い。指先もかじかんできている。息を吐くたび白い煙が広がる。路地の向こうから、笑い声と、酔っ払いの歌う音程の外れた歌が聞こえてきた。

「別に、ここで怒鳴るだけでよくね。寒いし、眠いし」

充が肩をすくめると、慎一は少しだけ口元を緩めた。

「怒鳴って済むなら、俺も楽なんだがな」

「楽したいなら、こんなとこで仕事してんなよ」

「それは言えてる」

認めるように頷き、しかし手を伸ばして充の腕を軽く掴んだ。力任せではなく、逃げないように添えるような握り方だ。

「とにかく、乗れ」

パトカーの後部ドアが開く。白いシートと、車内の薄い消毒液の匂い。乗り慣れたくないはずの空間に、充はため息を飲み込みながら身体を滑り込ませた。

車がゆっくりと発進すると、窓の外のネオンが流れ始める。さっきまで自分が走っていた道が、逆方向へと遠ざかっていくのが見えた。

助手席では若い警官が無線でやり取りをしている。その声を聞き流しながら、充は自分の膝の傷を見つめた。ヒリヒリする痛みは、妙に現実感があった。

父親に連絡されるのか、と考え、うっすらと胃が重くなる。連絡したところで、起きて電話に出るかどうかすら怪しい。もし出たとしても、「勝手にしろ」と切られるのがオチだ。

そうなったらどうするんだろう。このまま施設か。どこかに放り込まれて、適当に終わるのか。

そんな未来を、どこかで「それでいい」と思っている自分もいた。

警察署に着いたとき、時計は午前一時を少し回っていた。蛍光灯の光が昼のように明るいロビー。受付カウンターの奥で、当直の警官が書類を整理している。窓口のガラスには、自分の顔がぼんやりと映っていた。

慎一は署内の奥へと歩きながら、充を振り返る。

「こっちだ」

通されたのは、取調室ほど殺風景ではないが、似たような小部屋だった。机と椅子が向かい合っていて、壁には防音用のパネルが貼られている。窓は小さく、外は暗い。

「座れ」

促され、充は椅子に腰を下ろした。硬い背もたれが背中に当たる。膝が痛むたび、ジーンズの破れ目から冷気が入り込むようだった。

慎一は向かいの椅子に座り、机の上にファイルを置いた。薄い青い表紙のそれは、何枚もの紙をまとめている。

「さて」

ファイルを開きながら、慎一が言った。

「桜井充。十七歳。中学卒業後、定時制高校に入学。現在は…」

彼は手元の紙に目を走らせる。

「“長期欠席ののち、退学手続き保留”」

「いちいち読むなよ」

「ここに書いてあるからな。確認しておかないと」

慎一は書類を指で軽く叩いた。

「二ヶ月前、コンビニ前でたむろってたところを補導。その少し前には、万引きした友人と一緒にいたところを。お前自身は盗ってなかったって話だったな」

「盗ってねえよ」

「そう言ってた。他にも、夜中の公園での騒ぎに顔出してたとか」

「覚えてねぇ」

「俺は覚えてる」

静かな声だった。怒りも呆れも、表面にはほとんど見えない。ただ、事実を並べているだけのように聞こえる。しかし、その「覚えてる」の一言が、充の胸のどこかを小さく刺した。

適当に扱われることには慣れている。名前を間違えられたり、顔を覚えられなかったり、誰かの「問題児」の一人としてまとめて処理される。その方がむしろ楽だと思っていた。

だからこそ、こうして一つ一つを記憶されていることに、居心地の悪さを感じる。

「で、今日」

慎一は顔を上げた。

「原付二人乗りノーヘル、信号無視、パトカーから逃走。自分の行動がどう見えるか、分かってやってるか」

「…別に。そんな大事じゃねえし」

充は椅子の背にもたれ、わざと足を組んだ。誰かに説教される姿勢じゃないことは分かっている。それでも、そうでもしないと自分が小さく縮んでしまいそうだった。

「大事だ」

慎一は即答した。

「お前の人生には、ちゃんと大事なことだ」

「大げさだろ」

「大げさじゃない」

机越しにまっすぐ向けられる視線は、逃げ場を与えてくれない。怒鳴られる方がまだマシだ、と充は思った。静かな声の方が、よほど追い込んでくる。

「桜井」

「…なんだよ」

「お前、何がしたいんだ」

単純な問いだった。だからこそ、充は一瞬言葉に詰まった。

「…別に」

それでも、いつもの言葉が口から出る。自分でもそれ以外を持っていないことが、情けなかった。

「“別に”ってのは、何もしないってことじゃない」

慎一は腕を組み、椅子の背にもたれ直した。

「何もしないまま流されてたら、動いてるのは環境と時間だけだ。その結果、お前の経歴には“前科”っていう本物の線が引かれる。そうなってから“別に”って言っても遅い」

「前科って…」

その言葉に、充は眉をひそめた。今までにも、曖昧な形で怖がらせるようなことを言ってきた大人はいた。「そんなことしてると犯罪者になるぞ」とか、「将来仕事がなくなるぞ」とか。

でも、それはどれも遠い未来の話だった。今の自分とは結びつかない、テレビの中の誰かの話。

慎一の言い方は、そうじゃなかった。具体的で、目の前に線を引くようなリアルさがあった。

「今日、たまたま車とぶつからなかっただけだ」

慎一は淡々と続ける。

「車の方が止まるのが一秒遅かったら、お前とそっちのもう一人は、今ここに座ってない。路上で血を流してるか、病院で寝かされてるか、そのまま…」

そこで言葉を切り、わざと先を言わなかった。その空白が、かえって具体的なイメージを呼び込む。

事故で死ぬ。ただそれだけのことが、急に自分の身近に感じられた。さっきの、滑ったタイヤの感触と、アスファルトに叩きつけられた瞬間の衝撃が蘇る。膝の痛みが、少し強くなった気がした。

「…死んだら、楽じゃん」

充は、口の端で笑った。自分でも苦しいのが分かる軽口だった。

「どうせ、誰も困んねえし」

「俺は困る」

即座に返ってきた言葉に、思わず彼は目を上げた。

慎一の表情は変わっていない。ただ、その目の奥に、ほんのわずかな揺らぎが見えた気がした。

「俺が今までお前に費やした時間、全部無駄になるだろ」

「それ、仕事だろ」

「仕事だ」

認めた上で、慎一は続けた。

「だがな、仕事だからって全部適当にやってるわけじゃない」

机の上のファイルを軽く叩く。

「他の連中には言わないが…お前のことは、正直ちょっと気になってる」

「気になってるって、気持ち悪ぃな」

「そういう意味じゃない」

少しだけ眉を寄せる仕草が、妙に人間らしく見えた。制服を着ていても、この男はロボットじゃないのだと、当たり前のことを今さら思い知らされる。

「お前の履歴には、いろいろ書いてある」

慎一はファイルをめくりながら言う。

「母親は…ああ、再婚先に行って音信不通か。父親は酒グセ悪くて仕事も安定してない。小学校、中学校は…成績、そんなに悪くないな。むしろ平均よりちょっと上だ」

「見んなよ」

充は舌打ちした。過去の通知表のコピーが、紙の間から覗いているのが見えた。あの頃は、まだ真面目に学校に行っていた。母がいた頃は、少しでも褒められたくて、宿題もテストもちゃんとやっていた。

母がいなくなってから、すべてが少しずつずれていった。父は酒の量を増やし、家の中には空瓶が転がるようになった。バイトと酒と、女と。父の興味はそちらに流れていき、充に向く視線は減った。

別に、暴力を振るわれたことがないわけではない。酔って怒鳴られ、殴られた夜もある。でも、それよりもきつかったのは、素面のときの父の無関心だった。

「頭は悪くない。身体も動く。やろうと思えば、何でもできる」

慎一の声が、現在に引き戻す。

「そのくせ、自分から全部放り出して、夜の街で原付乗り回して、“死んでもいい”みたいな顔してる」

「…そんな顔してねえし」

「してる」

はっきりと言われ、充は視線を逸らした。

顔を見られたくなかった。自分でも、自分の目の奥がどんな色をしているのか、怖くなるときがある。無関心と諦めと、どうしようもない怒りの混ざった色だ。

「お前、“どうせ俺なんか”って思ってるだろ」

慎一の声が、静かに刺さる。

「そうやって先に自分で自分を見限っておくと、楽だからな。誰かに期待されることもないし、裏切ることもないし」

「…」

図星だった。だからこそ、反論できない。

「楽だよ。確かに楽だ」

慎一は、目線を充と合わせたまま続けた。

「でも、その代わりに全部諦めるわけだ。“死んでもいい”って言うのは、そういうことだ」

「諦めてるもんなんて、ねえし」

充は、足先を床に打ち付けるようにして言った。

「元からねえんだから。期待とか、将来とか。どーせ何やっても変わんねえし。どうせ、俺みてえなの、どこにでもいるし」

「どこにでもいない」

一拍置いてから、慎一は言った。

「お前は、お前しかいない」

「…説教うまいな」

皮肉っぽく言うと、慎一はわずかに肩を揺らした。

「こんな時間に、こんな場所で、こんな話をしてるのは、俺だって本意じゃない」

「じゃあやめれば」

「やめない」

あくまで平坦な声だった。でも、その平坦さの奥に、固い何かがあるのが分かる。

「俺は警察官だ。仕事でお前らを捕まえる。それは変わらない」

そこまで言ってから、慎一は一瞬言葉を探すように口を閉ざし、それから続けた。

「ただな。必要があれば…仕事の範囲内で、できることはやる」

「仕事の範囲内でね」

「そうだ」

彼は頷いた。

「家、帰りたくないだろ」

予想外の言葉に、充は思わず慎一を見た。

「なんで」

「前に聞いた」

慎一はファイルをちらりと見せた。そこには、前回の補導時のメモが挟まれていた。

“父親とは折り合い悪く、夜遅く帰ると喧嘩になるため、帰宅を避けている傾向あり”

自分が何気なく口にしたことが、そのまま文字になって残っている。

「父親、今も酒飲んでるんだろ」

「…かもな」

「帰っても怒鳴られるか、無視されるか。どっちにしても、寝る場所と空気が悪いだけだろ」

図星すぎて、笑うしかなかった。

「じゃあ、どうしろっての」

「今夜は、ここで寝てけ」

慎一はあっさりと言った。

「は?」

「仮眠室、空いてるから。ベッドじゃないけど、ソファと毛布くらいはある」

「…警察署で寝ろって?」

「嫌か」

「ダサくね?」

「路上で寝るよりマシだ」

その一言に、返す言葉が見つからなかった。

確かに、このままここを出て、またさっきみたいに街をふらつくこともできる。コンビニの前で夜明けまで時間を潰し、疲れた身体を引きずって朝方家に戻る。その頃には、父は潰れて寝ているか、もしくはまだ飲んでいるか。

どちらにしても、そこに「帰る場所」はない。ただ「戻る場所」があるだけだ。

「学校には、俺から連絡入れとく」

慎一は続けた。

「一応籍は残ってるんだろ。明日、担任に話す。お前がどうしたいかは、お前が決めればいい。そのための時間くらい、今夜くらいくれてやる」

「…何が目的」

充は、じっと慎一を見据えた。

「そこまでして、何がしたいわけ。俺に恩売りたいの」

「恩なんか売っても、利息つかないだろ」

「じゃあ何」

慎一は少しだけ視線を外し、机の上のペンを指先で転がした。それから、ぽつりと言った。

「お前みたいなのが、ある日突然“ニュースの中の加害者”になっていくの、見たくないだけだ」

「…」

「今ならまだ、“補導歴”で済んでる」

慎一は、ファイルの縁を軽く叩いた。

「この先も、できればここにしかお前の名前が載らないでいてほしい。新聞の見出しになんか、載ってほしくない」

「…それ、仕事の範囲?」

「ギリギリ」

少しだけ息を吐く。

「ギリギリ仕事の範囲。俺にはその線しか引けない」

充は椅子の背に頭をもたれさせ、天井を見上げた。白い蛍光灯が、目にじんと刺さる。

何もかもが鬱陶しい。この部屋も、この男の言葉も、自分自身も。でも、その鬱陶しさの中に、妙な温度があった。

自分のためにここまでしゃべる大人を、あまり見たことがない。教師は仕事だからと建前を並べ、父は酒を飲んで「お前のせいだ」と責めるか、「勝手にしろ」と投げ出すだけだった。

この男は、「仕事だから」と言いながらも、どこかそれだけじゃないものを滲ませている。

「…勝手にしろよ」

充は、諦め半分に目を閉じた。

「どうせ、他に行くとこもねえし」

「そう言うと思った」

慎一は立ち上がり、ドアの方へ向かった。

「仮眠室、用意してくる。膝の傷は医務室で消毒してもらえ」

「大げさ」

「放っとくと跡になるぞ。お前、美形なんだから、足に傷残るともったいないだろ」

「誰が美形だよ」

「自覚ないのがまた面倒だ」

部屋を出ていく背中を見送りながら、充は鼻で笑った。けれど胸の奥のどこかで、その言葉が小さな火種のように燻っているのを感じていた。

その夜、充は警察署の一角にある小さな仮眠室で、毛布にくるまって眠った。薄いソファの上は決して寝心地がいいとは言えない。それでも、外で冷えたアスファルトに体を預けるよりはずっとマシだった。

廊下の向こうから、夜勤の警官たちの靴音がかすかに聞こえてくる。誰かが書類をめくる音、電話のベルが一度鳴ってすぐに止む音。それらが、遠い波のように耳に届く。

眠りに落ちていく直前、ふと天井を見つめながら、彼は思った。

どうせ俺なんか、と思うのは楽だ。でも、それを否定してくる人間が一人いるということは、その「どうせ」の中身を考え直させられる。

面倒くさい男だな、と口の中で呟きながら、いつの間にか眠りに落ちた。

目が覚めたときには、薄いカーテン越しに朝の光が差し込んでいた。時計を見ると、午前七時前。仮眠室の扉がノックされる音がした。

「起きてるか」

慎一の声だ。

「…まあ」

寝起きの声で返事をすると、扉が開いた。制服に着替えた慎一が立っている。昨夜とは少し雰囲気が違う。夜の顔から、朝の顔になっていた。

「膝はどうだ」

「死にはしねえ」

「それは見れば分かる」

彼は口の端をわずかに上げ、手に持っていた何かを差し出した。

「ほら」

差し出されたのは、小さな缶コーヒーだった。コンビニで売られているような、ブラックの缶。

「いらね」

反射的に言う。コーヒーの苦味はあまり好きじゃない。子どもの頃に少し飲んで顔をしかめた記憶が蘇る。

「そう言うな。徹夜明けには効くぞ」

「徹夜してねえし」

「気持ちの問題だ」

押しつけるようでもなく、ただそこにあるものとして差し出される。充はため息をつき、観念して缶を受け取った。掌に当たる金属の冷たさが、意外に心地よい。

慎一は仮眠室の壁にもたれ、腕を組んだ。

「さっき、学校に連絡した」

「は?」

「担任と少し話した。お前のこと、意外と心配してたぞ」

「…あいつ、俺がサボっても“自主性を尊重したい”とか言って、結局何もしてこなかったくせに」

「それでもだ」

慎一は淡々と続ける。

「明日、学校に顔出せるかって聞かれた。どう答えるかは、お前次第だが」

「…知らねえよ」

缶のプルタブを指で撫でながら、充は目を逸らした。

「今すぐ決めなくていい」

慎一は壁から身体を離し、ドアの方へ向かう。

「ただ、選べるうちに選んどけ。選ばないで流されると、俺たちが選ぶことになる」

「脅し?」

「事実」

そう言って、慎一は振り返らずに歩き出した。

署の玄関を出ると、朝の空気は夜とは違う冷たさを持っていた。まだ完全に明るくはないが、東の空が薄く白んでいる。通勤のサラリーマンがちらほらと歩いているのが見えた。

ロードサイドの木々から、かすかに鳥の鳴き声が聞こえる。ビルの隙間から吹き抜ける風が、頬を撫でた。

慎一は玄関前の階段で立ち止まり、振り返る。

「家までは、自分で帰れるな」

「迷子じゃねえし」

「途中でまた原付に乗るなよ」

「持ってねえよ、もう」

昨夜のバイクは、たぶん没収だ。金髪のやつがどうなったかは知らない。知ろうとも思わなかった。

「次はないからな」

慎一は、まっすぐに充の目を見る。

「“補導”枠で済ませられるのは、今回までだと思え」

「…」

「ここに自分から戻ってくるのは構わない。困ったときは来い。だが、手錠かけられて戻ってくるな」

言葉の意味が、重く落ちてきた。

充は缶を握る手に力を込めた。指先に缶の縁が食い込む感触がする。

「…分かんねえし」

口ではそう言う。分かりたくない、という意地も混じっている。

慎一は少しだけ目を細め、それから短く息を吐いた。

「いつか分かれ」

それだけ言って、彼は背を向けた。制服の背中が、朝の薄い光に縁取られる。足音が階段を降りていく。

充はしばらく、その背中を見送っていた。缶コーヒーの表面に、朝の冷気でうっすらと水滴がついている。親指でそれをなぞると、指先が冷たくなる。

缶のプルタブを引いた。小さな音とともに、苦い香りが立ち上る。鼻孔をくすぐるその匂いに、昔の記憶が少しだけ霞んだ。

恐る恐る一口飲む。舌の上に広がる苦味は、思っていたよりもきつくなかった。むしろ、その苦さが、眠気や身体のだるさを少しだけ押しのけてくれる。

「…まず」

そう呟きながらも、もう一口飲む。胸の奥に、小さな熱が広がるような気がした。

この缶コーヒー一本で何かが劇的に変わるわけじゃない。今日家に帰れば、父は相変わらずだろう。部屋も、街も、自分の状況も、すぐに良くなるわけじゃない。

それでも。

あの男だけは、俺を「どこにでもいる問題児」の一人として扱っていない。

ただそれだけの事実が、驚くほど重かった。

缶を握りしめた手をポケットに突っ込み、充はゆっくりと歩き出した。夜と朝の境目みたいな、薄暗い空の下を。胸の奥に残った苦味と熱を、言葉にできないまま抱えながら。

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    畳の匂いが、妙に生々しく鼻にまとわりついていた。葬儀会館の二階、一番奥の小さな和室。入り口には「関係者控室」とだけ書かれた札が掛かっている。襖を開けると、四畳半ほどの部屋の真ん中に低い座卓が置かれ、その周りを座布団が取り囲んでいた。テーブルの上には、紙コップと、出されてしばらく経った緑茶の入ったポット。湯気はもうほとんど立っていない。コンビニのおにぎりと、個包装の煎餅、ふやけかけた漬物が、ラップをされた皿の上で所在なげに並んでいる。壁際には、葬儀会社のロゴが入ったティッシュ箱と、ごみ袋がいくつか。天井の蛍光灯は一つだけで、白い光が部屋全体に均一に降り注いでいた。障子の向こうは曇り空で、自然光と蛍光灯の境目が分からない。畳の上に座布団を二つ並べ、その片方に陸斗が座っている。斜め向かいには、父の妹の紀子がいた。黒い喪服のスカートに黒いタイツ。膝の上でハンカチを握りしめている。その隣に、遠縁の叔父と、その妻。反対側には、スーツ姿の男が二人。ひとりは高瀬で、ジャケットを脱ぎ、ワイシャツの腕を少し捲り上げている。もうひとりは見知らぬ男で、名刺を配るときに「生活安全課の○○です」と名乗っていた。全員が座卓を囲んで座り、どこか居心地悪そうに姿勢を正している。遠くで、小さく機械の鳴る音がした。火葬炉のボタンを押す音なのか、エレベーターの到着音なのか分からない。どちらにしても、今この瞬間、父の身体は別の場所で火にくべられている。その事実を頭の隅で理解しながらも、陸斗は視線を目の前のテーブルに落とした。紙コップの中の緑茶は、うっすらと表面に膜のようなものが張りかけている。茶渋が縁に残っているのが見える。口をつける気にはならなかった。「…では、少し、お時間をいただいてもよろしいでしょうか」生活安全課の男が、控えめに咳払いをして口を開いた。四十代半ばくらいだろうか。地味な紺のスーツに、派手ではないネクタイ。机の上には、クリアファイルがいくつか置かれている。「長谷さんの今後の生活について、現時点での選択肢を、簡単にお話しさせていただければと」「はい…」

  • 遺言のある部屋―託された息子、救われた青年   8.煙草の煙と罪悪感

    葬儀会館の裏手に出るドアには、「職員以外立入禁止」の札と、その下に小さく「喫煙所」と書かれた紙が貼ってあった。ドアノブに手をかけた瞬間、ひやりとした金属の感触が指先に伝わる。中と外の温度差が、ほんの少しだけそこに残っているみたいだった。押し開けると、冷たい外気が一気に流れ込んできた。コンクリートの床は、まだうっすらと濡れている。さっきまで小雨が降っていたのだろう。排水溝の方には水たまりが残り、その上に薄く灰色の空が映っていた。喫煙所と書かれた青い看板の下に、銀色の丸い灰皿と、木製のベンチが一つ置かれている。その灰皿から、細く白い煙が立ち上っていた。高瀬がいた。黒いスーツの上着を少しだけはだけ、ネクタイを緩めた状態で、ベンチの端に腰掛けている。片肘を膝に乗せ、反対の手に挟んだ煙草をゆっくりと口元に運んだところだった。充は、ドアを閉める前に一瞬だけ躊躇したが、そのまま外に出る。パタン、とドアが閉まる音が、室内のざわめきとの境界線を作った。「…よ」短く声をかける。高瀬が振り返った。目の下に濃いクマができている。喪服にも似た黒いスーツの肩は、さっきまでの儀礼で少しこわばっていたのか、僅かに持ち上がっていた。「来てたのか」高瀬は、煙を肺から吐き出しながら言った。「ああ」充は、ポケットから自分の煙草を取り出す。喪服ではない。濃いグレーのシャツに黒いジャケット、黒いパンツ。全体的に地味な色合いではあるが、周囲の画一的な喪服や制服に比べると、どこか浮いて見えるだろう。葬儀会場に入ったときにも、それは嫌というほど感じた。黒い海の中で、自分だけが微妙にトーンの違う岩みたいに転がっている感覚。親戚でもなく、警察でもなく、友人でもない。「何者」とも言い切れない立場。高瀬が、木そう言いながらも、充はベンチに腰を下ろした。立っている方が落ち着かない。膝にかかる冷たさが、かろうじて現実とつながる感覚をくれる。ポケットから取り出した箱から一本抜き、ライターを探す。いつもなら指が勝手に動くはずの動作が

  • 遺言のある部屋―託された息子、救われた青年   7.殉職という言葉の重さ

    告別式の朝、葬儀場のホールは、昨日と同じなのにどこか違って見えた。白い布に囲まれた祭壇、中央の遺影、両脇の花の塔。配置は変わらない。けれど、今日はそれらの輪郭が、妙にはっきりしている。蛍光灯の白い光が、花の一枚一枚、リボンの端、祭壇の段差をくっきりと浮かび上がらせていた。その手前に、きのうよりもきちんと整列した黒が広がっている。黒い喪服、黒い制服。前列には、肩章に金色の飾りのついた警察幹部たちが座り、その後ろに一般の警察官、そのさらに後ろに親戚や近所の人たちが続く。まるで、黒い海が波打たずに静止しているようだった。正面の遺影では、慎一が相変わらず、制服姿でわずかに口元を緩めている。「ここ」案内係の女性に促され、陸斗は一番前の、家族席の端に腰を下ろした。右隣に、父の妹が座る。左隣には、どこか遠縁の叔父がいる。そのさらに隣には、警察の幹部らしき男が立っていた。黒い革張りの椅子の座面は、冷たくも熱くもなかった。座った瞬間、「自分は今、遺族代表としてここに座っている」という感覚が、ようやく現実として降りてくる。…遺族。胸の奥で、その言葉がうまく形にならない。自分が「遺族」というカテゴリーに入れられてしまったことが、まだ他人事のように思える。ホールの後方では、司会者がマイクの調整をしている。ハウリングを防ぐために軽く音を出すたび、「本日は…」といった断片的な声が空気に溶ける。昨日の夜、控室の布団に横になっても、ほとんど眠れなかった。まぶたを閉じると、病院の白い天井と、安置室の冷たい空気と、父の顔が浮かんできて、そこから先に進めない。気づけば薄明かりが障子越しに差し込んでいて、誰かがそっと部屋の襖を開け、「そろそろ準備を」と小声で告げていた。眠れていないわりに、頭は妙に冴えている。眠気よりも、空腹よりも、「何も感じないこと」への焦りの方が勝っている。「それでは、ただいまより…」司会者の声が、マイクを通して響いた。「故 警部補 長谷慎一 殿の告別式を執り行います」その名が、ホールの

  • 遺言のある部屋―託された息子、救われた青年   6.黒い海と白い遺影

    黒い海の真ん中に、白い四角が浮かんでいるように見えた。葬儀場のホールに足を踏み入れた瞬間、長谷陸斗は、真っ先に正面の祭壇に目を奪われた。白い布で囲まれた段々の祭壇。その中央、一番高いところに、制服姿の父の写真が掲げられている。制帽をかぶり、きちんとネクタイを締め、胸には見慣れない勲章のようなもの。カメラ目線で、ほんの少し口元を緩めている。仕事用の証明写真の一枚なのだろう。ここ数年、家で笑ったときの顔とは、どこか違う気がする。遺影の周りを、菊と百合とカスミソウの白い花が埋め尽くしていた。左右には盛られた花の塔。足元には、黒い喪服と警察の制服が、波のように広がっている。黒い背中、黒い肩章、黒い礼服。ひとつひとつの輪郭がよく見えないほど、同じ色が重なっていた。鼻の奥に、線香の煙と花の匂いが入り込んできた。甘くて、少しむせ返るような匂い。病院の消毒液の匂いよりは柔らかいのに、今はどちらも同じくらい現実感がない。「長谷くん、こっち」横から袖をつかまれ、陸斗は我に返った。父の同僚らしい若い警官が、小声で言う。「受付、座ってもらうから。弔問に来た人に挨拶だけしてくれればいいからな」「…はい」返事をするとき、自分の声が少し風邪を引いたときみたいに枯れているのに気づいた。受付のテーブルは、ホールの入口横に設けられていた。白いテーブルクロスの上に、記帳台と香典を入れる袋、筆ペンが並んでいる。その横に椅子が二つ置かれていて、すでに一人、中年の女性が座っていた。遠い親戚だと、さっき紹介された人だ。「あんたが陸斗くんね」彼女は陸斗の顔を見るなり、目じりにしわを寄せて頷いた。「大変だったねえ。今日は座ってるだけでいいから。『ご愁傷様です』って言われたら、『ありがとうございます』って返せばいいからね」「…はい」言われた通りに、陸斗は椅子に腰を下ろした。背もたれの硬さが背中に伝わる。膝の上で両手を握りしめると、指先が冷えているのが分かった。まもなく、最初の弔問客がやってきた。黒いス

  • 遺言のある部屋―託された息子、救われた青年   5.音の消えた病院

    テレビの音量は、普段より少しだけ小さくしてあった。長谷陸斗は、ローテーブルに教科書とノートを広げ、その向こう側で流れているニュース番組をぼんやりと目だけで追っていた。音はBGM。耳に入っているようで入っていない。「本日の首都圏のニュースです」アナウンサーの声が、画面とズレない口の動きで淡々と続いている。どこかの市長の会見、政治家の不祥事、株価の話。どれも自分の生活にはたいして関係のないことだ。蛍光灯の白い光が、六畳間の天井からまっすぐ落ちてきて、教科書のページを白く照らしている。官舎のリビング兼ダイニング。壁際には古い冷蔵庫と、二口コンロの小さなキッチン。テーブルの脇には、朝食の時に使ったマグカップが伏せられて乾かされていた。ノートの上には、さっきからほとんど進んでいない数学の問題が鎮座している。二次関数。グラフ。頂点。そんな単語を目で追いながら、頭の中は別の場所にあった。時計を見ると、夜の九時を少し回っていた。父の長谷慎一は、夕方からの当番だと言っていた。帰りがいつになるのかは、はっきりしていない。早ければ日付が変わる前。遅ければ、明け方近くに制服のまま帰ってきて、そのままソファで少し眠ってから出勤、なんてときもある。今日はどっちだろうか、と陸斗は考える。明日、弁当どうするかな、とも思う。父が帰ってくる時間によっては、自分で適当に詰めた方がいいかもしれない。冷蔵庫の中身を思い出そうとするが、昼間にしっかり確認したわけでもないので、曖昧だ。「とりあえず、カレーは当分いいな」ひとりごとのように呟き、シャーペンを回す。朝、父とそんな会話をしたことを思い出す。カレーならいくらでも食える、と言い張る顔。新聞越しの横顔。玄関での「行ってきます」と「いってらっしゃい」。その光景を思い出すと、少し胸のあたりがじくりと熱くなる。嫌な予感、というほどはっきりしたものではない。ただ、何かが引っかかる。テレビの内容は、いつの間にか事件のニュースに変わっていた。どこかの県で起きた通り魔事件。モザイクのかかった現場写真が映る。「やめろって」小さくリモ

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