تسجيل الدخولコンビニの明かりだけがやけに白く浮いて見える夜だった。
新宿の外れ、駅から少し歩いた先の交差点脇にある二十四時間営業の店。その前のスペースに、原付が二台、斜めに寄せて止めてある。マフラーにべたべたとステッカーを貼られたそれは、どこか安っぽい威嚇をまとっていた。
店先の灰皿の前で、桜井充はコンビニ袋を片手でぶらぶらさせながら、もう片方の手でタバコを弄んでいた。細長いフィルターを唇に咥えるが、火はつけない。ただ咥えていると、口の中が落ち着く気がした。
「おい充、はやくしろよ」
自販機の横に腰を掛けていた連れの男が、缶チューハイを振りながら声をかけてくる。金髪に近い茶髪を盛り、ジャージの上から安っぽいダウンを着た、街に腐るほどいるタイプの夜の若者だ。
「待てって。あいつらの分も買ってきてんだろ」
充は袋の口を覗き込み、スナックとカップ麺と、安酒の缶を確認した。冷気が頬を撫でる。吐く息が白い。
コンビニの出入り口から、別の連れがのそっと現れた。ピアスをいくつもつけた細身の男だ。
「店員、めっちゃ睨んでたな。もう出禁になりそう」
「そりゃこんだけたむろってればな」
金髪が笑い、空になった缶を足元のゴミ箱に放り込む。缶が中で軽く音を立てた。
充は肩をすくめた。
「どうせまた新しいとこ見つけりゃいいだろ。コンビニなんていくらでもあるし」
「それもそうか。で、どこ行く?このままカラオケ?」
「金ねえって」
「さっきのとこで払ってなかったくせに」
「払ってねえから金ねえんだろ」
馬鹿みたいなやりとりをしながらも、体の中には何かを持て余した熱が渦巻いていた。どこにぶつけていいか分からない苛立ち。家に帰りたくないから夜に出る。夜に出ても、別に行き先があるわけじゃない。
電光掲示板から漏れる赤や青の光が、路面を斑に染める。街全体がぼんやりとした熱気とだるさに包まれているようだった。
「じゃ、とりあえず走るか」
金髪が言い、原付にまたがる。エンジンをかけると、排気音が静まりかけた住宅街に無遠慮に鳴り響いた。
「は?こんな時間に?」
「いいじゃん。ちょっとだけだよ、ちょっとだけ。風当たってくると目ぇ覚めるし」
ピアスの男も、もう一台に跨がる。充は一瞬迷い、それから肩の力を抜いた。
どうせ帰っても、薄暗い部屋と、無言の父親の背中しかない。家の中の空気は、外の冷気よりよほど重かった。テーブルの上の飲みかけの酒瓶と、灰皿に吸い殻が山になっている光景が容易に想像できる。
「…どこまで」
「適当。甲州街道ぐるっと回って、また戻ってくりゃいいだろ」
「警察見つけたら?」
「逃げる」
笑いながら言った金髪に、充は自分で苦笑した。
「馬鹿だろ」
「お前もな」
からかい合いながら、彼は身体を前に傾けた。バイクを運転するのは金髪のやつで、充は後ろに乗る。ヘルメットなんて、そもそも誰もかぶっていない。
冷えたシートの感触が太ももに伝わる。足で地面を蹴り、原付がふらりと動き出した。アクセルをひねる音。排気ガスの匂いが鼻を刺す。
夜風が頬に当たると、それまでまとわりついていた倦怠感が少しだけ剥がれ落ちる気がした。街灯が一定のリズムで通り過ぎ、信号の色が赤から青に変わる。
こんなことに何の意味があるのか、自分でも分かっている。何の意味もない。ただ、何もしていないと、自分の中の空洞と向き合わされる。それが嫌で、何かしていたいだけだ。
甲州街道に出たところで、金髪が調子に乗ったのかアクセルを一気に開いた。原付が小さく唸り、速度が上がる。信号が黄色になっていくのが見えたが、彼はそのまま突っ切った。
「おい」
思わず充が声を上げたときだった。
背後から、鋭く短いサイレンの音がした。
その音を耳が捉えた瞬間、体のどこかが冷たく固まる。振り返ると、少し後方で赤色灯がくるくると回っていた。白と黒の車体。見慣れた、そして見慣れたくない色。
「やべ」
運転していた金髪が小さく呟き、さらにアクセルをひねる。
「馬鹿、やめろ」
充は前の彼の腰にしがみついた。体が後ろに振られそうになるのを必死でこらえる。風の音が強くなり、目が乾きそうになる。
サイレンがもう一度鳴った。追いかけてきている。車線の端に寄せろ、というスピーカー越しの声がかすかに聞こえた。
「とりあえず曲がる」
金髪が言い、ハンドルを切る。脇道に逸れようとして、前方の車に気づくのが一瞬遅れた。
「おい、ブレー…」
叫ぶより早く、タイヤが悲鳴のような音を立てた。視界がぶれる。身体が前方に投げ出されそうになる感覚。金属の擦れる声。ヘッドライトの光が、思いがけず近くで反射した。
幸いにも、正面衝突にはならなかった。ただバイクが横滑りし、二人まとめて路面に投げ出された。
冷たいアスファルトが頬と手のひらを打つ。息が詰まった。膝に鈍い痛みが走る。
「いって…」
かすれた声が漏れる。耳の奥で、まだサイレンの音が鳴っている。
視界の隅に、パトカーのタイヤが見えた。車が急ブレーキをかけて止まる音。ドアが開く。靴音が近づいてくる。
「お前ら、そこ動くな」
短く鋭い声が頭上から降ってきた。
その声には聞き覚えがあった。数ヶ月前、別の場所で同じように響いた声。
面倒くせえ、と充は心の中で舌打ちした。
立たないわけにはいかなかった。アスファルトに手をついて体を起こすと、膝に擦り傷ができているのが見えた。ジーンズの生地が破れ、血がじわりと滲んでいる。
金髪の方は肩を押さえてうめいている。大した怪我ではなさそうだが、動揺しているのが分かった。
パトカーから降りてきた警察官は二人。一人は若い巡査で、もう一人は見慣れた顔だった。
長谷慎一。
制服の上に防寒用のジャンパーを着て、こちらを見下ろしている。街灯の光が横から当たり、目元に影を落としていた。その視線は冷静で、しかし冷たいわけではなかった。
「原付二人乗りノーヘル、信号無視、おまけに逃走。盛りだくさんだな」
慎一は淡々と言った。
「…別に、逃げてねえし」
口の端が勝手に動く。充は自分の声の震えを隠すように、わざとふてぶてしい調子を作った。
「止まりきれなかっただけだろ」
「信号無視した時点でアウトだ」
慎一は短く返し、隣の若い警官に目で合図を送る。
「こっちの子の怪我、見て。救急呼ぶほどじゃなさそうだけど」
「はい」
若い警官が金髪に歩み寄り、彼の肩や頭を確認し始める。その間に、慎一は充の方に近づいた。
「立てるか」
「立てるけど」
「じゃ、立て」
言われるまま、充は足に力を入れて立ち上がる。膝がじくじくと痛む。身体のあちこちが抗議しているが、骨が折れている感じはなかった。
慎一は充の服装と顔を一瞥し、ため息を吐いた。
「お前、またか」
「…」
反論しようとして、言葉が出てこなかった。数ヶ月前、万引きした友達と一緒に補導されたとき、向かいの席に座っていたのもこの男だった。その前、深夜に公園でたむろっていたときに声をかけてきたのも。
顔だけじゃなく、声も覚えてしまっているくらいには、何度も会っている。
「名前」
「…桜井充」
「年齢」
「十七」
「高校は」
「今は行ってねえ」
少し前までは行っていた。中途半端に二年の途中で行かなくなり、そのままズルズルとフェードアウトした。学校側からの電話は何度か家にかかってきたが、父がまともに取り合ったことはない。
慎一の眉が、わずかに動いた。
「三ヶ月前は“休んでるだけ”って言ってたな」
「…そんな前のこと、いちいち覚えてんの」
「あいにく、仕事柄な」
淡々と返される。言葉自体には刺はないが、内容は容赦がなかった。
「まあいい。とりあえず、署まで来てもらう」
「は?」
「事情聴取と、保護者への連絡と、今後の話。ここで全部済ますには寒すぎる」
確かに、夜風が膝の傷を冷やして痛い。指先もかじかんできている。息を吐くたび白い煙が広がる。路地の向こうから、笑い声と、酔っ払いの歌う音程の外れた歌が聞こえてきた。
「別に、ここで怒鳴るだけでよくね。寒いし、眠いし」
充が肩をすくめると、慎一は少しだけ口元を緩めた。
「怒鳴って済むなら、俺も楽なんだがな」
「楽したいなら、こんなとこで仕事してんなよ」
「それは言えてる」
認めるように頷き、しかし手を伸ばして充の腕を軽く掴んだ。力任せではなく、逃げないように添えるような握り方だ。
「とにかく、乗れ」
パトカーの後部ドアが開く。白いシートと、車内の薄い消毒液の匂い。乗り慣れたくないはずの空間に、充はため息を飲み込みながら身体を滑り込ませた。
車がゆっくりと発進すると、窓の外のネオンが流れ始める。さっきまで自分が走っていた道が、逆方向へと遠ざかっていくのが見えた。
助手席では若い警官が無線でやり取りをしている。その声を聞き流しながら、充は自分の膝の傷を見つめた。ヒリヒリする痛みは、妙に現実感があった。
父親に連絡されるのか、と考え、うっすらと胃が重くなる。連絡したところで、起きて電話に出るかどうかすら怪しい。もし出たとしても、「勝手にしろ」と切られるのがオチだ。
そうなったらどうするんだろう。このまま施設か。どこかに放り込まれて、適当に終わるのか。
そんな未来を、どこかで「それでいい」と思っている自分もいた。
警察署に着いたとき、時計は午前一時を少し回っていた。蛍光灯の光が昼のように明るいロビー。受付カウンターの奥で、当直の警官が書類を整理している。窓口のガラスには、自分の顔がぼんやりと映っていた。
慎一は署内の奥へと歩きながら、充を振り返る。
「こっちだ」
通されたのは、取調室ほど殺風景ではないが、似たような小部屋だった。机と椅子が向かい合っていて、壁には防音用のパネルが貼られている。窓は小さく、外は暗い。
「座れ」
促され、充は椅子に腰を下ろした。硬い背もたれが背中に当たる。膝が痛むたび、ジーンズの破れ目から冷気が入り込むようだった。
慎一は向かいの椅子に座り、机の上にファイルを置いた。薄い青い表紙のそれは、何枚もの紙をまとめている。
「さて」
ファイルを開きながら、慎一が言った。
「桜井充。十七歳。中学卒業後、定時制高校に入学。現在は…」
彼は手元の紙に目を走らせる。
「“長期欠席ののち、退学手続き保留”」
「いちいち読むなよ」
「ここに書いてあるからな。確認しておかないと」
慎一は書類を指で軽く叩いた。
「二ヶ月前、コンビニ前でたむろってたところを補導。その少し前には、万引きした友人と一緒にいたところを。お前自身は盗ってなかったって話だったな」
「盗ってねえよ」
「そう言ってた。他にも、夜中の公園での騒ぎに顔出してたとか」
「覚えてねぇ」
「俺は覚えてる」
静かな声だった。怒りも呆れも、表面にはほとんど見えない。ただ、事実を並べているだけのように聞こえる。しかし、その「覚えてる」の一言が、充の胸のどこかを小さく刺した。
適当に扱われることには慣れている。名前を間違えられたり、顔を覚えられなかったり、誰かの「問題児」の一人としてまとめて処理される。その方がむしろ楽だと思っていた。
だからこそ、こうして一つ一つを記憶されていることに、居心地の悪さを感じる。
「で、今日」
慎一は顔を上げた。
「原付二人乗りノーヘル、信号無視、パトカーから逃走。自分の行動がどう見えるか、分かってやってるか」
「…別に。そんな大事じゃねえし」
充は椅子の背にもたれ、わざと足を組んだ。誰かに説教される姿勢じゃないことは分かっている。それでも、そうでもしないと自分が小さく縮んでしまいそうだった。
「大事だ」
慎一は即答した。
「お前の人生には、ちゃんと大事なことだ」
「大げさだろ」
「大げさじゃない」
机越しにまっすぐ向けられる視線は、逃げ場を与えてくれない。怒鳴られる方がまだマシだ、と充は思った。静かな声の方が、よほど追い込んでくる。
「桜井」
「…なんだよ」
「お前、何がしたいんだ」
単純な問いだった。だからこそ、充は一瞬言葉に詰まった。
「…別に」
それでも、いつもの言葉が口から出る。自分でもそれ以外を持っていないことが、情けなかった。
「“別に”ってのは、何もしないってことじゃない」
慎一は腕を組み、椅子の背にもたれ直した。
「何もしないまま流されてたら、動いてるのは環境と時間だけだ。その結果、お前の経歴には“前科”っていう本物の線が引かれる。そうなってから“別に”って言っても遅い」
「前科って…」
その言葉に、充は眉をひそめた。今までにも、曖昧な形で怖がらせるようなことを言ってきた大人はいた。「そんなことしてると犯罪者になるぞ」とか、「将来仕事がなくなるぞ」とか。
でも、それはどれも遠い未来の話だった。今の自分とは結びつかない、テレビの中の誰かの話。
慎一の言い方は、そうじゃなかった。具体的で、目の前に線を引くようなリアルさがあった。
「今日、たまたま車とぶつからなかっただけだ」
慎一は淡々と続ける。
「車の方が止まるのが一秒遅かったら、お前とそっちのもう一人は、今ここに座ってない。路上で血を流してるか、病院で寝かされてるか、そのまま…」
そこで言葉を切り、わざと先を言わなかった。その空白が、かえって具体的なイメージを呼び込む。
事故で死ぬ。ただそれだけのことが、急に自分の身近に感じられた。さっきの、滑ったタイヤの感触と、アスファルトに叩きつけられた瞬間の衝撃が蘇る。膝の痛みが、少し強くなった気がした。
「…死んだら、楽じゃん」
充は、口の端で笑った。自分でも苦しいのが分かる軽口だった。
「どうせ、誰も困んねえし」
「俺は困る」
即座に返ってきた言葉に、思わず彼は目を上げた。
慎一の表情は変わっていない。ただ、その目の奥に、ほんのわずかな揺らぎが見えた気がした。
「俺が今までお前に費やした時間、全部無駄になるだろ」
「それ、仕事だろ」
「仕事だ」
認めた上で、慎一は続けた。
「だがな、仕事だからって全部適当にやってるわけじゃない」
机の上のファイルを軽く叩く。
「他の連中には言わないが…お前のことは、正直ちょっと気になってる」
「気になってるって、気持ち悪ぃな」
「そういう意味じゃない」
少しだけ眉を寄せる仕草が、妙に人間らしく見えた。制服を着ていても、この男はロボットじゃないのだと、当たり前のことを今さら思い知らされる。
「お前の履歴には、いろいろ書いてある」
慎一はファイルをめくりながら言う。
「母親は…ああ、再婚先に行って音信不通か。父親は酒グセ悪くて仕事も安定してない。小学校、中学校は…成績、そんなに悪くないな。むしろ平均よりちょっと上だ」
「見んなよ」
充は舌打ちした。過去の通知表のコピーが、紙の間から覗いているのが見えた。あの頃は、まだ真面目に学校に行っていた。母がいた頃は、少しでも褒められたくて、宿題もテストもちゃんとやっていた。
母がいなくなってから、すべてが少しずつずれていった。父は酒の量を増やし、家の中には空瓶が転がるようになった。バイトと酒と、女と。父の興味はそちらに流れていき、充に向く視線は減った。
別に、暴力を振るわれたことがないわけではない。酔って怒鳴られ、殴られた夜もある。でも、それよりもきつかったのは、素面のときの父の無関心だった。
「頭は悪くない。身体も動く。やろうと思えば、何でもできる」
慎一の声が、現在に引き戻す。
「そのくせ、自分から全部放り出して、夜の街で原付乗り回して、“死んでもいい”みたいな顔してる」
「…そんな顔してねえし」
「してる」
はっきりと言われ、充は視線を逸らした。
顔を見られたくなかった。自分でも、自分の目の奥がどんな色をしているのか、怖くなるときがある。無関心と諦めと、どうしようもない怒りの混ざった色だ。
「お前、“どうせ俺なんか”って思ってるだろ」
慎一の声が、静かに刺さる。
「そうやって先に自分で自分を見限っておくと、楽だからな。誰かに期待されることもないし、裏切ることもないし」
「…」
図星だった。だからこそ、反論できない。
「楽だよ。確かに楽だ」
慎一は、目線を充と合わせたまま続けた。
「でも、その代わりに全部諦めるわけだ。“死んでもいい”って言うのは、そういうことだ」
「諦めてるもんなんて、ねえし」
充は、足先を床に打ち付けるようにして言った。
「元からねえんだから。期待とか、将来とか。どーせ何やっても変わんねえし。どうせ、俺みてえなの、どこにでもいるし」
「どこにでもいない」
一拍置いてから、慎一は言った。
「お前は、お前しかいない」
「…説教うまいな」
皮肉っぽく言うと、慎一はわずかに肩を揺らした。
「こんな時間に、こんな場所で、こんな話をしてるのは、俺だって本意じゃない」
「じゃあやめれば」
「やめない」
あくまで平坦な声だった。でも、その平坦さの奥に、固い何かがあるのが分かる。
「俺は警察官だ。仕事でお前らを捕まえる。それは変わらない」
そこまで言ってから、慎一は一瞬言葉を探すように口を閉ざし、それから続けた。
「ただな。必要があれば…仕事の範囲内で、できることはやる」
「仕事の範囲内でね」
「そうだ」
彼は頷いた。
「家、帰りたくないだろ」
予想外の言葉に、充は思わず慎一を見た。
「なんで」
「前に聞いた」
慎一はファイルをちらりと見せた。そこには、前回の補導時のメモが挟まれていた。
“父親とは折り合い悪く、夜遅く帰ると喧嘩になるため、帰宅を避けている傾向あり”
自分が何気なく口にしたことが、そのまま文字になって残っている。
「父親、今も酒飲んでるんだろ」
「…かもな」
「帰っても怒鳴られるか、無視されるか。どっちにしても、寝る場所と空気が悪いだけだろ」
図星すぎて、笑うしかなかった。
「じゃあ、どうしろっての」
「今夜は、ここで寝てけ」
慎一はあっさりと言った。
「は?」
「仮眠室、空いてるから。ベッドじゃないけど、ソファと毛布くらいはある」
「…警察署で寝ろって?」
「嫌か」
「ダサくね?」
「路上で寝るよりマシだ」
その一言に、返す言葉が見つからなかった。
確かに、このままここを出て、またさっきみたいに街をふらつくこともできる。コンビニの前で夜明けまで時間を潰し、疲れた身体を引きずって朝方家に戻る。その頃には、父は潰れて寝ているか、もしくはまだ飲んでいるか。
どちらにしても、そこに「帰る場所」はない。ただ「戻る場所」があるだけだ。
「学校には、俺から連絡入れとく」
慎一は続けた。
「一応籍は残ってるんだろ。明日、担任に話す。お前がどうしたいかは、お前が決めればいい。そのための時間くらい、今夜くらいくれてやる」
「…何が目的」
充は、じっと慎一を見据えた。
「そこまでして、何がしたいわけ。俺に恩売りたいの」
「恩なんか売っても、利息つかないだろ」
「じゃあ何」
慎一は少しだけ視線を外し、机の上のペンを指先で転がした。それから、ぽつりと言った。
「お前みたいなのが、ある日突然“ニュースの中の加害者”になっていくの、見たくないだけだ」
「…」
「今ならまだ、“補導歴”で済んでる」
慎一は、ファイルの縁を軽く叩いた。
「この先も、できればここにしかお前の名前が載らないでいてほしい。新聞の見出しになんか、載ってほしくない」
「…それ、仕事の範囲?」
「ギリギリ」
少しだけ息を吐く。
「ギリギリ仕事の範囲。俺にはその線しか引けない」
充は椅子の背に頭をもたれさせ、天井を見上げた。白い蛍光灯が、目にじんと刺さる。
何もかもが鬱陶しい。この部屋も、この男の言葉も、自分自身も。でも、その鬱陶しさの中に、妙な温度があった。
自分のためにここまでしゃべる大人を、あまり見たことがない。教師は仕事だからと建前を並べ、父は酒を飲んで「お前のせいだ」と責めるか、「勝手にしろ」と投げ出すだけだった。
この男は、「仕事だから」と言いながらも、どこかそれだけじゃないものを滲ませている。
「…勝手にしろよ」
充は、諦め半分に目を閉じた。
「どうせ、他に行くとこもねえし」
「そう言うと思った」
慎一は立ち上がり、ドアの方へ向かった。
「仮眠室、用意してくる。膝の傷は医務室で消毒してもらえ」
「大げさ」
「放っとくと跡になるぞ。お前、美形なんだから、足に傷残るともったいないだろ」
「誰が美形だよ」
「自覚ないのがまた面倒だ」
部屋を出ていく背中を見送りながら、充は鼻で笑った。けれど胸の奥のどこかで、その言葉が小さな火種のように燻っているのを感じていた。
その夜、充は警察署の一角にある小さな仮眠室で、毛布にくるまって眠った。薄いソファの上は決して寝心地がいいとは言えない。それでも、外で冷えたアスファルトに体を預けるよりはずっとマシだった。
廊下の向こうから、夜勤の警官たちの靴音がかすかに聞こえてくる。誰かが書類をめくる音、電話のベルが一度鳴ってすぐに止む音。それらが、遠い波のように耳に届く。
眠りに落ちていく直前、ふと天井を見つめながら、彼は思った。
どうせ俺なんか、と思うのは楽だ。でも、それを否定してくる人間が一人いるということは、その「どうせ」の中身を考え直させられる。
面倒くさい男だな、と口の中で呟きながら、いつの間にか眠りに落ちた。
目が覚めたときには、薄いカーテン越しに朝の光が差し込んでいた。時計を見ると、午前七時前。仮眠室の扉がノックされる音がした。
「起きてるか」
慎一の声だ。
「…まあ」
寝起きの声で返事をすると、扉が開いた。制服に着替えた慎一が立っている。昨夜とは少し雰囲気が違う。夜の顔から、朝の顔になっていた。
「膝はどうだ」
「死にはしねえ」
「それは見れば分かる」
彼は口の端をわずかに上げ、手に持っていた何かを差し出した。
「ほら」
差し出されたのは、小さな缶コーヒーだった。コンビニで売られているような、ブラックの缶。
「いらね」
反射的に言う。コーヒーの苦味はあまり好きじゃない。子どもの頃に少し飲んで顔をしかめた記憶が蘇る。
「そう言うな。徹夜明けには効くぞ」
「徹夜してねえし」
「気持ちの問題だ」
押しつけるようでもなく、ただそこにあるものとして差し出される。充はため息をつき、観念して缶を受け取った。掌に当たる金属の冷たさが、意外に心地よい。
慎一は仮眠室の壁にもたれ、腕を組んだ。
「さっき、学校に連絡した」
「は?」
「担任と少し話した。お前のこと、意外と心配してたぞ」
「…あいつ、俺がサボっても“自主性を尊重したい”とか言って、結局何もしてこなかったくせに」
「それでもだ」
慎一は淡々と続ける。
「明日、学校に顔出せるかって聞かれた。どう答えるかは、お前次第だが」
「…知らねえよ」
缶のプルタブを指で撫でながら、充は目を逸らした。
「今すぐ決めなくていい」
慎一は壁から身体を離し、ドアの方へ向かう。
「ただ、選べるうちに選んどけ。選ばないで流されると、俺たちが選ぶことになる」
「脅し?」
「事実」
そう言って、慎一は振り返らずに歩き出した。
署の玄関を出ると、朝の空気は夜とは違う冷たさを持っていた。まだ完全に明るくはないが、東の空が薄く白んでいる。通勤のサラリーマンがちらほらと歩いているのが見えた。
ロードサイドの木々から、かすかに鳥の鳴き声が聞こえる。ビルの隙間から吹き抜ける風が、頬を撫でた。
慎一は玄関前の階段で立ち止まり、振り返る。
「家までは、自分で帰れるな」
「迷子じゃねえし」
「途中でまた原付に乗るなよ」
「持ってねえよ、もう」
昨夜のバイクは、たぶん没収だ。金髪のやつがどうなったかは知らない。知ろうとも思わなかった。
「次はないからな」
慎一は、まっすぐに充の目を見る。
「“補導”枠で済ませられるのは、今回までだと思え」
「…」
「ここに自分から戻ってくるのは構わない。困ったときは来い。だが、手錠かけられて戻ってくるな」
言葉の意味が、重く落ちてきた。
充は缶を握る手に力を込めた。指先に缶の縁が食い込む感触がする。
「…分かんねえし」
口ではそう言う。分かりたくない、という意地も混じっている。
慎一は少しだけ目を細め、それから短く息を吐いた。
「いつか分かれ」
それだけ言って、彼は背を向けた。制服の背中が、朝の薄い光に縁取られる。足音が階段を降りていく。
充はしばらく、その背中を見送っていた。缶コーヒーの表面に、朝の冷気でうっすらと水滴がついている。親指でそれをなぞると、指先が冷たくなる。
缶のプルタブを引いた。小さな音とともに、苦い香りが立ち上る。鼻孔をくすぐるその匂いに、昔の記憶が少しだけ霞んだ。
恐る恐る一口飲む。舌の上に広がる苦味は、思っていたよりもきつくなかった。むしろ、その苦さが、眠気や身体のだるさを少しだけ押しのけてくれる。
「…まず」
そう呟きながらも、もう一口飲む。胸の奥に、小さな熱が広がるような気がした。
この缶コーヒー一本で何かが劇的に変わるわけじゃない。今日家に帰れば、父は相変わらずだろう。部屋も、街も、自分の状況も、すぐに良くなるわけじゃない。
それでも。
あの男だけは、俺を「どこにでもいる問題児」の一人として扱っていない。
ただそれだけの事実が、驚くほど重かった。
缶を握りしめた手をポケットに突っ込み、充はゆっくりと歩き出した。夜と朝の境目みたいな、薄暗い空の下を。胸の奥に残った苦味と熱を、言葉にできないまま抱えながら。
カーテンの向こうで、空がまだ決めかねている色をしていた。夜の濃さを完全には手放していないのに、黒だけではない。薄い灰色に、少しだけ青が混ざって、ビルの谷間に滲む気配がある。窓ガラスには、遠くのネオンの名残が点のまま残り、眠りの途中で置き忘れられた光みたいに瞬いていた。充はキッチンに立って、蛇口の水を細く出した。水音が静かな部屋に通っていく。流し台の金属がひやりとして、指先の温度が吸い取られる。昨夜の湯気の余韻はもうない。けれど、肌の奥にだけ温度が残っている。泡の感触が、まだ手のひらの線の間に薄く残っているような気がして、充は指を一度握り込んだ。握り込むと、指の関節が少しだけ引っ張られる。仕事で酷使した手の感覚に戻る。現実に戻る。その戻り方が、以前とは違う。以前の朝は、終わりの印だった。夜が終わる。店の光が消える。笑い声が背中から落ちる。冷たい風の中を歩いて、鍵を開けて、やっと静けさに潜り込む。朝は、逃げ込む側の時間だった。今は、出て行く側の時間になっている。出て行くのは陸斗で、充は送り出す側に残る。残る側の胸の内に、取り残される痛みがないわけではない。けれど、残ることが置いていかれることと同じではないと、ようやく体が覚え始めていた。流し台の横に置いたコップをすすぎ、乾いた布巾で拭く。布巾は柔軟剤の匂いがする。甘すぎない匂いが、生活の匂いとして落ち着いている。充はその匂いが好きになった自分に少しだけ驚く。香水の匂いのように、鎧にはならない。酒の匂いのように、胃に残らない。毎日触れても嫌にならない匂いだ。背後で、布が擦れる音がした。スーツの生地の音は、家の中では浮く。浮くのに、その浮き方がもう痛くない。充は振り向かずに、布の擦れる音がどこを動いているのかを音だけで追った。寝室から廊下へ、廊下から玄関へ。足音は大きくない。靴下のままの足音が、床を柔らかく踏んでいる。充は流し台の水を止め、手を拭いた。キッチンカウンターの上に置いてある皿を一枚ずつ片付ける。昨夜のうちに洗っておけばよかったと一瞬だけ思うが、思うだけで終わる。罪悪感の種類が変わった。できなかったことを責めるためではなく、今日はこういう段取りだった、と納得するために思う。玄関の方で、小さく金属が触れ合う音がする。
浴室の扉を開けると、熱と湿り気が一枚の膜みたいに肌へまとわりついた。照明の白さが湯気に散って、輪郭の曖昧な空間になる。外の新宿の遠音は、窓ガラスと壁の向こうで薄く擦れるだけだ。ここに入ると、街の息づかいより水の音のほうが強い。蛇口をひねる音、シャワーの粒が床に弾ける音、排水口へ流れていく音。それらが反響して、家の中の他のすべてを押しのける。充はバスチェアを少しだけずらして、床に置いたシャンプーボトルの位置を確かめた。細かい動作なのに、指先が落ち着かない。落ち着かない理由を、胸の奥でまだ言葉にしたくないまま、湯気の中に沈める。こういうとき、何かを言うより、手を動かしたほうがいい。手を動かせば、余計な感情が泡に混ざって流れていく。陸斗が後ろから入ってくる気配がした。タオルの擦れる音と、足裏が濡れた床を踏むぺたぺたした音。たったそれだけで、充の背中の筋肉が一瞬だけ強張り、すぐに緩む。硬くなるのは癖だ。守るとか守られるとか、そういう言葉がまだ肌のどこかに残っているからだ。緩むのは、今はもうそれだけじゃないと知っているからだ。洗い場の鏡に、二人の影がぼんやり映った。湯気で曇っていて、線が滲む。滲むのが助かると思った。はっきり見えると、照れが先に立つ。照れは、今さらだ。今さらなのに、まだある。なくならない。なくならないから、日常が日常のまま続く。充はシャワーを手に取り、自分の肩を流した。湯の温度が肌に当たって、今日の疲れが少しだけほどける。サロンの一日分の立ちっぱなしと、指先の細かい緊張。それが湯気の中で溶けていく。溶けていくのに、ただ眠くなるのではなく、胸の奥が静かに整っていく感じがした。陸斗は洗い場の奥で、黙って身体を流していた。余計な気配を出さないような動き方だ。昔の陸斗なら、こういう場面で何をどうしていいのか分からず、言葉を探していた。今は違う。黙り方が変わった。黙ることが、逃げではなく、相手の時間を尊重する形になっている。その変化が、充の中の何かを甘やかす。甘やかされるのが怖かった時期はもう過ぎたのに、それでも甘やかされると少しだけ胸が詰まる。充はシャンプーボトルを手に取った。押すと、透明な液が掌に落ちる。少し甘い香りが鼻先に立つ。サロンで使うものとは違う、家の匂い。
ビルの谷間を抜ける風は、相変わらず強い。ネオンの明かりが路面を濡れたみたいに光らせて、通り過ぎる人の影が流れていく。新宿は眠らない街だと、誰もが言う。眠らないことが正義みたいに、勝ちみたいに。充は昔、その正義にすがっていた。眠らないことが自分の存在の証明だと思っていた。眠らなければ、何かに負けない気がした。眠ったら、取り残される気がした。だから朝が怖かった。今夜の新宿は同じ景色なのに、見え方が違う。ネオンの明かりは眩しいままなのに、目が痛くない。笑い声は遠いのに、背中を押してこない。どこかの店の外で、誰かが大声で名前を呼んでいる。その声が、以前は自分の首根っこを掴むように聞こえた。呼ばれたら、戻らなければいけない気がした。今はただの声だ。街の一部だ。自分を決めない。充は歩幅を急がせない。足の裏に残る疲れを、そのまま受け取る。夜の仕事を選んでいた頃は、疲れを感じないふりをするのが癖だった。感じた瞬間に、折れそうで。折れたら終わりで。終わりは、食べていけないことだと信じていた。けれど今の疲れは、違う種類のものだった。サロンで一日立って、指先を細かく動かして、緊張を保ったあとに、今夜はほんの少しだけ別の自分を遊ばせた。身体は正直に重さを返してくる。それが嫌じゃない。疲れが、生活の中に収まっている。収まる枠がある。コンビニの光が角を曲がったところで、四角く浮かんでいた。自動ドアが開くたびに、温い空気と揚げ物の匂いが漏れ出してくる。充は吸い寄せられるように入って、ペットボトルの水を一本手に取った。冷蔵ケースの冷気が指に当たる。レジに並ぶ人の顔は眠そうなのに、誰もがどこかでまだ夜を引きずっている。会計を済ませて外に出ると、街は少しだけ静かになっていた。始発前の時間帯に近づくと、騒がしい新宿にも隙間ができる。隙間の空気は冷たくて、やけに現実的だ。ビルの間を走る車の音が遠く、足元の自分の靴音が目立つ。靴音を聞きながら、充は古い外階段の軋みを思い出す。三階まで上がるたびに、手すりの冷たさと、息の重さと、鍵穴に鍵を差し込む指のもたつきがあった。あの頃は、帰宅の音が生存確認だった。鍵が回る音が、自分がまだ折れていないことの証拠だった。今は、鍵の音が帰還になる。帰るという行
夜の支度を始める前に、充は一度だけ、洗面所の鏡に映る自分の顔を眺めた。サロン帰りの髪は、まだシャンプーの匂いが薄く残っていて、指で梳くと湿り気が落ち着いていく。手の甲は乾燥して、指先のささくれが小さく引っかかった。仕事の証拠だ。以前ならその証拠に苛立ったかもしれない。爪の形や、手の荒れは、夜の自分を裏切るから。けれど今は違う。荒れていても、戻れる場所がある。荒れた手で触れる髪がある。リビングの方から、生活の音が聞こえた。何か紙をめくる音、ペンが机に当たる小さな音。充はその音を背中で受け止めながら、息を吸う。胸の奥がざわつかないことを確かめるように。ドアの隙間から見える室内の明かりは、柔らかい。新宿の夜に出ていくときの明かりは、いつも派手で、いつも過剰だ。それに慣れすぎた過去があるから、今の家の明かりが静かに見える。静かでも薄くはない。むしろ、逃げ込むための暗さではなく、戻るための明るさだった。充は玄関の棚の方へ目を向けた。写真立ての中の慎一の笑い方は、相変わらず少しだけ照れくさそうで、視線を合わせると自分の方が逸らしたくなる。充は靴を履きながら、写真に頭を下げるようなことはしない。祈りではなく、確認だ。今日の夜を、自分で選ぶという確認。スマホが震えた。楓からの短いメッセージが画面に出る。「今、店前。早く来い」短さが、楓らしい。湿っぽさがない。気を遣っているのに、気を遣っていると見せない。充は指先で返事を打ち、送信して、スマホをポケットに入れた。「行ってくる」リビングの方へ声を投げると、紙の音が止まった。「気をつけて」返事はそれだけだった。追いかけてはこない。止めもしない。許可をもらっている感覚もない。だからこそ、充は自分の足で玄関を出られる。外に出ると、新宿の夜はすぐに顔に貼りついた。空気に混じる排気の匂い、誰かの香水、揚げ物の油、ビルの隙間から漏れる店内の音。足元のコンクリートが昼の熱をまだ少し残していて、靴裏からじわりと伝わる。昔はその熱が、自分の中の焦りと同じ温度だった。早く稼がないといけない。早く馴染まないといけない。早く笑えないといけない。今は違う。熱は、ただの夜の温度だ。
リビングの窓から入る光は、午前のわりにまだ柔らかく、カーテンの織り目を透かして床に薄い影を落としていた。新宿の高い建物の影が、時間帯によっては部屋の明るさをゆっくり調整する。外では車の音が途切れず、遠くの工事の金属音が、天気のいい日ほど乾いた響きで混じる。それでも室内は静かで、静かさの中心にあるのは、二人が同じ空気を吸っているという当たり前だった。ローテーブルの端に、分厚い法律書が積まれている。背表紙の角は手垢で少し丸くなり、付箋の色が何層にも重なって、ページの波打ちが外からでも分かる。その隣に、映画のDVDが二、三枚、雑に重ねられていた。ケースの透明なプラスチックには細かな擦り傷があり、タイトルの文字が光に反射して瞬く。さらにその隣には、充のヘアカタログが開きっぱなしで置かれている。モデルの髪は艶やかで、ページの匂いはインクと紙の甘さが混じって、法令集の乾いた匂いとは別の温度を持っていた。シザーケースは、充が家に帰ると必ず置く場所が決まっている。玄関に置きっぱなしにするほど無頓着ではないが、几帳面にしまい込むほどの余裕もない。革のケースがテーブルの角に触れ、控えめな重さでそこにいる。金属のハサミの冷たさは、触れると今でも少しだけ背筋を伸ばさせる。客の髪に触れるときの緊張感が、家の中までついてくるのではなく、家に入ったところでふっと外れる。その外れ方が、昔と違う。充はキッチンで皿を拭いていた。朝食の皿と、マグカップ二つ。拭き上げるたびに陶器が乾いた音を返す。タオルは少し古く、洗剤の匂いが染みついているが、嫌な匂いではない。生活の匂いだ。充はそれを嗅ぐたびに、ここが現場ではなく家だと分かる。ローテーブル側では、陸斗がスマホと通帳を並べていた。スマホの画面をタップする指先の軽い音が、部屋の静けさの中で規則正しく聞こえる。スーツではなく、部屋着の薄いシャツ姿だ。それでも肩の角度は仕事の癖を残していて、背中が自然に真っ直ぐになる。充は皿を拭きながら、ローテーブルの上の混ざり具合を眺めた。きっちり揃っていたら、逆に落ち着かない気がする。昔の自分なら、散らかった部屋を見て苛立っていただろう。苛立って、声を荒らげる代わりに黙って片づけて、相手に「何も言わない」ことで圧をかけていた。今は、散らかり
玄関の照明は、夜の名残りみたいに薄く点いていた。新宿の遠い車の音が、窓ガラスの向こうで絶えず流れている。冷えた廊下の空気に、昨夜の湯気がわずかに残っていて、洗濯洗剤の匂いと混ざり合い、家という箱の中の呼吸を作っていた。玄関脇の棚は、最初からここにあったみたいに馴染んでいる。木目の浅い棚板の上に、三つのものが並んでいた。額縁に入った長谷慎一の写真。一足だけ残った、昔のReina時代のピンヒール。細いヒールの金具が、光を拾う。隣には、紺のネクタイがきれいに折られ、落ち着いた線を引いていた。この三つが同じ場所にあることに、充は今でもときどき息を忘れる。何かを飾ったというより、置く場所が決まっただけなのに。過去がまだ痛むことと、痛みをしまい込めることは、同時に起こるらしい。どちらか一方だけになれなかった時間が、棚の上では不思議なくらい静かに並んでいる。廊下の奥から、布が擦れる音がした。スーツの肩が動く音。靴下越しに床を踏む足音が、慎重に近づく。充はキッチンの流し台で手を拭きながら、振り向かずに耳だけを向けた。昔のぼろいアパートでは、外階段の軋みと鍵穴に差し込む金属音で生存を確かめていた。今は、室内の音が柔らかく続いて、同じ家にいることを当たり前みたいに教えてくる。陸斗が廊下に出てきた。スーツの色が、玄関の薄い灯りの中で黒に沈みすぎず、深い紺に見える。肩のラインが以前より硬い。いや、硬いというより、形が決まっている。背中の布の張りが、仕事に向かう人間のものになっている。充はその背中を見るたび、胸の底のどこかが小さく落ち着くのを感じる。寂しさではなく、確認に近い。ここまで来た、という確認だ。陸斗はもう、学生でも修習生でもない。弁護士の肩書きが現実の重さを持つようになって久しい。けれど、玄関で靴紐を結ぶときだけは、昔の癖が残る。片方の靴に指が触れたまま一瞬止まり、息を整えるように首を傾ける。陸斗は棚の方へ視線を置いた。祈るような角度ではない。写真の前で手を合わせるわけでもない。ただ、そこに目を置く。呼吸の置き場として。迷いがある日も、腹を括る日も、その仕草は変わらない。充は拭いた手をもう一度タオルで押さえ、冷蔵庫の上に置いていた郵便物をまとめて持った。封筒の角が指
段ボールの山は、引っ越しの熱をまだ吐ききれずに、部屋の隅々で紙の匂いを立てていた。新品の壁紙は無臭で、だからこそテープの粘着剤と埃と汗の混じった匂いが、どこにも逃げずに浮かんでいる。仮につけた照明の白さが、床に落ちた影の輪郭をくっきりと削り出し、影だけが必要以上に濃い。窓の外からは、新宿の車の遠い音が途切れずに流れてくる。救急車ではない、誰かの生活が動いているだけの音。タイヤの擦れる湿った低音が、ガラス越しに薄く震え、しばらくして消える。その繰り返しが、部屋の静けさを逆に際立たせていた。充は床に座ったまま、掌の汗が冷えるのを感じていた。膝の上に置いた手が、どこか他人のものみたいに重い。背中
三階の廊下は、夕方になると鉄の匂いが濃くなる。昼間に温められた手すりが、日が落ちるにつれてじわじわ冷めて、触れると皮膚の熱を持っていかれる。充は外階段を下りるたびに、足裏のどこかに砂が噛んだような感覚を覚えるようになっていた。階段の縁のペンキは剥げ、角は丸くなっている。誰かの時間が削った丸さだ。自分もその誰かの一人だと思うと、妙に落ち着かない。郵便受けは一階の壁際に並んでいて、鍵穴の周りだけが黒く擦れている。充は小さな鍵束を探り当てて、郵便受けの鍵を回した。金属が擦れる音が狭い空間に跳ね返る。中には薄いチラシが何枚かと、折り曲げられたフリーペーパーが入っていた。手に取った
教室に入った瞬間、陸斗の鼻先に、スーツの布と整髪料と、紙が擦れる匂いが混ざって押し寄せた。空調は効いているはずなのに、座席の間を埋める人の熱で、空気が少し湿っている。四月の終わり、キャンパスの外は風が気持ちいいのに、ここだけ季節が一段遅れて蒸していた。前方のスクリーンには、法曹ルートを示す矢印が並んでいる。ロースクール、予備試験、司法試験。聞き慣れた単語が、講師の口から規則正しく落ちていく。陸斗の膝の上には、説明会で配られた分厚いパンフレットが重なり、指先がその角を無意識に撫でていた。紙が指の腹に引っかかる感触だけが妙に現実的で、講師の声が少し遠い。周囲を
お前ら二人。心配ばっかしてた。夜の仕事なんかさせたくない。自分を嫌いになりすぎないように。それらが整然と並んでいることが、逆に怖かった。文字にした瞬間、言葉は逃げなくなる。逃げない言葉は、胸の奥に刺さる。陸斗は画面を閉じようとして、指が止まった。信号が青になるまでの数秒が、やけに長い。胸の奥で、別の台詞が勝手に再生される。あの夜明け前、湿布の匂いが部屋に残っていた時間。自分の声が、思っていたより低くて、思っていたより震えていたことまで、体が覚えている。「守られるだけの子どもじゃ、もういられない