「……アン様? やりすぎです」
コポコポと繊細な絵柄のついたティーカップにお茶を注いでいく。
湯気と同時にふわりと広がるのは、アン様の瞳によく似た赤い実の香りだ。 乾燥させたそれを茶葉に混ぜ込んだこの香りよい紅茶が最近のお気に入りらしい。「……どこがだよ。俺のモノに手を出そうとしたんだ。それ相応の報いは受けてもらわねぇと……な」
相変わらずふんぞり返るように椅子に座っていたアン様、いやあの口調からアラン様は、わたしがアラン様の前に紅茶の入ったカップを置くと、あっという間に姿勢を正し、ピンと背筋の伸びた美しい所作でカップを取り上げ、香りを楽しんだ後、一口含んだ。
「……ん。うまいな。最初は茶の一つも入れられず、どうなる事かと思ったが……」
ニヤリと意地悪な笑みを浮かべるアラン様。
そう、今目の前にいるのは、白シャツと細身のトラウザーズを身に着けた人物だ。その名をロベール・アラン・ティボー・ル・ロワ様という。対外的には隣国に留学している筈のアン様の双子のお兄様……となっているらしい。
その辺りの事情は深くは聞いてない。……聞いたらなんだか戻れなくなりそうだからだ。依頼にも含まれてなかったし、きっと護衛が知る必要のないものなのだろうと、無理やり自分の気持ちを納得させている。 ちらりと視線を前に投げれば、紅茶を飲み終わって、再びふんぞり返る姿勢に戻ったアラン様がいた。 いくつかボタンが留められていない胸元から覗くまっ平な胸……のくせにどこか艶めいて見えるのは、何故だろう?「厳しいご指導ご鞭撻アリガトウゴザイマス」
最後カタコトになりつつそう告げて、自らが淹れた紅茶に口を付ける。うん、なかなか……。
「カタコトかよ」
ぷはっと破顔するアラン様。
初対面でわたしの(極めて遺憾だが)お
「……アン様、今日は第二食堂の方へ参りませんか?」 第一食堂の方から風に乗ってふわりふわりと食べ物の匂いがする。「……別に構わないけど……珍しいわね、レアが軽食中心の第二食堂へ行きたがるなんて……」 足りるの? とコテンと首を傾げるアン様は今日も麗しい。……言ってる事はなかなかに失礼だが。 いや、確かに第一食堂は女学院にあるまじきボリューム重視ですが、本来であれば美味しいんですよ! 大体アン様だって、その見目の麗しさからかけ離れた健啖家ぶりを見せてるじゃないですか!! わたしがそれ以上にがっつり食べてるから、バレてないだけですからねっ?! むしろわたしの存在に感謝してくれていいですからねっ?! そう頭の中で悶々としつつ、アン様の華奢なように見えて、意外にしっかりとした手を引いて第二食堂へ向かう。 ……その日の夕方、第一食堂で食中毒が発生したとの報が寮を駆け巡った。「仕事の方はどうかな?」 ふわふわとクッション性が高く、気を抜けば腰を取られふんぞり返って沈み込んでしまいそうな高級ソファに、なんとか背筋を伸ばしたまま座り続ける。……このソファ、ある意味鍛錬になるな? と詮無い事を考えながら、目の前の圧のある人物に視線を戻す。 といっても、相手を直視しないよう視線は落としたままだ。 そもそも、ソファの対面に座らせてくれるのだって、相手の爵位を考えれば破格の対応で、一介の田舎令嬢には過ぎた待遇だ。 ……だから、目の前のテーブルに用意されているお菓子にもなかなか手を伸ばすことが出来ない。 ある意味わたしに辛すぎる拷問だこれ。 あぁ、あの真っ白な粉糖で飾られた丸いクッキーとか、ピンク色に染まったクリームをちょこんと乗せたカップケーキとか、ほんと美味しそうなんですがっ!! くぅぅぅっ!!
そこまで考えたところで、ふっと空気が揺れた気配がした。 ちらりと視線を上げれば、ティボー公爵が口元を手で覆っている。そして僅かに揺れる肩。 何か? と訝し気な視線を無礼にならない程度に送ってみると、何度か空咳を繰り返した後、ティボー公爵が口を開いた。「……いや、我が息子は前途多難だと……思ってね」 ……公爵様の息子……と言えば、絶賛女装中のアラン様の事だろう。表向きには隣国に留学中だという。 そりゃまぁ、ご子息が女装してれば前途は多難だろうなと思わず遠くを見てしまう。 因みにアラン様は今この屋敷のどこかにいると思う。朝、今日は実家に顔を出すっておっしゃってたから。なんでも月に一回は実家に顔を見せる約束らしい。 念の為という事で、公爵家から迎えに来た馬車をこっそり点検したら、まぁ案の定だったんですけどね。 車軸に細工がしてあって、あのまま走り続けていれば、公爵家へ辿り着く前に車軸は折れて脱輪していたであろう。 なので、アン様がお出掛けになる前に、馬車の再手配をしつつ、脱輪した時にでも襲い掛かるつもりだったらしい暗殺者を片付けるよう公爵家の護衛さんにお願いしたりと、何かと慌ただしかった。 そして、ご帰宅されるアラン様、いや女装中だからアン様か? の護衛をしつつ、公爵様への定期報告に上がった次第だ。 さすがに公爵邸の中までは護衛は必要ないだろうと言うことと、アン様の護衛の合間を縫って報告を上げるよりは、このタイミングの方がいいだろうと言う、ご依頼人(ティボー公爵)様の配慮もあって、この場が秘密裏に設けられた訳で。「アンはね……隣国に狙われてるんだ」 おもむろに公爵様が話し出す。 って、聞きたくないんですが? それ、下手したら国に関わる機密ですよね? そんなわたしの内心を知ってか知らずか、公爵様のお口は止まらない。「どうやら隣国は、我が国の王太子に王女を輿入れさせたいらしくてね。 で、一番の候補であろうア
「誰? いいよ入って」 公爵様の不用心な言葉に、思わずいつでも逃げ出せるようにする。 だって入ってきたのがアン様だったら、なんでわたしがココにいるのか説明するのめんど…じゃなかった、大変だし。 ちょっと緊張してたら、入室してきたのは男性使用人だった。 服装から見るに公爵家の家令さんかな?「……お嬢様が女学院へお戻りになるそうです」 わたしの存在に一瞬だけ気配を揺らす家令さん。 ごめんなさいね、不審者で。 お宅のお嬢様のご帰宅に合わせて来ているもので……。お約束もせずにお邪魔しております。 そもそも玄関通ってきてないしね。「なんだ、ずいぶん早いな。彼奴は何をそんな……」「なんでも同室のお嬢様にお土産を渡したいから、早めにお戻りになるとのことでして……」 家令さんの言葉になんとなく視線を逸らすわたし。 あの……その……同室のって、もしかしなくともわたしのことですね?「ふぅん……あの子にしてはずいぶんと懐いたものだねぇ。……その同室のご令嬢とやらに」 公爵様からからかい混じりの視線が飛んでくる……。 いや、誰が同室かご存知ですよね?! そんな公爵様と家令さんのやり取りを気配を消しながら聴いてると、にわかに扉の外からざわめきが近づいてきた。「……あぁ、お嬢様がお戻りになる前に旦那様へご挨拶をとの事でしたので」「……せっかちだなぁ。もうそこまで来てるんだろう? 慌ただしくなってすまないね。ではこれからもよろしく頼むよ」 公爵様のお言葉を合図に、わたしはその場から姿を消した。 ……と言ってもアン様の護衛なので
「ふんっ! あのお高く留まった公爵令嬢が大事にしてるっていうからどんなのかと思ったら、全然大したことないじゃないっ!」 ……さようでございますね。 アン様は確かに素晴らしいお方ですが、たかが同室なだけの田舎令嬢が素晴らしいかどうかは別問題だと思うし。「髪の色も目の色も地味だしっ!」 ……護衛職は地味な方が目立たなくていいんですよ? 貴女様の金髪は護衛職に向かなそうですね。ぐるんぐるんの縦ロールも目立ち過ぎです。「顔だって平凡だしっ!」 ……護衛職は平凡な方が……以下略。 貴女様の派手なお顔立ちは護衛職に……以下略。ていうか、せっかく整ったお綺麗な顔なのに、元々ネコみたいに釣り目気味の目尻も、しっかりと整えられた柳眉もキリキリと上がっていて、幼子が見たら泣いちゃいそうなお顔になってますよ?「タヌンそっくりだしっ!」 うっせえわっ! 誰が害獣だっ!! ていうか、なんで一国の王女サマがタヌン知ってるのよっ!! と叫びたくても、口元を布で縛られているので声を出す事もできない。うーと唸るくらいしかできないし、そうするとますますケモノっぽくなってしまうので、とりあえず黙っている。「ホントにこの女を人質にすれば、あのティボー家の女は言う事聞くのっ?!」 いえ、聞かないと思いますよ? さすがに一介の田舎令嬢が攫われたからといって、たかだか同室なだけの公爵令嬢様が動くとは考えにくい。 ……むしろ女装の秘密を知ってるわたしを、手を汚さずにポイ出来るから万々歳とか……って流石にソレはないか。 そこまで薄情なお方ではないだろう。アン様は。「もうっ! とりあえずあの女に道理をわからせるわよっ! この小娘はここに閉じ込めておきなさいっ! ……今はまだ……ね」 そう言ってにやりと微
まぁ、わたしが学園で攫われたからなんですが。 え? 護衛の癖にあっさりと攫われるなよって? いやごもっともなんですが。 でもね? 最近アン様への襲撃がホント酷くて……。女学院の警備に公爵家の護衛を追加してもらって……と色々対策しても収まらない襲撃。 わたし自身が護衛だとはまだバレてないけど、それ以外の護衛については公爵様の方からアン様に伝えてもらった。本人に狙われてる自覚がある方が、いざって時に違ってくるしね。 それに……命を狙われること自体は正直今までもあったらしい。 それは『王太子の花嫁候補』って言うだけじゃなく、対外的には女性であるアン様を拉致して、身代金や公爵様の立場を危うくしようと動く者達の仕業だったりとか……。公爵様への逆恨みとかまぁ色々。 高位貴族の宿命だよ、とはティボー公爵様の弁だけど、誰だって命を脅かされるのはストレスだ。 なので、今回襲撃が頻繁に行われたことによって、アン様が精神的に少々参ってしまっても仕方なくて……。 それはアン様のお心が弱いとかでは決してなくて。 ……どんどん元気のなくなっていくアン様を見ていると……わたしもなんだか苦しくて。 なのでっ! ティボー公爵様にもご許可を取って、こちらから打って出ることにしたのだ。 証拠がないとか、隣国との関係が…とかそんなの、顔色の悪いアン様を前にしたら吹っ飛ぶというものだ。 アラン様モードの時も、普段の傍若無人な態度(世間でアレは俺様系というそうな)は鳴りを潜め、なんだか静か過ぎて……わたしの調子も狂うしね。 いっちょ本気出しますよっ! ……と思った矢先にわたしが襲われたので、これ幸いと攫われてみたわけです。 恐らくわたしが拉致された事は公爵家の護衛の方も直ぐに気づくでしょうし、そしたら現場を抑えて言い逃れのできない状
「ちょっとっ!! 公爵家の騎士達が大挙して押し寄せてきてるじゃないっ! ちゃんと手紙に一人で来るように書いたんでしょうねっ?!」 扉の外がにわかに騒がしくなった。 金切り声を上げているのは隣国の王女サマだろう。「一人で来なかったら、人質の命はないとも書いたのよねっ!? え? 田舎令嬢の一人や二人の命より、公爵家を脅迫した犯人を捕まえることを重要視した? ですてぇぇぇぇ!?」 ……でしょうね。 普通に考えて、自分より爵位の低い人間の命より、自らの家の矜持の方が大事だ。 冷たいとか、人の命に代えられないだろうという意見もあるだろうが、貴族は高位になればなるほど、矜持を穢されるというのは不名誉だ。 ていうか、絶対王女サマだって同じような立場になったら、同じように自分の矜持を傷つけたからって怒りそうなお人柄よね? 今までの態度を鑑みるに。 それに……。 そこまで考えて、一つ頭(かぶり)を振る。 太ももにくくり付けておいた短剣を構えて、コトに備える。 ていうか、身体検査も何もしなかったなぁ……。 田舎令嬢として甘く見られたのか、そもそもそこまで考える頭がなかったのか。 考えても仕方ないかと、じっと扉に集中する。 すっと耳を澄ませば、壁の向こうから剣戟の音と、何かが争う音が聞こえてきた。「え?! もう来たの?! 早くないかしら?! えぇ? わたくしが尾行されていた?! 気づいていたならどうして伝えないの?! ちょ……どこに行くの?! え? もう飽きたから帰るっ!? ちょっ!! どういうこと?! わたくしがこの国の王妃になるのを手伝ってくれるって……?! え……?」 仲間割れ? というか、王女サマの話し相手って……だれ?「ちょっと! 待ちなさいっ!! ちょ…
「何よなによなんなのよっ!! 自分が手を貸すから、絶対上手くいくって言ってたのに!! どうしてこうなるのっ!? おかしいでしょう!! おかしいじゃないっ!! わたくしはこの国の王太子に輿入れして、いずれ王妃になる人間よっ! さっさとわたくしを解放なさいっ!! この無礼者がっ!! ねぇ……痛いの……痛いのよ……離してくださらない? 腕が痛いわ? 床に押さえ付けられて苦しいの。 ねぇ……離して? 離しなさいっ! 無礼者っ! わたくしを誰だと思っているの?! 王族よ? 高貴な人間なのよ?! わたくしをこんな床に這いつくばらせるなんて、許されると思っているの?! 今すぐわたくしを離しなさいっ! そして自害なさいっ! それだけの事を貴方達はしているのですっ! 高貴なわたくしを跪かせたことを後悔しながら、死になさいっ!!」 公爵家の護衛に床へと押し付けられた王女サマが金切り声で叫ぶ。 言っている事は滅茶苦茶だし、激高したかと思えば、急にしおらしくなり、再び激高するという、情緒の乱高下が凄い。 ……これが、アレに関わった結果だというのなら、『厄介な隣人』はその名の通りの存在なのだろう。「……なんだコレは……? 狂ってるのか?」 綺麗な縦ロールだった金髪を振り乱して、ドレスが乱れるのも躊躇せず、自らを抑えつけている護衛から逃れようと、ジタバタと身体を動かす王女サマを見て、アラン様が呆れたように零した。 その声にピクリと反応した王女サマが顔を上げて、その視界にアラン様を映した。「まぁ! まぁ! 王太子様! わたくしを助けに来てくださいましたのね?! どうぞどうぞお早くっ! わたくしをこの無礼者たちから解放してくださいっ!」 暴れたせいでぐちゃぐちゃに乱れた髪とか、涙と汗で滅茶苦茶になったお化粧とか。 確
「うぁぁぁぁぁぁ!!! なによなによなによっ!! なんでそんなタヌンが王太子様の花嫁になるのよっ!! 許せないっ! 許せるわけがないわっ!! なんなのなんなのなんなのっ?! 上手くいくっていったじゃないっ!! どうしてあの女はここにいないの?! おかしいおかしいおかしい!! 全部わたくしの思い通りにならないなんてっ!! おかしいのよぉぉぉぉ!!!」「くっ! なんだこの力はっ?!」 慌てて再捕縛しようとした護衛達が、王女サマの腕の一振りで吹き飛ばされる。「なっ?!」 その異様な光景に、わたしを庇うように背に隠すアラン様。 ……守られるなんて経験がないので、ちょっとキュンとしたのは秘密だ。「おかしいおかしいおかしい゙ぃ!! お゙かじい゙ぃ゙ぃ゙ぃ゙ぃ゙ぃ゙!!!」 え……こわぁ……。 真っ赤な唇が、耳元まで裂けたように見える。 同じくらい真っ赤な舌が、大きく裂けた口元からにょろりと覗く。 凶器かな? と思うくらい伸びて尖った爪をそういう武器のように構えて、狂気に染まった碧眼を炯々と光らせて…… アラン様に迫る王女サマ。 だからわたしは……。「っ?! レアっ?!」 アラン様の前に出て、鋭く尖った爪を、相手の手首を掴んで止め……切れない?! なんて力なのっ!? 力で押し負けそうになって、慌てて横に流す形にすれば、勢いだけで突っ込んできていた王女サマがぐらりと前に体勢を崩す。 前のめりに倒れる勢いのまま、無防備なお腹へ向けて、膝蹴りを放つ。「ぐげっ!」 高貴なお姫様らしからぬ呻き声をあげて、王女サマの身体がどさりと床に倒れ……壊れた操り人形のようにぴょんと立ち上がった。……その動きは既に人間の可動域を超えている。 そして、くる
「なんなのかしら……? 彼女……?」 僅かに困惑を乗せた言葉が、アン様の形の良い唇から零れた。「……アン様、彼女にはしばらくお近づきにならぬよう……」 低くそう告げると、前を歩いていたアン様が銀の髪を揺らして振り向いた。「レオハルト? 何か気づいたことでもあるのかしら?」「……いえ。でも万が一ということもありますので……。どうか……」 わたしの言葉に、アン様が紅眼を瞬かせたが、ありがたいことに深追いはされなかった。 ……もしかしたらアン様も気づいているのかもしれないが。 先の伯爵令嬢の様子は、以前の隣国の王女の豹変に通じるものがある。 そう……『厄介な隣人』に関わったばかりに破滅への道をたどった隣国の王女サマに。 前を歩いていたアン様の足が止まる。「……どうかされましたか? アン様」「ねぇ? レオハルト? さっきの彼女はやはり……」 ア゙ァ゙ァ゙ァ゙ァ゙ァ゙――――!!「っ?! アン様! わたしの後ろにっ!」 静かだった回廊の空気を切り裂いて聞こえてきたのは、あの黒い鳥の鳴き声だった。 神経を逆なでるような、悲嘆にくれた女性の悲鳴のような、獲物をいたぶる仄暗い悦びに歓喜する猛獣のようなその声に、びりびりと身体が震える。 回廊の壁と自分の背中との間にアン様を隠し、腰に佩いでいた剣を抜く。 油断なく視線を投げれば、回廊の向こう、裏庭の雑木林から黒い影が飛んできた。「……あれは……。そんな……まさか……?」 どこか呆然としたアン様の声が背後から聞こえてきた
「ティボー様ぁ!」 うん。あんなことがあったにも関わらずアン様に声をかけてくる胆力は認めたいと思う。 そんなことを考えてしまうのは、この前アン様を激怒させた伯爵令嬢が何の躊躇もなくアン様にお声をかけたからだ。 若干アン様も驚いている気配がした。「……何か用かしら?」 アン様が僅かに首を傾げる。 その瞳には当惑が浮かんでいた。「あ、あの! わたくし! わたくしを! アン様のお兄様であらせられるアラン様の婚約者に推挙していただけませんでしょうか?!」「……は?」 アン様の機嫌が氷点下まで冷え切った。「……兄には……婚約者がいるのだけど?」 冷たい声がいつもの回廊に響く。 ていうか、いつも何かが起きる時はここだな。この場所、なんか呪われてない? アン様の背後で油断なく周囲を見渡しながら、頭の片隅でそんなことをぼんやり考えていると、どんどん二人のご令嬢の話は不穏な方向へ進んでいく。 いや、正確に言うとご令嬢は喜色も顕わに話しかけてるのだが、その内容がどんどんアン様を不機嫌にさせていくのだ。「でもアン様の不興を買ったバタンテールの田舎者など直ぐに婚約破棄されるでしょう! なので、その後わたくしの事をお選びいただきたいのです! あの田舎娘の後釜というのは些か業腹ですが、アラン様の妻になれるのであれば些細なことでございますわ!」 くるくると踊り出しそうなほど機嫌のよい伯爵令嬢に、僅かな違和感を抱く。 半歩だけ前に出て、警戒を強める。 周囲に視線を走らせても、他の気配はない。……もちろん黒い怪鳥の気配も。「……あなた、何を言っているかわかっているの?」「もちろんですわぁ! アン様を義妹とお呼びできる日を楽しみにしておりますわぁ!」 そう言ってアン様に抱きつこうとするご令嬢。 って、何考えてるの?!
「……よろしかったのですか?」 まだ僅かに怒りの気配を纏っているアン様の背中に声をかける。 寮へと向かう回廊は、レリアーヌが以前先程のご令嬢と相対したところであり、黒い鳥の接触を受けたところでもあった。「なぁに? 護衛が口を出すの?」 未だ冷たさを帯びた声が石造りの回廊に響く。「……いえ、出過ぎた真似をいたしました」 レオハルトとしてアン様の背中に視線を送る。 だけど。 心の中では感情が嵐のように吹き荒れていた。 そこまでバタンテールを理解(わか)っているなら……! そこまでバタンテールを理解(わか)っているのに……! なぜ! レリアーヌ(わたし)を遠ざけられたのですか!『厄介な隣人』と渡り合える唯一の存在、それがバタンテールだというのに! だけど……アン様のお気持ちもわからなくはない。 それだけ……『厄介な隣人』に関わった人間の末路に恐怖したのだろう。 『厄介な隣人』と関わった結果の隣国王女の成れの果てを。彼女によって『厄介な隣人』の生贄に差し出された人間の末路を。 アレに自身が狙われる恐怖ではなく、アレに関わったことによって巻き込まれる人間がどうなるかということに恐怖した。 だからレリアーヌ(わたし)を遠ざけた。 あのご令嬢のような考えをする人間は、アン様がレリアーヌを見限ったと考える人間は多いだろう。 それがアレン様とレリアーヌの婚約にどう影響するか考えなかったわけではないのだろう。 だけど、それを差し引いたとしても、レリアーヌを遠ざけたかった。 『厄介な隣人』に近づけたくなかった。危険から引き離したかった。 そのお気持ちは……嬉しいけれど……。「アラン様は……優しすぎます」「え? レオハルト? 何か言ったかしら?」 くるりと振り返ったアン様からは、先程までの怒気は消えていた。 だけど少しの諦念と寂し気な雰囲気は消えていない。 だからこそ……わたしはわたしのできることをして
「まぁまぁまぁ! とうとうあの身の程知らずな小娘を断罪なさいましたのねっ! ティボー様に付き纏うなんてなんて罪深いのでしょう! 女学院にも来ていないとか……! 今更どんな顔で貴族社会に顔を出せるというのでしょうねぇ!!」 アン様の行き先を塞いで、きゃあきゃあと騒ぐ女生徒は、相変わらずのあの伯爵家のご令嬢だった。「……レアが、女学院に来ていない……?」 アン様……。足を止められたのを疑問に思ってましたが、引っかかったのはそちらでしたか。「そうですわぁ! あの身の程知らず! 恥ずかしくてお顔を出せないのではないのでしょうかぁ~! まったくそれもこれもティボー様に付き纏うからですわぁ~!! そろそろティボー公爵令息様とのご婚約も破棄されるのではないのでしょうか~?」 ざまぁみさらせと高笑いするご令嬢に、冷たいアン様の声が冷や水を浴びせた。「それはないわね。わた……アランお兄様はレアを可愛がってますもの。手放すワケがありませんわ。 そもそもなぜわたくしが、可愛いレアを断罪などしなければならないの? 何度も言うようだけど、わたくしがレアに側にいてほしいと望んだのよ?」 そこまで言うなら何故遠ざけたのか……と声を大にして言いたいが、現状アン様の護衛騎士レオハルトとしてこの場にいるので、口を開くわけにはいかない。「そ、そうはおっしゃいましてもぉ! 現にあの身の程知らずはティボー様のお隣にいらっしゃらないじゃないですのっ! 何か粗相をしてティボー様に見限られたと噂になっておりますわぁ!!」 伯爵令嬢の言葉に、アン様が僅かに舌打ちした。 まぁ、令嬢のいうこともさもありなんだけど。 あれだけアン様と行動を共にしていたレリアーヌ(わたし)の姿が急に見えなくなったのだ。 周囲から見ればレリアーヌ(わたし)が何らかの不敬を買ったのだろうと思われてもおかしくない。 ちらりとアン様に視線を投げれば、ものすごく顔を歪めている。 こほんと注意を促せば、その表情(かお)もあっという間に淑女の完璧な笑みに覆われていった。「そう……。そんな事実はないのだけ
「本日より護衛の任をたまわりましたレオハルトと申します。どうぞよろしくお願いいたします」 美しい銀の髪を艶やかに輝かせ、紅玉のような瞳を瞬かせた美しい佳人の前で騎士の礼をとる。「……貴方が……護衛ですの?」 さらりと銀の髪を揺らし、アン様が首を傾げた。「はい。お父君であるティボー公爵様より女学院にいる間の護衛を申し付かっております」 下を向いたまま、声色を変えそう答えると、さらりと制服を揺らしながら僅かに動揺したアン様の声が聞こえてきた。「あの……貴方殿方よね? 女学院にいる間ということは寮にはついてこないのよね?」「いいえ。寮でもお供させていただきます」「女性しか入れないはずなのだけど?」「……公爵様より女学院にお伝えいただき、例外として認められております。お休みの際には寝室の扉の前で待機させていただきます」 普通の護衛騎士ならあり得ない対応だろう。 異性を女学院の寮に、それどころか貴族令嬢の私室にまで入れて待機させるのは。 だけど今回ばかりは例外だ。 色々と。そう色々と。 「……そう。部屋にも入るの……」 当惑したような、そしてちょっぴり嫌そうなアン様の声が頭上に落ちてきた。 そりゃそうだ。 アン様は今まで私室ではアラン様に戻ったり結構自由にされていた。 わたしが同室の間も、早々にバレたこともあって男の格好に戻ったりしていて自由だった。 それが今日からは寝室以外はアン様の姿でいなければならなくなったのだ。 それはちょっぴり窮屈なことだろう。 ……ふんだ。わたしを遠ざけるからですよ。 そう、女装には男装を。 という訳で、わたしは今男装して騎士の姿でアン様の前に姿を現していた。 動きやすいよう改良を重ねたシークレットブーツのおかげで、今のわたしの目線はアン様と変わらない。 ミルクティー色の髪は黒髪のカツラに収め、我が家に伝わる変装術を駆使しているので、近くで見てもレオハルト
「僕たちティボー家の初代はね、この国の初代国王の弟だったんだ。 黒目紅眼の美しい顔の持ち主だったらしくてね。数多の女性が彼の心を射止めようと必死になったらしいよ。 だけど彼が選んだのは……美しい銀の髪をした女性だったらしい。女性の方も王弟を想っていて……。 二人は相思相愛の夫婦になって、兄王から公爵位を賜った。それが我がティボー家の始まりだね」 そこで言葉を切ったティボー公爵が、すっかり冷めてしまったお茶を一口含む。 それに倣ってわたしもお茶に口を付ける。さっきまでアン様のお部屋で飲んでいたお茶と同じ味がした。「で、子宝にも恵まれ穏やかな日々を送ってた訳なんだが、ある日二人の息子が『厄災』に目をつけられたことによって彼の人生は嵐に揺られる小舟のように落ち着かない日々に代わってしまったんだよ。 彼の息子は、初代によく似た黒髪と紅眼の持ち主だったらしい。黒が好きな『厄災』は息子を手に入れようとありとあらゆる手段を講じてきたそうだ」 ティボー公爵様の話を聞きながら、首をかしげる。 だって黒髪が好きなだけなら、父親である初代ティボー公爵様でもよかったはずだ。 敢えて息子に目を付けた意味が……あるのだろうか? わたしの疑問に気づいたのだろう。 ティボー公爵が苦笑いを浮かべた。「……『厄災』はね、成人前の少年が好きなんだ」 その時のわたしの心情を察して欲しい。 |我が家《バタンテール》に伝わる内容だけでも『厄介な隣人』は非常に厄介だった。 自らの愉しみだけに他人の不幸を招くどころか引き起こす、文字通りの存在だ。 それが……。 稚児趣味とかっ! 本当に厄介だなっ!!「ははっ! 気持ちはわかるよ。君たちが一番『厄災』に煩わされてきたんだからね。 まぁ、話を戻すと、初代が『厄災』に狙われなかったのは、年が行き過ぎていたから。『厄災』は『黒をその身に持つ未成年の男児』、特に我が血族に固執していてね。 だから......代々我が家では、黒い色を持つ男児が生まれた場合、成人まで女装をさせるようになった
「……という訳で護衛をクビになったんですが……」 ここはティボー公爵家の一室。 目の前のテーブルにはさっき食べ損ねた美味しそうなお菓子の数々。 だけど、さっきとは違う場所、違う人物が目の前にいらっしゃるので気軽に手を出せない。くぅ!「ははっ! 僕は君をクビにした覚えはないかなぁ?」 面白そうに笑うのはティボー公爵様。アン様の……アラン様のお父君であり、わたしの依頼主だ。「はい。わたしもご依頼主様から解任を命じられた覚えはございません。 ただ、護衛対象者が明確に拒否を示されましたので、こちらとしても別の手を考えるしか……」 ふむと思案の表情になってみると、未だ笑いを含んだままティボー公爵様がわたしに訊ねた。「だいたい何を言ってあの子を怒らせたんだい? 見た感じウチの息子の方が君を離さないよう必死だろう?」 田舎令嬢一人捕まえるために、公爵令息様が必死にならないでください。 さて、そんな公爵令息様、いや令嬢様か? を怒らせた原因ねぇ。……一つしかないけど。「ティボー公爵令嬢様の周囲に最近黒い怪鳥が出没しております」 単刀直入にそう告げれば、未だ笑っていたティボー公爵様が硬直した。「それは……」「はい。恐らく『厄介な隣人』が関わっているかと……」 わたしの言葉にティボー公爵様の纏う雰囲気が重くなる。 その反応に……やっぱり……という気持ちが浮かぶ。 それと同時にズキリとした胸の痛みとむかむかした気持ちが湧いてきた。「……そうか。それで彼女は君を遠ざけたということか……」「はい」 ふむ、と顎に指をあて、思案する公爵様。 チラリとわたしを見て目を伏せ、すごい勢いでわたしを再度見た。 この前王宮で見たお兄様の二度見に負けず劣らずの、お手本のような二度見だった。「あのね……?」「はい」「もしかしてなんだけど……」「はい」「レリアーヌちゃん、君……滅茶苦茶怒ってる?」
「もう、貴女は不要よ。同じ部屋にいるのも不愉快だわ。この場から去りなさい。レリアーヌ・バタンテール」 高貴なご令嬢らしく、扇で口元を隠し、特徴的なロアを冠する由来でもある紅い瞳を曇らせたアン様がそう告げた相手は……わたしだった。「……突然どうしました?」 何か悪いものでも食べました? と呟きながらテーブルの上を見やる。 そこにはこのお部屋では恒例となっているアン様が公爵家から持ってきた美味しいお菓子と、わたしがせっせと淹れたお茶が並んでいた。 そう、この恒例の小さなお茶会を始めるまではアン様はいつも通りだった。 いつも通りわたしを揶揄って、わたしの淹れたお茶をわかりにくく褒めてくれて、そして……。 突っかかってくるご令嬢と一緒にいた時に遭遇した黒い怪鳥の話をしたんだ。 そしたらこの有様である。 さすがに急転直下過ぎて訳が……わからなくもないけどさぁ。「どうもしてないわ。わたくしも気づいたの。貴女をわたくしの側に置くのは相応しくないって」「はぁ……」「だから......。もうこの部屋は出て行って。寮母には別の部屋を用意させるわ。 だからもう……二度とわたくしに近づかないで」「……本気ですか?」 真っすぐにアン様の紅眼を見つめる。 一瞬揺れた瞳は確固たる意志を持ってわたしを見返してきた。「あたりまえじゃない」「理由をお伺いしても?」「……理由なんてないわ。ただ……貴女を側に置くことは止めたの」 内なる感情を抑え込んでいることが明らかにわかる、僅かに震えた声でそう告げるアン様の方が……傷ついてるのに。「……さようでございますか」 わたしの返事に、アン様の瞳がぐらりと揺れる。 だけどそれを無理やりに押し込む。扇を掴んでいる手が僅かに震えているのに気付けるのは……鍛錬を重ねて動体視力を鍛えてきた成果だろう。「……そうよ」「畏まりました。……今までお世話になりました」 そう言ってアン様の
「あらぁ~。物の分からぬ田舎令嬢のくせにどういう汚い手を使ったのか公爵令息様のご婚約者になったバタンテール様じゃないですのぉ~」 全ての授業が終わり、後は寮に帰るだけだと女学院の回廊を歩いていたら、いつものご令嬢にいつもの如く絡まれた。 この人も暇だなぁ。相変わらず。 確か伯爵家のご令嬢で、アラン様の婚約者の座を狙ってたから現在婚約者無し。 アラン様が隣国への留学から帰ってくるのを今か今かと待っていたのに、気づいたら『田舎令嬢』と見下していたわたしがアラン様の婚約者に収まってしまって、憤懣やるかたないのだろう。 だからって、顔を合わせたら絡んでくるのやめてくれないかな? 地味に時間をとられて鬱陶しいし、どうもわたしに絡むためにあえて探してるみたいなんだよね。 その情熱、別の事に向けたらいいことあるよ! ……なぁんてわたしが言ったら恐らく手が付けられない程になるだろうから言わないけど。 「はぁ。そうですね」「っ! 相変わらず凡庸ね! なんであなたみたいのがアラン様の御婚約者に選ばれたのかわからないわっ! 何かあくどい手を使って公爵家を脅してるの?! だったらそろそろ手を引きなさないな。取り返しのつかないことになるわよ!」 ……是非ともどう取り返しがつかなくなるのか教えてほしい。 そしてティボー公爵家を脅せるあくどい方法って、相当あくどいですけど、こんな小娘に使えると思います? むしろ脅されてるのわたしでは? ティボー公爵令嬢(アン)様の護衛だったはずなのに、いつの間にか令息(アラン)様の婚約者になっていて……。 いえ、そのおかげで隣国の王族を手に掛けたことが不問になったので、それはそれで助かったんですが。 というか、アン様? ちょっかい掛けてくる人間は粗方対処したとかおっしゃってませんでしたっけ? このお方残ってますけど? ……まぁ、消えていった方々と比べて、この方はわたしに直接突っかかってくるだけなので、あまり危険性はないですけど。 だから見逃されてるのかも?「ちょっと! 聞いて