ANMELDEN「おはよう、陽菜」
着替え始めた海を満足気に見た蒼は、同じくその光景をぼんやり見ている私を抱き寄せ、頬に挨拶のキスをする。「蒼……」「何? 物足りない?」それならと唇に寄ってくる蒼の唇をぺチンと手で軽く叩く。「痛いな」「嘘、そんなに強く叩いていないもの」我ながら随分と甘ったるい朝の風景だと思う。蒼も同じように思っているのか……いや、「おはよう」と言ってくる声はさっきの何倍も甘い。「おはよう」「どうした?」甘い朝に文句は特にない。甘ったるく愛情を伝えてくる蒼は、向けられる感情に照れ臭さを感じつつも、蒼自体は嫌いじゃない。むしろ……。「イヤイヤ期の対処法その3、肯定的なフィードバック」イヤイヤ期の海を上手く扱う姿はヒーロー。
「……肯定的……なんだって?」「フィードバック。蒼って小さな子どもの扱いが上手いのね」なんで突然そんなことを言い出したのかを、散らかったリビングを見渡して蒼は理解する。朝の戦場に苦笑いだ。「ここは俺が片付けておくから、着替えてこいよ」「ありがとう」スーツの上着を脱ぎワイシャツの袖をまくる蒼。理想的な育児のパートナー。寝室に向かおうと部屋を出るとき、「なんでここに食パンが?」と不思議がる蒼の言葉には笑ってしまった。*いま、私たちと蒼は同じマンションの違う部屋に住んでいる。ちなみに黒崎さんも同じマンションに住んでいる。正確には黒崎さんが先住者。イライアス、ノア、ルカ。母親はそれぞれアメリカ人、オーストラリア人、ジョージア人。蒼は多国籍だなと呆れていた。同感。 *イライアスは都市再生プランナーで、『建築政策アドバイザー』という肩書きも持っていた。私たち兄弟の中で最も年上の彼はニューヨークで生まれ育ち、幼少期に住んでいた地区が再開発で姿を変えたことが原体験となり奨学金でMITの都市計画学科へ。現在は国際機関や都市政府と連携して「誰もが住みやすい都市空間」を設計していると聞き、私と凱は藤嶋とのプロジェクトの臨時アドバイザーとしてイライアスに協力を頼んだ。冷静で理知的で「お兄ちゃんだな」と思わず感想を漏らしたら、自分は違うのかと凱が不機嫌になったけど兄オーラみたいなものは凱にはない。年齢的にイライアスは私たちの長兄なのだけど、まだ見つかるかもしれないので「長兄」とはしていない。お母さんが舞台美術家でメルボルンで育ったというノアは建築ビジュアライザーで、アーサーがヘッドハンティングして現在はキャメロットで建築プレゼンや展示空間の演出を担当している。感性派で社交的なノアは、妹の私には優しくて愉快な兄だが、同い年の弟である李凱とはデザインの話でよく議論している。海を見る目は二人ともキラキラしていてそっくりで、どちらも華やかなイケメンなので双子に見えなくもない。ルカは私たちの中で最年少で、ルカは藤嶋建設でいま働いている。トビリシで育った彼は旧ソ連時代の建物の老朽化に危機感を抱き、奨学金でドイツの工科大学に留学して構造工学を専攻。目標は高層建築の構造解析のスペシャリストになることで、耐震・免震設計、地震多発地域の建築安全などから日本の建築に興味があったらしい。元看護師のお母さん、タマルさんも一緒に来日。タマルさんはいま蓮さんの看護師として西山家に滞在している。看護師と聞いたときはクリストファー・アシュフォードの体調はこの頃から悪かったのかもしれないと私たちは少ししんみりしたけれど、彼女は外科の看護師でクリストファー・アシュフォードとは彼がぎっくり腰で病院に来たのをきっかけに知り合ったらしい。凱とノアは「ヤリ過ぎだ」と、同じ表情を浮かべて呆れていた。私たち五人兄妹はイギリスのアシュフォード邸で会い、クリストファー・アシュフォードの写真を真ん中に写真を撮った。更新したSNSは評判に、
目覚めた蓮さんは、長く昏睡状態にあったため動くことはもちろん、意思疎通をするためにもリハビリが必要だった。目覚めてからすぐはYESかNOの視線反応しかできなかったが、意識は明瞭で周囲を認識できていること、事件当時の記憶があること、そして判断力や理解力などの認知機能に問題がないことから、蓮さんの証言次第では転落事件の犯人として白川茉莉を再調査できる可能性が出た。 *私を誘拐したあの犯人たちは公務執行妨害で逮捕された。公務執行妨害では一時的な足止めでしかなく、私は急いで彼らを訴える準備を始めたが三奈子さんにストップをかけられた。犯罪に慣れていた男たちなら他に余罪があるかもしれない、すぐに訴えなくても公訴期間があるから様子を見たほうがいいと言われた。三奈子さんの予想通り、公務執行妨害で逮捕された男たちは、事件の数日前に都内のクラブで若い男性を暴行、金銭を奪っていたことが警察の捜査で判明。また過去に似たような暴行罪で逮捕されていたことから、西山さんの知人の検事さんがガンガン攻めて執行猶予なしで3年の懲役になった。 ――これで共犯者は動くわ。そうすれば白川茉莉さんまでの太い線ができる。三奈子さんにそう言われたとき、その場にいた蒼も凱も驚いていたのに、翠さんは三奈子さんの言葉に深く同意していた。――事件のことを陽菜さんが沈黙しても白川茉莉がSNS上で吹聴するわよ。翠さんの言葉に、自分の罪を煽るような馬鹿な真似をするわけがないと反論したが、私も、三奈子さんも翠さんの言葉に賛成だった。ちなみにお祖母様と伯母様も同意見。――こういう女性は24時間主人公じゃなきゃ嫌なのよ。伯母様のこの一言は名言だと思う。 三奈子さんによれば公訴時効は3年だが、海を騒ぎにできるだけ巻き込みたくないので早めに仕掛けることにした。白川茉莉は何かを我慢して耐えるような性格はしていない。煽ればボロを出す。喧嘩は派手に、白川茉莉が得意とするSNSを合戦の舞台に選んだ。お祖母様と
「きょうのおやつ、バナナかな? バナナじゃないかな、じゃあね、バナナじゃなくてもいいかな、でもやっぱりバナナがいいな」海の取り留めないお喋りを、ソファに座る自分の膝にのせて聞いている蒼の顔は優しい。擬音語満載で、気を抜くと全然違う話になっていて理解できない話なのに蒼は優しい顔で聞いている。部下に対しては「簡潔に、さっさと話せ」と暴君なのに差がすごい。「陽菜」蒼のその目が私に向くと、純粋に優しいだけの目に甘いものが灯る。おはようのキスよりよほど甘い。「海、ママが着替えてきたぞ。海もバッチリな姿を見せてやれ」海は蒼の足から降りて、準備のできた姿を私に見せてくれる。その姿は凛々しく見えなくもないのかもしれないけれど、蒼の膝から降りるときの、お尻を振って降りる姿こ可愛らしさが強烈過ぎて凛々しく見えない。 「おばあちゃんにあげるの」海の小さな手には例のドングリ。おばあちゃんとは翠さんのこと。海は宝物を惜しみなくあげるくらい翠さんが大好きで、今日は翠さんと一日遊ぶのだとずっと前から楽しみにしていた。 *私と蒼は離婚した。海の親権は私が持つことになったが、離婚する前に海の出生届に自分と私を父母として出したいと蒼に言われた。海の戸籍に『認知』という言葉を残し、海を非嫡出子にしたくない。海のためを思った提案であるし、できる男の黒崎さんが認知手続きを『面倒くさい』と分かる感じにまとめた資料を寄越し、それが決定打になった。当人同士が良ければいいじゃないと凱に愚痴ったら、拗れに拗れて周囲を喧嘩に巻き込んだ夫婦がいう台詞じゃないと呆れられた。蒼と離婚したあとは『朝霧陽菜』に戻る手続き。運転免許証、銀行や証券などの金融商品の名義、クレジットカードやネット通販のアカウント情報、『藤嶋陽菜』が意外とあった事実に、それに気づかぬままでいたという事実に苦い思いがこみ上げた。 私のパスポートが『朝霧陽菜』に戻るのを待って
「おはよう、陽菜」着替え始めた海を満足気に見た蒼は、同じくその光景をぼんやり見ている私を抱き寄せ、頬に挨拶のキスをする。「蒼……」「何? 物足りない?」それならと唇に寄ってくる蒼の唇をぺチンと手で軽く叩く。「痛いな」「嘘、そんなに強く叩いていないもの」我ながら随分と甘ったるい朝の風景だと思う。蒼も同じように思っているのか……いや、「おはよう」と言ってくる声はさっきの何倍も甘い。「おはよう」「どうした?」甘い朝に文句は特にない。甘ったるく愛情を伝えてくる蒼は、向けられる感情に照れ臭さを感じつつも、蒼自体は嫌いじゃない。むしろ……。「イヤイヤ期の対処法その3、肯定的なフィードバック」イヤイヤ期の海を上手く扱う姿はヒーロー。「……肯定的……なんだって?」「フィードバック。蒼って小さな子どもの扱いが上手いのね」なんで突然そんなことを言い出したのかを、散らかったリビングを見渡して蒼は理解する。朝の戦場に苦笑いだ。「ここは俺が片付けておくから、着替えてこいよ」「ありがとう」スーツの上着を脱ぎワイシャツの袖をまくる蒼。理想的な育児のパートナー。寝室に向かおうと部屋を出るとき、「なんでここに食パンが?」と不思議がる蒼の言葉には笑ってしまった。*いま、私たちと蒼は同じマンションの違う部屋に住んでいる。ちなみに黒崎さんも同じマンションに住んでいる。正確には黒崎さんが先住者。
「夫婦じゃなくても母親と父親として海を育てることはできる」ドンッと大きな音がして、バスルームが揺れる。シャワーに残っていた水がバスタブに音を立てて落ちた。「……ごめん」「ううん」ポタリ、ポタリと音を立てて水が落ちてくる。まるで泣いているみたいだ。 「蒼」返事はないけど、扉の外に蒼はいる。「蒼?」蒼は、私の“お願い”を断れない。どんなお願いも、蒼は困ったような、時には悔しそうな顔をしても絶対に受け入れてくれる。蒼は、優しい。その優しさを、利用する。……ごめんね。 「そーう?」「……………………分かった」蒼の小さな声。「ありがと」私も、小さな声。ポタリと水が落ちてきた。まだ髪が濡れていたみたい。「……っ」持っていたタオルで口元を抑えて、私は嗚咽を殺した。 「長く話して体が冷えただろう、もう一度シャワーを浴びておいで」蒼の優しさに甘えて、私はシャワーの下に立ってコックを捻る。水量は最大。……蒼の泣く声を聞いてしまったら決心が鈍ってしまうから。 * 【約2年後 日本】 「海、お願いだからご飯を食べて」「や」「海」「やーあ」息子の海はいま2歳。魔のイヤイヤ期の真っ最中。 魔のイヤイヤ期については噂で聞いていたけれど、2歳を過ぎてしばらくしてもその予兆はないから、覚悟はしていたけれど拍子抜けした。でも、
蒼がどんな選択をしても、私には関係ない。海は私の息子だし、蒼がいなくても生きていく術はある。仕事はあるし、リモートとか、いまは働き方がたくさんあるのだから。 人手が必要なときだってなんとかなるだろう。多分、凱を頼るけれども。だって凱は海を目に入れても痛くないほど愛している……というか、「目に入れて持ち運びたい」と豪語している。頼めば喜んで海の面倒をみてくれるだろう。 「ねえ、蒼……「子どもの……海の生まれたときのことを話して」」蒼の声、震えている。私の気持ちも震えている。 蒼が海を拒否したら『気にしていない』「それでもかまわない』というつもりだった。実際に言ったと思う。でも、蒼がどんな選択をしようとも構わないというのは、強がりでしかなかったみたい。海に興味を示してくれた。そう思った。そして、胸がジンッと痺れた。 「体重は約7ポンド……3000グラムを超えて生まれたわ。健康だって言われて泣いたの」蒼は「そうか」と言ったあと、“ポンド”を気にした。「ポンド? イギリスにいたのか?」「うん。話せば長くなるんだけど、私と凱の父親はイギリス人で、クリストファー・アシュフォードというの」「イギリス人……日本、台湾の多国籍だな」蒼の妙な感心に笑ってしまった。 「海を産むと決めたとき、ごめんね、絶対に蒼に知らせるもんかって思った」「……うん」「どうせこの子も隠される。そう思ったら、逃げなきゃって思ったの」「それで李凱を頼ったのか」「お兄ちゃんだもん……私が困ったら、地球の裏