Share

第2話

Author: 桜夏
蓮司は美月を抱きかかえたまま、大股でその場を後にした。

通り際――

彼の肩が透子にぶつかる。

その衝撃で、透子はよろけてドアフレームに寄りかかる形に。

火傷した足とすねに激痛が走り、思わず壁に手をついて踏ん張った。

個室の中からは、様々な視線が飛んでくる。

蔑み、冷笑、嘲り――

でも、もうどうでもよかった。

ゆっくりと背を向け、壁伝いに体を支えながら、透子はその場をあとにした。

ようやくたどり着いた診療室。

看護師がやって来て、患部を見た瞬間、息をのんだ。

「なにこれ……こんなに酷く……っ!」

足の甲には、いくつもの水ぶくれが盛り上がっていた。

最大のものはまるで小籠包のように膨らみ、他も真珠の粒のように連なっている。

まさに、見るに堪えない有様だった。

「どうやったら、こんなに……?」

透子は痛みに耐え、歯を食いしばったまま、言葉を発せなかった。

顔の筋肉もこわばり、答える余裕なんてなかった。

看護師は薬を塗りながら、独り言のように言った。

「さっきも火傷した子がいたけど……彼氏が大騒ぎして、主治医まで呼んでたわ。ほんのちょっと赤くなっただけなのに、あれくらいならすぐ治るのにね」

その言葉を聞いた瞬間、透子の胸に苦さが広がる。

――あれは、きっと美月と蓮司。

彼は、美月が少しでも傷つけば、世界が壊れるかのように慌てる。

看護師でさえ、二人を恋人同士だと疑わなかった。

「もしあの子が、こんなに酷い火傷してたら、あの男どうなってたかしらね」

看護師の軽口が続く。

透子は自分の足を見下ろした。

膨れ上がった水ぶくれが、薄く透ける皮膚の下に光っていた。

……もしこれが美月だったら。

きっと蓮司は市内の名医を全員集めてでも、治療させたはず。

だけど、相手が透子なら――

一人で病院に行かせ、顔ひとつしかめもしない。

その違いは、あまりにも明白だった。

手元のスマホが震える。

画面には「蓮司」の名前。

今頃、美月のそばにいるはずなのに――なんで電話なんか。

透子はディスプレイを下にして、無言で机に伏せた。

ちょうどその時。

看護師が、最大の水ぶくれを針で潰そうと準備していた。

組織液が溜まりすぎて、自然治癒は望めなかったから。

そのタイミングで――

蓮司が診療室に姿を現す。

「なんで電話に出ない?」

彼の開口一番は、そんな一言だった。

透子はその声に驚き、思わず顔を上げる。

けれど、喧嘩する気も、話す気も起きなかった。

ただ静かに、事実を告げる。

「……マナーモードにしてた。気づかなかっただけ」

彼の視線がスマホへと落ちる。

確かに、スマホは伏せられていて、通知に気づけなかったのも無理はない。

その確認が取れた途端、彼の苛立ちは少しだけ収まった。

そこへ、看護師が振り返り、じっと彼を見つめる。

――さっき、別の女を抱えて大騒ぎしていた張本人。

疑いと皮肉の混じった目で問いかける。

「あなた、彼女と……どういう関係?」

問いかけに、蓮司が答えようとしたその時。

「蓮司、透子は大丈夫?」

美月の声が、背後から届いた。

その瞬間、「俺の妻」という言葉が、彼の喉に詰まる。

唇がかすかに動くだけで、音にはならなかった。

透子は、その一瞬の迷いを見逃さなかった。

乾いた笑みを浮かべて、自分から口を開いた。

「関係ないのよ、私たち」

その言葉に、蓮司は無性に腹が立った。

自分でもなぜ怒っているのか、分からなかったけれど。

「彼女は、俺の妻だ」

彼は睨むように言い放った。

「お前が無理やり嫁いできたんだろ?今さら外で他人面か?」

投げつけるような言葉。

その奥には、苛立ちと混乱が渦巻いていた。

透子は蓮司を見上げ、眉をわずかに寄せた。

戸惑いと、皮肉混じりの感情が入り混じる。

……認めたくなかったのは、あんたじゃないの?

ただ、言葉に詰まってるのが見えたから、助け舟を出してやっただけ。

後ろで、蓮司の「俺の妻だ」という言葉を聞いた美月が、一瞬きょとんとした顔を見せた。

でもすぐに、視線を透子へと向け、憂いを帯びた目で睨みつける。

艶やかなネイルが、ぎゅっと拳に食い込んでいた。

看護師が三人を見比べ、呆れたような声で言い放った。

「関係ない人は出てってください、治療の邪魔です」

「関係ない人」――

その言葉に蓮司が眉をひそめ、何か言い返そうとしたとき。

看護師が体を動かした拍子に、透子の足元が彼の視界に飛び込んできた。

……赤く腫れ上がった皮膚、大きな水ぶくれ。

その生々しい傷跡が、彼の胸にチクリと刺さった。

言葉を失い、彼は一瞬立ち尽くす。

反射的に、美月を外へ制し、自分も壁際へと移動する。

部屋の光を遮らないように――それだけを気にして。

ただ立ったまま、動けなかった。

目の前のその足が、脳裏に焼き付いて離れない。

脚の甲からふくらはぎまで、広がる赤い腫れ。

その上に膨らんだ水ぶくれが点々と並んでいる。

看護師が慎重に針を刺し、滅菌布で液を吸い取るたび、透子の足がぴくりと震えた。

「名義上の妻」

彼女はそう呼ばれていた。

祖父を通して強引に結婚させられた存在――そんな風に、ずっと思ってきた。

けれど今、目の前にいる透子は、

想像よりもずっと細くて、か弱くて……

「しばらくは靴を履かないように。

なるべく歩かず、薬は一日三回」

看護師が指示を出す。

透子は無言で頷き、立ち上がろうとする。

だが、足に走る激痛で、体全体がガタガタと震える。

その瞬間、蓮司がさっと駆け寄り、

躊躇なく彼女を抱き上げた。

「なっ……!」

バランスを崩した透子は、反射的に彼の肩にしがみつく。

でもすぐに我に返り、慌てて手を放す。

「……降ろして」

「しがみついとけ。落ちても文句言うなよ」

彼はあくまで淡々と言うだけ。

そのまま、両腕抱きから片腕抱きに切り替えた。

透子は再び落ちないよう、仕方なく彼の首に手を回す。

もう分かっていた。

この抱擁には、愛情なんて欠片もない。

彼にとってこれはただの「義務」か「後ろめたさ」か。

もしかしたら、祖父に知られて怒られるのが嫌でやっているだけかもしれない。

蓮司が透子を抱えて病室の外に出たとき、

美月が作り笑いを浮かべながら近づいてくる。

「透子、大丈夫?」

その声音が、透子には耳障りで仕方なかった。

何も言わず、目すら合わせない。

わざわざ相手の茶番に付き合う気などさらさらない。

そんな中、蓮司が口を開いた。

「美月、透子の足が酷くてな。自分じゃ歩けない」

美月は相変わらずの笑顔で、さも気にしてない風に言う。

「大丈夫よ、説明なんていらないわ。だって透子は蓮司の奥さんなんだから、抱っこして当然よ?それに怪我までしてるんだし」

その優しさめいた言葉に、透子の胸の奥が、さらに冷たく沈んでいった。

Continue to read this book for free
Scan code to download App
Comments (1)
goodnovel comment avatar
k.k.c.i.1.6.2.8
続きが気になります。
VIEW ALL COMMENTS

Latest chapter

  • 離婚まであと30日、なのに彼が情緒バグってきた   第1678話

    理恵は透子へ軽く返した。「疲れてないから平気よ」そうしてリビングで座っているだけの兄へ、声を張った。「ねえ、お兄ちゃん。こっち来て手伝って!透子が、お兄ちゃん一人で座っていると気まずいだろうから、私に付き添ってあげてほしいんだって」キッチンにいた透子は、思わず言葉を失った。透子は慌ててキッチンの入口まで行き、リビングの聡へ少し気まずそうに声をかけた。「聡さん、違うんです。私は……」最後まで説明する前に、聡はすでに立ち上がり、こちらへ歩いてきていた。透子は急いで止めた。「手伝っていただかなくて大丈夫です。理恵も、もう本当に大丈夫だから……」理恵が親友の言葉を遮った。「遠慮しないでよ、透子。兄にもやらせればいいの。食べるだけなんて、さすがに虫がよすぎるでしょ」聡も穏やかに続けた。「確かに、君がキッチンで忙しくしているのに料理までは手伝えない。けれど、野菜の下ごしらえくらいならできる」理恵は疑わしげな目を聡へ向けた。口ぶりだけは落ち着いているが、本当にできるのだろうか。それでも、ただ座っているよりはましだ。理恵は結局、小さな椅子を一つ聡へ渡した。美佐子は、聡がジャケットを脱いで袖をまくり、リビングの端に腰を下ろすのを見て驚いた。「そんな、聡さんまで手伝わなくていいのよ」美佐子は慌てて止めに入ったが、聡は立ち上がらなかった。理恵も簡単な作業だから平気だと取りなした。美佐子は二人に押し切られ、仕方なく自分も一緒に座った。透子もそれ以上どうすることもできなかった。鍋のスープが煮立ちそうになっていたため、ひとまずコンロの前へ戻るしかなかった。キッチンの外では、美佐子が野菜を処理しながら聡や理恵と話していた。聡が真面目に手を動かす様子を見て、美佐子の目には自然と笑みが浮かんだ。――もし彼が将来の婿になるなら、自分としてはかなり満足だ。少なくとも、進んで手を動かせる男に悪い人はいない。美佐子がそんなことを考えていた時、玄関のチャイムが鳴った。三人が顔を上げると、美佐子が先に立ち上がった。「きっと雅人が早めに帰ってきたのね。私が出るわ」美佐子が先に玄関へ向かったため、聡は座り直すしかなかった。一方、理恵は雅人の名を聞いた途端、少しぎこちなくなった。視線を落とし、黙々と青菜の硬い部分を取った。聡は妹の手元を見

  • 離婚まであと30日、なのに彼が情緒バグってきた   第1677話

    透子は美佐子へ向き直り、静かに話した。「お母さん、私が兄さんにお願いしたのは新井のお爺様のためです。それだけです。新井のお爺様は何者かに手を下されたんです。本当なら、まだ数年は生きられたはずです。それなのに今は、意識も戻らないまま集中治療室にいる。あの方をこんな目に遭わせた人たちを、私は簡単に許せません」美佐子は娘を見つめ、その説明を聞きながら、最後には信じることにした。美佐子は微笑み、透子と一緒に買い物を続けた。最終的に、二台のカートがいっぱいになるほど食材を買って家へ戻ることになった。会計の時、美佐子はさすがに心配そうに声をかけた。「少し多すぎない?家族で食べるだけでしょう?」透子は首を振った。「そんなことないです。理恵も呼ぼうと思っているんです」美佐子は頷いたが、一人増えたところで、それでも多い気がした。これだけの食材は下ごしらえだけでも大変だ。帰ったら、自分とお手伝いさんで手伝ってあげよう。美佐子はそう決めた。帰りの車の中で、透子は理恵へ電話をかけた。今夜食事に来ないかと誘い、自分が料理を作ることも伝えた。理恵はもちろん二つ返事で了承した。しかも、今すぐ行くから手伝わせてほしいとまで申し出た。こうして透子には三人の助っ人ができた。お手伝いさんは魚介や肉など匂いの強いものを処理し、理恵と美佐子は野菜の下ごしらえを手伝った。鍋の前に立つのは透子だった。作るのはどれも、彼女が得意としている料理ばかりだった。18時ごろ、玄関のチャイムが鳴った。理恵が先に玄関へ向かった。扉を開け、外に立っている人物を見た瞬間、片眉を上げてからかうように笑った。「早いじゃない、お兄ちゃん。会議で来られないんじゃなかったの?」聡は落ち着いた様子で中へ入った。「会議が早く終わった。それだけだ」理恵は軽く鼻を鳴らした。「どうだか。透子が手料理を作るって送ったから来たんでしょ」そう。理恵は親友から食事に誘われた時、もちろん自分の兄のことも忘れなかった。兄にも、せっかくのごちそうにありつく機会を作ってやったのだ。ただ最初、聡は理恵から透子の家へ来るよう誘われても断っていた。二人が外で食事をするなら行く、という程度の反応だった。ところが理恵が続けて、透子が自分で料理を作るらしいと伝えたところ、しばらくもしないうちに本人

  • 離婚まであと30日、なのに彼が情緒バグってきた   第1676話

    透子は返信を見つめ、胸の奥が温かくなった。口元にも自然と笑みが浮かんだ。兄が自分のために人を動かして調べてくれている。礼を口で済ませるだけでは、どうにも気が済まなかった。そこで透子はもう一度メッセージを送り、今夜は海外との会議があるか、家で夕食を取れるかを尋ねた。雅人はメッセージを見て、妹の意図をすぐに理解した。おそらく自分に食事を振る舞いたいのだろう。自分が断れば、妹はきっと気にする。雅人は予定表を確認し、18時半には帰宅できると返した。透子は返信を受け取ると時間を見て、兄と少しだけやり取りしてから寝室を出た。リビングでは、母が花を生けていた。透子はそばへ行き、美佐子の腕にそっと自分の腕を絡めた。「お母さん、スーパーに一緒に行ってくれませんか」美佐子は嬉しそうに頷いた。「いいわよ」こうして母娘二人で家を出た。美佐子は、透子がスーパーで簡単な日用品でも買うのだと思っていた。ところが透子は迷わず生鮮食品の売り場へ向かった。野菜を何種類もかごに入れ、さらにスペアリブ、牛肉、魚まで選んでいく。気づけばカートはもうほとんど埋まっていた。美佐子はその様子を眺め、思わず尋ねた。「栞、もしかして自分で料理するつもりなの?」普段の食事は家のお手伝いさんが作っている。野菜や肉の買い出しも任せてあるから、栞がわざわざ食材を買う必要はなかった。美佐子の予想通り、透子は素直に頷いた。「はい。少しだけ作ろうと思っています」その返事を聞いた美佐子は、反射的に病院にいる蓮司へ届ける食事を思い浮かべた。胸の奥でため息が出そうになり、同時に少しだけ複雑な思いが広がった。美佐子はわざと軽い調子で探りを入れた。「あの人、少し前まで食事も喉を通らなかったんじゃなかった?この数日で、そんなに早く食欲が戻ったの?もうごちそうを食べられるくらい元気なのかしら」蓮司はどれほどのことをしたというのだろう。娘がここまで気にかけ、自分で料理まで作ろうとするなんて。まさか、まだ想いが残っているのだろうか。忘れられずにいるのだろうか。美佐子が内心で心配していると、透子が首を傾げて振り向いた。「兄さん、この数日ずっと食べられていないんですか?胃を悪くしているんでしょうか。お医者さんには診てもらいましたか」美佐子はきょとんとした。「え?お兄

  • 離婚まであと30日、なのに彼が情緒バグってきた   第1675話

    透子はスティーブの手配の早さに安堵し、丁寧に礼を伝えた。スティーブはすぐに恐縮した声を返した。「お礼には及びません。これは社長が栞お嬢様のために動かれたことで、私はただ手配を進めているだけでございます」電話の向こうで、透子は少し驚いた。「兄にまで話してくださったんですか?前の件で動いてくださった方々に、そのまま調べていただけるものだと思っていました。兄に負担をかけずに済むなら、そのほうがいいと思っていたので」スティーブは落ち着いた口調で説明した。「今回は地下銀行が絡みます。関わる人脈も広く、難度も前回とは比べものになりません。ですから、やはり社長に動いていただく必要がございました。より多くの手を借りて調査を進めなければならず、私はこちらで進行を追っているだけでございます」透子は唇を軽く噛み、申し訳なさそうに声を落とした。「夜に兄へきちんとお礼を伝えます。あんなに忙しいのに、こういうことまで人を動かしてもらって……本当に申し訳ないです」彼女はてっきり、スティーブが人を手配してくれたのだと思っていた。兄の上級補佐である彼は、職務上の権限も人脈もかなり広い。スティーブの声は穏やかだった。「社長は栞お嬢様のお兄様でいらっしゃいます。お気になさる必要はございません。栞お嬢様のお力になるのは当然だとお考えですし、喜んで動かれております」透子は胸の奥がじんわり熱くなるのを感じた。兄は彼女に関わることなら、いつだって求めに応えてくれる。スティーブはさらに続けた。「今回の二件、容疑者の確保も、地下銀行の調査も、社長はすべて栞お嬢様のために動かれています」そして少し笑みを含ませた声で付け加えた。「もしご両親からのご依頼でしたら、社長はここまでお聞きにならなかったと思います」透子はわずかに言葉を詰まらせた。どうして父や母の頼みなら兄は動かないのか。そう尋ねる前に、スティーブが先回りして説明した。「今回、新井グループが直面している苦境については、家同士の付き合いを踏まえ、こちらもすでに道義的な配慮として手を差し伸べております。新井グループとは三つの事業で提携し、株価の持ち直しにも力を貸しました。ですから、これ以上のことを社長が自ら進んでなさることはありません。その理由も、栞お嬢様に関わっています。以前、新井社長は栞お嬢様につら

  • 離婚まであと30日、なのに彼が情緒バグってきた   第1674話

    蓮司はかすれた声で願った。「医療機器も薬も、このまま続けてください。どれだけ費用がかかっても構いません。できる限り、お爺様の命をつないでください」医師は頷くしかなかった。新井のお爺さんの生命を維持するには、毎日かなりの費用がかかる。だが新井家にはそれを支払うだけの資産があり、そもそもこの病院自体が新井グループの傘下だった。医師たちが去り、蓮司だけがその場に残された。彼は窓の前に立ち、室内をじっと見つめた。痩せ細った新井のお爺さんは、管や機器に囲まれて横たわっている。外から見えるのは、顔の半分ほどだけだった。頬はこけ、頬骨が浮き出て、薄い皮が骨に張りついているように見えた。その姿を見るたび、蓮司の胸は締めつけられた。目頭がまた熱くなり、音もなく涙が目尻を伝った。……透子は執事との通話を終えると、すぐにスティーブへ連絡し、地下銀行の件を調べてほしいと頼んだ。スティーブは社長室へ向かい、透子からの依頼として雅人に報告した。デスクの前で書類を見ていた雅人は顔を上げ、眉をひそめた。「新井家のために犯人を捕まえてやったばかりだ。なぜ金の出どころまで僕が調べなければならない」スティーブは事情を説明した。「今回は通常の金銭の動きではございません。正規の銀行では追跡できず、警察でも相当な時間がかかります。結果が出ない可能性もあります」雅人は淡々とスティーブを一瞥した。そんな基本的なことは分かっている。彼が引っかかっているのは、これ以上、蓮司を助けることそのものだった。地下銀行からの金の流れを突き止めれば、蓮司は悠斗を完全に潰せる。そうなれば、蓮司の地位を脅かす者はいなくなる。雅人にしてみれば、蓮司が楽になる姿など少しも見たくなかった。まして、自分たちが動いて得た成果をそのまま渡すなど、面白いはずがない。雅人の苛立ちと、関わりたくないという本音を感じ取り、スティーブも理由はだいたい察していた。それでも、彼は言葉を選んで切り出した。「ですが社長、これは栞お嬢様ご自身からのお願いです。お話しされた時も、とても真剣に頼んでおられました」雅人がどれほど蓮司を嫌い、手を貸したくないと思っていても、実の妹の頼みであれば最後には動く。スティーブにはそれが分かっていた。実際、その予想どおりだった。雅人はうんざりしたように眉

  • 離婚まであと30日、なのに彼が情緒バグってきた   第1673話

    「博明さんと悠斗さんは?あの二人は関わっていないんですか?」執事は説明した。「警察のほうでは、今のところ旦那様の発作とあの方々に直接のつながりを見出せておらず、法的に罪に問うことはできないとのことです」透子はそれを聞き、さらに問い返した。「高橋さん、今のところ見つかっていないということは、二人とも疑わしいということですよね」執事は短く応じた。「はい。あの二人が無関係なはずはございません。実行犯を買収するための1億円もの大金を、綾子さんのような専業主婦が簡単に用意できるとは思えません。普段から高収入を得ていたわけでもありませんから。ただ、その金の出どころがまだ掴めておりません。摘発された地下銀行も、小さな拠点の一つにすぎませんでした」そう聞いて、透子は唇を引き結び、さらに深く眉を寄せた。――地下銀行まで絡んでいるなんて……これはもう、普通の犯罪の範囲を大きく超えている。関わる世界が広すぎる。透子自身はそうした裏の世界に触れたことはなかった。それでも、それが危険な闇のビジネスであることくらいは分かる。新井家だけの力で、すぐに突き止められるものではないだろう。透子は静かに申し出た。「私のほうでも、できる限り協力します。進展があれば、いつでも共有し合いましょう」執事は電話口でその言葉に深く感謝を伝えた。そのそばへ、いつの間にか蓮司が歩み寄っていた。執事は年配のため、スマホの通話音量を大きめに設定していた。そのため近くにいた蓮司にも、相手が誰で、何を話しているのかが漏れ聞こえていたのだ。電話の相手が透子であり、彼女が地下銀行の調査に協力すると申し出ているのを聞き、蓮司は思わず声をかけた。「協力してくれてありがとう、透子」突然割り込んできた蓮司の声に、透子も執事も一瞬動きを止めた。執事はスマホを耳から離し、スピーカーに切り替えた。電話の向こうで、透子は蓮司の声の調子から、彼がここ数日の塞ぎ込んだ状態から少し抜け出したのだと察した。何かを言おうとして口を開きかけたが、結局、彼に向かって言葉をかけることはしなかった。透子は静かな声で返した。「お礼は結構です。私はただ、お爺様のために少しでも力になりたいだけですから。あんなに苦しまれるなんて、あんまりです。犯人を全員捕まえないと、気が済みません」蓮司は何かを返そう

  • 離婚まであと30日、なのに彼が情緒バグってきた   第1032話

    博明は、自分にこそ好機があると踏み、他の誰よりも勝算は大きいと、自信と期待で胸が高鳴る。一方、悠斗は利発社の部長室にいた。今回、大した収穫はなかった。直接、蓮司を失脚させることはできなかったが、彼は落胆してはいない。新井のお爺さんのえこひいき、そして蓮司が新井グループで築き上げた盤石な基盤。これらは、今の自分には及ばないものだ。だが、蓮司と橘家の縁談が偽りだったと暴いただけで、奴に一撃を食らわせることにはなった。同時に、取締役会の連中は死んだふりをしているが、自分たちが蓮司に騙されたことは理解している。自分がすべきことは、機を見て実績を積み、蓮司を実力で上回ることを目指すし

  • 離婚まであと30日、なのに彼が情緒バグってきた   第825話

    誰もが動けず、張り詰めた膠着状態が続く。その時、後方で新たな動きがあった。蓮司が、車椅子に乗せられて部下に押されてきたのだ。透子が捕らえられ、犯人に銃を突きつけられている無残な姿を見るや、彼は感情のままに立ち上がり、駆け寄ろうとした。しかし、屈強なボディガードが彼をぐっと押さえつけ、低い声で制する。「若旦那様、相手は銃を持っています!軽率な行動はできません!下手に動けば、透子様の命が……!」そばにいた警察官も、冷静に状況を説明した。「人質はまだ生きています。犯人は彼女を盾に我々を脅迫している。今はまず、人質の安全を確保することが最優先です」その言葉に、蓮司は奥歯をギリリ

  • 離婚まであと30日、なのに彼が情緒バグってきた   第833話

    「橘!一体どういうことだ!なぜお前と透子が血縁者だなんて話になる!?お前、前に朝比奈と親子鑑定したんじゃなかったのか!?」蓮司は、混乱した頭でその男に問いかけた。「どうして二人の遺伝子が一致するんだよ!お前には妹が二人もいるって言うのか!?」雅人は、彼に構っている暇も気力もなかった。手を挙げてボディガードを呼ぶと、蓮司を脇へ押しやるよう、無言で命じた。「おい!てめえ、聞こえねえのか!黙ってねえで、何か言えよ!」蓮司は、腹立ちまぎれに叫んだ。この橘雅人という男、腕っぷしが強いのをいいことに、あまりにも横暴すぎる。まるで山賊か強盗じゃないか!先ほどの輸血室での会話は、雲をつかむ

  • 離婚まであと30日、なのに彼が情緒バグってきた   第869話

    その言葉を言い終えると、まるで幼い頃からずっと抱えてきた何かが、ぷつりと切れたように。あるいは、張り詰めていた息が、完全に抜け落ちたように。透子は再び目を閉じ、意識を手放した。その声はひどく弱々しかったが、雅人の父と母の耳には、はっきりと、そして重く届いていた。娘が再び意識を失うのを見て、二人はさらに悲痛に泣き崩れる。医師が言った。「皆さん、一度外へ!処置を続けます!」雅人の母は離れたがらず、看護師に抱えられるようにして部屋の外へ連れ出された。医師たちは、再び慌ただしく透子の周りに集まる。雅人と父は、よろめきながら後ずさり、ベッドの上の妹から目を離せないまま、病室のドアの外

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status