LOGIN無邪気に追いかけっこをする二人を見て、水琴も思わず声を上げて笑った。その時。ペチャッ、と頬に冷たい感触が走った。「あ……!」驚いて振り返ると、指先に生クリームをつけた紗音が、いたずらっぽく笑っていた。「やだ、紗音ちゃんまでそんなことするようになったのね?」水琴は立ち上がり、自分の皿からクリームをすくうと、反撃とばかりに紗音を追いかけ始めた。「あははっ!お姉ちゃん待ってー!」逃げ回る紗音と、笑顔で追いかける水琴の弾むような笑い声がガーデンに響き渡る。その光景を、重人はワイングラスを傾けながら穏やかな目で見守っていた。ふと、彼の視線がエントランスのゲートへと向く。そして、微かに眉をひそめた。……高遠灼也は、結局来ないつもりか。重人には分かっていた。ケーキが登場する前、水琴が時折ゲートの方向を気にしては、ふっと寂しそうな瞳をしていたことを。彼女は言葉にこそしなかったが、幼い頃から妹のように見守ってきた重人には、彼女の心の動きなど手に取るように分かっていた。だが、今の彼女はあんなにも無邪気に笑っている。それなら、それでいい。重人がそんなことを考えていた、まさにその瞬間だった。「あーっ、お兄ちゃん油断してる!」背後から声がしたかと思うと、水琴の白く細い指先が伸びてきて――重人の頬に、ちょんと冷たいクリームをなすりつけた。「ははっ、重人お兄ちゃんも一緒に遊ぼうよ!」水琴がイタズラを成功させた子供のように、無邪気な笑顔を弾けさせる。重人は一瞬きょとんとした後、苦笑しながら立ち上がった。それから一時間近く、ガーデンでは大人たちの容赦ないクリーム合戦と追いかけっこが繰り広げられた。ひとしきり騒いでようやく落ち着きを取り戻した頃、水琴の胸の奥に、再びあのチクリとした痛みが顔を出した。パーティーが終わってしまう。結局、彼は来なかった。水琴の笑顔の裏に隠された寂しさを、鹿耶と紗音は敏感に感じ取っていた。どうにか彼女を励まそうと、鹿耶が明るい声で提案する。「ねえミコト!駅前に新しくできたすごく豪華なカラオケがあるんだけど、これからみんなで行かない?」しかし、水琴は静かに首を横に振った。「ごめんなさい、鹿耶。今日は少し疲れちゃったから……カラオケは、また今度にしましょう」「そ
ガーデンパーティーが本格的に始まると、ゲストたちは思い思いに食事を楽しんでいた。ビュッフェテーブルには、色鮮やかなタルトやケーキ、香ばしい匂いを漂わせる串焼きなど、豪華な料理が所狭しと並んでいる。七緒と鹿耶は隣同士で席に座り、皿に山盛りにした料理をつついていた。七緒が小ぶりなエッグタルトをひょいと口に放り込む。だが、一口咀嚼した瞬間、彼はあからさまに顔をしかめて皿に吐き出した。「うわっ、なんだこのタルト!パイ生地は油を吸ってベチャベチャだし、中のカスタードは卵の生臭さが全然消えてないスよ!」「そう?私は普通に美味しいと思うけど」鹿耶はジロリと彼を睨みながら、自分もタルトをかじってみせた。だが、七緒の小言は止まらない。次は串焼きを手に取り、一口食べては顔をしかめる。「この肉も酷いスね!焼き加減が甘いから肉の臭みが残ってるし、スパイスの使い方も雑スよ。こっちのトンカツに至っては、衣の油切りが全然できてないから胃がもたれそうス!」……と、食べる端から文句ばかりを垂れ流す七緒に、ついに鹿耶の堪忍袋の緒が切れた。「ちょっとあんた!さっきから文句ばっかり言ってんじゃないわよ!」鹿耶は七緒の手から皿をひったくると、ドンッとテーブルに叩きつけた。「これ、全部重人さんが『トレジャーホテル』からわざわざ呼んでくれた一流シェフの料理なんだからね!そんなに不満なら、自分で作ってみなさいよ!」「はっ?オレが!?冗談じゃないッスよ!オレが厨房に立ったら、一皿いくら取れると思ってんスか!」七緒が心外だというように目を丸くして反論する。「はいはい、お高い料理人様は黙ってこれでも食ってなさい!」鹿耶は冷笑を浮かべ、残っていたトンカツを七緒の口に無理やりねじ込むと、プイッとそっぽを向いて水琴の元へと歩き去ってしまった。その頃、会場の片隅の物陰では、紗音が半泣きになりながら何度もスマートフォンを耳に当てていた。「……もう、兄様のバカ!なんで出ないのよ!」これが十回目の発信だ。しかし、無機質なコール音が続くばかりで、一向に繋がる気配がない。水琴の前で電話をかければ、彼女を不安にさせてしまう。だからこうして隠れてかけているのに。ついに紗音は電話を諦め、大きく深呼吸をして表情を取り繕ってから、水琴の元へ戻った。「水琴お姉ち
「妄想だと言うなら、どうして私に見せてくれないの!?」紗夜も引き下がらない。臣は忌々しげに舌打ちをして大きく息を吸い込むと、棚からあの黒いアルバムを取り出し、紗夜の胸に乱暴に押し付けた。「……これで満足か」紗夜はひったくるようにアルバムを受け取ると、血眼になってページをめくり始めた。しかし、そこに収められていたのは、臣の背中や単独で写っている写真ばかりだった。「これ……水琴さんのアルバムね。どうしてあの女の物が、まだこの家に残っているのよ?」紗夜は不快げに眉をひそめた。水琴と臣の間に、一ミリでも繋がりが残っていること自体が耐えられないのだ。「荷物をまとめる時に、忘れていっただけだろう」臣は、感情を完全に押し殺した冷ややかな声で吐き捨てた。紗夜はそれ以上追及しなかった。だが、彼女の胸の奥には黒い疑念がどろどろと渦巻いていた。――さっき、彼が写真を見つめていた時のあの顔。まるで、取り返しのつかない恋情と後悔に引き裂かれているような、ひどく複雑で、甘く、そして苦しげな瞳だった。あんな表情、私に向けたことなんて一度もないのに。紗夜は咄嗟に表情を取り繕うと、不安げな弱々しい声を出して臣の袖を掴んだ。「ごめんなさい、臣さん……私、ただ不安だったの。あなたが私を嫌いになっちゃったんじゃないかって……あなたのことを愛しているから、失うのが怖かっただけなのよ」「……分かってる」臣はひどく疲れ切った声で短く返し、それ以上、紗夜の顔を見ることはなかった。……八月六日。水琴の誕生日。今年の会場は、従兄である重人の邸宅の裏庭に設けられた広大なガーデンスペースだった。親しい者だけを招く、ささやかながらも贅沢なパーティーである。早朝から静沢家の使用人たちが慌ただしく準備に追われ、厨房には重人が『トレジャーホテル』からわざわざ引き抜いてきた一流シェフたちが腕を振るうために待機していた。午後六時。日が沈み、夕闇が辺りを包み込むと同時に、ガーデン全体に飾られた無数のイルミネーションが一斉に温かな光を放ち始めた。その頃、邸宅のゲストルームでは、水琴が身支度を整えていた。身に纏っているのは、重人がこの日のために特注してくれた美しいオートクチュールのドレスだ。鏡の前に座り、ドレッサーの上に置かれたダイヤモンドのネック
だが、彼女は虚勢を張るように血走った目で虚空を睨みつけた。大丈夫。今回は琉里さんが助けてくれるはずだ。だって私は、琉里さんのためにあの女を突き落としたんだから!それに、もし琉里さんがダメだったとしても……最悪の場合、またお兄様が『精神鑑定書』を偽造して、私を無罪放免にしてくれる!そうよ、絶対に大丈夫。お兄様が、私を見捨てるはずがないんだから——!鷹司家の屋敷には、佳乃のヒステリックな泣き叫ぶ声が響き渡っていた。「臣!今すぐ警察に手を回して雅を助け出しなさい!あの子はあなたのたった一人の妹なのよ!あんな薄汚い留置所に閉じ込められたままなんて、絶対に耐えられるわけないわ!」佳乃は臣の腕にすがりつき、なりふり構わず懇願した。しかし、臣の顔には氷のような冷酷さしか浮かんでいなかった。「母さん。いい加減にしろ。……あいつはもう、自分の犯した罪の重さと現実を学ぶべきなんだ」臣は佳乃の手を冷たく振り払うと、そのまま書斎に入り、内側からガチャリと鍵をかけた。扉越しに泣き喚く母親の声をシャットアウトし、彼は重い息を吐き出した。今回は絶対に、雅を助け出すような真似はしない。そう固く心に誓っていた。ふと、臣の視線が書斎の本棚に向けられた。今日、水琴が怪我を負った姿を見た瞬間、彼の脳裏に奇妙な記憶がフラッシュバックしていたのだ。あれは、いつだったか。水琴が軽い怪我をした時、彼女は「これも二人の思い出の記念だから」と笑って、写真を撮ってアルバムに挟んでいたはずだ。臣は取り憑かれたように本棚や引き出しを漁り始めた。約三十分後。部屋の隅の暗い棚の奥底から、一冊の漆黒のアルバムを見つけ出した。表紙を撫でて、そっとページを開く。一枚目の写真を見た瞬間、臣は息を呑み、そのまま釘付けになった。異国の美しい川辺。水面に浮かぶ小舟を背景に写っていたのは――臣自身の『背中』だった。この三年間、彼はこのアルバムを開いたことなど一度もなかった。ふと、水琴がこのアルバムを買ってきた日のことが脳裏に蘇る。彼女は嬉しそうに目を細め、「これから、二人で過ごす思い出の写真で、このアルバムをいっぱいにしようね」と微笑んでいた。しかし、最初の一枚目からして間違っていたのだ。カメラを向ける水琴のレンズの先にいたのは、決して振り返ろうとしない、
過剰に怯え切った娘の様子に、佳乃は慌てて雅を背中に庇い、水琴を激しく睨みつけた。「水琴!あんた、自分の義妹を警察に突き出す気!?あんたが恥ずかしくなくても、鷹司の家名に泥を塗る気なの!?」その時、病室のドアがガチャリと開いた。「……またお前たちは、騒ぎを起こしているのか」入ってきたのは、臣だった。彼は苛立たしげに眉間に皺を寄せ、うんざりしたような目を水琴に向けている。その心無い態度に、鹿耶の我慢が限界に達した。「鷹司臣!あんた、それでも男なの!?自分の奥さんが妹に川へ突き落とされて死にかけたって言うのに、駆けつけてきて第一声がそれ!?」臣は鹿耶の剣幕を鬱陶しそうに無視すると、水琴と雅を交互に見比べた。「雅。一体何があったんだ」「お兄様ぁっ……!」臣の姿を見た途端、雅はポロポロと嘘泣きの涙を溢れさせた。「この人、私にひどい濡れ衣を着せるの!私は落ちた彼女を必死に助けようとしたのに……勝手に落ちたくせに、私のせいにしようとしてるのよぉっ!」佳乃もここぞとばかりに便乗する。「臣、聞いたでしょう!?だから私は最初から、この女との結婚に反対だったのよ!外部の人間と結託して、大切な身内である雅をいじめるなんて、到底許されることじゃないわ!」二人の身勝手な主張を聞き流し、臣は静かに水琴を見た。「水琴。……あいつは、俺の妹だ」――それ以上、事を荒立てるな。そのたった一言に込められた『圧力』に、水琴の胸はきつく締め付けられた。この時の彼女は、まだ愚かなほどに彼を愛していたのだ。彼が病室に現れた瞬間、それまで張り詰めていた緊張の糸がふっと緩んでしまっていた。彼に守ってほしい、信じてほしいという淡い期待は、「妹を許してやれ」という残酷な一言で呆気なく打ち砕かれた。「……分かっているわ。彼女は、あなたの妹だものね」だから私が、物分かりの良い妻として、すべてを飲み込んで我慢すればいい。水琴の声は、ひどく虚ろに響いた。「……っ!!」その水琴の諦めの態度を見て、鹿耶は怒りと歯痒さで顔を真っ赤にした。「ミコト、あんたって子は……!いつもいつも、そうやって自分が我慢して!もう知らない、勝手にしなさい!!」鹿耶は悔しそうにヒールを鳴らし、嵐のように病室を出て行ってしまった。過去の記憶の中、暗
「陥れる?……ふふっ」水琴は冷笑を漏らした。「なら、ご自分の娘さんに聞いてみればいいじゃないですか。昨夜、本当に家にいたのか。アリバイを証明できる人間がいるのかを」雅の顔色が変わる。明らかに動揺した様子で、しどろもどろに声を張り上げた。「な、何でたらめ言ってんのよ!わ、私は昨日……ずっと自分の部屋にいたわよ!」佳乃はハッとして振り返り、娘の様子をまじまじと見つめた。何か心当たりがあるのか、一瞬言葉に詰まった後、無理やり取り繕うように声を張った。「そ、そうよ!雅はずっと家にいたわ。私が一番よく知っているんだから!」親子のわざとらしい視線のやり取りを見て、鹿耶は確信した。――こいつら、真っ黒だ。「鹿耶、手出ししないで。私自身で決着をつけるわ」水琴は驚くほど落ち着いた声でそう告げると、掛け布団を払いのけてベッドから降りた。慌てて支えようとした鹿耶を、目で制する。まだ力が入らない足で、それでも水琴は一歩一歩、確実に雅の目の前まで歩み寄った。そして、ゆっくりと右手を振り上げ――渾身の力を込めて、その頬を思い切り張り飛ばした。パアァァンッ!!「……あんたがどんなに遊び呆けようがどうでもいい。だけどね、私を川に突き落としたことだけは、絶対に許さない!!」病室に響き渡った乾いた破裂音は、水琴の激しい怒声に掻き消された。強烈な平手打ちを食らい、雅はよろめいて床に倒れ込みそうになる。彼女は自分の頬を両手で覆い、信じられないものを見るような目で水琴を睨みつけた。「あ、あんた……私を、殴ったの!?」そのやり取りを聞いていた鹿耶は、弾かれたように水琴を振り返った。「ミコト!今の話、本当なの!?あたし、今すぐ警察を呼ぶから!!」「ちょっと待ちなさいよ!」頬を押さえたまま、雅は血相を変えて水琴の腕にしがみついた。自分が何を言われたのか、ようやく頭が追いついたのだろう。「あんた、何デタラメ言ってんの!?お兄様と喧嘩して腹いせに飛び込んだくせに、それを私のせいにする気!?」「そうよ!誰のおかげで鷹司の面目が丸潰れになったと思っているの。心配してわざわざ見舞いに来てやったというのに、自分の非を雅になすりつけるなんて!兄嫁のくせに、よくもまあそんな白々しい嘘がつけるわね!」佳乃もここぞとばかりに怒鳴り散らし、ヒス
水琴は足を止め、その差し出された手を見つめた。表情は凪いだまま、応じようとはしない。差し出された紗夜の手が、宙で居場所をなくし、彼女の顔から完璧な笑みがわずかに強張る。隣で、臣が割って入るように口を開いた。その声は低く、感情が読めない。「祖父が、俺たちのことを知った。今夜、話があるから屋敷に来いと。お前の携帯が繋がらなかったから、直接迎えに来た」「わかったわ」水琴は自分のスマートフォンに目を落とす。確かに、バッテリーが切れていた。「充電したら、すぐに向かいます」彼女はそう頷くと、付け加えた。「先に行っていて」その言葉は、あなたたちと行動を共にするつもりはない、という明確な拒絶だ
そして、呆然と立ち尽くす雅を視界の端に留めながら、スーツケースのハンドルを握りしめると、一度も振り返ることなく、その家を後にした。鷹司家の重々しい門を抜けると、一台の真っ赤なオープンカーが目に飛び込んできた。運転席から、親友の鹿耶が身を乗り出し、サングラスを額に押し上げながら、芝居がかった投げキスをよこす。「お姫様、ご乗車を。鹿耶様が、最高の祝賀会に連れてってあげる」祝賀会とは言ったものの、離婚したばかりの水琴の心情を慮ってか、鹿耶が連れて行ってくれたのは、落ち着いたジャズが流れる隠れ家のようなミュージックバーだった。離婚の経緯を話すと、鹿耶は呆れ返ったようにグラスを置いた。「また
書斎の外から漏れ聞こえてくる会話に、水琴は静かに目を伏せた。鷹司家に嫁いでからの日々が、脳裏をよぎる。姑である佳乃にも、義妹である雅にも、自分なりに心を尽くしてきたつもりだった。雅が事故に遭い手術を受けた時、何日も病院に泊まり込み、甲斐甲斐しく付き添ったのも自分だ。佳乃に対しては、常に敬意を払い、その言葉には注意深く耳を傾けてきた。けれど、どれだけ尽くしても、あの人たちの心を変えることはできなかったのだ。すべては、無意味だった。ふと、スマートフォンの着信が静寂を破る。小林鹿耶(こばやし かや)からだった。電話口から聞こえてくるのは、少し気だるげな親友の声。「ミコト、本当
「サインを」頭上から、冷たく低い声が響いた。目の前に突きつけられたのは、一枚の離婚届。静沢水琴(しずさわ みこと)はわずかに目を見張り、黙って鷹司臣(たかつかさ じん)を見上げると、乾いた笑みを浮かべた。ああ、そういうことだったのね。どうりで今朝、珍しく電話をかけてきたわけだ。今夜は帰る、話がある、と。一日中、胸を躍らせていたというのに、彼が伝えたかったこととは、これだったなんて……三年に及んだ結婚生活も、これで終わり。水琴は無言で離婚届を受け取ると、その紙を握る手にぐっと力が入る。しばし黙り込んだ後、掠れた声で尋ねた。「……どうしても、離婚しなきゃだめ?」臣はわず