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第4話

Author: 縁十月
眩しい照明の下、水分不足でふらつく桐乃の視界は揺れ、腰から下の神経が麻痺して立っているのもやっとで、必死に壁にすがりついた。

耳元ではざわめきが渦巻き、その中で誰かが笑い声をあげる。

「やだ、失禁したよ。汚いわ!」

聞き慣れた鋭い女の声が、まるで平手打ちのように桐乃の意識を叩き起こした。

顔を上げると、そこには得意げな千梨の視線。

完璧に整えた化粧と髪、そして毒々しいほど鮮やかな笑みを浮かべていた。

「犬みたいに泣き叫んで助けを求めていた時、黎斗さんはずっと私と一緒にいたよ」

その一言で、全てが彼女の仕業だと悟った。

屈辱と怒りがないまぜになり、桐乃の目は真っ赤に染まる。

彼女は顔をそむけ、野次馬の医師や看護師に鋭く言い放った。

「私はこの病院の最大株主である十鳥グループの社長奥様よ。今すぐ警察を呼びなさい!昨夜の職務怠慢を徹底的に追及するわ!」

その言葉に、得意満面だった千梨の顔が一瞬で蒼ざめる。

だがその時、黎斗がボディーガードを連れて現れると、あっという間に周囲は静まり返った。

黎斗は千梨を庇い、その背後に立たせたまま、ボディーガードに押さえつけられ車椅子に座らされた桐乃を見下ろした。

眉間には怒気が滲むも、吐き出された声はどこか諦めを含んでいた。

「子供のいたずらみたいなもんだ。大げさにする必要はない」

すでに彼に失望していたはずなのに、その言葉は桐乃の心を再び深く傷つけた。

笑いながら、気づけば目尻が赤く濡れていた。

「黎斗、私と彼女……どっちか一人を選んで」

五年の愛の中で、彼女がこんな絶望的に色褪せた表情を見せたのは初めてだった。

この世にもう何一つ未練がないような顔。

黎斗の瞳がわずかに揺れる。

だが口をついて出たのは冷たい響き。

「わがままを言うな。俺がいる限り、この件を引き受ける警察なんてない」

その一言で、桐乃の最後の希望が粉々に砕け散った。

怒りに笑いが混じる。

「もし今日、私がどうしても答えを求めたら?」

黎斗の深い双眸に諦めの色がかすかに浮かぶ。

「君には無理だ」

そう言った瞬間、背後のボディーガードが窓辺に歩み寄り、胸に抱えていた黒布をめくった。

現れたのは、彼女の母の骨壺。

桐乃の指先が掌に食い込み、痛みが魂にまで震えを走らせた。

「私の母を人質にするつもり!?」

黎斗の眼差しは陰鬱に沈む。

だが彼女に近づき、膝掛けをそっと掛ける仕草だけは限りなく優しかった。

「触らないで!」

桐乃は彼の頬を力いっぱい叩きつけ、血のにじむ声で叫んだ。

「あの時あんたを助けなければよかった。好きにならなきゃよかった!」

頬を打たれた黎斗は怒りも見せず、膝掛けを整える手を止めなかった。

ただ、その言葉を聞いた瞬間、彼の眉目には濃墨のような陰が広がり、身を包む寒気は凍りつくほどだった。

「桐乃、大人しく十鳥家の奥様を務めてくれ。永遠に俺から離れるな」

耳元で愛おしげに囁く。

「罰として、これから一週間は外出禁止だ。別荘で身体を休めろ。

奥様を家に送れ!」

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