All Chapters of 縁が結ぶ影〜呪われた巫女と結ぶ少年〜: Chapter 21 - Chapter 30

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縁語り其の二十一:魂の共鳴

虚無の音がした。 僕の手から滑り落ちた懐中電灯が、カツン、と一度だけ硬質な音を立て、あとは闇の中を転がる微かなカラカラという音だけを残して、光の円ごと沈黙した。 「――っ、美琴っ!!」 背中と後頭部をコンクリートの壁に叩きつけられ、肺から空気が強制的に絞り出される。一瞬、視界が白く明滅した。それでも、思考より先に、声が漏れた。 「美琴! 大丈夫!?」 霞む視界を無理やりこじ開け、身を起こす。痛みよりも先に、彼女の安否が気になっていた。 僕から数メートル離れた場所。美琴は、そこに膝をついていた。だが、その所作は驚くほど静かだった。まるで祈りを捧げるかのようにゆっくりと立ち上がると、その茶色の瞳は、目の前の闇――霊が荒れ狂う中心を、ただ真っ直ぐに見据えている。 「私は、大丈夫です。…少し、驚いただけですから……」 そう言って僕を振り返った彼女の顔は、ひどく寂しそうに微笑んでいた。 『ごめ…んなさい……私が、わるかったの……おかあさん……ごめんなさい……』 懺悔の声が、トンネルの湿った空気に溶けるように響く。先程までの空間を揺るがすほどの絶叫が嘘のように、か細く、そして哀しい。その声と共に、人の形を保っていた霊の輪郭が、急速に周囲の濃霧へと霧散していく。まるで、初めからそこには何もいなかったかのように。 「お母さん…? 今、そう言ったよね…」 僕の呆然とした呟きに、美琴は何かを堪えるように、そっと目を伏せた。 「…あの人は、数年前にこのトンネルで、交通事故で亡くなったんです」 「でも、ずっと謝ってた。それに、今の言葉も…」 「ええ」と美琴は頷く。その声には、どうしようもないほどの切なさが滲んでいた。 「きっと…心の底から後悔しているんです。本当は、決して“悪い霊”なんかじゃないんだと思います」 だが、僕の胸には、あの拒絶の絶叫が生々しくこびりついている。 「それでも…現に事故が起きているんだよね……? 他の人にとっては、やっぱり危険な存在なんじゃ…?」 「………彼女は、自分が事故を起こした時と、同じような状況…」 美琴は言葉を選びながら、静かに続けた。 「――例えば、雨の日の夜道で、車のヘッドライトを見た時。強烈なフラッシュバックに襲われて、半ば無意識に姿を現してしまうようなんです」
last updateLast Updated : 2025-05-22
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縁語り其の二十二:碧の覚醒

意識が現実へと引き戻される。 だが、そこは安息の地ではなかった。 美琴の掌に宿る紅い光。それはもはや、清浄な輝きではなかった。命の鼓動のように脈打つその光から、言葉にならない濃密な“何か”が、決壊したダムの水のように僕の魂へと流れ込んでくる。 胸の奥が激しく掻き乱される。 詩織さんの、母親へのやり場のない叫び。止めどない怒り。そして、拭いきれないほどの深い後悔。その全てが巨大な感情の渦となり、僕の意識を根こそぎ飲み込もうとしていた。 違う。これは、僕自身の感情じゃない。 それなのに、まるで我がことのように、強烈な後悔と悲しみが胸を締め付けて離さない。苦しい。息が、できない。 「先輩……! その眼…っ!」 すぐ傍らで、美琴の声が切迫して震える。 彼女の顔には、今まで一度も見たことのない、深い驚きと激しい戸惑いの色が浮かんでいた。 「え……なに……?」 彼女のただならぬ様子に、思わず自分の目元を擦る。指先に触れたのは、熱い雫だった。いつの間にか、頬を止めどなく涙が伝っている。 その涙が床にぽたりと落ちる瞬間、視界の端で、淡い光が揺らめいた。 僕の、眼が……碧く光っている……? 恐る恐る美琴を見ると、彼女はまだ動揺を隠せないまま、ためらいがちに、震える声で口を開いた。 「それは……まるで……霊眼術《れいがんじゅつ》のようですが……いえ……でも、何かが……明らかに、違う……?」 その言葉が、背筋を凍らせる。 違う? 霊眼術と、違う? そもそも、霊眼術とは一体何なんだ? 思考が、胸で渦巻く感情の濁流に呑まれてまとまらない。 でも、確かに“視た”。詩織さんの魂の記憶を。彼女が何を想い、何を求めているのか。そのあまりにも強烈な感情の奔流が、今もまだ、僕の身体の奥深くに生々しく残っている。 「先輩、今……何か、視ることができましたか……?」 美琴の問いが、水の中から聞こえるように遠い。 喉はカラカラに乾き、心臓は破裂しそうなくらい激しく脈打っている。 何を、どう答えればいい? この碧い眼は? 僕が視たあの記憶は? 言葉を探すよりも先に、抗いようのない疲労感が全身を襲った。 身体が、鉛を飲み込んだかのように、重くなっていく。 「っ……う……」 ふらついた僕の身体を、美琴がそ
last updateLast Updated : 2025-05-22
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縁語り其の二十三:緋色の瞳

朝。 薄手のカーテン越しに差し込む光が、部屋を白く照らし出していた。窓から流れ込むのは、夏の始まりを告げる、じっとりと湿った生ぬるい空気。 ゆっくりと目を開けた瞬間、額の裏に、ずきり、と鈍い痛みが走った。 身体は鉛を飲み込んだように重く、布団に縫い付けられたかのように動かせない。 昨夜の出来事が、色褪せることなく脳裏に焼き付いている。 不自然なまでに白かった詩織さんの肌。おびただしい血で赤黒く滲んだトレンチコート。そして、何度も繰り返された、掠れた言葉。 『……ごめん、なさい……』 どうしようもない後悔と悲しみに満ちた声が、まだ耳の奥で微かに響いている。 胸の奥が、ずっしりと重たい。 「……今日くらいは、学校…休もうかな…」 無意識にそう呟いた時、昨夜の美琴の、静かで力強い言葉が鮮明に蘇った。 『また明日、学校で、ゆっくりお話しましょう。私も……今夜、調べてみますから』 彼女は、もう行動を始めている。 僕だけが、ここで立ち止まっているわけにはいかない。 焦りに似た感情が、無理やり背中を押した。 重い身体を引きずり、制服に袖を通す。洗面所の鏡に映った自分の顔は、生気が抜け落ち、虚ろな目をしていた。 *** 永遠に続くかと思われた授業が、ようやく終わった。 「おーい、悠斗ぉ。お前、今日一日ずーっと死んだ魚みたいな目をしてたけど、だるそうだなー」 机に突っ伏して意識を飛ばしかけていた僕の頭上から、親友である翔太の能天気な声が降ってくる。 「…あ゛ぁ゛~……」 呻き声を返すのがやっとだ。 「どした? まーた変な心霊スポットとかに首、突っ込んだんじゃないだろうなー?」 (翔太が言うな)というツッコミも、口にする気力がない。昨夜の記憶の奔流が、まだ胸の奥で黒い澱のように燻っていた。 その時だった。 放課後のざわめきが、不意に、水を打ったように静まり返る。そして次の瞬間、今までとは違う種類の、興奮したさざ波が教室に広がった。 「え、誰あれ…? 見たことない子じゃね?」 「うわっ、待って、めっちゃくちゃ可愛いんだけど!?」 「おい、誰か声かけろよ! チャンスだろ!」 好奇心に満ちた視線が、一斉に教室の入り口へと集まる。僕も、重い頭を持ち上げ、そちらへ視線を向けた。
last updateLast Updated : 2025-05-23
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縁語り其の二十四:魂の三原色

美琴の大きな茶色の瞳が、すーっと、吸い込まれるような深い紅の色へと静かに染まっていく。 (美琴の瞳が……紅く染まった……?) それは、茜色の夕陽が最後に地上へ落とす、燃えるような一瞬の光だけを、その双眸《そうぼう》に封じ込めたかのようだった。ぞっとするほど鮮やかで、どこまでも魅惑的な、不思議な色。 遠くのグラウンドからは、サッカー部の勇ましい掛け声が夕風に乗って微かに響いてくる。だが、この校舎の屋上だけは、世界から切り離されたように時間が止まっていた。 「……すごく、綺麗な瞳の色…だね」 自分でも驚くほど、素直な言葉が口からこぼれ落ちていた。 美琴は一瞬だけ可愛らしく目を丸くしたが、すぐにいつもの穏やかな笑顔に戻る。 「ありがとうございます、先輩」 その、はにかむような笑顔が、僕の心に小さな灯火のように温かく感じられた。 だが、同時に新たな疑問が浮かぶ。 「でも、美琴…昨日のトンネルで、詩織さんの記憶を見せてくれた時、君の瞳は紅くはなってなかった気がするんだけど…?」 僕の問いに、美琴は静かに首を横に振った。 「それには、はっきりとした理由があるんです。霊眼術を発動した際に瞳の色が変化するこの現象は――同じように霊眼術の力をその身に宿している者にしか、視認することができません」 「えっ………! それじゃあ、昨夜までの僕は、まだその力がなかったから君の瞳の変化に気が付かなかったのか」 「ええ。そういうことです」 彼女の確信に満ちた頷きに、僕は昨夜、自分の眼が碧い光に包まれたあの瞬間を思い出す。僕の中で、今まで眠っていた何かが、確かに変わったのだ。 「霊眼術……それって、一体、どんな力なの?」 僕が尋ねると、美琴は何かを懐かしむように、そっとその紅い瞳を細めた。 「先輩。霊的な存在には、私たちが“影”と呼んでいるものに、それぞれ特有の色があるんです。それは、その霊が常に纏っている、魂のオーラのようなもの、とでも言えばいいでしょうか」 「影に、色が…?」 「はい。霊眼術を完全に発動させると、私たちの眼には、主に三つの“影”の色が識別できます。まず、清浄な、雪のような白い影を持つ霊。これは基本的に無害で、ただそこにいるだけの存在です」 白い影…。誠也くんの、あの穏やかな笑顔がふっと頭に浮かぶ。
last updateLast Updated : 2025-05-23
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縁語り其の二十五:対極の理

季節は春から夏へ。 日中は汗ばむ日も増え、どこからか蝉の練習鳴きが聞こえ始めた、そんな日の放課後。 僕たちは再び、あの風鳴トンネルの前に立っていた。 一人で対峙すると、やはり空気が違う。ひんやりとした異質な空気が、じっとりと肌を撫でていく。黒緑色の苔に覆われた入り口は、この世ならざる世界への門が、ぽっかりと黒い口を開けているようだった。 「先輩、以前ここで感じた、あの目の奥が熱くなる感覚…まだ、覚えていらっしゃいますか?」 隣に立つ美琴の声が、夕暮れの風に溶ける。 彼女の凛とした横顔が僕に向けられ、すっと、白い手が差し出された。 「ごめん…正直、はっきりとは覚えてないんだ。なんだか、夢の中の出来事みたいで…」 力なく苦笑すると、美琴は「そうですよね」とでも言うように、優しく頷いた。 「では、もう一度、私と手を繋いでみましょうか」 少しの照れと、それ以上の安心感。僕は、そっと彼女の小さな手を握った。 華奢で、確かな温もりを持つ手。 ――ドクン。 手を握った瞬間、心臓が大きく跳ねる。 (暖かいなにかが、が流れてくる気がする……) 目の前の視界が、ぐにゃりと揺れ始めた。空気の色が濃密に変わり、トンネルの奥の暗闇に陽炎のようなものが滲んで見える。そして、目の奥がカッと熱くなる感覚。 (これだ…! この、世界がほんの少しだけ違って見える感覚が、僕の霊眼術…!) 必死に感覚を記憶に刻み込もうとしていると、美琴が静かに呟いた。 「…無事、発動出来たようですね」 その瞬間、彼女の瞳もまた、ルビーのように鮮やかな、深い紅に染まっていく。 「霊眼の状態を、まず自分で意識して維持すること。それが、最初の第一歩ですよ」 美琴が指差した先、トンネルのひび割れた壁の一部に、古いシミのような、もやもやとした黒い影が浮かんでいた。風に揺れることなく、じっと、ただそこに“在る”。誰かの記憶の染み…?のようなもの。 「…あれが、霊が遺した想いの残滓《ざんし》です。そして――」 美琴が、紅い瞳で影を捉えたまま、そっと空いている方の手をかざす。すると、彼女の白い指先に、周囲の霊気が吸い寄せられるように、赤い光がみるみる集まっていった。 「――刻還《ときかえ》しの響《ひびき》…汝、過ぎし時の断影よ…我が静謐なる祈り
last updateLast Updated : 2025-05-24
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縁語り其の二十六:断絶の慟哭

トンネルの奥深く、濃密な霧が静かに、そしてゆっくりと立ちこめていく。 その、まるで生きているかのような霧の向こうから、あの時と同じ── クリーム色のトレンチコートを纏った女性の姿──詩織さんの霊が、ぼんやりと淡く浮かび上がってきた。 「どうやらおいでになったようですね……。」 「……っ。」 「詩織さんが……現れましたね……」 「先輩。準備は、よろしいですか?」 隣に立つ美琴の声が、夕暮れの風に溶ける。 その瞳はすでに、宝石のような深紅に染まっていた。 彼女の霊眼は、僕のものとは違う。 鋭く、研ぎ澄まされた刃のような視線が、静かに── しかし圧倒的な存在感を持って、空間そのものを緊張させていた。 「……うん。大丈夫……だと思う」   ──嘘だ。 心臓は、今にも肋骨を突き破って飛び出しそうなほどに、激しく暴れている。 僕の返事を聞いた美琴は、一度だけ頷き、僕の目をまっすぐに見つめた。 「では、お願いします。先輩が、彼女の心に触れてください」 「僕が……?」 「はい。私の“気”は、霊を退けてしまいます。 ですが、先輩の“気”は──霊を惹きつけ、その魂に寄り添うことができる。 彼女の心を解きほぐせるのは、先輩だけです」 そう言って、美琴は一歩前に出ると、両の手で印を結ぶ。 「……私が必ず、お守りしますから」  (……覚悟を……決めろ……!) その言葉は、呪いのように。 そして、祈りのように。 僕の胸に、静かに──けれど深く、染み込んでいった。 ごくり、と喉が鳴る。 「わかった……行ってくるよ」 僕は、覚悟を決めた。 そして、一歩──また一歩と、トンネルの奥へ足を踏み出す。 空気が、一気に冷え込んでいく。 足元から立ち上がる濃密な霧は、生き物のようにゆっくりと絡みつき、視界を侵していく。 その霧の奥──   クリーム色のトレンチコートに包まれた女性の姿が、はっきりと目視出来た。 鉄錆と、そして微かに混じる血の匂い。 それは、確かな“死”の気配。 「あ、あの……詩織、さん……!」 声を震わせながら、呼びかける。 その瞬間。 ずっと顔を覆っていた彼女の両手が── まるで糸が切れた人形のように、すーっと静かに下ろされた。 現れたのは── 光を完全に失った、黒く濁った瞳。 その瞳が、まっすぐ
last updateLast Updated : 2025-05-24
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縁語り其の二十七:砕けた未来

気がつくと──僕はまた、“時の止まった世界”に立っていた。 目の前に広がるのは、知らないはずの景色。 けれど、胸の奥がほんのりと温かくなるのは、なぜだろう。 薄暗いトンネルの闇は、いつの間にかすっかり消え去っていた。 今、僕が立つのは──夕暮れの光が斜めに差し込む、とある家の玄関。 窓から流れ込むオレンジの光が、止まった時間の中で、柔らかく室内を染め上げていた。 玄関先には、少女が立っている。 肩までの髪を揺らしながら、ほんの少し上を向いて微笑むその表情は、どこか晴れやかで、少し誇らしげだ。 だけど──彼女もまた、“動いていない”。 片足を踏み出したまま、手には鞄を握ったまま、時間の中に閉じ込められた彫像のように静止している。 ただ、その傍らの空間から、滲むように声が響いた。 『ただいまー! お母さん、帰ったよー!』 ……声はあるのに、動きはない。 この世界では“感情”だけが、風のように残されているらしい。 僕が一歩近づくと、玄関の引き戸──それもまた、途中まで開けられたまま凍っていた。 空間全体に、うっすらと漂う空気の層がある。 ……古い木材と、炊きたての白米の甘い香り。 少しだけ埃っぽい、けれど安心感のある匂い。 それは、たった一言のセリフよりも雄弁に、そこにあった「日常の温もり」を語っていた。 『詩織、おかえり。』 台所の奥──夕陽の光に照らされた母親の姿があった。 エプロン姿で、タオルを手に持ったまま、穏やかに娘を迎えようとするその笑顔も、途中で止まっている。 ……まるで「優しさの記憶」が、そのまま形を残したかのように。 『今日から新学期だったけど、学校はどうだった? 新しいクラスには、もう慣れたのかい?』 その声もまた、空間に染み込んで、まるで誰かの夢の中から流れてくるように優しく響いた。 続いて少女──詩織の笑い声が、どこか照れくさそうに、空間を満たす。 『んー、まあ、ぼちぼちかな! 新しい友達もできたし、結構楽しいかも!』 僕はただ、動けない彼女たちの姿の周囲を、静かに歩きながら見つめていた。 触れられない。呼んでも返事はない。 ただ、残された“想い”だけが、空間に溶け込んでいる。 ああ、これは──詩織さんの記憶。 彼女が帰る場所だった、かけがえのない日常の欠片。 ……それが、まもなく
last updateLast Updated : 2025-05-25
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縁語り其の二十八:変化の兆し

「──っ!!」 鋭く吐き出された呼気と共に、意識が荒々しく現実へと引き戻される。 視界が、ぐにゃりと波打った。 「ゲホッ……ごほっ……おえっ……!」 胃の奥からせり上がってきた熱が、喉を灼くように込み上げてくる。生々しい痛みと絶望の記憶が、濁流のように全身を駆け巡り──僕はその場に膝から崩れ落ちそうになるのを、必死で耐えた。 噴き出す冷や汗が、シャツを肌に貼り付ける。 心臓が肋骨の内側で、狂ったリズムを刻んでいた。自分の足で立っているはずなのに、その感覚すら曖昧で、確かではない。 トンネル特有の、カビと鉄錆と湿気が混ざり合った重たい空気が、容赦なく肺を満たしていく。 ぽたり、ぽたり──。 奥の暗闇から、何かが滴る音が聞こえた。規則性のないその音は、まるで誰かが、静かに泣いているようだった。 「先輩!? どうなさいました!」 反響する声が、コンクリートの壁を鋭く打つ。 いつもは冷静な美琴の声が、動揺を孕んでいた。 弾かれたように顔を上げると、彼女が紅い瞳を不安げに揺らしながら、僕を見つめていた。その白い頬はこわばり、僕の肩に触れる手が、かすかに震えている。 ──気づけば、僕と彼女の間には淡く光を放つ紅の結界が張られていた。 ……ああ、そうか。 詩織さんは──怨霊なんかじゃなかったんだ。 あまりにも深い後悔と哀しみに囚われて、ただ、そこから動けなくなってしまっただけの……一人の“人間”だった。 『……ごめ……ん……なさい……』 糸のように細い、掠れた声が鼓膜を震わせた。 結界の向こうで、彼女の頬を伝った血の涙が、ぽたり、と床の染みに落ちる。小さな音が、異様に大きく聞こえた。 その雫の一粒一粒が、僕の胸を締め上げていく。 泣き崩れる詩織さんの姿が、まるで陽炎のように揺らめいたかと思うと──静寂の中へ、すうっと溶けていった。 ただその場には、彼女の“哀しみの温度”だけが、微かな余韻として、しばらく漂っていた。 「……先輩、大丈夫ですか……?」 その優しい問いかけが、混濁しかけた僕の意識を、現実に繋ぎとめる。 僕は、なけなしの力で拳を握りしめた。爪が手のひらに食い込む痛みで、意思とは無関係に震える身体を必死に抑え込む。 「彼女の……過去を見た……。」 掠れるような、ひどく弱々しい声が唇から漏れる。 粘つく悪夢のような鈍
last updateLast Updated : 2025-05-25
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縁語り其の二十九:閉ざされた扉、残された声

僕と美琴は、蝉時雨《せみしぐれ》が脳の芯まで染み渡るような暑さの中、松田家の古びた門柱の前に立っていた。 「ここだ…。記憶で見た通り…。」 少し半信半疑だったけど…本当に詩織さんが住んでいたこの家に辿り着くことができた。 心臓の鼓動が、やけに大きく胸の奥で響いている。 ひとつ深く息を吸い込み、頭の中で何度も組み立て直した言葉を、もう一度、静かに研ぎ澄ませる。 「大丈夫。僕には、彼女の鮮明な記憶がある……」 そう自身に言い聞かせ、目の前の、時が止まったかのような一軒家を見上げた。 風雨に晒された瓦屋根は色褪せ、門柱にはびっしりと緑色の苔が張り付いている。庭の木々は人の手が入らなくなって久しいのか、好き放題に枝葉を伸ばし、湿った夏の風が吹き抜けるたびに、丈の伸びた雑草がざわざわと不気味な音を立てていた。 窓にかけられたカーテンは薄汚れ、その内側から漏れる生活の気配だけが、ゆらりとかすかに揺れている。 詩織さんの記憶で見た、あの家。雨が降りしきる夜、彼女が泣きながら飛び出したあの玄関が、今、僕の目の前に現実として存在している。 「……よし、行くぞ。」 覚悟を決め、錆びついたインターホンのボタンに指を伸ばした。 ピンポーン── 周囲の喧騒から切り離されたように、その呼び出し音だけが妙にくっきりと響き渡る。降り注ぐ蝉の声が、その音に重なっていく。 ややあって、スピーカーの向こうから、くぐもった女性の声がした。 「はい、松田ですが。」 少し掠れ、全ての水分を失ってしまったかのような、乾いた声色だった。 「櫻井悠斗と申します。松田詩織さんのことで、少しお伺いしたいことがございまして……」 そう口にした瞬間、相手が微かに息を呑む気配が伝わってきた。 ──沈黙。 わずか数秒の間が、針の筵に座らされているかのように、やけに長い。 やがて、家の内側から重い何かが動く気配がし、玄関の扉がゆっくりと開いた。 ギィィ……ィィン…… 古い木製の扉が軋む音が、張り詰めた静寂を痛々しく切り裂く。 玄関先に姿を現したのは、五十代半ばほどの女性だった。白髪が目立ち始めた髪を無造作に束ね、使い古されたエプロンを身に着けている。その顔には、拭いきれない深い疲労と、訪問者への強い警戒心が色濃く浮かんでいた。 ─
last updateLast Updated : 2025-05-25
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縁語り其の三十:止まない蝉時雨の中で

バタン、という乾いた音が、夏の湿気を含んだ静かな住宅街に小さく、しかし決定的に響き渡った。 まるで宣告のようにピシャリと閉められた扉。 その奥から、諦念とも後悔ともつかない、微かなため息が聞こえた気がした。 玄関先にぽつんと取り残され、僕はただ茫然と立ち尽くす。 遠くで鳴り響く蝉の声が、まるで分厚いガラスを一枚隔てたように、やけに遠く聞こえた。 「はぁ……っ」 思わず、重いため息が漏れる。 上手く伝えられなかった。 言葉の選び方も、心の距離の縮め方も、間違えてしまったのだろう。 松田さんのあの氷のように冷たい視線。 「詐欺かなんかかい?」という刃のような一言が、何度も頭の中で木霊する。 「私たちに具体的な接点が無い以上、やはり難しいのかもしれませんね」 隣で、美琴がそっと呟いた。 その声音は絹のようにやわらかく、僕を責めるでもなく、かといって安易に慰めるでもない。 ただ事実を静かに受け止めるような響きを持っていた。 まとわりつくような風が彼女のポニーテールを揺らし、その茶色の澄んだ瞳が、鉛色の曇り空の下で僕を案ずるように見つめている。 「だとしても……あまりにも、悔しいよ」 どうしようもない自分への苛立ちが、胸の奥で燻っていた。 詩織さんの鮮烈な記憶が、今もなお心の壁に焼き付いて離れない。 土砂降りの雨の夜、悲痛な叫び、無慈悲な衝撃音…… そして、『ごめんなさい』という、たった一人の母親に伝えることすら叶わなかった、あまりにも切実な想い。 「もう一度だけ……もう一度だけ、話をしたいんだ」 確かな意志を込めた声で、僕はそう言った。 拒絶された痛みは、まだ生々しく胸の奥で疼いている。 でも、ここで諦めるわけにはいかない。 せめて、あと一度だけ……試してみるんだ。 美琴はしばらく何も言わず、僕の言葉を受け止めていた。 その美しい横顔に、戸惑いの色は見られない。 やがて、彼女は本当にごく僅かに、微笑んでみせた。 「……では、もう少し時間を置いてからにしましょうか。 詩織さんのお母様も、今は少なからず動揺されているはずです。 少しは、お気持ちが落ち着くかもしれません」 その静かで、どこか儚げな笑顔に、ささくれ立っていた僕の心が、少しだけ温もりを取り戻していくのを感じた。 *** 陽がとっぷりと暮れ、街灯が頼り
last updateLast Updated : 2025-05-25
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