虚無の音がした。 僕の手から滑り落ちた懐中電灯が、カツン、と一度だけ硬質な音を立て、あとは闇の中を転がる微かなカラカラという音だけを残して、光の円ごと沈黙した。 「――っ、美琴っ!!」 背中と後頭部をコンクリートの壁に叩きつけられ、肺から空気が強制的に絞り出される。一瞬、視界が白く明滅した。それでも、思考より先に、声が漏れた。 「美琴! 大丈夫!?」 霞む視界を無理やりこじ開け、身を起こす。痛みよりも先に、彼女の安否が気になっていた。 僕から数メートル離れた場所。美琴は、そこに膝をついていた。だが、その所作は驚くほど静かだった。まるで祈りを捧げるかのようにゆっくりと立ち上がると、その茶色の瞳は、目の前の闇――霊が荒れ狂う中心を、ただ真っ直ぐに見据えている。 「私は、大丈夫です。…少し、驚いただけですから……」 そう言って僕を振り返った彼女の顔は、ひどく寂しそうに微笑んでいた。 『ごめ…んなさい……私が、わるかったの……おかあさん……ごめんなさい……』 懺悔の声が、トンネルの湿った空気に溶けるように響く。先程までの空間を揺るがすほどの絶叫が嘘のように、か細く、そして哀しい。その声と共に、人の形を保っていた霊の輪郭が、急速に周囲の濃霧へと霧散していく。まるで、初めからそこには何もいなかったかのように。 「お母さん…? 今、そう言ったよね…」 僕の呆然とした呟きに、美琴は何かを堪えるように、そっと目を伏せた。 「…あの人は、数年前にこのトンネルで、交通事故で亡くなったんです」 「でも、ずっと謝ってた。それに、今の言葉も…」 「ええ」と美琴は頷く。その声には、どうしようもないほどの切なさが滲んでいた。 「きっと…心の底から後悔しているんです。本当は、決して“悪い霊”なんかじゃないんだと思います」 だが、僕の胸には、あの拒絶の絶叫が生々しくこびりついている。 「それでも…現に事故が起きているんだよね……? 他の人にとっては、やっぱり危険な存在なんじゃ…?」 「………彼女は、自分が事故を起こした時と、同じような状況…」 美琴は言葉を選びながら、静かに続けた。 「――例えば、雨の日の夜道で、車のヘッドライトを見た時。強烈なフラッシュバックに襲われて、半ば無意識に姿を現してしまうようなんです」
Last Updated : 2025-05-22 Read more