All Chapters of 縁が結ぶ影〜呪われた巫女と結ぶ少年〜: Chapter 21 - Chapter 30

35 Chapters

第21話 詩織の記憶

僕の手から、懐中電灯が滑り落ち、カツン、カラン、と虚しい音を立てて、 小石を跳ねながら暗闇の中へと転がっていく。 「っ……美琴っ!!」 背中と後頭部を壁に強く打ち付け、一瞬、呼吸が止まる。 それでも、僕がまず無意識に探したのは──美琴の姿だった。 「美琴!! 大丈夫!?」 叫びながら、僕はすぐに霞む視界の中で身体を起こす。 美琴は、僕の少し離れた場所で、地面に膝をついていた。 でも、彼女はすぐに、ゆっくりと、しかし確かな足取りで立ち上がる。 深い霧の中で、彼女のあの強い意志を宿した茶色の瞳が、 まっすぐに、目の前で荒れ狂う霊の気配を見据えている。 「私は、大丈夫です、先輩。少し、驚いただけですから」 そう言って無理に微笑んでみせた美琴の顔は、なぜか、どこかひどく寂しそうに見えた。 『ごめ…んなさい……私が、悪かったの…… お母…さん……ごめんなさい……』 霊が、今度は途切れ途切れに、まるで懺悔するように、またそう呟いた。 その声と共に、彼女の、人の形をしていたはずの|輪郭《りんかく》が、急速に薄れ、周囲の霧に溶け込んでいく。 まるで、最初から何もいなかったかのように──。 「お母さん……? 今、お母さんって……」 僕が呆然とそう呟くと、美琴が、何かを|堪える《こらえる》ように、そっと俯いた。 「……あの人は、数年前に、このトンネルの中で、交通事故で亡くなったんです。」 「……でも、さ。さっきの声、ずっと謝ってたよね? それに、今の言葉も……」 「ええ。彼女はきっと……心の底から後悔しているんです。 本当は、決して“悪い霊”なんかじゃ、ないんだと思います」 美琴の声が、どうしようもなく切なげに、そして悲しく響く。 でも──それだけでは、この状況は終わらない。 僕の胸の中には、さっきの、あの空間を揺るがすほどの“絶叫”と“拒絶”が、 まだ生々しくこびりついていた。 「でも……現に、事故の要因になるって、噂では……。それって、つまり…… やっぱり、他の人にとっては、危ない霊っていうことじゃ……ないの?」 「はい。彼女は……おそらく、自分が事故を起こしてしまった時と、同じような状況── 例えば、雨の日の夜道で、車のヘッドライトを見た時などに、 強烈な
last updateLast Updated : 2025-05-22
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第22話 共鳴

霞んでいく視界の奥で、美琴の手に宿った紅い光が、まるで命の鼓動のように脈打っている。 その光から、言葉にならないほどの濃密な“何か”が、僕の魂の奥深くまで、堰を切ったように流れ込んできた。 途端に、胸の奥が激しくざわつき、頭の中が、まるで嵐の後のようにぐちゃぐちゃにかき乱される。 さっき垣間見た、あの鮮烈な記憶──詩織さんの、母親へのやり場のない叫び、止めどない怒り、そして拭いきれないほどの深い後悔。 その全てが、巨大な感情の渦となって、僕の意識を根こそぎ飲み込もうとしていた。 ……違う。これは、断じて僕自身の感情なんかじゃない。 でも、それなのに、まるで僕自身が体験したかのように、とてつもなく強烈な後悔と悲しみが、胸を締め付けていた。 「先輩……! その眼…っ!」 すぐ傍らで、美琴の声が、今まで聞いたこともないほど切迫して震えているのが分かった。 手から滑り落ちた懐中電灯の光が、頼りなげに床を揺れる中、彼女は僕の顔を、ただじっと、息をのんで見つめていた。 その表情は、今までに一度も見たことがないほど、深い驚きと、そして激しい戸惑いの色に満ちていた。 「え……なに……?」 彼女のただならぬ様子に、僕は思わず自分の目元を擦る。 その指先に、熱いものが触れた──いつの間にか、僕の頬を、止めどなく涙が流れ落ちている。 そして、その涙の雫が床にぽたりと落ちる瞬間、視界の本当に僅かな端で、不意に、淡い青い光が揺らめいたような気がした。 「……え?」 僕の目が、碧く光っている……? 反射的に、恐る恐る美琴の顔を見ると、彼女は、僕のその変化に、まだ動揺を隠せないでいる様子だった。 ためらいがちに、震える声で、彼女はゆっくりと口を開く。 「それは……まるで……|霊眼術《れいがんじゅつ》のようですが……」 霊眼術……? 初めて聞く、その不可思議な言葉の響きに、僕の頭の中はさらに混乱していく。 でも、美琴はすぐに何かを否定するように、怪訝そうに眉をひそめ、静かに首を横に振った。 「いえ……でも、何かが……明らかに、違う……ような……?」 その瞬間、僕の背筋に、ぞくりと氷のような冷たいものが走った。 違う? 霊眼術とは、違う? そもそも、霊眼術って、一体何なんだ? 考えようとしても、熱に浮かされたように、頭がうまく働いてくれない。
last updateLast Updated : 2025-05-22
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第23話 紅き瞳が映すもの

朝──。 快晴の、突き抜けるような青空から差し込む強い光が、 薄手のカーテン越しに、ふわりと僕の部屋を白く照らし出していた。 風はほとんどなく、空気は夏の始まりを告げるように、ぬるく、そしてじっとりと湿っていて、 青々とした夏の草いきれと、熱せられたアスファルトが混じり合ったような、独特の匂いが、 開け放たれた窓から、部屋の奥まで遠慮なく入り込んできていた。 ゆっくりと目を開けた、その瞬間。 頭の奥、ちょうど額の裏あたりに、ずきり、とした鈍い痛みが走る。 身体は、まるで鉛を飲み込んだみたいに重く、布団に縫い付けられてしまったかのように、ぴくりとも動かせそうになかった。 ──昨日の夜の、あのトンネルでの出来事。 そして、僕の中に流れ込んできた、詩織さんの、あの悲痛な霊の声が、まだ頭の奥で生々しく残っている。 不自然なまでに|白紫《しろむらさき》だった彼女の肌。おびただしい血で赤黒く滲んだトレンチコート。 何かを求めるように震えていた、痛々しい指先と、そして、何度も繰り返された、掠れた言葉。 『……ごめん、なさい……私が、わるいの……』 耳の奥深くで、あの、どうしようもないほどの後悔と悲しみに満ちた声が、まだ微かに響いてくるような気がした。 胸の奥が、ずっしりと重たいまま、僕は何度かゆっくりとまばたきを繰り返す。 昨夜は、何か強烈な夢を見ていたような気もするけれど、その内容は|靄《もや》がかかったように、どうしても思い出せなかった。 「……今日くらいは、学校……休もうかな……」 ほとんど無意識にそう呟いた、その瞬間。 ふと、昨夜の美琴の、あの静かで、けれど力強い言葉が、鮮明によみがえる。 『先輩、大丈夫ですか? また明日、学校で、ゆっくりお話しましょう。私も……今夜、もう少しだけ、調べておきますから。』 ……彼女は、もう前を向いて、行動を始めている。 それなのに、僕だけが、こんな風に立ち止まっていたら、きっとあっという間に、自分だけがこの流れから置いていかれる。 そんな、焦りにも似た、突き上げるような感情が、じわじわと僕の背中を無理やり押した。 ゆっくりと、重い身体をなんとか起こし、僕はクローゼットから制服を取り出し、それに袖を通す。 シャツのボタンを留める自分の手が、微かにカタカタと震えていて、 洗面所の鏡に映った
last updateLast Updated : 2025-05-23
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第24話 霊の影

美琴の、その大きな茶色の瞳が、すーっと、吸い込まれるような深い紅の色へと静かに染まっていく。 それは、まるで茜色の夕陽が最後に地上へ落とす、燃えるような一瞬の光だけを、 その双眸に閉じ込めたかのような、ぞっとするほど鮮やかで、そしてどこまでも魅惑的な、不思議な色だった。 春の終わりと夏の訪れが入り混じる、今日のこの薄曇りの空の下で、 彼女の瞳のその紅だけが、ありえないほど鮮明に、そして力強く映えている。 僕は、思わず息を呑んで、その神秘的な変化を見つめていた。 遠くのグラウンドからは、サッカー部の勇ましい掛け声や、ボールが地面を力強く跳ねる音が、 夕風に乗って微かにここまで響いてくる。 でも、この校舎の屋上だけは、まるで世界から切り離されてしまったかのように、 時間が止まったみたいに静かだった。 「……すごく、綺麗な瞳の色…だね」 自分でも驚くほど、素直な言葉が、思わず口からこぼれ落ちていた。 美琴は、僕のその言葉に一瞬だけ可愛らしく目を丸くする。 でも、すぐにいつもの穏やかな笑顔に戻り、どこまでも柔らかい声で言った。 「ありがとうございます、先輩」 その、はにかむような笑顔が、どんよりとした薄曇りの空の下で、 まるで小さな灯火のように、僕の心に温かく感じられた。 身体のだるさは、まだ鉛のように完全には抜けきってはいないし、頭の奥もズキズキと重たいままだ。 それでも、こうして彼女の笑顔を見ていると、不思議と、ほんの少しだけ元気が湧いてくるような気がする。 でも──同時に、新たな疑問が、僕の心の中に浮かび上がってきた。 「でも、美琴……昨日のトンネルで、詩織さんの記憶を僕に見せてくれた時、 君の瞳って、こんな風に紅くはなってなかったような気がするんだけど……?」 僕のその問いかけに、美琴は静かに首を横に振る。 そして、優しい微笑みを浮かべながら、その紅く染まった美しい瞳を、ゆっくりと、けれど確かに瞬かせた。 「それには、はっきりとした理由があるんです、先輩。 霊眼術を発動した際に、こうして瞳の色が変化するこの現象──これは、 同じように霊眼術の力をその身に宿している者にしか、視認することができないものなんです。 ほら、霊そのものが見える人と、全く見えない人がいるように、それと全く同じことですよ」 「なるほど……
last updateLast Updated : 2025-05-23
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第25話 対極の気、重なる想い

季節は春から夏へ──。 まだ朝晩は涼しいものの、日中は汗ばむ日も増え、どこからか蝉の練習鳴きのような、か細い声が微かに響きはじめた、そんなある日の放課後。 僕たちは再び、あの風鳴トンネル (かぜなりトンネル) の前へと足を運んでいた。 トンネルの前に一人で立つと、やはり、ひんやりとした異質な空気が、じっとりと肌を撫でていくのを感じる。 古びたコンクリートで作られた不気味な入り口は、相変わらず黒緑色の苔に覆われていて、 まるで、この世ならざる世界への門が、ぽっかりと黒い口を開けているみたいだった。 「先輩、以前ここで感じた、あの目の奥が熱くなるような感覚……まだ、覚えていらっしゃいますか?」 隣に立つ美琴の声が、夕暮れの風にそっと溶けるように響く。 彼女の綺麗なポニーテールがさらりと揺れ、その凛とした美しい横顔が、僕へと向けられる。 そして、すっと、白い手が僕へと差し出された。 「ごめん……美琴。正直に言うと、全然、はっきりとは覚えてないや。なんだか、夢の中の出来事みたいで……」 僕が力なく苦笑すると、美琴は「そうですよね」とでも言うように、小さく、優しく頷いた。 「普通は、そう簡単に思い出せるものではありませんから。……では、もう一度、私と手を繋いでみましょうか」 少しだけ照れくさくて、でも、それ以上にどこかホッとするような安心感があって── 僕は、そっと彼女の差し出してくれた、その小さな手を握った。 思ったよりも華奢で、でも、確かな温もりを持っている。そのぬくもりが、じわっと僕の胸の奥にまで染み込んでくるようだった。 ──ドクン。 美琴の手を握った瞬間、また、あの時と同じように心臓が一度だけ大きく跳ねたような感覚と共に、 目の前の視界が、ゆっくりと、そしてぐにゃりと揺れ始める。 周囲の空気の色が、ほんの少しだけ濃密に変わって、トンネルの奥の暗闇に、何か陽炎のようなものが滲んで見えた。 そして、あの時感じた、目の奥がカッと熱くなるような感覚……それを、僕は今、再びはっきりと感じていた。 僕の瞳は、きっとまた、あの時と同じように、淡い碧の光を、薄らと放っているんだろう。 (この、世界がほんの少しだけ違って見えるような感覚が……僕の、霊眼術……。 しっかりと、この感覚を、今
last updateLast Updated : 2025-05-24
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第26話 血の涙が語るもの

トンネルの奥深く、濃密な霧が静かに、そしてゆっくりと立ちこめていく。 その、まるで生きているかのような霧の向こうから、あの時と同じ── クリーム色のトレンチコートを纏った女性の姿──詩織さんの霊が、ぼんやりと淡く浮かび上がってきた。 彼女の周囲からは、鉄錆と、そして微かに、けれど確実に── 生々しい血の匂いが漂ってくるような気がした。 「先輩。大丈夫、私が必ずお守りしますので…… どうか、彼女の側へ行って、その心に触れてあげてください」 隣に立つ美琴の声が、静かに、けれど力強く僕の背中を押す。 彼女の瞳は、もう深紅の霊眼の色を宿してはいなかったけれど、 その言葉には、絶対的な信頼と覚悟が込められていた。 「う、うん……分かった、美琴」 ごくり、と乾いた喉が鳴る。 早鐘を打つ心臓の音を感じながら、僕は一歩……また一歩と、 ゆっくりと、詩織さんの霊へと足を踏み出した。 気づけば、彼女の、そのあまりにも儚げな霊体が、もう僕のすぐ目の前にいた。 「あ、あの……詩織、さん……!」 震える声を必死に振り絞って、僕は彼女へと話しかける。 すると── 今までずっと顔を覆っていた彼女の両手が、まるで糸が切れたかのように、すーっと静かに離れ、 だらりと力なく下がる。 そこに現れたのは──光を失い、どこまでも黒く濁りきった瞳。 その瞳が、感情の読めないまま、まっすぐに僕の顔を覗き込んできた。 近い……そして、怖い。 本能的な恐怖で、背中にぞわりと冷たい悪寒が走る。 次の瞬間── 『ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙!!!!!!!!!!!!!!』 凄まじい、鼓膜を突き破るような金切り声が、 詩織さんの、その小さな口から絞り出された。 トンネル内の空気が、一瞬にしてガラスのように張り詰め、 暗闇そのものを切り裂くかのような絶叫が、空間全体に響き渡る。 耳をつんざく、あまりにも悲痛なその悲鳴が、冷たいコンクリートの壁に何度も何度も反響し── 何重にも、何十重にも膨れ上がって、僕の脳髄を直接貫いた。 まるで氷のような冷たい空気が、無理やり僕の肺へ
last updateLast Updated : 2025-05-24
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第27話 戻らぬ想い

【記憶の追想:温もりの残る日々】 目の前に、懐かしいような、それでいて知らない景色が広がっている。 さっきまでの、あの薄暗いトンネルの闇は完全に消え── 今は、温かい夕陽のオレンジ色の光が、大きな窓から斜めに差し込む、どこかの家の玄関の扉の前に、僕は立っていた。 使い込まれた木の扉の、少しざらついた感触が、僕の手にリアルに伝わってくる。 そして、ふわりと、微かな──でも確かに覚えのある家の匂い。 それは、炊きたての白いご飯の甘い香りと、古い木材が持つ独特の、少しだけ埃っぽい香り── そんな空気が、僕の鼻腔を優しくくすぐった。 『ただいまー! お母さん、帰ったよー!』 僕の身体が、まるで誰かに操られているかのように自然に動き── 僕のものではない、少しだけ甲高い、若い女性の声が、喉の奥から軽やかに溢れ出る。 玄関で乱暴に靴を脱ぎ捨てる音と、カラリと開いた引き戸の音が、家の中に小さく響き渡り、 磨き込まれた廊下の、ひんやりとした木の温もりが、足の裏にじんわりと心地よく広がっていく。 『あら、詩織、おかえりなさい』 台所の方から、僕が待ち望んでいた、お母さんの温かい声が耳に届く。 目の前には、少しだけ疲れたような顔。 でも、その口元には、いつもの優しい笑みが確かに浮かんでいて、 背後から差し込む夕陽の光が、彼女の輪郭を柔らかく、金色に照らし出している。 その姿を見ただけで、胸の奥に、じわじあと安心感が広がり── 心が、ふっと軽くなるのを感じた。 『今日から新学期だったけど、学校はどうだったかい? 新しいクラスには、もう慣れたのかい?』 お母さんが、エプロンで手を拭きながら、優しく尋ねてくる。 その声に滲む、飾らない優しさが、僕の心を、まるで陽だまりのように温かく包み込んでくれる。 『んー、まあ、ぼちぼちかな! 新しい友達もできたし、結構楽しいかも!』 努めて明るく、そして少しだけおどけてそう答えると、自然と笑顔が頬にこぼれた。 『そうかい、それなら良かった。ほら、早く手を洗って、食卓に上がりな。もうすぐご飯だからね』 お母さんのその優しい笑顔に、学校でのちょっとした疲れや、新しい環境への緊張感が、すーっと溶けていく。 ああ、やっぱり、この家に帰ってきて良かった。 ここが、私の、一番安心できる場所なんだ。 ──そし
last updateLast Updated : 2025-05-25
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第28話 変化の兆し

「──はっ!!」 鋭い呼気と共に、意識が荒々しく現実へと引き戻された。 「ゲホッ……ゲホッ……おえっ……!」 記憶の中で追体験した、生々しいまでの痛みと絶望。 それらが濁流のように胃の腑から込み上げ、僕は強烈な吐き気に襲われる。 全身から噴き出した冷たい汗が肌を濡らし、 呼吸は浅く速く乱れ、心臓が肋骨の内側を狂ったように打ち鳴らしている。 膝ががくがくと震え、自分の足で立っていることすら覚束ない。 トンネル特有の湿った冷気が、容赦なく肺腑に流れ込み── 現実という名の鉛が、全身にのしかかるようだった。 「先輩!? どうなさいました!?」 美琴の声が、いつもの落ち着きを失って焦りを帯びて響く。 弾かれたように振り返ると、彼女が真紅の瞳を不安げに揺らしながら、僕を凝視していた。 その白い頬は緊張にこわばり、僕の肩にそっと触れる彼女の手は、微かに震えているように感じられた。 僕と彼女の間には、いつの間にか淡い光を放つ赤い膜── 美琴の結界が、静かに張られている。 …詩織さんは、怨霊なんかじゃなかった。 ただ、あまりにも深い後悔と哀しみに囚われてしまった、一人の“人間”だったんだ。 『……ごめ……ん……なさい……』 まるで糸のように細く、掠れた声が鼓膜を震わせる。 彼女の頬を伝う血の涙が床に滴り落ち、ぽたり、と虚しく小さな音を立てた。 その雫の一つ一つが、僕の胸の奥深くに重く響き、心を締め付けていく。 そして、結界の向こう側── 泣き崩れる詩織さんの姿が、まるで陽炎のように揺らめき、すーっと静寂の中へ溶けるように消えていった。 「……先輩…大丈夫ですか…?」 その温かさを秘めた声が、混沌としかけた僕の意識を現実へと繋ぎ止める。 僕は、なけなしの力で拳を握りしめ、まだ意思とは無関係に震え続ける身体を必死に抑え込んだ。 「彼女の……過去を見た。いや……あれは、体験したんだ……」 自分でも驚くほど弱々しい、呟きにも似たかすれた声が唇から漏れる。 まるで粘つく悪夢のように、全身をじわじわと這い回る鈍い痛みが、未だ消えずに燻り続けていた。 「彼女の名前は……松田詩織さん。 お母さんと二人暮らしで……その、婚約者の方とのことで…… お母さんを少し困らせようとして家を飛び出して……その途中で、大型トラックにはねられて……」
last updateLast Updated : 2025-05-25
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第29話 固く閉ざされた心、迂闊な言葉

僕と美琴は、 |蝉時雨《せみしぐれ》が降り注ぐ中、松田家の古びた門柱の前に立っていた。 心臓の鼓動が、やけに大きく胸の奥で響いている。 ひとつ深く息を吸い込み、頭の中で何度もシミュレーションした言葉を、もう一度、静かに組み立て直した。 「大丈夫。僕には、彼女の鮮明な記憶があるんだ」 そう自身に言い聞かせながら、目の前の、時が止まったかのような和風の一軒家を見上げる。 瓦屋根は風雨に晒され、ところどころが欠けている。 門柱にはびっしりと緑色の苔が張り付き、まるで長い年月を物語るかのように。 庭の木々は人の手が入らなくなって久しいのか、自由に枝葉を伸ばし、 湿った夏の風が吹き抜けるたびに、丈の伸びた草がざわざわと不気味な音を立てていた。 窓にかけられたカーテンは薄汚れて色褪せ、 内側から微かな生活の気配だけが、ゆらりとかすかに揺れている。 詩織さんの記憶で見た、あの家。 雨が降りしきる夜、彼女が泣きながら飛び出したあの玄関が、今、僕の目の前に現実として存在している。 「……行くぞ」 覚悟を決め、錆びついたインターホンのボタンに指を伸ばした。 ピンポーン―― 周囲の喧騒から切り離されたような古い住宅街に、 その呼び出し音だけが妙にくっきりと響き渡る。 遠くで聞こえる蝉の声が、その音に重なり、 まとわりつくような湿気を帯びた夏の風が、緊張で火照った頬を撫でていった。 「はい、松田ですが」 ややあって、インターホン越しに、くぐもった女性の声がした。 少し掠れ、どこかひどく疲弊しきったような声色。 年齢を感じさせるけれど、いわゆる「おばあさん」という響きよりは、もう少し若い印象。 けれど、その声には、まるで枯れ木が擦れ合うような、乾いた響きがあった。 「櫻井悠斗と申します。松田詩織さんのことで、少しお伺いしたいことがございまして……」 そう口にした瞬間、スピーカーの向こうで、相手が微かに息を呑む気配が伝わってきた。 ――沈黙。 わずか数秒の間が、針の筵に座らされているかのように、やけに長く感じられる。 やがて、家の内側から重い何かが動く気配がし、玄関の扉がゆっくりと開いた。 ギィィ……ィィン…… 古い木製の扉が軋む音が、張り詰めた静寂を痛々しく切り裂
last updateLast Updated : 2025-05-25
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第30話 美琴の説得

「ゴメンだね、もう帰っておくれ」 まるで|宣告《せんこく》のように、ピシャリと扉が閉められた。 バタン、という乾いた音が、夏の湿気を含んだ静かな住宅街に小さく、しかし決定的に響き渡る。 古びた木の戸がきしむ音は、まるで湿った空気を鋭く切り裂く悲鳴のよう。 松田さんの拒絶の言葉が、目に見えない冷たい壁となって、僕の目の前に音もなく立ちはだかった。 閉ざされた扉の奥から、|諦念《ていねん》とも後悔ともつかない、ため息のような微かな気配が一瞬だけ漏れ聞こえた気がした。 玄関先にぽつんと取り残された僕の心は、梅雨明け間近の、重く垂れ込めた風に翻弄される道端の草のように、ただ|茫然《ぼうぜん》とその場に佇むしかなかった。 遠くで、途切れがちな蝉の声が虚しく響き、 薄曇りの空が、影を落とす家屋の輪郭を一層長く、濃く引き伸ばしていた。 「はぁ……っ」 思わず、重いため息が漏れる。 上手く伝えられなかった。言葉の選び方も、心の距離の縮め方も、きっとどこかで間違えてしまったのだろう。 松田さんのあの氷のように冷たい視線、「詐欺かなんかかい?」という刃のような一言が、何度も何度も頭の中で木霊する。 「私たちに具体的な接点が無い以上、やはり難しいのかもしれませんね。」 隣で、美琴がそっと呟いた。 その声音は絹のようにやわらかく、僕を責めるでもなく、かといって安易に慰めるでもない、 ただ事実を静かに受け止めるような響きを持っていた。 彼女の艶やかなポニーテールが、まとわりつくような湿った風に弄ばれて、 着古したジーンズジャケットの袖がふわりと揺れる。 その茶色の澄んだ瞳が、鉛色の曇り空の下で、僕の姿を案ずるように、そっと見つめていた。 「だとしても……あまりにも、悔しくて仕方がないよ。」 美琴の落ち着いた言葉に、ほんの少しだけ心が凪ぐのを感じる。 でも、それ以上に、どうしようもない自分への苛立ちが、胸の奥で|燻《くすぶ》っていた。 詩織さんの鮮烈な記憶が、今もなお、心の壁に焼き付いた残響のようにこびりついて離れない。 あの土砂降りの雨の夜、彼女の悲痛な叫び、大型トラックの無慈悲な衝撃音…… そして、『ごめんなさい……』という、たった一人の母親に伝えることすら叶わなかった、あまりにも切実な想い。 「はぁ……」 再び、深く息を吐き出す。
last updateLast Updated : 2025-05-25
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