All Chapters of 縁が結ぶ影〜呪われた巫女と結ぶ少年〜: Chapter 21 - Chapter 30

184 Chapters

二十一話:変わりゆく心

 あれから、数日が過ぎた。  悠斗の日常は、少しずつ穏やかさを取り戻していった。あの夜の出来事は記憶の片隅へと退き、日々の流れの中に静かに溶けていく。  もっとも——心霊スポットに足を踏み入れた奏汰たちは、学校に戻るなり担任教師たちからこっぴどく絞られていたが。  完全に元通りとは言えない。あの出来事の痕跡は、まだ心のどこかにうっすらと残っている。それでも確かに、悠斗の日常は戻ってきていた。  そんなある日の、穏やかな昼下がり。  悠斗は翔太と並んで、他愛もない話に時間を費やしていた。 「ったく……。もう何度同じこと言われたか分かんねぇよ。耳にタコが出来るどころじゃねぇぜ……」 「はは……。まあ、そうだろうね。でも入ったのがあの桜織旧病院だったわけだから」 「……ああ、あそこは確かに誰でも知ってるからな。噂も相当だし」 「そうだよ。だからこそ、先生たちに絞られるのは当然だと思うよ」  少し呆れたような、けれどどこか優しい口調。悠斗らしい諭し方だった。 「うっ……それもそうか……」 「そういえば……あの時のことなんだけど。記憶の方はどうなってる? 少しずつでも戻ってきたりした?」  美琴は、翔太だけが悠斗の気持ちを軽んじなかったことを受け止め、彼の記憶のケアを引き受けてくれていた。記憶が戻る確率は五分五分——美琴はそう言っていたが、悠斗にとっては、その可能性に賭けるしかない。 「ああ、断片的にではあるけど、戻ってきてる気がする」 「そっか……それは良かった」  数秒の沈黙が流れた。重くはないが、どこか言葉の置き場に困るような静けさ。  やがて、翔太が何かを思い出したように声を上げた。 「あっ、そういえばさ。美琴ちゃんのことなんだけど……」  そこまで言って、口を噤む。伝えるべきか迷っているような表情だった。 「美琴がどうかしたの? 何かあった?」 「えっと……その、風鳴トンネルに行ってるって、裏校内掲示板に書き込みがあったらしいんだ」 「え? 風鳴トンネル……? それって一体どういう場所なの?」 「なんだ、悠斗は知らないのか? ここらじゃ桜織旧病院に次いで有名な心霊スポットだぞ。地元の人間なら誰でも一度は耳にしたことがあるような場所なんだ」 「えっと……風鳴トンネル……っと」  悠斗はスマートフォンを取り出し、検索欄に
Read more

二十二話:桜の贈り物

「……先輩も、その場所のことが気になっているんですか?」  美琴が、悠斗の顔を伺うように尋ねた。 「えっ……う、うん?」  自分でも分かっていない。なんとも間の抜けた返事だった。そんな曖昧な答えに対して、美琴がかけた言葉は—— 「また後日、その、風鳴トンネルに足を運ぶのですけど……先輩も来ます?」  一緒に来ないか、という誘い。 「えっ……」 (霊への恐怖心は……まだ消えていない。でも、なんでだろう……すごく気になる……)  霊がどのような結末を辿るのかが気になるのか。それとも、純粋に美琴の力の謎に惹かれているのか。悠斗自身にもわからない。  だが——答えは決まっていた。 「……うん。僕も、行きたい」  短い逡巡の後に出た声は小さかったが、そこには確かな意志が宿っていた。  その時—— (あれ……?)  ほんの一瞬。美琴の口元に、嬉しそうな笑みが浮かんだように見えた。確かにそう映った気がしたのだ。 (今、笑ってたよね……?)  だが改めて彼女の顔を見ても、先ほどの笑みの痕跡は微塵も残っていない。 「では、数日後にそちらのトンネルへ参りましょうか」  普段と変わらない、落ち着いた口調。それだけだった。  そして美琴は、ポケットから見覚えのあるものを取り出し、大切そうに両手で包み込んだ。 「それは……」  悠斗の視線が、その手元に吸い寄せられる。誠也の家族の想いが込められた——あの犬の人形。 「はい。誠也くんの遺品です。今日、この人形を桜織旧病院の敷地内へ埋めてこようと思っているのですけど……先輩も如何ですか?」 「……自分も無関係じゃないし、きっと誠也くんも二人で行った方が喜ぶよね?」 「ええ。もちろんです」  美琴は静かに、けれど確かな意志を込めて頷いた。 「では、行きましょうか。先輩」 「うん」  。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸  日が沈みかけていた。  茜色の光が、廃墟となった桜織旧病院の輪郭を柔らかく染め上げている。かつて命の灯火が宿ったこの場所は、今は静寂だけを纏い、夕暮れの中でひっそりと佇んでいた。 (また……ここに来ることになるとは思ってもみなかったな)  悠斗は建物を見上げ、心の中で静かにそう呟く。  ここは、悠斗にとって何かが大きく動き始めた場所だ。あの夜、
Read more

二十三話:待ち合わせの鼓動

 さらに数日後——。  桜織駅のホーム。悠斗は改札の前に立ち、スマートフォンで時刻を確認していた。 (約束の十五分前……。早く来すぎたかな)  そう思いながらも、視線は自然と身だしなみへ向かう。 「別に変じゃないよね……」  小さな呟きが唇から零れた。何度目かの確認。襟元、袖口、髪の流れ——鏡がないから、ガラス越しに映る自分の輪郭を頼りに指先で整えるしかない。  今日は私服だった。  制服でしか顔を合わせたことのない美琴と、初めて——私服で会う。  その事実が、じわりと胸の奥で重みを増していく。心臓の鼓動がいつもより一拍だけ早い。襟元に触れる指先の、かすかな震え。気づかないふりをしているが、確かにそこにある高揚が、悠斗の呼吸を浅くしていた。  それから数分後。 「先輩、お待たせしました」  背後から、凛とした声。  ——美琴だ。  約束の十分前。時間を正確に守る几帳面さに、悠斗は思わず口元を緩めた。息を乱した様子もなく、ただ静かにそこに立っている。 「……待たせてしまいましたか?」  穏やかな問いかけ。けれどわずかに寄せられた眉に、不安がにじんでいた。 「あ、あはは……。念のために早く出てきたら、思ったより早く着いちゃって」  軽い口調で返したつもりだった。けれど胸の内では、別の感情がひそかに渦を巻いている。  ——本当は、違う。  穏やかで、恋愛に興味がなさそうに見える悠斗でも。いや、だからこそかもしれない。制服ではない美琴に会えることを、密かに、確かに楽しみにしていたのだ。  美琴は学校の中でも指折りの美少女だと、客観的に見ても悠斗はそう思う。清楚で控えめな佇まいが、彼女の魅力を一層引き立てていた。実際、二年生の間では「とてつもなく可愛い後輩がいる」という噂がすでに広まっていて、その話は悠斗の耳にも何度か届いている。今後さらに人気が出るのは間違いないだろう。  そんな彼女の私服姿は——デニムジャケットの下に白いTシャツ、ベージュのスカート。装いはシンプルだった。だが、かえってそれが彼女の清楚な空気を際立たせている。春の風に軽く揺れるスカートの裾が、どこか初々しい。 (可愛い……)  心の中で呟いた瞬間、頬に熱が走った。  その言葉を口にすることなど、到底できない。喉の奥でつかえたまま、形にならず溶けていく。ただ美琴
Read more

二十四話:血に溺れた影

 バスを降りてから数分ほど歩いただろうか。緩やかな傾斜の山道を進んでいくと、木々の合間から、それはゆっくりと姿を現し始めた。 「こ、これは……」  ——風鳴トンネル。  風が内部を通り抜ける際に発する音が、まるで何かの鳴き声のように聞こえることから、地元でそう呼ばれるようになったという。  だが今では、まったく別の意味で「鳴く」のだと囁かれている。風の音に混じって聞こえてくるのは——どこか悲しげな、誰かを呼ぶような、女の泣き声なのだと。  巨大な獣が口を開いている。  そんな比喩が、悠斗の脳裏に浮かんだ。静寂に沈むトンネルの入口は、何かを待ち受けているような、あるいは何かを呑み込もうとしているような不穏さを纏っていた。入口の脇に貼られた「立入禁止」の看板は赤錆に侵され、その警告はもう何年も前から誰にも顧みられていない。  壁面には苔が這い、生き物の皮膚のようにしっとりと湿っている。入口の上部に掲げられた「風鳴トンネル」の銘板は、文字の一部が剥がれ落ち、かろうじて読み取れる程度だった。  足元の道が妙に濡れていた。雨が降った様子はないのに、いくつもの水たまりが点在している。まるでトンネルそのものが何かを滲ませているかのような——不自然な湿り気だった。 「……み、美琴は……本当にこんな場所に、一人きりで来たの……?」 「ええ。もう、この場所の見た目からお分かりになると思いますけど……」 「うん……本当に、いかにも何かが出そうな雰囲気だよね……」 「ふふ、実際にいらっしゃいますからね」  美琴は静かに、けれどはっきりとした口調でそう言った。 「それにしても……なんだろう……」 「どうしました?」 「このトンネル、すごく不気味だ……でも、それだけじゃない。……寂しさみたいなものも、感じる……」 「えっ……?」  美琴が一瞬、驚いたように目を見開いた。だがすぐにいつもの表情に戻り、何かを噛み締めるように小さく頷く。 「……とりあえず、行きましょうか」 「そうだね……」  二人はトンネルの入口へ足を踏み入れた。  その瞬間——まるで見えない壁を通り抜けたかのように、悠斗の背筋を冷たいものが這い上がる。単なる気温の変化ではない。もっと本能的な、得体の知れないものの気配を肌で感じ取るような、そういう種類の冷たさだった。 「……先輩。こち
Read more

二十五話:届かない声

 薄暗いトンネルの中、悠斗と美琴の前に姿を現したのは——漆黒の髪を持ち、血に染まったコートを纏った女性だった。  異様な存在感。二人は同時に息を呑んだ。  女性は両手で顔全体を覆い隠している。細い指の隙間から鮮血が絶え間なく滴り落ち、湿った音を立てて地面に染みていく。  そして——周囲の空気が一変した。鼻の奥を焼くような、鉄錆びた血の臭い。じわじわと辺り一帯を侵食するように広がっていく。 「っ……く……!」  あまりの臭気に、悠斗は思わず顔をしかめた。だが美琴は——そんなことなど意に介さぬ様子で、女性の霊へと歩み寄っていく。 「み、美琴!?」 「……もう大丈夫ですよ」  ゆっくり、ゆっくりと。霊を刺激しないよう、美琴は静かに歩を進める。 『なん……で……。どうして……こん……な……ことに……っ……』 「あなたのこと、私に教えてください」 (同じ人とは言っても……!!)  美琴と同じ行動を取ることなど、悠斗には到底できなかった。その事実が、絶望的なほどはっきりと胸に刻まれる。  全身を血に染めた霊の姿。痛々しく、目を背けたくなるほどの凄惨さに、悠斗の足は完全に竦んでいた。一歩たりとも、前へ踏み出せない。  ——そして美琴は、もう霊の目の前にいた。 (美琴……!) 『来ない……で……来ないで……!』  霊の声が震えていた。恐怖なのか、それとも別の何かなのか——悠斗にはまだ判別できない。 「……私はあなたの敵ではありません。あなたのことが知りたいだけなんです。何を抱えているのか、教えてほしいんです」  美琴の声は穏やかで、優しかった。怯えた小さな命を労わるような、慈愛に満ちた響き。 『来な……いで……! お願い……来ないで……!』  霊の声はさらに切迫し、懇願するような色を帯びていく。だが美琴は歩みを止めない。 「何に対して、そんなに苦しんでいるんですか? 何があなたをそこまで追い詰めているんですか? ——私に、聞かせてください」  静かだが、確かな意志を宿した声。霊の痛みに寄り添おうとする真摯な想いが、一語一語に滲んでいる。  もう手が触れられる距離だった。あと一歩——ほんの一歩踏み出せば、その手は届く。  だが——その直後。 『来るなァァァァァァァァ!!!!!』  トンネル全体を震わせるような金切り声が炸裂した。空
Read more

二十六話:触れる前の選択

 美琴は少し間を置き、慎重に言葉を選ぶようにして尋ねた。 「……先ほど、『トラックに轢かれた』とおっしゃいませんでしたか?」 「うん。さっき、本当に凄まじい勢いでトラックが突っ込んできたように感じたんだけど…」 「はい。……それから、どうなったのですか?」  美琴は続きを促すように、静かに問いかける。 「轢かれて、視界が一瞬で反転した。天井と地面が入れ替わるような感覚だった」 「でも、不思議なことに痛みはなかった。言葉にできない嫌な感覚……」 「全身の骨という骨が一斉に折れるような、身体の中で何かが砕け散っていくような、そんな感覚が一気に襲ってきた……としか言えないかな」 「…………」  美琴は言葉を返さない。  ただ沈黙の間で、美琴の息遣いがかすかに乱れるのを、悠斗は感じてしまう。  そこには、何かを必死に押し留めている気配があった。 「分かりました。先輩」  美琴は一度息を整えた。 「これから私は、この場に残されている霊の残滓というものを集めて、少しばかりではありますが、彼女が生前に辿ってきた過去を読ませていただきます」 「……残滓? この間、誠也君の過去を見せてもらった時と同じような力なのかな?」  困惑は消えていない。  けれど前回とは違い、悠斗は逃げずに問い返した。 「ええ。基本的な仕組みとしては、ほとんど同じものだと思っていただいて構いません」  美琴は一度言葉を区切り、説明を続ける。 「ただし、一つだけ大きく違う点がありまして……」 「霊本人に直接触れて記憶を読むよりも、どうしても精度が落ちてしまうということです」 「それから、彼女が何を感じていたのか……そういった心の内側にある感情のようなものまでは、残念ながら読み取ることができません」  美琴は丁寧に言葉を選びながら、説明していく。 「そうなんだ……」  悠斗が短く呟くと、美琴はまた少し間を置いた。 「先輩は、どうなさいますか?」 「……え?」  突然の問いに、悠斗は一瞬言葉を失う。 「彼女が……この場所にずっと留まり続けている理由というものを、先輩は本当に知りたいと思われますか?」  その問いかけは、まるで静かな波紋のように、悠斗の胸の奥深くへとゆっくりと沈んでいく。 (……僕は、恐怖を感じていた)  あまりにも痛々しいあの姿に、心の
Read more

二十七話:記憶の残滓

 真っ白に染まった視界——色彩という概念そのものが消失した、純白の世界が広がっている。  重力さえ失われたような浮遊感の中で、悠斗は完全に身動きを封じられていた。手足に力を込めても、見えない拘束が全身を絡め取り、指先ひとつ思うように動かせない。 「身体が動かない……!」  必死に視線を巡らせるが、前回と同様、どこまで見渡しても何一つ存在しない。果てのない白が、ただ無慈悲に続いているだけだった。  音もない。気配もない。虚無だけが冷たく横たわる世界。  だが——その静寂を裂くように、悠斗の耳へ、たった一つの確かな音が届き始める。 『お母さんっ!』 『ぼちぼちかな!』 『お腹空いたー!!』 『うーん…どうしたらいいのよ…』 『お母さんの馬鹿!!! もう知らない!!』 『なんで……!! どうしてわかってくれないの!? あの人は…! そんな人じゃない!!』  声の一つ一つに、生々しい感情が波となって流れ込んでくる。  溢れんばかりの喜び。希望に満ちた期待。深い悲しみと、抑えきれない怒り。そして何より——自分自身を焼き尽くすほどの、苦しい後悔。 「なんだ……! これ……! 胸が苦しい…!」  唐突に押し寄せた感情の奔流に、悠斗の思考が追いつかない。感じたことのない強烈な想いが、心臓の奥で渦を巻いている。  やがて——白い世界に、変化が訪れた。  遥か奥から、一筋の光が迸る。  最初は針の穴ほどの輝きだった。だが次の瞬間、堰を切った濁流のように膨れ上がり、光の奔流となって悠斗へ迫る。  白を超えた、別の次元の光。眩しさという感覚すら置き去りにして、存在そのものを呑み込んでいく輝き。 「うわっ……!」  目を閉じようとするが、瞼の感覚すら定かではない。光は容赦なく全身を貫き、体という境界線が溶け落ちていく——自分という輪郭が、光の中へ融けていくような感覚が、意識の端を侵食していった。  そして、光が最高潮に達したその瞬間——。  悠斗はいつの間にか、見知らぬ一軒家の中に立っていた。  先ほどまでの白い虚無は跡形もなく消え去り、足の裏には確かな床の感触がある。生活の気配が染み付いた空気が、肌をそっと包んでいた。 「……ここは…?」  ゆっくりと辺りを見渡す。誠也の記憶を覗いた時と同じように、過去の情景が映し出されていた。  だが
Read more

二十八話:揺らぐ境界

「先輩…! どうされました!?」  美琴が悠斗の目を覗き込む。その瞬間——彼女の表情が凍りついた。見開かれた瞳、引き攣る口元。息を呑む気配だけが、暗いトンネルの中に張り詰める。 「先輩……、その目……その目は……!」 「目……?」  悠斗の指先が、おそるおそる自分の頬へと伸びた。触れた肌は冷たく、濡れている。何かが伝い落ちている——絶え間なく、とめどなく。 「あれ…どうして僕…こんなに……」  涙だった。堰を切ったように溢れ出し、自分の意思とは無関係に流れ続ける透明な雫。理由が分からない。悲しいのかどうかさえ、判断がつかなかった。  そして、もうひとつ——悠斗は奇妙なものに気づいた。  暗闇に包まれたトンネルの中、足元に落ちる自分の影。その目に当たる部分だけが、碧く脈打っている。不気味なほど鮮やかな光が、闇の底で静かに呼吸をしていた。 「な、なにこれ……。一体、僕の身体はどうなっているんだ……」  声が震えた。自分のものとは思えないほど、頼りない響きだった。 「……っ。先輩、どうか落ち着いて下さい」  美琴の声には、抑えきれない切迫がにじんでいた。けれどその言葉は、悠斗に向けられると同時に、彼女自身を繋ぎ止めるためのものでもあるように聞こえた。 「一度…、このトンネルの外へ出ましょう。ここにいては、先輩の心も身体も休まりませんから」 「……うん」  差し出された手に導かれるまま、悠斗はおぼつかない足取りでトンネルの出口へと向かった。  。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸  トンネルを抜けた先の、苔むした石段に腰を下ろす。冷えた石が太腿に触れ、湿った空気が肌をなぞった。どこからか、土と緑の混じった匂いが漂ってくる。 「先輩……、大丈夫ですか? 顔色があまりよろしくないです……」  美琴の声が耳に届く。覗き込んでくるその瞳の奥に、隠しきれない不安の翳りが見えた。 「…ありがとう」  悠斗は短く答えた。それだけで精一杯だった。  あの感情を、静かに思い返す。トンネルの中で突如として込み上げてきた、名前のつけようもない激情。胸の奥にはまだ余熱が残り、誰かの想いが自分の内側で燻り続けているかのようだった。確かに自分のものではない。けれど確かに、自分の中にあった。涙はもう止まっている。それでも心は、まだ静まらな
Read more

二十九話:霊眼術

「巫女の巫術…だって?」 悠斗の声が震えた。予想もしなかった言葉が、胸の奥で静かに波紋を広げていく。 「ま、待って。美琴が何かを僕にしたんじゃないの?」 美琴はゆっくりと首を横に振った。否定の仕草でありながら、どこか悠斗を気遣うような柔らかさがあった。 「いいえ、残念ですが私は先輩に何もしてません。私は先輩へ霊気を流しただけですから。まだ私は彼女の過去すら見れてないのです」 「恐らく、私の霊気に触発されて、元々持っていた能力が目覚めたのでしょう。あるいは、突然変異したか……」 静かだが、確かな響き。悠斗の胸に、新たな疑問が浮かぶ。 「じ、じゃあ、彼女の過去を見たのは……」 「……はい。先輩だけです」 迷いのない声だった。悠斗は息を呑む。自分だけが、あの光景を見た。自分だけが、あの女性の記憶に触れた。 「霊眼術……」 口にした言葉は、自分自身に言い聞かせるような響きを帯びていた。 「先ほど申し上げた通り、これはあくまで推測の域を出ません。断定することはできないのです。なぜ先輩が霊眼術を発動することができたのか、その理由については……」 美琴の声は慎重だった。言葉を選び、断言を避けている。彼女もまた、この事態の全容を掴みかねているのだ。 「それは今後、二人で調べましょう」 穏やかでありながら、揺るがない決意を秘めた声。悠斗は美琴の顔を見つめ、小さく頷いた。不安も疑問も消えてはいない。けれど、一人ではないという事実が、胸の奥にひとつ灯をともす。 「うん」 美琴は静かに微笑み、辺りを見渡した。 「……ひとまず、もうすっかり日が暮れて辺りも暗くなってきてしまいましたし、そろそろ帰りましょうか」 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸 二人は再びバス停へと向かい、揺られながら地元へと戻った。車窓に映る街の灯りが、少しずつ数を増していく。 エンジンの低い振動だけが、沈黙の中を満たしている。不意に、美琴が口を開いた。 「先輩、明日はきっと大変だと思います」 「えっ……? そ、それはどうして?」 悠斗は思わず身を乗り出した。美琴の表情は真剣で、どこか申し訳なさが滲んでいる。 「霊眼術を先輩は発動しました。明日は、全身が鉛のように重くなり、頭痛が来るはずです」 「……」 美琴の言葉が、静かに沈んでいく。 「つま
Read more

三十話:注目の代償

 翌朝。  自室の窓から差し込む陽光が、悠斗の薄い瞼を透かして視界を淡く白に染め上げた。  意識が覚醒へと向かうと同時に、全身にのしかかるような重い倦怠感が襲いかかってくる。たっぷりと睡眠をとったはずなのに眠気は晴れず、頭の芯には鈍い疼きが居座っていた。 「……あぁ。これが、霊眼術の副作用か……」  掠れた声が部屋に落ちる。  昨日、あの薄暗いトンネルの中で起きた不可解な現象――深い闇の中で自身の瞳が妖しい碧色に発光した瞬間が、網膜の裏に鮮明に焼き付いていた。 (……巫女の巫術。それがなんで、僕なんかに……)  思考を巡らせようとするだけで、目の奥がズキリと鋭く痛む。  まるで、答えのない問いに踏み込もうとする脳を、身体そのものが拒絶しているかのようだった。 「今日は、学校……休もうかな……」  弱音を吐き出した瞬間。  泥のように沈む意識の底から、凛とした美琴の声が響いた。 『私は明日から、もう一度霊眼術に関して情報を集めます』 『それと、近いうちに霊眼術の扱い方を教えますから』  彼女はもう、前を見据えて進んでいる。得体の知れない力に振り回される自分のために、すでに動き出してくれているのだ。  そう思うと、冷え切っていた胸の奥に小さな熱が灯った。  ここで自分が立ち止まってしまえば、美琴の足を引っ張ることになる。彼女の覚悟に応えられない自分が情けない――そんな悔しさが、悠斗の背中を押した。 「……うぅ。行くしか、ないか」  きしむ身体を無理やり引きずり起こし、悠斗は機械的に朝の準備を始めた。  ワイシャツに袖を通すのも一苦労で、ボタンを留める指先には力が入らない。  重い足取りで洗面台の前に立ち、鏡に映った己の姿を見据える。  目の下にはどす黒い隈が張り付き、顔色は血の気を失って青白い。全く生気が感じられず、まるで何日も徹夜を重ねたかのような有様だった。 「ははっ……。酷い顔だな……」  ひび割れたような声で自嘲し、蛇口をひねって両手で掬った冷水を顔に浴びせる。  ひんやりとした刺激が頬から熱を奪っていくが、身体の芯にこびりついた倦怠感までは洗い流せなかった。  それでも、悠斗は前を向く。  鏡の中の青白い自分から目を逸らし、学校へ向かうための鞄を手に取った。  。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀
Read more
PREV
123456
...
19
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status