All Chapters of 縁が結ぶ影〜呪われた巫女と結ぶ少年〜: Chapter 31 - Chapter 40

172 Chapters

縁語り其の三十一:たった一度でいいから

「……一度だけで、構いません。どうか、私たちを信じて、共に来てはいただけませんか……?」 静寂を破ったのは、美琴の凛とした声だった。その響きには、有無を言わせぬ不思議な力が宿っている。 「……それで、一体なにをするっていうんだい」 絞り出すような松田さんの声は、疑念と疲労で掠れていた。 *** 頑なに心を閉ざしていた松田さんだったが、美琴の真摯な眼差しに何かを感じたのだろう。重い足取りながらも、無言で僕たちの後を歩き始めた。 藍色の絵の具を深く溶かしたような夏の夜が、街を支配している。ナトリウムランプの侘しい光だけが、等間隔に闇を穿ち、頼りない道筋をぼんやりと照らし出していた。じっとりと肌に纏わりつく夜気の中、遠くで途切れがちに響く蝉の声が、世界の終わりを告げているかのようだ。 (ひとまず……来てはくれたけど……) 僕の少し前を歩く松田さんの背中は、ひどく小さく見えた。着古した薄手のコートは、彼女が一人で耐え忍んできた歳月を雄弁に物語っている。まるで両足に重い枷でも嵌められているかのように、その一歩一歩は覚束なく、地面を擦る枯れ草の音だけが、やけに乾いて響いた。 「……何の目的もなしに、年寄りをこんな気味の悪い場所へ連れ出したわけでもあるまい」 不意に、松田さんの低く乾いた声が、湿った空気にナイフのように突き刺さる。 「もう一度聞くよ。……あんたたち、ここで何をする寸法なんだい?」 その言葉には、隠しきれない警戒心と、深い絶望が滲んでいた。無理もない。最愛の娘が命を落とした忌まわしき場所へ、訳も分からぬまま再び足を踏み入れる苦痛は、想像を絶する。 僕はゆっくりと振り返り、彼女の瞳を見つめた。街灯の頼りない光に照らされたその奥には、悲しみと、もう何も信じまいとする硬い諦めの色が浮かんでいる。 「あなたをどうこうしようという考えは、決してありません。ただ……どうしても、詩織さんの最後の想いを、あなたに届けたい。その一心なんです」 言葉を慎重に選び、誠心誠意を込めて伝える。しかし、僕の言葉は夜の闇に吸い込まれるばかりで、彼女の心の壁を通り抜けることはできない。 「届ける……? 死んだ詩織が、どうやって……この私に想いを伝えるって言うんだい!」 悲痛な叫びが、僕の胸を抉る。 「私が、お二人を必ず会わせてみせます。だから……」 美琴が静か
last updateLast Updated : 2025-05-26
Read more

縁語り其の三十二:母を呼ぶ声

  『ごめん……なさい……ごめ……ん…なさ…い……っ』   途切れ途切れの声が、湿ったトンネルの洞《うろ》にじわりと染み込みながら木霊した。 それは地の底から這い上がるように掠れ、壁という壁、天井という天井にまとわりつくように反響する。 その痛切な謝罪は、ただでさえ重苦しい空気を、さらに鉛のように沈み込ませていく。 ひゅう──。 一段と冷たい風が吹き抜け、汗ばんだ頬を冷酷に撫でた。 ぽた、ぽた、と詩織さんの流す血涙が、冷たいコンクリートに落ちる。 粘り気のある赤い雫が、静寂を汚すようにして落ちるその音が、耳の奥でやけに大きく響いた。   「なっ……なんだい!?」 松田さんが、心臓を直接握り潰されたかのように驚愕し、たたらを踏んで二、三歩、後ずさる。 その瞳が恐怖に大きく見開かれ、血の気が引いた顔面は土気色に変わっていく。 両手は本能的に胸元で固く握られ、何かを拒絶するように震えていた。 その瞬間──美琴が、音もなく、しかし素早く動いた。 松田さんの背にそっと手を添え、それ以上逃げないように、静かでありながら確かな力でその身体を支える。 彼女の瞳には、嵐の前の静けさのような、揺るがぬ決意が宿っていた。 「ここで貴女が逃げてしまえば、彼女は本当に“悪霊”になってしまいます……。どうか……目を逸らさずに、見てあげてください」 「ま、待ちなっ! あんたたち、これ……テレビのドッキリか何かなんじゃないのかい!?」 裏返った松田さんの声は、ほとんど悲鳴に近かった。 拭いきれない恐怖と、極限の混乱。目の前の非現実を、どうしても拒絶したいという魂の叫びが、その叫びには滲んでいた。 「いいえ。決して、そのようなものではありません」 「……あなたの恐怖も、痛いほど分かります。ですが……どうか、私たちを信じてください」   美琴の声音は、羽毛のようにやわらかく、けれどその芯には、どんな嵐にも屈しない岩のような信念が宿っていた。 その言葉ひとつひとつが、凍える夜気に灯る焚き火のように、じんわりと響いていく。 「な、なんだってこんなことに……」 松田さんが、まるで催眠術にでもかけられたかのように、渋々とトンネルの奥へ視線を戻した。 まだその瞳には、疑念と恐怖の色が渦巻いている。けれど、美琴の声に背を押されるようにして──彼女は一歩、ま
last updateLast Updated : 2025-05-26
Read more

縁語り其の三十三:あなたに、謝りたくて

『お母さァァァァァァァァん……! ゴメンナサイィィィィィ……!』 魂を絞り出すような叫びが、湿り気を帯びた闇色のトンネルに痛切に響き渡る。 泥と血痕にまみれたクリーム色のコート。 生気を失った白紫がかった肌は、トンネルの入口から差し込む微かな月明かりに、この世のものとは思えぬほど不気味に浮かび上がっていた。 「ば、ばけもの……!」 松田さんの顔面が恐怖で蒼白になり、言葉にならない引き攣った呻きが唇から漏れた。 その瞳が限界まで見開かれ、全身が恐怖という冷たい鎖に縛られていくのが、僕にも痛いほど伝わってくる。 (無理もない……!あの姿は、恐怖そのものなんだから) 後ずさる松田さんの身体を、美琴がすかさず、しかしどこまでも優しく支えた。 そして、その震える口元にそっと指を添える。 「そんなふうに……言わないであげてください」 「確かに、彼女の今の姿はあなたにとって恐ろしく映るかもしれません」 「ですが、彼女は本当に……あなたの娘さんなのです」 その声は、夜露に濡れた絹糸のように柔らかく、けれど決して折れぬ柳のように凛としていた。 詩織の哀しい存在を否定するのではなく、そっと包み込み、受け入れようとする深い慈愛が込められている。 僕は、どうしようもない無力感に揺さぶられていた。 詩織さんの切実な想いを母親に届けるためだけに来たというのに、ただ唇を噛み締め、息を凝らして立ち尽くすことしかできない。 詩織さんは、ただまっすぐに、母親の胸へ飛び込もうとするかのように走ってくる。 そのあまりにも痛々しく、悲壮なまでの姿が僕の胸を締め付けた。 「大丈夫ですよ。さあ、詩織さんの本当のお姿を、よく見てあげてください」 美琴が、松田さんの背中にそっと、しかし確かな力で手を添える。 その手のひらから、ふわりと緋色の温かな光が紡ぎ出され、緩やかで、しかし侵しがたい守護の膜となって彼女の全身を包み込んだ。 凍てついた心が、陽だまりのようなぬくもりでゆっくりと溶けていく。 刹那── 詩織さんの姿が、陽炎のように揺らめき、ゆっくりと、確かに変わっていった。 泥と血の汚れが、朝霧が晴れるように消えていく。 くすみきっていた肌が、生前の柔らかな温かみを取り戻し、苦悶に歪んだ表情が、春の雪解けのように
last updateLast Updated : 2025-05-26
Read more

縁語り其の三十四:母の想い、子の想い

松田さんが、はっ、と息を呑む。 その深い皺に刻まれた溝を伝って、まるで長年凍りついていた氷河が溶け出すかのように、熱い雫が次から次へと溢れ出した。 「詩織……? 本当に……本当に、詩織なんだねぇ……?」 『うん……うん……! お母さん……!』 詩織さんが、何度も、何度も、幼い子供のようにこくこくと頷く。その姿は、六年前、家を飛び出したあの日のままだった。 「なんてことだ……なんてことなんだい……。ああ、本当に……詩織なんだねぇ……」 『ごめんなさい……! あの時、子供みたいな意地を張っただけだったの……』 詩織さんは、胸の奥に固く閉じ込めていた言葉を、懺悔するように零していく。 『……数時間で戻るつもりだった。そしたら……お母さんも、あの人とのことを、少しは認めてくれるかもしれないって思ったの……』 そこで言葉が途切れる。言いたいことは山ほどあるはずなのに、想いが声にならず、ただ唇が震えていた。松田さんは、もはや何も言わず、ただ静かに、娘の言葉にならない言葉に耳を傾けていた。その目元から、とめどなく涙が流れ続ける。 『でも……でもね、お母さん……私、戻れなかった……! 家に、帰れなかったんだよぉ……!』 支えを失ったように、詩織さんがその場に泣き崩れる。 刹那―― 彼女の身体から、蛍火のような光の粒が、魂の欠片そのものであるかのように舞い上がり始めた。 (ああ──還ってしまうんだ……) この世の未練から解き放たれ、あるべき場所へと。そのあまりに儚い光景に、僕は息を呑んだ。 松田さんが、ふらつきながらも、一歩、また一歩と娘へと歩み寄る。美琴がそっと彼女の背中に手を添え、まるで促すように、優しく後押しした。 「詩織…っ! 痛かったろうに……! 苦しかったろうにねぇ……っ!」 松田さんは、泣きじゃくりながら詩織さんの小さな身体を力強く抱きしめた。透きとおり始めたその身体を、失われた六年を取り戻すかのように。 その温もりに触れた瞬間、詩織さんの堪えていた感情がついに決壊した。 『もっと……!!もっと一緒に居たかった……!!こんなに早く……死んでしまって……ごめんなさい……っ……!』 「お母さんこそ、ごめんよぉ……! あたしゃ、お前の気持ちを信じてやれんで……。本当に、悪かったねぇ……詩織……
last updateLast Updated : 2025-05-27
Read more

縁語り其の三十五:風の止む時

詩織さんの身体から放たれた光の粒子が、最後の瞬きのように宙を舞う。星屑の川となって夏の夜空へと溶けていく淡い輝きが、トンネルの闇を優しく照らしていた。 彼女が、未練を断ち切った事によって、成仏する事が出来たんだ。 トンネルを満たしていた、肌を刺すような冷気がふっと和らぎ、代わりに不思議な温もりが辺りを満たしていく。遠くから微かな蝉の声が戻ってきて、湿った風が僕たちの頬を穏やかに撫でた。 松田さんは、その深い皺に刻まれた溝を伝う涙も拭わず、光が消えた天をじっと見つめていた。 「ありがとう、詩織。苦しませて、ごめんねぇ……。母さん、これからちゃんと、前を見て生きるからね……」 かすれたその声には、長年積もった後悔と、ようやく訪れた救いが滲んでいる。僕も胸の奥がじんわりと熱くなり、詩織の想いが届いたことに、心から安堵した。 だけど、その感傷に浸る間もなく── 「……っ!」 隣に立つ美琴の呼吸が、ふと浅くなるのに気づいた。彼女の身体が、糸が切れたように不意に傾ぐ。 「美琴!!?」 慌ててその華奢な肩を抱き寄せると、彼女は膝を折り、そのまま僕の腕の中に崩れ落ちそうになった。頬に乱れた茶髪が張り付き、街灯の光の下で見たその顔は、いつにも増して血の気がなく、白く見えた。 「すみません……先輩……少し、力を、使いすぎたみたいです……」 掠れた声で、申し訳なさそうに美琴が呟く。 彼女が松田さんに霊気を流し、詩織さんの姿を見せていた。これほどの奇跡を起こしたんだ、霊力を使い果たして倒れても、無理はないのかもしれない。 「無理しすぎだよ……!」 震える彼女の肩を、僕は強く支える。汗で湿っているはずなのに、妙にひんやりとした肌の感触に、胸の奥がざわりと冷えた。 「ど、どうしたんだい!?大丈夫かい!? あんたたち、とりあえず、あたしのうちに来な!」 松田さんが、我に返ったように心配そうな声をかけてくれる。涙の跡が残るその顔には、もう警戒の色はなく、ただただ優しさが溢れていた。 「すみません……っ!ありがとうございます……!」 僕は深く頷き、美琴を慎重に背負う。想像していたよりもずっと軽いその身体が、彼女の消耗の激しさを物語っていた。 「先輩……私、軽いですか? ちょっと……恥ずかしい、ですね……」 背中で、彼女が弱々しく笑う気配がした。 「う、うん
last updateLast Updated : 2025-05-27
Read more

縁語り其の三十六:霊眼の源流

松田さんの家の玄関先で、僕と美琴は揃って深く頭を下げた。 夏の夜の、少し湿り気を帯びた生温かい風が首筋を撫で、草むらからは虫の音が涼やかに響いていた。ずいぶんと長居をしてしまったが、松田さんの温かさに、僕たちの心は救われたように感じられた。 「お世話になりました。夜分遅くに、本当にすみません…」 僕の言葉に、隣の美琴も小さく頷く。彼女の顔にはまだ疲労の色が残っているものの、その佇まいはいつものように落ち着きを取り戻していた。 「いいんだよ、そんな。美琴ちゃんって言ったかね。あたしと詩織をまた会わせてくれて……本当に、ありがとうねぇ」 松田さんが声を震わせ、深く、深く頭を下げた。その目には涙の跡が残り、しかし、その表情には確かな感謝と安堵の光が灯っている。 「い、いえ! どうか、頭を上げてください…!」 美琴が珍しく慌てた声を上げる。彼女の茶色の瞳が少し潤んでいて、いつもの冷静な彼女からは想像もつかないその姿に、僕の胸が少し温かくなった。 「私も……悠斗君も、そうしたかったから、しただけですから」 その瞬間、僕の心臓が、とくん、と一度だけ大きく跳ねた。 『悠斗君』 いつも「先輩」と、どこか一線引いた呼び方をする彼女が、初めて僕を名前で呼んだ。内心の動揺を悟られまいと、顔が熱くなるのを抑えるのに必死だった。 「またいつでもおいで。それから悠斗、あんたは美琴ちゃんを、絶対に泣かせるんじゃないよ」 松田さんが、真面目な口調の中に隠しきれない笑みを浮かべて言う。 「はい」 僕は、決意を込めて、はっきりと返事をした。 *** 松田さんの家を後にし、僕と美琴は最終バスに間に合うよう、夜道を急いだ。 なんとか間に合ったバスに乗り込むと、がらんとした車内には僕ら以外に数人しか乗客はいない。後方の座席に並んで腰を下ろすと、窓の外を流れる街灯の光が、濃い緑の影を落とす夏の夜の静けさを単調に映し出していた。バスが小さく揺れるたび、全身に溜まった疲労がじんわりと溶け出してくるようだ。 「美琴、身体は……本当に大丈夫なの?」 不安を隠しきれずに尋ねる。あの時の、糸が切れたように崩れ落ちた彼女の姿が、どうしても頭から離れない。 「ふふっ。休ませていただきましたから、もう大丈夫ですよ」 美琴が小さく笑って答える。彼女の横顔から青白さは消えている。その言葉
last updateLast Updated : 2025-05-28
Read more

縁語り其の三十七:美琴の仮説

白い朝靄が、眠りから覚めたばかりの街を薄絹のようにうっすらと包み込み、遠くの梢では鳥たちが朝を祝う歌を朗らかにさえずっている。木々の葉を透かして、細波のように差し込む夏の光が、まだ静けさの残る街並みに柔らかく降り注いでいた。 いつものように布団の中で目を覚ました僕は、けたたましい電子音に顔をしかめながら、枕元のスマートフォンに手を伸ばしアラームを止める。厚手のカーテンの隙間から漏れた朝日が、畳の上に幾何学的な光の模様を描き出していた。 ──今日は、美琴と温泉郷へ行く、約束の日。 ゆっくりと体を起こすと、外から聞こえてくる鳥の合唱が、より一層はっきりと耳に届いた。その澄んだ音色に誘われるように、数日前の、あの夜の記憶が鮮やかに蘇る。 詩織さんの、血の涙。消え入りそうな声で繰り返した「ごめんなさい」という言葉。彼女の魂を乗せた優しい光が、夜空の彼方へと静かに溶けていった、あの光景。温かくて、どうしようもなく切なくて……胸の奥に、まだあの時の痛みの残滓が疼くようだ。 そして、美琴のこと。 彼女が持てる力のすべてを使い果たし、ふらりと倒れそうになった瞬間の、蒼白な横顔が今も脳裏に焼き付いて離れない。もっと早く彼女の消耗に気づけなかったことへの、小さなしこりのような後悔が、まだ胸の奥で燻っている。 でも、美琴がいてくれたからこそ、詩織さんの魂は救われたんだ。 あの夜を境に、僕の中で何かが確かに変わった気がする。霊という存在は、ただ闇雲に恐れるべきものではない。彼らにも心があり、想いがある。その声なき声を聞くのが、僕の役割なのかもしれない。そう、心の底から、素直に思えるようになったんだ。 ──────────── 詩織さんの魂を見送った、あの夏の夜。 僕たちは、桜織神社の御神木である桜翁の前に立っていた。湿り気を帯びた夜空には、雨に洗い流されたように星々が無数にまたたき、時折そよぐ夜風が桜の古木の枝葉を優しく揺らしている。境内を照らす提灯の柔らかな灯りが、僕と美琴の影を地面に長く、静かに映し出していた。まるでここだけが、世界の喧騒から切り離された聖域のようだった。 「先輩……実は、私、少し前から考えていることがあるんです」 それまで黙って桜翁を見上げていた美琴が、ふいに口を開いた。彼女の凛とした声が、夜の静寂に清らかに響く。 「考えていること?」
last updateLast Updated : 2025-05-28
Read more

縁語り其の三十八:紅の道標

じりじりと焼けるような夏の陽射しが、バスの窓ガラスを越えて容赦なく肌を刺してくる。街路樹の葉は、目に痛いほどの鮮やかな緑を太陽に照り返し、風に揺れていた。 やがて、車窓を流れる景色から建物の群れが遠ざかり、代わりに現れるのは、まるで世界の始まりからそこに在ったかのような、深く、濃い緑の海。遠くには、淡く霞む山々の稜線が、空との境界を曖昧にしていた。 ふと、ポケットからスマートフォンを取り出すと、画面に新しいメッセージの通知が灯っている。 それは美琴からだった。 〈これからそちらへ向かいます。先輩も、道中気をつけて来てくださいね。〉 短いけれど、彼女らしい細やかな気遣いが滲むその言葉に、自然と口元が綻ぶ。 ぼんやりと窓の外を眺めていると、道端に立つ一本の古びた桜の木が視界を掠めた。夏の力強い陽光を浴びて、その葉は生命力に満ち、青々と茂っている。その姿が、数日前の、あの静かで特別な夜を思い出させた。 桜翁の前で交わした、僕の力の可能性についての、あの会話。 これから始まるこの旅で、僕は一体何を知ることになるのだろう。 そんな思いが頭を巡り始めた時、バスが目的地を告げるアナウンスと共に、ゆっくりと停車する振動が僕を現実へ引き戻した。 *** 市街地の賑わいを感じさせるバス停に降り立つと、むわりとした熱気が肌を焼き付ける。街路樹の下には濃い影が落ち、風に乗って、どこか遠くから子供たちの楽しげな笑い声と、ちりん、と涼やかな風鈴の音が微かに届いた。 その喧騒と日差しが入り混じる人混みの中に、僕はすぐに美琴の姿を見つけた。 風をはらんで柔らかく膨らむ、若草色の衣。白い清潔なブラウスが、彼女の白い肌を一層引き立てている。 僕の姿に気づくと、彼女は少し驚いたように目を丸くし、すぐにぱっと表情を輝かせて駆け寄ってきた。 「すいません……! もしかして、かなりお待ちになりましたか?」 ほんの少し息を切らしながら、美琴は申し訳なさそうに小さく頭を下げる。艶やかな茶色の瞳には焦りの色が浮かび、形の良い額には玉のような汗が滲んでいた。 「ううん、全然。僕もさっき着いたばかりだから」 そう返すと、彼女は心底ホッとしたように、小さく安堵の息をつく。強張っていた肩の力がふっと抜け、いつもの穏やかな笑顔が戻った。 「気にしなくていいけど、美琴がこうして遅れるのは、
last updateLast Updated : 2025-05-28
Read more

縁語り其の三十九:霧の中を誘う声

やがて、バスが最終停留所に到着し、ドアが開く。外へ降り立つと──その瞬間に、空気が変わった。 都会の生温いアスファルトの匂いが消え、代わりに、緑と土と、そして微かな硫黄の香りが混じり合った、清浄な空気が肺を満たす。耳に届くのは、遠くで鳴り響くひぐらしの声と、絶え間なく聞こえる清流のせせらぎだけ。夏の陽射しは強いけれど、どこか涼やかで、澄み切った空気が全身を包み込んだ。 「ここからは歩き、ですね!」 美琴がそう言って、軽やかに前へ進む。その足取りは心なしか弾んでいて、血や霊との対話といった日常から解放され、ただの少女のように心を躍らせているのが伝わってきた。 「美琴がこんなに楽しそうなの、珍しいね」 自然と口をついて出た言葉に、美琴が一瞬驚いたように振り返る。だが、すぐに照れくさそうな笑みを浮かべた。 「えへへ……なんだか、新鮮で。こういう場所に来たのは、今まで一度も無かったんです」 そう言いながら、彼女は目をきらきらと輝かせて辺りを見回す。その無邪気な表情に、ついこちらまで笑顔になってしまう。 僕たちは緩やかな坂道を登り、温泉郷へと続く山道へ足を踏み入れた。道の脇には古びた石畳が続き、苔むした石灯籠や、誰が置いたのかも分からない小さな祠が点々と佇んでいる。何百年もこの場所を見守ってきたような、堂々とした古木が、僕たちに涼しい木陰を作ってくれていた。 けれど、ふと気づくと、周囲の雰囲気が変わり始めていた。 どこからともなく、白い霧が立ち込めてくる。視界がじわじわと霞み、足元の影がぼんやりと揺らぎ始めた。まるで森全体が静かに息を潜め、世界から音が消えていくような、不思議な感覚が広がる。 霧は、音もなく、しかし確実にその濃度を増していく。まるで足元から這い上がり、この世界そのものを静かに呑み込もうとしているかのようだ。 「な、なんだこの霧の濃さは……!」 「ええ…あっという間に辺りが見えなくなってしまいました…」 (……これは、まずいかもしれない。) この濃霧の中ではぐれてしまわないようにと、僕は半ば無意識に、隣を歩く美琴の華奢な手を取った。 「ひゃっ……! きゅ、急はダメです、先輩……!」 僕の突然の行動に、美琴が素っ頓狂な声を上げ、顔を真っ赤にして戸惑うのが気配で分かった。繋がれた彼女の手が、驚きに小さく跳ねる。そのあまりにも初々しい
last updateLast Updated : 2025-05-29
Read more

縁語り其の四十:陽菜の導き

『ふふっ、温泉郷へようこそ…。』 今まで僕たちを濃い霧の中から導いてくれていた、鈴を転がすように優しく澄んだ声が、悪戯っぽく微笑むかのように、ふふっとそう最後に告げた。 次の瞬間、その不思議な声は、まるで春の淡雪のようにすっと掻き消え、じっとりと湿った霧の余韻だけが、辺りの空気に微かに残っていた。 *** 霧が完全に晴れた今、僕たちの目の前には、湯けむりが立ちのぼる、穏やかで長閑な温泉郷の風景が広がっている。 僕は、首から下げた勾玉にそっと触れて意識を集中させ、霊眼で周囲の空間へと視線を巡らせた。けれど、そこには何も特別なものは見えない。 「……声は、あんなにはっきりと、すぐ近くから聞こえていたのに。その霊的な気配は、まったくと言っていいほど感じられませんでしたね……」 美琴が、どこか狐につままれたような、不思議そうな顔で呟く。その横顔には、初めて経験する現象への真剣な戸惑いが浮かんでいた。 「うん……。廃病院や風鳴トンネルの時に感じた、あの肌を刺すような圧迫感も、今回は全然なかった」 「ええ…。これほどまでに気配を消すことができる、それも悪意のない霊というのは、私にとっても初めての経験かもしれません」 「しかも、きっと相当強い想いを抱えた霊だと、私は思います」 「そ、そうなんだ…」 今までの、助けを求める霊や、強い怨念に囚われた霊とは、明らかに何かが違う。言葉にならない不思議な感覚が、僕たちの間に確かに共有されていた。 「おう、そこの若いお二人さん! いやぁ、こんな濃い霧の中、ここまで来るのは大変だったろう!」 不意に背後から飛んできた陽気な声に驚いて振り返ると、恰幅のいいおじさんが、手拭いで額の汗を拭いながら人の良さそうな笑顔で近づいてくるところだった。日に焼けた顔に刻まれた笑い皺が、その気さくな人柄を物語っている。 「あ、こんにちは。はい、本当に深い霧で……少し道に迷ってしまいまして…」 僕たちがぺこりと頭を下げると、おじさんは「はっはっは!」と豪快に笑った。 「この土地の名物の霧でなぁ。時々こうやって旅の人を困らせるんでい。そういや、あんた達、何か不思議な声は聞かなかったかい?」 「はい……確かに、『こっちだよ』っていうような、とても優しい声を、ずっと聞いていました」 僕がそう答えると、おじさんは待ってましたとばかりに目
last updateLast Updated : 2025-05-29
Read more
PREV
123456
...
18
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status