All Chapters of 縁が結ぶ影〜呪われた巫女と結ぶ少年〜: Chapter 31 - Chapter 40

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三十一話:紅い眼の秘密

 屋上の扉を押し開けると、静寂が広がっていた。  悠斗の胸に安堵が染み渡る。チャイムが鳴ってから間もないせいか、人の気配はない。 「よかった……まだ誰もいないみたい」  目の奥に巣食う鈍い頭痛をやり過ごしながら、悠斗は美琴へ微笑みかけた。 「そうですね……良かったです」  美琴の声にほっとした息が混じる。 「……それにしても、二年生からの反応が本当に凄かったね」  悠斗が軽い調子で言うと、美琴は視線を逸らした。 「そ、そんなことは……」  唇を結び、それ以上は言葉が出てこない様子だった。 「きっと今日、周りのみんなに認知されたことで……これから先、たくさんの人が声を掛けてくるかもしれないね」  いつもと違う、少しからかうような口調。その表情には、美琴の反応を楽しむような柔らかな笑みが浮かんでいる。 「か、からかわないでください……」  美琴が頬を膨らませて抗議した。その仕草がどこか幼くて、悠斗の笑みが深くなる。 「あはは。ごめんごめん」 「ところで……」  美琴が言葉を切り、悠斗の横顔をそっと見上げた。 「先輩、副作用の症状の方は今どのような状態でしょうか……? 痛みが増していたりはされていませんか……?」  心配そうな声音。悠斗は一瞬だけ目を細めてから、軽い調子で答えた。 「実はね……もう倒れそうなんだ。視界がぼやけて、足元がふらついてる。息をするたびに胸が重くて、立っているだけで全身が悲鳴を上げてるような感じ」 「ええっ!?」  美琴の顔から、みるみる血の気が引いていく。その反応を見て、悠斗はすぐに穏やかな笑みを浮かべた。 「なんて、冗談だよ。そんなに心配しないで。確かに痛みはあるし、体もしんどいのは事実だけど……それでも、まだ大丈夫だから」  こめかみに手を当て、軽く揉みほぐす。鈍い痛みが、波のように引いては返す。 「良かった……」  美琴はそう呟いてから、すぐに首を横に振った。 「いえ、良くはないですね……。先輩が痛みに耐えていらっしゃるのに、私が安心するなんて……」  安堵と罪悪感の入り混じった瞳が、悠斗を見つめている。 「心配してくれてありがとう」  悠斗は軽く笑った。けれど美琴の真剣な眼差しに触れて、自然と声のトーンが落ちていく。 「ところで……やっぱり、あの話のことかな?」  美琴は小さく
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三十二話:霊を引き寄せる力

「赤い影の霊……」  悠斗の喉が、小さく鳴った。 「はい。彼らは明確な敵意を抱いており、生きた人間や侵入者に危害を加えます」  美琴の声がわずかに沈む。一瞬の間。何かを言い淀むような気配が、二人の間をよぎった。  悠斗がそれを感じ取った瞬間、美琴は静かに口を開いた。 「先輩、本日、私が霊眼術の扱い方を教えようとした理由——心当たりはありますか?」 (美琴がわざわざこんな言い回しをするということは、きっと僕にとって見逃せない事情が隠されているはずだ……)  頭痛に耐えながら思考を巡らせる。けれど答えは浮かばない。霧の中を手探りするように、考えが定まらなかった。 「えっと……その、もしよければ……教えてくれないかな」 「霊眼術の扱い方を教えようとした理由——それは、この術を発現した者が、霊を引き寄せてしまうからです」  悠斗の表情が凍りついた。 「……え?」  霊を引き寄せる。その言葉が、頭の中で何度もこだまする。 「……先輩は、これまで霊を避けて生きてこられました。それが今後は——霊に見つけられやすくなってしまうのです」 「恐らく、先輩の日常に支障が出るでしょう。だからこそ、少しでも対策を講じるために——こうして説明することにしたのです」  美琴の声には、いつもの丁寧さに加え、申し訳なさがにじんでいた。 「ちょっと待って。霊眼術が霊を引き寄せるって……どういうこと?」  声が普段より高い。動揺が、そのまま音になって出ていた。 「霊には、霊が見える人間の存在がぼんやりと分かるものなのです。はっきりとはしませんが、漠然とした感覚で察知できるんです」  それは、悠斗自身も薄々感じていたことだった。こちらが見ている時、向こうもどこかでこちらを意識している——そんな、居心地の悪い感覚。 「ただ、それは曖昧な感覚にすぎません。ですが、霊眼術を持つ者は霊気を自然に纏うため、霊たちからは鮮明に映ってしまうのです」  悠斗の背筋を、冷たいものが這い上がった。曖昧だったものが、鮮明になる。それは——これまで薄い壁一枚で保たれていた安全が、一夜にして剥がされたということではないか。 「だからこそ、霊は助けを求めて僕たちの元へと寄ってくる……ってことか」 「はい。ここからが霊眼術の本質なのですが——」  美琴の声が、わずかに力を帯びた。 「霊
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三十三話:夏の訪れと、隠しきれない秘密

 季節は移ろう。柔らかな風はいつの間にか止み、代わりに焼け付くような暑さが世界を塗り替えていた。芽吹きの季節は終わり、万物がただ育つだけの時期へと、静かに移り変わっていく。  ──彼は、これから知っていくのだ。  善意だけでは、人の心は救えないこと。そして、死者の哀しみよりも、遺された生者の哀しみのほうが、時として深く、癒し難いものであるという——あまりにも当たり前の、残酷な真実を。  ──心を砕く必要はない。人の心とは、かくも容易く救えるものではないのだから。 ────────────── 「あっづ〜……」  悠斗の声に、誰も突っ込まなかった。窓から差し込む陽光は容赦なく、教室全体がじわじわと熱を帯びている。夏が来た——それだけで、三人とも既に消耗していた。 「暑いな……本当に。ついこの間まで桜が咲いてたような気がするんだけど、もう春って終わったのか?」  うちわをぱたぱたと仰ぎながら、春雪がぼんやりと宙に問いかける。 「それな。確かに春だったはずなのに、時間が経つの早すぎるだろ」  翔太が額の汗を手の甲で拭った。季節の速さに、誰も追いつけていない。 「……そういえば翔太、優花とはどうなん?」  春雪が唐突に話題を変えた。 「んー、順調だと思うぜ? 特に問題もないし、むしろ良い感じで進んでる気がする」  翔太の口元が、照れくさそうに緩む。 「まぁ、二人ってお似合いだしね」 「ところで」春雪がにやりと口の端を上げ、わざとらしく悠斗へ身を寄せた。「俺が一番気になってるの、悠斗なんだよな〜?」 「えっ……僕?」 「当たり前だろ。あんな可愛い子と、いつどこで仲良くなったんだよ」 「……確かに。美琴ちゃん、可愛さが飛び抜けてるよな」  翔太も深く頷く。二人の視線が、悠斗に集中した。 「……えっと、その」  悠斗の視線がわずかに泳いだ。何かを隠しているというより、どこから話せばいいのか分からない——そんな戸惑いがにじんでいる。 「悠斗、春雪には別に言ってもいいんじゃね? 隠す必要もないだろうし」 「えっ、なに——ちゃんとした事情があるカンジ?」 「……うん。実は僕も、いつかきちんと話そうとは思ってたんだ。ただ、タイミングを見計らってたっていうか」 「ほ〜? どれどれ、じっくり聞いてやろうじゃねぇの」  春雪が身を乗り出す。
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三十四話:トンネルの記憶

 それから数日が経った。  休みの都合を合わせ、二人はあの風鳴トンネルへと足を運んでいた。日が西へ傾きはじめた時刻。トンネルの入り口はただ黒い口を開け、ひんやりとした空気を吐き続けている。 「今は……いないみたいですね」  美琴がトンネルの奥へ視線を向けた。その瞳が、じわりと紅に滲んでいく。|霊眼術《れいがんじゅつ》——彼女だけに許された視界が、暗闇の奥を透かし見ているのだろう。 (やっぱり……紅くなってる)  気づけば、悠斗はその横顔に目を奪われていた。普段の柔らかな茶色とはまるで違う、幻想的な色。吸い込まれそうなほど深く、神秘的で——  その瞳が、こちらを向いた。 「先輩、聞いていますか?」  頬がわずかに膨らんでいる。拗ねているような、呆れているような。 「あっ、ご、ごめん——もう一度」  視線を逸らし、言葉を絞り出す。耳の奥で心臓の音が、やけに近い。 「今は彼女、いないみたいです。どうやら場所を変えながら現れるようですね」 「……そっか。移動するってことはやっぱり、思い入れのある場所に?」 「そうだと思います」  美琴は小さく息をつき、トンネルから視線を引き戻した。瞳はいつもの茶色に戻っている。唇に指を当て、何かを確かめるように視線を宙へ泳がせながら、続けた。 「そういえば先輩は、一度彼女の記憶の一部をご覧になったとおっしゃっていましたよね」 「うん。あの……濃い感情が流れてきた時のことだね」  思い出すだけで、胸の奥が重くなる。あの日、前触れもなく雪崩れ込んできた誰かの記憶——その重さは、きっと彼女のものだ。 「彼女の身に何があったのか——まずはそこを知らないといけませんね。何か、わかったことはありましたか?」 「うーん……。あっ、そういえば——」  記憶を手繰り寄せながら、言葉を探す。断片的に蘇る映像。激しい声。そして胸の底を焦がすような、あの感情。 「最後のシーンで……お母さんとものすごく揉めていたような気がして。その時だと思う、身を焦がすんじゃないかってくらいの後悔が流れてきたのは」 「後悔……」  美琴の表情が、わずかに翳る。視線が足もとへ落ちた。風がトンネルの奥から吹き抜け、低く唸るような音を連れてくる。 「……わかりました。先輩が見たというトラックも、きっと無関係ではないはずです」  呟くように
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三十五話:花と沈黙

 調査を続け、七人目。だが七人目も、手ぶらだった。  声をかけるたびに返ってくるのは、曖昧な笑顔か、足早に遠ざかる背中ばかり。風鳴トンネルという名前を出した瞬間、相手の顔から表情が消えていく——その繰り返しだった。 「七人目もダメだったね」  悠斗の声には、隠しようのない疲労が滲んでいた。 「そうですね。風鳴トンネルが近いせいか、話したがる人も少ないみたいで」  美琴は淡々と答えたが、その瞳には焦りではなく、静かな観察の光が灯っている。 「まあ……事故のことなんて、誰だって思い出したくないよね」  呟くように言って、悠斗はゆっくりと顔を上げた。西の空が、いつの間にか茜色に滲みはじめている。夕暮れは待ってくれない。 「もう一度、風鳴トンネルへ行ってみませんか。先輩の霊眼術が今も使えるか——それも確かめたいですし」  美琴の声は穏やかだったが、言葉の芯には揺るぎない意志が通っていた。悠斗は少し黙る。 「……本当にもう一度発動できるか、正直わからないんだけど」  不安が、言葉の端からこぼれ落ちる。それでも——前へ進まなければならないという感覚が、胸の奥で静かに燃えていた。  トンネルまであと数分という距離で、向こうから一人の男が歩いてきた。  深い皺の刻まれた顔。その一本一本が、年月ではなく苦労によって彫られたものだと、悠斗には直感でわかった。男はゆっくりと足を止める。 「……おや」  皺の寄った表情が、かすかに緩んだ。 「ここは日が落ちたら暗くなりますから、危ないですよ」  物腰は丁寧で、口調も落ち着いていた。だがその声の底には、何かを長い年月をかけて押し込めてきたような重みが横たわっている。一言ひとことに、悲しみが滲んでいた。 「僕たち、今から風鳴トンネルに向かうんですけど——あなたも、トンネルへ?」 「ええ。花を手向けに行ってきたんです」  男は静かに瞼を伏せた。 「……花、ということは」 「はい」  一拍の沈黙が、三人のあいだに落ちた。男の声が、さらに深く沈んでいく。 「婚約していた彼女が、数十年前にこの風鳴トンネルで起きた事故に巻き込まれてしまいまして——命を落としたんです」  悠斗の胸が、大きく跳ねた。  記憶の中で聞いた名前——「詩織」と呼ばれた霊。その関係者が、今、目の前にいるのかもしれない。  風の音
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三十六話:止まった時計の向こう側

 ——それはまるで、彼から逃げているようだ。  真っ先に浮かんだのは、その考えだった。 「あの日、あんなことさえなければ……」  男は悔しさを噛み締めるように歯を食いしばり、低く、絞り出すような声でそう呟いた。 「失礼ですが——あんなこと、とは?」  美琴が静かに尋ねた。 「……彼女は、事故の直前に母親と大喧嘩をしたんです。理由は——僕との結婚を、認めてもらえなかったから」 「…………」 「僕も必死でした。認めてもらおうと、できる限りのことをした。でも——何も変わらなかった。それほど、詩織の母親は深い傷を抱えているんです」 「深い傷……伺ってもよろしいですか?」  美琴が慎重に言葉を選びながら続けた。 「……彼女の母親、静依さんは過去に夫に……去られています。それ以上のことは——申し訳ありませんが、話せません」 (なるほど……)  記憶の中で幾度も繰り返されていた言葉——「男は信用できない」。その根にあるのは、静依さんが抱える喪失の傷なのか。夫に去られた痛みが、娘の幸せまで拒んでしまうほどに深く、癒えることなく残り続けていたのだとしたら—— 「……そうですね。人それぞれに抱えているものがある。それを勝手にお話しいただくべきではありませんでした。軽率でした」  美琴は丁寧に、申し訳なさそうに深く頭を下げた。 「いえ……僕が知ったのも、詩織から軽く聞いた程度のことで。詳しい理由までは分かりませんが——それが、僕を認めてもらえなかった理由なんでしょうね」  男は続ける。 「……あそこで、詩織は確かに事故に遭いました。それ以降、その場所は心霊スポットなんて呼ばれている……」  声が一段低くなった。 「血まみれの女性を見た。その霊が、事故を引き起こしている——だなんて噂されています」  彼が言いたいことは明白だった。  その女性が詩織だとするなら、事故を引き起こしているのも詩織だと——世間はそう突きつけているようなものだ。亡くなってなお、彼女は加害者にされている。 「それじゃあ、詩織さんが意図的に事故を引き起こしてるって言ってるようなものじゃないですかっ……!」  声が震えた。怒りではない。理不尽さへの、やり場のない痛みだった。死してなお安らぐことを許されず、見知らぬ人々の噂の中で歪められていく——その残酷さが、悠斗の胸を内側か
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三十七話:繋ぐ手と見る眼

 竹本の後ろ姿を見送った二人は、その場からギリギリ見えている風鳴トンネルへと向いた。 「…美琴。行こう」 「…ええ」  竹本の話を聞いて、二人の心は重く沈んでいた。けれど同時に——彼女の過去を知ったからこそ、救わなければならないという強い決意が、胸の内に芽生えていた。  そして、あの時と同じように——獣の口のごとく、風鳴トンネルが暗い入り口を晒していた。 「今度こそ、残滓から記憶を読み取ります」(強い決意を込めてトンネルを見つめる美琴) 「僕も同じ気持ちだよ。ちゃんと…彼女と向き合って、彼女を救いたい」 「先輩…」(瞳を揺らす美琴)  ぎゅっと暖かい手が悠斗の左手を包んだ。 「…美琴?」 「私が先輩に霊力を流します。そしたらきっと、また霊眼術を発動できるはずです」  すると、暖かいものが左手から流れ込んでくる。  ドクンドクンと悠斗の心臓が脈動する。 「…来たよ…! うっ…!」  目が熱い。そして次の瞬間、視界に見えざるものが写り始めた。 「……無事、霊眼術を発動することができましたね」 「これが、霊眼術……。僕は本当に……」  言葉の続きは、出てこなかった。自分が巫女の力を行使している——その事実が、まだ現実として定着しない。理由もわからない。けれど今、この目に映っているものは紛れもなく本物だ。悠斗は言葉を探すことをやめ、この感覚を身体に刻み込むことだけに意識を注いだ。 「先輩、おめでとうございます。まずはその感覚を、ご自身の身体に刻んでください」 「うん……! 言われなくても……っ!」  力を込める。が——どこに、どう入れればいい?  握り締めた拳に力が籠もるほど、霊眼術の焦点はむしろ揺らいだ。視界がちかちかと点滅し、見えかけていたものが明滅の中に溶けていく。 「くっ……!」  崩れかけた意識を引き戻したのは、左手に戻ってきた温もりだった。美琴の指が、もう一度悠斗の手をそっと包み込む。今度は霊力を流すためではない。ただ、そこにいると伝えるように。 「……先輩、焦りは禁物です。霊眼術は、持ち主の感情に強く反応します」  声は穏やかで、けれどどこまでも確かだった。 「冷静に——この場所を、見届けましょう」 「……わかった」  悠斗は目を閉じた。深く、深く息を吸い込む。トンネルの冷たい空気が肺を満たし、そしてゆっ
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三十八話:母の孤独

 悠斗が目を開けると、あの時と同じ景色が広がっていた。  いや、正確には少し違う。あの時が見送りの光景なら、今回は出迎え。玄関の向こうに、夕方の柔らかな光が差し込んでいる。 『母さん! ただいま!』  セーラー服の少女——詩織が、弾むような足取りで玄関を上がってくる。その目の前には、温かな笑顔を浮かべた母、静依が立っていた。 『おかえり。新学期はどうだった?』 『うーん、ぼちぼちかな』  靴を脱ぎながら、何でもないように答えて——それから、いたずらっぽく唇の端を持ち上げた。 『でも悪くなかったよ! 彼氏もできそうだし!』 『はっ……馬鹿なこと言ってんじゃないよ。ほら、ご飯にしよう。上がりな』 『わーい! お腹減ったー!』  笑い声が、家の中に満ちていく。何気ない夕方の、何気ないやり取り。それがどれほど尊いものだったか、この頃の二人はまだ知らない。 (詩織さん……)  胸が、じわりと熱くなった。あの風鳴トンネルで彷徨う血まみれの姿からは想像もできないほど、目の前の少女は眩しかった。  その時——唐突に、頭の中に声が響いた。  ——この頃は……幸せだったな……。   「えっ……!?」  詩織の声だった。記憶の中の少女ではない。今この瞬間、悠斗の意識に直接触れてくる、霊としての彼女の声。  ——この時の私は、母さんの辛さを全く分かってあげてなかったんだ。 「この声は、詩織さんですよね……!?」  呼びかけた。だが、返事はない。声の気配だけが余韻のように残り、やがてそれも薄れていく。  再び、視界に色が滲んだ。絵の具を水に落としたように景色が溶け、別の場面が浮かび上がってくる。  今度は——若い静依だった。  小さなちゃぶ台を挟んで、向かいに男が座っている。夫だろうか。静依の腕の中には、すやすやと寝息を立てる赤ん坊が一人。 『……すまない。俺に、君の愛は重すぎる』  冷たい声だった。感情を削ぎ落としたような、それでいて逃げ腰の響き。静依の表情が、一瞬で凍りつく。 『はぁ!? 何言ってんのさ!? 詩織を産んだんだよ!? あんたが……子供が欲しいって言ったんじゃないか!』  静依が叫んだ。腕の中の赤ん坊が、その声に怯えたように泣き出す。 『そうだな……。俺も、若かったんだよ。子供を作るのは早すぎた。俺が自制がきかなかったか
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三十九話:幸せの証明

(僕は……)  複雑な思いが、胸を締め付けていた。  詩織の過去を知るためには、ここまで遡らなければならない。彼女の母がどんな痛みを背負い、どんな日々を生き延びてきたのか。それを見ずに、詩織とは向き合えない。——それだけは、確かだった。  また、場面が変わる。 「うっ……」  眩い光が視界を灼いた。思わず腕で目を覆う。光の奥から、何かがこちらに近づいてくる気配がした。温度のない風が頬を撫で、空気の質が一変する。  腕を下ろした、その瞬間——  目の前に、あの姿があった。  血まみれの詩織。髪から、腕から、服の裾から、赤黒いものが絶えず滴り落ちている。虚ろな目が、悠斗をまっすぐに捉えていた。 (っ……! ダメだ……竦むな、足……!)  心臓が暴れた。膝が笑い、一歩退きかけた足を、歯を食いしばって踏みとどまらせる。恐い。身体中がそう叫んでいる。——それでも。 「……詩織さん」  震える声で、悠斗は呼んだ。逃げなかった。臆したまま、それでも、まっすぐに。 『………』  詩織は答えなかった。ただ、血に濡れた片手をゆっくりと持ち上げ、悠斗の背後へ手を伸ばしている。  恐る恐る、振り返った。  もう景色は変わっていた。血の匂いも、冷たい空気も消え、代わりに生活の温もりが満ちた居間が広がっている。 『母さん! 聞いて聞いてー! 彼氏出来たの!! 今度会ってみてくれないかな!?』  高校生になった詩織が、静依の腕にぶら下がるようにして揺さぶっている。目を輝かせ、頬を紅潮させ、身体全体で嬉しさを叫んでいた。 『嫌だよ。なんであたしが』  静依は素っ気なく顔を背けた。だが詩織は怯まない。 『えー! ねぇお願いっ! ねっ!?』  腕にしがみついたまま、下から覗き込むように静依の顔を見上げる。 『……はぁ。なんであたしがこんな目に……。分かったよ』  嫌そうだったのは間違いない。けれど——娘のためなら折れる。その一線だけは、静依の中で揺らいだことがないのだろう。 『わーい!! やったぁ!!』  喜びのあまり、詩織が部屋の中を飛び跳ねた。畳の上をどたどたと駆け回り、座布団を蹴飛ばしかける。 『こら!! 暴れんじゃないよ! ったく』  叱りつける声。けれどその口もとには、隠しきれない笑みが浮かんでいた。呆れと愛情が溶け合った、娘を心から愛
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四十話:詩織の過去

 それは、大雨の中だった。  前すら見えなくなるほどの雨が、地面を叩いている。まるで空そのものが泣き崩れているかのような、容赦のない豪雨。 「凄い雨だ……」  雨音に呑み込まれながらも、悠斗の声がかすかに漏れた。 『母さん!!! お願い! 分かってよ!!』  突然、玄関の奥から詩織の切羽詰まった叫びが轟いた。  悠斗は恐る恐る扉に手を伸ばす。だがここは記憶の世界だ。指先はすり抜け、何にも触れられない。それでも——中の光景は、残酷なほど鮮明に見えていた。 (このやり取りは……)  もう、終わりが近い。それだけは、わかっていた。 『ダメだ!! 結婚なんて認めないよっ! 男なんてもんは信用しちゃいけないんだ!』 『母さんっ!』 『黙りなっ!!』  悠斗の背筋が、強張った。今まで聞いたどの場面とも違う、渇ききった叫び。あの夫を打った夜に近い激情——だが声の質が違う。あの時は怒りだった。今は、恐怖だ。娘を失うことへの、剥き出しの恐怖。 『母さんっ! どうしてわかってくれないの!? あの人はそんなんじゃないの!』 『はっ!! どうだかね! 男ってのは女を騙すもんさ! きっといつかしっぽを出してお前を傷つけていく。あたしゃそれに耐えられないんだよ!』 『っ! お願い! 冷静になって! あの人のことをそんなふうに言わないでよ! あの人は……! あの人はお父さんとは違う!』 『ちゃんと、私を愛してくれている!』 『信じられるかい! 思い出してみな! お前が紹介した彼氏、みんなろくでもない奴ばかりだったじゃないか!』 『それは別れたからであって、みんながみんなそうだったわけじゃないでしょ!? ちゃんと将来のことを思って別れた人だっていたの!!』  悠斗は胸を押さえた。どんどん歯止めが利かなくなっていく二人の言葉が、記憶の壁に跳ね返り、反響し、悠斗の身体を貫いていく。 (この場面だったのか……! あの、身を焼くほどの後悔は……!)  かつて流れ込んできた、あの激情。胸の底を焦がすような、あの感覚。その正体が——今、目の前で再生されている。 『お願いだから……! 信じてよ! あの人は……竹本さんは私を愛してくれてるの……! だから、結婚を認めて!』 『嫌だね!! どうせろくなもんじゃないんだ! ……お願いだよ! 詩織、私はお前に傷ついて欲しくな
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