All Chapters of 縁が結ぶ影〜呪われた巫女と結ぶ少年〜: Chapter 101 - Chapter 110

184 Chapters

一〇一話:臆病者の刃

 やがて追いつかれたのは、三度目の角を曲がり損ねた時だった。  背中に、冷たい衝撃。  刃が肉を裂く感触はない。血も出ない。けれど魂の表面を鋭利な何かが抉る感覚は、肉体の痛みよりもよほど深く、よほど正確に悠斗の神経を灼いた。霊の刃は肌を素通りし、その奥にあるものだけを傷つける。身体は無傷のまま、中身だけが壊されていく矛盾。 「うっ……!!」  膝が折れかける。視界が歪み、コンクリートの床が急激に近づいた。両手をついて踏みとどまったのは、意志の力というより反射だった。背中から腰にかけて広がる鈍痛が、立ち上がるという動作そのものを拒絶している。  それでも、悠斗は立った。  よろめきながら、また走る。もう走るとは呼べない速度で、壁伝いに、足を引きずって。  背後の気配が変わっていた。  さっきまでの怒号がない。暴れ回る足音もない。代わりに聞こえるのは、ゆったりとした足取り。そして——鼻歌でも歌い出しそうなほど弾んだ気配。 『どうやったら、オマエをもっと苦しめられるかなぁ……』  振り返らなくても分かる。あの男は今、笑っている。満面の笑みを浮かべて、わざとペースを落として、獲物が逃げ惑う姿を眺めている。苛立ちに支配されていたほんの数分前とは別人だった。自分より弱い存在を痛めつけられるという、ただそれだけの事実が、黒崎剛三のすべてを満たしている。  ——人とは、ここまで簡単に切り替わるものなのか。  吐き気がした。恐怖とは違う、もっと根本的な嫌悪。この男を美琴の前に立たせてはいけない。獣ですらもう少し理由のある殺し方をする。 「はぁ……、ははっ……」  不意に、笑いが漏れた。  自分でも驚くほど自然に、乾いた笑声が喉から転がり出る。痛みと疲労の果てに辿り着いた場所で、悠斗は笑っていた。  あんなに臆病だった自分が、ここにいる。霊を前にして震えるだけだった自分が、殺人鬼の囮を買って出て、挑発までして、刺されてなお走っている。怖くないわけがない。身体は限界をとうに過ぎている。けれどこの瞬間、後悔という感情だけは、どこを探しても見当たらなかった。  母のようにはいかない。美琴のようにもなれない。それでも——その隣を、今は歩けている。  今の自分が、嫌いではなかった。 『んだよ、何笑ってやがる。気でも狂ったかァ?』  黒崎の声に、わずかな苛立
Read more

一〇二話:怒りと優しさ

 黒崎の身体が、見えない鎖に縛られたように硬直している。痙攣はまだ続いていたが、先ほどの爆発的な暴力は完全に封じ込められていた。 「はぁ……、はぁ……」  悠斗は床に膝をついたまま、荒い呼吸を繰り返す。指先の感覚が遠い。視界の輪郭がぼやけ始めている。 「おいおい……! どうしたんだよ!  何が起きてんだ!?」  春雪が悠斗の肩を掴み、顔を覗き込む。霊眼を持たない彼には、この場で何が起きているのか一切見えていない。痙攣する黒崎も、胸を押さえてうずくまる石津も、そのどれも。ただ親友が暗闇の中でぼろぼろになって座り込んでいるという事実だけが、春雪の目に映る全てだった。その顔に浮かぶ不安が、痛いほど真っ直ぐで。 「もう、大丈夫だよ…」  そう告げた瞬間、糸が切れた。安堵が堰を壊すように全身に広がり、緊張だけで支えていた意識が急速に傾いでいく。視界が明滅し、春雪の声が水の底から聞こえるように遠ざかって——  革靴の足音が、それを引き戻した。  規則正しく、けれど硬い足取り。コンクリートの床を叩くローファーの音が、通路の奥から近づいてくる。 『くそ……! なんだこれ……!?  こんなもの…っ!』  黒崎が結界に抗い、もがく。しかしその声に先ほどまでの威圧はない。力を振り絞るほどに封印の術式が締め上げるのか、藻掻くたびに身体の痙攣が強くなっていく。 「無駄ですよ」  足音が止まった。 「あなたを縛り付けている結界は、力を失ったあなたには破れません」  美琴だった。薄暗い通路の向こうから姿を現した彼女の表情を見て、悠斗の背筋に別種の緊張が走る。  怒っている。  普段の美琴からは想像できないほど、はっきりと。眉間に刻まれた皺、薄く引き結ばれた唇。制御された所作のひとつひとつに、押し殺した感情の圧が滲んでいた。まずい、と悠斗は直感した——ただしその直感が何に対する「まずい」なのかは、まだ言語化できていない。 『弱くなったァ!?  どういうことだ!?』  黒崎が喚く。結界に縛られた身体で、なお虚勢を張ろうとする。 『い……った……た……』  石津が片膝をつきながら、声を絞り出した。胸の傷を押さえ、苦痛に歪む顔のまま、それでも黒崎を見据えている。 『く、黒崎…。お、お前は自分の力で霊としての力を持っていた訳じゃないんだとよ……』 『はぁ!? 
Read more

一〇四話:殺人鬼の記憶へ

『なんだ……? 急に眠気が……』  石津の身体が、不意に揺らいだ。立っているはずの足元が定まらず、まるで長い一日の終わりに睡魔に攫われるように、その輪郭がわずかにぼやける。 「……それは、未練が無くなった証です」  美琴が静かに告げた。その声には感傷を押し殺した硬さがあったけれど、瞳だけは温かかった。 「ってことは成仏か!?」  春雪が悠斗の肩を掴む。悠斗が頷くと、春雪はまだ誰もいないように見える虚空へ身体ごと向き直った。 「えっとさ、石津さん?  工場のことは俺らに任せてくれよ。今の管理人にはきっちり話を通しておくからさ!」  見えない。聞こえない。それでも春雪の声には一片の迷いもなかった。相手がそこにいると信じている人間だけが出せる、あの真っ直ぐな響き。 『てめぇら!  勝手に話を進めてんじゃねえよ!!』  床に縛られたままの黒崎が吠える。 『離し——』  最後まで紡がれなかった。薄く紅い光の膜が、黒崎の口元に巻きつくように纏わる。霊力で編まれた封緘。言葉が、空気に触れる前に潰される。 「少し静かにしてください」  黒崎を見下ろす横顔に浮かぶのは、怒りですらない冷ややかさ。虫の羽音を煩わしく思う程度の、あの温度。口を塞がれてなお身体を捩り、目だけで殺意を叫び続ける悪霊を、美琴はまるで風景の一部のように視界の端に置いたまま、石津へと向き直っている。  悠斗の背中を、霊の刃とは無関係の冷たいものが伝った。  この先——この人だけは、絶対に怒らせてはいけない。 『……あんたら、ありがとうな』  石津の声が、柔らかくなっていた。悪霊に怯え、工場に縛られ、死してなお責任を背負い続けた男の声が、初めて荷を下ろした人間の音をしている。 『まさかこんな風に解放される時が来るなんて……思わなかったよ』  一拍、間を置いて。 『俺の声が届かないそこの人にも、代わりに伝えてもらえるか?』 「春雪、石津さんがありがとうと言ってるよ」 「へへ、気にしないでくれ!」  春雪が照れたように鼻の頭を掻いた。見えない相手に向かって笑う姿が、ひどく眩しい。 『あぁ……こんなに穏やかに……あの世に行けるなんて』  石津の輪郭が淡く発光し始めていた。足元から、光の粒子がゆっくりと立ち昇る。  その光に溶けるように、傷が消えていく。喉に刻まれた刺し傷—
Read more

一〇三話:未練の行先

 石津が脇腹を押さえ、低い呻きを漏らした。  その姿を見て、悠斗の喉が詰まる。あの傷は自分を庇った結果だ。黒崎のナイフが石津の胸に突き立てられたあの瞬間、もし石津が飛び込んでこなければ、刃は悠斗の背中に届いていた。 「すみません…。僕のせいで…」 『なに、気にするな……っ……。た、大したことじゃない』  石津は脇腹を押さえたまま、片手を振ってみせた。 『そんなことより、まさか本当に黒崎を封じ込めるなんてな』  感嘆というより、安堵に近い響き。工場の主として、従業員を殺した男の暴走を誰よりも長く見てきた霊が、ようやく肩の荷を下ろしたような声だった。 「それはあなたと佐条さんのおかげです。他の被害者の方を正気に戻してくださいましたから」  美琴が静かに頭を下げる。先ほどの激情が嘘のように、声は落ち着きを取り戻していた。 『それを言うならあんただって大したもんだ。御札? を貼りながら、片手間に正気を取り戻した奴を成仏させてくれたんだからな。恵のやつも、穏やかに逝くことができた』  悠斗の目が、わずかに見開かれた。  五芒星の結界を張りながら——同時に、被害者の霊を成仏させていた。御札を一枚ずつ設置する合間に、石津と佐条が説得に成功した霊たちを、一人ひとり送り出していたのだ。あの佐条恵も。悠斗が言葉を交わし、憎悪の奥にある悲しみに触れたあの女性も、美琴の手で穏やかに旅立つことができたという。 「いえ…。それが私の役割ですから。佐条さんも未練を解消できたようで安心しました」  淡々と、けれど丁寧に。美琴はそれだけを述べて、話を閉じた。さすが、と悠斗は思う。結界の設置だけでも相当な集中力と霊力を要するはずなのに、並行して成仏の術まで行う。その技量もさることながら、被害者一人ひとりに対する誠実さが、美琴という巫女の本質を映している。 「それから——無茶をしたとは言え、先輩があんなふうに時間を稼いでくれたおかげですね」  振り返った美琴が、微笑んだ。涙の跡がまだ頬に薄く残っていて、その上に浮かぶ笑みは、叱責でも称賛でもなく、ただ——ありがとう、という温度をしていた。 「少しでも役に立てたのなら良かったよ」  悠斗はそう返すのが精一杯だった。こそばゆさを誤魔化すように視線を逸らした先に、石津の背中が映る。  工場の元主は、床に封じられた黒崎を見下ろ
Read more

一〇五話:善意の行き止まり

 意識が落ちる感覚は、一瞬だった。  暗転した視界が開けたとき、悠斗は見覚えのある場所に立っていた。石津製鉄所——ただし、廃墟ではない。天井の蛍光灯が白い光を落とし、機械の駆動音が空気を低く震わせている。鉄と油の匂い。作業着姿の人影が行き交い、フォークリフトのエンジン音が遠くから響く。稼働していた頃の、生きていた頃の工場がそこにあった。 『黒崎』  声がした。  悠斗の視線が、声の主を捉える。作業着に安全帽、日焼けした腕。——あの男だった。石津製鉄所に足を踏み入れた時、最初に遭遇した被害者の霊。生前の姿は霊として見た時より幾分か若く、目尻に笑い皺が刻まれている。 『?』  振り返った黒崎も、生きていた。霊としての青白さはなく、肌には血の色が通い、作業着の袖を無造作にまくり上げている。ただ、その目つきだけは変わらなかった。何もかもを面倒くさがるような、投げやりな光。 『パレットをフォークリフトで下ろして来るから、お前は製鋼工程を頼む』 『うっす』  返事とも呻きともつかない一音。男は苦笑いを浮かべて去っていった。慣れた反応だったのだろう。黒崎のやる気のなさに、いちいち目くじらを立てる段階はとうに過ぎているという顔だった。  記憶の空から、声が降ってくる。  黒崎の内面——本人すら意図しない、剥き出しの独白。霊眼術が過去の記憶に深く潜った時にだけ聞こえる、心の底に沈んだ言葉。 ──俺は空っぽだった。昔から、他人に共感なんか出来ねぇ。寄り添うとか思いやりとか、親切とか……そういうの全部、くだらねぇ。  悠斗は息を呑んだ。  空っぽ。あの男が、自分自身をそう認識していた。他者への共感が欠落していることを、黒崎は知っていたのだ。知っていて——埋め方が分からなかった。  場面が、切り替わる。  工場の喧騒が遠のき、狭い一室が現れた。事務所だろうか。古びたスチール机の向こうに、石津が立っている。生前の石津明。霊として見た姿より肩幅が広く、声にも腹の底から押し出す力があった。 『黒崎っ!!  お前ちゃんと製鋼工程を見ておけと言われたんだろう!?  なぜ見ていなかった!?』  黒崎は黙っていた。壁にもたれ、腕を組み、石津の目を見ようともしない。 『黒崎…!  聞いているのか!?  お前の不注意で、事故に発展するところだったんだぞ!?』  石津の
Read more

一〇六話:言葉は刃

 また、場面が変わる。  空から、黒崎の声が落ちてくる。独白。記憶の底に沈殿した、剥き出しの自己認識。 ──ここで働いて、もう三年って時だった。石津の野郎以外は、俺に目も合わせねぇ。それが俺には愉快に感じていた。  愉快。その一語が、悠斗の耳に引っかかる。周囲から孤立していることを、この男は勝利だと思っていた。怖がられていることが、自分の価値の証明になっていた。 ──だが、石津の野郎に呼び出されて、俺の人生はメチャクチャにされたんだ。  事務所だった。見覚えのある、あの狭い部屋。スチール机を挟んで、石津と黒崎が向かい合っている。石津の表情には、以前の叱責の時とは違う重さがあった。覚悟を決めた人間の顔。 『……黒崎。このままじゃお前をクビにしなくちゃいけない』 『は?』  黒崎の目が見開かれた。予想していなかったのだ。本気で。石津がどれだけ叱っても最後には引いてくれることを、この男は学習していた。だから今度もそうだと高を括っていた。 『おまえは態度が悪すぎる。他の従業員もお前が怖いと言っていてな。俺はこの製鉄所のリーダーだ。お前のことだけじゃなく、他の奴らのことも見なきゃいけない』  石津の声は低く、平坦だった。感情を排した声。それが逆に、この言葉がどれだけの逡巡の果てに出てきたものかを物語っている。 『残念だが、これが最後のチャンスだ。今期のうちにその態度を改めないならお前をクビにする』  沈黙が落ちた。ほんの数秒。 『ざけんじゃねぇ!!』  黒崎が椅子を蹴って立ち上がった。 『俺をクビにするだぁ!?  だったらその前に、俺に合わせられねぇそいつらをクビにすればいいだろうがよ!!』 『本気で言ってるのか?』 『ったりめえだろ!?  俺のがあんな奴らより価値があるんだからよ!』  石津の顔が、凍った。  怒りでも悲しみでもなかった。驚愕だった。三年間、叱り、諭し、引き留め、時には謝りながら向き合ってきた相手の口から出た言葉が——これだった。他の従業員を全員切って自分だけ残せ。本気でそう言っている。冗談や虚勢ではなく、心の底からそれが当然だと信じている目をしていた。  石津は、しばらく何も言えなかった。  悠斗も、何も言えなかった。三年かけても、一ミリも届いていなかった。石津の忍耐も、歩み寄りも、息子のように想っていたというあの
Read more

一〇七話:からっぽの怪物

『よォ』 『黒崎さん……!? どうしたんですか……!? その血は……!』 『いてて……ちょっと、怪我しちまってなァ』  黒崎の目がいやらしく嗤う。だが、それに気がつくことなく、佐条は持ち前の優しさから黒崎の元へ駆け寄る。 それが──返り血とも理解しないまま。   『いてー……。こりゃあ手当が必要だよなァ……』 『ま、待っててください!  今、タオルとか取ってきますので……!』   そんな彼女が背後を向いた瞬間――黒崎は素早く手を伸ばし、佐条の胸を荒々しく鷲掴みにした。   『きゃっ!??』  黒崎の大きな手が、服の上から佐条の豊かな膨らみを強く揉みしだく。指が深く沈み込むほどに、柔肉を貪るように形を変えながら、卑猥に捏ね回す。親指が特に敏感な頂の辺りを執拗に押し潰し、擦り上げるように動く。 『く、黒崎さん……!? や、やめて……!』 『お前、散々俺を弄んでくれたよなぁ…。その分はしっかり払って貰わねーと』  黒崎は低く笑いながら、さらに力を込めて胸を掴み直す。指の腹でぐにゅぐにゅと柔らかさを堪能するように揉みほぐし、時折爪を立てて布地越しに敏感な部分を引っ掻く。佐条の体がびくんと跳ねるたび、彼の嗤いはますます下品に歪んだ。 「っ……!! やめて!! 誰かぁ!! 助け——」  叫びが最後まで形になるより早く、黒崎が忌々しそうに顔を歪めた。次の瞬間、その足が容赦なく振り抜かれる。鈍い音が響き、佐条の膝が曲がるはずのない方向へ折れた。  支えを失った身体が、そのまま床へ崩れ落ちる。 「ぎゃあぁぁ……っ!!」  耳を裂くような悲鳴だった。聞いた瞬間、喉の奥がきゅっと強張る。それでも黒崎は眉ひとつ動かさず、倒れた佐条を見下ろしていた。  口元には、ぞっとするほど軽い笑みさえ浮かんでいる。 『なぁ? 俺に逆らうからこうなんだよ。最初から大人しく受け入れときゃよかったんだ』   「……痛い……!! 痛いぃぃ……!!」  佐条は折れた足を庇うことすらできず、床に爪を立てるようにもがいていた。息は乱れ、顔は涙と脂汗でぐしゃぐしゃだ。痛みから逃れようと身を捩るたび、余計に悲鳴が漏れる。  なのに黒崎の目は、ひどく乾いていた。 「ちっ、なんだ。足が逆方向に向いただけで、つまらねぇなぁ」  その言葉を聞いた瞬間、悠斗の心はすうっと沈んだ。
Read more

一〇八話:死してなお

 意識が、じわじわと遠のき始める。  悠斗の視界は薄く霞み、輪郭という輪郭が滲んでいた。これほど長く霊眼術を使い続けたことはない。その反動が、今になって一気に押し寄せてきたのだろう。 「うっ……! でも……! まだだ……! まだ僕は……! 全貌を見れていない……!」  喉を震わせながら、悠斗は無理やり意識を繋ぎ止める。  石津が言っていた。奴は死んだ後に捕まった——と。その意味を本当の意味で知るには、今まさに目の前で繰り広げられているこの光景を、最後まで見届けなければならない。そう思った瞬間、悠斗は食らいつくように目へ霊力を込めた。 「へへ、おら。どうしたよ? 撃てねぇのか?」  黒崎が下卑た笑みを浮かべる。警官たちの怒気を煽るような声だった。とうとう一線を越えたのか、次の瞬間、二人の警官が同時に黒崎へ飛びかかる。 「この……!!」  だが、捕らえる側には制約がある。  生きたまま確保しなければならない。無力化できればそれでいい黒崎とは、初めから背負っているものが違った。その一瞬の差を、黒崎は迷いなく突く。 「オラァ!!」 「ぐあっ……!」  低い叫びと同時に、刃が閃いた。掴みかかってきた警官の太腿へ、さらに腰へ、黒崎は躊躇なくナイフを突き立てる。男の身体はたちまち力を失い、そのまま床へ転がった。 「井澤! この……!!」  もう一人の警官が息を呑む。その隙を見て、黒崎は血のついた刃先をちらつかせながら、じりじりと後ろへ下がっていく。 「おっと、近づくなよ? それ以上来たら……分かるよな?」 「クソ……!!」 「へへ、そうそう。大人しくしてりゃいいんだよ」  その言い方が、ひどく醜かった。  優位に立ったから笑っているのではない。ただ、自分よりまともな人間が苦しみながら歯を食いしばっている、その状況そのものを舐めるように楽しんでいる。悠斗の喉が、ひくりと引き攣った。  黒崎は警官たちと距離を取りながら、逃げ切れると踏んだのだろう。次の瞬間、勢いよく背を向け、そのまま駆け出す。 『仕方あるまい……! 命は奪うな! だが、発砲を許可する』  無線機の向こうから飛んだ声が、場の空気を一変させた。 「っ!! 黒崎ぃぃぃぃ!!」  直後、乾いた破裂音が響く。  状況は、あまりにも目まぐるしかった。逃げ出した黒崎の太腿を、警官の
Read more

一〇九話:禁術・祓火

「本当に……するの?」  悠斗の声は、ひどく低かった。押し止めたい気持ちが喉元までせり上がっているのに、それを掴む言葉だけが見つからない。目の前の美琴は静かに立っていて、その静けさがかえって揺るぎのなさを際立たせていた。 「ええ。それが、私の役目ですから」  ──役目。  美琴がその言葉を口にするとき、迷いはいつも消えている。優しさも苦しさも知ったうえで、それでも進むと決めた者の響き。悠斗はもう知っていた。こうなった彼女は、止まらない。いや、止められない。 「悠斗、そんなに考え込んでどうしたんだよ? 美琴ちゃん、なにをするってんだ?」   春雪が戸惑ったように二人を見比べる。事情を飲み込みきれていない声だったが、その表情にはただならぬ空気だけはしっかり伝わっているのが見て取れた。 「私はこれから、殺人鬼を強制的に成仏させます」 「んと、それってあれか? テレビとかでよく霊媒師がやってるようなやつだよな?」 「違います」  きっぱりと、美琴は否定した。 「あれは、祓うといっても成仏をさせるものではありません。その霊の居場所を奪って、立ち退かせるだけです」  そこで一度、彼女は黒崎の方へ視線を向ける。拘束されたままの殺人鬼の霊は、うめき声のようなものを漏らし、苛立たしげに身体をよじっていた。鉄と血の残滓がこびりついたような気配が、まだあの場に沈んでいる。 「居場所をなくした霊は行く宛てを失い、やがて形を保てなくなります。同時に、霊としての存在感も薄れていく。それはつまり……」 「なるほどな……それは、ひでーな……」  春雪の顔が引きつる。軽口を叩く余地もないらしく、声の端に素直な嫌悪が滲んだ。 「でも、私がこれから行うのは……もっと非情な行いです」  その一言で、空気が変わった。  美琴は声を荒げたわけでもない。ただ淡々と告げただけなのに、その静かさの奥にある決意があまりにも重い。 「私がするのは、禁術・禊火という術です……って、この説明は二度目になりますね。とにかく、その術を向けられる霊に、とてつもない苦しみを与える術だと認識してもらえれば」 『ん゛〜ッ!?』  黒崎がひしゃげた声を漏らした。言葉の意味を正確に理解したわけではないはずなのに、本能だけで拒絶しているのだろう。 「それと同時に、術者にも代償が降りかかります」
Read more

一一〇話:炎の対価

黒崎の叫びが、空気に溶けていく。 最後の残響が消えるより先に、美琴の身体が傾いだ。 「美琴っ!」 駆け寄る。彼女の肩を掴んだ手に、熱が伝わった。異常な熱。制服越しでもわかるほどの。 「……はぁ……はぁ……」 額から汗が流れ落ちている。一筋ではない。滝のように。風鳴トンネルのときとは比べものにならなかった。あのときも代償はあった。でもここまでじゃない。顔色は紙のように白く、呼吸のたびに肩が大きく揺れている。 「ご……ごめん、なさい……。代償が……きます……っ」 「謝らなくていい!!」 声が裏返った。そんなことはどうでもよかった。 「お、おい! これが代償ってやつなのか!?」 春雪が横から覗き込み、美琴の顔を見て息を呑んだ。 「前より酷い……! とにかく急いで彼女を……!」 「わ、わかった!」 美琴を背負う。 ——軽い。 支えたときから感じていた。けれど背中に乗せた瞬間、その軽さが別の意味を帯びた。人の身体は、こんなに軽いものだろうか。 彼女は言っていた。代償は霊力の枯渇と高熱、それに伴う意識の喪失だと。 だが——これは。 背中に感じる体温は燃えるように高いのに、その下にある身体があまりにも薄い。嫌な思考が巡るが悠斗は慌ててそれを振り払った。 春雪と並んで走る。美琴の呼吸が、背中越しに小さく聞こえている。 石津製鉄所が、夜の闇に遠ざかっていった。 *​​​​​​​​​​​​​​​​ 石津製鉄所を出てから、もう十分以上が経っていた。 バス停のベンチに座り、美琴を背中に抱えたまま、悠斗は何度目かわからない視線を道路の先に向ける。ヘッドライトの気配すらない。 「もう十分以上待ってる……!」 「おかしいな、ちょっと待ってろ。調べる」 春雪がスマホを取り出し、画面を覗き込んだ瞬間、顔が歪んだ。 「げっ……」 「なにかあった?」 「この工業団地行きのバス、事故で大幅に遅延してる」 「こんな時に……!」 背中で、美琴が小さく呻いた。制服越しの熱が、さっきよりも上がっている気がする。 待てない。 「タクシーにしよう」 「はぁ!? 待て待て待て、ここから俺たちの家まで一時間はかかるだろ!? 万近く飛ぶぞ!?」 「そんなこと言ってる場合じゃない!」
Read more
PREV
1
...
910111213
...
19
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status