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第611話

「母さんには今、お前たち兄妹しか家族がいないのよ。お前たちに何かあったら、母さんは生きていけないわ」「何を言ってるんだ。これからは孫の面倒だって見てもらわなきゃならないんだから、余計なことは考えるな」その言葉に、琴子はふっと息をのみ、静かに口を開いた。「どうしても素羽と関わり続けるつもりなの?」素羽が外で起こした騒動は、琴子もすでに知っていた。黄瀬家の息子が命を落とした。どちらが先に手を出したにせよ、結果として人が素羽の手によって死んだことに変わりはない。黄瀬家そのものは恐れるに足りない。だが、黄瀬家の傍系に嫁いだ娘の夫だけは警戒すべき相手だった。今、司野が素羽をかくまっているということは、自ら厄介事を抱え込んでいるようなものだ。しかも、それは並大抵では済まないほど大きな火種だった。司野の瞳に、揺るぎない決意が宿る。「母さん。俺の気持ちは、今まで一度だって変わったことはない」素羽は彼の妻だ。これまでも、そしてこれからも。琴子は静かに言った。「今のあなたたちは、釣り合っていないわ」以前からそうだった。だが今は、なおさらだった。素羽は司野に、果てしない災いしかもたらさない。司野は迷うことなく答えた。「俺は釣り合っていると思ってる」それだけ言い残すと、彼はこの話をこれ以上続けることなく車を走らせ、旧邸を後にした。景苑別荘。今やこの場所は、司野だけが自由に出入りでき、ほかの者は誰一人として外へ出ることを許されない状態になっていた。車を降りた司野がふと視線を上げると、バルコニーに座る素羽の姿が目に入った。毎日の傷の手当てがしやすいよう、彼女はゆったりとした脱ぎ着しやすいロングワンピースを着ている。どこにでもあるような何の変哲もない服だったが、司野にはそれがどこか穏やかで、温かな光景に映った。素羽は一人掛けのソファに体を預け、その胸には、森山が丸々と太らせた毛艶のいい「だんご」が気持ちよさそうにうつ伏せになっている。その手つきはどこまでも優しかった。もし二人の子供に何事も起こらなかったなら――彼女はきっと、子供にもこんなふうに惜しみない愛情を注いでいたのだろう。編みかけのセーターが脳裏によみがえり、司野の胸は張り裂けそうなほど痛み、激しい罪悪感が押し寄せた
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第612話

黄瀬家が素羽に動いたのは、司野の予想よりも早かった。翌朝、素羽がまだ眠っている時間から、景苑別荘の外は騒がしくなっていた。その喧騒が彼女の部屋まで届くことはなかったが、司野がドアを叩く音で目を覚ます。素羽はパジャマ姿のままドアを開けた。最初は気怠そうな表情を浮かべていたが、立っていたのが森山ではなく司野だと分かった瞬間、その眼差しはすっと冷え切ったものへと変わる。彼女は何も言わなかった。ただ、その視線だけが「何の用?」と問いかけていた。司野は穏やかな口調で告げた。「警察が来ている。黄瀬の件で事情を聞きたいそうだ」その言葉に、素羽は一瞬だけ動きを止めた。だが、それ以上の反応は見せなかった。司野から人が死んだことは聞かされていたため、驚きはなかったのだ。素羽は何も言わず部屋へ戻り、顔を洗って着替えを済ませた。再び部屋から出てくると、司野はまだドアの前で待っていた。着替えを終えた素羽を見ると、頬にかかった髪を払おうと手を伸ばす。しかし、その指先が触れる前に、素羽は身を引いてそれを避けた。司野は宙に浮いた手を静かに下ろし、優しく言い聞かせるように続けた。「怖がる必要はない。腕の立つ弁護士を手配してある。お前は余計なことは何も話さなくていい。あとは彼に任せればいい」素羽は相変わらず無言のまま彼の横を通り過ぎ、階下へ向かって歩いていった。素羽を警察へ同行させることは止められなかったが、司野は警察官を屋敷の中へ入れず、玄関の外で待機させていた。素羽はパトカーには乗らず、司野が用意した車に乗り込む。司野も同じ車に乗り、共に警察署へ向かった。道中、司野はまるで心配性な母親のように何度も繰り返し言い聞かせた。余計なことは話さないこと、自分は被害者であるという立場だけを主張すること。素羽は終始、窓の外を見つめたままで、彼には横顔しか向けなかった。司野の言葉が耳に入っているのかどうかも分からない。それでも司野は構わず、道中ずっと言い聞かせ続けた。車が警察署に到着し、中へ入る直前、司野は言った。「素羽。今回は俺がお前を守る。絶対に誰にも指一本触れさせない」その誓いも素羽の足を止めることはできず、彼女は警察官に付き添われて中へ入っていった。傍らには、司野が手配した弁護士が同行している。素羽が取り
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第613話

利津がここまで変わってしまった姿を見て、司野の胸中は複雑だった。幼い頃から共に育ってきた情があり、司野は本気で彼を兄弟のように思っていた。だが、利津は違った。彼はすでに、司野が決して踏み越えることを許さない一線を越えてしまっていた。司野は冷え切った声で口を開く。「俺がお前に抱いていた情は、もう完全に尽きた」その言葉は、次に何かあればもう容赦はしない――利津への最後通告だった。利津が、その意味を理解できないはずがない。彼は口元をゆがめ、不意に笑い出した。だが、その笑みはどこか薄気味悪かった。「まさか、たかが女一人のためにここまで来るとはな。あんな傷物なんかを、そこまで大事にするとは。司野、お前はいつから素羽と同じくらい安っぽい男になったんだ?」言い終わるか終わらないかのうちに、拳が容赦なく利津の顔面を打ち抜いた。司野の表情は冷え切っていた。「利津、いい加減にしろ」利津は顔を横に向けたまま、親指で口元を拭う。指先には血がにじんでいた。彼は血の混じった唾を地面に吐き捨てると、ゆっくりと顔を上げ、暗く濁った瞳で司野を睨み返した。「いい加減にしろ、か。なら見せてもらおうじゃねえか。その時が来たら、お前がどうやって俺を容赦なく潰すのかをな」そう言い残すと、付き人に車椅子を押させ、そのまま警察署の中へ入っていった。素羽が中へ入ってから、すでに二時間が過ぎていた。待ち続けることに焦りを募らせた司野は、気持ちを落ち着かせるため外へ出て、煙草に火をつけた。さらに一時間後、ようやく動きがあった。だが、出てきたのは司野が待ち望んでいた人物ではなかった。姿を現したのは素羽ではなく、亘一人だった。司野は眉をひそめる。「あいつは?」亘は目を伏せたまま、事実だけを告げた。「一時的に拘留された」利津が黄瀬家と結託し、偽証したのだ。素羽は被害者として正当防衛に及んだのではなく、自ら押しかけ、口論の末に一方的に惨殺した――そう証言したのである。司野の表情は、底の見えない水面のように暗く沈んだ。亘も、利津がここまでやるとは思ってもみなかった。兄弟同然に育った相手に、どうしてここまで徹底して牙をむけることができるのか。ちょうどその時、利津も中から姿を現した。彼はすっかり勝ち
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第614話

谷川家も、黙ってやられるような家柄ではない。だが、決して付け入る隙がないわけでもなかった。利津が偽証できるのなら、司野にも証拠を突きつけることはできる。司野は谷川家による違法な不正操作の証拠を関係機関へ直接提出し、谷川家全体を疑惑の渦へと叩き落とした。完全に潔白な企業など存在しない。どこも表向きは取り繕っているだけで、その裏には必ず汚れを抱えているものだ。英治は、司野が水面下でここまで手を回していたとは思いもしなかった。そして同時に、彼が自分たちの内部にまで密かに入り込んでいたことを、ようやく思い知った。司野と利津の兄弟同然の絆は、どうやらずっと前から純粋なものではなくなっていたらしい。谷川家の機密を握るなど、一朝一夕でできることではないのだから。利津たちの父親と英治は、司野が仕掛けた一連の工作の後始末に追われ、身を粉にして奔走する羽目になった。利津もまた、司野の情け容赦ないやり方に激しく憤っていた。自分はずっと親友だと思っていた。なのに、あいつは以前から谷川家そのものを狙っていたというのか。そんな利津から罵声を浴びせられても、司野は意にも介さなかった。彼はコネを使って素羽に拘置所の個室を手配すると、痛ましげな表情で言った。「心配するな。すぐにここから出してやる」拘留された当の本人である素羽は、司野ほど焦ってはいなかった。彼の言葉を聞いても、まるで外の世界とのつながりをすべて断ち切ってしまったかのように、何の反応も示さない。その生気を失った姿を見て、司野は胸を締めつけられるような痛みを覚え、思わず彼女の手を強く握りしめた。「素羽、よく聞け。お前をこんな場所に閉じ込めたままにはしない。俺が迎えに来るまで待っていてくれ」司野の手は大きく温かかった。本来なら、その温もりは安心を与えるはずだった。だが素羽は、そこに温かさなど微塵も感じなかった。むしろ背筋を這い上がるような寒気だけが込み上げてきた。素羽は冷え切った表情のまま、握られた手を振りほどいた。「あなたに閉じ込められるくらいなら、ここにいるほうがずっとマシよ」そう言い終えると、これ以上同じ空間にいることさえ耐えられないと言わんばかりに、看守を呼んで面会を打ち切らせた。きっぱりと背を向けて去っていく素羽の後ろ姿を見つめながら、司野は眉間に
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第615話

いったい、なぜ急に別人のようになってしまったのか。肺に吸い込んだニコチンは、以前のように昂ぶる感情を鎮めてはくれなかった。それどころか、司野の苛立ちをさらに募らせるばかりだった。「もう二度と、あいつを二番目の選択肢にはしたくない」この苛立ちの正体が何なのか、司野自身が一番よく分かっていた。すべては罪悪感だった。素羽に対する後ろめたさだ。夫としての責任も果たせず、父親としての覚悟も足りなかった。彼女たち母子が味わった苦しみも、耐えてきた痛みも、すべては自分の怠慢が招いた結果だった。自分の過ちであり、自分が背負うべき罪だった。幸雄からの一本の電話は、司野を思いとどまらせるどころか、かえって彼の決意をさらに揺るぎないものにした。司野は志乃に会いに行った。だが、会う気がないのは志乃の方だった。拒絶されても、司野は少しも驚かなかった。彼は一つの封筒を取り出すと、玄関前に立つ見張りの男へ手渡し、それを志乃に届けるよう命じた。事件が起きてからというもの、司野も何も手を打っていなかったわけではない。利行の身辺についても、すでに調べを進めていた。退廃した生活を送る人間の身についた汚れは、少し探ればすぐにボロが出る。いくら後始末を繰り返しても、利行が問題を起こす速さには追いつかず、必ずどこかに痕跡が残るものだった。利行は性的暴行だけにとどまらず、女性を弄んで死に追いやったこともあり、強姦をはじめ数え切れないほどの犯罪に手を染めていた。それだけではない。薬物にも手を出し、密輸や麻薬の売買にまで関与していたのだ。まさに歩く刑法典とでも呼ぶべき男で、一歩歩くたびに罪を重ねているような人間だった。男は中へ入ると、ほんの数分で戻ってきた。「こちらへどうぞ」この展開も、司野の予想どおりだった。司野は車を降りて中へ足を踏み入れた。その後に続こうとした岩治の前へ、ボディーガードが立ちはだかった。「お前は入れない」岩治は足を止め、司野へ視線を向けた。すると司野は振り返ることもなく言った。「ついて来い」その言葉は明らかに岩治へ向けたものだった。同時に、それは志乃への意思表示でもあった。自分は決して、彼女の思いどおりに動かされる人間ではない――そう告げていた。個室。司野
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第616話

表向き、志乃には子どもはおらず、わが子のように可愛がっている甥が一人いるだけだった。だが、その裏では――彼女には実の息子が一人いた。しかも、その子は代理母出産によって授かった息子だった。成彦には生殖能力がなく、当然、自分の妻が子どもを産むことなど認めるはずがなかった。かつて成彦という強大な後ろ盾を得るため、志乃は自らにあまりにも残酷な決断を下した。彼への覚悟を示すため、自分の卵巣を摘出したのである。そして、自ら二度と子どもを産めないという事実を利用し、兄から資金援助を引き出して自分の道を切り開き、高官の妻という地位を手に入れたのだ。一方で黄瀬家も、その立場を利用して裏金の資金洗浄を進め、成彦の庇護のもとで事業をさらに拡大させていった。生殖能力を失った妹に対し、兄も惜しみなく力を貸した。何しろ、自分の息子こそが志乃にとって唯一の血縁となり、いずれ彼女の築いた財産はすべてその子のものになるはずだったからだ。司野は薄く笑みを浮かべたまま、冷ややかに言った。「もし、あんたの夫や兄が、あんたの息子に黄瀬家の財産と渡辺家の権力を継がせようとしていたことを知ったら……どうなると思う?」志乃は不妊手術を受ける前にあらかじめ卵子を採取し、頃合いを見計らって海外で代理母出産を行っていた。その息子も今では十八歳になっている。彼女はこの事実を徹底的に隠し続けてきた。そして、その秘密を掘り起こすために、司野もまた膨大な時間と労力を費やしていた。志乃の表情が険しく曇る。このことを成彦に知られれば、離婚されるのは間違いない。仮に離婚までは至らなくとも、彼から強く警戒されることは避けられないだろう。成彦には子どもはいないが、弟には息子がいる。自分の築いた権力を託すなら、当然、自分の血筋だ。よその血を引く子どもに継がせるはずがない。黄瀬家についても同じだった。志乃は利行を実の息子同然に可愛がってきたが、甘やかされて堕落した甥など、自分の実の息子と比べれば取るに足らない存在だった。もちろん、兄に対して何度も「利行をきちんと教育しろ」と忠告してきた。しかし兄夫婦は、そのたびに口先だけで頷くだけだった。機会は何度も与えた。それを無駄にしたのは兄夫婦自身なのだ。会社というものは、有能な人間が継いでこそ発展する。利行のような放蕩息子に
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第617話

それを見た瞬間、素羽の無表情だった顔に、ほんのわずかな変化が走った。長いまつ毛がかすかに震え、彼女はゆっくりと視線を上げる。「さっさと食え。あとで食器を下げに来る」――早く読め。そんな無言の合図だった。看守が立ち去るのを確認すると、素羽はしゃがみ込み、床に落ちていたメモを拾い上げた。食事を手に取ったものの、口をつけることはせず、先にメモを開く。密かに手紙を寄こした相手は、なんと――幸雄だった。静かな瞳に、わずかな波紋が広がる。やはり幸雄も琴子と同じ考えだった。素羽を、この場所から遠ざけようとしている。本当に、誰も彼も見事なくらい同じ結論にたどり着くものだ。メモをしまい込むと、素羽の表情は再び何事もなかったかのような冷たさを取り戻し、味気ない夕食を機械のように口へ運び始めた。志乃との交渉を終えた司野は、逸る気持ちを抑えきれず、その足で素羽のもとへ向かった。「夕飯は食べたか?傷の手当はちゃんとしたか?」どれだけ気遣う言葉を並べられても、素羽の心は一切動かなかった。むしろ煩わしいだけで、その感情は隠すことなく表情に表れていた。その露骨な拒絶に司野は胸を痛めたが、すぐに気持ちを立て直す。嫌われるのも当然だ。彼女の心を、ここまで傷つけたのは他ならぬ自分なのだから。司野は机の上に置かれた彼女の手へ、そっと手を伸ばした。しかし、指先が触れる寸前、素羽は素早く手を引き、彼を避けた。宙をさまよう自分の手を見つめ、司野の表情に影が差す。それでも無理に笑みを作り、静かに言った。「もう少しだけ我慢してくれ。すぐにここから出してやる」素羽は淡々とした口調のまま問い返す。「用件は、それだけ?」「素羽。言ったはずだ。これからは俺がお前を守るって」もう二度と、あんな悪夢のような出来事は繰り返させない。だが、司野の必死な想いにも、素羽は何の興味も示さなかった。そのまま静かに立ち上がると、一度も振り返ることなく面会室を後にする。司野は去っていくその背中を見つめながら声をかけた。「素羽。明日、迎えに来る。待っていてくれ」返ってきたのは、一度も振り返ることのない冷たい背中だけだった。拘置所の外。岩治が車のドアを開け、司野は身をかがめて車内へ乗り込んだ。煙草に火をつけると、
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第618話

夜明け前、静まり返っていた拘置所が、突如として騒然となった。奥の独房の扉が勢いよく開かれ、ほどなくして、顔面蒼白の素羽が担架で運び出され、そのまま救急車へと搬送された。サイレンが拘置所の外に鳴り響き、夜の静寂を切り裂くように鼓膜を打ち震わせる。深夜の景苑。司野は悪夢にうなされ、飛び起きた。秋の冷え切った空気とは裏腹に、背中は冷や汗でぐっしょりと濡れていた。ベッドサイドに置いてあった煙草とライターを手探りで掴み、火をつける。肺へ流し込んだニコチンが、悪夢で乱れた鼓動を少しずつ鎮めていった。司野はヘッドボードにもたれかかり、虚空へと視線を向ける。指先に挟んだ煙草の火だけが、暗闇の中でかすかに明滅していた。どんな夢を見たのかは思い出せない。ただ、夢の中で味わった恐怖と不安だけが、胸にまとわりついて離れなかった。今もなお、鼓動が異様なほど速いことを、自分でもはっきりと感じていた。一本吸い終える頃になって、ようやく胸のざわつきが少しだけ和らいだ。静まり返った寝室に、不意にスマートフォンの着信音が鳴り響く。その甲高い音に、心臓が大きく跳ねた。画面に表示された名前を見た司野は、わずかに眉をひそめる。何もなければ、岩治がこんな深夜に電話をかけてくるはずがない。通話ボタンを押した瞬間、受話器の向こうから切迫した岩治の声が飛び込んできた。「社長、大変です。拘置所から連絡が入りました。素羽さんが突発性の心筋梗塞を起こし、病院へ搬送されたそうです」吸い殻を灰皿へ押しつけようとしていた司野の手が、ぴくりと止まる。赤く燃えた灰が手の甲へ落ちたが、熱さなどまるで感じなかった。全身が硬直し、頭の中が真っ白になる。数秒遅れて、ようやく喉の奥からかすれた声が漏れた。「……なんだと」岩治は焦ったように繰り返す。「素羽さんが心筋梗塞で病院へ運ばれました」煙草を挟んでいた司野の指に力がこもる。まだ火のついた吸い殻を、そのまま掌の中で握り潰した。岩治が悪趣味な冗談を言っているのではないか――そんな考えが一瞬頭をよぎる。昼間に会った時、素羽はあれほど普通だった。心筋梗塞など起こすはずがない。だが同時に、岩治がこんなことで冗談を口にする男ではないことも、司野はよく知っていた。荒く息を吐き出し、低い声で尋ねる
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第619話

阪田高速道路。司野が現場に到着した頃には、まだ夜明け前だというのに、そこは幾重にも人だかりができていた。投光器のまばゆい光が高速道路を照らしている。それなのに司野の目には、世界のすべてが漆黒の闇に沈んでいるようにしか映らなかった。前方の道さえ見失うほどの、深い闇だった。司野は行く手を阻む野次馬たちを乱暴にかき分けながら、一歩、また一歩と事故現場へ向かっていく。「どけ……!全員、どけ!」突き飛ばされた人々は文句を言おうと口を開きかけたが、魂が抜け落ちたように取り乱した司野の様子を目の当たりにすると、誰もが言葉を失い、自ら道を譲った。崩れ落ちたガードレールへ近づこうとしたその時、現場を規制していた警察官が彼の前に立ちはだかった。「下がってください。ここは立入禁止です」「どけと言ってるだろう!」司野は警察官など眼中になく、その身体を突き飛ばして強引に中へ入ろうとした。警察官が取り押さえようとした、その瞬間――「社長、落ち着いてください!」岩治が慌てて駆けつけた。彼は司野を必死になだめながら、警察官に自分たちの身分を説明する。厳しい表情だった警察官も司野の身元を知ると多少態度を和らげたが、それでも目を離さず、救助活動の妨げにならないよう岩治へ厳しく念を押した。岩治は何度も頭を下げ、必ず目を離さないと約束した。だが、その約束に意味はなかった。司野の耳には何一つ届いていなかった。今の彼の頭にあるのは、ただ一つ。――素羽が川へ落ちた。俺が助けなければ。岩治は、暴れ狂う猛牛のような司野をもう止めきれなかった。パンッ――!乾いた平手打ちの音が、静まり返った夜気を鋭く切り裂いた。司野の顔が横へ弾かれる。岩治は痺れるような痛みが残る掌をぎゅっと握り締め、喉を鳴らしながら唾を飲み込んだ。司野はゆっくりと首を巡らせ、岩治を見据えた。その漆黒の瞳には、思わず背筋が凍るほどの凄まじい光が宿っていた。岩治はその眼差しに思わず身をすくませた。それでも背筋を伸ばし、必死に平静を装いながら訴える。「社長、救助隊が今も引き揚げ作業を続けています。今飛び込めば救助の邪魔になるだけです。それでは素羽さんの救出が遅れてしまいます。どうか落ち着いてください。彼女はきっと無事です」岩治は司野より先
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第620話

時間は、そのまま生存の可能性を意味していた。引き揚げに時間がかかればかかるほど、生還の望みは薄れていく。救急車の運転手も医療スタッフも全員救助され、病院へ同行していた警察官までもが無事に岸へ上がった。それなのに――素羽だけが、ただ素羽だけが、生きた姿も、遺体すらも見つからなかった。痕跡は何一つ残されていなかった。最初のうちは、司野も岩治の説得にどうにか耳を傾けていた。だが時間が経つにつれ、彼はまるで追い詰められた猛獣のようになり、誰が何を言おうと、どれだけなだめようと、一切耳を貸さなくなっていった。誰もが心のどこかで理解していた。素羽が生きている可能性は限りなく低く、この状況を楽観視できる者など誰一人いない。ただ一人、司野だけがその現実を認めようとしなかった。認められないからこそ激しく取り乱し、自ら川へ飛び込んで捜索しようと必死にもがいていた。こんな状態の彼を、岩治が川へ向かわせられるはずがない。素羽が見つからないどころか、司野まで命を落としてしまいかねなかった。しかし、司野の凄まじい力を前に、岩治一人ではもう抑えきれなかった。最後は、幸雄が手配した者たちによって強引に取り押さえられ、その場で気絶させられて運び去られた。幸雄は杖を突きながら、崩れ落ちたガードレールのそばに立っていた。風が吹き荒れる中、底知れぬ闇をたたえた川面をじっと見つめるその瞳は、ひどく濁り、何を考えているのか読み取れなかった。やがて彼は静かに命じる。「素羽の葬儀は、盛大に執り行え」その言葉に、岩治は息を呑んだ。胸の奥が重く塞がる。これで、すべてが終わったというのか。まだ引き揚げられていない。だから、死んだと決まったわけではない――そう言いたかった。だが、その言葉は結局、喉の奥で飲み込むしかなかった。本当は、自分でも分かっていたからだ。素羽の結末は、もう決まってしまったも同然だと。今日この日をもって、この世から「素羽」という人間は消えたのだ。岩治の胸には、言葉では言い尽くせない苦しみが渦巻いていた。何年も顔を合わせてきた人が、どうしてこんなにもあっけなく、この世から消えてしまうのだろう。悔しさもある。やるせなさもある。だが何よりも、素羽という一人の女性の運命が悲しくて
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