偽りの婚姻から脱出、御曹司は私に惚れ のすべてのチャプター: チャプター 921 - チャプター 930

1004 チャプター

第921話

奈穂は黙り込んだ。正修の外祖父は亡くなり、静かに墓の中で眠っている。彼が今、どれほどつらい思いをしているのか、自分にはよく分かっていた。正修もそれ以上は何も言わず、ただ奈穂を強く抱きしめた。こうして彼女を抱きしめている時だけ、少しだけ心が楽になる気がした。……住まいに戻ると、正修はシャワーを浴び、そのまますぐに眠りについた。ここ数日、彼はほとんどまともに眠れていなかったのだ。奈穂はベッドの傍らに座り、眠る正修の顔を見つめながら胸を痛めた。彼女自身はまだ眠れそうになかった。彼はようやく眠れたのだから、ここにいて誤って起こしてしまうのも嫌だった。そこで布団を丁寧に掛け直し、足音を忍ばせながら寝室を後にした。部屋を出るとすぐ、別荘の執事である雅子が心配そうな表情で近寄ってきた。「水戸さん、正修様のご様子はいかがですか?」「とりあえず眠れています」奈穂は答えた。「厨房に言って、栄養のあるスープを用意しておいてください。目が覚めたら少し飲ませてあげたいので」「かしこまりました」雅子はうなずき、そのまま立ち去った。雅子が去った直後、奈穂の携帯電話が鳴った。水戸グループ傘下の私立病院の副院長からだった。「奈穂様、先ほどご友人の須藤様がお一人の男性を連れて来院されたのをお見かけしました。その男性は負傷されていますが、いずれも軽傷で、命に別状はありません」副院長は君江が奈穂の親友だと分かっていたため、人を連れて病院に来たのを見て、すぐに連絡を入れようと思ったのだ。「男性?君江が男性を連れてうちの病院に来たの?」「はい。須藤君江様で間違いありません」「分かった。ありがとうね」「とんでもございません」副院長との通話を終えると、奈穂はすぐに君江に電話をかけた。……その頃、君江は病室で、治療と包帯処置を終えた清流と向かい合っていた。しばらく沈黙が続いていたが、先に沈黙を破ったのは清流だった。「ずっとそんなふうに見つめるの、やめてくれないか?なんか怖いんだけど。俺、一応病人なんだぞ。いてっ……痛い……」「今さら痛いって分かったの?」君江は呆れたように笑った。面白いのか腹が立つのか、自分でも分からない。「殴られてる時は逃げようとも思わなかったの?反撃もできたでしょ?ただ大人しく殴られてたわ
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第922話

着信画面に表示されたのが奈穂の名前だと分かると、君江はすぐに電話に出た。「もしもし、奈穂ちゃん」「君江、誰かを病院に連れて行ったって聞いたけど、どうしたの?大丈夫?」「どうして知ってるの?」君江は驚いた。「その病院、水戸グループ系列なの。それで教えてもらったの」「ああ、なるほどね」君江はようやく納得した。この病院を選んだのは単純に一番近かったからで、水戸グループと関係があることなどすっかり忘れていた。君江は病室の中を振り返り、小声で言った。「須藤清流なの。人に殴られたのよ」あの時、清流は大勢の男たちが険しい顔で自分に向かって来るのを見るや否や、すぐに君江に電話をかけてきた。君江が電話に出ると、彼は矢継ぎ早に現在地を伝えた。彼女が何が何だか分からずにいると、その直後、電話の向こうから清流が殴られる音と悲鳴が聞こえてきたのだ。正直、その時は電話を切って何もかも無視してしまいたかった。清流が殴られようが、自分には何の関係もない。あんな男、殴られて当然だ。だが結局、君江は人を連れて清流を助けに向かった。幸いにも、ちょうど近くにいた。でなければ、彼の怪我はもっとひどくなっていただろう。「そうだったの……」奈穂は何か言いかけて言葉を飲み込んだ。「それで、君江は……」君江は髪をかきむしった。「自分でもなんで彼の面倒見てるのか分からない。もう頭がおかしくなりそうよ。あの厚かましい男、誰に助けを求めてもいいのに、よりによって私を頼るんだから!でも、もう病院まで連れて来ちゃったし……今さら放っておくわけにもいかないでしょ」奈穂は小さくため息をついた。「分かった。こっちで人を手配して向かわせるわ」「ありがとう!やっぱり奈穂ちゃんが一番頼りになる!」電話を切って間もなく、病院のスタッフがやって来た。清流の入院手続きやその他の諸々はすべてこちらで対応するので、君江はもう心配しなくていいと言う。君江は再び病室の方を振り返った。少し迷った末、結局は中に戻ることにした。病室のドアを開けると、清流がベッドの脇に腰掛け、陰鬱な表情を浮かべていた。だが君江の姿を見た瞬間、その表情はたちまち柔らかな笑みに変わる。「お姉ちゃん……」「ここは友達の家の病院なの。あなたの入院の件も、その子がいろいろ手
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第923話

あまりにも哀れに見える表情だった。君江は、清流が同情を誘おうとしているのだと分かっていた。それなのに、この瞬間ばかりは少しだけ心が揺らいでしまう。「あなた……」「清流!大丈夫!?怪我はないの!?」その時、病室のドアが勢いよく開かれた。髪を振り乱した女性が外から飛び込んでくる。彼女の目には清流しか入っておらず、傍らに立っていた君江にはまったく気づかなかった。一直線にベッドに駆け寄ると、清流の腕を掴み、慌てた様子で全身を確認する。「母さん?」清流は呆然とした。「どうしてここに?」そして何かを思い出したように顔色を変え、慌てて君江の方を振り向く。しかし、そこにあったのは君江の冷たい嘲笑だけだった。そして何の迷いもなく背を向け、そのまま立ち去っていった。「お姉ちゃん……」清流は追いかけようとした。だが体中の傷も、目の前にいる佐知子も、そのすべてが足枷だった。結局、君江の姿が視界から完全に消えていくのを、ただ見送ることしかできなかった。「清流、一体どうしたの?どうしてこんなに怪我してるの?痛くない?」佐知子は心配そうに尋ねる。清流の胸には苛立ちが渦巻いていた。だが、母親の怯えきった表情を見れば、きつい言葉をぶつけることはできない。彼はそっと彼女の手を離させると、眉をひそめて聞いた。「どうしてここに来たんだ?どうして俺が怪我をしたことや、この病院にいることを知ってる?」「誰かから電話があったのよ!あなたが怪我をしたって。それで今この病院にいるって聞いて、すぐ飛んできたの!」「誰からだったか分からないのか?」「分からないわ。知らない番号だったもの!」その瞬間、清流の顔色は見る見るうちに陰鬱になった。誰の仕業か、彼には見当がついていた。修也だ。あの男は、君江が自分を助けに来たことが気に入らなかったのだろう。だから佐知子に電話をした。もちろん親切心などではない。君江と佐知子を鉢合わせさせるためだ。君江は佐知子のことを心の底から嫌っている。佐知子を見れば、思い出したくもない過去が次々によみがえる。そうなれば、自分に向けられたわずかな同情など、あっという間に消え去ってしまう。もっとも、誰かを責めることはできない。母が君江の父の不倫相手だったのは事実だ。
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第924話

「見間違い?そんなはずないわ」佐知子は疑わしそうに眉をひそめた。確かに先ほどは清流のことしか目に入っておらず、傍にいた人物の顔までは見ていなかった。だが、そこに誰かがいたことだけは間違いない。それでも、清流がすっかり気落ちして、これ以上話したくなさそうな様子を見て、彼女はそれ以上追及しなかった。一方の清流は、頭の中が君江のことでいっぱいだった。先ほど君江が振り返りもせず立ち去った姿が、何度も脳裏に浮かぶ。本来なら、あれが一番自然な反応なのだ。欲深くなったのは自分の方だった。自分の立場も、自分たち家族がかつて君江たち母娘に与えた傷も、いつの間にか忘れてしまっていた。そんな自分が、叶うはずもない願いを抱くなど、身の程知らずもいいところだった。清流は手で目を覆い、苦々しく笑った。……病院を出た君江は、自分の車の中でしばらくじっと座っていた。ようやく気持ちが落ち着いてきた頃、彼女は深く息を吐く。本当にどうかしている。自分が清流に情けをかけるなんて。進も佐知子もろくな人間ではない。清流だって同じだ。彼は進の不倫の受益者なのだから。もし自分が偶然真実を知ることがなかったら、今頃は清流兄弟が会社で自分と権力争いをしていたかもしれない。そんな相手に、今さら何を情けなく心を動かされているのか。だが結局のところ、すべては修也が余計なことをしたせいだ。修也と清流の間に個人的な恨みがあるなら、自分には関係ない。だが二人は元々面識すらなかった。それなのに修也は、何度も清流に難癖をつけ、攻撃を仕掛けている。それが自分と無関係だなどと言えるはずがない。どうやら以前、島で修也に言った言葉は一つも届いていなかったらしい。君江は冷たい表情のまま、一本の電話をかけた。……君江から電話がかかってきた時、修也は自分でも説明できないほど複雑な気持ちになった。ようやく彼女から自発的に電話が来た。だが、その電話は何のためか、誰のためか。彼自身が一番よく分かっていた。それでも修也はすぐに電話に出た。「もしもし、須藤さん」君江は無駄話を一切しなかった。簡潔に住所を告げる。そして、「ここで待ってる」と言って、修也が返事をする間もなく電話を切った。修也は小さくため息をつく。
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第925話

修也は、怒りを滲ませた君江の表情を見つめながら、胸の奥に鈍い痛みを覚えた。結局、彼は折れるしかなかった。苦笑を浮かべながら頷く。「ええ。須藤さんの推測は全部当たっています」「だから聞いてるのよ。あなた、何をしたいの?どうしてそんなことをするの?」君江は冷ややかに彼を見据えた。「私はずっと前から言っているはずよ。私とあなたには何の関係もない。清流ならなおさらでしょ。それなのに人を使って袋叩きにさせるなんて」その瞬間、修也は勢いよく顔を上げた。「須藤さんは、そんなに須藤清流のことが大事なんですか?彼は――」「彼の立場については、あなたに説明されるまでもないわ!」君江は鋭く言葉を遮る。「でも、それがあなたに何の関係があるの?」「分からないんです。どうして須藤さんがそこまで彼を庇うのか」実際、清流が殴られていた時、修也の車はすぐ近くに停まっていた。彼は車内から一部始終を見ていた。胸がすくような気分だった。だが、予想外のことが起きた。君江が人を連れて、清流を助けに来たのだ。修也は目の前で見ていた。君江が清流を支え起こすところを。二人が言葉を交わすところを。そして同じ車に乗り込むところを。納得できなかった。だから車で後を追った。行き着いた先は病院だった。君江はただ助けただけではなく、自ら病院まで付き添ったのだ。どうしてだ。清流ごときが。あんな愛人の子が、そんな扱いを受ける資格などあるのか。自分の何が清流に劣っているというのか。なぜ君江は、いつも清流には気を配るのに、自分にはこんなにも冷たいのか。「私は彼を庇っているわけじゃない」君江の声はわずかに硬かった。「ただ、あなたのやり方が気に入らないだけ。それに、こんな面倒事に巻き込まれるのも御免なの」「そうですか?」修也はどこか歪んだ笑みを浮かべた。「須藤さん、本当にそう思っていますか?他人は騙せても、自分自身まで騙せますか?」「あなた――」「今日、病院であの女に会ったでしょう。名前は何でしたっけ。大庭佐知子?彼女を見てもまだ目が覚めませんか?彼女は須藤さんのお父さんの不倫相手。須藤さんのご家庭を壊した張本人だ。そして須藤清流は、その女が別の男との間に作った子供だ。それをお父さんの息子だと偽り続けた。あと少しで、須藤
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第926話

「昔、君を連れて木登りしたり、川で魚を捕まえたりしていた、あの男の子のこと――全部忘れてしまったのか?」修也の言葉に、君江の瞳に一瞬戸惑いが浮かんだ。だが次の瞬間、彼女ははっと息を呑む。「あなた……まさか……」あれは君江が七歳だった頃のことだ。しばらく体調を崩していた彼女に対し、医師は都会を離れ、空気の良い田舎で静養することを勧めた。ちょうどその頃、祖父母も都会暮らしを嫌い、とある村に別荘を建てていた。そのため君江は、しばらく祖父母と一緒にそこで暮らすことになった。そこで彼女は、近所に住む年上の少年と出会った。彼はとても優しかった。毎日のようにお菓子を持ってきてくれて、木登りを教えてくれた。川に連れて行って魚を捕まえ、一緒に焼いて食べたりもした。あの頃の君江は、毎日が本当に楽しかった。彼女はずっと彼のことを「藤原さん」と呼んでいて、本名にはあまり興味がなかった。その後、体調は大きく回復し、両親に連れられて再び都会に戻った。まだ幼かったこともあり、戻ってしばらくすると、あの少年のことを思い出すことも少なくなっていった。だが今、修也の言葉を聞いて、記憶の扉が一気に開いた。「そうだったの……あなただったのね」君江は複雑な表情で彼を見つめた。もしこれが幼い頃の優しい少年と再会しただけだったなら、きっと素直に喜べただろう。だが今は違う。あまりにも多くのことが起きてしまった。もう純粋な喜びだけでは、この再会を受け止められなかった。「そうだよ」修也の声はどこまでも穏やかだった。「あの頃、藤原家の内部で少し問題があってね。両親は僕を連れてずっと田舎で暮らしていたんだ。そこで君に出会えたこと、本当に嬉しかった」もちろん当時の彼にとって、君江はただ一緒に遊ぶ可愛い妹のような存在だった。その後、藤原家の情勢は安定し、両親は再び藤原家の実権を握った。一家は都会に戻った。君江を探そうと思ったこともあった。だが藤原家からの期待は大きく、毎日膨大な勉強や訓練に追われるうちに、その思いも次第に薄れていった。再び彼女を見かけたのは数年前のパーティーだった。会場で君江を見た瞬間、どこか懐かしさを覚えた。調べてみれば、やはりあの頃一緒に遊んだ少女だった。彼女は大人になっていた。そし
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第927話

君江はすでに立ち去っていた。それでも修也は席を立つことができず、その場に座ったまま赤くなった目を伏せていた。――自分の方が先に彼女と出会ったのに、どうしてこんなことになってしまったのだろう。もしあの頃、もっと早く彼女を探していたら。あるいは再会した時、すぐに正体を明かしていたら。今とは違う未来があったのだろうか。自分はずっと「まだ間に合う」と思っていた。今の仕事が片付いてからでもいい。もう少し落ち着いてから会いに行ってもいい。そうやって先延ばしにし続けた。そして気づけば、彼女の隣には清流がいた。思えば今回再会できたのだって偶然だ。正修と奈穂の婚約式が開かれた島に行かなければ、自分はさらにどれだけ時間を無駄にしていたか分からない。その時、突然スマートフォンが鳴った。思考を断ち切ったのは勇人からの電話だった。「修也、俺ずっと病院の近くで見張ってるんだけどさ。須藤さんは病院を出た後、戻って来てない。例のやつはまだ入院してるぞ。人を送り込んで、もう一回痛い目見せてやろうか?」修也はこめかみを揉んだ。「やめておけ」「は?どうしたんだよ?」勇人は理解できないという声を上げる。「そこは水戸家の病院だ。問題は起こせない」「そんなの何とかなるだろ。水戸家に喧嘩を売る気はないさ。でも適当に理由をつけてあいつを外に連れ出せばいいだけだろ?あの野郎は本当に生意気なんだよ。この前だって俺たちに偉そうな口を利きやがって。今日は今日で須藤さんに助けを求めるとか、何様だよ。あいつにそんな資格ないだろ」「やめろと言った」修也の声には苛立ちが滲んでいた。「これ以上あいつを狙っても意味がない。今後は見張る必要もない」そう言い残して電話を切る。修也がやめるのは、君江の脅しを恐れたからではない。もう理解したのだ。どれだけ清流を攻撃しても結果は変わらない。むしろ逆効果だ。君江と清流の距離を縮めるだけ。そして自分はさらに嫌われる。修也は、あの最後に残った美しい思い出まで壊したくなかった。……一方その頃、電話を切られた勇人は、あからさまに不機嫌な顔をしていた。「須藤清流に仕掛けるって言ったのはお前だろ。それなのに今度はやめるだと?結局、須藤君江が怖くなっただけじゃねえか。女一人に
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第928話

シャワーを浴びた後、正修はバルコニーに出た。スマートフォンを取り出し、外祖父の写真を静かに眺める。武也は写真を撮るのが好きな人ではなかった。それでも、節目ごとの記念写真くらいは残っている。正修のアルバムには、外祖父とのツーショットもあれば、一家揃って写った家族写真もあった。写真の中の武也は、穏やかで優しい笑顔を浮かべている。その姿を見つめながら、正修は小さく息を吐いた。外祖父に対して、恨みがないと言えば嘘になる。武也はあまりにも多くの過ちを犯した。なかでも外祖母を深く傷つけたことだけは、どうしても許せない。許す資格も、自分にはないと思っている。けれど、彼は紛れもなく自分の外祖父だった。これまで注いでくれた愛情も偽物ではなかった。そんな人がこの世を去った今、悲しくないはずがない。その時、不意に背中に柔らかな温もりが伝わった。誰かが後ろからそっと腰に腕を回している。「いつ起きたの?」まだ少し眠そうな声が耳元で響く。奈穂だった。「さっきだ」正修は優しく答えた。「君はもう少し寝ていてもよかったのに」「もう十分寝たもん」そう言いながら、奈穂は大きなあくびをひとつした。彼女の吐息が薄いパジャマ越しに腰に伝わる。その温もりは、胸の奥に渦巻く苦しみを少しずつ溶かしていくようだった。二人はしばらくそのまま寄り添っていた。やがて奈穂は身支度を整え、正修と一緒に階下に降りて朝食を取ることにした。「いっぱい食べてね」奈穂は心配そうに言う。「この数日、全然ちゃんと食べてなかったでしょ」できることなら、テーブルの上の料理を全部彼の前に並べてしまいたいくらいだった。正修は思わず笑ってしまう。そして彼女の頭を軽く撫でた。「分かってるよ。ちゃんと食べるから。君もたくさん食べなさい」奈穂は、彼がきちんと朝食を口にし始めたのを見て、ようやく少し安心した。朝食も終盤に差しかかった頃、奈穂のスマートフォンが鳴った。相手は夏鈴の恋人、優斗だった。「水戸さん、夏鈴の状態、最近かなり良くなってるんです」優斗の声は明るい。「東野先生が本当に熱心に診てくれていて、おかげで情緒もずいぶん安定しました」「それは良かった!」奈穂も心から嬉しくなった。「ただ……」優斗は少し残念そうに笑う。「お二
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第929話

「俺を迎えに来てくれるのか?」正修は眉を上げた。その瞳には隠しきれない笑みが浮かんでいる。「そうよ。今まではいつもあなたが迎えに来てくれたでしょ?だから今度は私の番」奈穂は当然と言わんばかりに胸を張った。「嫌?」「そんなじゃない」正修は手を伸ばし、彼女を抱き寄せる。「奈穂に迎えに来てもらえるなんて、光栄だよ」「ふん、分かってるならいいの」奈穂はわざとツンとした顔をした。だが心の中では、そっと安堵していた。少なくとも今日の正修は、思ったよりずっと落ち着いて見える。……正修が会社に向かった後、奈穂も水戸グループに出勤した。到着して間もなく、君江もやって来る。しかも特大サイズのタピオカミルクティーを抱えたまま。ソファに座るなり、ごくごく飲み始めた。気づけば半分近くなくなっている。奈穂は慌てて声をかけた。「ねえ、何か悩み事でもあるの?」君江は口をへの字に曲げた。どう話せばいいのか分からないような顔だ。奈穂は少し考えてから尋ねる。「清流のこと?」「うん……」君江はミルクティーを置くと、ぐしゃぐしゃと髪をかき回した。「私、たぶん呪われてるわ。昨日の夜、あいつの夢を見たの」奈穂は目を丸くする。「どんな夢?」「別に大した内容じゃないんだけど……前に私が病気になった時、あいつが薬を飲ませたことあるでしょ?あの時の夢」ただし夢の中では、現実とは少し違っていた。現実の清流は半ば強引だった。だが夢の中の彼は違う。今にも泣き出しそうな顔で、「お願いだから薬を飲んで」と懇願していた。目は赤く潤み、必死に涙をこらえているようだった。君江は頭を抱えたくなった。自分は絶対におかしい。どうしてこんな夢を見るのか。「ただの夢でしょ」奈穂は笑いながら慰めた。「そんなに気にしなくていいよ。私だって昔は変な夢をたくさん見たし。考え続けなければ、そのうち忘れるから」「分かってるんだけど……でも本当に怖いの」君江は目の前のミルクティーを見つめた。「これからも、あいつに甘くなっちゃうんじゃないかって。奈穂ちゃんなら分かるでしょ?私、そうなっちゃいけないのに」話しているうちに、だんだん苛立ちが募ってくる。「全部あの藤原修也のせいよ!本当に余計なことばっかり!清流を狙ったりしなければ、今頃とっくに忘れ
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第930話

もし本当に正修の前で、「奈穂ちゃんはもうあなたのこといらないって。これからは私と一緒に暮らすの!」なんて言ったら――想像しただけで恐ろしい。「ほら、もう立って」奈穂は時間を確認しながら言う。「そろそろお昼ご飯の時間だよ。美味しいものをご馳走してあげるから、元気出しなさい」「やったー!」君江は即座に復活した。だが次の瞬間には調子に乗り始める。「ねえねえ、優しい奈穂ちゃん。だったら夜ご飯も奢ってくれない?」「図々しい」奈穂は笑いながら君江を押し返した。「夜は正修を迎えに行く約束してるの」「うわぁ!もうやめてよ、そのイチャイチャ!」君江は大げさに天を仰ぐ。「こっちは独り身なんだから本当に悲しくなるんだけど!」……夕暮れ時。奈穂は時間を見ながら、そろそろ正修の退社時間だろうと判断した。そして車で九条グループ本社に向かう。到着すると、正修にメッセージを送った。【迎えに来たよ】彼からはすぐ返信が来る。【もう着いたのか?先に上がっておいで。こっちはあと少しだけ仕事が残ってる】【はーい】奈穂はスマートフォンをしまい、ビルに入った。九条グループの社員で彼女を知らない者はいない。一階の受付スタッフは、彼女を見るなり恭しく頭を下げた。そして正修専用エレベーターを呼ぶ。「こちらへどうぞ」「ありがとう」奈穂はにっこり微笑んだ。ほんの礼儀としての笑顔だった。だが受付スタッフにとっては十分すぎた。彼女は慌てて答える。「い、いえっ!とんでもありません!」エレベーターの扉が閉まった後も、受付スタッフはしばらく胸を押さえていた。あまりの破壊力だった。ようやく我に返ると、彼女は即座にスマートフォンを取り出す。そして社内の雑談グループに書き込んだ。【今、社長の婚約者にエレベーター案内した!美貌の破壊力を至近距離で浴びたんだけど!】すると即座に返信が飛んでくる。【社長の婚約者って水戸家のお嬢様?】【それ以外に誰がいるのよ】【羨ましいけど認めたくない】【えっ、水戸さん会社に来たの!?私も実物見たい!】【どうせ社長に会いに来たんでしょ。あなたの部署なんて社長室から遠すぎるから無理だわ】その時、別の社員が得意げに割り込んできた。【エレベーター案内くらいで騒がないでほしいなぁ。この前の、社
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