All Chapters of 冷酷御曹司は逃げた妻を愛してやまない: Chapter 61 - Chapter 70

113 Chapters

3-11 報道の渦

澪の【爆弾宣言】が放送された直後から、報道部は大騒ぎになっていた。あちこちで電話の音は鳴りやまず、大量の問い合わせメールが入ってくる。それらは全て他局や雑誌社、ネットメディアからだった。デスクは怒鳴りちらし、記者たちは走り回る。まさにフロア全体がパニック状態に陥っていた。「広報は? コメントは出すのか?」「スポンサーの対応を急げ! こっちは天野グループが絡んでるんだぞ!」「朝霧澪の映像、切り出して再編集して!」社員たちはモニターの前に集まり、今後の対応を話し合っていた。けれど沙月だけは蚊帳の外で、いつも通りに資料整理を行っていた。大騒ぎになっている報道部の中で、沙月だけは変わりなかった。社員たちの誰からも声をかけられないので、会話に加わることも出来なかったのだ。(どうせ私が、あの場に言っても無視されるだけ。それどころか、追い払われるかもしれない。仕事に専念するのよ。今の私にはそれしかできないのだから)この部署――いや、もとより局全体から沙月は相手にされずにいた。それが偶然なのか、意図的なのかは分からないが……何となく悟っていた。朝霧澪が、自分を孤立させようと仕向けているのではないかと……。けれど今は考えないようにしていた。(余計なことを考えては駄目、仕事に専念するのよ)そのとき、直ぐ近くで女子社員の会話が聞こえてきた。「朝霧さん、かわいそうだよね。あんなふうに写真撮られて……それに変な憶測ばっかりされてるし」「でも、ちゃんと認めて偉いよね。天野社長とのことも、堂々としてるし」「それに比べて……」誰かの声が、背後で途切れた。沙月が振り返ると、視線を逸らす女性社員たち。今の会話は、明らかに自分に対する嫌味だと言うことに沙月は気づいた。(私は、何も言ってないのに……)気にしないように、沙月は再び視線を資料に戻した。けれど、文字が頭に入ってこない。澪の笑顔が脳裏に焼きついて離れなかった。――そのとき。誰かがリモコンを操作し、報道部の壁に並ぶ2台の大型テレビが切り替わった。左の画面には澪が笑顔で婚約を宣言する映像が繰り返し流されている。右の画面では天野グループ本社前からのライブ中継が映し出されている。(司……!)沙月の身体が硬直する。画面には報道陣に囲まれた司が、無言のまま車から降りてくる映像が流れている
last updateLast Updated : 2025-11-18
Read more

3-12 違和感の始まり

 朝霧澪の婚約報道が広まり、報道部は騒然となっていた。電話が絶え間なく鳴り響き、メールは後から後から届いてくる。記者たちは対応に追われ、誰も沙月に目を向ける余裕はない。騒ぎの中、沙月はいつも通り資料整理を行っていた。前日の街頭インタビューの文字起こしの内容確認。そして誤字脱字のチェック。「天野さん」集中して仕事を行っていると背後から声をかけられ、沙月は振り返った。そこにはADの高橋が紙袋を手に立っていた。「すごい騒ぎになりましたね」「……そうですね」高橋の言葉に頷く沙月。「お願いしたい仕事があるのですが……」彼は紙袋から資料を取り出した。「明日の情報コーナー用のフリップ作成の仕事です。街頭アンケートの集計結果と、見本として過去のフリップ画像も入れてあります。スチレンボードも用意してあるので、貼り付けまでお願いします。後で様子を見に来ますね」「はい、分かりました」沙月は資料を受け取り、パソコンに向かった。Wordを立ち上げ、タイトルと数字を打ち込み、色を整える。印刷した紙をスチレンボードに貼り付け、端をテープで補強する。「これで大丈夫かな……?過去のフリップボードと比べても、沙月が作った物は見栄えが良かった。フリー画像も探し出して貼り付けたり、枠で囲ってみたりと工夫がされている。(これは私が初めて作ったフリップ……)出来栄えを確認していたそのとき、報道部の入り口がより一層騒がしくなった。朝霧澪が現れたのだ。一斉に視線が集まり、空気が変わる。澪は集まった社員たちに囲まれ、質問攻めにあっている。彼女は笑顔で応じながら、輪の中心に立っていた。「ふふ、私もまだ実感がなくて」「落ち着いたら、皆でお祝いしましょう!」社員たちの祝いの言葉に、聞こえよがしに返事をする澪。沙月は気にしないように、フリップボードの確認をしていた。すると――突然、澪がパチと手を叩いた。「あ、いけない! 私、うっかりしてスタジオに台本を置いてきちゃったわ……」そして、わざとらしく周囲を見回すと沙月に向かって大きな声で呼びかける。「そこの新人! ちょっとお願いできる?」沙月は驚いて顔を上げると、澪がこちらを見ている。「スタジオに置いてきた台本、取ってきて、私の楽屋に置いておいてちょうだい」(え? 私に言ってるの)沙月は一瞬、言葉に詰
last updateLast Updated : 2025-11-19
Read more

3-13 沙月の孤独と過去の回想 1

(改稿版:書き直し)3-13 沙月の孤独と過去の回想 1報道部の騒ぎは、徐々に沈静化していた。電話の音はまだ断続的に鳴ってはいるものの、社員たちはそれぞれの持ち場に戻って仕事をしている。澪は報道部の中心で談笑していたが、そこへ男性スタッフが駆け込んできた。「朝霧さん! 広報部が呼んでいます! 至急お願いします!」一瞬張り詰めた空気が流れるも、澪は笑顔で立ち上がった。「お呼びがかかったようね。ほんと、人気者は大変だわ。みんな、じゃあね」「行ってらっしゃい。澪さん」「頑張ってね」女性社員たちにエールを送られた澪。笑顔で手を振り、ヒールの音を響かせながら報道部を去って行く。「……」沙月は、無言で澪の去って行く後姿を見届けていた――**** その後も沙月はずっと孤独だった。昼休みは社員食堂に行く気にもなれなかった。どうせ行っても1人、それどころか周りで悪口を言われる可能性もある。沙月はコンビニでおにぎりを買うと会社近くにある公園のベンチに座って食事をした。昼休みが終わり、報道部に戻って来た沙月を気にかける者は誰もいない。(でも嫌がらせを受けるくらいなら、誰にも相手にされない方がマシだわ)この時までの沙月は、そう思っていたのだった……。午後に入っても、AD高橋から与えられている仕事を、誰とも会話することなく1人で淡々とこなした。タイピングには自信がある沙月。無言でPCの前に座り、ひたすらデータの入力を続ける。それが今の自分のできることだったから――――18時報道部は澪の不在にも関わらず、彼女の話題で盛り上がっていた。沙月は音を立てないように席を立つと誰に言うでもなく声をかける。「お疲れさまでした」しかし当然、それに対する返事はない。代わりに背後からわざとらしい声が響いた。「ねぇ。今夜、朝霧さんを誘って婚約祝いに皆で飲みに行かない?」「いいわね! 他の部署の人たちも誘いましょうよ」「朝霧さん、絶対来てくれるよね!」楽しそうな笑い声が響く。楽しそうな彼女達を振り返らず、沙月は報道部を後にした―― 電車に揺られながら、沙月は電車の窓から外を眺めていた。窓ガラスに映る自分の顔は憔悴しきった顔をしている。(……高校のときと同じね……)沙月の脳裏に高校時代の記憶がよぎる――****高校2年のとき、突然沙月は
last updateLast Updated : 2025-11-20
Read more

3-14 沙月の孤独と過去の回想 2

 生きる希望も見いだせず、毎日が絶望するそんな日々の暮らし。ある日のこと。遥に誘われた沙月は気乗りのしないパーティーに参加し、そこで媚薬を盛られてしまった。気づけば裸のままベットの上で眠っており、ホテルスタッフの驚く声で目が覚めた。そこから先は大騒ぎとなった。沙月がいた部屋はスイートルーム、宿泊客は天野司だった。ホテル側は沙月が何故この部屋にいるのか追求した。しかし、何も記憶がない沙月は答えることが出来ない。そこで困ったホテル側は白石家に連絡を入れ、沙月が天野司の手配したスイートルームに泊ったことを知る。白石家の両親に叱責されるだろうと覚悟していた沙月。けれど不思議なことに、彼らは沙月を責めることは無かった。何故怒られないのか不思議に思ったが、その理由は後程知ることになる―― その日は突然訪れた。 パーティー事件から数日が経過した、ある夜のこと。天野司が突然白石家を訪ねてきたのだ。沙月は怯えた。きっと自分の宿泊する部屋に無断で忍び込んできた沙月に文句を言うために、訪ねてきたのだろうと思ったからだ。そして、目の前に現れた司を見て沙月は更に驚いた。彼は沙月が学生時代に命を救ってあげた人物だったからだ。沙月の目の前で起きた交通事故。危険を顧みず沙月は車に駆け寄り、必死に手を伸ばして励ましの声をかけ続けた。弱々しく沙月を見つめる司……その美しい顔に沙月は息をのんだ。なんて、美しい瞳だろうと。この時、沙月は司に恋してしまったのだった――数年の歳月を経て、沙月の前に現れた司は婚約を申し込んできた。その瞬間、期待してしまった。司こそが自分の救世主だと――だが……現実は残酷なものだった。一夜の過ちから始まった、三年間という期限付きの契約結婚。司の冷酷な態度に耐える日々。触れてくるのは、彼が気の向いたときだけ。それもほぼ強引に自分の欲を沙月にぶつけるだけの行為。結婚一年目で宿した新しい命。妊娠を知ったときは、天にも昇るほど幸せな気持ちで一杯になった。生まれてくる我が子に精一杯の愛情を注ごう、愛されない妻だけど子供が出来れば司の心も変わるだろう……。しかし、現実は残酷だった。妊娠を報告した時、司は眉を顰めて残酷な言葉を告げた。『堕ろせ』驚いた沙月は、勿論激しく拒否した。するとさらに司は追い打ちをかけてきた。『俺
last updateLast Updated : 2025-11-21
Read more

3-15 人恋しい夜 1

電車を降りた沙月は、マンションヘ帰る気がしなかった。何故なら今夜は一人きり。真琴は今日から数日間、関西地方へ出張で不在だからだ。そして沙月の耳に、退社時に楽し気に聞こえてきた女性社員たちの会話が蘇る。『ねぇ。今夜、朝霧さんを誘って婚約祝いに皆で飲みに行かない?』「飲みに……」ポツリと呟く。(そうよね。どうせ部屋に帰っても真琴はいないのだから……)精神的に参っていた沙月。とてもではないが、食事を用意する気力など無かった。「たまには外食もいいかもね……」沙月は何時もの帰り道とは正反対の繁華街へ向かった――**** 繁華街は様々な店が立ち並び、多くの人々が行き交っていた。賑やかな町をゆっくり歩き……沙月はふと、足を止めた。「あ……この店……」その店は、以前から気にかけていたカフェだった。グレーを基調としたモダンな外観の建物に、大きなガラス窓に向き合うようにカウンター席がある。店内の入り口にはブラックボードの看板が立てられ、メニューがぶら下げられている。沙月は何気なくメニューを手に取った。「ふ~ん……夜はお酒も飲めるのね……」今夜の沙月は精神的に参っていた。お酒の力を借りて少しでも憂鬱な気分を晴らしたかった。沙月は扉を押し開けると、吸い込まれるように店内へ入って行った。――カランカランベルの音が店内に響き渡る。「いらっしゃいませ、お好きなお席へどうぞ」中に入ると、白いブラウスにモスグリーンのエプロンをつけた年若い女性スタッフが笑顔で声をかけてきた。沙月は小さく頷くと、窓際にあるカウンター席へ迷わず向かって腰かけた。テーブルには卓上スタンドにメニューが置かれている。「お決まりになりましたら、ボタンでお呼びください」呼び出しボタンを指さすと女性店員は会釈し、去って行った。「何があるのかしら……」ポツリと小さく呟き、沙月はメニューを手に取ると広げた、そこには様々なアルコールや、軽食。ソフトドリンクが小さな写真付きで掲載されている。「……」少しの間、無言でメニューを見ていた沙月は呼び出しボタンを押した。すると先ほどの女性スタッフが現れた。「ご注文はお決まりですか?」「はい、カシスオレンジとキッシュプレートをお願いします」「かしこまりました」笑顔で女性スタッフは会釈すると、水の入ったグラスを置いて去って行った
last updateLast Updated : 2025-11-22
Read more

3-16 人恋しい夜 2

「素敵な雰囲気のお店ね……」ポツリと呟いたとき、突然スマホに着信が入ってきた。バッグからスマホを取り出してみる。「真琴……」着信相手は真琴からだった。メールを開くと、先ほど出張先のホテルに到着したところで、明後日帰って来る旨が書かれていた。最後に『お土産、期待しておいてね』と書かれた内容に、沙月の顔に笑みが浮かぶ。(そうよ。今の状況は白石家に居たときや、天野司の妻として暮らしていた頃に比べると、ずっとマシなのよ。たとえ会社で理不尽な目に遭ったって……真琴がいるから……)そのとき。「お待たせいたしました」女性スタッフが料理とアルコールをトレーに乗せて現れ、沙月の前に置いていく。輪切りのオレンジが添えられたカシスオレンジに、丸いプレートに乗せられたキッシュ料理は見た目も豪華だった。「ありがとうございます」「ごゆっくりどうぞ」笑みを浮かべ、女性スタッフは去って行く。「フフ……美味しそう」沙月は早速カシスオレンジを口にした。甘みの中に酸味も感じられるカクテルはとても美味しく、料理とも相性が抜群だった。「本当に美味しい……」グラスを置いた瞬間、退社時に耳にした女性社員たちの楽しげな声がふと蘇った。『ねぇ。今夜、朝霧さんを誘って婚約祝いに皆で飲みに行かない?』『いいわね! 他の部署の人たちも誘いましょうよ』『朝霧さん、絶対来てくれるよね!』(……そういえば、澪さんは自分からもお祝いしましょうと言ってたわ。妊娠しているはずなのに、飲みに行けるのかしら……? 仮に行ったとして、一体どんな言い訳をしてお酒を断るつもりなの……?)沙月の胸に、言葉では説明できない小さな違和感が広がっていく。妊娠している人が、お酒の席に参加すること自体、普通なら考えにくい。もちろん、澪が本当にアルコールを飲むかどうかは分からない。けれど、あの楽しそうな笑い声を思い出すと、どうしても疑いの目を向けてしまう。(私の考えすぎかもしれない……でも……)あれこれと考えを思いめぐらせるも……。「どうせ、司と離婚する私には関係ない話よね」ポツリと呟き、チラリと周囲を見渡す。店内には沙月のように一人だけの女性客もいれば、カップル。それに友人同士の姿も見える。(今度、真琴を誘って一緒に来てみようかしら)そんなことを考えながら再びカクテルを口にしたとき……。
last updateLast Updated : 2025-11-23
Read more

3-17 夜の邂逅 1

「霧島さん……!」まさか、こんな場所で霧島に会うとは思わず、沙月は目を見開く。スーツ姿の霧島の手には料理のトレーがあり、湯気の立つビーフシチューの香りがふわりと漂っている。霧島は笑顔で尋ねてきた。「もしかしてお一人ですか?」「はい、そうです」「そうですか。なら……お隣良いですか?」「はい、どうぞ」沙月が笑顔で頷くと、霧島はカウンターテーブルに料理を置くと席に座った。オレンジ色の照明が彼の横顔を照らし、落ち着いた大人の余裕を際立たせている。「美味しそうだな……いただきます」霧島は笑顔でスプーンを手に取ると、早速食事を始めた。「うん。このビーフシチュー……美味しい。中々いけますね。この店の料理は」「私もそう思います」彼の笑顔につられて、沙月も笑みを浮かべる。「天野さんは、仕事帰りですか?」「はい、ここが最寄りの駅なんです。霧島さんもですか?」「いえ、今日はこの近くで仕事だったのです。先程終わったところで、お腹が空いていたので手近な店を探していたら、このカフェを見つけたんですよ。それで食事に来たんですが……。でもまさか天野さんに会えるとは思いませんでした。この店に入って良かったな」意味深な言葉を、笑顔で語る霧島。沙月は、そんな彼に戸惑いながらも自然と会話を続けていた。「天野さんは何を食べていたんですか?」「私はキッシュプレートです。美味しいですよ」「そうですか。でも確かに天野さんの料理、とても美味しそうですね。僕は昔からビーフシチューに目が無いんですよ」霧島が美味しそうに食事を口にする姿は、いつも不機嫌そうな顔つきで食事をする司とは大違いだった。(司と霧島さんは……全くタイプが違うのね……)沙月の胸に複雑な感情が沸き上がる。「どうかしましたか? 僕の顔に何かついていますか?」霧島が不思議そうに首を傾げた。そこで沙月は自分が霧島を見つめていたことに気付いて、慌てた。「い、いえ。霧島さんは……その、とても美味しそうに食事なさるんだなと思って」「そうですね。美味しい料理は不思議と笑顔になりますね」「……そうですか」沙月はポツリと呟き、カクテルを口にした。氷がグラスの中でカランと小さく音を立てる。「天野さん。お酒……お好きなんですか?」「はい、今まではあまり飲まないようにしていたのですけど……今夜はちょっと飲み
last updateLast Updated : 2025-11-25
Read more

3-18 夜の邂逅 2

「え?」意外な言葉に沙月は顔を上げる。「この間のパーティーで彼女は天野司が婚約者だと堂々と発表した。マスコミの場であんな発言をすれば、普通ならニュースになって騒がれるはずです。なのに、どこも報道していない……普通に考えれば、天野グループがわざと報道を止めたと気づくでしょう? それなのに、ライブ放送であんな発言をするなんて……彼女は天野グループに喧嘩を売ったんですよ」霧島はハイボールを口にした。沙月は驚いた眼で彼を見つめる。「? どうかしましたか?」「い、いえ……報道部では、皆朝霧さんをお祝いしていて……今夜は皆でお祝いの為に飲みに行く話をしていたので、まさか霧島さんからそんな話が出てくるとは思いませんでした」「……なるほど。それで、天野さんは呼ばれなかった……ということですね?」「え、ええ……」沙月は視線を落とし、無意識に指先でグラスの縁を撫でていた。少しの間、二人の間に沈黙が降りる。そこへ男性客がよろめきながら近づいてきた。少し酔っているのか、グラスを手にしている。男は沙月に気付くと、軽薄な笑みを浮かべて声をかけてきた。「お嬢さん……一人ですか? 一緒に一杯どうですか?」「え……あ、あの……」いきなり見知らぬ男に絡まれた沙月は、どう対応すれば良いのか分からなかった。拒否すべきか、無視をしようか迷った時――「失礼。彼女は私の連れですが、一体何の用です?」霧島が自分のハイボールを沙月のグラスに近づけた。穏やかでゆっくりとした動きだったが、男が沙月に近づけないように割り込んでいる。霧島の声は穏やかだったが、どこか迫力があった。「……!」一瞬戸惑う男性客。しかし、霧島の落ち着いた笑みを見て、これ以上絡むのは得策でないと判断したのだろう。無言で渋々と立ち去って行った。「……大丈夫ですか?」男が去ると、霧島は声のトーンを落として尋ねた。「あ、ありがとうございます……」沙月は小声で礼を述べて安堵のため息ついたとき、ふと記憶がよみがえった。あれは結婚前……二人で行ったバーでの出来事。司と一緒にカウンター席に座っているとき、沙月は見知らぬ男性に話しかけられたのだ。司は霧島のように庇ってくれることはなく、ただ冷たく眉を顰めて男に告げた。『俺のことは気にせず、勝手にするといい』まるで自分が気にすることではない、と言わんばか
last updateLast Updated : 2025-11-26
Read more

3-19 部屋の前で待つ人は 1

 駅から五分の夜道を、沙月はほろ酔い気分で歩いていた。オレンジ色の街灯が足元を照らし、冷たい夜風が心地よかった。カクテルの余韻とともに霧島の笑顔と優しい声を思い出し、落ち込んでいた気分が少しだけ上向きになれた気がする。やがて真琴のタワーマンションのエントランスが見えてきた。カードキーを翳すと静かにドアが開き、空調の効いた温かな空気が迎え入れた。この時間、フロントには誰もいない。エレベーターに乗り込むと、赤く染まった頬が磨き上げられた壁に映り込み……どこか色気が漂っているように見えた。「やだ……私、こんな顔で歩いていたの?」火照る頬に触れたとき。――ポーン到着の電子音が鳴り響き、目の前の扉がスーッと開いた。エレベーターから降り立った沙月は、真琴の部屋へ向かい……足を止めた。「……え?」そこに、腕を組んだ司が壁にもたれて待っていたのだ。「司……?」酔いが回っているせいか、あまり衝撃を受けることは無かった。司は視線だけをこちらに向ける。「……随分と遅かったな。何度も連絡を入れたのに、今まで、どこで何をしていた?」まるで詰問するかのような口調だ。「え? 連絡?」「そうだ。電話もメールも何度も入れた。なのに、お前からは一度も返事が無かった」沙月はバッグからスマホを取り出すと確認した。すると画面には司の着信とメッセージがいくつも並んでいる。「……本当だわ」「何故確認しなかった?」低い声で尋ねる司の目つきは鋭い。けれど酔いも手伝ってか、沙月はひるむことなく返事をした。「私に連絡を入れてくるような人は、そうそういないからよ。あなたも含めてね」司の顔に、苦虫を噛んだような表情が浮かぶ。普段の沙月なら決して言わない言葉だったが、今夜は酔いも手伝ってか、思っていた考えがそのまま言葉として出てしまう。「まあいい。それより誰もいないようだな? 家主はどうした?」「随分詳しく調べたようね? その人なら今夜は出張でいないわよ」「……真琴という名前のようだが……まさか男じゃないよな?」その質問に沙月は声を上げて笑った。「アハハハ! 何それ? もしかして嫉妬?」司は顔をしかめる「ひょっとして酔ってるのか? それなら早く部屋に入った方がいいだろう。鍵を開けろ」「……分かったわよ」カードキーが読み取り部に触れると、ロックが外れる軽
last updateLast Updated : 2025-11-28
Read more

3-20 部屋の前で待つ人は 2

 いつもとは違う沙月の様子に、司は眉を顰めた。「……随分酔っているようだな?」「いけない? そういえば、あなたはお酒を飲む女が嫌いだったわよね? だから私は無理して合わせていたのよ。でも本当はお酒が好き。それに、今夜はただでさえ飲みたい気分だったのに……。飲んではいけないの? 私とあなたはもう他人になるのでしょう? とやかく言われる筋合いはないわ」酔いも手伝ってか、沙月は今までためていた言葉を吐き出す。「飲みたい気分? 何かあったのか? もしかして今まで一人で飲んできたのか?」「……うるさいわね……質問、多すぎるのよ。そんなに知りたいなら……全部教えてあげるわよ」目を細める沙月。酔いのせいで、声にはいつもの張り詰めた調子がなくなっていた。だが、その口から出る言葉の一つ一つが、司の胸に鋭く突き刺さる。沙月は自嘲するように、口元に笑みを浮かべた。「澪さんが、あなたとの婚約を発表した瞬間、局は大騒ぎよ。お祝いムードになって、今夜はみんなで飲みに行くんですって。その結果は? ふふ……見てのとおり。前妻の私なんて呼ばれるわけないじゃない。もっともそのことを知ってるのも、澪さんしかいないけど。大体私は天野司の隠された契約妻だったわけだし?」「……」司は何も言わずに黙って聞いていた。「でもね……ちょっと意外だったの」そんな彼を沙月は赤くなった目で見つめ……しんみりとした口調になる。「婚約祝いに、澪さんが他の人たちを誘って飲みに行くのは分かるけど……まさかあなたまで、私に彼女と婚約したことを言わないなんて。いくら元妻だからといって、その態度はあまりにも冷たすぎるんじゃないの……?」今にも消え入りそうな、酷く悲し気な声で沙月は続ける。「それに……澪さんのお腹には、あなたの子どもがいるんでしょ……? どうしてわざわざ……前妻の私のところに来ているのよ……? 彼女のそばにいてあげるべきなんじゃないの……?」苦笑する沙月。酔いが自分の本音まで引き出してしまっていた。「……私のところに来て……何の意味があるの……? お腹の子供が大事なら、澪さんの処へ行けばいいのに……」「! それは……」司は「お腹の子供」という言葉に反応するも、沙月は話を続ける。「それで……霧島さんと偶然会って……一緒にお酒を……」その名を聞いた瞬間、司の目が冷たく鋭くなる。
last updateLast Updated : 2025-11-29
Read more
PREV
1
...
56789
...
12
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status