LOGINどうやら賢吾のほうでは、すでに男の正体を掴んだようだが、一体誰なのか、和彦は教えてもらっていない。ただ、護衛が二人に増やされた。そのことが物語るのは、男は油断できない相手だということだ。
どこに行くにも、組員二人に護衛されるという状況に、たった一日で和彦は辟易してしまったが、嫌とも言えない。 ここでこうして、長嶺組と関わりのない秦と会話が交わせるだけでも、今の和彦にとってはありがたい気分転換だった。「護衛の人も一緒に、このあと、昼メシに行きませんか?」 せっかくの秦の申し出に、苦笑して和彦は首を横に振る。「ぼくはともかく、秦さんに気をつかわせると心苦しいので、今日は遠慮しておきます。それでなくても、忙しい中、こうしてわざわざ来ていただいているんですから」「『先生』こそ、わたし相手に気をつかわないでください。中嶋は、おもしろい人を紹介してくれたと思って、ワクワクしているんでよ」 秦は、中嶋に倣ったのか、和彦を『先生』と呼ぶ。前のクリニックに勤めている頃は、仕事を離れて和彦をそんなふうに呼ぶのは千尋とっくに把握しているだろうが一応話しておいたほうがいいかと、玲には伊勢崎組の護衛――というより世話係がついていることと、御堂による第一遊撃隊の監視がついていることも報告したが、賢吾は特に表情は変えなかった。ただ、龍造が和彦に会いたがっていたという件では、何事か考えるようにあごに手をやる。「お前の存在がお守り代わりになると本気で考えるほど、楽天的な男ではないと思うが。少なくとも、お前を怖がらせたという点で、俺の、伊勢崎父子に対する印象はなかなか最悪だ」「直接脅されたわけじゃないんだけど……」「お前は、自分の立場というものをもう一度じっくりと噛み締めるべきだな」 それに、と賢吾は続ける。「無自覚に怖い男を骨抜きにする、自分の性質の悪さを」「なっ……、に、言って……」 ふん、と軽く鼻を鳴らした賢吾は、ここでやっと少しだけ不機嫌な横顔を見せる。それでいて、手は握ったままなのだ。「今日は、美術館に行ったあと、昼メシを食ってから少しぶらついて、ぜひともお前を連れて行きたい場所がある。今日は、そこで泊まりだ」「どこに?」「ここでバラしたらつまらねーだろ。せっかく俺が趣向を凝らしたんだ。――お前を楽しませるために」 魅力的なバリトンが、吐息のような囁きによって一層威力を増す。しかし和彦が感じたのは寒気で、反射的に手を抜き取ろうとしたが、ぐっと力が込められ叶わない。 やはり賢吾は、玲と再会してしまったことを怒っているのだと、さすがに察した。執着心の強いこの男が、素知らぬ顔をするはずがなかったのだ。そもそも、玲との再会以前に、和彦は南郷とも共に時間を過ごした。あのときも、賢吾の反応は穏当ともいえるものだったが、内心ではどう感じていたのか和彦にはうかがい知れない。 如何なる目に遭うにしても覚悟を決めるしかないと、和彦はぐっと唇を引き結んだ。** どんな無茶で振り回されるのかと、最初は全身を強張らせて緊張していた和彦だが、その状態は長くは続かなかった。 提案通りに、前回とは別の美術館に連
**** 土曜日の午前中に姿を見せた賢吾は、いつになく色艶がよかった。血色がいいといえばそうなのだが、しっとりとした艶をまとっているようで、男前ぶりが普段より二割ほど増して見える。珍しいことに白の薄手のニットを着ており、車内にあってもハッとするほど鮮烈に目に映る。 ずいぶん寛いだ姿に瞬きを繰り返す和彦に、後部座席のシートにゆったりと身を預けた賢吾が軽く手招きをしてくる。「早く乗れ」 ぎくしゃくとぎこちない動きで指示に従うと、和彦がシートベルトを締めるのを待って静かに車は発進する。 和彦は背筋を伸ばしたまま、隣の賢吾をうかがう。特に不機嫌なようには見えないが、土曜日の午前中から連れ出された理由は一つしかないため、嫌でも緊張する。すると賢吾が、口元に笑みを浮かべた。「別に、お前を取って食いやしない。そう怖がるな。それとも――何か心当たりがあるのか?」「……性格悪いって言われないか」 玲と会ったあと、御堂に続いて電話をかけてきた賢吾に、有無を言わせず土日の予定を押さえられた。おかげで今日まで胃が痛くて仕方なかったが、自業自得だという自覚はあるため文句はない。 だからといって恐ろしいわけではなく、いよいよ折檻でもされるのではないかと、最悪な想像をした和彦はそっと身を震わせる。追い打ちをかけるように賢吾が言った。「お前とじっくり話すために、土日は仕事の予定を入れてない」「二日も必要なのか? 忙しいんだろ」「俺のオンナに関することだ。いくらでも融通は利かせる。張り切りすぎて、朝からサウナに行ってきたぐらいだ」 だから色艶がいいのかと納得したと同時に、嫌でも和彦は覚悟を決める。「それで、今からどこに……」「ひとまず美術館に行くか。せっかくだから俺ものんびりしたい」 ご自由にと答えて、ようやく和彦はシートにもたれかかる。あくまでさりげなく賢吾が切り出してきた。「――久しぶりに伊勢崎玲と会った感想はどうだ」 鼓動が一回だけ大きく跳ねたが、動揺は表に出さない。和
『せっかくの大学生活で羽を伸ばせるかと思ったら、父親どころか、その父親の子分たちまでぞろぞろついて来たんだ。子供の頃から知っている子だから、わたしもちょっと肩入れしてしまってね。なるべく彼には関わらずに、堅気らしく自由に過ごさせてあげたかったんだけど――』 どう相槌を打っていいものかと迷った挙句、曖昧な声を洩らす。くすっと御堂の小さな笑い声が聞こえた。『君の身近にいる人間から聞いているんだろう? いろいろと』「あっ……、えっと……」 ちらりと頭に浮かんだ南郷の顔を、慌てて追い払う。『その前提で話すけど、北辰連合会がちょっときな臭いことになって、伊勢崎組長は新規事業を始めるという建前で、こちらに避難しているようなものなんだ。当然、その動きを総和会も把握して、息を潜めて成り行きを観察している』「観察ですか……」『こちらが巻き込まれない限り、ご自由に、という姿勢だ。ただ、伊勢崎組長はおとなしくしているつもりはないようだけど』 意味ありげに言葉を切られる。和彦は、小さく呻き声を洩らす。わざわざ御堂が電話をかけてきた意図を察したのだ。「……だったらなおさら、玲くんがぼくと接触するのはまずいですよね」『わかってるはずなんだけど、彼も。そこはもう、恋は盲目というやつかな』「冗談になってないですよ」『そう。冗談では済まないかもしれない。例えば、息子との火遊びの責任を取れと、今になって伊勢崎組長がねじ込んできたとき、君は要求を突っぱねることができるかい?』 相手は海千山千の極道だよと、ぞっとするほど優しい声音で囁かれて、和彦は身を震わせる。「要求というのは、もしかして――」『興味深い歴史がある場所に、和泉家所有のビルがあり、そこに君という要素が加わることで、とてつもない価値を持つようになる。伊勢崎組長にとっても、その伊勢崎組長に何かしらの利害が絡んでいる人間……組織にとっても』「ぼくは、何もできません。和泉家の内情なので詳しくは話せませんが、ぼくの一存
** 嵐というより、局地的な突風に巻き込まれたような一時だったなと、精神的疲労からぐったりとしながら和彦は思う。 なんとか無事に自宅マンションに帰り着くと、寛ぐ前に明日の仕事の準備を整える。クリニックに届いていた学会誌に目を通しておきたい気持ちもあったが、今晩はもう頭を使うのは限界だ。手早くシャワーを済ませると、ダイニングテーブルについて大きく息を吐き出す。無意識のうちにスマートフォンを手元に引き寄せ、画面を覗く。不気味なほど誰からも連絡が来ていない。 ひとまず賢吾に報告をしておこうと、車中から簡潔にメッセージは送っておいたのだ。詳細は護衛を通じて報告されるとわかってのことだが、本宅ではどういう状況になっているか、想像するとうっすらと首筋が寒くなってくる。 まだ十代の青年が、無謀な情熱で突っ走っただけだと話せば、賢吾は納得してくれるだろうか。仮に怒っていたとして、それを鎮めてくれるだろうか。 和彦としては、玲が無難な大学生活を送ってくれることを願っており、長嶺組が関わる事態は避けたかった。 しかしここで大切なのは、玲が自らの立場をわきまえて行動できるかということで――。「……怖いなー。若さって」 そんなことを独りごちてから苦笑する。今日の玲の様子では、もう二度と和彦とは会わない、とはならないだろう。あっさりと告げられた玲の気持ちを、麻疹のようなものだと笑う気にもなれず、忘れることもできず、だからこそ和彦は困るのだ。自分が少しだけ彼を大人にしてしまったという負い目もある。 脳裏を過るのは、いかにも食えないヤクザである伊勢崎龍造の反応だ。あちらはあちらで息子の暴走に頭を抱えているのだとしたら、さらに申し訳ない。 所在なく座っているのも落ち着かないため、コーヒーでも淹れてこようかと腰を浮かせかけたところで、スマートフォンが鳴った。画面に表示される番号に見覚えがなくて困惑したものの、誰がかけてきているのか気にはなる。おそるおそる電話に出ていた。『今、話しても大丈夫かい?』 高くも低くもない落ち着いた声が耳に届く。そこからひんやりとした温度を感じ取ってしまうのは、電話の向こうにいる人物の秀麗な
玲は納得しきれていないようだが、だからといって抗弁もしてこない。多少なりと警戒心が芽生えてくれたらと願わずにはいられない。「無茶をするのは今日でやめます。次からはきちんと連絡して、佐伯さんと約束を取り付けるようにします」 ううーん、と唸って和彦は首を捻る。それはそれでこちらが困るのだと言いかけたとき、テーブルの上に置いてある玲のスマートフォンの画面が光った。どうやらメッセージが届いたらしい。スマートフォンを取り上げた玲が、しまった、という顔をする。「父さんからだ……」 ぽつりと呟いて、顔をしかめながらメッセージを確認している。「何て書いてある?」「……めちゃくちゃ怒ってます。父さんには言わないで、今日ここまで来ましたから。でも――」 二人揃って外の通りに目を向ける。外で待機している男たちは、必死で玲を追跡してきたのだろう。名も知らぬ男たちに対して急に労わりの気持ちが湧いてくる。本人は不本意だろうが、伊勢崎組の人間を引き連れてとなると、玲を普通の大学生と称するのはかなり無理があった。そこに総和会の第一遊撃隊も加わっているかもしれないとしたら、なおさらだ。 物言いたげな和彦の視線を受け、玲はもごもごと言い訳のように呟いた。「俺としてはバレないよう動いてたつもりですけど、行動を読まれてたみたいです」「君についてる人たちは有能なんだよ。ほら、今から帰るって、お父さんには早く連絡するんだ。さらに大事になったら困るだろ」 和彦の呆れた表情からさすがに危機感が芽生えたのか、玲は慌ただしくメッセージをやり取りをしていたが、急に大きくため息をついてガクリと肩を落とした。「大丈夫、か?」「すぐ帰って来いと言われました。帰ったら絶対、ぶん殴られます」「顔はやめてもらうんだよ」 本気で気遣う和彦に、玲は情けない顔をして頷く。財布を取り出そうとしたので、ここは自分が払っておくと告げる。 立ち上がった玲が片手を差し出してきた。何事かと首を傾げた和彦を、ただじっと玲が見下ろしてくる。おそらく握手を求めているのだろうと察して、おずおずと手を握る。
「好きなんです、佐伯さんのこと。去年の秋から、あなたのことばかり考えています。父さんはこういうのを、『骨抜きになった』と言うんでしょうけど」「ぼくは……、君の一回り以上も年上なんだよ?」「でも、長嶺組の跡目と俺は、そんなに歳は変わらないですよね」 これも、前に同じようなやり取りをした。 こんなに押しが強い子だっただろうかと思ったが、そもそも玲を深く知るほど一緒にいたわけではない。千尋が甘えながら自分の主張を押し通すのに対し、玲はただ一直線に向かってくる。搦め手で迫ってくる男たちのほうがまだ、打算含みで相手をしやすい。 和彦の中には、玲を傷つけたくないとか、穢したくないとか、どこか庇護欲にも似た情があるのだ。 さりげなく周囲に目を向け、念のため誰もこちらに注意を払っていないと確認すると、和彦は声を潜めて言った。「君は……、お父さんの影響なのかもしれないけど、〈オンナ〉に夢を見すぎているんじゃないか。いまだに、君の中で美化されている気がする」「俺の中で美化されていたとしても、こうしてあなたを目の前にして、俺はすごく嬉しいです。それはダメなことですか?」」「ぼくは厄介な存在で、君は普通の大学生でありたいなら、これ以上関わるべきじゃない」「俺のことを、心配してくれているんですね」「……それは、当たり前だろう……」 よかったと、玲はほっとしたように笑み浮かべる。断固とした態度を取るべきだと和彦も頭ではわかっている。それが玲のためであり、余計な揉め事を長嶺の男たちや長嶺組に持ち込まないためにも最善なのだ。 そう、和彦が自分に言い聞かせていると、少し困ったように玲は眉を八の字にした。「玲くん?」「すみません。うそをつきました。ただの大学生なんて言って、俺、御堂さんのところ――総和会の第一遊撃隊でしたよね。そこの人たちにときどき尾行されています。監視というより見守られてる感じではあるんですが、それで……、それがわかっていながら、佐伯さんに会いに来ました」