LOGINどうやら賢吾のほうでは、すでに男の正体を掴んだようだが、一体誰なのか、和彦は教えてもらっていない。ただ、護衛が二人に増やされた。そのことが物語るのは、男は油断できない相手だということだ。
どこに行くにも、組員二人に護衛されるという状況に、たった一日で和彦は辟易してしまったが、嫌とも言えない。 ここでこうして、長嶺組と関わりのない秦と会話が交わせるだけでも、今の和彦にとってはありがたい気分転換だった。「護衛の人も一緒に、このあと、昼メシに行きませんか?」 せっかくの秦の申し出に、苦笑して和彦は首を横に振る。「ぼくはともかく、秦さんに気をつかわせると心苦しいので、今日は遠慮しておきます。それでなくても、忙しい中、こうしてわざわざ来ていただいているんですから」「『先生』こそ、わたし相手に気をつかわないでください。中嶋は、おもしろい人を紹介してくれたと思って、ワクワクしているんでよ」 秦は、中嶋に倣ったのか、和彦を『先生』と呼ぶ。前のクリニックに勤めている頃は、仕事を離れて和彦をそんなふうに呼ぶのは千尋** 総和会会長宅に泊まっているという緊張感からか、この夜の和彦はなかなか寝付けなかった。 何度目かの寝返りを打ち、視線はつい、吸い寄せられるように掛け軸へと向く。守光に妙なことを言われたから、というわけではないが、横になってからも、どうしても気になってしまうのだ。 障子を通して、微かな月明かりが入り込んでいるが、それも室内すべてを照らし出すほどではない。じっと目を凝らして、ぼんやりと浮かび上がる掛け軸をなんとか捉えることができるぐらいだ。 見つめ続けていると、艶かしい若武者に、目だけでなく、魂まで吸い寄せられそうな感覚に襲われる。どこか妖しさを帯びた感覚だ。 やはり千尋にこの部屋で寝てもらえばよかったかなと、少しだけ和彦は後悔する。 実は横になる前まで千尋はこの部屋にいて、いつもと変わらず和彦にじゃれつくどころか、隣に寝るつもりで布団を運び込む気だったのだ。守光の手前、さすがにそれは勘弁してくれと頼み、なんとか別室に引っ込んでもらった。 子供でもあるまいし、床の間に掛けられた掛け軸が気になるから、やはり隣で寝てほしいと、口が裂けても言えるはずがない。気にはなりつつも、和彦は一人でこの部屋で眠るしかなかった。 掛け軸の若武者が怖いわけではないと、心の中で呟く。むしろ怖いのは――。 体を横向きにした和彦の背後で、何かが動く気配がした。まるで影が這い寄るように静かに、大きな獣のような威圧感を放ちながら。 金縛りにあったように体が動かなくなった。本能的に、振り返ってはいけないと理解したのだ。 気のせいではない証拠に、布団と毛布がゆっくりと捲られ、浴衣に包まれた体がひんやりとした空気に撫でられる。恐怖と寒さ、そしてそれ以外の〈何か〉によって、一気に鳥肌が立った。だが、やはり体は動かない。 ふわりと頬に柔らかく滑らかな感触が触れたと思ったとき、和彦の視界は遮断された。薄い布が顔にかけられたのだ。そして肩を掴まれて、仰向けにされた。 混乱して取り乱すべきなのだろうが、真夜中の侵入者の静かな気配に完全に呑まれてしまい、指一本動かすことができない。そんな和彦を刺激しないよう、侵入者は悠然と、しかし慎重に
** 妙なことになったと、畳の上に座った和彦は軽く困惑しつつ、浴衣の衿を直す。そして改めて、室内を見回す。 まるで旅館の客室のような部屋で、必要なものは過不足なく揃っていた。しかも、和彦が入浴をしている間に、抜かりなく布団も敷かれてしまった。まさに、もてなす気満々といった感じだ。 それが悪いとは言わないが、素直に好意に甘えるには、少々抵抗があった。なんといってもこの部屋は――。 和彦はまだ半乾きの髪を指で軽く梳いてから、ため息をつく。同じ屋根の下に総和会会長がいるのかと思うと、やはりどうしても寛げない。 夕食をともにしたあと、コーヒーを飲みつつ世間話をしたまではよかったのだ。ただ、あまり遅くならないうちにお暇を、と和彦が切り出したとき、即座に守光から提案された。 ぜひ、泊まっていってくれと。 乗り気の千尋と二人がかりで説得されて、嫌と言えるはずもない。遠慮の言葉すら口にできず、和彦は頷いていた。その結果が、総和会会長宅の客間で一人、所在なく座り込んでいるこの状況だ。 自分の立場の微妙さもあり、和彦はいまだに、守光とどう接すればいいのかわからない。かけられる言葉に甘え、打ち解けて見せた途端、何か恐ろしい獣が牙を剥きそうな本能的な怯えが拭えないのだ。 この状態で眠れるのだろうかと、もう一度ため息をつこうとした瞬間、視界の隅に鮮やかな色彩を捉えて、和彦はドキリとする。何かと思えば、床の間に掛けられた掛け軸だ。 派手な装飾品のない客間の中、この掛け軸は鮮烈な存在感を放っていた。描かれているのは、鎧を身につけた若武者が、栗毛の馬に跨っている姿だ。武具や馬具には、赤や朱、金という華やかな色が惜しみなく施されているが、何より鮮やかなのは、若武者そのものだ。 見惚れるほど美しい顔立ちをしており、表情は凛々しい。どこかを見据える眼差しは涼しげでありながら憂いを含んでおり、それが妙に艶かしい。 描かれたのはそう昔ではないだろう。作風は現代のものに近いと、美術に疎い和彦でも判断できる。 もっと近くで見たくて、床の間に這い寄ろうとしたとき、突然背後から声をかけられた。「――賢吾が生まれたときに、端午
そう言って守光が襖をさらに開け、部屋へと招き入れてくれる。畳敷きの部屋の中央には、コタツが置かれていた。天板の上にはすでに夕食の準備が調えられており、美味しそうな音を立ててすき焼きが煮えている。 ふっとこの瞬間、先日三田村と食べた鍋を思い出し、胸苦しくなった。 千尋に背を押され、和彦は部屋に入る。長嶺の男二人に急き立てられるようにコートとジャケットを脱ぐと、素早く千尋に奪い取られてから座椅子に座らされた。守光に言われるままコタツに足を入れたところでもう、立ち上がることを許されない空気となる。「千尋、冷蔵庫からビールを出してきてくれ。それと、お茶もな」 守光の言葉を受けて、千尋は一旦部屋を出て、ペットボトルのお茶と缶ビールを抱えて戻ってきた。「じいちゃん、冷蔵庫のビールだけじゃ足りそうにないから、俺ちょっと、食堂から取ってくる」 背筋を伸ばし体を強張らせながら和彦は、二人のやり取りを聞く。今の会話の内容だけなら、本当にごく普通の祖父と孫だ。いや、本人たちにとっては、長嶺組や総和会ということは、意識するまでもない日常であり、普通のことなのだろう。 この世界にいる限り、一般的だとか普通だとか、そういったものと比較するのはやめるべきなのかもしれないと、和彦は自省する。 千尋が慌しくまた部屋を出ていき、玄関のドアが閉まる音がした。その途端、二人きりとなった部屋は静まり返った。 守光が何も言わず、和彦の斜め右に座る。こうして近くにいて目も合わせないのは不自然なので、伏せがちだった視線を上げると、守光はすでに和彦を見ていた。 総和会という大組織の会長と、こうして一緒にコタツに入るというのも、奇妙な感じだった。相変わらず緊張もしているのだが、少しだけおかしくなってくる。和彦はちらりと笑みをこぼし、守光も目元を和らげた。「……普段はコタツは出していないんだが、このほうが、膝を突き合わせてゆっくり話せるかと思ってな。少なくとも、料亭の座敷よりは、座り心地はいいだろう?」 冗談っぽく言われ、和彦としては苦笑で返すしかない。「にぎやかな千尋がいるだけで、ずいぶん違います」 ここで、空いてい
千尋の言葉に、和彦は軽く目を見開く。ちょうどエレベーターの前で立ち止まったところで、やっと疑問をぶつけることができた。「……つまりこのマンション全部が、会長の家、なのか……?」「ここ、実はマンションじゃないんだよね」 千尋に恭しく手で示され、エレベーターに乗り込む。「元は、ある企業が税金対策で造った社員の研修施設。景気がいいときに造ったらしいんだけど、そのあとは業績悪化というやつで、ここを手放すことになったんだ。で、売却の話を持ち込まれたのが、じいちゃんってわけ」「それで、買ったのか?」「じいちゃんの家だと思うと立派すぎるけど、総和会本部だと考えるとぴったりだろ。実際、じいちゃんが住んでるのは四階で、それ以外の階は、総和会の人間が常に行き来している。――総和会のオフィスは別にあるけど、ここは長嶺守光の息がかかった人間だけが、出入りを許される」 ちらりとこちらを見た千尋の目は、強い光を放っている。したたかで好戦的な眼差しは、まるで獣のようだ。ただし、恐ろしく血統がいい、という前置きがつく。 総和会会長の権力を具現化したようなこの場所で、千尋は普段とは違う面を見せているようだ。地べたを這いずり回ったり、修羅場をくぐったという血生臭さがないせいか、無邪気なほど傲慢な存在感を放っている。それが魅力になりうるのは、やはり長嶺の血のせいかもしれない。「――先生」 いつの間にかエレベーターは四階に到着し、千尋が開いた扉を押さえている。我に返った和彦は慌ててエレベーターを降りた。 正面は、ソファやテーブルが置かれたラウンジとなっており、左右に廊下が伸びている。千尋を見ると、左側を指さした。「こっちがじいちゃんの住居。ちなみに右は、来客用の宿泊室が並んでる。元は研修施設だけあって、ホテルみたいな部屋が他の階にもあるんだ。あまり大規模な改装工事はしなかったから、大浴場も食堂もそのまま残ってる。あと、地下にはジムもプールもあるよ。裏には、テニスコートもあるし」「……基地みたいだ」 和彦が率直な感想を洩らすと、千尋はニヤリと笑った。
『本当ならもっと早くに、わしらにとって大事な先生を招待したかったんだが、賢吾のほうが慎重でな。その点では、千尋は単純だ。大事な先生を一刻も早くわしに紹介して、一層囲い込みたいと思っていたようだ。……子供の執着心というのは、分別のつく大人より性質が悪くて頑迷だと、あれを見ているとよく思う。ただ、それがあったからこそ、長嶺の男たちは、先生と知り合えたとも言えるんだが』 守光の言葉に下手な相槌は打てないが、千尋と知り合ったことですべてが始まったのは事実だ。和彦はつい苦い笑みを洩らす。『時間は要したが、年が明けてから状況が変わった。すでにもう二回、わしとあんたは顔を合わせて、会話も交わしている。わしとしては、息子と孫の大事な人に対して、十分敬意は払ったつもりだ』「それは、ええ……。過分なほど気をつかっていただいたと思っています」『そう、畏まらなくていい。――あんたは、何もかもが、千尋の母親とは対照的だな。一番の違いが性別というのは、皮肉な話だが……』 守光は、和彦の気持ちを巧みに刺激する。聞き流せない話題を、さりげなく耳元に吹き込んできたのだ。『先生一人を野獣の檻に放り込むのは可哀想だと言って、千尋も今晩、うちに来ることになっている。にぎやかな坊主がいれば、あんたもさほど緊張しなくて済むんじゃないかね』 ここまで言われて断れるはずもない。守光の言うとおり、千尋も同席するということで、いくらか気持ちも楽になっていた。 あまり言い訳めいたことを口にして、守光の機嫌を損ねたくないという思いもあり、和彦はこう答える。「クリニックを閉めたあと、うかがいます」『それはよかった。手土産なんてことは考えず、身一つで来てくれたらいい』 電話を切ったあと、自分の肩がひどく強張っていることに和彦は気づく。肩をゆっくりと揉みながら無意識に口を突いて出たのは、困惑による唸り声だった。 年が明けてから、総和会――というより守光からの急接近ぶりは、さすがに何かの前触れを感じさせる。 例えば、波乱のようなものを。**
****〈あの男〉の人脈はバカにできないと、来週のクリニックの予約リストを眺めながら和彦は感心する。しばらくは閑古鳥が鳴くことを覚悟していたのだが、なかなかどうして、予約は順調に入っていた。 開業したばかりの、広告も出していない池田クリニックをどこで知ったのか、予約を入れる患者に尋ねると、大半は口を揃えてこう言う。知人の紹介で、と。 問題は、その『知人』が誰かということだ。 知人繋がりなら、クリニックの世話になりたいとまず和彦本人に連絡が入るのだが、それは組関係者の妻や娘であったり、さらに彼女たちからの紹介だったりするし、意外なところで、由香に勧められたというものもある。 だが、誰よりも池田クリニックの売上に貢献しているのは、間違いなく秦だ。 ホストクラブ経営という強みを活かし、美容相談を受けてみたらと女性客を唆しているらしく、何件もカウンセリング予約が入っている。カウンセリングといってもバカにはできず、池田クリニックは初回からしっかりと、カウンセリング名目でも料金を受け取っていた。 ちなみにさきほど、秦からの紹介で訪れた患者に対して、豊胸に関するカウンセリングを行ったばかりだ。 美容外科医が和彦一人しかいないため、大掛かりな手術ができない分、経営戦略は限られる。経営者としては、リスクを最小に抑えて利益を出さなくてはならない。 このクリニックを和彦に持たせてくれた男は、クリニック経営にあまり夢中になるなよと、笑いながら言っていたが――。 和彦は前髪に指を差し込みながら、天井を見上げる。すでにこのクリニックに愛着を持っているが、ときおりふと、ヤクザに望まれるままのママゴトをしているような、妙に空しい気持ちにもなるのだ。その空しさは、目を背けたい現実を和彦に突きつけてくる。 一方で、地味で手堅い利益を追い求めるクリニック経営者なりに、ささやかな喜びも味わえるのだ。 短く息を吐き出した和彦は、姿勢を戻す。労働に対するささやかな慰労として、コーヒーを飲みたくなった。実はさきほどから、スタッフの誰かが淹れたらしいコーヒーのいい香りが漂っている。 次の予約の時間までま