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血と束縛と のすべてのチャプター: チャプター 391 - チャプター 400

471 チャプター

第11話(1)

 いつものように仰々しい出迎えを受けて、和彦は車から降りる。辺りを見回す余裕すら与えられず、組員にやや強引に促されて、監視カメラに見下ろされながら威圧的な門扉をくぐる。 自分は長嶺組にとって貴重な存在であると、嫌でも自覚が芽生えてきた和彦だが、だからといってヤクザの慣習や生活様式に馴染んだわけではない。この世界で和彦の扱いは、組長ほどではないにしても、幹部並みの厚遇だ。 組事務所などでは、顔馴染みとなった組員たちと世間話をする程度には打ち解けて、扱いも、堅苦しいほどのものではない。だが、長嶺の本宅に足を踏み入れるときは、別だ。やはり和彦は特別扱いなのだ。 ヤクザの世界で長年積み上げたものがない人間にとっては、それはひたすら重い。「……ぼく相手に、出迎えはいらないんだがな……」 靴を脱ぎながら和彦が独りごちると、傍らに立っている組員にまじめな口調で言われた。「そういうわけにはいきません。先生は、うちの組にとって大事な方ですから」 反射的に和彦は、ごめん、と頭を下げてしまい、組員が奇妙な表情を浮かべる。「先生、いい加減、うちでのもてなし方に慣れてください」「たかが医者に、無茶を言わないでくれ」 そんなやり取りを交わしながら、応接間に案内される。 今朝、賢吾から電話があり、話したいことがあるので本宅に来いと言われたため、当然、応接間に賢吾の姿があると思っていた。だが、ソファに腰掛けていたのは――。「どうして……」 和彦が思わず声を洩らすと、スーツ姿の秦が軽く肩をすくめる。 案内の組員はすぐに立ち去ったが、入れ替わるように別の組員がコーヒーを運んできたため、和彦は秦の向かいに腰を下ろした。 ドアが閉まるのを待ってから、秦が口を開く。「長嶺組長に、いろいろと相談をしていたんです。先生もあとから見えられると聞いたので、せっかくなのでご挨拶をしようと思って、待たせてもらっていました」 和彦は遠慮なく、胡乱な眼差しを秦に向ける。ヤクザの組長の本宅にいるというのに、緊張した素振りも見せず、柔らか
last update最終更新日 : 2025-12-30
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第11話(2)

「先生?」 いつの間にか秦を凝視していたらしい。声をかけられてハッとした和彦は、わずかに視線を逸らしつつ、誤魔化すように言った。「どうやら、組長と関わりが持てたらしいな。ここに来るのは、今日が初めてじゃないんだろ」「ええ、まあ……。初めて呼び出されたときは、さすがに膝が震えましたよ。もしかすると、わたしの命も今日までなのかもしれないと思って」 物騒なことを言うわりには、秦の口調は滑らかで、楽しげだ。「……こうして元気なところを見ると、組長からは、なんのお咎めもなく済んだようだな」「まさか」 短く言い切って、秦は唇を歪める。優雅な存在感を放つ男には不似合いな表情に、和彦は目を丸くする。「噂以上に怖い方ですよ、長嶺組長は。覚悟はしていましたが、今のわたしは、生殺与奪の権をしっかりと長嶺組長に握られている状態です。――許しがあるから、こうして息ができている」 あまりに大仰な物言いに、かえって和彦は、自分はからかわれているのではないかと疑ってしまう。そんな和彦に対しては秦は、すぐに表情を一変させ、安心させるかのように微笑を向けてきた。「そう、驚いた顔をしないでください。わたしの今の状況は、別の見方ができるんです」「別の見方?」「長嶺組の庇護を受けていることと同義なんですよ。わたしを生かすも殺すも、決められるのは長嶺組長だけ、という状況は」 秦は先日、誰かに暴行を受けて大怪我を負った。和彦に手を出したことによる、長嶺組の報復だろうかと、ちらりと考えたことがあるのだが、どうやらそちらの件は、秦個人の事情によるものらしい。つまり、秦を脅かす存在がいるのだ。 そして今、本人の口から語られたが、秦の生殺与奪の権は賢吾が握っているという。秦を襲った者たちからすれば、この事態をどう感じるか――。「……いろいろと、わからないことがあるんだが……」「なんでしょうか?」「君を襲った相手は、一体誰なのか。そして、襲った理由。その連中と長嶺組が、敵対する危険はないのか。仮に危険があ
last update最終更新日 : 2025-12-31
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第11話(3)

 和彦が思いつくまま簡単に述べると、秦は軽く拍手した。思わず睨みつけた和彦だが、すでに包帯が巻かれていない秦の右手のてのひらに、大きな絆創膏を貼ってあるのが見えた。和彦の視線に気づき、秦はてのひらを差し出してくる。「先生が何度も忠告してくれたので、病院に行って胸のレントゲンを撮ってもらったんです。そのとき、抜糸もしてもらいました。もう少し早く来いと怒られましたが、傷の縫い目がきれいだとも言われましたよ」「別に……、特別丁寧にしたわけじゃない。そういう縫い方が身についてるんだ」「肋骨のほうは、しっかり固定して、静かに日常生活を送っていたので、完治も間近だそうです。すべて、先生のおかげです」「感謝なら――」 中嶋くんにしてくれ、と言おうとして、和彦は反射的に口元に手をやる。先週、その中嶋と自分が何をしたのか思い出したのだ。 欲情を刺激されないくせに、不快どころか、心地よさを覚える不思議なキスだ。やましい気持ちがないからこそ、罪悪感とも無縁だ。だが、誰にも言えない。「先生、どうかしましたか?」「あっ、いや……。君を診るよう頼んできたのは、中嶋くんだ。そうじゃなかったら、ぼくは君と関わる気はなかった。感謝の言葉なら、彼にかけてやってくれ」「もうたっぷり、メシを奢らされました。それに――」 ソファの背もたれに体を預けた秦が、ふっと唇に笑みを刻む。甘いだけではない、わずかな苦さを含んだ笑みに見えた。「自分に感謝しているなら、本当の名前を教えてくれと言われましたよ。それどころか、わたしを襲った人間を捜し出したいから、心当たりがあったら、全部話してくれとも。わたしは今までにも何度もヤバイ目に遭ってきて、そのことを中嶋も知っているんですが、こんなことを言われたのは初めてです。さすがに、面食らいました」 秦の言葉から、中嶋の中で起こりつつある変化を知った。 和彦は無意識にソファに座り直し、先日、中嶋がスポーツジムで言っていたことを思い出していた。あのとき中嶋は、秦の個人的なことは詮索しないと言っていた。だからこそ秦は、自分の存在を気楽に感じているのかもしれないとも。
last update最終更新日 : 2025-12-31
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第11話(4)

「……見た目はともかく、中嶋は中身は、筋金入りのヤクザですよ。自分が身を置く組織への忠義と野心が程よくバランスが取れて、情なんていくらでも切り売りできる。そういう人種です。――と、わたしはいままで思っていたんですが……」「教えてやればいいじゃないか。本当の名前ぐらい。君は謎が多い人間なんだろ。だったら、いくつかの秘密を中嶋くんに話したところで、惜しくもないんじゃないか」「先生は、中嶋の味方なんですね」 思わず咳払いした和彦は、ムキになって言い返した。「違うっ。君がどんな男だろうが、慕っている人間からすれば、せめて名前ぐらい知りたいと思っても、当然じゃないかと言いたいんだ」「――秦静馬が、わたしの本名ですよ。生まれた頃から」 ウソをつけと、非難がましく鋭い視線を向ける。そんな和彦に対して秦は、やっと真剣な表情を見せた。「わたしの秘密は、長嶺組長の所有となりました。――野心をたっぷり抱えた中嶋にとっては、わたしの秘密なんてむしろ毒であり、邪魔になりますよ。奴は、わたしに深入りしないほうが、まっとうなヤクザとして生きていける。……ああ、この表現は変ですかね」「だったらどうして、もっと早くにそう言ってやらなかった」「ヤクザである中嶋は、利用できるからです。現に、暴行されたわたしを匿ってくれたのは、あいつだ」 あまりに簡単に言われ、和彦は咄嗟に声が出なかった。 中嶋も、秦を利用するつもりでいる。だから秦が、中嶋を利用したところで、お互い様の一言で片付く。しかし和彦は釈然としない。秦の芝居がかったような話し方のせいか、どこからどこまでが本心であり、偽りなのかわからないのだ。 ムキになるなと自分に言い聞かせ、深く息を吐き出す。「……別に、君らの関係なんてどうでもいいんだ。ぼくを巻き込まない限りは」「どうでしょうね。中嶋は、先生を気に入ってますよ。もちろん、わたしも」 和彦がぐっと唇を引き結んで黙り込むと、ノックもなしにいきなりドアが開き、賢吾が入ってきた。不機嫌そうな和彦の顔を見るなり、
last update最終更新日 : 2025-12-31
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第11話(5)

「いまさら慌てることもないだろ。この色男は、先生が俺のオンナだとよく知っている。それを承知で、先生に手を出したんだからな」 怖く感じるほど、賢吾の声は朗らかだった。この男の場合、それは相手を威嚇しているようなものだ。言葉の端々から、凄みが伝わってくる。「先生に手を出したこと以外にも、この男に対してはいろいろと腹に据えかねることがある」「どんな?」 和彦の問いかけに対する賢吾の返事は、言葉ではなかった。いきなりあごを掴み上げられ、噛み付くようなキスをされる。 驚いてなんの反応もできない和彦の眼前で、賢吾はひどく優しい顔をした。「知りたいなら教えてやるが、いろいろと覚悟が必要だぞ、先生」 この男が口にする『覚悟』という言葉から、濃厚な闇の存在がうかがえる。ただの〈オンナ〉でしかない和彦が覗くには、あまりに深すぎる闇だ。「……だったら、遠慮しておく……」「先生は、肝が据わっているくせに、こういう部分で臆病なのがいい。ヤクザの世界で生きるには必要なものだ。どれだけ強い好奇心を持っていても、きちんと自分を律しきれるからな」 もう一度、和彦の唇に軽いキスを落としてから、賢吾はスッと秦に向き直る。さすがというべきか、秦は気まずい様子も見せず、口元に微笑を湛えていた。肝が据わっているとは、この男のことを言うべきだろう。 和彦はわずかな羞恥を覚えながら、つい唇を手の甲で拭う。賢吾のせいでまともな感覚が狂いそうになるが、たとえキスであろうが、人に見られていい気持ちはしない。「先生は聞きたくないそうだから、事情と過程については省くが、長嶺組は、この色男のケツ持ちをすることにした」 唇を拭った和彦の手を取り、賢吾がさらりと言う。そして、嫌味のように手の甲に唇を押し当ててきた。和彦は横目で睨みつつも、問いかける。「ケツ持ち?」「この男の抱えたトラブルを、長嶺組が後ろ盾になって処理する、という意味だ。うちとしても事を荒立てる気はないから、うちの代紋を見て、相手の頭が冷えるなら、けっこう。そうでないなら――この色男を差し出すのもおもしろいかもな」
last update最終更新日 : 2025-12-31
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第11話(6)

 和彦の知らないところで密談を重ねているうちに、賢吾のこの手の冗談は言われ慣れたのかもしれない。「……二人の間で話がまとまっているなら、わざわざぼくを、この場に呼ばなくてもよかっただろ。電話で報告してくれるだけでよかったんだ」「俺の親切心だぜ。先生だって、自分の浮気相手の処遇は気になるだろ」「だからっ――」 賢吾の口から『浮気』という言葉が出るたびに、恐怖と羞恥がムチとなって、和彦の神経を打ち据えてくる。 たまらず声を荒らげようとすると、賢吾に肩を抱き寄せられ、髪に唇が押し当てられた。これだけで和彦は何も言えなくなる。代わりに賢吾が、秦に向けて言い放った。「――色男、俺のオンナに手を出すなよ」 賢吾の声は柔らかだが、リビングの空気は一瞬にして凍りつく。和彦は顔を強張らせながら、賢吾を見上げた。「俺に近づくために、先生に目をつけたのはともかく、妙な薬を飲ませたことについては、俺は少しばかり怒っているんだ。……二度目があると思うなよ」 そんなことを言いながら、優しげな顔で和彦を見つめてくる賢吾だが、大蛇を潜ませている目はひんやりとして、優しさの欠片も感じさせない。 こんな目を持つ男に、自分は大事にされているのだと思うと、うろたえるほど強烈な疼きが和彦の背筋を駆け抜ける。和彦の異変に気づいたのか、賢吾は唇の端を動かすだけの笑みを浮かべた。 和彦を片腕に抱いたまま、賢吾がちらりと秦を見る。一瞥されただけだというのに、目に見えて秦は緊張していた。「いろいろと調べさせたが、お前、やり手のホストだったんだってな。のぼせ上がる女が多すぎて、派手な揉め事にも事欠かなかったようだが。なんにしても、ホストとしては一流だった――」「若気の至りというやつで、無茶だけはできましたから」「謙遜するな。それだけのホストだ。足を洗ったとはいっても、先生を楽しませるぐらいの手管はまだ持っているだろ? もちろん、セックス抜きで、という意味だ」 思いがけない賢吾の発言に慌てたのは、和彦だ。「なっ……、何を言い出すんだ、あんたっ&
last update最終更新日 : 2025-12-31
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第11話(7)

「変なことは言ってないだろ。何かとストレスを溜めやすい繊細な先生のために、遊び相手になってくれと言ってるんだ。この色男は、なかなか安全な遊び相手だぞ。なんといっても今は、長嶺組の紐付きだ。下手を打てば、自分の身がヤバくなる。自分の居場所を確保するために、死ぬ気で先生のストレス解消につき合ってくれるぞ」 賢吾が本気でこんなことを考えているのか、怪しいものだった。和彦に対して執着を見せる一方で、千尋や三田村を含めた奔放な関係を許容して、楽しんでいる。それに、敵対しているはずの鷹津に自分たちの行為を見せつけ、刺激もした。そのせいで和彦は、鷹津に汚されたのだ。 非難を込めて和彦が睨みつけても、賢吾は一向に気にかけた様子もなく、それどころか、秦に向けてこう言い放った。「――大事な先生を退屈させるなよ、色男」 秦は、賢吾の迫力に気圧された様子もなく、それどころかすべてを心得たように、唇だけの艶然とした笑みを浮かべて頷いた。** 応接間を出ていく秦の姿を見送った和彦は、何かしたわけでもないのに疲労感に襲われ、深くソファに座り直す。そんな和彦の隣で、賢吾はニヤニヤと笑っている。これが、大蛇の化身のような男でなければ、不愉快だといって、顔を背けさせるところだ。「……あんたがここまで、寛大で優しい男だと、初めて知った」 和彦の精一杯の皮肉を、賢吾は純粋に冗談として受け止めたらしく、短く声を洩らして笑った。「俺は先生の前ではいつでも、寛大で優しい男だろ」「ぼくに薬を飲ませた不埒な男を、遊び相手として与えてくれるほど、か?」「先生の目の前で、秦を半殺しにすれば満足するというなら、今から呼び戻して、そうしてやるが」 冗談を装っているが、賢吾の場合、本当にやりかねない。 獲物を巨体でじわじわと締め上げるのは、残酷な性質を持つ大蛇にとっては、さぞかし楽しいだろう。たとえ戯れであろうが、締め上げられるほうは堪ったものではないが。 和彦は片手を伸ばし、賢吾の頬にてのひらを押し当てる。骨格は千尋とよく似ているが、年齢を重ねた分、さらにしっかりとした造りで、そこからごっそりと甘さだ
last update最終更新日 : 2026-01-01
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第11話(8)

「なるほど。先生のきれいな指が、他の男の体を這い回るのかと思うと、少しばかりムカつくな」「変な言い方をするなっ……。用が済んだんなら、ぼくはこれで帰るからな」 立ち上がろうとした和彦だが、すかさず手首を掴まれて引っ張られ、バランスを崩して賢吾の胸元に倒れ込む。そのまましっかりと両腕で抱き締められた。「先生への本題はこれからだ」 嫌な予感がした和彦は、露骨に顔をしかめて見せる。すると賢吾は表情を和らげてから、耳元に唇を寄せてきた。「頼みたいことがある」「……聞きたくない」「結婚披露宴に、俺の名代として祝儀を持っていってほしい」 一瞬聞き間違えたのかと、和彦は目を丸くして賢吾を見つめる。「えっ……」「結婚披露宴だ。俺のオヤジが、昔から面倒を見てやっている男がいるんだが、そこの次男坊が結婚する。昵懇だから、何もしないわけにはいかない。だが、ヤクザと繋がりがあるなんて、人に知られるわけにもいかない。だから、先生に頼むってわけだ」 どんな物騒なことを言われるのかと身構えた和彦は、正直拍子抜けした。意外に、というのも変だが、まっとうな頼み事だ。だからといって、素直に引き受けられるわけではない。「……結婚披露宴なんて目立つ場に、足を運ばなくてもいいだろ。相手も事情がわかっているんだから、日を改めて祝いの気持ちを伝えたところで――」「ヤクザは、いつ生きるか死ぬかわからない連中の集まりだ。日を改めたとして、そのとき生きているかわからないし、もしかすると、ムショにぶち込まれているかもしれない。そういう事情があるから、祝えるときに祝い、弔えるときに弔う。相手の顔を潰すわけにもいかんしな」 賢吾の話が本当かウソか、和彦には確かめようがない。ただ、心は動いた。「――……あんたでも、頼みたい、なんて言うんだな」 ぼそりと和彦が洩らすと、賢吾が機嫌よさそうに軽く唇を吸ってくる。「ああ、これは命令じゃないからな」「つまり、嫌だと言えるんだな」
last update最終更新日 : 2026-01-01
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第11話(9)

**** ラウンジのイスに腰掛けた和彦は、つい物珍しさから、辺りをきょろきょろと見回す。これから行われる結婚披露宴に出席するため、続々と招待客が集まり始めていた。 和彦の年齢ともなると、友人・知人の結婚披露宴に出席するのは一度や二度ではないため、特別珍しいイベントというわけではない。ただ、ヤクザの組長の〈オンナ〉となり、しかも、その組長の名代として出席するのは、もちろん初めてだ。 だからこそ、一体どんな場所で、どんな人たちを集めて行われるのかと身構えていたのだが――。 和彦が今いるのは、有名な高級ホテルの大宴会場のラウンジだ。受付が始まるまで、ここで待っているのだが、和彦と同じように寛ぎ、談笑をしている招待客たちは皆一様に、きちんとした服装で身を包み、どこから見ても、一般の人たちだ。 物騒な世界に身を置くようになって、和彦も独特の嗅覚が働くようになったが、少なくともこの場には、剣呑とした空気を漂わせた人間は一人もいない。賢吾がどうして和彦を名代に指名したのか、この顔ぶれを見ると納得するしかなかった。 一流企業の社長を父親に持つ新郎の結婚披露宴だ。招待客は厳選されているはずだ。そのうえで、長嶺組の組長の元にも招待状が届いたということは、両者の間柄を多少は推測できる。 和彦はその間柄を保つために、礼儀正しく祝儀を渡し、記帳をするのだ。ただし、芳名帳に残すのは、賢吾の名ではなく、もちろん、和彦の名でもない。偽名というわけではないが、長嶺組が一般人と関わりを持つときに使う名があるのだという。 賢吾のその配慮のおかげで、和彦はホテル内を一人で行動できる。華やかな場であることを考えて、護衛の組員たちは同じホテル内にいないのだ。今頃、隣接している別のホテルのティーラウンジに、堅苦しい顔で座っていることだろう。 ご褒美というわけではないが、役目を果たしたあとは、ホテルの中で買い物や食事をゆっくりと一人で楽しんでくればいいと、賢吾に言われていた。 長嶺組の事情にどんどん組み込まれていると思わなくもないが、そうだとしても、逃れられるわけでもない。だったら、このホテルに入っているブランドショップで気に入ったものを
last update最終更新日 : 2026-01-01
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第11話(10)

 そのとき、一際華やかな歓声が耳に届き、反射的に振り返る。どうやら、他の広間でも結婚披露宴が行われるらしく、こちら同様、招待客が集まっているのだ。 男性客の服装は、和彦も含めてどうしても限られているが、それに比べて女性客の服装は、ドレスや着物にスーツと、目で楽しませてくれる。感じる華やかさの大部分は、彼女たちのおかげだなと、和彦はつい表情を和らげる。しばらくこんな場とは無縁だったため、いい気分転換にもなっていた。 ここで、受付の開始を告げるアナウンスがあり、招待客が静かに移動を始める。和彦も立ち上がると、ジャケットの裾を軽く引っ張りながら、服装が乱れていないか確認する。 オーダーメードで仕立てる時間はないからと、賢吾とともにショップに出かけて買い与えられたブラックスーツだが、物自体は非常によく、高価なものだ。これを着て、長嶺組組長の名代として出かける機会が多くなるぞと、賢吾に囁かれたりもしたが、どこまで本気なのか、あの男に関しては本当にわからない。 ジャケットの胸ポケットから、袱紗に包んだ祝儀袋を取り出し、受付に渡して記帳を済ませる。これで、和彦の仕事は終わりだ。これだけ、とも言えるが、賢吾の名代を務めたという点では、大きな仕事だ。 袱紗をきちんと畳み直してポケットに仕舞った和彦は、大宴会場に向かう招待客とは逆の方向に歩き出す。 まだ受付が始まっていない、別の大宴会場の側を通り過ぎようとしたときだった。「――あれっ、和彦くんっ?」 前触れもなく名を呼ばれ、和彦は飛び上がりそうなほど驚く。咄嗟に、同名の他の誰かが呼ばれたのだろうと考え、周囲を見回したい衝動をぐっと堪える。 和彦にとってこの呼ばれ方は、不吉で不快以外、何ものでもなかった。 嫌な記憶に足元を掬われそうで、足早にこの場を立ち去ろうとすると、再び名を呼ばれる。「ちょっと待ってっ。君、和彦くんだろっ」 同時に、肩に手がかかり、もう無視はできなかった。足を止めた和彦が振り返ると、目の前に立っていたのは、四十代後半の見知らぬ男だった。和彦と同じ理由でこの場にいるのか、ブラックスーツ姿だ。「あの……」 和彦
last update最終更新日 : 2026-01-01
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