All Chapters of 輝く私の背中に、夫は必死に追いつこうとした: Chapter 211 - Chapter 220

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第211話

一方、紬はホテルに戻り、正造と亮に失踪中の出来事をかいつまんで説明していた。あまりに凄惨な場面をありのままに伝えれば、老いた祖父を余計に悲しませ、心痛を負わせることになる。そう案じた彼女は、あえて核心には触れなかった。だが、断片的な事実を聞いただけでも、亮は怒りで肩を震わせた。「やっぱりあの成哉の野郎、裏でろくでもないことばかりしてやがったか!あんな奴、あの時股間を蹴り上げて再起不能にしてやればよかったんだ。男として機能しなくなってもまだ女遊びができるのか、拝んでやりたいぜ!」正造は深く重いため息をつき、心配そうに孫二人を見つめた。「亮、落ち着きなさい。今は紬ちゃんの考えを尊重するんだ。我々が彼女の足まといになってはいけないよ」今回の件で、成哉の非道さはもちろんのこと、天野家の人々の冷徹な振る舞いには、正造も心底愛想が尽きていた。芽依が紬をあの荒廃した場所へ誘い出した事実を、彼らが知らぬはずはない。それにもかかわらず、あの日、誰一人としてそのことに触れようとはしなかった。正造がなぜ紬がそんな場所へ行ったのかと問うても、彼らはただ、その場しのぎの言葉で誤魔化すばかりだったのだ。――紬はこれまで、あまりにも多くの理不尽に耐え忍んできた。この先短い余生を賭してでも、これからの紬の人生を平穏で光に満ちたものにしてやらねばならない。と正造は静かに、しかし固く心に誓った。紬は二人の前にそれぞれ水を置いた。「成哉の不倫の証拠は、ずっと前から集めてきたわ。安心して。もし天野家が裏で卑怯な真似をしてきても、無策で挑むつもりはないから」亮はコップを受け取ると、力強く頷いた。「分かった。あいつらがまたお前を虐めるような真似をしたら、すぐに俺を呼べ!家の電話でも何でもいい、必ずだぞ!」その言葉に、紬の硬い表情がわずかに和らいだ。「ええ、必ずそうするわ」正造の体調は芳しくなかった。毎月決まった定期検診があるのだが、今月は紬の事件が重なり、受診のために海原へ戻ることができずにいたのだ。紬は、これ以上新浜に留まるべきではないと判断した。彼女は成哉に対し、区役所での待ち合わせ日時を一方的に送りつけると、再び彼のアカウントをブロックリストへと叩き込んだ。海原の空港に降り立つと、ロビーの向こうから背の高い二人の女性が手
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第212話

レイがサングラスを外した。その美しい瞳は、驚くほど無惨に腫れ上がっている。一目見ただけで、彼女がどれほど泣き明かしたかが痛いほど伝わってきた。紬が言葉を失い立ち尽くしていると、その視線を受け止めたレイの目尻から、再び大粒の涙がボロボロと溢れ出した。紬は胸を締め付けられる思いで眉をひそめ、慌てて問いかけた。「レイ、どうしたの?誰かに何かされた?まさか、あの剛の仕業じゃ……!」レイは涙を拭いながら、たまらずといった風に吹き出した。「違うのよ……ただ、あまりにも嬉しくて」紬の訃報を突然知らされた時、彼女はまだ映画祭の準備のために海外にいた。三日前、強引にでも帰国しようとしたレイだったが、事務所からの烈火のごとき圧力に抗うことは叶わなかった。今日、レッドカーペットを歩き終えたその足で、彼女は深夜便に飛び乗り、最短の時間で戻ってきたのだ。機内でもずっと紬の写真を見つめては、二人の思い出を辿り、止めどなく涙を流し続けた。――なぜ、善き人ほど早く逝ってしまうのか。なぜ、自分に優しさを向けてくれる人たちが、一人、また一人と消えていくのか。絶望の淵で、彼女は紬の「死」に対する、苛烈なまでの復讐劇を心に描いていた。最後の手を打ち終えて剛を地獄へ叩き落としたら、あのあざとい女、望美も道連れにして、あの世で紬に詫びを入れさせてやる、と。紬がそっと彼女の背中を叩くと、レイは耳元で低く囁いた。「……三年以内に望美の仕事をすべて奪い取って、あいつを完全に干してあんたの仇を討つ準備、もう済ませてたんだから」紬は思わず、小さく笑みを漏らした。不器用な彼女なりに、それが紬のために捧げられる精一杯の弔いだったのだと理解できたからだ。美咲も微笑を浮かべて言葉を添えた。「信じていいわよ。この子、本気だったんだから」紬がいなかった数日間、美咲は深い不眠症に陥っていた。二人の共通の友人として、夜になると決まってレイから国際電話がかかってくるのだ。夜通し二人で思い出を語り合い、最後はレイの喉が枯れるまで泣き伏して通話を終える。そんな日々が続いていた。それを知れば知るほど、紬の胸は自責の念で疼いた。あの成哉という男から逃げ出したい一心だったとはいえ、これほど自分を慈しんでくれる人々を巻き込み、苦しませてしまった。
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第213話

紬は瞳を潤ませながら、静かに頷いた。「わかったわ、お兄ちゃん」亮の言葉に異を唱えることはなかったが、その胸の内では、祖父の老後の備えを何としても全うしようと固く決意していた。かつて天野家に身を寄せていた頃、紬には二人の子供の養育費以外に、自由になる金などほとんど残されていなかった。祖父の余生を支えたいという願いは、当時の彼女にとって、あまりに切実で、あまりに手の届かぬ夢に過ぎなかった。例年、お盆休みの帰省のたびに、密かに貯め続けた一年分を包んで手渡すのが、彼女にできる精一杯の親孝行だった。祖父は彼女の慈しみを汲んで一度は受け取ってくれるものの、別れ際になると、その倍以上の額を「お小遣い」として彼女に返す。そんな、切なくも温かなやりとりが続いていた。けれど、もうすぐ自由の身になれる。自分の手の届く範囲でいい、かけがえのない家族には、少しでも心穏やかな暮らしをさせてあげたかった。亮は正造を連れて実家へ戻ることになり、紬が同行するのを優しく制した。「お前はここでゆっくり休んでいろ。このところ、ずっと気を張っていただろう。何度も言うが、おじいちゃんのことは俺に任せておけ。いいな」亮は紬をマンションまで送り届けると、念を押すように言い含めた。「ええ、わかってるわ、お兄ちゃん」紬はスーツケースを手に取り、去りゆく彼に手を振った。「道中、気をつけてね」エレベーターを待つ間、紬は表示灯が6階から1階へと降りてくるのをじっと見つめていた。そろそろ、神谷おじいさんがお散歩に出る時間かしら。扉が開いたらすぐに挨拶ができるよう、紬は心の中で微笑みを整える。チーン――「神谷おじいさ――」明るく呼びかけようとした紬の声は、不意に途切れた。箱の中に佇んでいたのは、期待していた浩之ではなく、彫刻のように端正な顔立ちをした男だったからだ。理玖は片方の眉をわずかに上げた。「おじいさん?」紬はきまりの悪さに、瞬く間に頬を朱に染めた。――えっ、どうして彼がもう戻ってきているの?今朝、別れ際に文人から、彼はまだ新浜に残って一週間ほど公務をこなすはずだと聞いていたのに。「いえ……神谷おじいさんだと思ったものですから」「誰だ?私を呼んでいるのは」そこへ、外から張りのある快活な声が響いてきた。姿が見えるよりも先に、
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第214話

「ゴホッ、ゴホッ……!」紬は激しくむせ返った。「あのう、それは……」「どうした?老けて見えるか?それとも面構えが気に入らんか?見た目こそ不細工だが、実は君より数歳上なだけなんだ。それに、今の若者の言葉で言えば、この歳まで『母胎ソロ』だからな。一途な純愛が楽しめるぞ。こいつが先に死ねば、莫大な遺産も転がり込んでくるしな」浩之はこれでもかと熱を込めて、孫を売り込んだ。彼が言葉を重ねるごとに、理玖の眉間の皺は深まっていく。紬はそれを聞くたびに、寿命が縮まる思いだった。――はぁ……このお顔を拝んでおいて『不細工』だなんて言ったら、バチが当たってしまうわ。だが、理玖はすでに既婚者のはずだ。紬は、フライパンの底のように真っ黒に沈んだ男の横顔を盗み見た。なぜ、結婚していることを祖父に伝えないのか。最初から話してさえいれば、こんな奇妙な誤解も生まれなかったはずなのに。返答に窮する紬をよそに、浩之はしびれを切らして理玖を急かした。「お前も何か言わんか!紬ちゃんへの印象はどうなんだ?」「お気持ちは嬉しいのですが、神谷さんとは……」紬がどう断るべきか迷っていると、ふと不安がよぎった。理玖のあの性格だ。「おじい様がそんなに気に入っているなら、ご自身でお見合いでもすればいいでしょう」などと言い出しかねない。その光景を想像しただけで、あまりの気まずさに足の指が丸まりそうだった。長い沈黙の後、浩之に促された理玖がようやく口を開いた。「紬さん。おじい様は君をひどく気に入っているようだ」紬は背筋が凍る思いだった。――来た。やっぱり、そうやって突き放すのね……「私……まだ独身に戻っていませんし、お見合いをするつもりはありません」「……近いうちに、一緒に食事でもどうかな」二人の声が重なった。そして、視線が真っ向からぶつかる。紬の頬が一気に熱を帯びた。ちょうどエレベーターの扉が開いたのを幸いに、紬は「では、また!」とだけ言い残し、逃げるようにその場を後にした。「こら、出来損ないめ。紬ちゃんに何をした?あの怯えようを見てみろ」浩之は小型犬を抱き上げ、愛おしそうにその毛並みを整えた。理玖は呆れたように吐き捨てた。「彼女を怖がらせたのは、どう見てもおじい様の方でしょう」「はあ!?何
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第215話

翌日、紬は泥のように、翌日の昼過ぎまで眠り続けた。目を覚ますと、家中の大掃除を徹底的にこなした。夜の八時には、美咲、そしてレイと合流し、レストラン「宵庭」で顔を合わせる約束をしていた。ここ最近の忙しさのせいで、この隠れ家的なレストランからも、随分と足が遠のいていた。かつて、この店のオーナーが自分のために毅然と立ち上がってくれた光景は、今でも鮮明に脳裏に焼き付いている。七時を回った頃、三人は「宵庭」の前で落ち合った。しかし、目に飛び込んできたのは「臨時休業」の札が下げられ、固く閉ざされた扉だった。三人は思わず顔を見合わせる。「紬、どうやら神様があなたの財布を守ってくれたみたいね」美咲が冗談めかして言うと、紬は苦笑いを返すしかなかった。「ただの食事じゃつまらないわ。いっそ、もっと刺激的な場所へ行かない?」レイが通りの斜め向かいにあるバーを見つめ、期待に満ちた眼差しを二人に向けた。「二人とも、いける?」「いいわよ、私は全然オッケー」美咲の快諾に対し、紬は少し不安げに尋ねた。「パパラッチに追いかけられたりしない?」レイは前回の蒼星賞以来、時の人として常にトレンドの渦中にいる。日常の些細な振る舞いさえもが、大々的に書き立てられる身だ。これまでも何度か食事の計画を立てたが、結局はパパラッチを警戒して断念してきた。だが、今日の紬の「再出発」を祝う席は特別だった。レイはマネージャーの優一を粘り強く説得し、ようやくこの自由な時間を勝ち取ったのだ。「来るなら来ればいいわ」レイは手慣れた手つきでサングラスとマスクを装着した。「絶対に寝ちゃいけない相手と不倫でもしない限り、あいつらだって大した写真は撮れやしないもの」「ふふっ、何それ」紬は思わず吹き出し、結局、レイの提案に乗ることにした。三人は連れ立ってバーに足を踏み入れ、ボックス席を確保した。店内は薄暗く、落ち着いた音楽が流れるライブバーのような情緒があり、想像していた騒がしさとは少し趣が違っていた。三人はメニューを熱心に読み込み、最終的に「五品一汁」という、およそバーには不釣り合いなほどボリュームのある食事を注文した。「そうだ、つけ麺も追加して。ここのつけ麺、すごく美味しいって評判なのよ」待ちきれないといった様子でレイが弾んだ
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第216話

紬はソファに背を預け、目を細めて相手を射抜いた。薄暗がりの中、剛の顔はひどく険しく沈んでいる。さながら地獄から這い上がってきた幽霊のようだった。紬は視線を逸らすと、彼の言葉を無視し、何事もなかったかのように酒を煽り続けた。剛が陰の中から歩み出ると、その瞳に宿る殺気が一気に噴き出した。「新浜であれだけの大騒ぎを起こして、皆を心配させて……それで満足か?」紬は最後の一口を飲み干すと、短く答えた。「ええ、満足よ」「紬、お前はどこまで卑しいんだ!」剛が怒鳴りつける。紬は思わず失笑した。「西園寺さん、私のために泣いてくれたの?それとも喪に服してくれたのかしら?随分と過剰な反応ね。息子が成長したのかと思ったわ」剛は苛立ちを露わにした。「この女、どこまで毒づけば気が済むんだ!どうしても成哉にしがみついて離れないつもりか!?親友から男を奪い取ってまで!」紬の笑みは次第に冷え込み、グラスを揺らしながら軽やかに言い放った。「親友?西園寺さん、どこでそんなガセネタを仕入れてきたの。それを『親友』と呼ぶなんて、その言葉が泣くわ」紬の望美との付き合いは、小学校まで遡る。あの頃なら、かろうじて二人の関係を「親友」と呼べたかもしれない。だが中学に入り、望美の家が倒産して彼女が転校してから、すべてが変わってしまった。。高校で再会した時、昔のまま親友でいられると思っていた。けれど望美は、その頃からすでに、紬を陰に陽に「比較対象」と見なしていたのだ。あらゆる面で張り合い、あらゆるものを奪おうとした。真綿で首を絞めるような、じわじわとした嫌がらせ。それに勝る精神の消耗はない。剛は冷たく紬を一瞥し、口を閉ざした。「なぜ成哉にしがみつくのかって?主語と述語が逆よ。彼が本当に望美を愛しているなら、彼女に『不倫女』なんて汚名を着せたままにするはずがないでしょう」紬が目を細めて微笑むと、その一言に剛は反論できず、絶句した。ここ数日、ネット上ではこの話題が持ち切りだ。剛は悪意ある書き込みを必死に抑えようとしたが、裏で誰かが糸を引いているのか、火の勢いはまったく収まらない。葬儀での出来事も、すでに耳に入っている。望美は天野家のため、そして紬のためにと善意で動いたはずなのに、当の本人はここで平然と酒を飲んでいる。
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第217話

「白石さん、これほど手間暇かけて私に語りかけてくださるなんて」紬は言葉を切り、渚の読み取れない表情を見つめた。「西園寺さんの知能の低さを教えたいのか、それとも、望美のために男を一人恵んでやれとでも言いたいのかしら」渚は極めて複雑な眼差しを彼女に向け、最後に「自業自得にならないようにな」という一言を残してボックス席を去った。紬はスマホの録音停止ボタンを押した。――つまらない。本当につまらない。あと二言三言引き出せれば、証拠としての完璧さは揺るぎないものになったはずだ。剛のさっきの拳がもし飛んできていたら、護身用のスタンガンで彼のあそこを半身不遂になるまで痺れさせてやったのに。それはそれで、いい供養になったはずだ。レイが将来、いつか「女なら誰でも犯すような過ち」を犯したとしても、それは情状酌量の余地があるというもの。紬は中身がただの水だったグラスを置いた。美咲とレイがまだ戻らないのを不審に思い、ウェイターに声をかけて席をキープさせたまま、お手洗いへと向かった。「何をするつもり!?言っておくけど、これ以上手を出したら通報するわよ!」「姐さん、通報なんて言葉で俺らがビビると思うなよ!遊びに来てるんだろ、しおらしいフリはやめな。俺らが気持ちよくしてやるからよ」男女の激しい言い争いが聞こえ、紬は不穏な空気を感じ取った。洗面所の入り口で、美咲とレイが五人の男たちに悪意を持って囲まれていた。その見るからに柄の悪い男たちは、社会の掃き溜めのような連中だった。「失せなさい!直腸と脳みそが直結してるような奴は、私の前で格好つけないで!」レイのサングラスが男の一人に奪われ、彼女は激昂していた。「おっ、あのスターに似てていい女じゃねえか。こりゃ、ヤる時はしっかり記念映像を残さないとな」男の下卑た笑い声が響く。紬は通報してから警察が来るまでの時間を計算した。これ以上聞いてはいられない。彼女は消火器をひっ掴むと、男たちに向かって投げつけた。「くたばれ!」男はまともに喰らって悲鳴を上げ、よろめきながら膝をついた。他の数人は予想外の事態に、顔からにやけ面が消えた。「どこのどいつだ、邪魔しやがって!なんだ、他の女が可愛がられてるのを見て、自分も混ざりたくなったか?そんな風に気を引かなくても、イキたいなら
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第218話

紬は渚と共に救急車に乗り込んだ。美咲とレイは、事情聴取のため警察署へ向かった。道中、渚の顔は血まみれだったが、その口はやけに饒舌だった。「紬、自分を責めないで。あんな状況なら、誰だって助けに入るよ。傷は見た目が派手なだけで、実は大したことないんだ。処置が終わるまで、待っていてくれないか?少しの間でいいんだ」外科の急診室に運び込まれる直前、渚は不意にそう頼んできた。紬は不可解に思ったが、自分たちのために体を張ってくれたことを考え、頷いた。「わかった」渚はようやく安心したような表情を見せ、医師によって診察室へと運び込まれていった。ドアが閉まった瞬間、男の顔から先ほどまでの優しく可憐な表情が消え去った。――やはり、この手は何度やっても面白いほど決まる。女という生き物は総じて情に脆い。特に紬のような、愛に飢え、男のわずかな善意に全霊で縋り付くようなタイプはなおさらだ。彼女は、自分がかつて成哉に救われたあの夜の再現をさせられていることにすら、気づいていない。道中、あんなに心配そうな顔をしていた彼女を思い出し、渚は愉悦に浸った。――望美が新浜で受けているあの激しいバッシングを、この女だけが涼しい顔で逃げ切れるはずがない。望美を不倫女に仕立て上げて成哉と離婚しようなど、虫が良すぎる。ならば、こちらも相応の報復をしてやるまでだ。看護師は、渚のあまりの変貌ぶりにぎょっとした。処置の手をさらに慎重にする。よく見れば、男の体は血だらけだが、傷口はどれも浅い。むしろ、あらかじめ計算して作られた傷のようにも見えた。「……脚にギプスを巻いてくれ」渚は、最終的な包帯の仕上がりに不満げに言った。看護師は困惑した。「お客様、お脚は軽傷ですので、そこまでは必要ありませんが……」「院長を呼んでこい」――病室の外で、紬はポケットから取り出した血糊のパックを指先で弄んでいた。ふと、彼女の口角がゆっくりと上がった。――あんな下手な芝居で、私を騙せると思っているのかしら。さっきの暴漢たちの怒鳴り声はやけに迫力があったけれど、いざ手を出してみれば、動きがぎこちなく、急所を避けていた。誰一人として、渚の顔を殴ろうとはしなかった。この男が偽善を剥き出しにしてまで仕組んだ、この茶番。一体何を企んでいる
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第219話

そう言うと、渚は顔に痛ましげな表情を浮かべる女を見つめた。だが心の中では、冷ややかに鼻で笑っている。――チョロいもんだ。これほど簡単に感動するとはな。何の歯応えもない。馬鹿な女だ。紬は仕方なさそうに口を開いた。「……わかった。お引き受けするわ」――一品につき十万円。ふん、なんて絶好のカモかしら。紬には、彼に「家庭の温もり」を感じさせてやるような暇などない。その辺の出前でも適当に注文して、体裁だけ整えて出せばいい。これほど割のいい稼ぎはない。全身に傷を負いながらも、渚は念を押すことを忘れなかった。「今日はもう遅いから、先に帰って。必ずタクシーを呼ぶんだ。女の子が一人で夜道を歩くのは危ないからね」「ありがとう」紬は何かを言いかけて、言葉を飲み込んだ。渚はその様子を察して、優しく問いかける。「どうした?」紬は首を振った。「いえ、何でもない。白石さん、どうして私を助けてくれたの?」――来たな。渚の瞳に一瞬、光が宿る。「大したことじゃないよ、紬さん。他意はない」「いいえ、そういう意味じゃない」紬は慌てて付け加えた。「西園寺さんの手から私を救い出し、友人たちまで助けてくれたじゃない。でも、私の立場はご存知のはずだわ。あなたが望美を想っていることも知っている。だから、解せないの……」渚は青ざめた顔に、無理やり作ったような笑みを浮かべた。「紬さん、忘れないで。望美は私の親友だが、成哉もまた親友なんだ。彼の妻が困っているのを見て、見捨てられるはずがないだろう?」――疑念を抱かれるのは想定内だ。むしろ、何も言わずに無条件で受け入れられる方が、仕掛ける側としてはやりづらい。紬の攻略難易度は、想像していたよりもずっと低いようだ。現に今、その言葉を聞いた彼女の瞳は、感謝の色でキラキラと輝いている。紬にこれほどリアルな演技ができるはずがない――と、渚は確信した。紬は彼を病室まで送り届け、そのまま残った。夜が明ける頃、渚の傷が悪化していないことを確認すると、彼女は足音を忍ばせて病院を後にした。彼女が立ち去ると同時に、渚は目を開けた。――ふん、無駄な真似を……病院にはナースコールがある。何かあればボタンを押せば済む話だ。こんなに愚かなら、あの成哉も多少なりとも情に
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第220話

紬は渚からのフレンド申請を承認した。追加した途端、相手から112,200円の送金が届く。【ごめん、カードの利用制限がかかってしまって。まずは食費の一部として送っておく】紬は眉を上げた。――本当に策士ね。こんなにも微妙な金額――あとで汚名を着せるにしても、返金を要求するにしても、法律上もっとも有効な証拠になり得る数字だ。【白石さん、あなたは私を助けるために重傷を負ったのだから、料理を作るのは当然のことよ。このお金は受け取れないわ】しばらく返信はなかった。紬はわざと、先ほど出前アプリで注文したセットメニューをそのまま彼に伝えた。すると次の瞬間、今度は五十万円が送られてきた。【別のカードを紐付け直した。紬さん、どうか受け取ってくれ。さもなければ、この料理を食べる時に私の良心が痛みそうだ。お話しした通り、私は料理を食べているのではなく、センチメンタルを食べているのだ。この対価には、それだけの価値がある。お願いだ】紬は今度は拒まなかった。口角をわずかに上げ、送金受取のボタンをタップした。――「センチメンタル」なんて言葉まで持ち出すとは、彼もなかなか苦労しているらしい。毎日適当に出前を頼むだけで、五十万円近い大金が転がり込んでくる。この苦労人ごっこが、少しでも長く続くことを、彼女は密かに期待した。――病院にて、渚は紬が送金を受け取ったのを確認し、満足げな笑みを浮かべた。――それでいい。そこへ、病室の外から嫌味な声が聞こえてきた。「おやおや、我らがトップデザイナーの渚先生が、ずいぶんと惨めな姿じゃないか。ボコボコにされて、付き添いの一人もいないとはね」剛が、見るからに安っぽいフルーツバスケットを棚に置き、嘲笑を浮かべていた。渚は不快そうに言った。「帰る時に、そのバスケットも持って行け」「ずいぶん慎重だな。本気で紬を釣るつもりか?」剛は渚を上から下まで眺めた。なかなかの迫真の演技だ。昨夜、渚から「一芝居打つのに協力してくれ」と言われ、剛はあえて悪役を買って出た。――ふん。紬の奴には、危うく爆発しそうなほど腹が立ったがな。救いようのない女だ。渚の眼差しは冷ややかだった。「他にいい方法があるか?彼女のせいで、望美がどれだけの罵声を浴びているか分かっているだろう。このま
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