All Chapters of 協議離婚したら、忘れていた夢が叶い始めた: Chapter 101 - Chapter 110

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第101話

その言葉は、ちょうど個室へ入ってきた蒼介と涼平の耳に入ってしまった。涼平は呆れた顔で元を見た。「おい元、何を考えてるんだ。せっかくの食事の席なのに、杏奈の奴を呼ぼうとしてどうするんだ。せっかくの雰囲気が台無しだろ」何かを思い出したように、涼平は言葉を継ぐ。「蒼介もさっき、杏奈をじっと見ていたろ。あの女をどれだけ嫌ってるか知らなかったら、よりを戻したいのかと勘違いするところだったぜ」言った本人に悪意はない。だが、蒼介の胸にはチクリと刺さった。小春の隣に座っていた紗里が静かに顔を上げ、探るような口調で言った。「蒼介。彼女は小春ちゃんのお母さんなんだし、せっかく見かけたのに挨拶もしないのはどうかと思うわ。挨拶くらいしてきてもいいんじゃないかしら?」他の者が口を挟む間もなく、涼平がすかさず割り込む。「いやいや、紗里さんまで何言ってんだ。あの人が来たら絶対に空気が重くなるだろ?」「いいから、お前は黙ってろ」元は涼平の言葉をピシャリと遮ると、蒼介に向き直った。「俺も紗里と同じ考えだ。せっかくみんなで飯を食いに来てるんだし、一緒でもいいじゃないか」正直なところ、元自身にも自分の気持ちがよくわかっていなかった。あの日、杏奈に助けられて以来、ふとした拍子に彼女の姿が脳裏をよぎるようになっていたのだ。思い出すたびに、あの日の彼女の言葉や態度に腹が立つというのに――それでも、気づけばまた考えている。当初は、ただの気の迷いだと自分に言い聞かせていた。命の恩人を気にかけるのは当然で、どうやって恩返しをするか考えているだけなのだと。そんな思いも、二、三日もすれば消えるものだと思っていた。円香が杏奈を連れて「浮気現場」に乗り込んだあの夜、元が前に出ず、会場の隅からただ傍観していたのもそれが理由だった。彼女を目にするたび、なぜか鼓動が早くなる。複雑で、どこか慣れないその感覚に、元は戸惑いを覚えていた。しかし今日、杏奈と再会した瞬間――とりわけ、彼女が見知らぬ男と笑顔で言葉を交わしているのを見た瞬間、ずっと抑え込んでいた感情の堤防が一気に決壊した。もう、どうにも止めようがなかった。そこで元は、さりげなさを装い小春から電話をかけさせてみた。しかし、繋がらない。それが今のこの騒動へと繋がったわけである。彼らのやり取りを聞いていた蒼介は、さして反
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第102話

紗里ちゃんがママになってくれたら、毎日遊びに連れていってもらえる――そう想像しただけで、小春の胸は高鳴った。だが直後、波のように迷いが押し寄せてくる。「じゃあ、今のママはどうなるの?」紗里ちゃんのことは大好きだ。けれど、ママにお世話されるのが嫌なわけでもない。正直に言えば、杏奈がいなくなってから、小春はずっと寂しかった。家に帰れば、いつも杏奈の細やかな気遣いが待っていたのに、今は安達たちお手伝いさんしかいない。夜、広いベッドにひとりで横たわる感覚――あの寂しさを思い出すだけで、胸がぎゅっと苦しくなる。もう二度と、あんな思いはしたくなかった。涼平は小春の複雑な心境など知るはずもなく、軽く笑って言った。「お前のママ?もう『紗里ちゃん』がお前のママじゃないのか。他のママなんて、もういないだろ?」「ううん、あのママのことを言ってるよ」小春は首を振った。「あー、そういうことか」涼平は得心したように頷き、さらにからかった。「でも杏奈のことが嫌いって言ってたじゃないか。やっといなくなってくれるのに、今更寂しいのか?」「あたし……」紗里に誤解してほしくなかったから、寂しくなんてないと、言い返そうとした。でも、これからママがどうなるのか、もう自分の世話をしてくれないのかがわからず、どうしても言葉に詰まってしまった。その一瞬の迷いを、紗里は見逃さなかった。自信に満ちていた微笑がわずかに引きつり、小春を見つめる視線にほんのりと翳りが差す。「もういい加減にして。小春ちゃんが泣きそうじゃない」紗里は小春を引き寄せると、優しく抱きしめた。小春はその腕の中に顔を埋め、ぎゅっと身を縮める。涼平おじさんはもう……意地悪なことばっかり言うんだから。誰も気づかないうちに、杏奈がいなくなったという事実が、小春の中で何かをひっそりと変えていたのだ。以前の小春だったら、迷わず紗里を選んでいたはずなのに。涼平は鼻の頭を掻き、ばつが悪そうにした。「悪い悪い。小春ちゃん、もう怒らないでくれよ。今度プレゼント買うから、それで許してくれないか?」「ママがどうなるか、まだ教えてくれてないもん」小春はふくれっ面で、ふてくされたような声を漏らした。ママがどうなるのか分かれば、こんなにモヤモヤしないのに。「そりゃあ、お前たちから離れていくんだろ」涼
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第103話

蒼介たちが昔やりすぎたせいで、元までとばっちりを受ける羽目になった。「ちょっと待てよ!」涼平も声を荒げた。「来ないなら来ないで別にいいだろ。無理に呼ばなくてよかったんだし。なんで俺に当たるんだよ?」「俺は今むかついてんだよ、悪いか?」元はもともと気性が荒い。そこへ杏奈に断られた落ち込みが重なって、涼平の一言が、導火線に火をつけた。「むかついたって、俺たちに当たっていいわけないだろ」「当たって何が悪い?」二人の口喧嘩が始まった。その様子に、紗里は静かにこめかみを押さえた。一方の蒼介は、小春を抱いたまま元をちらりと見ただけで、最初から最後まで表情ひとつ動かさなかった。まるで、この騒ぎの根っこにいる杏奈など、全く意に介していない様子で。「うわぁ……パパ……」小春が泣きじゃくった。大粒の涙がぽろぽろと零れ落ち、しゃくりあげながら訊いた。「ママ、本当にもうあたしのこと、見捨てちゃうの?」自分がここにいるって知ってるのに、どうして来てくれないんだろう。「そんなことはない」蒼介は無言でその涙を拭った。「でも……」小春はしゃくりあげながら言葉を続ける。「いつもなら、すぐ飛んできてくれたのに、今日は来なかった」ずっと放っておかれた寂しさ、見捨てられるかもしれない恐怖。それらが一度に押し寄せて、小春はもう限界だった。どうしていいかわからなかった。今すぐ、ママが自分を一番大切にしてくれているという言葉が聞きたかった。そうすれば、また以前のようなママに戻ってくれる気がしたのだ。しかし蒼介はそういう言葉はかけず、いつも通りの静かな口調で言った。「今は忙しいのかもしれない。用事が終わったら、きっと会いに来るよ」「ほんとう?」小春は縋るように訊いた。蒼介は気のない返事をした。「たぶんな」はっきりとした答えをもらえなかった小春は、居ても立っても居られなくなり、蒼介の腕の中から抜け出した。自分で確かめなければと、弾かれたように外へ駆け出した。だが、戻ってきた時には、もっとひどく泣いていた。「うわーん!パパのうそつき!ママ、来てくれるって言わなかったもん。もう帰っちゃったんだよ!あたしに会いに来る気なんて、全然なかったんだよ!」……「行きたくない」夜の街灯の下、杏奈の表情は静かで、どこか感情をどこかに置き忘
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第104話

「ちょっと、用事があるの」杏奈は静かに答えた。「ママ!」その声に滲む冷たさを敏感に感じ取った小春は、焦燥に駆られて訴えかけた。「ちょっとだけでいいから帰ってきてよ。パパもお仕事でお家にいないし、今、うちにはあたしひとりだよ。怖いよぉ」小春はベッドで布団にくるまりながら、電話をかけていた。杏奈はそっと唇を噛む。それでも、頷くことはなかった。「怖いなら、安達さんに一緒にいてもらいなさい」「でも……」「もういいわ。私もそろそろ寝るから、あなたも早く寝なさい」小春が言い終わらないうちに、杏奈は通話を切った。明日からは、ルミエールへの正式な出勤が始まる。今夜はしっかりと英気を養わなければならないのだ。杏奈が深い眠りについた頃。一方の吉川家では、電話から流れる無機質なツーツーという音を聞きながら、小春がとめどなく涙を流していた。付き添う安達は、すっかり頭を抱えてしまっている。「旦那様。小春ちゃんがひどく泣いておりますが、お戻りになれませんか……」「目を離さないようにしてくれ。泣き疲れたら眠るだろうから、それで大丈夫だ」蒼介はろくに言葉も返さず、一方的に通話を切ってしまった。安達は杏奈にも電話しようかと考えたが、しばらく迷った末にやめておいた。奥様……いえ、三浦様は、もう縁の切れたお方なのだ。こんなことで、彼女の新しい生活を乱すのは忍びない。安達は諦めの溜息をつき、いくらあやしても泣きやまない小春をなだめ続けた。最後は蒼介の言った通り、小春が泣き疲れて眠りに落ちるまで、ずっと傍に付き添っていた。当の杏奈といえば、小春の世話から解放されたおかげか、久しぶりに深く安らかな眠りにつくことができた。翌朝、夜も明けきらないうちから、すっきりとした気分で目が覚める。「気持ちいい……」杏奈はぐいっと大きく背伸びをした。ベッドから抜け出して洗面を済ませ、服を着替えて家を出る。……「おはよう、杏奈〜!」突然声をかけられ、杏奈は顔を上げた。那月が、こちらへ歩いてくるところだった。「こんなに早く来たなら、まだ何も食べてないでしょ?ちょうど多めに買ったから、一緒にどう?」何気ない誘いの言葉に聞こえる。だが、冷静に考えれば不自然な点ばかりだった。なぜ那月は、杏奈がまだ朝食を食べていないとわかったのか。それだけで
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第105話

「どうしたの?」那月が固まっているのを見て、杏奈は不思議そうに首を傾げた。「あっ、ううん、なんでもないよ」那月はどうにか笑顔を繕った。美南から聞かされた杏奈の境遇は相当悲惨なものだったけど、まさか自炊を強いられるほどの生活だとは思わなかったから。杏奈はそれ以上気に留めることなく、再び自分の世界へと没頭していった。やがて九時になり、デザイン部の面々が次々と出勤してくる。自分の席に着いても、皆の視線がちらちらと杏奈の方へ向いていた。さすがに気づかないわけにもいかず、杏奈は苦笑交じりに冗談めかして言った。「なんでそんなに見てるの?」「杏奈さん。みんな、指示を待っているんですよ」「指示ですって?」杏奈は虚を突かれた。「何の指示?」「デザイン業務についてですよ」答えた社員は当然のように言った。「うちは、個人制作のほかに、看板商品である『ジュエリーシリーズ』が業務の要ですから。真紘さんがいた頃は、シリーズごとに仕事を割り振ってくれていたんですけど……」昨日、真紘はすでに会社を去り、自分の意思もはっきりと示している。今進めているシリーズをこのまま続けるべきかどうか、誰も独断で進めるわけにはいかないのだ。だから、杏奈からの指示を待つしかなかった。「そう……」杏奈も即断はできなかった。ひとまず保留にした。「ちょっと待ってて。アイデア出しをするとか、他の作業を進めておいてもらえるかしら?この件は確認してからまた話すから」「わかりました」……杏奈は秘書に案内され、社長室へと入った。「どうしたんだ?」裕司は少し驚いた様子で杏奈を見た。「何か問題でもあったか?」「私ではなく、デザインの方で少し問題があって」杏奈は事の経緯を説明し、裕司の向かいのソファに腰を下ろした。「金城真紘はいつ戻ってくるんですか?」「悪い。すっかり忘れていた」裕司はスマホを取り出し、真紘に電話をかけた。二回の呼び出し音の後、聞き慣れた声が聞こえてくる。「河原社長。引き継ぎに何か漏れがありましたか?」まだ完全に去る気でいるその口ぶりに、裕司は眉をひそめた。この男の性格は、少々頑固すぎる。「金城、もう一日経ったぞ。まだ気持ちは落ち着かないのか?」「一時の感情で言っているわけではありません。本気で言ってるんです」「今の仕事を放り出して、
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第106話

通話が一方的に切れ、無機質な音が静かなオフィスに響いた。「先輩。真紘がいなくなったら、会社にとって大きなダメージにならないですか?」杏奈は心配そうに尋ねた。辛い結婚生活のせいで、彼女は長年会社の経営から遠ざかっていた。それでも、ルミエールは自分が生み出した大切な場所だ。より良くしていきたいという思いは、いつでも変わらない。もし自分が一歩引くことで真紘を繋ぎとめられるなら、そうしてもいいとすら思っていた。杏奈の心中を察した裕司は、小さく苦笑した。「何を考えてるんだ。確かに彼が去ることは、会社にある程度の影響を与えるだろう。今、デザイン部が取り組んでいるジュエリーシリーズは、彼が中心となって打ち出したコンセプトありきのものだ。彼なしでは全体のまとまりが失われてしまう。ここまでかけた手間は無駄になるし、このまま完成させても意味はなくなるからな」「核」となるのは、唯一無二の独創性こそが命だからだ。世界に二つとない、そのシリーズだけが持つ輝きこそが命なのだ。中心にいた人間がいなくなれば、当然影響は出る。唯一性が失われた以上、元のシリーズを続ける意義も薄れてしまう。「ただ」裕司は力強く言った。「それほど大きな問題でもないさ。君がようやく戻ってきたんだから、これからはデザイン部を君が統括すればいい」「えっ、私が……」杏奈は、自分にそんな大役が務まるのか自信が持てなかった。暗く沈んだ七年間、彼女の心をすり減らしていた。かつて夢に向かって瞳を輝かせていた少女は、夫の無関心、娘の拒絶、吉川家の絶え間ない圧力の中で、本来の自分を、心の奥底に封じ込めてしまったのだ。あの痛みから逃れるために、心の奥深くへと自分の殻に閉じこもってしまったのだ。裕司は胸を痛めた。何か励ましの言葉をかけてやりたかったが、どんな言葉も空々しく響く気がした。杏奈が長年抱えてきた苦しみは、二言三言で語り尽くせるものではない。あの年月、彼女がどれほどの痛みの中にいたか――その絶望の深さを推し量ることなど、誰にもできはしないのだ。裕司は静かにため息をつき、それ以上は何も言わなかった。傷の中には、他人が安易に踏み込めないものがある。自分自身の手でしか癒せない傷を抱えた人間を、外から無理やり苦しみの淵から救い出すことなど、誰にもできないのだから。沈黙がオフィス
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第107話

那月には二つの思惑があった。杏奈の窮地に手を差し伸べて恩を売ると同時に、裕司が杏奈のために真紘を手放すはずがないという確信もあったのだ。真紘が打ち立てたメインコンセプト「スターシリーズ」のもと、デザイン部の全員が数ヶ月をかけて作り上げてきた作品群は、もう完成は目前に迫っている。こんな大事な局面で、彼を引き留めないはずがない。一石二鳥の完璧な算段だった。しかし、那月が言い終わる前に杏奈が口を開いた。「これより、デザイン部は私が統括します。これまでの制作を一旦すべて白紙に戻し、私の新コンセプトで進めていきます」一同はしばし呆気に取られた。真紘が去るとしても、せめて今のシリーズを完成させてから――誰もがそう思っていたからだ。那月の目の色がかすかに変わる。杏奈がチーフデザイナーになる可能性は考えていたが、まさかたった一日で抜擢されるとは。美南のところへ、今日もう一度顔を出さなきゃ。一介のデザイナーを相手にするのと、チーフデザイナーを相手にするのとでは、話がまるで違う。手に入るはずの蜜の味が、薄れてしまうではないか。「何か疑問や不満があれば、今のうちに言ってください」杏奈は、普段は見せない芯の強さを覗かせた。「実力やコンセプトを発表した後に協力を渋るようなら、その時は私ではなく、上層部を通してもらいます」誰のことかは、言わずともわかった。社長である裕司以外にいない。「ちなみに」一人が尋ねた。「その新しいコンセプトって、どんなものですか?」会社へ戻る道すがら、杏奈はすでに構想をまとめていた。その言葉は、まるで堰を切ったように滑らかに溢れ出した。「『茨』です。『ソーン・ティアーズ』シリーズと名づけます。茨は執念の象徴、涙は脆さと救済を表しています。美しさと痛みが絡み合い、呪いと救いが共に息づく。核心はただ一つ――痛みの中に宿る、究極の美です!」最後の言葉を口にした時、杏奈の声には静かな熱がこもっていた。まるで、彼女自身がその「痛みと美しさ」の中に立っているかのように。実際、そうだった。これは深く考え抜いた末、自身の辛い過去を糧にして生み出したコンセプトだったのだ。ある出来事をきっかけに、仮面夫婦としての生活が始まった。いつか彼の氷のように冷たい心を溶かせるはずだと信じ、その執念が彼女を長年縛り続けた。そしてあの日
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第108話

さまざまな声が飛び交う。杏奈は急がず、周囲が静まっていくのをじっと待ってから、ゆっくりと口を開いた。「光と闇、絶望と救済。その対比こそが、至高の調和だとは思いませんか?」杏奈は決して私情を挟むような人間ではない。自らの体験を、そのまま会社のデザインに持ち込もうとしたわけではなかった。茨を選んだのには、きちんとした理由がある。「この世界は、いつだって女性に厳しい。姉だから弟に譲りなさい、妻だから夫を支えなさい、母だから子どもを優先しなさい……女性は誰のためにもなれる。でも、自分自身でいることが許されない」静かな声が、凪いだ水面に波紋を広げるように染み渡っていく。デザイン部がしんと静まり返った。皆が耳を傾けながら、胸の奥にじわりと広がる、名前のつけられない痛みを感じていた。「このジュエリーを通して、伝えたいことがあります。世界中の女性たちに、痛みの中に宿る究極の美は、確かに眩い。けれど、絶望の中で自分自身を救い出すことの方が、ずっと尊いのだと。茨は彼女たちを傷つけ、縛り続けるかもしれない。でも、私は信じています。流すべきでなかった最後の涙を流し終えた時、彼女たちはその檻を穿ち、絶望の果てに新しい自分を見出せると」杏奈の語り口は、熱を帯びるどころか、最初から最後まで静かなままだった。しかし、その静かさこそが、かえって深く皆の心に突き刺さった。デザインに携わる人間、特に宝石デザインの分野には女性が多い。このデザイン部も例外ではなかった。杏奈の言葉を聞き終えた女性たちの胸の奥に、じわりと熱い火が灯った。自分自身がそういう経験をしたわけではなくても、同じ女性として、苦しみの中にいる誰かのために何かをしたいという気持ちが込み上げてきたのだ。数少ない男性デザイナーたちも、世間の女性の苦労話を耳にして笑い飛ばすような無神経な人間ではなかった。彼らは黙って俯き、それぞれの心に、ある顔を思い浮かべていた。それは、母親の姿だった。まるでスーパーヒーローのように疲れを知らず、帰宅すれば温かい食事が用意されていて、部屋はいつも清潔で――でも、ふと気づけば、力なくソファに身を沈め、疲れ切った横顔を見せている瞬間があった。家中を切り盛りして、腰を痛めながら、眠れない夜を何度過ごしてきたのだろうか。家事は決して楽なものではないと。ただ食器を
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第109話

「ダーク・ロマンスと古典的な優雅さ。ちょうど、絶望と救済に対応していますね」皆が深く頷きながら、一斉にペンを走らせ始めた。杏奈は続ける。「それぞれの作品は、古い御伽話から抜け出した『呪いの逸品』のように、抗いがたい美しさと致命的な毒を秘めたものにしてください。メインのネックレスは私が手がけます。リングやブレスレットなどは、それぞれ担当してもらえますか」杏奈はさらりと仕事を割り振った。「もちろん、もっと良いアイデアがあれば、どんどん出してください。話し合いながら進めていきましょう。私ひとりで決めるつもりはないので」皆が曖昧な作り笑いを浮かべた。先ほど誰かが素早くついていなければ、今頃は裕司の社長室に呼び出されていたかもしれない――などとは、口が裂けても言えなかった。「じゃあ、それぞれ作業に入ってください」杏奈がパンッと手を叩くと、席に戻ってスケッチを始める者、宝石の在庫を確認しに走る者、三人四人と固まって熱く議論を始める者と、デザイン部はたちまち活気に満ち溢れた。この一件はいつの間にか会社中に広まり、当初杏奈に向けられていた懐疑的な目は、いつしか「ルミエールの女傑」という賞賛へと変わっていた。彼女の発言を引き合いに出すたびに、誰かが必ず一言二言、褒め言葉を添えるほどだった。褒めないのは、杏奈の言葉に異論ありと同じ意味なのだ。そんなことを言える人間がいるはずもない。それに、身近に女性のいない人間などいないのだ。まさか自分が石の下からでも生まれてきたとでも言うつもりか。杏奈の言葉を聞いて、深く考え込む人もいた。母親のことを思い出す人もいた。一方で、そんなの当然のことだと鼻で笑う人もいただろう。世界とはそういうものだ。物事には必ず光と影がある――絶望と救済が、常に背中合わせであるように。……「なんか皆の視線が変だと思ってたら、そういうことだったんですね」昼休み、裕司と連れ立って外へ昼食に出た際、杏奈はようやくその噂話を聞かされた。向かいに座った裕司が、どこかからかうような笑みを浮かべる。「さすがは女傑。かつての君が、ようやく帰ってきたんだな」杏奈も思わず笑ってしまった。確かにそうかもしれない。ルミエール最大の株主として、所詮は皆を導く立場なのだから。「杏奈ぁ」中年男の、ねばつくような声が不意に割り込
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第110話

家庭が壊れる時、最も深く傷つくのは決して親ではない。大人には、自分を守るだけの力と狡さがある。しかし子どもは違う。見えない未来への恐怖を抱えながら、親たちが醜く争う様をその無垢な瞳で目撃し、そして――ほんの一瞬の出来事のようでいて、一生消えない傷が魂に刻まれるのだ。今、再びその男の顔を見た杏奈の表情は冷え切り、瞳の奥には冷ややかな光が宿っていた。「そう呼ぶ資格は、あなたにはない」「俺はお前の父親だ。自分の娘をそう呼んで何が悪い?」達也は悪びれる様子もなく言い返した。その面の皮の厚さには、呆れるのを通り越して吐き気すら覚えた。「娘?」杏奈の唇から、乾いた冷笑がこぼれ落ちた。「自分の娘を、妻ごと家から追い出して路頭に迷わせる『父親』が本当にいるの?愛人とその隠し子を、堂々と家に迎え入れる『父親』が?」その言葉に、達也の顔に浮かんでいた気まずさが、たちまち怒りへと変わった。「いい加減にしろ!」彼は怒鳴り声を上げた。「紗里の母親のことを、そんなふうに言うな。彼女は俺の運命の女だ。お前の母親とは、最初から何の意味もなかった。だから別れて彼女を選んだ。それのどこが悪いと言うんだ!」言われてみれば、紗里には確かに達也と同じ血が流れている。一方は正妻を追い出して愛人を堂々と家に入れ、もう一方は妻子ある男と知りながら、恥ずかしげもなく近づいていく。「どちらも厚顔無恥なところまで、本当によく似た親子だね」杏奈は嫌悪感を一切隠さずに言い放った。「このっ……!」達也は激昂し、大股で杏奈に詰め寄り、大きく手を振り上げた。かつて、藤本家は三浦家の足元にも及ばなかった。だから杏奈の母と結婚してからは、ずっと三浦家に頭が上がらず、卑屈に生きてきた。三浦家が溺愛する杏奈には手を出せず、慈しみ深い父親を演じ続けるしかなかったのだ。しかし、今は違う。三浦家は没落寸前で、杏奈の母はあの一件で心身を壊し、療養施設に入っている。一方で藤本家は吉川グループの後ろ盾を得て、右肩上がりだ。その事実が、達也の歪んだ自尊心を肥大化させていた。杏奈をひっぱたくくらい、何でもない。今日言うことを聞かなければ、痛い目を見せてやる。近づいてくる達也の目には、かねてからの醜い支配欲が滲んでいた。彼は端からこうするつもりだったのだ。自分の娘をどう教育しようが、親の
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