เข้าสู่ระบบ平日の夜、時計の針が十時を回った頃、部屋の中はほとんど音がなかった。
リビング兼寝室の六畳ほどのスペースに、エアコンの送風音と、冷蔵庫の小さな唸り声だけが、一定のリズムで流れている。天井近くに取り付けた間接照明を一段階落としてあるせいで、部屋全体は柔らかいオレンジ色に沈んでいた。
高橋翔希は、ベッドの上に仰向けになり、枕元に置いたスマホを片手で持ち上げていた。シャワーを浴びて、Tシャツとスウェットに着替え、コンビニのパスタとサラダで簡単な夕食を済ませたあと、特にやることもなく、この体勢に落ち着いている。
画面には、さっきから同じ動画サイトの再生画面が映っている。
「今日も見てくれてありがとうございます…」
明るい女の声と、軽快なBGM。よくあるカップルチャンネルの一つだ。画面の中では、若い男女が並んでソファに座り、「付き合って三年記念日のお祝いをします」とか何とか言っている。
翔希は、別にそのチャンネルの熱心なファンというわけではない。関連動画に出てきたものを、なんとなくタップしただけだ。ラーメンのレビュー動画を見ていたら、その次に「彼氏が作る〇〇ラーメン」みたいなタイトルが出てきて、それから芋づる式にカップル動画に流れ着いた。
画面の下に表示されている「おすすめ」の欄をスクロールすると、「同棲カップルのモーニングルーティン」「遠距離恋愛あるある」「彼女にドッキリしてみた」などのサムネイルがぎっしり並んでいる。
「…お前どんだけ恋愛押してくんだよ」
小さくつぶやいて、苦笑する。
動画サイトのアルゴリズムは、人の興味を勝手に決めつけてくる。仕事の合間にたまたま恋愛相談系の切り抜きを見たことがあったせいか、最近はやたらこの手のコンテンツが増えていた。
「幸せそうで何よりです」
皮肉とも本音ともつかない言葉が、喉の奥で転がる。
動画の中のカップルは、画面越しにも分かるくらい仲が良さそうで、冗談を言い合っては笑っている。コメント欄には、「理想のカップル」「尊すぎる」「こんな彼氏欲しい」といった文字列が並び、その合間に、ごくたまに「リア充爆発しろ」と冗談めかしたコメントが混ざる。
翔希は、画面をスクロールして、そのコメントをなんとなく目で追った。
「恋愛感情がよく分からないんだけど、こういうの見てると憧れる」
「今まで付き合った人いるけど、友達以上恋人未満みたいな感じから先に進めたことない」
「彼氏いるのに、この動画みたいなドキドキ感がない…私の感覚がおかしいのかな」
そんな文言が、ちらほらと目につく。
「…ふーん」
鼻から小さく息を吐き出す。
自分だけじゃないんだな、と、ぼんやり思う。
高校のときも、大学のときも、彼女がいた期間は何度かあった。デートもしたし、手も繋いだし、キスもした。周りから見れば、普通に充実している恋愛経験のはずだ。
けれど、「友達以上恋人未満から先に進めない」というコメントを見て、少しだけ胸の奥がざわついた。
恋人、というラベルは付いていた。でも、自分の中で相手の存在がどれくらいの割合を占めていたかと聞かれると、はっきりしない。楽しかったけれど、息が苦しくなるほど会いたかったかと言われると、違う気がする。
画面の中の誰かが、「会えないと死んじゃう」とふざけたコメントを読んで笑っている。それを聞きながら、「死にはしないだろ」と冷静に思う自分がいて、「そこまで思ったこと、俺あったっけ」と別の自分が問いかける。
指で画面を軽くタップし、動画を一時停止する。テレビのように勝手に流れ続けるこの時間を、一旦停止しておきたかった。
ホームボタンを押してアプリを閉じ、今度はSNSのアイコンをタップする。タイムラインには、仕事関係の情報、友人の近況、自撮り、ランチの写真、そして政治やニュースに関する投稿が入り混じって流れていた。
親指で画面を上から下へ滑らせていると、カラフルな写真が目に飛び込んでくる。虹色の旗を掲げた人たちの群れ。大きな通りを歩く行列。海外の都市の、プライドパレードの写真だった。
「今日は〇〇のプライドでした」「Love is Love」のような英語の文言が添えられている。その下には、ゲイカップルの生活を綴ったブログのリンクや、同性婚をめぐる議論のスレッドが続いていた。
翔希は、そういう投稿を積極的に追いかけているわけではない。たまたまフォローしている誰かがリツイートしたものが、タイムラインに流れてくるのだ。
虹色の旗を見ながら、「へえ」と小さく声が出る。
「みんな普通にオープンなんだな」
高校のとき、同級生にゲイやバイであることを公言しているやつはいなかった。少なくとも、自分の周りにはいなかった。大学でも、そう名乗る人間はほぼ見かけなかった。そういう属性の人たちは、どこか見えないところでひっそりと生きているものだと、なんとなく思っていた。
けれどSNSには、そういう人たちが普通に顔出しで登場して、日常を発信している。彼氏と手を繋いで歩く写真、旅行先で撮ったツーショット、ただの夕飯の写真。
そのどれもが、「特別なもの」ではなく、ただの生活の一部として映っている。
画面をスクロールしていると、「マッチングアプリで出会った彼氏と同棲始めました」という文言が目に入った。二人並んでソファに座っている写真。キャプションには、「最初は遊びかなと思ってたけど、今は一番の理解者です」と書かれている。
「…へえ」
また同じ言葉が出る。
男同士で付き合っている、という事実よりも、「マッチングアプリで」という部分に、翔希は目を留めた。
自分の周りでも、最近は出会いの手段としてアプリが普通になってきている。同期の中村も、「最近の合コンはアプリのオフ会みたいなもん」と笑っていたし、先輩は「彼女?マッチングアプリだよ」とさらりと言っていた。
女同士、男同士でも、それは変わらないらしい。
「男に興味があるわけじゃないけど」
心の中で、無意識に前置きが浮かぶ。
別に自分が男を好きになるとかそういう話ではなくて。ただ、世界の広さを眺めているだけだ。そう言い聞かせるように。
タイムラインをさらにスクロールしていると、「おすすめアプリまとめ」みたいなまとめアカウントの投稿が流れてくる。恋愛系のマッチングアプリのバナーがいくつも並んでいて、その中に、LGBT向けと書かれたものも混じっていた。
「みんな普通にアプリ使ってるんだな」
口の中でその言葉を転がす。
スマホ一つで、見知らぬ人と出会って、メッセージをやり取りして、付き合ったり、別れたり。自分の恋人ができるのも、もしかしたらそういうルートなのかもしれない、と頭のどこかで考えたことがないわけではない。
ただ、そこまで「恋人が欲しい」と切実に思ったことが、いままでなかった。それが問題なのかどうかも、よく分からない。
ホーム画面に戻り、今度はアプリストアのアイコンをタップする。人気ランキングのカテゴリを適当に開くと、見慣れた名前のマッチングアプリが上位にずらりと並んでいた。
「出会いなら〇〇」「真剣な婚活なら△△」「趣味で繋がる◇◇」
キャッチコピーはどれも似たり寄ったりだ。
何とはなしにスクロールを続ける。上位にある一般向けのアプリを越えていくと、「〇〇 for LGBT」「×× G」といった文字のついたアイコンが見えてきた。虹色っぽい色使いのものもあれば、シンプルなモノトーンのものもある。
説明文には、「近くにいる人と気軽にチャット」「恋人探しから友達探しまで」「真剣・遊び、目的別に相手が見つかります」といった文言が並んでいた。
「こういうの、普通にあるんだな…」
胸の奥で、ほんの少しだけ何かがむくむくと動く感覚があった。
今まで縁のない世界だと思っていた場所が、画面越しに急に身近になる。こうしてアプリストアを開くだけで、自分と同じ東京に住んでいる男同士のカップルや、出会いを求めている人たちの存在が、急に現実味を帯びてくる。
「どんな感じか見るだけなら、別にいいよな」
自分に向けて、心の中でそう呟いた。
登録するわけじゃない。顔を出すわけでも、本名を晒すわけでもない。ただ、どんな画面なのか、どんなプロフィールが並んでいるのか、雰囲気を眺めるだけだ。
好奇心。そう名付けたほうが、余計なものを考えずに済む。
親指が、画面の「詳細を見る」の部分に触れた。タップすると、アプリの紹介ページに飛ぶ。スクリーンショットがいくつか並んでおり、「近くのユーザー一覧」「プロフィール画面」「チャット画面」といった文字が小さく表示されている。
一覧画面には、ぼかしの入った男性の顔写真が並んでいた。年齢や、身長、体型、好きなことが、簡単な文章で添えられている。英語のユーザーネームや、ひらがな、カタカナの名前。
「…ふーん」
声に出してみると、自分の耳にだけ届いた。
スクリーンショットの中の誰かの肩のラインや、首筋の影が、なぜだか妙に目に残る。そこに特別な色気を感じたわけではない。ただ、自分と同じ「男」というカテゴリーの身体が、改めて画面に並んでいるのを見て、意識のどこかが少しだけざわついた。
レビュー欄を下にスクロールすると、ユーザーの感想がいくつか並んでいた。
「使いやすいけど、遊び目的の人も多いので注意」
「真面目に付き合える人に出会えました」
「暇つぶしにチャットするだけでも楽しい」
「近くにこんなに人がいるんだって実感した」
「近くにこんなに人がいるんだって実感した」という一文に、軽く引っかかる。
自分が普段歩いている新宿の街や、通勤電車の中にも、もしかしたらこのアプリを開いている人が何人もいるのかもしれない。会社帰りのスーツ姿の男の中に、その一部が紛れている可能性。
「…男に興味があるわけじゃないけどさ」
また、同じ前置きが頭をよぎる。
別に自分がここで相手を探そうとしているわけじゃない。ただ、どんな世界か知っておくのも、教養の一つというか。そういうふうに、自分の行動にもっともらしい理由をつけたがるのは、昔からの癖だ。
画面の右上には、「インストール」のボタンがある。鮮やかな色で、指を誘うように表示されていた。
親指をその上に滑らせる。
ボタンが、わずかに色を変えたように見えた。押せば、ダウンロードが始まる。押さなければ、このまま何も変わらない。
「どんなのか見るだけ。登録しなくても、トップ画面くらいは見られるかもしれないし」
自分に向かって、もう一つ言い訳を重ねる。
「別に、誰かと会おうってわけじゃないし」
「ただの興味だし」
「酔ってないし」
最後のは、自分でも意味が分からなかった。一人で笑ってしまう。
親指がボタンに近づき、ぎりぎりのところで止まる。画面の光が、指先の輪郭を青白く照らした。
心臓が、ほんの少しだけ早く打つ。
そんな大げさなことか、と別の自分が冷静に突っ込んでいる。アプリを一つ入れるだけで世界が変わるわけじゃない。嫌になったら消せばいい。それだけの話だ。
それでも、押したあとのことを想像してしまう。アプリが開き、位置情報の許可を求められ、「近くにいる人」が一覧で表示される。そこに、自分の知っている誰かがいる可能性。
会社の人間、友人、同級生。あるいは、見知らぬ誰かの身体の一部。
ベッドの上で、体を横向きにして寝返りを打つ。マットレスが軽く沈み、シーツの布が肌に張り付く感覚がする。天井を見ると、間接照明のオレンジ色の光がぼんやりと広がっていた。
「なんでこんなことで迷ってんだ、俺」
声に出した言葉は、少しだけ笑いを含んでいた。
仕事で大事な契約書を出すかどうかより、ずっと気楽なはずのこの選択肢に、ここまで躊躇している自分が、なんだか馬鹿らしい。でも、その馬鹿らしさが、少しだけ安心でもある。
ずっと「普通」でいることに、慣れすぎているのかもしれない。
男女のカップルがいて、結婚して、子どもがいて。そういう「普通」のテンプレートから大きく外れた場所に、自分が立つ可能性を、今までほとんど考えてこなかった。
だから、「男に興味があるわけじゃない」とわざわざ心の中で言い訳しないと、踏み出せない。
もう一度、スマホを目の前に持ち上げる。
画面の上で、インストールボタンが、何も言わずにそこにある。ただの四角いアイコン。押されるのを待っているだけの、無機質な存在。
親指を近づける。
一センチ。
五ミリ。
三ミリ。
そのたびに、呼吸がほんの少し浅くなる。
遠くから、車の走る音がかすかに聞こえた。窓ガラスを通して届くその音は、現実の街の存在を思い出させる一方で、この部屋の中の閉じた世界を、余計に際立たせる。
「…どうせ誰にもバレないし」
最後のひと押しのように、小さく呟き、翔希は親指で画面をタップした。
インストールボタンが、色を変え、「ダウンロード中」の表示に切り替わる。進行状況を示す円形のバーが、ゆっくりと回り始めた。
その様子を見つめながら、胸の奥が、さっきよりも賑やかになるのを感じる。
好奇心。
少しの後ろめたさ。
これから自分が覗き込もうとしている世界への、言葉にならないざわめき。
部屋の明かりは相変わらず柔らかいが、スマホのブルーライトだけが、その中で異様に鮮やかだった。
翔希が目を開けたとき、最初に目に入ったのは、白い天井の小さなシミだった。マンションの古い天井板に浮いた、不規則なにじみ。薄い灰色が輪郭をぼかし、じっと見ていると、そこだけ時間が止まっているみたいに感じる。ぼんやりと焦点を合わせているうちに、枕元から、微かな寝息と、布団の擦れる音が耳に届いた。すぐ横には、うつ伏せ気味に眠っている村上の背中がある。薄いグレーのTシャツ越しに、規則正しく上下する呼吸。枕に押しつぶされた後頭部から、少し跳ねた髪がはみ出している。部屋のカーテンは、半分だけ開いていた。隙間から朝の光が斜めに差し込み、埃の粒をきらきらと浮かび上がらせている。窓の外からは、遠くの環状線を走る車の音と、近くの保育園から流れてくる子どもの声が、薄い壁越しににじんで聞こえた。ここは、新宿の古い1Kマンションの一室。すっかり見慣れてしまった部屋。けれど、朝、こうして二人でスーツに着替える前の、この一瞬だけは、いまだに少し現実味が薄い。「……七時半」枕元のスマホに手を伸ばし、画面を点ける。液晶の光に目を細めながら時刻を確認すると、会社に行くにはちょうどいい時間だ。目覚ましはとっくに止めてある。たぶん、村上が無意識に止めたのだろう。アラームの履歴が、そんな痕跡を残していた。もう一度、隣に視線を落とす。寝ている村上の横顔は、会社にいるときとは少し違う。眉間に寄りがちな皺が緩み、口元も、ほんの少しだけ開いている。頬にかかる髪の線を目でなぞっていると、胸の奥がふわりとくすぐったくなる。こんな顔を知っているのは、自分だけだと思うと、妙な優越感と同時に、怖さも生まれる。抱きしめたくなる衝動と、この瞬間を壊したくないという臆病さが、胸の中で混ざり合う。「……起きますかね」誰に聞かせるでもなく呟きながら、翔希はそっと身体を起こした。布団が擦れる音に、村上が微かに身じろぎする。肩がひとつ上下し、眠りの深さを確かめるみたいに長く息を吐いたあと、うっすらと瞼が持ち上がった。「ん……」掠れた声が漏れる。翔
古めのマンションの前に着く頃には、小雨の気配はすっかり消えていた。アスファルトに残っていた小さな水たまりも、足で踏みしめられ、車に弾かれ、だいぶ薄まっている。代わりに、マンションの外壁に染み込んだ湿り気と、どこかの部屋から漏れてくるカレーの匂いが、鼻の奥をくすぐった。翔希は、建物を見上げた。見慣れたコンクリートの肌。ところどころ黒ずんだ手すり。何度も通ったはずなのに、会社から一緒に歩いてきたせいか、少しだけ違って見える。エントランスのオートロックに番号を打ち込むのは、もう迷いがない。隣で村上がさっとキーを押し、その間に翔希は肩からバッグを掛け直す。開いたドアから、むっとした室内の空気が一気に流れ込んできて、外気と混ざった。階段を上がる音が、コツコツと一定のリズムで響く。最初の頃は、段数を数える余裕なんてなかった。今は、二階に上がるまで何段あるか、何となく感覚で分かるようになっている自分に気づき、心の中で少しだけ笑う。いつもの階で足を止め、いつものドアの前に立つ。村上がポケットから鍵を出し、慣れた動きで回す。その所作を横目で見ながら、翔希は「ああ、本当に『いつもの』なんだな」と妙に現実味を帯びた感慨を覚える。中から、きしむような小さな音を立ててドアが開いた。ふわり、と漂ってくるのは、洗剤と柔軟剤と、少しだけタバコの残り香が混ざった、村上の部屋の匂い。初めて来た日の、あの少し甘苦い印象が、今はどこか落ち着く香りになっている。「お邪魔します」口ではそう言いながら、翔希の手はもう、自分の靴の位置を決めるべき場所を知っている。玄関の端、壁から一足分空けた位置。最初の頃は遠慮して一番端に詰めて置いていたのが、今は自然と村上の革靴の隣に並ぶ形に落ち着いていた。革靴を脱ぎ、揃えて置く。その隣には、何度も見てきた村上の黒い靴。その横に自分の靴が馴染んで並んでいる光景が、胸のどこかをくすぐる。「あ、そこに掛けといて」視線を上げると、村上がジャケットを脱ぎながら顎で示したのは、玄関横のハンガーラックだった。そこにも変化がある。以前はスーツとコートでいっぱいだったラックに、今は少し隙間が作られていて、そこに翔希のジャケットが掛
新宿駅方面に向かう大通りは、雨上がりの光をまとっていた。さっきまで降っていた小雨が止んだばかりで、街路樹の葉からは時おり雫が落ち、アスファルトの上に小さな輪を広げる。車のヘッドライトと、ビルのネオンが濡れた路面に映り込んで、色の境界線を曖昧にしていた。高橋翔希は、その光のゆらめきをぼんやりと追いながら、肩にかけたバッグの持ち手を握り直した。会社を出たときよりも、少しだけ空気が冷たくなっている気がする。スーツの襟元に入り込む湿った風が、ほてった首筋を撫でていく。隣では、村上遥人が同じ速度で歩いていた。歩幅はほとんど同じで、一歩進むたびに靴底の音が微妙にずれて重なっては、また離れていく。信号待ちで横断歩道の前に立ち止まると、周囲には同じようなスーツ姿の会社員たちが集まってきた。手には折りたたんだ傘、紙袋、コンビニの袋。それぞれの一日の終わりが、同じ赤信号の前で足並みを揃えている。翔希は、何気なく右側に立った。遥人との距離は、肩と肩がかすかに触れるか触れないかくらい。以前なら「近すぎる」と感じて半歩引いていた距離だが、今はその微妙な接触が、むしろ落ち着きをもたらしていた。赤信号の光が、二人の顔色をわずかに変える。車道を走り抜けていくタクシーのライトが、視界の端で流れていく。排気ガスと、濡れたアスファルトが混ざった匂いが、吸い込むたびに胸の奥に重くたまった。ふと、指先に柔らかいものが触れた。自分の手の甲に、誰かの指がかすかに擦れたような感覚。翔希が視線を落とすと、遥人の左手の甲が、ほんの少しだけ自分の右手に寄っていた。以前なら、反射的に引っ込めていたはずだ。血の気が引いて、周囲に誰かが見ていないかと慌ててきょろきょろしただろう。けれど、今は違かった。翔希は、わざと何でもない顔をしたまま、その指先に自分の指をそっと重ねた。人混みの中で、ごく自然な動きに見えるように、慎重に。誰かの視線があるとしたら、その程度の触れ方なら、たまたまぶつかったくらいにしか映らないだろう。重ねられた指先が、一瞬だけ緊張したように固くなり、それからゆっくりと力を抜いた。遥人の指が、わずかに握り返してくる。ポケットの中に一緒に手を突っ込んでいるわけでも、露
夕方のチャイムは、このフロアには鳴らない。代わりに、各自のモニターの右下で、定時を知らせる小さなポップアップが静かに消えていく。高橋翔希は、それを斜めに視界に入れながら、まだ開いたままの見積書の数字をひとつひとつ確認していった。桁の打ち間違いがないか、単価が最新のものになっているか、営業の勘と、ここ一年で身についた「管理部がどこを気にするか」という感覚で、ざっと全体を見渡す。隣のデスクでは、四月に入ってきたばかりの後輩が、未だに慣れない様子でテンキーを叩いている。数字を打つ指先が、少しだけぎこちない。「ここ、単価こっちね」翔希は椅子ごとそちらへ滑り、モニターを指さした。「あ、すみません」「いや、最初っから全部できる人いないんで。単価の表、最新のやつブクマしといたほうが早いですよ」「はい…ありがとうございます」口をついて出る言葉が、気づけばすっかり「先輩」側のものになっている。半年前までは、自分も似たようなテンションで中村に助けられていたはずなのに、と翔希は小さく笑った。デスクの端に置いてあるマグカップには、もう冷めたコーヒーが半分ほど残っている。空調の乾いた風、コピー機の低い駆動音、人の話し声とマウスのクリック音が混ざった雑音。その全部が、毎日の背景として身体に染みついている。モニターのタスクバーに、チャットアプリのアイコンがひとつ瞬いた。社内用のツールだ。通知のポップアップに表示された送り主の名前を見て、翔希は意識して表情を変えないよう、背筋を伸ばした。「高橋くん、今日どんな感じ?」管理部の全体チャットに紛れて届いた、個別メッセージの一行。送り主は、村上遥人。数ヶ月前と違うのは、これが「管理部の誰か」ではなく、確実に自分の知っている誰かからのメッセージだということだ。画面越しではなく、生の声の温度を知っている相手。翔希はキーボードに指を滑らせた。「今、見積最終確認してるところです。あと十五分くらいで上がれそうです」返送したメッセージが送信済みの欄に沈んだ瞬間、すぐにまた通知が弾んだ。
それからの時間は、音を立てずに進んでいった。派手な出来事があったわけではない。ただ、気づけば、ホテルの白いシーツよりも、村上遥人の古い1Kの布団の感触のほうが、翔希の中で「いつもの夜」に近づいていた。ある平日の夜、高橋翔希は、いつもの新宿のビジネスホテルではなく、少し路地を入った先の古いマンションの前で立ち止まっていた。数週間前に初めて上がった階段。二、三本ほどペンキが剥げた手すり。雨上がりで少し湿ったコンクリートの匂いが、鼻の奥にまとわりつく。インターホンを押すと、少し間があってから、かすかに聞き慣れた声が返ってきた。「はい」「高橋です」「ああ、開けるね」ブザーの音とともにオートロックが外れ、扉が重い音を立てて開く。エレベーターのない階段を上がりながら、翔希は何度目かの、しかしまだ慣れきらない高鳴りを胸の中で確かめた。三階の廊下に出ると、薄いカーペットの匂いと、どこかの部屋から漏れるテレビの音が交じり合っていた。指定の部屋番号の前まで歩き、軽くノックする。「開いてるよ」内側からそう声がして、ドアノブを回すと、少し油の抜けた金属音がした。扉を引くと、見慣れてきたワンルームの景色が広がる。キッチンには、シンクに伏せられたマグカップが二つ。テーブルの上にはコンビニの袋と、簡単な総菜パック。部屋の中央には、布団ではなく、小さなソファとローテーブルが置かれている。その向こう側に、広げたままの洗濯物がハンガーに吊られていた。「お疲れ」キッチンの手前で、村上が片手を上げた。シャツの袖を肘までまくり、ネクタイはすでに外してテーブルの端に置いてある。眼鏡の跡が鼻の付け根にうっすら残っていた。「お疲れさまです。今日もありがとうございます」靴を脱ぎながらそう言うと、村上は小さく笑った。「そんなに改まらなくていいのに。ほら、適当に座ってて。ご飯、温めるから」「何買ってきたんですか」「たいしたものじゃないよ。コンビニの焼き魚とサラダと…あと、高橋くんが好きって言ってた唐揚げ」
朝の通勤電車が、ビル群の隙間を縫うようにガタン、と揺れた。高橋翔希は吊革を握りしめたまま、ドアの向こうに流れる景色をぼんやりと眺めた。窓ガラスには、スーツ姿の自分の顔が薄く映っている。ネクタイはきちんと締まり、ワイシャツの襟も、いつも通りに収まっているはずなのに、その「いつも通り」がひどく他人のものに思えた。昨夜、自分は誰かを抱いていた。それも、ただの「誰か」じゃない。村上遥人という名前を、何度も喉の奥で転がしながら、相手の体温にしがみついていた。肩に噛みつくときの塩辛い汗の味も、耳元で震えた息も、まだ肌のどこかに貼り付いている気がする。そのすぐ翌朝に、こうして満員電車に押し込まれて、会社へ向かっている。このギャップに、軽い眩暈みたいなものが込み上げた。ドア横の広告には、新築マンションやブライダルフェアのポスター。笑顔のカップルの写真に「理想の未来を一緒に」と白い文字が踊っている。昨日までなら視界の端をただ通り過ぎていたはずのその言葉が、今日は妙に目に刺さった。理想の未来。自分の理想は、何だったんだっけ、と翔希は思う。二十代半ばの営業職。数字は悪くない。上司からの評価もそこそこ。いずれ結婚して、どこかの郊外に2LDKでも構えて、週末に大型スーパーでまとめ買い…そういう「普通」が、なんとなく自分の前にも用意されているのだと、どこかで信じていた。でも今、あの薄暗いホテルの部屋や、古い1Kマンションの見慣れない天井が、頭の中で強く残っている。あの場所で、村上を抱きしめていた自分と、この広告の中の「未来」を目指す自分は、同じ人間なのか、本当に、と考えると、足元がふわついた。電車が駅に滑り込み、乗客がざわ、と動き出す。人の波に押されながらホームに降り、ビルへ向かう。オフィスビルのエントランスに入ると、冷房の冷たい風がスーツの布越しに肌を撫でた。エレベーターホールには、あちこちのフロアへ向かう社員たちが集まっている。二十階のボタンのライトがぼんやりと光っていた。翔希は、その列の中に自然に混ざる。扉が開き、人がぎゅっと詰め込まれる。革靴の匂い、スーツの生地に染み付いた柔軟剤と香水の匂いが