LOGIN平日の夜、時計の針が十時を回った頃、部屋の中はほとんど音がなかった。
リビング兼寝室の六畳ほどのスペースに、エアコンの送風音と、冷蔵庫の小さな唸り声だけが、一定のリズムで流れている。天井近くに取り付けた間接照明を一段階落としてあるせいで、部屋全体は柔らかいオレンジ色に沈んでいた。
高橋翔希は、ベッドの上に仰向けになり、枕元に置いたスマホを片手で持ち上げていた。シャワーを浴びて、Tシャツとスウェットに着替え、コンビニのパスタとサラダで簡単な夕食を済ませたあと、特にやることもなく、この体勢に落ち着いている。
画面には、さっきから同じ動画サイトの再生画面が映っている。
「今日も見てくれてありがとうございます…」
明るい女の声と、軽快なBGM。よくあるカップルチャンネルの一つだ。画面の中では、若い男女が並んでソファに座り、「付き合って三年記念日のお祝いをします」とか何とか言っている。
翔希は、別にそのチャンネルの熱心なファンというわけではない。関連動画に出てきたものを、なんとなくタップしただけだ。ラーメンのレビュー動画を見ていたら、その次に「彼氏が作る〇〇ラーメン」みたいなタイトルが出てきて、それから芋づる式にカップル動画に流れ着いた。
画面の下に表示されている「おすすめ」の欄をスクロールすると、「同棲カップルのモーニングルーティン」「遠距離恋愛あるある」「彼女にドッキリしてみた」などのサムネイルがぎっしり並んでいる。
「…お前どんだけ恋愛押してくんだよ」
小さくつぶやいて、苦笑する。
動画サイトのアルゴリズムは、人の興味を勝手に決めつけてくる。仕事の合間にたまたま恋愛相談系の切り抜きを見たことがあったせいか、最近はやたらこの手のコンテンツが増えていた。
「幸せそうで何よりです」
皮肉とも本音ともつかない言葉が、喉の奥で転がる。
動画の中のカップルは、画面越しにも分かるくらい仲が良さそうで、冗談を言い合っては笑っている。コメント欄には、「理想のカップル」「尊すぎる」「こんな彼氏欲しい」といった文字列が並び、その合間に、ごくたまに「リア充爆発しろ」と冗談めかしたコメントが混ざる。
翔希は、画面をスクロールして、そのコメントをなんとなく目で追った。
「恋愛感情がよく分からないんだけど、こういうの見てると憧れる」
「今まで付き合った人いるけど、友達以上恋人未満みたいな感じから先に進めたことない」
「彼氏いるのに、この動画みたいなドキドキ感がない…私の感覚がおかしいのかな」
そんな文言が、ちらほらと目につく。
「…ふーん」
鼻から小さく息を吐き出す。
自分だけじゃないんだな、と、ぼんやり思う。
高校のときも、大学のときも、彼女がいた期間は何度かあった。デートもしたし、手も繋いだし、キスもした。周りから見れば、普通に充実している恋愛経験のはずだ。
けれど、「友達以上恋人未満から先に進めない」というコメントを見て、少しだけ胸の奥がざわついた。
恋人、というラベルは付いていた。でも、自分の中で相手の存在がどれくらいの割合を占めていたかと聞かれると、はっきりしない。楽しかったけれど、息が苦しくなるほど会いたかったかと言われると、違う気がする。
画面の中の誰かが、「会えないと死んじゃう」とふざけたコメントを読んで笑っている。それを聞きながら、「死にはしないだろ」と冷静に思う自分がいて、「そこまで思ったこと、俺あったっけ」と別の自分が問いかける。
指で画面を軽くタップし、動画を一時停止する。テレビのように勝手に流れ続けるこの時間を、一旦停止しておきたかった。
ホームボタンを押してアプリを閉じ、今度はSNSのアイコンをタップする。タイムラインには、仕事関係の情報、友人の近況、自撮り、ランチの写真、そして政治やニュースに関する投稿が入り混じって流れていた。
親指で画面を上から下へ滑らせていると、カラフルな写真が目に飛び込んでくる。虹色の旗を掲げた人たちの群れ。大きな通りを歩く行列。海外の都市の、プライドパレードの写真だった。
「今日は〇〇のプライドでした」「Love is Love」のような英語の文言が添えられている。その下には、ゲイカップルの生活を綴ったブログのリンクや、同性婚をめぐる議論のスレッドが続いていた。
翔希は、そういう投稿を積極的に追いかけているわけではない。たまたまフォローしている誰かがリツイートしたものが、タイムラインに流れてくるのだ。
虹色の旗を見ながら、「へえ」と小さく声が出る。
「みんな普通にオープンなんだな」
高校のとき、同級生にゲイやバイであることを公言しているやつはいなかった。少なくとも、自分の周りにはいなかった。大学でも、そう名乗る人間はほぼ見かけなかった。そういう属性の人たちは、どこか見えないところでひっそりと生きているものだと、なんとなく思っていた。
けれどSNSには、そういう人たちが普通に顔出しで登場して、日常を発信している。彼氏と手を繋いで歩く写真、旅行先で撮ったツーショット、ただの夕飯の写真。
そのどれもが、「特別なもの」ではなく、ただの生活の一部として映っている。
画面をスクロールしていると、「マッチングアプリで出会った彼氏と同棲始めました」という文言が目に入った。二人並んでソファに座っている写真。キャプションには、「最初は遊びかなと思ってたけど、今は一番の理解者です」と書かれている。
「…へえ」
また同じ言葉が出る。
男同士で付き合っている、という事実よりも、「マッチングアプリで」という部分に、翔希は目を留めた。
自分の周りでも、最近は出会いの手段としてアプリが普通になってきている。同期の中村も、「最近の合コンはアプリのオフ会みたいなもん」と笑っていたし、先輩は「彼女?マッチングアプリだよ」とさらりと言っていた。
女同士、男同士でも、それは変わらないらしい。
「男に興味があるわけじゃないけど」
心の中で、無意識に前置きが浮かぶ。
別に自分が男を好きになるとかそういう話ではなくて。ただ、世界の広さを眺めているだけだ。そう言い聞かせるように。
タイムラインをさらにスクロールしていると、「おすすめアプリまとめ」みたいなまとめアカウントの投稿が流れてくる。恋愛系のマッチングアプリのバナーがいくつも並んでいて、その中に、LGBT向けと書かれたものも混じっていた。
「みんな普通にアプリ使ってるんだな」
口の中でその言葉を転がす。
スマホ一つで、見知らぬ人と出会って、メッセージをやり取りして、付き合ったり、別れたり。自分の恋人ができるのも、もしかしたらそういうルートなのかもしれない、と頭のどこかで考えたことがないわけではない。
ただ、そこまで「恋人が欲しい」と切実に思ったことが、いままでなかった。それが問題なのかどうかも、よく分からない。
ホーム画面に戻り、今度はアプリストアのアイコンをタップする。人気ランキングのカテゴリを適当に開くと、見慣れた名前のマッチングアプリが上位にずらりと並んでいた。
「出会いなら〇〇」「真剣な婚活なら△△」「趣味で繋がる◇◇」
キャッチコピーはどれも似たり寄ったりだ。
何とはなしにスクロールを続ける。上位にある一般向けのアプリを越えていくと、「〇〇 for LGBT」「×× G」といった文字のついたアイコンが見えてきた。虹色っぽい色使いのものもあれば、シンプルなモノトーンのものもある。
説明文には、「近くにいる人と気軽にチャット」「恋人探しから友達探しまで」「真剣・遊び、目的別に相手が見つかります」といった文言が並んでいた。
「こういうの、普通にあるんだな…」
胸の奥で、ほんの少しだけ何かがむくむくと動く感覚があった。
今まで縁のない世界だと思っていた場所が、画面越しに急に身近になる。こうしてアプリストアを開くだけで、自分と同じ東京に住んでいる男同士のカップルや、出会いを求めている人たちの存在が、急に現実味を帯びてくる。
「どんな感じか見るだけなら、別にいいよな」
自分に向けて、心の中でそう呟いた。
登録するわけじゃない。顔を出すわけでも、本名を晒すわけでもない。ただ、どんな画面なのか、どんなプロフィールが並んでいるのか、雰囲気を眺めるだけだ。
好奇心。そう名付けたほうが、余計なものを考えずに済む。
親指が、画面の「詳細を見る」の部分に触れた。タップすると、アプリの紹介ページに飛ぶ。スクリーンショットがいくつか並んでおり、「近くのユーザー一覧」「プロフィール画面」「チャット画面」といった文字が小さく表示されている。
一覧画面には、ぼかしの入った男性の顔写真が並んでいた。年齢や、身長、体型、好きなことが、簡単な文章で添えられている。英語のユーザーネームや、ひらがな、カタカナの名前。
「…ふーん」
声に出してみると、自分の耳にだけ届いた。
スクリーンショットの中の誰かの肩のラインや、首筋の影が、なぜだか妙に目に残る。そこに特別な色気を感じたわけではない。ただ、自分と同じ「男」というカテゴリーの身体が、改めて画面に並んでいるのを見て、意識のどこかが少しだけざわついた。
レビュー欄を下にスクロールすると、ユーザーの感想がいくつか並んでいた。
「使いやすいけど、遊び目的の人も多いので注意」
「真面目に付き合える人に出会えました」
「暇つぶしにチャットするだけでも楽しい」
「近くにこんなに人がいるんだって実感した」
「近くにこんなに人がいるんだって実感した」という一文に、軽く引っかかる。
自分が普段歩いている新宿の街や、通勤電車の中にも、もしかしたらこのアプリを開いている人が何人もいるのかもしれない。会社帰りのスーツ姿の男の中に、その一部が紛れている可能性。
「…男に興味があるわけじゃないけどさ」
また、同じ前置きが頭をよぎる。
別に自分がここで相手を探そうとしているわけじゃない。ただ、どんな世界か知っておくのも、教養の一つというか。そういうふうに、自分の行動にもっともらしい理由をつけたがるのは、昔からの癖だ。
画面の右上には、「インストール」のボタンがある。鮮やかな色で、指を誘うように表示されていた。
親指をその上に滑らせる。
ボタンが、わずかに色を変えたように見えた。押せば、ダウンロードが始まる。押さなければ、このまま何も変わらない。
「どんなのか見るだけ。登録しなくても、トップ画面くらいは見られるかもしれないし」
自分に向かって、もう一つ言い訳を重ねる。
「別に、誰かと会おうってわけじゃないし」
「ただの興味だし」
「酔ってないし」
最後のは、自分でも意味が分からなかった。一人で笑ってしまう。
親指がボタンに近づき、ぎりぎりのところで止まる。画面の光が、指先の輪郭を青白く照らした。
心臓が、ほんの少しだけ早く打つ。
そんな大げさなことか、と別の自分が冷静に突っ込んでいる。アプリを一つ入れるだけで世界が変わるわけじゃない。嫌になったら消せばいい。それだけの話だ。
それでも、押したあとのことを想像してしまう。アプリが開き、位置情報の許可を求められ、「近くにいる人」が一覧で表示される。そこに、自分の知っている誰かがいる可能性。
会社の人間、友人、同級生。あるいは、見知らぬ誰かの身体の一部。
ベッドの上で、体を横向きにして寝返りを打つ。マットレスが軽く沈み、シーツの布が肌に張り付く感覚がする。天井を見ると、間接照明のオレンジ色の光がぼんやりと広がっていた。
「なんでこんなことで迷ってんだ、俺」
声に出した言葉は、少しだけ笑いを含んでいた。
仕事で大事な契約書を出すかどうかより、ずっと気楽なはずのこの選択肢に、ここまで躊躇している自分が、なんだか馬鹿らしい。でも、その馬鹿らしさが、少しだけ安心でもある。
ずっと「普通」でいることに、慣れすぎているのかもしれない。
男女のカップルがいて、結婚して、子どもがいて。そういう「普通」のテンプレートから大きく外れた場所に、自分が立つ可能性を、今までほとんど考えてこなかった。
だから、「男に興味があるわけじゃない」とわざわざ心の中で言い訳しないと、踏み出せない。
もう一度、スマホを目の前に持ち上げる。
画面の上で、インストールボタンが、何も言わずにそこにある。ただの四角いアイコン。押されるのを待っているだけの、無機質な存在。
親指を近づける。
一センチ。
五ミリ。
三ミリ。
そのたびに、呼吸がほんの少し浅くなる。
遠くから、車の走る音がかすかに聞こえた。窓ガラスを通して届くその音は、現実の街の存在を思い出させる一方で、この部屋の中の閉じた世界を、余計に際立たせる。
「…どうせ誰にもバレないし」
最後のひと押しのように、小さく呟き、翔希は親指で画面をタップした。
インストールボタンが、色を変え、「ダウンロード中」の表示に切り替わる。進行状況を示す円形のバーが、ゆっくりと回り始めた。
その様子を見つめながら、胸の奥が、さっきよりも賑やかになるのを感じる。
好奇心。
少しの後ろめたさ。
これから自分が覗き込もうとしている世界への、言葉にならないざわめき。
部屋の明かりは相変わらず柔らかいが、スマホのブルーライトだけが、その中で異様に鮮やかだった。
新宿の夜風は、生ぬるくて、やけに冷たかった。ホテルの自動ドアが背後で閉まる音を聞きながら、高橋翔希は、しばらくその場に立ち尽くしていた。ガラスに映る自分の顔は、スーツ姿の「普通の会社員」でしかない。中身は、全然普通じゃなかった。足が勝手に動き出す。駅とは逆方向のネオン街のほうへ、ふらふらと。タバコの煙と、居酒屋の油の匂いと、水っぽい香水の匂いが混ざった空気を吸い込んで、胸の奥がきしむ。『お前には関係ないだろ』村上がベッドの上で言った一言が、耳の奥で何度もリピートされていた。関係ない。そうだ。そういうはずだった。最初から、「ここ」はそういう場所で。平日夜、短時間。名前も呼ばない。仕事の話もしない。感情なし。そこに自分で足を踏み入れておいて、今さら何に傷ついているんだ、と別の自分が冷静に突っ込んでくる。それでも、胸は痛い。『俺がお前とだけ会ってるって、いつ言った?』言われて当然のことを言われた感じがして、余計に痛い。雑居ビルの壁に、キャバクラの看板やカラオケの看板がぎっしり貼られている。どの店も、夜の楽しみを派手なフォントで謳っている。翔希の足は、そのどれにも向かわない。淡々とアスファルトの上を踏みしめるだけだ。信号待ちの横断歩道で立ち止まる。隣にいるスーツ姿の男たちは、仕事帰りのテンションで笑っていた。「でさー、その課長がさ」「マジかよ、それパワハラじゃん」笑いと愚痴と、くだらない冗談と。そういうもので夜は賑わっている。自分も、本来ならその輪のどこかに混ざっているはずだった。「…遊び、なんだからな」小さく呟く。村上の言葉を、そっくりそのままなぞる。遊びなんだから。そう何度も心の中で唱えれば、そのうち本当に軽く感じられるのだろうか。信号が青に変わった。人の波に押されるように、横断歩道を渡る。『じゃあ、なんであん
ベッドの上の空気は、まだ体温の名残りを含んでいた。薄い掛け布団の下で、高橋翔希は仰向けになり、天井のぼんやりした模様を見つめている。隣には、ほんの少し間を空けて、村上遥人が横たわっていた。照明はスタンドライト一つだけ。オレンジがかった光が、狭い部屋の隅々をやんわり照らしている。窓の向こうのネオンは、厚手のカーテンで遮られて、かすかな明るさだけが縁から漏れていた。静かだ。エアコンの低い唸りと、二人分のかすかな呼吸音だけが、この空間のすべてだった。翔希は、自分の胸の上下を意識する。呼吸は、さっきまでより落ち着いている。脈も、ようやく普通の速度に戻りつつあった。それでも、胸の奥には別の意味の荒れが残っている。今、聞かなかったら。もう二度と、聞けない気がした。この沈黙が終わって、ベッドから降りて、シャワーを浴びて、服を着て、エレベーターに乗って。それで「お疲れさま」とか「気をつけて」とか言って別れたら。自分は、ただの「遊び相手の一人」として、何も知らないまま、この人のスケジュールのどこかに薄く書き込まれたまま、やがて消えていく。自分がそういう位置にいるのは、最初から分かっていたはずだ。平日夜/短時間。感情なしの関係希望。名前聞かないで。あのプロフィール文を見たときから、ここはそういう場所だと理解していた。理解していた、はずなのに。喉の奥がきゅっと詰まる。言葉を飲み込んだままの沈黙が、部屋の中でどんどん重くなっていく。隣から、布擦れの音がした。村上が、寝返りを打ったらしい。ベッドが小さく揺れる。横目でそちらをうかがうと、村上は片腕を枕にして横向きになっていた。天井ではなく、壁の時計のほうをぼんやり見ている。横顔の輪郭が、スタンドライトの光で柔らかく縁取られる。その横顔を、ベッドの上でも、会社のデスクでも、同じくらい見てきた。どちらの顔も、好きだった。「…」喉が鳴る。
翌朝の新宿は、やけに白く眩しかった。高橋翔希は、地下から地上に上がるエスカレーターの途中で、思わず目を細める。ビルのガラスに反射した光が、まだ完全に覚めきっていない頭をじわじわ焼くようだった。寝不足のせいだ。眠れなかったわけではない。横になって、目を閉じて、気づいたら朝だった。それでも、体のどこかに眠り損ねた疲れが残っている。二十階の営業フロアに着くと、いつも通りの喧騒が迎えてくれた。電話の音。キーボードを叩く音。プリンターの唸り。誰かの笑い声。その全部が、いつもより半音高く響いている気がする。「おはよー、高橋」斜め前の席から、中村が手を挙げた。「…おはようございます」自分でも分かるくらい、声に覇気がない。「いや、お前さ」椅子をくるりとこちらに向けた中村が、じっと顔を覗き込んでくる。「なんか顔、死んでね」「失礼すぎません?」思わず笑って返す。口角だけは、ちゃんと上がる。「いやいや、マジで。クマってほどじゃないけどさ、その…魂が半分くらいどっかいってる感じ」「魂は全部ここにあります」「ほんとぉ?」わざとらしく首を傾げられて、肩をすくめる。「ちょっと寝不足なだけですよ。動画見すぎました」「またそれ。ほどほどにしなよ。営業は顔が命なんだから」「はいはい」軽口を交わしながらも、翔希は内心で、自分の顔がどれくらい「いつも通り」からズレているのかを気にしていた。鏡を見る余裕もなく家を出てしまったせいで、今の自分の表情を知っているのは中村たちだけだ。村上がそれを見たら、どう思うだろう。…そんなことまで考えている自分が、正直きつい。*午前中のタスクをひととおり片付けた頃、社内チャットがピコンと鳴った。管理部からの一斉連絡。稟議ルートの変更について。「うわ、また変わ
約束のある日の時間は、いつもより少しだけ軽く進む。その日の高橋翔希も、朝からどこか浮き足立っていた。理由は、誰にも言っていない。営業フロアの二十階。いつも通りの朝会、いつも通りのメール整理、いつも通りのタスク確認。ディスプレイの下には、何気ない顔で置かれたスマホ。通知はオフにしている。それでも、一度約束を交わした夜は、画面の向こうにいる相手の存在を、意識から完全に消すことができなかった。『今日、いつものところで』昨日、アプリ経由で届いたメッセージ。『二十時くらいなら大丈夫』そう返したあと、時間も場所も確定している。具体的なホテル名と部屋番号が、すでにチャットの履歴に残っている。平日夜、短時間。いつものパターン。それだけのことなのに、朝から何度も頭の中でその文字列をなぞっていた。「高橋ー」斜め前の席から、中村が声をかけてくる。「この前のB社の資料、最新版どこ入ってんの」「あ、共有フォルダの二〇二四フォルダっす。『B社_第二提案』のところです」「サンキュー。お、相変わらず整理されてんね」「村上さんに叩き込まれましたから」笑いながら答え、また画面に視線を戻す。午前中の商談は無難に終わった。昼食はコンビニの冷やし麺で済ませ、午後の打ち合わせもトラブルなく消化する。仕事は仕事で、ちゃんと好きだ。案件がうまく回るのは気持ちいいし、数字が積み上がっていくのを見るのは純粋に嬉しい。それでも今日は、どこか頭の片隅に、別のスケジュールが居座っている。二十時。ホテル。白いシーツ。シャワーの音。ネクタイをほどく指先。ふと、喉の奥が乾いた気がして、小さく息を飲んだ。「…集中しろ」誰にも聞こえないくらいの小ささで自分に言い聞かせ、手元の資料に目を落とす。*夕方、十八時少し手前。デスクの右隅の時計を、何度目か分からないくらいに確認する。
平日の夜が、静かに形を変えていた。高橋翔希にとって、新宿のネオンはもう「仕事帰りの通り道」ではない。時折、その光のどこかに、あのビジネスホテルのロゴを探してしまう自分がいる。平日夜。短時間。村上遥人のプロフィールに書かれたその言葉が、現実の時間軸にべったりと貼りつくようになってから、もう何度夜を重ねただろう。仕事を終え、エレベーターで一階に降りる。ビルのガラス扉を抜ける風はいつもと同じ温度なのに、ジャケットの内側のスマホは、前より少しだけ重くなった気がしていた。ポケットの中で、スマホが小さく震える。翔希は、無意識のうちに歩みを緩めた。画面を取り出し、ロックを外す。新着メールでも、同期からのLINEでもない、小さなアイコンがひとつ。あのアプリの通知だ。『今日はお疲れさま』短いその一文だけ。村上からのメッセージは、いつもこんなふうにさりげない。絵文字も顔文字もなく、句読点さえ少なめで、感情の温度が読み取りづらい。それでも、確かに自分宛だということだけは分かる。「…お疲れさまです」歩きながら、翔希は打ち返す。親指がキーをなぞる感覚が、必要以上に意識に上る。返事はすぐには来ない。その間に、改札を抜け、ホームに降りる。ステンレスの手すりの冷たさが、指先に残る。電車に乗り込んでも、ポケットの中のスマホが気になって仕方がない。つい、また取り出す。新着は…ない。画面の上部、小さな緑の丸に視線が吸い寄せられる。オンライン。今、この瞬間も、村上はアプリを開いている。「…誰と喋ってんだろ」心の中で漏れる疑問は、まだごく小さい。自分がメッセージを送っているからオンラインなのか、それとも、自分以外の誰かとやり取りをしているのか。そんなの、考えたところで分かるはずがない。そもそも、自分がそこを気にする権利なんてあるのか。眉間にうっすらと皺が寄る。
最初の「また会う?」から、もう何度目の夜になるのか、翔希には正確な回数が分からなくなっていた。平日夜。退社時間少し過ぎの新宿。ホテルのエントランスをくぐるときの、空調の匂いとガラス越しの照明は、もう見慣れた風景になりつつある。エレベーターの鏡に映る自分の顔も、「ただ仕事帰りに寄り道をする社会人」のそれだ。ネクタイを少し緩めて、指定された階のボタンを押す。今夜の部屋番号は、六〇七。二週間前は五一二、その前は四〇一。階も番号も違うのに、中身はほとんど同じ間取りだということも、もう知っている。廊下に出て、足元のカーペットの感触を確かめるように歩く。心臓の鼓動が、相変わらず少し早くなるのは、慣れではどうにもならなかった。「…」部屋の前で足を止め、深呼吸をひとつ。ノックする前に、スマホで一言だけメッセージを送る。『着きました』ほんの数秒後、カチャリと、内側からドアノブが回る音がした。少しだけ開いた隙間から、白い光と人影が覗く。「お疲れ」村上が、少しだけ緩んだネクタイ姿で立っていた。ジャケットは既に脱いでいて、シャツの袖を肘までまくっている。その腕に浮かぶ血管や、手首の細さに、視線が一瞬吸い寄せられる。「お疲れさまです」そう返すと、村上は顎で中を示した。「入って」部屋の中に入ると、前と同じような匂いがした。柔軟剤とも芳香剤ともつかない、ホテル特有の混ざった匂い。ベッドの上には、まだ誰の体温も残っていない白いシーツが、きちんと伸ばされている。村上は、鞄をテーブルに置くと、当たり前のようにバスルームのほうへ歩いていく。「先、シャワー浴びるから」「はい」これも、いつもの流れだ。一度だけ軽くシャワーを浴びてから、触れる。それは暗黙のルールというより、村上の習慣になっていた。バスルームのドアが閉まり、水の音が聞こえてくる。