เข้าสู่ระบบ午後三時を少し回った頃、営業フロアのざわめきが一段落し始めていた。
電話のコール音も先ほどまでの嵐のような鳴り方ではなく、ところどころで不規則に鳴る程度になっている。プリンターの機械音と、キーボードを叩く音が、空調の低い唸り声と一緒に、背景のノイズみたいに混ざっていた。
高橋翔希は、さっきまで使っていた資料をまとめてクリアファイルに戻し、背もたれに体を預けて大きく伸びをした。肩の骨がコキ、と小さく鳴る。視界の端では、モニターの画面がスリープに入る直前の薄暗い光を放っていた。
「ふー…」
息を吐き出すと、コーヒーと紙と人の匂いが混ざったオフィスの空気が肺の奥まで入り込んでくる。この匂いにも、もう慣れた。嫌いではない。ここにいれば、自分は「仕事をしている」という分かりやすい役割を持てる。
背後から、椅子が床を擦る音がした。
「お疲れさまっす、エース」
振り向く前から、誰の声か分かっていた。
振り返ると、案の定、中村拓巳が缶コーヒーを片手に立っていた。ネクタイは少し緩められ、ワイシャツの袖もひと折りまくってある。そのラフさでなぜかきちんと見えるのが、彼の得なところだ。
「誰がエースだよ。やめてくださいって」
そう言いつつ、翔希は笑って返した。
「さっきの小口案件、サクッと決めてきたって聞いたぞ。石田さん、機嫌良かったじゃん」
「小口って言っても、あれ同時並行で三件回してたんでけっこう大変だったんですよ?」
「はいはい、謙遜、謙遜」
中村は、翔希のデスク横の空きスペースに腰を預けるようにもたれかかる。視線は翔希ではなく、フロアの奥のほうをなんとなく眺めている。
午後の光が窓越しに差し込み、パーティションの上に細い影を落としていた。ガラスの向こうには、同じような高層ビルが並んでいる。そのどれにも、同じように人が詰め込まれて、似たような音を立てているのだろう。
「でさ」
唐突に、中村が声のトーンを変えた。
「高橋、最近どうなの」
「…何が」
聞き返すと、彼はにやりと口角を上げる。
「彼女」
その一言で、ああこの流れか、と悟る。何度もやった会話。営業フロアの定番の雑談ネタみたいなものだ。
案の定、隣の席にいた先輩もくるっと椅子を回転させてこちらを見る。
「そうそう、高橋、お前今フリーだろ。なんでだよ。もったいねえなあ」
「いや、それ俺も思うわ。見た目そこそこ良くて、そこそこ稼いでて、そこそこ性格も悪くないって、一番モテるゾーンじゃん」
「性格“も”って余計じゃないですか」
苦笑しながら、翔希は両手を軽く挙げた。ツッコミながらも、どこかで慣れた返し方をしている自覚がある。
「モテますけど? とか言ってもいいんだぞ」
「言ったら言ったで叩かれるじゃないですか」
周囲からくすくすと笑い声が漏れる。フロア全体が巻き込まれるほどではないが、この島だけ小さく盛り上がっている。こういう空気は嫌いじゃない。仕事と仕事の合間に挟まる、ささやかな休憩のようなものだ。
「でも実際どうなんだよ。最後に彼女いたのいつだっけ」
「えーと…一年半前くらい?」
軽く指を折りながら記憶を辿る。前の彼女と別れたのは、二年目の夏頃だったはずだ。飲み会帰りに駅前で別れ話をして、終電ギリギリで乗ったことだけ覚えている。
「お、けっこう経ってんじゃん」
「うわ、意外」
先輩と中村が同時に声を上げた。
「お前さ、よくそれで平気だな。二十代後半で一年半フリーって、わりとレアじゃね」
「仕事楽しいんで」
反射的に出てきた言葉だった。
「それに、別に彼女いないからって死ぬわけじゃないし」
「出たよ、仕事人間アピ」
中村が鼻で笑う。
「でもまあ分かるわ。今の案件の量で彼女いたら、デートの時間捻出するほうが大変そうだもんな」
「そうそう。ほら、中途半端に付き合って相手に寂しい思いさせるくらいなら、最初から作んないほうがいいかなって」
自分でも、「もっともらしいこと言ってんな」と思う。
嫌な言い方ではないし、実際、嘘でもない。仕事で遅くなることは多いし、休日も提案資料のことを考えてしまうことがある。そんな状態で誰かとちゃんと向き合う自信は、あまりない。
でもそれは、本当に「理由」なのか。「言い訳」なのか。
心のどこかで、その区別がぼんやりと曖昧なままになっている。
「でもさ」
先輩が、ペンをくるくる回しながら言った。
「高橋くらいだったら、向こうから寄ってくるだろ。飲み会とかさ」
「寄ってきませんよ。そんな漫画みたいなこと」
「嘘つけ。こないだの合同飲みのとき、隣の部署の子、めっちゃお前のこと見てたじゃん」
中村が口を挟む。
「あー、あのショートの子?」
「そうそう。二次会のカラオケでさ、やたら高橋の歌に食いついてたじゃん。『歌うまいですねー』とか言って」
「それ、社交辞令でしょ」
そこまで細かく覚えている自分に、内心で少し引く。確かに、そんなこともあった。けれど、そのときも「嬉しい」と思う前に、「どう返すのが正解なんだろう」と頭の中で選択肢を探していた。
あの子のことは、嫌いではなかった。むしろ好感は持っていたと思う。笑い方が柔らかくて、一緒にいると場が明るくなる感じだった。
それでも、「連絡先交換しませんか」と自分から言うほどの衝動は湧かなかった。
「…高橋ってさ」
不意に中村が真面目な声色になる。
「誰かにガッとハマるタイプじゃないよな」
「どういう意味だよ」
「いや、悪い意味じゃなくてさ。なんか、常に一歩引いて全体見てる感じ。付き合ってる相手のことも、客観視してそう」
「それ、言われて嬉しいか微妙なラインですね」
「褒めてんだよ、これでも」
中村は笑う。その笑い声に、周りの空気もまた少し緩んだ。
口では軽口を叩きながら、翔希の頭の奥では別の思考が静かに回り始めていた。
「誰かにガッとハマるタイプじゃない」
そう言われて、否定しきれなかった。
高校のときの彼女。クラスメイトで、同じサッカー部のマネージャー。告白されたのは向こうからだった。「翔希と付き合ったら楽しそう」と笑って言われて、そのまま「じゃあ」と頷いた。
大学のときの彼女。飲み会で仲良くなった他学部の子。一緒に課題をやるうちに自然とそういう流れになった。
社会人になってからの彼女。合コンで出会った、同い年の事務職の子。価値観も、生活リズムも、そこそこ合っていた。デートも、旅行も、それなりに楽しかった。
楽しくなかったわけじゃない。嫌いだったわけでもない。手を繋いだり、キスをしたり、ホテルに行ったりすることに、特別な抵抗はなかった。世間一般の「普通のカップル」の範囲内には、入っていたと思う。
ただ、「本気で好き」と自分で自分に言い聞かせたことは、なかった。
別れ話のとき、最後の彼女に言われた言葉を思い出す。
『翔希って、ちゃんと私のこと見てた?』
その質問に、うまく答えられなかった。見ていたつもりだった。でも、「ちゃんと」かどうか、と言われると、とたんに言葉がつかえた。
今も、その答えは出ていない。
「お、そうだ」
別の席から、誰かが声を上げた。
「みんな、ちょっといい?」
声の主は、同期の一人だった。営業部に配属されてからずっと一緒にやってきたメンバーの中の、明るくてよくしゃべるタイプ。
「実はさ、報告がありまして」
その言い方に、フロアの空気が一瞬だけ色を変える。波立つ前の水面みたいに、静かに期待が走った。
「俺、結婚します」
瞬間、どっと歓声が上がった。
「マジで!」
「おおー、ついに!」
「お前が一番乗りかよ!」
「相手、あのときの彼女?」
矢継ぎ早に飛び交う声。椅子から立ち上がる者もいれば、デスク越しに拍手を送る者もいる。誰かが「おめでとう」と言いながら、そばにあったペットボトルを高く掲げた。
自分も、自然と笑っていた。
「すげー、おめでとう」
言葉は心から出てきたものだ。同期の幸せは素直に嬉しい。大学の頃から付き合っていた彼女と、長距離恋愛を乗り越えて結婚するという話は、聞いていて爽やかですらある。
同期は照れ笑いを浮かべながら、指輪の箱の写真や、婚約者とのツーショットをスマホで見せて回っている。周囲は「かわいい」「美人じゃん」「うわ、リア充」と口々に感想を述べる。
その輪の中に自分も加わり、写真を覗き込み、「いいじゃん」と笑う。
その場にいる誰も、自分が少しだけ温度の違う笑顔を浮かべていることには気づかない。自分でも、完全には言葉にできない違和感だった。
胸のどこかが、ぽっかりと空いているような感覚。
羨ましい、というのとも違う。結婚願望が全くないわけではないし、「いつかは」と考えたことがないわけでもない。でも、「ああいうふうになりたい」と具体的に思えたことは、一度もない。
同期の顔が、婚約者の話をするときに自然と柔らかくなるのを見て、「この人にとっての“本気”はこれなんだな」と思う。その“本気”の感覚が、自分の中でどんな形をしているのか、見当がつかない。
飲み物が配られ、簡易的な乾杯が行われる。
「じゃ、高橋から一言」
「え、なんで俺」
「同期代表で」
無茶振りに、笑いながら手を挙げる。こういうときのコメントも、もう慣れてしまった。
「えー…まずは、本当におめでとうございます。仕事でもプライベートでも幸せなの、普通に羨ましいんで」
笑いが起きる。
「俺も、いつか続けるように頑張ります。とりあえず今日のところは、幸せのおこぼれをもらわせてください」
拍手と、軽いヤジと、飲み干される紙コップ。場は盛り上がり、日常のルーチンに少しだけ非日常の味が混ざる。
その中心にいて、翔希は確かに楽しかった。悪い気はしない。同期からの信頼も感じるし、「場を回す」役をこなせる自分に、うっすらとした自負もある。
ただ、その輪が解け、みんながそれぞれの席に戻っていくとき、胸の中に残るのは、何とも言えない空白だった。
パソコンの画面を再び立ち上げ、メールの受信トレイを開きながら、ふと考える。
誰かに、「会いたくてたまらない」と思ったこと。
自分から「会いたい」とメッセージを打って、既読がつくかどうかに一喜一憂したこと。
その人からの通知を、無意識に待ってしまうような時間。
…あったか?
指がキーボードの上で止まる。
高校のとき、大学のとき、社会人になってから。記憶を逆流するように辿ってみる。もちろん、「会えたら嬉しい」と思ったことはある。デートの日が近づけば、それなりにワクワクもした。
でも、「たまらない」と呼べるほどの衝動は、どこにも見当たらない。
「…まあ、そんなドラマみたいな感情、そう簡単にはないよな」
小さく呟いて、自分で自分をごまかすように笑う。誰も聞いていない、独り言。
通常運転に戻ったフロアの音の中に、その声は簡単に飲み込まれて消えた。
夕方、定時を過ぎる頃には、窓の外の空がオレンジから群青へと色を変えつつあった。オフィスの照明が、ビルのガラスに反射している。中にいる自分たちの姿は、外からは見えない。
そのことに、なぜかほっとする。
いつものように、今日やるべきタスクをチェックリストで確認し、残業の必要はなさそうだと判断して、パソコンをシャットダウンする。机の上を軽く片付け、ジャケットを椅子から取って羽織る。
「お先に失礼します」
近くの席に声をかけると、中村が片手を挙げて振り返った。
「おー、お疲れ。今日は真っ直ぐ帰るの?」
「っすね。課長がいないうちに」
「サボる前提かよ」
軽く笑って、翔希はフロアを後にした。
エレベーターで一階まで降り、ビルを出る。夜の空気が、昼間より少しひんやりしている。街灯と店の看板の光が混ざり合い、路面を不規則に照らしていた。
新宿駅へ向かう人の流れに乗りながら、耳には自分の足音と、周りの話し声と、遠くのクラクションが混ざる。鼻には、どこかの店から漂ってくる揚げ物の匂いと、タバコの煙と、夜の湿った空気の匂い。
改札を抜け、ホームまでの階段を降りる。ホームにはすでに数十人の人が並んでいた。スーツ姿だけでなく、私服の学生や、買い物帰りの人も混ざっている。
電車がホームに滑り込んでくる。風圧が前髪を少し揺らした。ドアが開き、人が降り、また乗る。その一連の動きの中に、何度も繰り返してきた自分の動きも含まれている。
車内は、ぎゅうぎゅう詰めというほどではないが、吊り革はほとんど埋まっていた。翔希はドア近くのスペースに立ち、片手でバーを掴む。
電車が動き出すと、車内の人々の体が、同じ方向にわずかに傾く。誰かのバッグが腕に当たり、別の誰かのイヤホンからは、かすかに音楽が漏れ聞こえた。
窓ガラスに、自分の顔が映る。
会社の照明とは違う、電車内の白い光に照らされた自分の顔は、少しだけやつれて見えた。目の下にうっすらとクマがあり、ネクタイは結び目がほんの少し下がっている。
別に、疲れていないわけじゃない。仕事は大変だし、プレッシャーもそれなりにある。でも、それを「嫌だ」と感じるほどではない。むしろ、数字が動いたり、案件が前に進んだりするのを見るときの快感は、確かにある。
仕事は楽しい。同期ともそれなりに仲が良い。上司にも評価されている。家に帰れば、そこそこの広さの部屋があって、好きなものを食べて、好きな動画を見て、好きな時間に寝られる。
飢えてはいない。
なのに、どこか、満たされていない。
そう言葉にしてしまえば、それはそれで大げさな気がする。SNSで「人生が空虚で」だの「何もかもが虚無で」だの言っている人たちを見て、少し引いてしまう自分がいる。そこまでじゃない。そこまで拗らせている自覚はない。
ただ、胸の奥のどこかに、小さな穴が開いているような感覚がある。
さっき同期の結婚報告を聞いたとき、その穴に冷たい風がさっと通り抜けた気がした。それは痛みほどではなく、かといって完全に無視できるほど弱くもない、中途半端な感覚。
「…これが普通なんだろ」
ガラスに向かって、ごく小さな声で呟く。
この年齢で、まだ「本気」の恋愛なんてしたことがない人間なんて、別に珍しくない。恋愛経験がゼロなわけでもないし、誰かと付き合ったこともある。今、たまたま一人なだけだ。
飢えてもいないし、喉から手が出るほど誰かを欲しているわけでもない。ただ、何となく空いているスペースが、いつまで経ってもそのままになっているだけ。
それを「問題」と呼ぶほどの勇気は、まだない。
電車が次の駅に停まり、また動き出す。窓の外の景色は、暗いトンネルと、時折見えるホームの光だけだ。ガラスに映った自分の顔は、揺れるたびにわずかに歪む。
視線をそらし、翔希はポケットからスマホを取り出した。ロック画面には、今日の日付と時刻と、未読の通知がいくつか。友人からのグループチャット、ニュースアプリの速報、ポイントカードアプリのクーポン。
どれも、今すぐ開く必要はない。
画面をスリープに戻し、スマホをポケットにしまう。
胸の奥に残ったモヤっとした感覚は、電車の揺れや、周囲のざわめきでは誤魔化しきれないままだった。
新宿の夜風は、生ぬるくて、やけに冷たかった。ホテルの自動ドアが背後で閉まる音を聞きながら、高橋翔希は、しばらくその場に立ち尽くしていた。ガラスに映る自分の顔は、スーツ姿の「普通の会社員」でしかない。中身は、全然普通じゃなかった。足が勝手に動き出す。駅とは逆方向のネオン街のほうへ、ふらふらと。タバコの煙と、居酒屋の油の匂いと、水っぽい香水の匂いが混ざった空気を吸い込んで、胸の奥がきしむ。『お前には関係ないだろ』村上がベッドの上で言った一言が、耳の奥で何度もリピートされていた。関係ない。そうだ。そういうはずだった。最初から、「ここ」はそういう場所で。平日夜、短時間。名前も呼ばない。仕事の話もしない。感情なし。そこに自分で足を踏み入れておいて、今さら何に傷ついているんだ、と別の自分が冷静に突っ込んでくる。それでも、胸は痛い。『俺がお前とだけ会ってるって、いつ言った?』言われて当然のことを言われた感じがして、余計に痛い。雑居ビルの壁に、キャバクラの看板やカラオケの看板がぎっしり貼られている。どの店も、夜の楽しみを派手なフォントで謳っている。翔希の足は、そのどれにも向かわない。淡々とアスファルトの上を踏みしめるだけだ。信号待ちの横断歩道で立ち止まる。隣にいるスーツ姿の男たちは、仕事帰りのテンションで笑っていた。「でさー、その課長がさ」「マジかよ、それパワハラじゃん」笑いと愚痴と、くだらない冗談と。そういうもので夜は賑わっている。自分も、本来ならその輪のどこかに混ざっているはずだった。「…遊び、なんだからな」小さく呟く。村上の言葉を、そっくりそのままなぞる。遊びなんだから。そう何度も心の中で唱えれば、そのうち本当に軽く感じられるのだろうか。信号が青に変わった。人の波に押されるように、横断歩道を渡る。『じゃあ、なんであん
ベッドの上の空気は、まだ体温の名残りを含んでいた。薄い掛け布団の下で、高橋翔希は仰向けになり、天井のぼんやりした模様を見つめている。隣には、ほんの少し間を空けて、村上遥人が横たわっていた。照明はスタンドライト一つだけ。オレンジがかった光が、狭い部屋の隅々をやんわり照らしている。窓の向こうのネオンは、厚手のカーテンで遮られて、かすかな明るさだけが縁から漏れていた。静かだ。エアコンの低い唸りと、二人分のかすかな呼吸音だけが、この空間のすべてだった。翔希は、自分の胸の上下を意識する。呼吸は、さっきまでより落ち着いている。脈も、ようやく普通の速度に戻りつつあった。それでも、胸の奥には別の意味の荒れが残っている。今、聞かなかったら。もう二度と、聞けない気がした。この沈黙が終わって、ベッドから降りて、シャワーを浴びて、服を着て、エレベーターに乗って。それで「お疲れさま」とか「気をつけて」とか言って別れたら。自分は、ただの「遊び相手の一人」として、何も知らないまま、この人のスケジュールのどこかに薄く書き込まれたまま、やがて消えていく。自分がそういう位置にいるのは、最初から分かっていたはずだ。平日夜/短時間。感情なしの関係希望。名前聞かないで。あのプロフィール文を見たときから、ここはそういう場所だと理解していた。理解していた、はずなのに。喉の奥がきゅっと詰まる。言葉を飲み込んだままの沈黙が、部屋の中でどんどん重くなっていく。隣から、布擦れの音がした。村上が、寝返りを打ったらしい。ベッドが小さく揺れる。横目でそちらをうかがうと、村上は片腕を枕にして横向きになっていた。天井ではなく、壁の時計のほうをぼんやり見ている。横顔の輪郭が、スタンドライトの光で柔らかく縁取られる。その横顔を、ベッドの上でも、会社のデスクでも、同じくらい見てきた。どちらの顔も、好きだった。「…」喉が鳴る。
翌朝の新宿は、やけに白く眩しかった。高橋翔希は、地下から地上に上がるエスカレーターの途中で、思わず目を細める。ビルのガラスに反射した光が、まだ完全に覚めきっていない頭をじわじわ焼くようだった。寝不足のせいだ。眠れなかったわけではない。横になって、目を閉じて、気づいたら朝だった。それでも、体のどこかに眠り損ねた疲れが残っている。二十階の営業フロアに着くと、いつも通りの喧騒が迎えてくれた。電話の音。キーボードを叩く音。プリンターの唸り。誰かの笑い声。その全部が、いつもより半音高く響いている気がする。「おはよー、高橋」斜め前の席から、中村が手を挙げた。「…おはようございます」自分でも分かるくらい、声に覇気がない。「いや、お前さ」椅子をくるりとこちらに向けた中村が、じっと顔を覗き込んでくる。「なんか顔、死んでね」「失礼すぎません?」思わず笑って返す。口角だけは、ちゃんと上がる。「いやいや、マジで。クマってほどじゃないけどさ、その…魂が半分くらいどっかいってる感じ」「魂は全部ここにあります」「ほんとぉ?」わざとらしく首を傾げられて、肩をすくめる。「ちょっと寝不足なだけですよ。動画見すぎました」「またそれ。ほどほどにしなよ。営業は顔が命なんだから」「はいはい」軽口を交わしながらも、翔希は内心で、自分の顔がどれくらい「いつも通り」からズレているのかを気にしていた。鏡を見る余裕もなく家を出てしまったせいで、今の自分の表情を知っているのは中村たちだけだ。村上がそれを見たら、どう思うだろう。…そんなことまで考えている自分が、正直きつい。*午前中のタスクをひととおり片付けた頃、社内チャットがピコンと鳴った。管理部からの一斉連絡。稟議ルートの変更について。「うわ、また変わ
約束のある日の時間は、いつもより少しだけ軽く進む。その日の高橋翔希も、朝からどこか浮き足立っていた。理由は、誰にも言っていない。営業フロアの二十階。いつも通りの朝会、いつも通りのメール整理、いつも通りのタスク確認。ディスプレイの下には、何気ない顔で置かれたスマホ。通知はオフにしている。それでも、一度約束を交わした夜は、画面の向こうにいる相手の存在を、意識から完全に消すことができなかった。『今日、いつものところで』昨日、アプリ経由で届いたメッセージ。『二十時くらいなら大丈夫』そう返したあと、時間も場所も確定している。具体的なホテル名と部屋番号が、すでにチャットの履歴に残っている。平日夜、短時間。いつものパターン。それだけのことなのに、朝から何度も頭の中でその文字列をなぞっていた。「高橋ー」斜め前の席から、中村が声をかけてくる。「この前のB社の資料、最新版どこ入ってんの」「あ、共有フォルダの二〇二四フォルダっす。『B社_第二提案』のところです」「サンキュー。お、相変わらず整理されてんね」「村上さんに叩き込まれましたから」笑いながら答え、また画面に視線を戻す。午前中の商談は無難に終わった。昼食はコンビニの冷やし麺で済ませ、午後の打ち合わせもトラブルなく消化する。仕事は仕事で、ちゃんと好きだ。案件がうまく回るのは気持ちいいし、数字が積み上がっていくのを見るのは純粋に嬉しい。それでも今日は、どこか頭の片隅に、別のスケジュールが居座っている。二十時。ホテル。白いシーツ。シャワーの音。ネクタイをほどく指先。ふと、喉の奥が乾いた気がして、小さく息を飲んだ。「…集中しろ」誰にも聞こえないくらいの小ささで自分に言い聞かせ、手元の資料に目を落とす。*夕方、十八時少し手前。デスクの右隅の時計を、何度目か分からないくらいに確認する。
平日の夜が、静かに形を変えていた。高橋翔希にとって、新宿のネオンはもう「仕事帰りの通り道」ではない。時折、その光のどこかに、あのビジネスホテルのロゴを探してしまう自分がいる。平日夜。短時間。村上遥人のプロフィールに書かれたその言葉が、現実の時間軸にべったりと貼りつくようになってから、もう何度夜を重ねただろう。仕事を終え、エレベーターで一階に降りる。ビルのガラス扉を抜ける風はいつもと同じ温度なのに、ジャケットの内側のスマホは、前より少しだけ重くなった気がしていた。ポケットの中で、スマホが小さく震える。翔希は、無意識のうちに歩みを緩めた。画面を取り出し、ロックを外す。新着メールでも、同期からのLINEでもない、小さなアイコンがひとつ。あのアプリの通知だ。『今日はお疲れさま』短いその一文だけ。村上からのメッセージは、いつもこんなふうにさりげない。絵文字も顔文字もなく、句読点さえ少なめで、感情の温度が読み取りづらい。それでも、確かに自分宛だということだけは分かる。「…お疲れさまです」歩きながら、翔希は打ち返す。親指がキーをなぞる感覚が、必要以上に意識に上る。返事はすぐには来ない。その間に、改札を抜け、ホームに降りる。ステンレスの手すりの冷たさが、指先に残る。電車に乗り込んでも、ポケットの中のスマホが気になって仕方がない。つい、また取り出す。新着は…ない。画面の上部、小さな緑の丸に視線が吸い寄せられる。オンライン。今、この瞬間も、村上はアプリを開いている。「…誰と喋ってんだろ」心の中で漏れる疑問は、まだごく小さい。自分がメッセージを送っているからオンラインなのか、それとも、自分以外の誰かとやり取りをしているのか。そんなの、考えたところで分かるはずがない。そもそも、自分がそこを気にする権利なんてあるのか。眉間にうっすらと皺が寄る。
最初の「また会う?」から、もう何度目の夜になるのか、翔希には正確な回数が分からなくなっていた。平日夜。退社時間少し過ぎの新宿。ホテルのエントランスをくぐるときの、空調の匂いとガラス越しの照明は、もう見慣れた風景になりつつある。エレベーターの鏡に映る自分の顔も、「ただ仕事帰りに寄り道をする社会人」のそれだ。ネクタイを少し緩めて、指定された階のボタンを押す。今夜の部屋番号は、六〇七。二週間前は五一二、その前は四〇一。階も番号も違うのに、中身はほとんど同じ間取りだということも、もう知っている。廊下に出て、足元のカーペットの感触を確かめるように歩く。心臓の鼓動が、相変わらず少し早くなるのは、慣れではどうにもならなかった。「…」部屋の前で足を止め、深呼吸をひとつ。ノックする前に、スマホで一言だけメッセージを送る。『着きました』ほんの数秒後、カチャリと、内側からドアノブが回る音がした。少しだけ開いた隙間から、白い光と人影が覗く。「お疲れ」村上が、少しだけ緩んだネクタイ姿で立っていた。ジャケットは既に脱いでいて、シャツの袖を肘までまくっている。その腕に浮かぶ血管や、手首の細さに、視線が一瞬吸い寄せられる。「お疲れさまです」そう返すと、村上は顎で中を示した。「入って」部屋の中に入ると、前と同じような匂いがした。柔軟剤とも芳香剤ともつかない、ホテル特有の混ざった匂い。ベッドの上には、まだ誰の体温も残っていない白いシーツが、きちんと伸ばされている。村上は、鞄をテーブルに置くと、当たり前のようにバスルームのほうへ歩いていく。「先、シャワー浴びるから」「はい」これも、いつもの流れだ。一度だけ軽くシャワーを浴びてから、触れる。それは暗黙のルールというより、村上の習慣になっていた。バスルームのドアが閉まり、水の音が聞こえてくる。