เข้าสู่ระบบ午後三時を少し回った頃、営業フロアのざわめきが一段落し始めていた。
電話のコール音も先ほどまでの嵐のような鳴り方ではなく、ところどころで不規則に鳴る程度になっている。プリンターの機械音と、キーボードを叩く音が、空調の低い唸り声と一緒に、背景のノイズみたいに混ざっていた。
高橋翔希は、さっきまで使っていた資料をまとめてクリアファイルに戻し、背もたれに体を預けて大きく伸びをした。肩の骨がコキ、と小さく鳴る。視界の端では、モニターの画面がスリープに入る直前の薄暗い光を放っていた。
「ふー…」
息を吐き出すと、コーヒーと紙と人の匂いが混ざったオフィスの空気が肺の奥まで入り込んでくる。この匂いにも、もう慣れた。嫌いではない。ここにいれば、自分は「仕事をしている」という分かりやすい役割を持てる。
背後から、椅子が床を擦る音がした。
「お疲れさまっす、エース」
振り向く前から、誰の声か分かっていた。
振り返ると、案の定、中村拓巳が缶コーヒーを片手に立っていた。ネクタイは少し緩められ、ワイシャツの袖もひと折りまくってある。そのラフさでなぜかきちんと見えるのが、彼の得なところだ。
「誰がエースだよ。やめてくださいって」
そう言いつつ、翔希は笑って返した。
「さっきの小口案件、サクッと決めてきたって聞いたぞ。石田さん、機嫌良かったじゃん」
「小口って言っても、あれ同時並行で三件回してたんでけっこう大変だったんですよ?」
「はいはい、謙遜、謙遜」
中村は、翔希のデスク横の空きスペースに腰を預けるようにもたれかかる。視線は翔希ではなく、フロアの奥のほうをなんとなく眺めている。
午後の光が窓越しに差し込み、パーティションの上に細い影を落としていた。ガラスの向こうには、同じような高層ビルが並んでいる。そのどれにも、同じように人が詰め込まれて、似たような音を立てているのだろう。
「でさ」
唐突に、中村が声のトーンを変えた。
「高橋、最近どうなの」
「…何が」
聞き返すと、彼はにやりと口角を上げる。
「彼女」
その一言で、ああこの流れか、と悟る。何度もやった会話。営業フロアの定番の雑談ネタみたいなものだ。
案の定、隣の席にいた先輩もくるっと椅子を回転させてこちらを見る。
「そうそう、高橋、お前今フリーだろ。なんでだよ。もったいねえなあ」
「いや、それ俺も思うわ。見た目そこそこ良くて、そこそこ稼いでて、そこそこ性格も悪くないって、一番モテるゾーンじゃん」
「性格“も”って余計じゃないですか」
苦笑しながら、翔希は両手を軽く挙げた。ツッコミながらも、どこかで慣れた返し方をしている自覚がある。
「モテますけど? とか言ってもいいんだぞ」
「言ったら言ったで叩かれるじゃないですか」
周囲からくすくすと笑い声が漏れる。フロア全体が巻き込まれるほどではないが、この島だけ小さく盛り上がっている。こういう空気は嫌いじゃない。仕事と仕事の合間に挟まる、ささやかな休憩のようなものだ。
「でも実際どうなんだよ。最後に彼女いたのいつだっけ」
「えーと…一年半前くらい?」
軽く指を折りながら記憶を辿る。前の彼女と別れたのは、二年目の夏頃だったはずだ。飲み会帰りに駅前で別れ話をして、終電ギリギリで乗ったことだけ覚えている。
「お、けっこう経ってんじゃん」
「うわ、意外」
先輩と中村が同時に声を上げた。
「お前さ、よくそれで平気だな。二十代後半で一年半フリーって、わりとレアじゃね」
「仕事楽しいんで」
反射的に出てきた言葉だった。
「それに、別に彼女いないからって死ぬわけじゃないし」
「出たよ、仕事人間アピ」
中村が鼻で笑う。
「でもまあ分かるわ。今の案件の量で彼女いたら、デートの時間捻出するほうが大変そうだもんな」
「そうそう。ほら、中途半端に付き合って相手に寂しい思いさせるくらいなら、最初から作んないほうがいいかなって」
自分でも、「もっともらしいこと言ってんな」と思う。
嫌な言い方ではないし、実際、嘘でもない。仕事で遅くなることは多いし、休日も提案資料のことを考えてしまうことがある。そんな状態で誰かとちゃんと向き合う自信は、あまりない。
でもそれは、本当に「理由」なのか。「言い訳」なのか。
心のどこかで、その区別がぼんやりと曖昧なままになっている。
「でもさ」
先輩が、ペンをくるくる回しながら言った。
「高橋くらいだったら、向こうから寄ってくるだろ。飲み会とかさ」
「寄ってきませんよ。そんな漫画みたいなこと」
「嘘つけ。こないだの合同飲みのとき、隣の部署の子、めっちゃお前のこと見てたじゃん」
中村が口を挟む。
「あー、あのショートの子?」
「そうそう。二次会のカラオケでさ、やたら高橋の歌に食いついてたじゃん。『歌うまいですねー』とか言って」
「それ、社交辞令でしょ」
そこまで細かく覚えている自分に、内心で少し引く。確かに、そんなこともあった。けれど、そのときも「嬉しい」と思う前に、「どう返すのが正解なんだろう」と頭の中で選択肢を探していた。
あの子のことは、嫌いではなかった。むしろ好感は持っていたと思う。笑い方が柔らかくて、一緒にいると場が明るくなる感じだった。
それでも、「連絡先交換しませんか」と自分から言うほどの衝動は湧かなかった。
「…高橋ってさ」
不意に中村が真面目な声色になる。
「誰かにガッとハマるタイプじゃないよな」
「どういう意味だよ」
「いや、悪い意味じゃなくてさ。なんか、常に一歩引いて全体見てる感じ。付き合ってる相手のことも、客観視してそう」
「それ、言われて嬉しいか微妙なラインですね」
「褒めてんだよ、これでも」
中村は笑う。その笑い声に、周りの空気もまた少し緩んだ。
口では軽口を叩きながら、翔希の頭の奥では別の思考が静かに回り始めていた。
「誰かにガッとハマるタイプじゃない」
そう言われて、否定しきれなかった。
高校のときの彼女。クラスメイトで、同じサッカー部のマネージャー。告白されたのは向こうからだった。「翔希と付き合ったら楽しそう」と笑って言われて、そのまま「じゃあ」と頷いた。
大学のときの彼女。飲み会で仲良くなった他学部の子。一緒に課題をやるうちに自然とそういう流れになった。
社会人になってからの彼女。合コンで出会った、同い年の事務職の子。価値観も、生活リズムも、そこそこ合っていた。デートも、旅行も、それなりに楽しかった。
楽しくなかったわけじゃない。嫌いだったわけでもない。手を繋いだり、キスをしたり、ホテルに行ったりすることに、特別な抵抗はなかった。世間一般の「普通のカップル」の範囲内には、入っていたと思う。
ただ、「本気で好き」と自分で自分に言い聞かせたことは、なかった。
別れ話のとき、最後の彼女に言われた言葉を思い出す。
『翔希って、ちゃんと私のこと見てた?』
その質問に、うまく答えられなかった。見ていたつもりだった。でも、「ちゃんと」かどうか、と言われると、とたんに言葉がつかえた。
今も、その答えは出ていない。
「お、そうだ」
別の席から、誰かが声を上げた。
「みんな、ちょっといい?」
声の主は、同期の一人だった。営業部に配属されてからずっと一緒にやってきたメンバーの中の、明るくてよくしゃべるタイプ。
「実はさ、報告がありまして」
その言い方に、フロアの空気が一瞬だけ色を変える。波立つ前の水面みたいに、静かに期待が走った。
「俺、結婚します」
瞬間、どっと歓声が上がった。
「マジで!」
「おおー、ついに!」
「お前が一番乗りかよ!」
「相手、あのときの彼女?」
矢継ぎ早に飛び交う声。椅子から立ち上がる者もいれば、デスク越しに拍手を送る者もいる。誰かが「おめでとう」と言いながら、そばにあったペットボトルを高く掲げた。
自分も、自然と笑っていた。
「すげー、おめでとう」
言葉は心から出てきたものだ。同期の幸せは素直に嬉しい。大学の頃から付き合っていた彼女と、長距離恋愛を乗り越えて結婚するという話は、聞いていて爽やかですらある。
同期は照れ笑いを浮かべながら、指輪の箱の写真や、婚約者とのツーショットをスマホで見せて回っている。周囲は「かわいい」「美人じゃん」「うわ、リア充」と口々に感想を述べる。
その輪の中に自分も加わり、写真を覗き込み、「いいじゃん」と笑う。
その場にいる誰も、自分が少しだけ温度の違う笑顔を浮かべていることには気づかない。自分でも、完全には言葉にできない違和感だった。
胸のどこかが、ぽっかりと空いているような感覚。
羨ましい、というのとも違う。結婚願望が全くないわけではないし、「いつかは」と考えたことがないわけでもない。でも、「ああいうふうになりたい」と具体的に思えたことは、一度もない。
同期の顔が、婚約者の話をするときに自然と柔らかくなるのを見て、「この人にとっての“本気”はこれなんだな」と思う。その“本気”の感覚が、自分の中でどんな形をしているのか、見当がつかない。
飲み物が配られ、簡易的な乾杯が行われる。
「じゃ、高橋から一言」
「え、なんで俺」
「同期代表で」
無茶振りに、笑いながら手を挙げる。こういうときのコメントも、もう慣れてしまった。
「えー…まずは、本当におめでとうございます。仕事でもプライベートでも幸せなの、普通に羨ましいんで」
笑いが起きる。
「俺も、いつか続けるように頑張ります。とりあえず今日のところは、幸せのおこぼれをもらわせてください」
拍手と、軽いヤジと、飲み干される紙コップ。場は盛り上がり、日常のルーチンに少しだけ非日常の味が混ざる。
その中心にいて、翔希は確かに楽しかった。悪い気はしない。同期からの信頼も感じるし、「場を回す」役をこなせる自分に、うっすらとした自負もある。
ただ、その輪が解け、みんながそれぞれの席に戻っていくとき、胸の中に残るのは、何とも言えない空白だった。
パソコンの画面を再び立ち上げ、メールの受信トレイを開きながら、ふと考える。
誰かに、「会いたくてたまらない」と思ったこと。
自分から「会いたい」とメッセージを打って、既読がつくかどうかに一喜一憂したこと。
その人からの通知を、無意識に待ってしまうような時間。
…あったか?
指がキーボードの上で止まる。
高校のとき、大学のとき、社会人になってから。記憶を逆流するように辿ってみる。もちろん、「会えたら嬉しい」と思ったことはある。デートの日が近づけば、それなりにワクワクもした。
でも、「たまらない」と呼べるほどの衝動は、どこにも見当たらない。
「…まあ、そんなドラマみたいな感情、そう簡単にはないよな」
小さく呟いて、自分で自分をごまかすように笑う。誰も聞いていない、独り言。
通常運転に戻ったフロアの音の中に、その声は簡単に飲み込まれて消えた。
夕方、定時を過ぎる頃には、窓の外の空がオレンジから群青へと色を変えつつあった。オフィスの照明が、ビルのガラスに反射している。中にいる自分たちの姿は、外からは見えない。
そのことに、なぜかほっとする。
いつものように、今日やるべきタスクをチェックリストで確認し、残業の必要はなさそうだと判断して、パソコンをシャットダウンする。机の上を軽く片付け、ジャケットを椅子から取って羽織る。
「お先に失礼します」
近くの席に声をかけると、中村が片手を挙げて振り返った。
「おー、お疲れ。今日は真っ直ぐ帰るの?」
「っすね。課長がいないうちに」
「サボる前提かよ」
軽く笑って、翔希はフロアを後にした。
エレベーターで一階まで降り、ビルを出る。夜の空気が、昼間より少しひんやりしている。街灯と店の看板の光が混ざり合い、路面を不規則に照らしていた。
新宿駅へ向かう人の流れに乗りながら、耳には自分の足音と、周りの話し声と、遠くのクラクションが混ざる。鼻には、どこかの店から漂ってくる揚げ物の匂いと、タバコの煙と、夜の湿った空気の匂い。
改札を抜け、ホームまでの階段を降りる。ホームにはすでに数十人の人が並んでいた。スーツ姿だけでなく、私服の学生や、買い物帰りの人も混ざっている。
電車がホームに滑り込んでくる。風圧が前髪を少し揺らした。ドアが開き、人が降り、また乗る。その一連の動きの中に、何度も繰り返してきた自分の動きも含まれている。
車内は、ぎゅうぎゅう詰めというほどではないが、吊り革はほとんど埋まっていた。翔希はドア近くのスペースに立ち、片手でバーを掴む。
電車が動き出すと、車内の人々の体が、同じ方向にわずかに傾く。誰かのバッグが腕に当たり、別の誰かのイヤホンからは、かすかに音楽が漏れ聞こえた。
窓ガラスに、自分の顔が映る。
会社の照明とは違う、電車内の白い光に照らされた自分の顔は、少しだけやつれて見えた。目の下にうっすらとクマがあり、ネクタイは結び目がほんの少し下がっている。
別に、疲れていないわけじゃない。仕事は大変だし、プレッシャーもそれなりにある。でも、それを「嫌だ」と感じるほどではない。むしろ、数字が動いたり、案件が前に進んだりするのを見るときの快感は、確かにある。
仕事は楽しい。同期ともそれなりに仲が良い。上司にも評価されている。家に帰れば、そこそこの広さの部屋があって、好きなものを食べて、好きな動画を見て、好きな時間に寝られる。
飢えてはいない。
なのに、どこか、満たされていない。
そう言葉にしてしまえば、それはそれで大げさな気がする。SNSで「人生が空虚で」だの「何もかもが虚無で」だの言っている人たちを見て、少し引いてしまう自分がいる。そこまでじゃない。そこまで拗らせている自覚はない。
ただ、胸の奥のどこかに、小さな穴が開いているような感覚がある。
さっき同期の結婚報告を聞いたとき、その穴に冷たい風がさっと通り抜けた気がした。それは痛みほどではなく、かといって完全に無視できるほど弱くもない、中途半端な感覚。
「…これが普通なんだろ」
ガラスに向かって、ごく小さな声で呟く。
この年齢で、まだ「本気」の恋愛なんてしたことがない人間なんて、別に珍しくない。恋愛経験がゼロなわけでもないし、誰かと付き合ったこともある。今、たまたま一人なだけだ。
飢えてもいないし、喉から手が出るほど誰かを欲しているわけでもない。ただ、何となく空いているスペースが、いつまで経ってもそのままになっているだけ。
それを「問題」と呼ぶほどの勇気は、まだない。
電車が次の駅に停まり、また動き出す。窓の外の景色は、暗いトンネルと、時折見えるホームの光だけだ。ガラスに映った自分の顔は、揺れるたびにわずかに歪む。
視線をそらし、翔希はポケットからスマホを取り出した。ロック画面には、今日の日付と時刻と、未読の通知がいくつか。友人からのグループチャット、ニュースアプリの速報、ポイントカードアプリのクーポン。
どれも、今すぐ開く必要はない。
画面をスリープに戻し、スマホをポケットにしまう。
胸の奥に残ったモヤっとした感覚は、電車の揺れや、周囲のざわめきでは誤魔化しきれないままだった。
翔希が目を開けたとき、最初に目に入ったのは、白い天井の小さなシミだった。マンションの古い天井板に浮いた、不規則なにじみ。薄い灰色が輪郭をぼかし、じっと見ていると、そこだけ時間が止まっているみたいに感じる。ぼんやりと焦点を合わせているうちに、枕元から、微かな寝息と、布団の擦れる音が耳に届いた。すぐ横には、うつ伏せ気味に眠っている村上の背中がある。薄いグレーのTシャツ越しに、規則正しく上下する呼吸。枕に押しつぶされた後頭部から、少し跳ねた髪がはみ出している。部屋のカーテンは、半分だけ開いていた。隙間から朝の光が斜めに差し込み、埃の粒をきらきらと浮かび上がらせている。窓の外からは、遠くの環状線を走る車の音と、近くの保育園から流れてくる子どもの声が、薄い壁越しににじんで聞こえた。ここは、新宿の古い1Kマンションの一室。すっかり見慣れてしまった部屋。けれど、朝、こうして二人でスーツに着替える前の、この一瞬だけは、いまだに少し現実味が薄い。「……七時半」枕元のスマホに手を伸ばし、画面を点ける。液晶の光に目を細めながら時刻を確認すると、会社に行くにはちょうどいい時間だ。目覚ましはとっくに止めてある。たぶん、村上が無意識に止めたのだろう。アラームの履歴が、そんな痕跡を残していた。もう一度、隣に視線を落とす。寝ている村上の横顔は、会社にいるときとは少し違う。眉間に寄りがちな皺が緩み、口元も、ほんの少しだけ開いている。頬にかかる髪の線を目でなぞっていると、胸の奥がふわりとくすぐったくなる。こんな顔を知っているのは、自分だけだと思うと、妙な優越感と同時に、怖さも生まれる。抱きしめたくなる衝動と、この瞬間を壊したくないという臆病さが、胸の中で混ざり合う。「……起きますかね」誰に聞かせるでもなく呟きながら、翔希はそっと身体を起こした。布団が擦れる音に、村上が微かに身じろぎする。肩がひとつ上下し、眠りの深さを確かめるみたいに長く息を吐いたあと、うっすらと瞼が持ち上がった。「ん……」掠れた声が漏れる。翔
古めのマンションの前に着く頃には、小雨の気配はすっかり消えていた。アスファルトに残っていた小さな水たまりも、足で踏みしめられ、車に弾かれ、だいぶ薄まっている。代わりに、マンションの外壁に染み込んだ湿り気と、どこかの部屋から漏れてくるカレーの匂いが、鼻の奥をくすぐった。翔希は、建物を見上げた。見慣れたコンクリートの肌。ところどころ黒ずんだ手すり。何度も通ったはずなのに、会社から一緒に歩いてきたせいか、少しだけ違って見える。エントランスのオートロックに番号を打ち込むのは、もう迷いがない。隣で村上がさっとキーを押し、その間に翔希は肩からバッグを掛け直す。開いたドアから、むっとした室内の空気が一気に流れ込んできて、外気と混ざった。階段を上がる音が、コツコツと一定のリズムで響く。最初の頃は、段数を数える余裕なんてなかった。今は、二階に上がるまで何段あるか、何となく感覚で分かるようになっている自分に気づき、心の中で少しだけ笑う。いつもの階で足を止め、いつものドアの前に立つ。村上がポケットから鍵を出し、慣れた動きで回す。その所作を横目で見ながら、翔希は「ああ、本当に『いつもの』なんだな」と妙に現実味を帯びた感慨を覚える。中から、きしむような小さな音を立ててドアが開いた。ふわり、と漂ってくるのは、洗剤と柔軟剤と、少しだけタバコの残り香が混ざった、村上の部屋の匂い。初めて来た日の、あの少し甘苦い印象が、今はどこか落ち着く香りになっている。「お邪魔します」口ではそう言いながら、翔希の手はもう、自分の靴の位置を決めるべき場所を知っている。玄関の端、壁から一足分空けた位置。最初の頃は遠慮して一番端に詰めて置いていたのが、今は自然と村上の革靴の隣に並ぶ形に落ち着いていた。革靴を脱ぎ、揃えて置く。その隣には、何度も見てきた村上の黒い靴。その横に自分の靴が馴染んで並んでいる光景が、胸のどこかをくすぐる。「あ、そこに掛けといて」視線を上げると、村上がジャケットを脱ぎながら顎で示したのは、玄関横のハンガーラックだった。そこにも変化がある。以前はスーツとコートでいっぱいだったラックに、今は少し隙間が作られていて、そこに翔希のジャケットが掛
新宿駅方面に向かう大通りは、雨上がりの光をまとっていた。さっきまで降っていた小雨が止んだばかりで、街路樹の葉からは時おり雫が落ち、アスファルトの上に小さな輪を広げる。車のヘッドライトと、ビルのネオンが濡れた路面に映り込んで、色の境界線を曖昧にしていた。高橋翔希は、その光のゆらめきをぼんやりと追いながら、肩にかけたバッグの持ち手を握り直した。会社を出たときよりも、少しだけ空気が冷たくなっている気がする。スーツの襟元に入り込む湿った風が、ほてった首筋を撫でていく。隣では、村上遥人が同じ速度で歩いていた。歩幅はほとんど同じで、一歩進むたびに靴底の音が微妙にずれて重なっては、また離れていく。信号待ちで横断歩道の前に立ち止まると、周囲には同じようなスーツ姿の会社員たちが集まってきた。手には折りたたんだ傘、紙袋、コンビニの袋。それぞれの一日の終わりが、同じ赤信号の前で足並みを揃えている。翔希は、何気なく右側に立った。遥人との距離は、肩と肩がかすかに触れるか触れないかくらい。以前なら「近すぎる」と感じて半歩引いていた距離だが、今はその微妙な接触が、むしろ落ち着きをもたらしていた。赤信号の光が、二人の顔色をわずかに変える。車道を走り抜けていくタクシーのライトが、視界の端で流れていく。排気ガスと、濡れたアスファルトが混ざった匂いが、吸い込むたびに胸の奥に重くたまった。ふと、指先に柔らかいものが触れた。自分の手の甲に、誰かの指がかすかに擦れたような感覚。翔希が視線を落とすと、遥人の左手の甲が、ほんの少しだけ自分の右手に寄っていた。以前なら、反射的に引っ込めていたはずだ。血の気が引いて、周囲に誰かが見ていないかと慌ててきょろきょろしただろう。けれど、今は違かった。翔希は、わざと何でもない顔をしたまま、その指先に自分の指をそっと重ねた。人混みの中で、ごく自然な動きに見えるように、慎重に。誰かの視線があるとしたら、その程度の触れ方なら、たまたまぶつかったくらいにしか映らないだろう。重ねられた指先が、一瞬だけ緊張したように固くなり、それからゆっくりと力を抜いた。遥人の指が、わずかに握り返してくる。ポケットの中に一緒に手を突っ込んでいるわけでも、露
夕方のチャイムは、このフロアには鳴らない。代わりに、各自のモニターの右下で、定時を知らせる小さなポップアップが静かに消えていく。高橋翔希は、それを斜めに視界に入れながら、まだ開いたままの見積書の数字をひとつひとつ確認していった。桁の打ち間違いがないか、単価が最新のものになっているか、営業の勘と、ここ一年で身についた「管理部がどこを気にするか」という感覚で、ざっと全体を見渡す。隣のデスクでは、四月に入ってきたばかりの後輩が、未だに慣れない様子でテンキーを叩いている。数字を打つ指先が、少しだけぎこちない。「ここ、単価こっちね」翔希は椅子ごとそちらへ滑り、モニターを指さした。「あ、すみません」「いや、最初っから全部できる人いないんで。単価の表、最新のやつブクマしといたほうが早いですよ」「はい…ありがとうございます」口をついて出る言葉が、気づけばすっかり「先輩」側のものになっている。半年前までは、自分も似たようなテンションで中村に助けられていたはずなのに、と翔希は小さく笑った。デスクの端に置いてあるマグカップには、もう冷めたコーヒーが半分ほど残っている。空調の乾いた風、コピー機の低い駆動音、人の話し声とマウスのクリック音が混ざった雑音。その全部が、毎日の背景として身体に染みついている。モニターのタスクバーに、チャットアプリのアイコンがひとつ瞬いた。社内用のツールだ。通知のポップアップに表示された送り主の名前を見て、翔希は意識して表情を変えないよう、背筋を伸ばした。「高橋くん、今日どんな感じ?」管理部の全体チャットに紛れて届いた、個別メッセージの一行。送り主は、村上遥人。数ヶ月前と違うのは、これが「管理部の誰か」ではなく、確実に自分の知っている誰かからのメッセージだということだ。画面越しではなく、生の声の温度を知っている相手。翔希はキーボードに指を滑らせた。「今、見積最終確認してるところです。あと十五分くらいで上がれそうです」返送したメッセージが送信済みの欄に沈んだ瞬間、すぐにまた通知が弾んだ。
それからの時間は、音を立てずに進んでいった。派手な出来事があったわけではない。ただ、気づけば、ホテルの白いシーツよりも、村上遥人の古い1Kの布団の感触のほうが、翔希の中で「いつもの夜」に近づいていた。ある平日の夜、高橋翔希は、いつもの新宿のビジネスホテルではなく、少し路地を入った先の古いマンションの前で立ち止まっていた。数週間前に初めて上がった階段。二、三本ほどペンキが剥げた手すり。雨上がりで少し湿ったコンクリートの匂いが、鼻の奥にまとわりつく。インターホンを押すと、少し間があってから、かすかに聞き慣れた声が返ってきた。「はい」「高橋です」「ああ、開けるね」ブザーの音とともにオートロックが外れ、扉が重い音を立てて開く。エレベーターのない階段を上がりながら、翔希は何度目かの、しかしまだ慣れきらない高鳴りを胸の中で確かめた。三階の廊下に出ると、薄いカーペットの匂いと、どこかの部屋から漏れるテレビの音が交じり合っていた。指定の部屋番号の前まで歩き、軽くノックする。「開いてるよ」内側からそう声がして、ドアノブを回すと、少し油の抜けた金属音がした。扉を引くと、見慣れてきたワンルームの景色が広がる。キッチンには、シンクに伏せられたマグカップが二つ。テーブルの上にはコンビニの袋と、簡単な総菜パック。部屋の中央には、布団ではなく、小さなソファとローテーブルが置かれている。その向こう側に、広げたままの洗濯物がハンガーに吊られていた。「お疲れ」キッチンの手前で、村上が片手を上げた。シャツの袖を肘までまくり、ネクタイはすでに外してテーブルの端に置いてある。眼鏡の跡が鼻の付け根にうっすら残っていた。「お疲れさまです。今日もありがとうございます」靴を脱ぎながらそう言うと、村上は小さく笑った。「そんなに改まらなくていいのに。ほら、適当に座ってて。ご飯、温めるから」「何買ってきたんですか」「たいしたものじゃないよ。コンビニの焼き魚とサラダと…あと、高橋くんが好きって言ってた唐揚げ」
朝の通勤電車が、ビル群の隙間を縫うようにガタン、と揺れた。高橋翔希は吊革を握りしめたまま、ドアの向こうに流れる景色をぼんやりと眺めた。窓ガラスには、スーツ姿の自分の顔が薄く映っている。ネクタイはきちんと締まり、ワイシャツの襟も、いつも通りに収まっているはずなのに、その「いつも通り」がひどく他人のものに思えた。昨夜、自分は誰かを抱いていた。それも、ただの「誰か」じゃない。村上遥人という名前を、何度も喉の奥で転がしながら、相手の体温にしがみついていた。肩に噛みつくときの塩辛い汗の味も、耳元で震えた息も、まだ肌のどこかに貼り付いている気がする。そのすぐ翌朝に、こうして満員電車に押し込まれて、会社へ向かっている。このギャップに、軽い眩暈みたいなものが込み上げた。ドア横の広告には、新築マンションやブライダルフェアのポスター。笑顔のカップルの写真に「理想の未来を一緒に」と白い文字が踊っている。昨日までなら視界の端をただ通り過ぎていたはずのその言葉が、今日は妙に目に刺さった。理想の未来。自分の理想は、何だったんだっけ、と翔希は思う。二十代半ばの営業職。数字は悪くない。上司からの評価もそこそこ。いずれ結婚して、どこかの郊外に2LDKでも構えて、週末に大型スーパーでまとめ買い…そういう「普通」が、なんとなく自分の前にも用意されているのだと、どこかで信じていた。でも今、あの薄暗いホテルの部屋や、古い1Kマンションの見慣れない天井が、頭の中で強く残っている。あの場所で、村上を抱きしめていた自分と、この広告の中の「未来」を目指す自分は、同じ人間なのか、本当に、と考えると、足元がふわついた。電車が駅に滑り込み、乗客がざわ、と動き出す。人の波に押されながらホームに降り、ビルへ向かう。オフィスビルのエントランスに入ると、冷房の冷たい風がスーツの布越しに肌を撫でた。エレベーターホールには、あちこちのフロアへ向かう社員たちが集まっている。二十階のボタンのライトがぼんやりと光っていた。翔希は、その列の中に自然に混ざる。扉が開き、人がぎゅっと詰め込まれる。革靴の匂い、スーツの生地に染み付いた柔軟剤と香水の匂いが







