เข้าสู่ระบบインストール中の円形のバーが一周りして、ぱっと消えた。
代わりに現れたのは、アプリのアイコンが少しだけ弾むような演出と、「はじめる」のボタン。ベッドの上に仰向けになったまま、それを見下ろしていた高橋翔希は、天井に一度だけ視線を逃がし、それから小さく息を吐いた。
「…ここまで来たら、押すしかないか」
声に出すと、エアコンの送風音に紛れて自分にしか聞こえない。
Tシャツ一枚の胸元には、さっき浴びたシャワーの余韻がまだ少しだけ残っていた。髪はタオルドライだけで済ませたので、首筋に湿った毛先が触れるたび、ひやりとした感触が走る。
部屋は、天井近くに取り付けた間接照明だけが灯っている。柔らかいオレンジ色の光に、白い壁とグレーのカーテンが溶けている。その中で、手の中のスマホの画面だけが、青白く浮かび上がっていた。
親指で「はじめる」をタップする。
画面が切り替わり、シンプルなロゴのあとに、チュートリアルらしき説明文が現れる。「このアプリについて」「安心してご利用いただくために」といった見出しとともに、利用規約や禁止事項が小さな文字で並んでいた。
ざっと目を通しながら、スクロールを進める。出会い系とはいえ、注意書きは意外と真面目だ。「未成年利用禁止」「違法行為禁止」「個人情報の取り扱いにご注意ください」。読み飛ばして、「同意する」にチェックを入れた。
次は、プロフィールの入力画面。
「ニックネーム」「年齢」「エリア」「身長」「体重」「体型」「自己紹介」。
項目がいくつも並んでいて、下には「顔写真を登録するとマッチング率が上がります」とご丁寧に書いてある。
さすがに、そこで笑いが漏れた。
「顔なんて出すわけないだろ」
小さくつぶやいて、まずニックネームの欄をタップする。
本名は論外だし、会社の人間に結びつきそうなものも避けたい。とはいえ、あまりにも意味不明な記号にすると、それはそれで目立ちそうな気がする。
頭に浮かんだのは、高校のときにゲームで使っていたIDの断片とか、サッカー選手の名前とか、昔飼っていた犬の名前とか。どれもしっくりこない。
少し考えてから、「sora」というローマ字を入力する。ありふれていて、特定しづらくて、特別な意味もない。無難中の無難だ。
生年月日を入れる欄には、実際のものより一歳上を入れた。二十五歳を二十六歳にするだけの、小さな嘘。別に重大なことではない。だが、本当の自分から半歩だけ離れた場所に立つことで、心のどこかが少しだけ安心する。
エリアは、職場から少しだけずらした駅名を選んだ。住んでいる最寄り駅そのものを書くのはなんとなく怖い。新宿から数駅離れた、よく利用する乗換駅の名前にしておく。
身長と体重は、だいたいの数値をそのまま入力した。ここでだけ妙に正直なのは、自分でもおかしいと思う。体型の欄には、「普通」と書いてあるボタンを選ぶ。細マッチョでもガッチリでもない、自分にはそれが一番近い。
「自己紹介」欄のカーソルが、点滅している。
何を書けばいいのか分からない。
「はじめてです」「まだよく分かってません」「暇つぶしに使ってます」。
どこかで見たようなテンプレが頭に浮かぶ。結局、「まだよく分かってませんが、話せる人いたらお願いします」とだけ打ち込んだ。中身のない文だが、アプリの海の中ではこれくらいが安全な気がした。
写真の登録画面になると、画面が少し明るくなる。カメラマークと、「今すぐ撮影」か「アルバムから選択」というボタン。
「いやいや、撮るわけねえだろ」
自嘲気味に笑って、画面を下までスクロールすると、「あとで登録する」という小さな文字があった。そこをタップして、写真登録は飛ばす。
代わりに、システム側で自動的に用意されたシルエットアイコンが、自分のスペースに入る。名前も顔もない、匿名の誰か。
位置情報の利用許可を求めるポップアップが出た。
「近くにいるユーザーを表示するために、位置情報の利用を許可しますか」
はい、か、いいえ、か。
少しだけ迷って、「アプリの使用中のみ許可」に指を滑らせる。どの道、このアプリを使わないときは、閉じている。なら、その間くらいは許してもいいだろう。
設定が終わると、短いローディングの後、「近くにいるユーザーを表示しています」という文字が現れた。水色のバーが左右に行ったり来たりする。
胸のあたりで、心臓の鼓動が、わずかに強くなる。
数秒後、そのバーが消え、代わりに表示された画面に、翔希は思わず眉を上げた。
男の顔と身体の写真が、画面いっぱいに並んでいた。
正確には、「近くにいるユーザーの一覧」。一行あたり二人ずつ、アイコンとニックネームと年齢、距離が表示されている。顔出しをしている人もいれば、身体の一部だけを写した写真をアイコンにしている人もいる。中には風景や犬の写真のものもあった。
年齢は、二十歳そこそこから四十代と思しき人までさまざまだ。体型も、細い、普通、ガッチリ、太め、といろいろ並んでいる。上半身裸で鍛えた筋肉を見せている人もいれば、スーツ姿で爽やかに笑っている人もいる。
「…世界が違うな」
小声が漏れる。
頭では分かっていた。そういうアプリなのだから、そういう写真が並ぶのは当然だ。だが実際に、それが「自分のいる街の近く」で撮られたものだと思うと、急に現実感が増した。
見なきゃいいのに、目が滑っていく。
一番上の列の男は、二十七歳で、自分と同じくらいの年齢。ニックネームはアルファベットで、「172/60 普通」とプロフィールに簡単に書いてある。「よろしく」の一言も添えられていた。
その隣の男は、三十代前半。ジムで撮ったらしい鏡越しの自撮りで、腹筋がきれいに割れていた。「筋トレ好きな人と繋がりたい」と書いてある。
別の人のプロフィールには、「タチ」「ネコ」「リバ」の文字があり、頭の中にクエスチョンマークが浮かぶ。なんとなく意味は想像できるが、はっきりとは知らない単語も混じっている。
「ウケ」「アクティブ」「パッシブ」「ガチムチ」「細マッチョ」。
ゲイ特有と思しき用語や略語に、最初は軽い戸惑いを覚えながら、翔希の目はすぐに慣れていく。人間の順応は、思っているよりずっと早い。
スクロールを下に進める。親指が画面の上を滑るたび、新しい顔や身体が次々に現れては、消えていく。
ある人は、「真面目に彼氏探してます」と真っ直ぐな文言を書いていて、ある人は、「遊び目的」とあけすけに書いている。中には、「始めたばかりで用語分かってません」と、どこか自分と似たことを書いている人もいた。
気づけば、最初の「どんなもんか見るだけ」というスタンスから、半歩ほど踏み込んでいた。
「この人、普通にイケメンだな」とか、「この人はたぶん年上だ」とか、そんなことを考えながら、他人のプロフィールを眺める。観察者の目線。自分はまだ、その輪には入っていない。
そう思っていた。
スクロールの指が、ふと止まる。
顔のない上半身の写真が目に飛び込んできた。
画面の左上の枠に、その写真があった。白いシャツの第二ボタンまでが外されていて、鎖骨から胸の上部にかけてが映っている。首から上は、きれいにフレームアウトしている。
光の加減で、鎖骨のくぼみと、胸筋にうっすらと浮かぶ筋肉のラインが強調されていた。派手な筋肉ではないが、薄く、無駄のない肉の厚み。
「…へえ」
思わず声が漏れる。
顔が見えないぶん、身体のラインに視線が集中する。シャツの生地の薄さや、ボタンの位置、首元の肌の色。ピントが浅いのか、背景はぼやけていて、身体の輪郭だけがはっきりしている。
視線を右に移すと、プロフィールの文言が目に入った。
「平日夜/短時間」
「感情なしの関係希望」
「名前聞かないで」
エリアは、「新宿〜〇〇線沿線」と書かれている。〇〇線は、翔希の使っている路線と同じだった。年齢は「27」とあり、自分の二つ上。身長は「178」、体重は「66」。体型の欄には「普通〜やや細め」とある。
最初に頭に浮かんだのは、単純な感想だった。
「すげえ直球なこと書くな…」
感情なし。名前聞かないで。ここまで割り切った言い方をするプロフィールは、他にあまり見かけていない。遊び目的と書いている人はいても、「感情なし」と明言する人は少ない。
画面をひとつ分スクロールして別の列を見ようとして、指が途中で止まった。
何かが引っかかっている。
……何だ?
もう一度、写真を見直す。
白いシャツ。二番目まで外されたボタン。鎖骨のライン。首から肩にかけての傾き。
そのシルエットに、どこか既視感があった。
どこで見た、どこで…
脳が勝手に、社内の風景を引っ張り出してくる。管理部フロア。打ち合わせスペース。白いシャツの袖をまくり上げた、細身の男の横顔。
村上遥人。
管理部の村上が、暑い日、上着を脱いでシャツ姿でデスクに座っていたときの光景。ボールペンを走らせながら、肩がわずかに動く。そのとき、襟元が少し開いていて、視界の端に鎖骨の影が見えた。
きちんとしたサイズ感のシャツは、身体のラインをほどよく隠しながらも、薄い布越しに胸板の厚みを伝えていた。スーツ姿のときよりも、身体の輪郭がくっきりと出て、妙に目を引いたのを覚えている。
今、画面の中にある写真のラインと、その記憶の中のラインが、重なる。
「…いやいやいや」
心の中で、慌てて打ち消す。
そんなわけない。
世の中には、白いシャツを着ている男なんて星の数ほどいる。鎖骨の形や胸の厚みが似ている人間だって、いくらでもいる。エリアだって、「新宿〜〇〇線沿線」なんて設定している人は山ほどいるだろう。
年齢が近くて、身長と体重の数字がなんとなくイメージと一致していて、文章の文体がどこか淡々としていて。
それくらいの共通点で、人を特定するなんて無理だ。
「ふうん」
あえて、さっきと同じ軽い声でそう言って、スクロールを続けようとする。
親指に力を込める。
画面がわずかに動きかけて、戻る。
動かないのは、スマホではなく、自分のほうだった。
視線が、写真から離れない。
「平日夜/短時間」
「感情なしの関係希望」
「名前聞かないで」
その文言が、頭の中で何度もリピートされる。不思議なことに、同時に、管理部フロアで村上が言った言葉も浮かんでくる。
「ギリギリだけど、まだ間に合うよ。大丈夫」
柔らかく笑いながら、そう言ったときの声。仕事を整理してくれたときの落ち着いた口調。
その人と、「感情なし」「名前聞かないで」というワードが、どうにも繋がらない。
指を画面の端に滑らせて、アプリを閉じる。ホーム画面に戻る。アイコンの並んだ画面が、さっきよりも味気なく見えた。
しばらく、そのまま天井を見上げる。
エアコンの風が、ゆっくりと回っている。外からは、遠くの車の音がかすかに聞こえる。布団の上に広がる自分の体温が、夜の湿度と混ざり合って、妙な重さを帯びていた。
「考えすぎだろ」
口の中で呟いて、首を横に振る。
顔が出ていない時点で、決めようがない。偶然似ているだけだ。そうに決まっている。村上は会社の人間で、管理部の有能な先輩で、自分が尊敬している人で。
画面の中のこれは、単なる匿名の誰かだ。
そう言い聞かせる。
言い聞かせて、三十秒もしないうちに、親指はまた同じアイコンをタップしていた。
アプリが開き、さっきの「近くにいるユーザー一覧」が表示される。自動的に更新されたらしく、顔ぶれが少し変わっている。しかし、スクロールを少し戻すと、そこにはまだ、さっきの白いシャツの写真があった。
顔のない上半身。
鎖骨の影。
淡々とした文言。
プロフィールをタップすると、個別の画面に切り替わる。アイコンが大きく表示され、その下に全文が載っている。
「平日夜/短時間」
「感情なしの関係希望」
「名前聞かないで」
「細かいこと気にしない人だと嬉しいです」
最後の一文が、先ほど見落としていたものだ。
「細かいこと気にしない人」。
仕事中の村上は、細かいことをよく気にする人間だ。書類のフォーマットや稟議の経路、数字の整合性。わずかなズレも見逃さずに拾い上げて、全部きちんと整えてくれる。それが彼の仕事であり、彼の強みだ。
プライベートでは、逆なのだろうか。
仕事で散々細かいことに気を配っている分、オフの時間くらいは、何も考えずに、「細かいこと気にしない関係」を求めたくなるのだろうか。
そんな勝手な想像が、頭の中に浮かぶ。
「平日夜/短時間」
平日の夜。つまり、仕事帰り。残業を終えて、スーツを脱ぐか脱がないかの時間帯。
「短時間」。長居はしない。さっと会って、さっと別れる。翌日の朝には、何事もなかったように会社に来る。
「感情なし」
そこに、好きとか嫌いとか、そういうものを持ち込まない。ただ、身体が触れ合うだけ。名前も知らないまま、すれ違っていく。
「名前聞かないで」
名前を知らなければ、次の日に街ですれ違っても気づかない可能性が高い。会社のビルのロビーで並んでエレベーターを待っていても、互いに気づかないかもしれない。
それが、彼の望む距離感なのだとしたら。
翔希は、胸の奥がぞわりとするのを感じた。
営業部のフロアで、自販機の前で、「村上さんみたいになりたいんです」と言った自分。そのとき、村上は少し困ったように笑って、どこか照れたような表情を見せた。
あの柔らかい笑顔。
落ち着いた声。
「お互い様ですよ」と言ったときの、すこしだけ目尻が下がる感じ。
そこに、「感情なし」「名前聞かないで」といった言葉が、どうしても重ならない。
なのに、身体のシルエットは重なる。
シャツのサイズ感。
二番目まで外されたボタンの抜け感。
首から肩にかけてのライン。
「ああいう細いけど変に頼りなさそうじゃない感じの体型、村上さんっぽいよな」と、以前ふと感じたことがある自分を、今さら思い出す。
もし仮に、このプロフィールの持ち主が村上だとしたら。
彼は、感情を切り離して、身体だけを誰かに預ける夜を持っていることになる。仕事中のあの柔らかさとはまったく別の顔で。
そんなの、ありえるのか。
「そんなわけないだろ」
もう一度、心の中で否定する。
村上は「管理部の影のエース」で、上司や先輩から信頼されていて、自分みたいな営業の若造にも丁寧に対応してくれて。自販機の前で、祝福の言葉をくれて。頑張ってる部下に「大丈夫」と言ってくれる、ちゃんとした大人で。
画面の向こうのこれは、名前も顔もない誰かの身体だ。
同じはずがない。
同じであってたまるか、とどこかで思う。
アプリを閉じようと、ホームボタンに指を伸ばす。
その途中で、また止まる。
もし違う人なら。
もし全然関係ない誰かだったら。
それはそれで、ほっとするのか。がっかりするのか。
答えが、うまく出てこない。
仕事で使う指とは違う種類の、落ち着きのない動きで、親指が画面の上をさまよう。プロフィール画面を閉じて一覧に戻り、また同じアイコンをタップして個別に入り直す。何度かそれを繰り返すうちに、自分でも何をしているのか分からなくなってくる。
画面を見つめすぎて、瞼の裏に白いシャツの胸元だけが焼き付く。
視界を強制的に切るように、翔希はスマホを胸の上に伏せた。画面を下にして、布団の上に置く。光が遮られ、部屋の中からブルーライトが消える。
急に暗さが増した気がした。
天井を見上げる。そこには何もない。白いだけの天井。さっきまでそこに映っていたスマホの光の残像が、まだ視界の隅に残っている。
耳に入るのは、エアコンの風が吹き出す音と、自分の呼吸の音と、シーツが肌に擦れる小さな音だけだ。夜はさっきより深くなり、外の車の音も少し減っている。
「考えすぎだ」
今度は、声に出して言う。
声は、部屋の空気に吸われて、すぐに消えた。
頭の中には、「営業部のヒーローを支える有能な先輩」の村上と、「顔のない、感情を切った身体」のプロフィールが、並んだまま、うまく重ならずに浮かんでいる。
どちらか一方を否定すれば、少しは楽になるのかもしれない。でも、どちらも現実のどこかに存在しているような気がして、雑に切り捨てることができなかった。
胸の真ん中あたりに、漠然としたざわめきが残る。
好奇心なのか、不安なのか、期待なのか、恐怖なのか。どの言葉も、しっくりこない。
ただひとつ分かるのは、自分はもう完全な観察者ではいられない、ということだった。
新宿の夜風は、生ぬるくて、やけに冷たかった。ホテルの自動ドアが背後で閉まる音を聞きながら、高橋翔希は、しばらくその場に立ち尽くしていた。ガラスに映る自分の顔は、スーツ姿の「普通の会社員」でしかない。中身は、全然普通じゃなかった。足が勝手に動き出す。駅とは逆方向のネオン街のほうへ、ふらふらと。タバコの煙と、居酒屋の油の匂いと、水っぽい香水の匂いが混ざった空気を吸い込んで、胸の奥がきしむ。『お前には関係ないだろ』村上がベッドの上で言った一言が、耳の奥で何度もリピートされていた。関係ない。そうだ。そういうはずだった。最初から、「ここ」はそういう場所で。平日夜、短時間。名前も呼ばない。仕事の話もしない。感情なし。そこに自分で足を踏み入れておいて、今さら何に傷ついているんだ、と別の自分が冷静に突っ込んでくる。それでも、胸は痛い。『俺がお前とだけ会ってるって、いつ言った?』言われて当然のことを言われた感じがして、余計に痛い。雑居ビルの壁に、キャバクラの看板やカラオケの看板がぎっしり貼られている。どの店も、夜の楽しみを派手なフォントで謳っている。翔希の足は、そのどれにも向かわない。淡々とアスファルトの上を踏みしめるだけだ。信号待ちの横断歩道で立ち止まる。隣にいるスーツ姿の男たちは、仕事帰りのテンションで笑っていた。「でさー、その課長がさ」「マジかよ、それパワハラじゃん」笑いと愚痴と、くだらない冗談と。そういうもので夜は賑わっている。自分も、本来ならその輪のどこかに混ざっているはずだった。「…遊び、なんだからな」小さく呟く。村上の言葉を、そっくりそのままなぞる。遊びなんだから。そう何度も心の中で唱えれば、そのうち本当に軽く感じられるのだろうか。信号が青に変わった。人の波に押されるように、横断歩道を渡る。『じゃあ、なんであん
ベッドの上の空気は、まだ体温の名残りを含んでいた。薄い掛け布団の下で、高橋翔希は仰向けになり、天井のぼんやりした模様を見つめている。隣には、ほんの少し間を空けて、村上遥人が横たわっていた。照明はスタンドライト一つだけ。オレンジがかった光が、狭い部屋の隅々をやんわり照らしている。窓の向こうのネオンは、厚手のカーテンで遮られて、かすかな明るさだけが縁から漏れていた。静かだ。エアコンの低い唸りと、二人分のかすかな呼吸音だけが、この空間のすべてだった。翔希は、自分の胸の上下を意識する。呼吸は、さっきまでより落ち着いている。脈も、ようやく普通の速度に戻りつつあった。それでも、胸の奥には別の意味の荒れが残っている。今、聞かなかったら。もう二度と、聞けない気がした。この沈黙が終わって、ベッドから降りて、シャワーを浴びて、服を着て、エレベーターに乗って。それで「お疲れさま」とか「気をつけて」とか言って別れたら。自分は、ただの「遊び相手の一人」として、何も知らないまま、この人のスケジュールのどこかに薄く書き込まれたまま、やがて消えていく。自分がそういう位置にいるのは、最初から分かっていたはずだ。平日夜/短時間。感情なしの関係希望。名前聞かないで。あのプロフィール文を見たときから、ここはそういう場所だと理解していた。理解していた、はずなのに。喉の奥がきゅっと詰まる。言葉を飲み込んだままの沈黙が、部屋の中でどんどん重くなっていく。隣から、布擦れの音がした。村上が、寝返りを打ったらしい。ベッドが小さく揺れる。横目でそちらをうかがうと、村上は片腕を枕にして横向きになっていた。天井ではなく、壁の時計のほうをぼんやり見ている。横顔の輪郭が、スタンドライトの光で柔らかく縁取られる。その横顔を、ベッドの上でも、会社のデスクでも、同じくらい見てきた。どちらの顔も、好きだった。「…」喉が鳴る。
翌朝の新宿は、やけに白く眩しかった。高橋翔希は、地下から地上に上がるエスカレーターの途中で、思わず目を細める。ビルのガラスに反射した光が、まだ完全に覚めきっていない頭をじわじわ焼くようだった。寝不足のせいだ。眠れなかったわけではない。横になって、目を閉じて、気づいたら朝だった。それでも、体のどこかに眠り損ねた疲れが残っている。二十階の営業フロアに着くと、いつも通りの喧騒が迎えてくれた。電話の音。キーボードを叩く音。プリンターの唸り。誰かの笑い声。その全部が、いつもより半音高く響いている気がする。「おはよー、高橋」斜め前の席から、中村が手を挙げた。「…おはようございます」自分でも分かるくらい、声に覇気がない。「いや、お前さ」椅子をくるりとこちらに向けた中村が、じっと顔を覗き込んでくる。「なんか顔、死んでね」「失礼すぎません?」思わず笑って返す。口角だけは、ちゃんと上がる。「いやいや、マジで。クマってほどじゃないけどさ、その…魂が半分くらいどっかいってる感じ」「魂は全部ここにあります」「ほんとぉ?」わざとらしく首を傾げられて、肩をすくめる。「ちょっと寝不足なだけですよ。動画見すぎました」「またそれ。ほどほどにしなよ。営業は顔が命なんだから」「はいはい」軽口を交わしながらも、翔希は内心で、自分の顔がどれくらい「いつも通り」からズレているのかを気にしていた。鏡を見る余裕もなく家を出てしまったせいで、今の自分の表情を知っているのは中村たちだけだ。村上がそれを見たら、どう思うだろう。…そんなことまで考えている自分が、正直きつい。*午前中のタスクをひととおり片付けた頃、社内チャットがピコンと鳴った。管理部からの一斉連絡。稟議ルートの変更について。「うわ、また変わ
約束のある日の時間は、いつもより少しだけ軽く進む。その日の高橋翔希も、朝からどこか浮き足立っていた。理由は、誰にも言っていない。営業フロアの二十階。いつも通りの朝会、いつも通りのメール整理、いつも通りのタスク確認。ディスプレイの下には、何気ない顔で置かれたスマホ。通知はオフにしている。それでも、一度約束を交わした夜は、画面の向こうにいる相手の存在を、意識から完全に消すことができなかった。『今日、いつものところで』昨日、アプリ経由で届いたメッセージ。『二十時くらいなら大丈夫』そう返したあと、時間も場所も確定している。具体的なホテル名と部屋番号が、すでにチャットの履歴に残っている。平日夜、短時間。いつものパターン。それだけのことなのに、朝から何度も頭の中でその文字列をなぞっていた。「高橋ー」斜め前の席から、中村が声をかけてくる。「この前のB社の資料、最新版どこ入ってんの」「あ、共有フォルダの二〇二四フォルダっす。『B社_第二提案』のところです」「サンキュー。お、相変わらず整理されてんね」「村上さんに叩き込まれましたから」笑いながら答え、また画面に視線を戻す。午前中の商談は無難に終わった。昼食はコンビニの冷やし麺で済ませ、午後の打ち合わせもトラブルなく消化する。仕事は仕事で、ちゃんと好きだ。案件がうまく回るのは気持ちいいし、数字が積み上がっていくのを見るのは純粋に嬉しい。それでも今日は、どこか頭の片隅に、別のスケジュールが居座っている。二十時。ホテル。白いシーツ。シャワーの音。ネクタイをほどく指先。ふと、喉の奥が乾いた気がして、小さく息を飲んだ。「…集中しろ」誰にも聞こえないくらいの小ささで自分に言い聞かせ、手元の資料に目を落とす。*夕方、十八時少し手前。デスクの右隅の時計を、何度目か分からないくらいに確認する。
平日の夜が、静かに形を変えていた。高橋翔希にとって、新宿のネオンはもう「仕事帰りの通り道」ではない。時折、その光のどこかに、あのビジネスホテルのロゴを探してしまう自分がいる。平日夜。短時間。村上遥人のプロフィールに書かれたその言葉が、現実の時間軸にべったりと貼りつくようになってから、もう何度夜を重ねただろう。仕事を終え、エレベーターで一階に降りる。ビルのガラス扉を抜ける風はいつもと同じ温度なのに、ジャケットの内側のスマホは、前より少しだけ重くなった気がしていた。ポケットの中で、スマホが小さく震える。翔希は、無意識のうちに歩みを緩めた。画面を取り出し、ロックを外す。新着メールでも、同期からのLINEでもない、小さなアイコンがひとつ。あのアプリの通知だ。『今日はお疲れさま』短いその一文だけ。村上からのメッセージは、いつもこんなふうにさりげない。絵文字も顔文字もなく、句読点さえ少なめで、感情の温度が読み取りづらい。それでも、確かに自分宛だということだけは分かる。「…お疲れさまです」歩きながら、翔希は打ち返す。親指がキーをなぞる感覚が、必要以上に意識に上る。返事はすぐには来ない。その間に、改札を抜け、ホームに降りる。ステンレスの手すりの冷たさが、指先に残る。電車に乗り込んでも、ポケットの中のスマホが気になって仕方がない。つい、また取り出す。新着は…ない。画面の上部、小さな緑の丸に視線が吸い寄せられる。オンライン。今、この瞬間も、村上はアプリを開いている。「…誰と喋ってんだろ」心の中で漏れる疑問は、まだごく小さい。自分がメッセージを送っているからオンラインなのか、それとも、自分以外の誰かとやり取りをしているのか。そんなの、考えたところで分かるはずがない。そもそも、自分がそこを気にする権利なんてあるのか。眉間にうっすらと皺が寄る。
最初の「また会う?」から、もう何度目の夜になるのか、翔希には正確な回数が分からなくなっていた。平日夜。退社時間少し過ぎの新宿。ホテルのエントランスをくぐるときの、空調の匂いとガラス越しの照明は、もう見慣れた風景になりつつある。エレベーターの鏡に映る自分の顔も、「ただ仕事帰りに寄り道をする社会人」のそれだ。ネクタイを少し緩めて、指定された階のボタンを押す。今夜の部屋番号は、六〇七。二週間前は五一二、その前は四〇一。階も番号も違うのに、中身はほとんど同じ間取りだということも、もう知っている。廊下に出て、足元のカーペットの感触を確かめるように歩く。心臓の鼓動が、相変わらず少し早くなるのは、慣れではどうにもならなかった。「…」部屋の前で足を止め、深呼吸をひとつ。ノックする前に、スマホで一言だけメッセージを送る。『着きました』ほんの数秒後、カチャリと、内側からドアノブが回る音がした。少しだけ開いた隙間から、白い光と人影が覗く。「お疲れ」村上が、少しだけ緩んだネクタイ姿で立っていた。ジャケットは既に脱いでいて、シャツの袖を肘までまくっている。その腕に浮かぶ血管や、手首の細さに、視線が一瞬吸い寄せられる。「お疲れさまです」そう返すと、村上は顎で中を示した。「入って」部屋の中に入ると、前と同じような匂いがした。柔軟剤とも芳香剤ともつかない、ホテル特有の混ざった匂い。ベッドの上には、まだ誰の体温も残っていない白いシーツが、きちんと伸ばされている。村上は、鞄をテーブルに置くと、当たり前のようにバスルームのほうへ歩いていく。「先、シャワー浴びるから」「はい」これも、いつもの流れだ。一度だけ軽くシャワーを浴びてから、触れる。それは暗黙のルールというより、村上の習慣になっていた。バスルームのドアが閉まり、水の音が聞こえてくる。







