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8.顔のない写真と既視感

ผู้เขียน: 中岡 始
last update ปรับปรุงล่าสุด: 2025-12-03 10:25:07

インストール中の円形のバーが一周りして、ぱっと消えた。

代わりに現れたのは、アプリのアイコンが少しだけ弾むような演出と、「はじめる」のボタン。ベッドの上に仰向けになったまま、それを見下ろしていた高橋翔希は、天井に一度だけ視線を逃がし、それから小さく息を吐いた。

「…ここまで来たら、押すしかないか」

声に出すと、エアコンの送風音に紛れて自分にしか聞こえない。

Tシャツ一枚の胸元には、さっき浴びたシャワーの余韻がまだ少しだけ残っていた。髪はタオルドライだけで済ませたので、首筋に湿った毛先が触れるたび、ひやりとした感触が走る。

部屋は、天井近くに取り付けた間接照明だけが灯っている。柔らかいオレンジ色の光に、白い壁とグレーのカーテンが溶けている。その中で、手の中のスマホの画面だけが、青白く浮かび上がっていた。

親指で「はじめる」をタップする。

画面が切り替わり、シンプルなロゴのあとに、チュートリアルらしき説明文が現れる。「このアプリについて」「安心してご利用いただくために」といった見出しとともに、利用規約や禁止事項が小さな文字で並んでいた。

ざっと目を通しながら、スクロールを進める。出会い系とはいえ、注意書きは意外と真面目だ。「未成年利用禁止」「違法行為禁止」「個人情報の取り扱いにご注意ください」。読み飛ばして、「同意する」にチェックを入れた。

次は、プロフィールの入力画面。

「ニックネーム」「年齢」「エリア」「身長」「体重」「体型」「自己紹介」。

項目がいくつも並んでいて、下には「顔写真を登録するとマッチング率が上がります」とご丁寧に書いてある。

さすがに、そこで笑いが漏れた。

「顔なんて出すわけないだろ」

小さくつぶやいて、まずニックネームの欄をタップする。

本名は論外だし、会社の人間に結びつきそうなものも避けたい。とはいえ、あまりにも意味不明な記号にすると、それはそれで目立ちそうな気がする。

頭に浮かんだのは、高校のときにゲームで使っていたIDの断片とか、サッカー選手の名前とか、昔飼っていた犬の名前とか。どれもしっくりこない。

少し考えてから、「sora」というローマ字を入力する。ありふれていて、特定しづらくて、特別な意味もない。無難中の無難だ。

生年月日を入れる欄には、実際のものより一歳上を入れた。二十五歳を二十六歳にするだけの、小さな嘘。別に重大なことではない。だが、本当の自分から半歩だけ離れた場所に立つことで、心のどこかが少しだけ安心する。

エリアは、職場から少しだけずらした駅名を選んだ。住んでいる最寄り駅そのものを書くのはなんとなく怖い。新宿から数駅離れた、よく利用する乗換駅の名前にしておく。

身長と体重は、だいたいの数値をそのまま入力した。ここでだけ妙に正直なのは、自分でもおかしいと思う。体型の欄には、「普通」と書いてあるボタンを選ぶ。細マッチョでもガッチリでもない、自分にはそれが一番近い。

「自己紹介」欄のカーソルが、点滅している。

何を書けばいいのか分からない。

「はじめてです」「まだよく分かってません」「暇つぶしに使ってます」。

どこかで見たようなテンプレが頭に浮かぶ。結局、「まだよく分かってませんが、話せる人いたらお願いします」とだけ打ち込んだ。中身のない文だが、アプリの海の中ではこれくらいが安全な気がした。

写真の登録画面になると、画面が少し明るくなる。カメラマークと、「今すぐ撮影」か「アルバムから選択」というボタン。

「いやいや、撮るわけねえだろ」

自嘲気味に笑って、画面を下までスクロールすると、「あとで登録する」という小さな文字があった。そこをタップして、写真登録は飛ばす。

代わりに、システム側で自動的に用意されたシルエットアイコンが、自分のスペースに入る。名前も顔もない、匿名の誰か。

位置情報の利用許可を求めるポップアップが出た。

「近くにいるユーザーを表示するために、位置情報の利用を許可しますか」

はい、か、いいえ、か。

少しだけ迷って、「アプリの使用中のみ許可」に指を滑らせる。どの道、このアプリを使わないときは、閉じている。なら、その間くらいは許してもいいだろう。

設定が終わると、短いローディングの後、「近くにいるユーザーを表示しています」という文字が現れた。水色のバーが左右に行ったり来たりする。

胸のあたりで、心臓の鼓動が、わずかに強くなる。

数秒後、そのバーが消え、代わりに表示された画面に、翔希は思わず眉を上げた。

男の顔と身体の写真が、画面いっぱいに並んでいた。

正確には、「近くにいるユーザーの一覧」。一行あたり二人ずつ、アイコンとニックネームと年齢、距離が表示されている。顔出しをしている人もいれば、身体の一部だけを写した写真をアイコンにしている人もいる。中には風景や犬の写真のものもあった。

年齢は、二十歳そこそこから四十代と思しき人までさまざまだ。体型も、細い、普通、ガッチリ、太め、といろいろ並んでいる。上半身裸で鍛えた筋肉を見せている人もいれば、スーツ姿で爽やかに笑っている人もいる。

「…世界が違うな」

小声が漏れる。

頭では分かっていた。そういうアプリなのだから、そういう写真が並ぶのは当然だ。だが実際に、それが「自分のいる街の近く」で撮られたものだと思うと、急に現実感が増した。

見なきゃいいのに、目が滑っていく。

一番上の列の男は、二十七歳で、自分と同じくらいの年齢。ニックネームはアルファベットで、「172/60 普通」とプロフィールに簡単に書いてある。「よろしく」の一言も添えられていた。

その隣の男は、三十代前半。ジムで撮ったらしい鏡越しの自撮りで、腹筋がきれいに割れていた。「筋トレ好きな人と繋がりたい」と書いてある。

別の人のプロフィールには、「タチ」「ネコ」「リバ」の文字があり、頭の中にクエスチョンマークが浮かぶ。なんとなく意味は想像できるが、はっきりとは知らない単語も混じっている。

「ウケ」「アクティブ」「パッシブ」「ガチムチ」「細マッチョ」。

ゲイ特有と思しき用語や略語に、最初は軽い戸惑いを覚えながら、翔希の目はすぐに慣れていく。人間の順応は、思っているよりずっと早い。

スクロールを下に進める。親指が画面の上を滑るたび、新しい顔や身体が次々に現れては、消えていく。

ある人は、「真面目に彼氏探してます」と真っ直ぐな文言を書いていて、ある人は、「遊び目的」とあけすけに書いている。中には、「始めたばかりで用語分かってません」と、どこか自分と似たことを書いている人もいた。

気づけば、最初の「どんなもんか見るだけ」というスタンスから、半歩ほど踏み込んでいた。

「この人、普通にイケメンだな」とか、「この人はたぶん年上だ」とか、そんなことを考えながら、他人のプロフィールを眺める。観察者の目線。自分はまだ、その輪には入っていない。

そう思っていた。

スクロールの指が、ふと止まる。

顔のない上半身の写真が目に飛び込んできた。

画面の左上の枠に、その写真があった。白いシャツの第二ボタンまでが外されていて、鎖骨から胸の上部にかけてが映っている。首から上は、きれいにフレームアウトしている。

光の加減で、鎖骨のくぼみと、胸筋にうっすらと浮かぶ筋肉のラインが強調されていた。派手な筋肉ではないが、薄く、無駄のない肉の厚み。

「…へえ」

思わず声が漏れる。

顔が見えないぶん、身体のラインに視線が集中する。シャツの生地の薄さや、ボタンの位置、首元の肌の色。ピントが浅いのか、背景はぼやけていて、身体の輪郭だけがはっきりしている。

視線を右に移すと、プロフィールの文言が目に入った。

「平日夜/短時間」

「感情なしの関係希望」

「名前聞かないで」

エリアは、「新宿〜〇〇線沿線」と書かれている。〇〇線は、翔希の使っている路線と同じだった。年齢は「27」とあり、自分の二つ上。身長は「178」、体重は「66」。体型の欄には「普通〜やや細め」とある。

最初に頭に浮かんだのは、単純な感想だった。

「すげえ直球なこと書くな…」

感情なし。名前聞かないで。ここまで割り切った言い方をするプロフィールは、他にあまり見かけていない。遊び目的と書いている人はいても、「感情なし」と明言する人は少ない。

画面をひとつ分スクロールして別の列を見ようとして、指が途中で止まった。

何かが引っかかっている。

……何だ?

もう一度、写真を見直す。

白いシャツ。二番目まで外されたボタン。鎖骨のライン。首から肩にかけての傾き。

そのシルエットに、どこか既視感があった。

どこで見た、どこで…

脳が勝手に、社内の風景を引っ張り出してくる。管理部フロア。打ち合わせスペース。白いシャツの袖をまくり上げた、細身の男の横顔。

村上遥人。

管理部の村上が、暑い日、上着を脱いでシャツ姿でデスクに座っていたときの光景。ボールペンを走らせながら、肩がわずかに動く。そのとき、襟元が少し開いていて、視界の端に鎖骨の影が見えた。

きちんとしたサイズ感のシャツは、身体のラインをほどよく隠しながらも、薄い布越しに胸板の厚みを伝えていた。スーツ姿のときよりも、身体の輪郭がくっきりと出て、妙に目を引いたのを覚えている。

今、画面の中にある写真のラインと、その記憶の中のラインが、重なる。

「…いやいやいや」

心の中で、慌てて打ち消す。

そんなわけない。

世の中には、白いシャツを着ている男なんて星の数ほどいる。鎖骨の形や胸の厚みが似ている人間だって、いくらでもいる。エリアだって、「新宿〜〇〇線沿線」なんて設定している人は山ほどいるだろう。

年齢が近くて、身長と体重の数字がなんとなくイメージと一致していて、文章の文体がどこか淡々としていて。

それくらいの共通点で、人を特定するなんて無理だ。

「ふうん」

あえて、さっきと同じ軽い声でそう言って、スクロールを続けようとする。

親指に力を込める。

画面がわずかに動きかけて、戻る。

動かないのは、スマホではなく、自分のほうだった。

視線が、写真から離れない。

「平日夜/短時間」

「感情なしの関係希望」

「名前聞かないで」

その文言が、頭の中で何度もリピートされる。不思議なことに、同時に、管理部フロアで村上が言った言葉も浮かんでくる。

「ギリギリだけど、まだ間に合うよ。大丈夫」

柔らかく笑いながら、そう言ったときの声。仕事を整理してくれたときの落ち着いた口調。

その人と、「感情なし」「名前聞かないで」というワードが、どうにも繋がらない。

指を画面の端に滑らせて、アプリを閉じる。ホーム画面に戻る。アイコンの並んだ画面が、さっきよりも味気なく見えた。

しばらく、そのまま天井を見上げる。

エアコンの風が、ゆっくりと回っている。外からは、遠くの車の音がかすかに聞こえる。布団の上に広がる自分の体温が、夜の湿度と混ざり合って、妙な重さを帯びていた。

「考えすぎだろ」

口の中で呟いて、首を横に振る。

顔が出ていない時点で、決めようがない。偶然似ているだけだ。そうに決まっている。村上は会社の人間で、管理部の有能な先輩で、自分が尊敬している人で。

画面の中のこれは、単なる匿名の誰かだ。

そう言い聞かせる。

言い聞かせて、三十秒もしないうちに、親指はまた同じアイコンをタップしていた。

アプリが開き、さっきの「近くにいるユーザー一覧」が表示される。自動的に更新されたらしく、顔ぶれが少し変わっている。しかし、スクロールを少し戻すと、そこにはまだ、さっきの白いシャツの写真があった。

顔のない上半身。

鎖骨の影。

淡々とした文言。

プロフィールをタップすると、個別の画面に切り替わる。アイコンが大きく表示され、その下に全文が載っている。

「平日夜/短時間」

「感情なしの関係希望」

「名前聞かないで」

「細かいこと気にしない人だと嬉しいです」

最後の一文が、先ほど見落としていたものだ。

「細かいこと気にしない人」。

仕事中の村上は、細かいことをよく気にする人間だ。書類のフォーマットや稟議の経路、数字の整合性。わずかなズレも見逃さずに拾い上げて、全部きちんと整えてくれる。それが彼の仕事であり、彼の強みだ。

プライベートでは、逆なのだろうか。

仕事で散々細かいことに気を配っている分、オフの時間くらいは、何も考えずに、「細かいこと気にしない関係」を求めたくなるのだろうか。

そんな勝手な想像が、頭の中に浮かぶ。

「平日夜/短時間」

平日の夜。つまり、仕事帰り。残業を終えて、スーツを脱ぐか脱がないかの時間帯。

「短時間」。長居はしない。さっと会って、さっと別れる。翌日の朝には、何事もなかったように会社に来る。

「感情なし」

そこに、好きとか嫌いとか、そういうものを持ち込まない。ただ、身体が触れ合うだけ。名前も知らないまま、すれ違っていく。

「名前聞かないで」

名前を知らなければ、次の日に街ですれ違っても気づかない可能性が高い。会社のビルのロビーで並んでエレベーターを待っていても、互いに気づかないかもしれない。

それが、彼の望む距離感なのだとしたら。

翔希は、胸の奥がぞわりとするのを感じた。

営業部のフロアで、自販機の前で、「村上さんみたいになりたいんです」と言った自分。そのとき、村上は少し困ったように笑って、どこか照れたような表情を見せた。

あの柔らかい笑顔。

落ち着いた声。

「お互い様ですよ」と言ったときの、すこしだけ目尻が下がる感じ。

そこに、「感情なし」「名前聞かないで」といった言葉が、どうしても重ならない。

なのに、身体のシルエットは重なる。

シャツのサイズ感。

二番目まで外されたボタンの抜け感。

首から肩にかけてのライン。

「ああいう細いけど変に頼りなさそうじゃない感じの体型、村上さんっぽいよな」と、以前ふと感じたことがある自分を、今さら思い出す。

もし仮に、このプロフィールの持ち主が村上だとしたら。

彼は、感情を切り離して、身体だけを誰かに預ける夜を持っていることになる。仕事中のあの柔らかさとはまったく別の顔で。

そんなの、ありえるのか。

「そんなわけないだろ」

もう一度、心の中で否定する。

村上は「管理部の影のエース」で、上司や先輩から信頼されていて、自分みたいな営業の若造にも丁寧に対応してくれて。自販機の前で、祝福の言葉をくれて。頑張ってる部下に「大丈夫」と言ってくれる、ちゃんとした大人で。

画面の向こうのこれは、名前も顔もない誰かの身体だ。

同じはずがない。

同じであってたまるか、とどこかで思う。

アプリを閉じようと、ホームボタンに指を伸ばす。

その途中で、また止まる。

もし違う人なら。

もし全然関係ない誰かだったら。

それはそれで、ほっとするのか。がっかりするのか。

答えが、うまく出てこない。

仕事で使う指とは違う種類の、落ち着きのない動きで、親指が画面の上をさまよう。プロフィール画面を閉じて一覧に戻り、また同じアイコンをタップして個別に入り直す。何度かそれを繰り返すうちに、自分でも何をしているのか分からなくなってくる。

画面を見つめすぎて、瞼の裏に白いシャツの胸元だけが焼き付く。

視界を強制的に切るように、翔希はスマホを胸の上に伏せた。画面を下にして、布団の上に置く。光が遮られ、部屋の中からブルーライトが消える。

急に暗さが増した気がした。

天井を見上げる。そこには何もない。白いだけの天井。さっきまでそこに映っていたスマホの光の残像が、まだ視界の隅に残っている。

耳に入るのは、エアコンの風が吹き出す音と、自分の呼吸の音と、シーツが肌に擦れる小さな音だけだ。夜はさっきより深くなり、外の車の音も少し減っている。

「考えすぎだ」

今度は、声に出して言う。

声は、部屋の空気に吸われて、すぐに消えた。

頭の中には、「営業部のヒーローを支える有能な先輩」の村上と、「顔のない、感情を切った身体」のプロフィールが、並んだまま、うまく重ならずに浮かんでいる。

どちらか一方を否定すれば、少しは楽になるのかもしれない。でも、どちらも現実のどこかに存在しているような気がして、雑に切り捨てることができなかった。

胸の真ん中あたりに、漠然としたざわめきが残る。

好奇心なのか、不安なのか、期待なのか、恐怖なのか。どの言葉も、しっくりこない。

ただひとつ分かるのは、自分はもう完全な観察者ではいられない、ということだった。

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  • アプリで始まった体だけの関係、その相手は職場の先輩でした~「平日夜/短時間」「感情なしの関係希望」「名前聞かないで」   42.選び直す朝のあとで

    それからの時間は、音を立てずに進んでいった。派手な出来事があったわけではない。ただ、気づけば、ホテルの白いシーツよりも、村上遥人の古い1Kの布団の感触のほうが、翔希の中で「いつもの夜」に近づいていた。ある平日の夜、高橋翔希は、いつもの新宿のビジネスホテルではなく、少し路地を入った先の古いマンションの前で立ち止まっていた。数週間前に初めて上がった階段。二、三本ほどペンキが剥げた手すり。雨上がりで少し湿ったコンクリートの匂いが、鼻の奥にまとわりつく。インターホンを押すと、少し間があってから、かすかに聞き慣れた声が返ってきた。「はい」「高橋です」「ああ、開けるね」ブザーの音とともにオートロックが外れ、扉が重い音を立てて開く。エレベーターのない階段を上がりながら、翔希は何度目かの、しかしまだ慣れきらない高鳴りを胸の中で確かめた。三階の廊下に出ると、薄いカーペットの匂いと、どこかの部屋から漏れるテレビの音が交じり合っていた。指定の部屋番号の前まで歩き、軽くノックする。「開いてるよ」内側からそう声がして、ドアノブを回すと、少し油の抜けた金属音がした。扉を引くと、見慣れてきたワンルームの景色が広がる。キッチンには、シンクに伏せられたマグカップが二つ。テーブルの上にはコンビニの袋と、簡単な総菜パック。部屋の中央には、布団ではなく、小さなソファとローテーブルが置かれている。その向こう側に、広げたままの洗濯物がハンガーに吊られていた。「お疲れ」キッチンの手前で、村上が片手を上げた。シャツの袖を肘までまくり、ネクタイはすでに外してテーブルの端に置いてある。眼鏡の跡が鼻の付け根にうっすら残っていた。「お疲れさまです。今日もありがとうございます」靴を脱ぎながらそう言うと、村上は小さく笑った。「そんなに改まらなくていいのに。ほら、適当に座ってて。ご飯、温めるから」「何買ってきたんですか」「たいしたものじゃないよ。コンビニの焼き魚とサラダと…あと、高橋くんが好きって言ってた唐揚げ」

  • アプリで始まった体だけの関係、その相手は職場の先輩でした~「平日夜/短時間」「感情なしの関係希望」「名前聞かないで」   41.先輩と後輩の仮面

    朝の通勤電車が、ビル群の隙間を縫うようにガタン、と揺れた。高橋翔希は吊革を握りしめたまま、ドアの向こうに流れる景色をぼんやりと眺めた。窓ガラスには、スーツ姿の自分の顔が薄く映っている。ネクタイはきちんと締まり、ワイシャツの襟も、いつも通りに収まっているはずなのに、その「いつも通り」がひどく他人のものに思えた。昨夜、自分は誰かを抱いていた。それも、ただの「誰か」じゃない。村上遥人という名前を、何度も喉の奥で転がしながら、相手の体温にしがみついていた。肩に噛みつくときの塩辛い汗の味も、耳元で震えた息も、まだ肌のどこかに貼り付いている気がする。そのすぐ翌朝に、こうして満員電車に押し込まれて、会社へ向かっている。このギャップに、軽い眩暈みたいなものが込み上げた。ドア横の広告には、新築マンションやブライダルフェアのポスター。笑顔のカップルの写真に「理想の未来を一緒に」と白い文字が踊っている。昨日までなら視界の端をただ通り過ぎていたはずのその言葉が、今日は妙に目に刺さった。理想の未来。自分の理想は、何だったんだっけ、と翔希は思う。二十代半ばの営業職。数字は悪くない。上司からの評価もそこそこ。いずれ結婚して、どこかの郊外に2LDKでも構えて、週末に大型スーパーでまとめ買い…そういう「普通」が、なんとなく自分の前にも用意されているのだと、どこかで信じていた。でも今、あの薄暗いホテルの部屋や、古い1Kマンションの見慣れない天井が、頭の中で強く残っている。あの場所で、村上を抱きしめていた自分と、この広告の中の「未来」を目指す自分は、同じ人間なのか、本当に、と考えると、足元がふわついた。電車が駅に滑り込み、乗客がざわ、と動き出す。人の波に押されながらホームに降り、ビルへ向かう。オフィスビルのエントランスに入ると、冷房の冷たい風がスーツの布越しに肌を撫でた。エレベーターホールには、あちこちのフロアへ向かう社員たちが集まっている。二十階のボタンのライトがぼんやりと光っていた。翔希は、その列の中に自然に混ざる。扉が開き、人がぎゅっと詰め込まれる。革靴の匂い、スーツの生地に染み付いた柔軟剤と香水の匂いが

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