เข้าสู่ระบบインストール中の円形のバーが一周りして、ぱっと消えた。
代わりに現れたのは、アプリのアイコンが少しだけ弾むような演出と、「はじめる」のボタン。ベッドの上に仰向けになったまま、それを見下ろしていた高橋翔希は、天井に一度だけ視線を逃がし、それから小さく息を吐いた。
「…ここまで来たら、押すしかないか」
声に出すと、エアコンの送風音に紛れて自分にしか聞こえない。
Tシャツ一枚の胸元には、さっき浴びたシャワーの余韻がまだ少しだけ残っていた。髪はタオルドライだけで済ませたので、首筋に湿った毛先が触れるたび、ひやりとした感触が走る。
部屋は、天井近くに取り付けた間接照明だけが灯っている。柔らかいオレンジ色の光に、白い壁とグレーのカーテンが溶けている。その中で、手の中のスマホの画面だけが、青白く浮かび上がっていた。
親指で「はじめる」をタップする。
画面が切り替わり、シンプルなロゴのあとに、チュートリアルらしき説明文が現れる。「このアプリについて」「安心してご利用いただくために」といった見出しとともに、利用規約や禁止事項が小さな文字で並んでいた。
ざっと目を通しながら、スクロールを進める。出会い系とはいえ、注意書きは意外と真面目だ。「未成年利用禁止」「違法行為禁止」「個人情報の取り扱いにご注意ください」。読み飛ばして、「同意する」にチェックを入れた。
次は、プロフィールの入力画面。
「ニックネーム」「年齢」「エリア」「身長」「体重」「体型」「自己紹介」。
項目がいくつも並んでいて、下には「顔写真を登録するとマッチング率が上がります」とご丁寧に書いてある。
さすがに、そこで笑いが漏れた。
「顔なんて出すわけないだろ」
小さくつぶやいて、まずニックネームの欄をタップする。
本名は論外だし、会社の人間に結びつきそうなものも避けたい。とはいえ、あまりにも意味不明な記号にすると、それはそれで目立ちそうな気がする。
頭に浮かんだのは、高校のときにゲームで使っていたIDの断片とか、サッカー選手の名前とか、昔飼っていた犬の名前とか。どれもしっくりこない。
少し考えてから、「sora」というローマ字を入力する。ありふれていて、特定しづらくて、特別な意味もない。無難中の無難だ。
生年月日を入れる欄には、実際のものより一歳上を入れた。二十五歳を二十六歳にするだけの、小さな嘘。別に重大なことではない。だが、本当の自分から半歩だけ離れた場所に立つことで、心のどこかが少しだけ安心する。
エリアは、職場から少しだけずらした駅名を選んだ。住んでいる最寄り駅そのものを書くのはなんとなく怖い。新宿から数駅離れた、よく利用する乗換駅の名前にしておく。
身長と体重は、だいたいの数値をそのまま入力した。ここでだけ妙に正直なのは、自分でもおかしいと思う。体型の欄には、「普通」と書いてあるボタンを選ぶ。細マッチョでもガッチリでもない、自分にはそれが一番近い。
「自己紹介」欄のカーソルが、点滅している。
何を書けばいいのか分からない。
「はじめてです」「まだよく分かってません」「暇つぶしに使ってます」。
どこかで見たようなテンプレが頭に浮かぶ。結局、「まだよく分かってませんが、話せる人いたらお願いします」とだけ打ち込んだ。中身のない文だが、アプリの海の中ではこれくらいが安全な気がした。
写真の登録画面になると、画面が少し明るくなる。カメラマークと、「今すぐ撮影」か「アルバムから選択」というボタン。
「いやいや、撮るわけねえだろ」
自嘲気味に笑って、画面を下までスクロールすると、「あとで登録する」という小さな文字があった。そこをタップして、写真登録は飛ばす。
代わりに、システム側で自動的に用意されたシルエットアイコンが、自分のスペースに入る。名前も顔もない、匿名の誰か。
位置情報の利用許可を求めるポップアップが出た。
「近くにいるユーザーを表示するために、位置情報の利用を許可しますか」
はい、か、いいえ、か。
少しだけ迷って、「アプリの使用中のみ許可」に指を滑らせる。どの道、このアプリを使わないときは、閉じている。なら、その間くらいは許してもいいだろう。
設定が終わると、短いローディングの後、「近くにいるユーザーを表示しています」という文字が現れた。水色のバーが左右に行ったり来たりする。
胸のあたりで、心臓の鼓動が、わずかに強くなる。
数秒後、そのバーが消え、代わりに表示された画面に、翔希は思わず眉を上げた。
男の顔と身体の写真が、画面いっぱいに並んでいた。
正確には、「近くにいるユーザーの一覧」。一行あたり二人ずつ、アイコンとニックネームと年齢、距離が表示されている。顔出しをしている人もいれば、身体の一部だけを写した写真をアイコンにしている人もいる。中には風景や犬の写真のものもあった。
年齢は、二十歳そこそこから四十代と思しき人までさまざまだ。体型も、細い、普通、ガッチリ、太め、といろいろ並んでいる。上半身裸で鍛えた筋肉を見せている人もいれば、スーツ姿で爽やかに笑っている人もいる。
「…世界が違うな」
小声が漏れる。
頭では分かっていた。そういうアプリなのだから、そういう写真が並ぶのは当然だ。だが実際に、それが「自分のいる街の近く」で撮られたものだと思うと、急に現実感が増した。
見なきゃいいのに、目が滑っていく。
一番上の列の男は、二十七歳で、自分と同じくらいの年齢。ニックネームはアルファベットで、「172/60 普通」とプロフィールに簡単に書いてある。「よろしく」の一言も添えられていた。
その隣の男は、三十代前半。ジムで撮ったらしい鏡越しの自撮りで、腹筋がきれいに割れていた。「筋トレ好きな人と繋がりたい」と書いてある。
別の人のプロフィールには、「タチ」「ネコ」「リバ」の文字があり、頭の中にクエスチョンマークが浮かぶ。なんとなく意味は想像できるが、はっきりとは知らない単語も混じっている。
「ウケ」「アクティブ」「パッシブ」「ガチムチ」「細マッチョ」。
ゲイ特有と思しき用語や略語に、最初は軽い戸惑いを覚えながら、翔希の目はすぐに慣れていく。人間の順応は、思っているよりずっと早い。
スクロールを下に進める。親指が画面の上を滑るたび、新しい顔や身体が次々に現れては、消えていく。
ある人は、「真面目に彼氏探してます」と真っ直ぐな文言を書いていて、ある人は、「遊び目的」とあけすけに書いている。中には、「始めたばかりで用語分かってません」と、どこか自分と似たことを書いている人もいた。
気づけば、最初の「どんなもんか見るだけ」というスタンスから、半歩ほど踏み込んでいた。
「この人、普通にイケメンだな」とか、「この人はたぶん年上だ」とか、そんなことを考えながら、他人のプロフィールを眺める。観察者の目線。自分はまだ、その輪には入っていない。
そう思っていた。
スクロールの指が、ふと止まる。
顔のない上半身の写真が目に飛び込んできた。
画面の左上の枠に、その写真があった。白いシャツの第二ボタンまでが外されていて、鎖骨から胸の上部にかけてが映っている。首から上は、きれいにフレームアウトしている。
光の加減で、鎖骨のくぼみと、胸筋にうっすらと浮かぶ筋肉のラインが強調されていた。派手な筋肉ではないが、薄く、無駄のない肉の厚み。
「…へえ」
思わず声が漏れる。
顔が見えないぶん、身体のラインに視線が集中する。シャツの生地の薄さや、ボタンの位置、首元の肌の色。ピントが浅いのか、背景はぼやけていて、身体の輪郭だけがはっきりしている。
視線を右に移すと、プロフィールの文言が目に入った。
「平日夜/短時間」
「感情なしの関係希望」
「名前聞かないで」
エリアは、「新宿〜〇〇線沿線」と書かれている。〇〇線は、翔希の使っている路線と同じだった。年齢は「27」とあり、自分の二つ上。身長は「178」、体重は「66」。体型の欄には「普通〜やや細め」とある。
最初に頭に浮かんだのは、単純な感想だった。
「すげえ直球なこと書くな…」
感情なし。名前聞かないで。ここまで割り切った言い方をするプロフィールは、他にあまり見かけていない。遊び目的と書いている人はいても、「感情なし」と明言する人は少ない。
画面をひとつ分スクロールして別の列を見ようとして、指が途中で止まった。
何かが引っかかっている。
……何だ?
もう一度、写真を見直す。
白いシャツ。二番目まで外されたボタン。鎖骨のライン。首から肩にかけての傾き。
そのシルエットに、どこか既視感があった。
どこで見た、どこで…
脳が勝手に、社内の風景を引っ張り出してくる。管理部フロア。打ち合わせスペース。白いシャツの袖をまくり上げた、細身の男の横顔。
村上遥人。
管理部の村上が、暑い日、上着を脱いでシャツ姿でデスクに座っていたときの光景。ボールペンを走らせながら、肩がわずかに動く。そのとき、襟元が少し開いていて、視界の端に鎖骨の影が見えた。
きちんとしたサイズ感のシャツは、身体のラインをほどよく隠しながらも、薄い布越しに胸板の厚みを伝えていた。スーツ姿のときよりも、身体の輪郭がくっきりと出て、妙に目を引いたのを覚えている。
今、画面の中にある写真のラインと、その記憶の中のラインが、重なる。
「…いやいやいや」
心の中で、慌てて打ち消す。
そんなわけない。
世の中には、白いシャツを着ている男なんて星の数ほどいる。鎖骨の形や胸の厚みが似ている人間だって、いくらでもいる。エリアだって、「新宿〜〇〇線沿線」なんて設定している人は山ほどいるだろう。
年齢が近くて、身長と体重の数字がなんとなくイメージと一致していて、文章の文体がどこか淡々としていて。
それくらいの共通点で、人を特定するなんて無理だ。
「ふうん」
あえて、さっきと同じ軽い声でそう言って、スクロールを続けようとする。
親指に力を込める。
画面がわずかに動きかけて、戻る。
動かないのは、スマホではなく、自分のほうだった。
視線が、写真から離れない。
「平日夜/短時間」
「感情なしの関係希望」
「名前聞かないで」
その文言が、頭の中で何度もリピートされる。不思議なことに、同時に、管理部フロアで村上が言った言葉も浮かんでくる。
「ギリギリだけど、まだ間に合うよ。大丈夫」
柔らかく笑いながら、そう言ったときの声。仕事を整理してくれたときの落ち着いた口調。
その人と、「感情なし」「名前聞かないで」というワードが、どうにも繋がらない。
指を画面の端に滑らせて、アプリを閉じる。ホーム画面に戻る。アイコンの並んだ画面が、さっきよりも味気なく見えた。
しばらく、そのまま天井を見上げる。
エアコンの風が、ゆっくりと回っている。外からは、遠くの車の音がかすかに聞こえる。布団の上に広がる自分の体温が、夜の湿度と混ざり合って、妙な重さを帯びていた。
「考えすぎだろ」
口の中で呟いて、首を横に振る。
顔が出ていない時点で、決めようがない。偶然似ているだけだ。そうに決まっている。村上は会社の人間で、管理部の有能な先輩で、自分が尊敬している人で。
画面の中のこれは、単なる匿名の誰かだ。
そう言い聞かせる。
言い聞かせて、三十秒もしないうちに、親指はまた同じアイコンをタップしていた。
アプリが開き、さっきの「近くにいるユーザー一覧」が表示される。自動的に更新されたらしく、顔ぶれが少し変わっている。しかし、スクロールを少し戻すと、そこにはまだ、さっきの白いシャツの写真があった。
顔のない上半身。
鎖骨の影。
淡々とした文言。
プロフィールをタップすると、個別の画面に切り替わる。アイコンが大きく表示され、その下に全文が載っている。
「平日夜/短時間」
「感情なしの関係希望」
「名前聞かないで」
「細かいこと気にしない人だと嬉しいです」
最後の一文が、先ほど見落としていたものだ。
「細かいこと気にしない人」。
仕事中の村上は、細かいことをよく気にする人間だ。書類のフォーマットや稟議の経路、数字の整合性。わずかなズレも見逃さずに拾い上げて、全部きちんと整えてくれる。それが彼の仕事であり、彼の強みだ。
プライベートでは、逆なのだろうか。
仕事で散々細かいことに気を配っている分、オフの時間くらいは、何も考えずに、「細かいこと気にしない関係」を求めたくなるのだろうか。
そんな勝手な想像が、頭の中に浮かぶ。
「平日夜/短時間」
平日の夜。つまり、仕事帰り。残業を終えて、スーツを脱ぐか脱がないかの時間帯。
「短時間」。長居はしない。さっと会って、さっと別れる。翌日の朝には、何事もなかったように会社に来る。
「感情なし」
そこに、好きとか嫌いとか、そういうものを持ち込まない。ただ、身体が触れ合うだけ。名前も知らないまま、すれ違っていく。
「名前聞かないで」
名前を知らなければ、次の日に街ですれ違っても気づかない可能性が高い。会社のビルのロビーで並んでエレベーターを待っていても、互いに気づかないかもしれない。
それが、彼の望む距離感なのだとしたら。
翔希は、胸の奥がぞわりとするのを感じた。
営業部のフロアで、自販機の前で、「村上さんみたいになりたいんです」と言った自分。そのとき、村上は少し困ったように笑って、どこか照れたような表情を見せた。
あの柔らかい笑顔。
落ち着いた声。
「お互い様ですよ」と言ったときの、すこしだけ目尻が下がる感じ。
そこに、「感情なし」「名前聞かないで」といった言葉が、どうしても重ならない。
なのに、身体のシルエットは重なる。
シャツのサイズ感。
二番目まで外されたボタンの抜け感。
首から肩にかけてのライン。
「ああいう細いけど変に頼りなさそうじゃない感じの体型、村上さんっぽいよな」と、以前ふと感じたことがある自分を、今さら思い出す。
もし仮に、このプロフィールの持ち主が村上だとしたら。
彼は、感情を切り離して、身体だけを誰かに預ける夜を持っていることになる。仕事中のあの柔らかさとはまったく別の顔で。
そんなの、ありえるのか。
「そんなわけないだろ」
もう一度、心の中で否定する。
村上は「管理部の影のエース」で、上司や先輩から信頼されていて、自分みたいな営業の若造にも丁寧に対応してくれて。自販機の前で、祝福の言葉をくれて。頑張ってる部下に「大丈夫」と言ってくれる、ちゃんとした大人で。
画面の向こうのこれは、名前も顔もない誰かの身体だ。
同じはずがない。
同じであってたまるか、とどこかで思う。
アプリを閉じようと、ホームボタンに指を伸ばす。
その途中で、また止まる。
もし違う人なら。
もし全然関係ない誰かだったら。
それはそれで、ほっとするのか。がっかりするのか。
答えが、うまく出てこない。
仕事で使う指とは違う種類の、落ち着きのない動きで、親指が画面の上をさまよう。プロフィール画面を閉じて一覧に戻り、また同じアイコンをタップして個別に入り直す。何度かそれを繰り返すうちに、自分でも何をしているのか分からなくなってくる。
画面を見つめすぎて、瞼の裏に白いシャツの胸元だけが焼き付く。
視界を強制的に切るように、翔希はスマホを胸の上に伏せた。画面を下にして、布団の上に置く。光が遮られ、部屋の中からブルーライトが消える。
急に暗さが増した気がした。
天井を見上げる。そこには何もない。白いだけの天井。さっきまでそこに映っていたスマホの光の残像が、まだ視界の隅に残っている。
耳に入るのは、エアコンの風が吹き出す音と、自分の呼吸の音と、シーツが肌に擦れる小さな音だけだ。夜はさっきより深くなり、外の車の音も少し減っている。
「考えすぎだ」
今度は、声に出して言う。
声は、部屋の空気に吸われて、すぐに消えた。
頭の中には、「営業部のヒーローを支える有能な先輩」の村上と、「顔のない、感情を切った身体」のプロフィールが、並んだまま、うまく重ならずに浮かんでいる。
どちらか一方を否定すれば、少しは楽になるのかもしれない。でも、どちらも現実のどこかに存在しているような気がして、雑に切り捨てることができなかった。
胸の真ん中あたりに、漠然としたざわめきが残る。
好奇心なのか、不安なのか、期待なのか、恐怖なのか。どの言葉も、しっくりこない。
ただひとつ分かるのは、自分はもう完全な観察者ではいられない、ということだった。
翔希が目を開けたとき、最初に目に入ったのは、白い天井の小さなシミだった。マンションの古い天井板に浮いた、不規則なにじみ。薄い灰色が輪郭をぼかし、じっと見ていると、そこだけ時間が止まっているみたいに感じる。ぼんやりと焦点を合わせているうちに、枕元から、微かな寝息と、布団の擦れる音が耳に届いた。すぐ横には、うつ伏せ気味に眠っている村上の背中がある。薄いグレーのTシャツ越しに、規則正しく上下する呼吸。枕に押しつぶされた後頭部から、少し跳ねた髪がはみ出している。部屋のカーテンは、半分だけ開いていた。隙間から朝の光が斜めに差し込み、埃の粒をきらきらと浮かび上がらせている。窓の外からは、遠くの環状線を走る車の音と、近くの保育園から流れてくる子どもの声が、薄い壁越しににじんで聞こえた。ここは、新宿の古い1Kマンションの一室。すっかり見慣れてしまった部屋。けれど、朝、こうして二人でスーツに着替える前の、この一瞬だけは、いまだに少し現実味が薄い。「……七時半」枕元のスマホに手を伸ばし、画面を点ける。液晶の光に目を細めながら時刻を確認すると、会社に行くにはちょうどいい時間だ。目覚ましはとっくに止めてある。たぶん、村上が無意識に止めたのだろう。アラームの履歴が、そんな痕跡を残していた。もう一度、隣に視線を落とす。寝ている村上の横顔は、会社にいるときとは少し違う。眉間に寄りがちな皺が緩み、口元も、ほんの少しだけ開いている。頬にかかる髪の線を目でなぞっていると、胸の奥がふわりとくすぐったくなる。こんな顔を知っているのは、自分だけだと思うと、妙な優越感と同時に、怖さも生まれる。抱きしめたくなる衝動と、この瞬間を壊したくないという臆病さが、胸の中で混ざり合う。「……起きますかね」誰に聞かせるでもなく呟きながら、翔希はそっと身体を起こした。布団が擦れる音に、村上が微かに身じろぎする。肩がひとつ上下し、眠りの深さを確かめるみたいに長く息を吐いたあと、うっすらと瞼が持ち上がった。「ん……」掠れた声が漏れる。翔
古めのマンションの前に着く頃には、小雨の気配はすっかり消えていた。アスファルトに残っていた小さな水たまりも、足で踏みしめられ、車に弾かれ、だいぶ薄まっている。代わりに、マンションの外壁に染み込んだ湿り気と、どこかの部屋から漏れてくるカレーの匂いが、鼻の奥をくすぐった。翔希は、建物を見上げた。見慣れたコンクリートの肌。ところどころ黒ずんだ手すり。何度も通ったはずなのに、会社から一緒に歩いてきたせいか、少しだけ違って見える。エントランスのオートロックに番号を打ち込むのは、もう迷いがない。隣で村上がさっとキーを押し、その間に翔希は肩からバッグを掛け直す。開いたドアから、むっとした室内の空気が一気に流れ込んできて、外気と混ざった。階段を上がる音が、コツコツと一定のリズムで響く。最初の頃は、段数を数える余裕なんてなかった。今は、二階に上がるまで何段あるか、何となく感覚で分かるようになっている自分に気づき、心の中で少しだけ笑う。いつもの階で足を止め、いつものドアの前に立つ。村上がポケットから鍵を出し、慣れた動きで回す。その所作を横目で見ながら、翔希は「ああ、本当に『いつもの』なんだな」と妙に現実味を帯びた感慨を覚える。中から、きしむような小さな音を立ててドアが開いた。ふわり、と漂ってくるのは、洗剤と柔軟剤と、少しだけタバコの残り香が混ざった、村上の部屋の匂い。初めて来た日の、あの少し甘苦い印象が、今はどこか落ち着く香りになっている。「お邪魔します」口ではそう言いながら、翔希の手はもう、自分の靴の位置を決めるべき場所を知っている。玄関の端、壁から一足分空けた位置。最初の頃は遠慮して一番端に詰めて置いていたのが、今は自然と村上の革靴の隣に並ぶ形に落ち着いていた。革靴を脱ぎ、揃えて置く。その隣には、何度も見てきた村上の黒い靴。その横に自分の靴が馴染んで並んでいる光景が、胸のどこかをくすぐる。「あ、そこに掛けといて」視線を上げると、村上がジャケットを脱ぎながら顎で示したのは、玄関横のハンガーラックだった。そこにも変化がある。以前はスーツとコートでいっぱいだったラックに、今は少し隙間が作られていて、そこに翔希のジャケットが掛
新宿駅方面に向かう大通りは、雨上がりの光をまとっていた。さっきまで降っていた小雨が止んだばかりで、街路樹の葉からは時おり雫が落ち、アスファルトの上に小さな輪を広げる。車のヘッドライトと、ビルのネオンが濡れた路面に映り込んで、色の境界線を曖昧にしていた。高橋翔希は、その光のゆらめきをぼんやりと追いながら、肩にかけたバッグの持ち手を握り直した。会社を出たときよりも、少しだけ空気が冷たくなっている気がする。スーツの襟元に入り込む湿った風が、ほてった首筋を撫でていく。隣では、村上遥人が同じ速度で歩いていた。歩幅はほとんど同じで、一歩進むたびに靴底の音が微妙にずれて重なっては、また離れていく。信号待ちで横断歩道の前に立ち止まると、周囲には同じようなスーツ姿の会社員たちが集まってきた。手には折りたたんだ傘、紙袋、コンビニの袋。それぞれの一日の終わりが、同じ赤信号の前で足並みを揃えている。翔希は、何気なく右側に立った。遥人との距離は、肩と肩がかすかに触れるか触れないかくらい。以前なら「近すぎる」と感じて半歩引いていた距離だが、今はその微妙な接触が、むしろ落ち着きをもたらしていた。赤信号の光が、二人の顔色をわずかに変える。車道を走り抜けていくタクシーのライトが、視界の端で流れていく。排気ガスと、濡れたアスファルトが混ざった匂いが、吸い込むたびに胸の奥に重くたまった。ふと、指先に柔らかいものが触れた。自分の手の甲に、誰かの指がかすかに擦れたような感覚。翔希が視線を落とすと、遥人の左手の甲が、ほんの少しだけ自分の右手に寄っていた。以前なら、反射的に引っ込めていたはずだ。血の気が引いて、周囲に誰かが見ていないかと慌ててきょろきょろしただろう。けれど、今は違かった。翔希は、わざと何でもない顔をしたまま、その指先に自分の指をそっと重ねた。人混みの中で、ごく自然な動きに見えるように、慎重に。誰かの視線があるとしたら、その程度の触れ方なら、たまたまぶつかったくらいにしか映らないだろう。重ねられた指先が、一瞬だけ緊張したように固くなり、それからゆっくりと力を抜いた。遥人の指が、わずかに握り返してくる。ポケットの中に一緒に手を突っ込んでいるわけでも、露
夕方のチャイムは、このフロアには鳴らない。代わりに、各自のモニターの右下で、定時を知らせる小さなポップアップが静かに消えていく。高橋翔希は、それを斜めに視界に入れながら、まだ開いたままの見積書の数字をひとつひとつ確認していった。桁の打ち間違いがないか、単価が最新のものになっているか、営業の勘と、ここ一年で身についた「管理部がどこを気にするか」という感覚で、ざっと全体を見渡す。隣のデスクでは、四月に入ってきたばかりの後輩が、未だに慣れない様子でテンキーを叩いている。数字を打つ指先が、少しだけぎこちない。「ここ、単価こっちね」翔希は椅子ごとそちらへ滑り、モニターを指さした。「あ、すみません」「いや、最初っから全部できる人いないんで。単価の表、最新のやつブクマしといたほうが早いですよ」「はい…ありがとうございます」口をついて出る言葉が、気づけばすっかり「先輩」側のものになっている。半年前までは、自分も似たようなテンションで中村に助けられていたはずなのに、と翔希は小さく笑った。デスクの端に置いてあるマグカップには、もう冷めたコーヒーが半分ほど残っている。空調の乾いた風、コピー機の低い駆動音、人の話し声とマウスのクリック音が混ざった雑音。その全部が、毎日の背景として身体に染みついている。モニターのタスクバーに、チャットアプリのアイコンがひとつ瞬いた。社内用のツールだ。通知のポップアップに表示された送り主の名前を見て、翔希は意識して表情を変えないよう、背筋を伸ばした。「高橋くん、今日どんな感じ?」管理部の全体チャットに紛れて届いた、個別メッセージの一行。送り主は、村上遥人。数ヶ月前と違うのは、これが「管理部の誰か」ではなく、確実に自分の知っている誰かからのメッセージだということだ。画面越しではなく、生の声の温度を知っている相手。翔希はキーボードに指を滑らせた。「今、見積最終確認してるところです。あと十五分くらいで上がれそうです」返送したメッセージが送信済みの欄に沈んだ瞬間、すぐにまた通知が弾んだ。
それからの時間は、音を立てずに進んでいった。派手な出来事があったわけではない。ただ、気づけば、ホテルの白いシーツよりも、村上遥人の古い1Kの布団の感触のほうが、翔希の中で「いつもの夜」に近づいていた。ある平日の夜、高橋翔希は、いつもの新宿のビジネスホテルではなく、少し路地を入った先の古いマンションの前で立ち止まっていた。数週間前に初めて上がった階段。二、三本ほどペンキが剥げた手すり。雨上がりで少し湿ったコンクリートの匂いが、鼻の奥にまとわりつく。インターホンを押すと、少し間があってから、かすかに聞き慣れた声が返ってきた。「はい」「高橋です」「ああ、開けるね」ブザーの音とともにオートロックが外れ、扉が重い音を立てて開く。エレベーターのない階段を上がりながら、翔希は何度目かの、しかしまだ慣れきらない高鳴りを胸の中で確かめた。三階の廊下に出ると、薄いカーペットの匂いと、どこかの部屋から漏れるテレビの音が交じり合っていた。指定の部屋番号の前まで歩き、軽くノックする。「開いてるよ」内側からそう声がして、ドアノブを回すと、少し油の抜けた金属音がした。扉を引くと、見慣れてきたワンルームの景色が広がる。キッチンには、シンクに伏せられたマグカップが二つ。テーブルの上にはコンビニの袋と、簡単な総菜パック。部屋の中央には、布団ではなく、小さなソファとローテーブルが置かれている。その向こう側に、広げたままの洗濯物がハンガーに吊られていた。「お疲れ」キッチンの手前で、村上が片手を上げた。シャツの袖を肘までまくり、ネクタイはすでに外してテーブルの端に置いてある。眼鏡の跡が鼻の付け根にうっすら残っていた。「お疲れさまです。今日もありがとうございます」靴を脱ぎながらそう言うと、村上は小さく笑った。「そんなに改まらなくていいのに。ほら、適当に座ってて。ご飯、温めるから」「何買ってきたんですか」「たいしたものじゃないよ。コンビニの焼き魚とサラダと…あと、高橋くんが好きって言ってた唐揚げ」
朝の通勤電車が、ビル群の隙間を縫うようにガタン、と揺れた。高橋翔希は吊革を握りしめたまま、ドアの向こうに流れる景色をぼんやりと眺めた。窓ガラスには、スーツ姿の自分の顔が薄く映っている。ネクタイはきちんと締まり、ワイシャツの襟も、いつも通りに収まっているはずなのに、その「いつも通り」がひどく他人のものに思えた。昨夜、自分は誰かを抱いていた。それも、ただの「誰か」じゃない。村上遥人という名前を、何度も喉の奥で転がしながら、相手の体温にしがみついていた。肩に噛みつくときの塩辛い汗の味も、耳元で震えた息も、まだ肌のどこかに貼り付いている気がする。そのすぐ翌朝に、こうして満員電車に押し込まれて、会社へ向かっている。このギャップに、軽い眩暈みたいなものが込み上げた。ドア横の広告には、新築マンションやブライダルフェアのポスター。笑顔のカップルの写真に「理想の未来を一緒に」と白い文字が踊っている。昨日までなら視界の端をただ通り過ぎていたはずのその言葉が、今日は妙に目に刺さった。理想の未来。自分の理想は、何だったんだっけ、と翔希は思う。二十代半ばの営業職。数字は悪くない。上司からの評価もそこそこ。いずれ結婚して、どこかの郊外に2LDKでも構えて、週末に大型スーパーでまとめ買い…そういう「普通」が、なんとなく自分の前にも用意されているのだと、どこかで信じていた。でも今、あの薄暗いホテルの部屋や、古い1Kマンションの見慣れない天井が、頭の中で強く残っている。あの場所で、村上を抱きしめていた自分と、この広告の中の「未来」を目指す自分は、同じ人間なのか、本当に、と考えると、足元がふわついた。電車が駅に滑り込み、乗客がざわ、と動き出す。人の波に押されながらホームに降り、ビルへ向かう。オフィスビルのエントランスに入ると、冷房の冷たい風がスーツの布越しに肌を撫でた。エレベーターホールには、あちこちのフロアへ向かう社員たちが集まっている。二十階のボタンのライトがぼんやりと光っていた。翔希は、その列の中に自然に混ざる。扉が開き、人がぎゅっと詰め込まれる。革靴の匂い、スーツの生地に染み付いた柔軟剤と香水の匂いが