LOGIN金曜の夜、新宿の空気は一週間分の疲れとアルコールと油の匂いで、いつもより少し重かった。
駅から会社とは逆方向に伸びる小さな路地に、赤ちょうちんが連なっている。そのうちの一軒の引き戸を、中村が勢いよく開けた。
「とりあえずビールでいいっすよね、課長」
「おう、そりゃそうだろ」
カウンターと小上がりだけの狭い居酒屋。油で少し曇ったガラス越しに、外のネオンがにじんで見える。串焼きの煙がうっすらと漂い、醤油とタレの甘い匂いが鼻をくすぐった。
高橋翔希は、カウンターの端の席に腰を下ろしながら、緩めかけたネクタイをもう一段階だけ緩めた。上着は背もたれにかける。座面が少し硬くて、その感触が仕事モードとプライベートの境界線みたいに背中に当たる。
「今週もお疲れ」
中村が高く掲げたジョッキの泡が、黄色い照明に透ける。
「お疲れさまです」
「お疲れさまです」
石田課長もジョッキを持ち上げ、三つのグラスが軽くぶつかった。耳のすぐ近くで、ガラスの澄んだ音が鳴る。
冷えたビールが喉を通り過ぎるとき、今日一日の細かな緊張が、胃のあたりに流れ落ちていくのが分かる。二杯目、三杯目と進むにつれて、普段なら心の奥にしまっておくような愚痴や冗談も、少しだけ口に出しやすくなる。
「でさあ、課長。あのクライアントの部長マジでクセ強くないですか」
「お前が言うな。お前も大概だぞ」
「え、俺素直じゃないっすか」
笑い声と、焼き台の上で肉が焼けるジュウという音。狭い店内に、会話が反響している。
翔希は、その輪の中にちゃんといる。
課長が話す昔の営業時代の武勇伝に笑い、中村の失敗談にツッコミを入れ、自分の話も少しだけする。唐揚げの脂っこさと、キャベツのざくざくした食感と、塩辛いタレの味。それらを舌の上で確かめながら、グラスの中身をちびちびと飲む。
気づけば、氷の溶けたレモンサワーが二杯目に差し掛かっていた。
「お前、今日はあんま飲んでなくね?」
中村が覗き込んでくる。
「いや、飲んでるよ。明日も一応午前中は予定あるから、ほどほどにしてるだけ」
「意識高ぇ」
「二日酔いで客先行くの嫌なんで」
そんな会話をしながらも、頭のどこかに、白いシャツの胸元がちらついていた。
昨夜、スマホの画面の中に映っていた、顔のない上半身。文字列として並んだ「平日夜/短時間」「感情なし」「名前聞かないで」。その情報が、「村上遥人」という具体的な人間の輪郭に勝手に貼りつこうとするのを、ここ数日ずっと押し戻している。
「高橋」
課長の声が飛んできた。
「はい」
「来週のB社のやつ、見込みどうだ?」
「今のところ五分五分って感じですね。週明けに先方のシステム担当ともう一回打ち合わせしてから、提案の内容微調整しようかなと思ってます」
「そうか。まあ、お前なら大丈夫だろ」
「プレッシャーかけないでくださいよ」
笑いながら返しつつ、その「信頼」が、どこか別の重さを持って胸の中に落ちる。
自分は「ちゃんとしている営業」として扱われている。期待もされている。その自分が、夜になるとアプリを開いて、誰かの顔のないプロフィールに執着している。
そのギャップに、慣れるほどまだ図太くはなれない。
店を出たのは、十一時前だった。
「じゃ、ここで解散な」
石田がそう言って、タクシー乗り場のほうへ歩いていく。中村は反対方向の終電に乗ると言い、軽く拳を合わせる。
「また来週」
「はい、お疲れさまでした」
別れの言葉を交わし、翔希はひとり、駅とは違う方向に歩き出した。終電にはまだ余裕があるし、少し歩きたかった。
夜風が、ほてった頬を撫でていく。アルコールで緩んだ身体には、それが心地よかった。ビル風と、街路樹の間を抜ける風と、どこかの店から漏れてくる冷房の冷気。それぞれが違う温度を持っている。
歩道には、同じように飲み会帰りと思しきスーツ姿の人々が歩いていた。笑いながら肩を組んでいるグループもいれば、ひとりでスマホを見ながら歩いている人もいる。
コンビニの明かりが、通りに白い四角を作っていた。その前の自販機の横で、女子高生たちが制服のままアイスを食べている。少し離れた場所には、タバコを吸っている男がひとり、スマホを見つめながら煙を吐き出していた。
歩きながら、翔希はジャケットの内ポケットからスマホを取り出す。
ロック画面に映る時刻は、22:54。通知がいくつか並んでいたが、どれも今すぐ確認する必要はないものばかりだった。
ホーム画面に切り替える。
視線は、自然と、あのアイコンを探していた。
「…酔ってんだろ、俺」
苦笑しながらも、親指は迷わずそのアイコンをタップしていた。
アプリが開く。ローディングの円が一度回り、「近くにいるユーザー」の一覧が表示される。今いる場所の近くにいる人たちだからか、さっきまで店で見かけたようなスーツ姿の人間の写真も混ざっている気がする。
白いシャツ。
ネクタイ。
公園のベンチで撮ったらしき自撮り。
バーのカウンターらしき背景。
目が滑っていき、そのうちの一つの場所で止まる。
例のプロフィール。
顔のない、上半身の写真。
白いシャツの第二ボタンまでが開き、鎖骨から胸筋にかけてのラインが柔らかい光を受けている。
その右上には、緑の丸。「オンライン」を示すマークが、さも当然のように点灯していた。
胸の奥が、チクリと痛む。
この時間帯。
このエリア。
平日の夜。
画面の向こうで、この人は今、どこにいるのだろう。自宅のベッドの上か、ホテルの一室か、あるいはまだどこかの店にいるのか。
もし、本当に村上だったら。
管理部のフロアで誰かの稟議をさばいていたあの指が、今同じようにこのアプリを操作しているのだとしたら。誰かと場所を決めて、待ち合わせをして、「短時間」で身体だけを交わしているのだとしたら。
「…酔っ払いの妄想だろ」
心の中で呟き、頭を少し振る。
もし違う人だったら、それはそれで落ち着かない。今度は、「自分が勝手に村上だと決めつけて、ただの他人のプライベートを覗き見していた」という事実だけが残る。それも嫌だ。
どちらに転んでも、すっきりしない。
親指でプロフィールをタップし、個別画面を開く。
何度も見た文章が、また目に飛び込んでくる。
「平日夜/短時間」
「感情なしの関係希望」
「名前聞かないで」
「細かいこと気にしない人だと嬉しいです」
アルコールのせいか、いつもより文字がわずかに滲んで見える。街灯の光とスマホのブルーライトが、白いシャツの写真の上で奇妙に混ざり合っていた。
ふと、自分のプロフィールに目をやる。
現在の自分は、「sora/26/〇〇線沿線」とだけ記した、簡易な登録だ。顔写真はなく、身長と体重だけ正直に書いている。「まだよく分かってませんが、話せる人いたらお願いします」という薄い文言。
これでこのアカウントに「いいね」を送ったら、どうなる。
相手側の画面には、自分の「sora」が表示される。年齢、エリア、体型。プロフィール文。今まで真面目に入力していなかったそれらが、一気に重みを持つ。
顔写真を載せていないとはいえ、プロフィールの組み合わせ次第では、知り合いに勘づかれる可能性だってゼロではない。職場の人間がこのアプリを使っていない保証もない。
「これじゃマズいか…」
足を止める。
立ち止まった場所は、コンビニの前だった。店先の明るさが歩道に流れ出し、視界の端でホットスナックのケースが温かいオレンジ色を放っている。
誰かが自動ドアを開けて出てきた。揚げ物の匂いと、冷房の冷気が一瞬こちら側まで流れてくる。その風が、ほのかに熱を持った顔を冷やした。
この簡易アカウントのまま、「sora」のまま、近づくのは違う。
自分の輪郭が、あまりにも曖昧すぎる。本気で恋人を探す気もないくせに、ふわっと「暇つぶし」の顔をして近づくのは、どこか卑怯だ。
かと言って、本名や、自分だと分かるものを晒す気もない。
そこで、ひとつの発想が浮かんだ。
「…別アカ作るか」
自分で自分の言葉に、ほんの少しだけ驚いた。
アプリを一度閉じ、ホーム画面に戻る。設定画面を開き、「ログアウト」のボタンを探す。ログアウトを押すと、最初のログイン画面が現れた。
「新規登録」
小さな文字をタップする。
また、初めてこのアプリをインストールしたときと同じような登録フォームが現れる。ニックネーム、年齢、エリア、身長、体重、体型、自己紹介。
今度は、「知り合いにバレない自分」を組み立てる作業だ。
ニックネームは、以前使った「sora」とはまったく違うものにする。少し考え、頭に浮かんだ英単語を崩して「k_19」と打ち込んだ。ありふれていて、誰とも特定できない文字列。
年齢は、一つ上げた。実際は二十五だが、「26」と入力し、誕生年も一年前にずらす。これで万が一職場の誰かが年齢とエリアで検索しても、直接は引っかかりにくくなる気がする。
エリアは、「新宿」ではなく、普段ほとんど行かない隣の駅名にした。〇〇線沿線であることには変わりないが、少しだけズラす。
身長と体重は、さすがにあまり大きく変えると会ったときにバレる、と考えて、身長だけマイナス二センチにし、体重はプラス一キロにした。自分を少しだけぼかした数字。鏡に映る自分に嘘をつくほどではないが、完全な正直でもない。
体型の欄には、「普通〜やや細め」と書かれた選択肢を選ぶ。その曖昧さが、かえって本当らしく見える気がした。
自己紹介欄のカーソルが点滅する。
しばらく考え、「平日夜にゆるく会える人いたら」と打ちかけて、指を止める。そのまま全消しし、「落ち着いて会える人と話したいです。顔は仲良くなってから」とだけ書いた。
自分で打ちながら、その文に含まれている慎重さと打算が、薄く口の中に苦い味を運んでくる。
位置情報の許可については、さっきと同じように「使用中のみ許可」にチェックを入れる。
顔写真は、もちろん登録しない。「あとで登録する」を選ぶ。自動的にシルエットのアイコンが割り当てられた。
ひと通り入力が終わり、「登録」のボタンを押すと、再び「近くにいるユーザーを表示しています」という画面が現れる。
コンビニの前で立ち止まったまま、そのローディング画面を見つめている自分が、少し滑稽に思えた。
「何やってんだろうな、俺」
苦笑しながらも、歩き出す気にはなれない。
数秒後、また「一覧」が表示される。
さっき見た顔や身体の写真が、別の並び順で現れている。自分の新しいアカウントも、誰かの一覧にひっそりと混ざっているのだろう。
「これはただの実験」
心の中で言葉を置く。
「確認したいだけ」
「こっちの気持ちなんか、向こうには分からない」
「もし違う人だったら、『ああ違ったんだ』って分かるだけ」
いくつもの言い訳を積み重ねる。積み木を高く積み上げて、自分の行動の足元に影を作るみたいに。
それでも、結局のところ、自分が「知りたい」のは一つだけだ。
あのプロフィールの向こう側にいるのが、村上なのかどうか。
コンビニの前から少し離れた場所に、小さな公園があった。街路樹とベンチが二つ。夜のせいか、誰も座っていない。自販機の明かりだけが、そこを淡く照らしている。
翔希は、そこまで歩いて行き、空いているベンチに腰を下ろした。
スーツのズボン越しに伝わる木のひんやりした感触と、少し湿った空気。耳には、遠くの車の音と、近くの信号機の電子音がかすかに届く。
スマホを両手で持ち、再び例のプロフィールを探す。
スクロール。
白いシャツ。
鎖骨。
胸元。
プロフィール。
指先が、写真の枠をタップする。個別画面が開き、文字が並ぶ。
「平日夜/短時間」
「感情なしの関係希望」
「名前聞かないで」
「細かいこと気にしない人だと嬉しいです」
画面の右下には、小さなハートマークがあった。
「いいねを送る」
そのハートの形は、どこにでもあるアイコンだ。恋愛アプリでも、SNSでも、同じような記号が使われている。でも今、このハートは、自分と誰かの世界の距離を、一気に縮めてしまうかもしれないボタンになっている。
親指を、そのハートに近づける。
少し触れただけで、色が変わりそうな距離。実際には数ミリもないその距離が、今はとてつもなく遠く感じる。
心臓の鼓動が、ベンチの背もたれに触れた肩越しに伝わってくるような気さえした。
押せば、相手に通知が行く。
「k_19」からの「いいね」が。
相手が誰であっても、その時点で、自分は観察者ではなくなる。ただの通りすがりではない、「接触しようとした誰か」になる。
もし相手が村上なら、自分は、村上の知らないところで、村上に手を伸ばすことになる。名前も顔も伏せたまま、別の顔を被って。
もし違う人なら、その人はただの他人だ。けれど、こちらの曖昧な興味と、誰かの身体だけを求める欲望の場に、中途半端な形で介入することになる。
村上の笑顔が頭に浮かぶ。
打ち合わせスペースで、淡々と資料を整理しながら、「ギリギリだけど、まだ間に合うよ。大丈夫」と言ってくれたとき。
自販機の前で、「村上さんみたいになりたいんです」と言った自分に、「困るなあ」と照れたように笑ったとき。
エレベーターの中でちらりと見かけた、横顔。
会議室で、自分の報告を聞いていたときの真剣な目。
そのすべてが、「仕事の村上」としての彼の姿だ。
その裏側に、あのプロフィールの言葉があるのかどうか。それを確かめたいと思うのは、そんなにいけないことなのか。
言い訳と本音が、胸の中でぐちゃぐちゃに混ざり合う。
親指は、まだハートの手前で止まっている。
指先が、ほんの少し震えていた。アルコールのせいか、夜の冷えのせいか、それとも緊張のせいか、自分でも判然としない。
「押さなきゃ良かった、ってあとで思うかもしれない」
「押さなかったら、このままずっとモヤモヤしてるかもしれない」
ふたつの未来が、頭の中で並んでいる。
どちらにしろ、すっきりとはしないのだろう。
「…えい」
半ば自棄のような、小さな声とともに、親指がハートの上に落ちた。
画面が、わずかに震える。
「いいねを送りました」
小さなポップアップが、画面の中央に浮かび上がる。
胸の中で、何かが落ちた。
重たいものが深いところに沈んでいくときの、あの独特の感覚。怖さと、高揚と、もう戻れないという実感、その全てが入り混じって、内側から身体を押し広げる。
数秒間、時間が止まったように感じた。
実際には、ただの数秒だ。
けれど、その数秒の間に、頭の中にはいくつもの光景がフラッシュのように流れた。
会社の会議室で、石田課長が「よくやったな」と肩を叩いた瞬間。
自販機の前で、村上が「お互い様ですよ」と笑ったときの目尻の皺。
営業フロアのざわめき。
満員電車の圧迫感。
自分の部屋の天井。
そして、さっき押したばかりのハートマーク。
ポップアップが消える。
同じ位置に、新しい表示が現れた。
「マッチしました」
隣には、「いいねを返されました」という小さな文字。
そのすぐ下に、「メッセージを送ってみませんか?」というポップアップがふわりと現れる。テキストボックスには、「メッセージを入力してください」という灰色の薄い文字が浮かんでいた。
時間差は、ほとんどなかった。
「即答かよ…」
思わず声に出る。
相手は、自分の「いいね」に、ほんの数秒で反応を返してきたことになる。たまたまアプリを開いていたからなのか、単に「いいね」が来たら反射的に返すタイプなのか、そこまでは分からない。
分からないことだらけだ。
ただ一つ、「この人と自分は今、アプリ上で繋がった」という事実だけが、画面の中でくっきりと存在している。
ベンチの上で、右手がスマホを握りしめる。その力が強すぎて、関節が少し白くなっているのが、自分でも分かった。
親指は、今度はテキストボックスの上をさまよっている。
何を、どう送ればいい。
「はじめまして」か。
「いいねありがとうございます」か。
そんなテンプレートみたいな言葉を打ち込むことすら、どこかためらわれる。
画面の照明が、自分の顔の筋肉のわずかな動きを照らし出している気がした。眉間に寄った皺、わずかに開いた唇、呼吸の速さ。
外の世界は、相変わらずだ。
少し離れた大通りからは、タクシーのクラクションが聞こえる。ビルの看板が、色とりどりに光っている。コンビニの前では、新しい客がドアを開け、レジの電子音が鳴っている。
その喧騒から切り離されたこの小さな公園のベンチの上で、たったひとつのスマホの画面だけが、異様なほどの存在感を持って光っていた。
「…帰るか」
小さく呟き、翔希はスマホを一度スリープにしてポケットにしまった。
メッセージは、まだ打っていない。
今この場で送る勇気は、さすがになかった。少し酔いが回った頭で、変なことを書きそうな自分が怖い。
代わりに、「マッチした」という事実だけを持ち帰る。
自宅のドアを開けると、いつもの静けさが迎えてくれた。靴を脱ぎ、ジャケットをハンガーに掛け、ネクタイを外し、シャツのボタンを外す。冷蔵庫を開けて、ミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、喉を潤す。
テレビはつけない。
代わりに、部屋の照明を一段階落とす。淡いオレンジ色が、白い壁を薄く染める。窓の外から入る街灯の光が、カーテンを透かして筋になっていた。
ベッドに腰を下ろし、ポケットからスマホを取り出す。
ロックを解除し、アプリを開く。
マッチングの画面には、さっきのプロフィールと、自分の「k_19」が並んで表示されていた。その下には、空白のチャット欄と、「メッセージを入力してください」という文字。
親指をそっとテキストボックスに置く。キーボードが立ち上がり、ひらがなの列が画面下部に並ぶ。
何も打たない。
しばらく、そのまま。
指先と、心臓の音だけが、やけにくっきりと自分の意識を占めていた。
暗い部屋の中で、スマホの画面だけが青白く光っている。その光が、天井に微かな反射を作る。
まだ誰も知らない秘密が、今、手の中で静かに形を取り始めていた。
新宿の夜風は、生ぬるくて、やけに冷たかった。ホテルの自動ドアが背後で閉まる音を聞きながら、高橋翔希は、しばらくその場に立ち尽くしていた。ガラスに映る自分の顔は、スーツ姿の「普通の会社員」でしかない。中身は、全然普通じゃなかった。足が勝手に動き出す。駅とは逆方向のネオン街のほうへ、ふらふらと。タバコの煙と、居酒屋の油の匂いと、水っぽい香水の匂いが混ざった空気を吸い込んで、胸の奥がきしむ。『お前には関係ないだろ』村上がベッドの上で言った一言が、耳の奥で何度もリピートされていた。関係ない。そうだ。そういうはずだった。最初から、「ここ」はそういう場所で。平日夜、短時間。名前も呼ばない。仕事の話もしない。感情なし。そこに自分で足を踏み入れておいて、今さら何に傷ついているんだ、と別の自分が冷静に突っ込んでくる。それでも、胸は痛い。『俺がお前とだけ会ってるって、いつ言った?』言われて当然のことを言われた感じがして、余計に痛い。雑居ビルの壁に、キャバクラの看板やカラオケの看板がぎっしり貼られている。どの店も、夜の楽しみを派手なフォントで謳っている。翔希の足は、そのどれにも向かわない。淡々とアスファルトの上を踏みしめるだけだ。信号待ちの横断歩道で立ち止まる。隣にいるスーツ姿の男たちは、仕事帰りのテンションで笑っていた。「でさー、その課長がさ」「マジかよ、それパワハラじゃん」笑いと愚痴と、くだらない冗談と。そういうもので夜は賑わっている。自分も、本来ならその輪のどこかに混ざっているはずだった。「…遊び、なんだからな」小さく呟く。村上の言葉を、そっくりそのままなぞる。遊びなんだから。そう何度も心の中で唱えれば、そのうち本当に軽く感じられるのだろうか。信号が青に変わった。人の波に押されるように、横断歩道を渡る。『じゃあ、なんであん
ベッドの上の空気は、まだ体温の名残りを含んでいた。薄い掛け布団の下で、高橋翔希は仰向けになり、天井のぼんやりした模様を見つめている。隣には、ほんの少し間を空けて、村上遥人が横たわっていた。照明はスタンドライト一つだけ。オレンジがかった光が、狭い部屋の隅々をやんわり照らしている。窓の向こうのネオンは、厚手のカーテンで遮られて、かすかな明るさだけが縁から漏れていた。静かだ。エアコンの低い唸りと、二人分のかすかな呼吸音だけが、この空間のすべてだった。翔希は、自分の胸の上下を意識する。呼吸は、さっきまでより落ち着いている。脈も、ようやく普通の速度に戻りつつあった。それでも、胸の奥には別の意味の荒れが残っている。今、聞かなかったら。もう二度と、聞けない気がした。この沈黙が終わって、ベッドから降りて、シャワーを浴びて、服を着て、エレベーターに乗って。それで「お疲れさま」とか「気をつけて」とか言って別れたら。自分は、ただの「遊び相手の一人」として、何も知らないまま、この人のスケジュールのどこかに薄く書き込まれたまま、やがて消えていく。自分がそういう位置にいるのは、最初から分かっていたはずだ。平日夜/短時間。感情なしの関係希望。名前聞かないで。あのプロフィール文を見たときから、ここはそういう場所だと理解していた。理解していた、はずなのに。喉の奥がきゅっと詰まる。言葉を飲み込んだままの沈黙が、部屋の中でどんどん重くなっていく。隣から、布擦れの音がした。村上が、寝返りを打ったらしい。ベッドが小さく揺れる。横目でそちらをうかがうと、村上は片腕を枕にして横向きになっていた。天井ではなく、壁の時計のほうをぼんやり見ている。横顔の輪郭が、スタンドライトの光で柔らかく縁取られる。その横顔を、ベッドの上でも、会社のデスクでも、同じくらい見てきた。どちらの顔も、好きだった。「…」喉が鳴る。
翌朝の新宿は、やけに白く眩しかった。高橋翔希は、地下から地上に上がるエスカレーターの途中で、思わず目を細める。ビルのガラスに反射した光が、まだ完全に覚めきっていない頭をじわじわ焼くようだった。寝不足のせいだ。眠れなかったわけではない。横になって、目を閉じて、気づいたら朝だった。それでも、体のどこかに眠り損ねた疲れが残っている。二十階の営業フロアに着くと、いつも通りの喧騒が迎えてくれた。電話の音。キーボードを叩く音。プリンターの唸り。誰かの笑い声。その全部が、いつもより半音高く響いている気がする。「おはよー、高橋」斜め前の席から、中村が手を挙げた。「…おはようございます」自分でも分かるくらい、声に覇気がない。「いや、お前さ」椅子をくるりとこちらに向けた中村が、じっと顔を覗き込んでくる。「なんか顔、死んでね」「失礼すぎません?」思わず笑って返す。口角だけは、ちゃんと上がる。「いやいや、マジで。クマってほどじゃないけどさ、その…魂が半分くらいどっかいってる感じ」「魂は全部ここにあります」「ほんとぉ?」わざとらしく首を傾げられて、肩をすくめる。「ちょっと寝不足なだけですよ。動画見すぎました」「またそれ。ほどほどにしなよ。営業は顔が命なんだから」「はいはい」軽口を交わしながらも、翔希は内心で、自分の顔がどれくらい「いつも通り」からズレているのかを気にしていた。鏡を見る余裕もなく家を出てしまったせいで、今の自分の表情を知っているのは中村たちだけだ。村上がそれを見たら、どう思うだろう。…そんなことまで考えている自分が、正直きつい。*午前中のタスクをひととおり片付けた頃、社内チャットがピコンと鳴った。管理部からの一斉連絡。稟議ルートの変更について。「うわ、また変わ
約束のある日の時間は、いつもより少しだけ軽く進む。その日の高橋翔希も、朝からどこか浮き足立っていた。理由は、誰にも言っていない。営業フロアの二十階。いつも通りの朝会、いつも通りのメール整理、いつも通りのタスク確認。ディスプレイの下には、何気ない顔で置かれたスマホ。通知はオフにしている。それでも、一度約束を交わした夜は、画面の向こうにいる相手の存在を、意識から完全に消すことができなかった。『今日、いつものところで』昨日、アプリ経由で届いたメッセージ。『二十時くらいなら大丈夫』そう返したあと、時間も場所も確定している。具体的なホテル名と部屋番号が、すでにチャットの履歴に残っている。平日夜、短時間。いつものパターン。それだけのことなのに、朝から何度も頭の中でその文字列をなぞっていた。「高橋ー」斜め前の席から、中村が声をかけてくる。「この前のB社の資料、最新版どこ入ってんの」「あ、共有フォルダの二〇二四フォルダっす。『B社_第二提案』のところです」「サンキュー。お、相変わらず整理されてんね」「村上さんに叩き込まれましたから」笑いながら答え、また画面に視線を戻す。午前中の商談は無難に終わった。昼食はコンビニの冷やし麺で済ませ、午後の打ち合わせもトラブルなく消化する。仕事は仕事で、ちゃんと好きだ。案件がうまく回るのは気持ちいいし、数字が積み上がっていくのを見るのは純粋に嬉しい。それでも今日は、どこか頭の片隅に、別のスケジュールが居座っている。二十時。ホテル。白いシーツ。シャワーの音。ネクタイをほどく指先。ふと、喉の奥が乾いた気がして、小さく息を飲んだ。「…集中しろ」誰にも聞こえないくらいの小ささで自分に言い聞かせ、手元の資料に目を落とす。*夕方、十八時少し手前。デスクの右隅の時計を、何度目か分からないくらいに確認する。
平日の夜が、静かに形を変えていた。高橋翔希にとって、新宿のネオンはもう「仕事帰りの通り道」ではない。時折、その光のどこかに、あのビジネスホテルのロゴを探してしまう自分がいる。平日夜。短時間。村上遥人のプロフィールに書かれたその言葉が、現実の時間軸にべったりと貼りつくようになってから、もう何度夜を重ねただろう。仕事を終え、エレベーターで一階に降りる。ビルのガラス扉を抜ける風はいつもと同じ温度なのに、ジャケットの内側のスマホは、前より少しだけ重くなった気がしていた。ポケットの中で、スマホが小さく震える。翔希は、無意識のうちに歩みを緩めた。画面を取り出し、ロックを外す。新着メールでも、同期からのLINEでもない、小さなアイコンがひとつ。あのアプリの通知だ。『今日はお疲れさま』短いその一文だけ。村上からのメッセージは、いつもこんなふうにさりげない。絵文字も顔文字もなく、句読点さえ少なめで、感情の温度が読み取りづらい。それでも、確かに自分宛だということだけは分かる。「…お疲れさまです」歩きながら、翔希は打ち返す。親指がキーをなぞる感覚が、必要以上に意識に上る。返事はすぐには来ない。その間に、改札を抜け、ホームに降りる。ステンレスの手すりの冷たさが、指先に残る。電車に乗り込んでも、ポケットの中のスマホが気になって仕方がない。つい、また取り出す。新着は…ない。画面の上部、小さな緑の丸に視線が吸い寄せられる。オンライン。今、この瞬間も、村上はアプリを開いている。「…誰と喋ってんだろ」心の中で漏れる疑問は、まだごく小さい。自分がメッセージを送っているからオンラインなのか、それとも、自分以外の誰かとやり取りをしているのか。そんなの、考えたところで分かるはずがない。そもそも、自分がそこを気にする権利なんてあるのか。眉間にうっすらと皺が寄る。
最初の「また会う?」から、もう何度目の夜になるのか、翔希には正確な回数が分からなくなっていた。平日夜。退社時間少し過ぎの新宿。ホテルのエントランスをくぐるときの、空調の匂いとガラス越しの照明は、もう見慣れた風景になりつつある。エレベーターの鏡に映る自分の顔も、「ただ仕事帰りに寄り道をする社会人」のそれだ。ネクタイを少し緩めて、指定された階のボタンを押す。今夜の部屋番号は、六〇七。二週間前は五一二、その前は四〇一。階も番号も違うのに、中身はほとんど同じ間取りだということも、もう知っている。廊下に出て、足元のカーペットの感触を確かめるように歩く。心臓の鼓動が、相変わらず少し早くなるのは、慣れではどうにもならなかった。「…」部屋の前で足を止め、深呼吸をひとつ。ノックする前に、スマホで一言だけメッセージを送る。『着きました』ほんの数秒後、カチャリと、内側からドアノブが回る音がした。少しだけ開いた隙間から、白い光と人影が覗く。「お疲れ」村上が、少しだけ緩んだネクタイ姿で立っていた。ジャケットは既に脱いでいて、シャツの袖を肘までまくっている。その腕に浮かぶ血管や、手首の細さに、視線が一瞬吸い寄せられる。「お疲れさまです」そう返すと、村上は顎で中を示した。「入って」部屋の中に入ると、前と同じような匂いがした。柔軟剤とも芳香剤ともつかない、ホテル特有の混ざった匂い。ベッドの上には、まだ誰の体温も残っていない白いシーツが、きちんと伸ばされている。村上は、鞄をテーブルに置くと、当たり前のようにバスルームのほうへ歩いていく。「先、シャワー浴びるから」「はい」これも、いつもの流れだ。一度だけ軽くシャワーを浴びてから、触れる。それは暗黙のルールというより、村上の習慣になっていた。バスルームのドアが閉まり、水の音が聞こえてくる。







