เข้าสู่ระบบ金曜の夜、新宿の空気は一週間分の疲れとアルコールと油の匂いで、いつもより少し重かった。
駅から会社とは逆方向に伸びる小さな路地に、赤ちょうちんが連なっている。そのうちの一軒の引き戸を、中村が勢いよく開けた。
「とりあえずビールでいいっすよね、課長」
「おう、そりゃそうだろ」
カウンターと小上がりだけの狭い居酒屋。油で少し曇ったガラス越しに、外のネオンがにじんで見える。串焼きの煙がうっすらと漂い、醤油とタレの甘い匂いが鼻をくすぐった。
高橋翔希は、カウンターの端の席に腰を下ろしながら、緩めかけたネクタイをもう一段階だけ緩めた。上着は背もたれにかける。座面が少し硬くて、その感触が仕事モードとプライベートの境界線みたいに背中に当たる。
「今週もお疲れ」
中村が高く掲げたジョッキの泡が、黄色い照明に透ける。
「お疲れさまです」
「お疲れさまです」
石田課長もジョッキを持ち上げ、三つのグラスが軽くぶつかった。耳のすぐ近くで、ガラスの澄んだ音が鳴る。
冷えたビールが喉を通り過ぎるとき、今日一日の細かな緊張が、胃のあたりに流れ落ちていくのが分かる。二杯目、三杯目と進むにつれて、普段なら心の奥にしまっておくような愚痴や冗談も、少しだけ口に出しやすくなる。
「でさあ、課長。あのクライアントの部長マジでクセ強くないですか」
「お前が言うな。お前も大概だぞ」
「え、俺素直じゃないっすか」
笑い声と、焼き台の上で肉が焼けるジュウという音。狭い店内に、会話が反響している。
翔希は、その輪の中にちゃんといる。
課長が話す昔の営業時代の武勇伝に笑い、中村の失敗談にツッコミを入れ、自分の話も少しだけする。唐揚げの脂っこさと、キャベツのざくざくした食感と、塩辛いタレの味。それらを舌の上で確かめながら、グラスの中身をちびちびと飲む。
気づけば、氷の溶けたレモンサワーが二杯目に差し掛かっていた。
「お前、今日はあんま飲んでなくね?」
中村が覗き込んでくる。
「いや、飲んでるよ。明日も一応午前中は予定あるから、ほどほどにしてるだけ」
「意識高ぇ」
「二日酔いで客先行くの嫌なんで」
そんな会話をしながらも、頭のどこかに、白いシャツの胸元がちらついていた。
昨夜、スマホの画面の中に映っていた、顔のない上半身。文字列として並んだ「平日夜/短時間」「感情なし」「名前聞かないで」。その情報が、「村上遥人」という具体的な人間の輪郭に勝手に貼りつこうとするのを、ここ数日ずっと押し戻している。
「高橋」
課長の声が飛んできた。
「はい」
「来週のB社のやつ、見込みどうだ?」
「今のところ五分五分って感じですね。週明けに先方のシステム担当ともう一回打ち合わせしてから、提案の内容微調整しようかなと思ってます」
「そうか。まあ、お前なら大丈夫だろ」
「プレッシャーかけないでくださいよ」
笑いながら返しつつ、その「信頼」が、どこか別の重さを持って胸の中に落ちる。
自分は「ちゃんとしている営業」として扱われている。期待もされている。その自分が、夜になるとアプリを開いて、誰かの顔のないプロフィールに執着している。
そのギャップに、慣れるほどまだ図太くはなれない。
店を出たのは、十一時前だった。
「じゃ、ここで解散な」
石田がそう言って、タクシー乗り場のほうへ歩いていく。中村は反対方向の終電に乗ると言い、軽く拳を合わせる。
「また来週」
「はい、お疲れさまでした」
別れの言葉を交わし、翔希はひとり、駅とは違う方向に歩き出した。終電にはまだ余裕があるし、少し歩きたかった。
夜風が、ほてった頬を撫でていく。アルコールで緩んだ身体には、それが心地よかった。ビル風と、街路樹の間を抜ける風と、どこかの店から漏れてくる冷房の冷気。それぞれが違う温度を持っている。
歩道には、同じように飲み会帰りと思しきスーツ姿の人々が歩いていた。笑いながら肩を組んでいるグループもいれば、ひとりでスマホを見ながら歩いている人もいる。
コンビニの明かりが、通りに白い四角を作っていた。その前の自販機の横で、女子高生たちが制服のままアイスを食べている。少し離れた場所には、タバコを吸っている男がひとり、スマホを見つめながら煙を吐き出していた。
歩きながら、翔希はジャケットの内ポケットからスマホを取り出す。
ロック画面に映る時刻は、22:54。通知がいくつか並んでいたが、どれも今すぐ確認する必要はないものばかりだった。
ホーム画面に切り替える。
視線は、自然と、あのアイコンを探していた。
「…酔ってんだろ、俺」
苦笑しながらも、親指は迷わずそのアイコンをタップしていた。
アプリが開く。ローディングの円が一度回り、「近くにいるユーザー」の一覧が表示される。今いる場所の近くにいる人たちだからか、さっきまで店で見かけたようなスーツ姿の人間の写真も混ざっている気がする。
白いシャツ。
ネクタイ。
公園のベンチで撮ったらしき自撮り。
バーのカウンターらしき背景。
目が滑っていき、そのうちの一つの場所で止まる。
例のプロフィール。
顔のない、上半身の写真。
白いシャツの第二ボタンまでが開き、鎖骨から胸筋にかけてのラインが柔らかい光を受けている。
その右上には、緑の丸。「オンライン」を示すマークが、さも当然のように点灯していた。
胸の奥が、チクリと痛む。
この時間帯。
このエリア。
平日の夜。
画面の向こうで、この人は今、どこにいるのだろう。自宅のベッドの上か、ホテルの一室か、あるいはまだどこかの店にいるのか。
もし、本当に村上だったら。
管理部のフロアで誰かの稟議をさばいていたあの指が、今同じようにこのアプリを操作しているのだとしたら。誰かと場所を決めて、待ち合わせをして、「短時間」で身体だけを交わしているのだとしたら。
「…酔っ払いの妄想だろ」
心の中で呟き、頭を少し振る。
もし違う人だったら、それはそれで落ち着かない。今度は、「自分が勝手に村上だと決めつけて、ただの他人のプライベートを覗き見していた」という事実だけが残る。それも嫌だ。
どちらに転んでも、すっきりしない。
親指でプロフィールをタップし、個別画面を開く。
何度も見た文章が、また目に飛び込んでくる。
「平日夜/短時間」
「感情なしの関係希望」
「名前聞かないで」
「細かいこと気にしない人だと嬉しいです」
アルコールのせいか、いつもより文字がわずかに滲んで見える。街灯の光とスマホのブルーライトが、白いシャツの写真の上で奇妙に混ざり合っていた。
ふと、自分のプロフィールに目をやる。
現在の自分は、「sora/26/〇〇線沿線」とだけ記した、簡易な登録だ。顔写真はなく、身長と体重だけ正直に書いている。「まだよく分かってませんが、話せる人いたらお願いします」という薄い文言。
これでこのアカウントに「いいね」を送ったら、どうなる。
相手側の画面には、自分の「sora」が表示される。年齢、エリア、体型。プロフィール文。今まで真面目に入力していなかったそれらが、一気に重みを持つ。
顔写真を載せていないとはいえ、プロフィールの組み合わせ次第では、知り合いに勘づかれる可能性だってゼロではない。職場の人間がこのアプリを使っていない保証もない。
「これじゃマズいか…」
足を止める。
立ち止まった場所は、コンビニの前だった。店先の明るさが歩道に流れ出し、視界の端でホットスナックのケースが温かいオレンジ色を放っている。
誰かが自動ドアを開けて出てきた。揚げ物の匂いと、冷房の冷気が一瞬こちら側まで流れてくる。その風が、ほのかに熱を持った顔を冷やした。
この簡易アカウントのまま、「sora」のまま、近づくのは違う。
自分の輪郭が、あまりにも曖昧すぎる。本気で恋人を探す気もないくせに、ふわっと「暇つぶし」の顔をして近づくのは、どこか卑怯だ。
かと言って、本名や、自分だと分かるものを晒す気もない。
そこで、ひとつの発想が浮かんだ。
「…別アカ作るか」
自分で自分の言葉に、ほんの少しだけ驚いた。
アプリを一度閉じ、ホーム画面に戻る。設定画面を開き、「ログアウト」のボタンを探す。ログアウトを押すと、最初のログイン画面が現れた。
「新規登録」
小さな文字をタップする。
また、初めてこのアプリをインストールしたときと同じような登録フォームが現れる。ニックネーム、年齢、エリア、身長、体重、体型、自己紹介。
今度は、「知り合いにバレない自分」を組み立てる作業だ。
ニックネームは、以前使った「sora」とはまったく違うものにする。少し考え、頭に浮かんだ英単語を崩して「k_19」と打ち込んだ。ありふれていて、誰とも特定できない文字列。
年齢は、一つ上げた。実際は二十五だが、「26」と入力し、誕生年も一年前にずらす。これで万が一職場の誰かが年齢とエリアで検索しても、直接は引っかかりにくくなる気がする。
エリアは、「新宿」ではなく、普段ほとんど行かない隣の駅名にした。〇〇線沿線であることには変わりないが、少しだけズラす。
身長と体重は、さすがにあまり大きく変えると会ったときにバレる、と考えて、身長だけマイナス二センチにし、体重はプラス一キロにした。自分を少しだけぼかした数字。鏡に映る自分に嘘をつくほどではないが、完全な正直でもない。
体型の欄には、「普通〜やや細め」と書かれた選択肢を選ぶ。その曖昧さが、かえって本当らしく見える気がした。
自己紹介欄のカーソルが点滅する。
しばらく考え、「平日夜にゆるく会える人いたら」と打ちかけて、指を止める。そのまま全消しし、「落ち着いて会える人と話したいです。顔は仲良くなってから」とだけ書いた。
自分で打ちながら、その文に含まれている慎重さと打算が、薄く口の中に苦い味を運んでくる。
位置情報の許可については、さっきと同じように「使用中のみ許可」にチェックを入れる。
顔写真は、もちろん登録しない。「あとで登録する」を選ぶ。自動的にシルエットのアイコンが割り当てられた。
ひと通り入力が終わり、「登録」のボタンを押すと、再び「近くにいるユーザーを表示しています」という画面が現れる。
コンビニの前で立ち止まったまま、そのローディング画面を見つめている自分が、少し滑稽に思えた。
「何やってんだろうな、俺」
苦笑しながらも、歩き出す気にはなれない。
数秒後、また「一覧」が表示される。
さっき見た顔や身体の写真が、別の並び順で現れている。自分の新しいアカウントも、誰かの一覧にひっそりと混ざっているのだろう。
「これはただの実験」
心の中で言葉を置く。
「確認したいだけ」
「こっちの気持ちなんか、向こうには分からない」
「もし違う人だったら、『ああ違ったんだ』って分かるだけ」
いくつもの言い訳を積み重ねる。積み木を高く積み上げて、自分の行動の足元に影を作るみたいに。
それでも、結局のところ、自分が「知りたい」のは一つだけだ。
あのプロフィールの向こう側にいるのが、村上なのかどうか。
コンビニの前から少し離れた場所に、小さな公園があった。街路樹とベンチが二つ。夜のせいか、誰も座っていない。自販機の明かりだけが、そこを淡く照らしている。
翔希は、そこまで歩いて行き、空いているベンチに腰を下ろした。
スーツのズボン越しに伝わる木のひんやりした感触と、少し湿った空気。耳には、遠くの車の音と、近くの信号機の電子音がかすかに届く。
スマホを両手で持ち、再び例のプロフィールを探す。
スクロール。
白いシャツ。
鎖骨。
胸元。
プロフィール。
指先が、写真の枠をタップする。個別画面が開き、文字が並ぶ。
「平日夜/短時間」
「感情なしの関係希望」
「名前聞かないで」
「細かいこと気にしない人だと嬉しいです」
画面の右下には、小さなハートマークがあった。
「いいねを送る」
そのハートの形は、どこにでもあるアイコンだ。恋愛アプリでも、SNSでも、同じような記号が使われている。でも今、このハートは、自分と誰かの世界の距離を、一気に縮めてしまうかもしれないボタンになっている。
親指を、そのハートに近づける。
少し触れただけで、色が変わりそうな距離。実際には数ミリもないその距離が、今はとてつもなく遠く感じる。
心臓の鼓動が、ベンチの背もたれに触れた肩越しに伝わってくるような気さえした。
押せば、相手に通知が行く。
「k_19」からの「いいね」が。
相手が誰であっても、その時点で、自分は観察者ではなくなる。ただの通りすがりではない、「接触しようとした誰か」になる。
もし相手が村上なら、自分は、村上の知らないところで、村上に手を伸ばすことになる。名前も顔も伏せたまま、別の顔を被って。
もし違う人なら、その人はただの他人だ。けれど、こちらの曖昧な興味と、誰かの身体だけを求める欲望の場に、中途半端な形で介入することになる。
村上の笑顔が頭に浮かぶ。
打ち合わせスペースで、淡々と資料を整理しながら、「ギリギリだけど、まだ間に合うよ。大丈夫」と言ってくれたとき。
自販機の前で、「村上さんみたいになりたいんです」と言った自分に、「困るなあ」と照れたように笑ったとき。
エレベーターの中でちらりと見かけた、横顔。
会議室で、自分の報告を聞いていたときの真剣な目。
そのすべてが、「仕事の村上」としての彼の姿だ。
その裏側に、あのプロフィールの言葉があるのかどうか。それを確かめたいと思うのは、そんなにいけないことなのか。
言い訳と本音が、胸の中でぐちゃぐちゃに混ざり合う。
親指は、まだハートの手前で止まっている。
指先が、ほんの少し震えていた。アルコールのせいか、夜の冷えのせいか、それとも緊張のせいか、自分でも判然としない。
「押さなきゃ良かった、ってあとで思うかもしれない」
「押さなかったら、このままずっとモヤモヤしてるかもしれない」
ふたつの未来が、頭の中で並んでいる。
どちらにしろ、すっきりとはしないのだろう。
「…えい」
半ば自棄のような、小さな声とともに、親指がハートの上に落ちた。
画面が、わずかに震える。
「いいねを送りました」
小さなポップアップが、画面の中央に浮かび上がる。
胸の中で、何かが落ちた。
重たいものが深いところに沈んでいくときの、あの独特の感覚。怖さと、高揚と、もう戻れないという実感、その全てが入り混じって、内側から身体を押し広げる。
数秒間、時間が止まったように感じた。
実際には、ただの数秒だ。
けれど、その数秒の間に、頭の中にはいくつもの光景がフラッシュのように流れた。
会社の会議室で、石田課長が「よくやったな」と肩を叩いた瞬間。
自販機の前で、村上が「お互い様ですよ」と笑ったときの目尻の皺。
営業フロアのざわめき。
満員電車の圧迫感。
自分の部屋の天井。
そして、さっき押したばかりのハートマーク。
ポップアップが消える。
同じ位置に、新しい表示が現れた。
「マッチしました」
隣には、「いいねを返されました」という小さな文字。
そのすぐ下に、「メッセージを送ってみませんか?」というポップアップがふわりと現れる。テキストボックスには、「メッセージを入力してください」という灰色の薄い文字が浮かんでいた。
時間差は、ほとんどなかった。
「即答かよ…」
思わず声に出る。
相手は、自分の「いいね」に、ほんの数秒で反応を返してきたことになる。たまたまアプリを開いていたからなのか、単に「いいね」が来たら反射的に返すタイプなのか、そこまでは分からない。
分からないことだらけだ。
ただ一つ、「この人と自分は今、アプリ上で繋がった」という事実だけが、画面の中でくっきりと存在している。
ベンチの上で、右手がスマホを握りしめる。その力が強すぎて、関節が少し白くなっているのが、自分でも分かった。
親指は、今度はテキストボックスの上をさまよっている。
何を、どう送ればいい。
「はじめまして」か。
「いいねありがとうございます」か。
そんなテンプレートみたいな言葉を打ち込むことすら、どこかためらわれる。
画面の照明が、自分の顔の筋肉のわずかな動きを照らし出している気がした。眉間に寄った皺、わずかに開いた唇、呼吸の速さ。
外の世界は、相変わらずだ。
少し離れた大通りからは、タクシーのクラクションが聞こえる。ビルの看板が、色とりどりに光っている。コンビニの前では、新しい客がドアを開け、レジの電子音が鳴っている。
その喧騒から切り離されたこの小さな公園のベンチの上で、たったひとつのスマホの画面だけが、異様なほどの存在感を持って光っていた。
「…帰るか」
小さく呟き、翔希はスマホを一度スリープにしてポケットにしまった。
メッセージは、まだ打っていない。
今この場で送る勇気は、さすがになかった。少し酔いが回った頭で、変なことを書きそうな自分が怖い。
代わりに、「マッチした」という事実だけを持ち帰る。
自宅のドアを開けると、いつもの静けさが迎えてくれた。靴を脱ぎ、ジャケットをハンガーに掛け、ネクタイを外し、シャツのボタンを外す。冷蔵庫を開けて、ミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、喉を潤す。
テレビはつけない。
代わりに、部屋の照明を一段階落とす。淡いオレンジ色が、白い壁を薄く染める。窓の外から入る街灯の光が、カーテンを透かして筋になっていた。
ベッドに腰を下ろし、ポケットからスマホを取り出す。
ロックを解除し、アプリを開く。
マッチングの画面には、さっきのプロフィールと、自分の「k_19」が並んで表示されていた。その下には、空白のチャット欄と、「メッセージを入力してください」という文字。
親指をそっとテキストボックスに置く。キーボードが立ち上がり、ひらがなの列が画面下部に並ぶ。
何も打たない。
しばらく、そのまま。
指先と、心臓の音だけが、やけにくっきりと自分の意識を占めていた。
暗い部屋の中で、スマホの画面だけが青白く光っている。その光が、天井に微かな反射を作る。
まだ誰も知らない秘密が、今、手の中で静かに形を取り始めていた。
翔希が目を開けたとき、最初に目に入ったのは、白い天井の小さなシミだった。マンションの古い天井板に浮いた、不規則なにじみ。薄い灰色が輪郭をぼかし、じっと見ていると、そこだけ時間が止まっているみたいに感じる。ぼんやりと焦点を合わせているうちに、枕元から、微かな寝息と、布団の擦れる音が耳に届いた。すぐ横には、うつ伏せ気味に眠っている村上の背中がある。薄いグレーのTシャツ越しに、規則正しく上下する呼吸。枕に押しつぶされた後頭部から、少し跳ねた髪がはみ出している。部屋のカーテンは、半分だけ開いていた。隙間から朝の光が斜めに差し込み、埃の粒をきらきらと浮かび上がらせている。窓の外からは、遠くの環状線を走る車の音と、近くの保育園から流れてくる子どもの声が、薄い壁越しににじんで聞こえた。ここは、新宿の古い1Kマンションの一室。すっかり見慣れてしまった部屋。けれど、朝、こうして二人でスーツに着替える前の、この一瞬だけは、いまだに少し現実味が薄い。「……七時半」枕元のスマホに手を伸ばし、画面を点ける。液晶の光に目を細めながら時刻を確認すると、会社に行くにはちょうどいい時間だ。目覚ましはとっくに止めてある。たぶん、村上が無意識に止めたのだろう。アラームの履歴が、そんな痕跡を残していた。もう一度、隣に視線を落とす。寝ている村上の横顔は、会社にいるときとは少し違う。眉間に寄りがちな皺が緩み、口元も、ほんの少しだけ開いている。頬にかかる髪の線を目でなぞっていると、胸の奥がふわりとくすぐったくなる。こんな顔を知っているのは、自分だけだと思うと、妙な優越感と同時に、怖さも生まれる。抱きしめたくなる衝動と、この瞬間を壊したくないという臆病さが、胸の中で混ざり合う。「……起きますかね」誰に聞かせるでもなく呟きながら、翔希はそっと身体を起こした。布団が擦れる音に、村上が微かに身じろぎする。肩がひとつ上下し、眠りの深さを確かめるみたいに長く息を吐いたあと、うっすらと瞼が持ち上がった。「ん……」掠れた声が漏れる。翔
古めのマンションの前に着く頃には、小雨の気配はすっかり消えていた。アスファルトに残っていた小さな水たまりも、足で踏みしめられ、車に弾かれ、だいぶ薄まっている。代わりに、マンションの外壁に染み込んだ湿り気と、どこかの部屋から漏れてくるカレーの匂いが、鼻の奥をくすぐった。翔希は、建物を見上げた。見慣れたコンクリートの肌。ところどころ黒ずんだ手すり。何度も通ったはずなのに、会社から一緒に歩いてきたせいか、少しだけ違って見える。エントランスのオートロックに番号を打ち込むのは、もう迷いがない。隣で村上がさっとキーを押し、その間に翔希は肩からバッグを掛け直す。開いたドアから、むっとした室内の空気が一気に流れ込んできて、外気と混ざった。階段を上がる音が、コツコツと一定のリズムで響く。最初の頃は、段数を数える余裕なんてなかった。今は、二階に上がるまで何段あるか、何となく感覚で分かるようになっている自分に気づき、心の中で少しだけ笑う。いつもの階で足を止め、いつものドアの前に立つ。村上がポケットから鍵を出し、慣れた動きで回す。その所作を横目で見ながら、翔希は「ああ、本当に『いつもの』なんだな」と妙に現実味を帯びた感慨を覚える。中から、きしむような小さな音を立ててドアが開いた。ふわり、と漂ってくるのは、洗剤と柔軟剤と、少しだけタバコの残り香が混ざった、村上の部屋の匂い。初めて来た日の、あの少し甘苦い印象が、今はどこか落ち着く香りになっている。「お邪魔します」口ではそう言いながら、翔希の手はもう、自分の靴の位置を決めるべき場所を知っている。玄関の端、壁から一足分空けた位置。最初の頃は遠慮して一番端に詰めて置いていたのが、今は自然と村上の革靴の隣に並ぶ形に落ち着いていた。革靴を脱ぎ、揃えて置く。その隣には、何度も見てきた村上の黒い靴。その横に自分の靴が馴染んで並んでいる光景が、胸のどこかをくすぐる。「あ、そこに掛けといて」視線を上げると、村上がジャケットを脱ぎながら顎で示したのは、玄関横のハンガーラックだった。そこにも変化がある。以前はスーツとコートでいっぱいだったラックに、今は少し隙間が作られていて、そこに翔希のジャケットが掛
新宿駅方面に向かう大通りは、雨上がりの光をまとっていた。さっきまで降っていた小雨が止んだばかりで、街路樹の葉からは時おり雫が落ち、アスファルトの上に小さな輪を広げる。車のヘッドライトと、ビルのネオンが濡れた路面に映り込んで、色の境界線を曖昧にしていた。高橋翔希は、その光のゆらめきをぼんやりと追いながら、肩にかけたバッグの持ち手を握り直した。会社を出たときよりも、少しだけ空気が冷たくなっている気がする。スーツの襟元に入り込む湿った風が、ほてった首筋を撫でていく。隣では、村上遥人が同じ速度で歩いていた。歩幅はほとんど同じで、一歩進むたびに靴底の音が微妙にずれて重なっては、また離れていく。信号待ちで横断歩道の前に立ち止まると、周囲には同じようなスーツ姿の会社員たちが集まってきた。手には折りたたんだ傘、紙袋、コンビニの袋。それぞれの一日の終わりが、同じ赤信号の前で足並みを揃えている。翔希は、何気なく右側に立った。遥人との距離は、肩と肩がかすかに触れるか触れないかくらい。以前なら「近すぎる」と感じて半歩引いていた距離だが、今はその微妙な接触が、むしろ落ち着きをもたらしていた。赤信号の光が、二人の顔色をわずかに変える。車道を走り抜けていくタクシーのライトが、視界の端で流れていく。排気ガスと、濡れたアスファルトが混ざった匂いが、吸い込むたびに胸の奥に重くたまった。ふと、指先に柔らかいものが触れた。自分の手の甲に、誰かの指がかすかに擦れたような感覚。翔希が視線を落とすと、遥人の左手の甲が、ほんの少しだけ自分の右手に寄っていた。以前なら、反射的に引っ込めていたはずだ。血の気が引いて、周囲に誰かが見ていないかと慌ててきょろきょろしただろう。けれど、今は違かった。翔希は、わざと何でもない顔をしたまま、その指先に自分の指をそっと重ねた。人混みの中で、ごく自然な動きに見えるように、慎重に。誰かの視線があるとしたら、その程度の触れ方なら、たまたまぶつかったくらいにしか映らないだろう。重ねられた指先が、一瞬だけ緊張したように固くなり、それからゆっくりと力を抜いた。遥人の指が、わずかに握り返してくる。ポケットの中に一緒に手を突っ込んでいるわけでも、露
夕方のチャイムは、このフロアには鳴らない。代わりに、各自のモニターの右下で、定時を知らせる小さなポップアップが静かに消えていく。高橋翔希は、それを斜めに視界に入れながら、まだ開いたままの見積書の数字をひとつひとつ確認していった。桁の打ち間違いがないか、単価が最新のものになっているか、営業の勘と、ここ一年で身についた「管理部がどこを気にするか」という感覚で、ざっと全体を見渡す。隣のデスクでは、四月に入ってきたばかりの後輩が、未だに慣れない様子でテンキーを叩いている。数字を打つ指先が、少しだけぎこちない。「ここ、単価こっちね」翔希は椅子ごとそちらへ滑り、モニターを指さした。「あ、すみません」「いや、最初っから全部できる人いないんで。単価の表、最新のやつブクマしといたほうが早いですよ」「はい…ありがとうございます」口をついて出る言葉が、気づけばすっかり「先輩」側のものになっている。半年前までは、自分も似たようなテンションで中村に助けられていたはずなのに、と翔希は小さく笑った。デスクの端に置いてあるマグカップには、もう冷めたコーヒーが半分ほど残っている。空調の乾いた風、コピー機の低い駆動音、人の話し声とマウスのクリック音が混ざった雑音。その全部が、毎日の背景として身体に染みついている。モニターのタスクバーに、チャットアプリのアイコンがひとつ瞬いた。社内用のツールだ。通知のポップアップに表示された送り主の名前を見て、翔希は意識して表情を変えないよう、背筋を伸ばした。「高橋くん、今日どんな感じ?」管理部の全体チャットに紛れて届いた、個別メッセージの一行。送り主は、村上遥人。数ヶ月前と違うのは、これが「管理部の誰か」ではなく、確実に自分の知っている誰かからのメッセージだということだ。画面越しではなく、生の声の温度を知っている相手。翔希はキーボードに指を滑らせた。「今、見積最終確認してるところです。あと十五分くらいで上がれそうです」返送したメッセージが送信済みの欄に沈んだ瞬間、すぐにまた通知が弾んだ。
それからの時間は、音を立てずに進んでいった。派手な出来事があったわけではない。ただ、気づけば、ホテルの白いシーツよりも、村上遥人の古い1Kの布団の感触のほうが、翔希の中で「いつもの夜」に近づいていた。ある平日の夜、高橋翔希は、いつもの新宿のビジネスホテルではなく、少し路地を入った先の古いマンションの前で立ち止まっていた。数週間前に初めて上がった階段。二、三本ほどペンキが剥げた手すり。雨上がりで少し湿ったコンクリートの匂いが、鼻の奥にまとわりつく。インターホンを押すと、少し間があってから、かすかに聞き慣れた声が返ってきた。「はい」「高橋です」「ああ、開けるね」ブザーの音とともにオートロックが外れ、扉が重い音を立てて開く。エレベーターのない階段を上がりながら、翔希は何度目かの、しかしまだ慣れきらない高鳴りを胸の中で確かめた。三階の廊下に出ると、薄いカーペットの匂いと、どこかの部屋から漏れるテレビの音が交じり合っていた。指定の部屋番号の前まで歩き、軽くノックする。「開いてるよ」内側からそう声がして、ドアノブを回すと、少し油の抜けた金属音がした。扉を引くと、見慣れてきたワンルームの景色が広がる。キッチンには、シンクに伏せられたマグカップが二つ。テーブルの上にはコンビニの袋と、簡単な総菜パック。部屋の中央には、布団ではなく、小さなソファとローテーブルが置かれている。その向こう側に、広げたままの洗濯物がハンガーに吊られていた。「お疲れ」キッチンの手前で、村上が片手を上げた。シャツの袖を肘までまくり、ネクタイはすでに外してテーブルの端に置いてある。眼鏡の跡が鼻の付け根にうっすら残っていた。「お疲れさまです。今日もありがとうございます」靴を脱ぎながらそう言うと、村上は小さく笑った。「そんなに改まらなくていいのに。ほら、適当に座ってて。ご飯、温めるから」「何買ってきたんですか」「たいしたものじゃないよ。コンビニの焼き魚とサラダと…あと、高橋くんが好きって言ってた唐揚げ」
朝の通勤電車が、ビル群の隙間を縫うようにガタン、と揺れた。高橋翔希は吊革を握りしめたまま、ドアの向こうに流れる景色をぼんやりと眺めた。窓ガラスには、スーツ姿の自分の顔が薄く映っている。ネクタイはきちんと締まり、ワイシャツの襟も、いつも通りに収まっているはずなのに、その「いつも通り」がひどく他人のものに思えた。昨夜、自分は誰かを抱いていた。それも、ただの「誰か」じゃない。村上遥人という名前を、何度も喉の奥で転がしながら、相手の体温にしがみついていた。肩に噛みつくときの塩辛い汗の味も、耳元で震えた息も、まだ肌のどこかに貼り付いている気がする。そのすぐ翌朝に、こうして満員電車に押し込まれて、会社へ向かっている。このギャップに、軽い眩暈みたいなものが込み上げた。ドア横の広告には、新築マンションやブライダルフェアのポスター。笑顔のカップルの写真に「理想の未来を一緒に」と白い文字が踊っている。昨日までなら視界の端をただ通り過ぎていたはずのその言葉が、今日は妙に目に刺さった。理想の未来。自分の理想は、何だったんだっけ、と翔希は思う。二十代半ばの営業職。数字は悪くない。上司からの評価もそこそこ。いずれ結婚して、どこかの郊外に2LDKでも構えて、週末に大型スーパーでまとめ買い…そういう「普通」が、なんとなく自分の前にも用意されているのだと、どこかで信じていた。でも今、あの薄暗いホテルの部屋や、古い1Kマンションの見慣れない天井が、頭の中で強く残っている。あの場所で、村上を抱きしめていた自分と、この広告の中の「未来」を目指す自分は、同じ人間なのか、本当に、と考えると、足元がふわついた。電車が駅に滑り込み、乗客がざわ、と動き出す。人の波に押されながらホームに降り、ビルへ向かう。オフィスビルのエントランスに入ると、冷房の冷たい風がスーツの布越しに肌を撫でた。エレベーターホールには、あちこちのフロアへ向かう社員たちが集まっている。二十階のボタンのライトがぼんやりと光っていた。翔希は、その列の中に自然に混ざる。扉が開き、人がぎゅっと詰め込まれる。革靴の匂い、スーツの生地に染み付いた柔軟剤と香水の匂いが