เข้าสู่ระบบ翌朝の通勤電車は、いつも通りに混んでいた。
吊り革はほとんど埋まっていて、ドアの近くには人が固まり、車内の空気はスーツの布と香水と汗が混ざった匂いで少しむっとしている。それでも、昨日アプリをインストールしたときに感じたあの妙な高揚感は、今のところほとんど表面に出ていなかった。
高橋翔希は、片手でバーを掴み、もう片方の手に持ったスマホの画面を一度だけ点けて、すぐにスリープに戻した。通知はいくつか来ていたが、どれも仕事用のメールやグループチャットで、昨夜のアプリからのものはなかった。
その事実に、わずかな安堵と、わずかな落胆が混ざる。
「何期待してんだよ」
心の中で自分に突っ込み、電車の窓に目を向ける。ガラスには、ぼんやりと自分の顔が映っていた。薄く隈のある目元、きちんと締めたネクタイ、無難な紺のスーツ。
ごく普通の、どこにでもいるサラリーマンの顔だ。
会社に着いてエレベーターを上がると、営業フロアの空気はすでに仕事モードに切り替わっていた。電話のコール音、キーボードを叩く音、誰かが上司に報告している声。いつものざわめき。
翔希も、そのざわめきの一部として自分の席に座り、PCを立ち上げ、メールをチェックし、今日やるべきタスクを頭の中で並べていく。午前中は既存顧客へのフォローと、午後は小さな商談が二件。昨日に比べれば軽い一日だ。
しばらく集中して仕事をしているうちに、昨夜のブルーライトの記憶は、意識の表層から少し引いていった。
管理部に行く用事ができたのは、十一時少し前だった。
先週提出した稟議書の承認ルートに変更が出て、決裁者の欄を書き換える必要があるというメールが届いたのだ。営業部側ではどうしようもないので、管理部に確認してくれ、と石田課長からチャットが飛んできた。
「じゃあ、行ってきます」
席を立ち、エレベーターで二つ上の階に上がる。
管理部フロアの自動ドアが開くと、空気の温度が少し下がったように感じた。営業フロアに比べて静かで、電話の音も声も抑えたトーンで流れている。
レイアウトも、もう見慣れたものだ。書類の棚が整然と並び、デスク上にはファイルとモニターと、白いマグカップ。歩くたびに、カーペットが足裏を少しだけ沈ませる。
いつも稟議関連を見てくれている管理部の女性に声をかけると、
「村上さんに確認してもらったほうがいいですね」
と、自然にその名前が出てきた。
「今なら席にいると思いますよ」
案内されて向かった先に、彼はいた。
デスクに座り、モニターに視線を落としながら、キーボードを軽く叩いている。濃紺のスーツに、白いシャツ。タイは濃いグレーで、小さなドットが入っていた。ジャケットのボタンは外されていて、座ったときに自然と開いた前側から、シャツの胸元がわずかに見えている。
その視界の端に、昨夜スマホの中で見た「顔のない胸元」が、突然重なった。
白い生地。
第二ボタン。
鎖骨の影。
一瞬、呼吸が詰まる。
「…あの」
声をかけたのは、隣の女性だった。翔希の喉は、半拍遅れて動く。
「村上さん、高橋さんが」
「はい」
顔を上げた村上の目が、すっと翔希のほうを向く。
いつも通りの、穏やかで、少し冷静な黒い瞳。そこに、昨夜のプロフィールの文言は一切浮かんでいなかった。当たり前だ。あれはただの文字列で、この人は現実の人間だ。
「おはようございます、高橋くん」
「おはようございます。あの、稟議のルートの件で…」
言いかけて、視線がまた胸元に落ちそうになるのを感じた。慌てて、顔を見ようとする。そうすると今度は、ネクタイを指で軽く整える仕草が目に入ってくる。
昨夜のプロフィール画面に戻りそうになる頭を、力ずくで現実に引き戻す。
「えっと、先週出したA社の追加オプションの稟議なんですけど、決裁ルートの変更のメールが来て…」
説明している間も、自分の声がどこか上ずっているのが分かる。村上は特に怪訝な顔をすることもなく、落ち着いた口調で話を引き取った。
「メール見ました。部長からの指示で、承認者がひとり増えたんですよね」
「はい」
「書式自体はそのままで大丈夫です。決裁者欄を一つ増やして、承認順…そうですね、二番目に追加してもらえれば。今、サンプル送ります」
彼は手元のマウスを動かし、社内チャットを開く。さらりとしたタイピング音が、静かなフロアに優しく響いた。
その横顔を見ながら、翔希の視線は無意識に首筋に滑る。シャツの襟から少しだけ覗く肌の色は、スマホの画面の中のそれと、確かに似ているように見えた。
いや、似ていると決めつけているのは、自分のほうだ。
「…これで大丈夫です。フォーマット送ったんで、それで差し替えてもらえれば」
「あ、はい。ありがとうございます」
軽く頭を下げる。
この短いやり取りの中で、自分の視線が何度揺れたか、もはや数えられなかった。胸元、ネクタイ、手首、指。いつもなら気にも留めない部分に、妙に意識が向いてしまう。
そのことに、自分で戸惑う。
フロアを離れ、エレベーターを待つ間、翔希は壁にもたれかかるようにして小さく息を吐いた。
「何やってんだ、俺」
自分に向けられたその言葉は、誰にも届かない。
スーツ越しに見える体のラインや、ネクタイを緩める仕草を、昨夜の写真と無意識に比較している自分。そんなことをしている自分に、どこか嫌悪に近い感情が湧いた。
営業部のフロアに戻ると、中村がすぐに気づいた。
「お、管理部行ってたの?」
「うん。稟議のルート変わったとかで」
「うわ、めんどくさ」
中村は椅子をくるっと回して翔希のほうを向く。
「で、また『困ったときの村上さん』?」
「まあ、そうなるよね」
軽く笑って返す。
「いいよなあ、高橋。困ったらすぐ村上さん頼れるじゃん」
「お前も行けばいいだろ」
「いや、あのフロア緊張すんだよな。なんか、ちゃんとしてる人たちの集まり、みたいな」
「まあ、分からなくはないけど」
言葉だけは軽く返しつつ、心の中では別の会話が続いている。
ちゃんとしてる人。
有能な先輩。
仕事をきっちり回してくれる人。
そのイメージと、「平日夜/短時間」「感情なし」「名前聞かないで」という、画面の向こうの誰かのプロフィールが、脳内で同じ場所に並ぼうとしているのを、必死に引き離す。
昼休み、オフィス近くのコンビニで買ってきた弁当をデスクで広げながら、話題は自然とプライベートに移っていった。
「こないださ」
中村が、唐揚げ弁当の蓋を開けながら言う。
「大学の友達が結婚するって連絡来て。相手がマッチングアプリの人なんだって」
「へえ」
「なんかもう、普通にそれがスタンダードになってるっぽいよな」
「まあ、周りでも増えてるよね」
箸で唐揚げをつまみながら答える。
「飲み会より効率いいとか言ってさ」
「分かる気はするけど」
「しかもさ、その友達、最初は遊び目的で始めたらしいんだよ。暇つぶしにチャットして、たまに会うくらいでいいやって。そしたら、そいつのほうがガチでハマって、今プロポーズしてんの」
「ありがちな話だな」
笑いながら言うと、
「だよなあ」
と中村も笑う。
「でさ、最近はゲイ用のやつとかもすげえじゃん」
箸が一瞬止まる。
「何見てんだよ、お前」
と軽く返すと、中村は慌てて手を振った。
「いや、俺は使ってねえよ。SNSで流れてきたりするじゃん。〇〇 for G とか、××とか。なんか、位置情報で近くの人出てくるやつ。あれ見て、『世の中マジでいろんな出会い方あるんだな』って」
「まあ、そうだね」
心臓が、さっきよりひとつ余分に打った気がした。
「てか高橋も、彼女欲しくなったらアプリ登録すりゃいいじゃん」
「お前、昨日もそんな話してなかった?」
「いいじゃん。こういうのはしつこいくらいがちょうどいいんだよ」
ふざけ半分の会話に、表面上はちゃんと乗っている。笑いもするし、ツッコミも入れる。
けれど、「ゲイ用のやつもすげえ」という一言は、妙に耳の奥に残り続けた。
昨夜、ブルーライトの向こうに並んだ「近くの人たち」。その中に、白いシャツの胸元だけが切り取られた写真があったことを、思い出す。
こんなふうに昼間、何事もなかったように唐揚げ弁当を食べている誰かが、夜になると、あの画面を開いて、「近くにいる人」を眺めているのかもしれない。
その中の一人が、同じ会社の人間である可能性。
「…考えすぎだろ」
心の中で、また同じ言葉を繰り返す。
その夜、自宅に戻り、シャワーを浴び、簡単な夕食を済ませても、なぜか本を開く気にはなれなかった。テレビをつけても、バラエティ番組の笑い声が耳に入ってこない。
ベッドに横になり、天井を見上げる。
枕元にはスマホがある。画面は真っ暗だが、そこにアプリのアイコンがあることを、指先は覚えている。
「開かない」
そう決める。
決めて、十分も経たないうちに、指はスマホを手に取っていた。
ロックを解除し、ホーム画面を出す。問題のアイコンは、他のアプリの中に紛れて、何事もなかったような顔をしている。
これを一タップすれば、例の画面に繋がる。
タップせずに、そのままホームボタンを押して閉じる。再び天井を見上げる。エアコンの風が頬を撫でる。
三十秒。
一分。
二分。
さっきより、天井が遠く感じる。
「…今日はやめとこ」
声に出してそう言い、スマホを裏返して置いた。
一晩目は、ギリギリで踏みとどまった。
それで何かが解決するわけでもないことは分かっていたが、「開かなかった」という事実だけが、自分にとっての綱みたいなものだった。
二日目。
午前中は順調に仕事が進み、午後になって、小さなトラブルが起きた。
既存顧客からの問い合わせメールに、添付する資料を間違って送ってしまったのだ。数値自体は大きく変わらないものの、仕様のバージョンが古いままだった。
「やっべ…」
メールの送信履歴を見て、翔希は額に手を当てる。
すぐに訂正メールを送れば済む話ではあるが、念のため、資料の中身を今一度確認し直したかった。仕様の細かいところは、管理部のチェックをもう一度入れてもらったほうが安心だ。
結局、また管理部に行くことになった。
昨日と同じように、自動ドアを抜け、村上のデスクのほうへ向かう。彼は、昨日と違うネクタイをしていた。濃い青に、細いストライプ。シャツはやはり白で、ジャケットは椅子の背にかかっている。
「すみません、ちょっといいですか」
声をかけると、彼は手を止めてこちらを見た。
「また何かありました?」
「はい…。さっき既存のところに送った資料で、古いバージョンを添付しちゃったっぽくて。数値自体は同じなんですけど、一応仕様の表現が最新のと矛盾してないか確認してもらいたくて」
項目を順に説明しながら、タブレットの画面を見せる。昨日と同じように、村上は落ち着いた表情でそれを受け取り、必要なポイントだけ押さえていく。
「ここですね。この表現だと旧バージョンのままだから、こことここだけ文言を最新のに揃えたほうがいいです。数値は大丈夫そうなので、『資料のバージョンが古かったので差し替えさせてください』って、素直に書いちゃっていいと思います」
「はい…助かります」
言葉と一緒に、胸から空気が抜けていく。こういうときの判断を素早く出してくれる存在がいることが、どれだけ心強いか。
それと同時に、胸の奥に、別の重さがじわりと滲む。
もし、この人が、あのプロフィールの持ち主だとしたら。
今、自分は、この人が知らないところで、この人の「裏側」に触れていることになる。本人が「名前聞かないで」と書いた場所に、勝手に自分の意思で踏み込んでいる。
「…本当に、関係あるのかどうかも分からないのに」
心の中で呟く。
罪悪感というにはまだ弱いが、胸の奥を指先でつつかれているような感覚。知らないでいれば楽だったものを、自分から覗き込んだせいで、余計な感情が生まれている。
「高橋くん」
村上の声が、現実に引き戻す。
「今日のは、完全に『うっかり』の範囲内だから、大丈夫ですよ。早めに気づけて良かったじゃないですか」
「…そうですね」
「僕たち管理部の人間も、ミスくらいしますから」
そう言って、少しだけ笑う。
その笑顔は、昨日も、一昨日も見たものだ。柔らかくて、相手を安心させる、穏やかな笑い方。その表情に、「感情なし」という単語を貼りつけることが、どうしてもできない。
それなのに。
自宅に戻り、シャワーを浴びたあと、いつものようにベッドに寝転がると、指はまた同じアイコンに伸びていた。
今度は、躊躇は少なかった。
アプリを開くと、「近くにいるユーザー」の一覧が更新される。画面上部の「オンライン」の緑の丸が、ちらほらと点灯していた。
スクロールを下に進めていく。見覚えのある名前、そうでない名前。いくつかが、昨夜と同じ位置にいる。
例のプロフィールは、少し下のほうにあった。
顔のない白いシャツの写真。
そして、その右上に、小さな緑の丸。
「オンライン」。
胸の奥が、きゅっと掴まれる。
ちょうど今、この瞬間。
この人は、どこかでこのアプリを開いている。
新宿のどこかのマンションかもしれないし、ホテルの一室かもしれないし、もしかしたら、さっきまで自分がいた街と同じ線路沿いのどこかかもしれない。
もしこの人が村上なら。
村上は今、管理部のフロアではなく、自分の部屋のどこかでスマホの画面を見ていることになる。誰かとチャットをしているかもしれないし、待ち合わせをしている最中かもしれない。
「今誰かとやってるのか?」
頭の中に、その問いが浮かんでしまった瞬間、舌の奥に苦い味が広がった。
別に、自分と何かあるわけでもない人の行動だ。誰と何をしていようが、口を出す権利も、知る権利もない。
それでも、「今この瞬間」という具体性を伴って、彼のプライベートを想像してしまうと、胸のどこかがざわざわと騒ぎ出す。
オンラインの表示が、ふっと消える。
アプリを閉じたのか、オフラインになったのか。
「…だから何だってんだよ」
自嘲気味に笑って、スマホを伏せた。
笑いながらも、その笑いの裏側には、はっきりとした嫉妬に似た色が混ざっていることに、自分で気づいていた。
三日目。
朝、電車の中で窓に映る自分の顔は、少しだけ疲れて見えた。睡眠時間が削られているわけではない。ただ、頭の中が昨日と一昨日の残り香でいっぱいだった。
仕事は、いつも通りに回っていく。
案件の進捗を確認し、クライアントにメールを送り、電話対応をして、社内ミーティングに出る。昼には中村とコンビニに行き、どうでもいい話で笑う。
日常は、何一つ変わっていない。
変わったのは、自分の視線の行き先だけだ。
ふとしたタイミングで管理部のフロアを思い出し、エレベーターの表示に「22」の数字が光るのを見ると、その向こう側にいるであろう村上の姿を想像してしまう。
スーツ越しの背中。
デスクに肘をついて考えごとをしている様子。
ペン先で書類の端を軽くトントンと叩く癖。
それらに、昨夜見た「オンライン」の緑の点と、白いシャツの胸元が重なっていく。
昼休み、中村がまた恋愛の話を振る。
「同期の〇〇さ、彼女できたらしいよ」
「へえ」
「アプリだって」
「またかよ」
「いや、マジで時代だよな。普通にさ、『どんな出会い方?』って聞いて、『アプリ』って返ってきても、もう誰も驚かないじゃん」
「そうだね」
「てか、高橋もそろそろだな」
「だから何がだよ」
「いや、ふと思って」
表面上は、昨日と同じように返す。
違うのは、心の内側だ。
「普通の出会い」と「アプリの出会い」が同列に語られているその会話の中で、「ゲイ用のやつも」と一昨日言った中村の一言が、また蘇る。
「…気のせいだろ」
コーヒーを一口飲みながら、心の中でそう繰り返した。
気のせい。
似てるだけ。
そう何度も言い聞かせる。
言い聞かせながら、夜になると、指は勝手にあのアイコンを探してしまう。
三日目の夜も、例外ではなかった。
シャワーを浴び、Tシャツに着替え、ベッドにゴロンと倒れ込む。部屋の照明は落とし、スタンドライトだけを点ける。柔らかい光の中で、スマホの画面だけが鮮やかに輝いた。
アプリを開く。ローディング。近くのユーザー一覧。
スクロール。
白いシャツ。
胸元。
プロフィール。
何度も見た文章。
「平日夜/短時間」
「感情なしの関係希望」
「名前聞かないで」
今日はオンライン表示はついていなかった。それなのに、胸の奥のざわめきは、昨日よりも収まらない。
「気のせいだ」
言葉は、もはや呪文に近い。
似てるだけ。
偶然だ。
たくさんいるうちの一人だ。
そうやって否定すればするほど、そのプロフィールに画面越しの意識が縫い付けられていく。指は他のプロフィールに滑ることもあるが、気づけばまた同じ場所に戻ってくる。
日常の会話や業務の中で、村上のことを考える時間が増えたのを、自分はまだ「尊敬が強くなったせい」だと信じている。
「あの人みたいに、状況を整理できるようになりたい」
「何かあったときに頼りにされる人でいたい」
そういった前向きな感情の影に、「この人が実は自分の知らない場所で何をしているのか知りたい」という、別の色の感情が静かに潜んでいることに、まだはっきりとは気づいていない。
ただひとつだけ確かなのは、最初の夜にインストールボタンを押したときの「どんな世界か見てみたい」程度の好奇心は、もう元の場所には戻らない、ということだった。
翔希が目を開けたとき、最初に目に入ったのは、白い天井の小さなシミだった。マンションの古い天井板に浮いた、不規則なにじみ。薄い灰色が輪郭をぼかし、じっと見ていると、そこだけ時間が止まっているみたいに感じる。ぼんやりと焦点を合わせているうちに、枕元から、微かな寝息と、布団の擦れる音が耳に届いた。すぐ横には、うつ伏せ気味に眠っている村上の背中がある。薄いグレーのTシャツ越しに、規則正しく上下する呼吸。枕に押しつぶされた後頭部から、少し跳ねた髪がはみ出している。部屋のカーテンは、半分だけ開いていた。隙間から朝の光が斜めに差し込み、埃の粒をきらきらと浮かび上がらせている。窓の外からは、遠くの環状線を走る車の音と、近くの保育園から流れてくる子どもの声が、薄い壁越しににじんで聞こえた。ここは、新宿の古い1Kマンションの一室。すっかり見慣れてしまった部屋。けれど、朝、こうして二人でスーツに着替える前の、この一瞬だけは、いまだに少し現実味が薄い。「……七時半」枕元のスマホに手を伸ばし、画面を点ける。液晶の光に目を細めながら時刻を確認すると、会社に行くにはちょうどいい時間だ。目覚ましはとっくに止めてある。たぶん、村上が無意識に止めたのだろう。アラームの履歴が、そんな痕跡を残していた。もう一度、隣に視線を落とす。寝ている村上の横顔は、会社にいるときとは少し違う。眉間に寄りがちな皺が緩み、口元も、ほんの少しだけ開いている。頬にかかる髪の線を目でなぞっていると、胸の奥がふわりとくすぐったくなる。こんな顔を知っているのは、自分だけだと思うと、妙な優越感と同時に、怖さも生まれる。抱きしめたくなる衝動と、この瞬間を壊したくないという臆病さが、胸の中で混ざり合う。「……起きますかね」誰に聞かせるでもなく呟きながら、翔希はそっと身体を起こした。布団が擦れる音に、村上が微かに身じろぎする。肩がひとつ上下し、眠りの深さを確かめるみたいに長く息を吐いたあと、うっすらと瞼が持ち上がった。「ん……」掠れた声が漏れる。翔
古めのマンションの前に着く頃には、小雨の気配はすっかり消えていた。アスファルトに残っていた小さな水たまりも、足で踏みしめられ、車に弾かれ、だいぶ薄まっている。代わりに、マンションの外壁に染み込んだ湿り気と、どこかの部屋から漏れてくるカレーの匂いが、鼻の奥をくすぐった。翔希は、建物を見上げた。見慣れたコンクリートの肌。ところどころ黒ずんだ手すり。何度も通ったはずなのに、会社から一緒に歩いてきたせいか、少しだけ違って見える。エントランスのオートロックに番号を打ち込むのは、もう迷いがない。隣で村上がさっとキーを押し、その間に翔希は肩からバッグを掛け直す。開いたドアから、むっとした室内の空気が一気に流れ込んできて、外気と混ざった。階段を上がる音が、コツコツと一定のリズムで響く。最初の頃は、段数を数える余裕なんてなかった。今は、二階に上がるまで何段あるか、何となく感覚で分かるようになっている自分に気づき、心の中で少しだけ笑う。いつもの階で足を止め、いつものドアの前に立つ。村上がポケットから鍵を出し、慣れた動きで回す。その所作を横目で見ながら、翔希は「ああ、本当に『いつもの』なんだな」と妙に現実味を帯びた感慨を覚える。中から、きしむような小さな音を立ててドアが開いた。ふわり、と漂ってくるのは、洗剤と柔軟剤と、少しだけタバコの残り香が混ざった、村上の部屋の匂い。初めて来た日の、あの少し甘苦い印象が、今はどこか落ち着く香りになっている。「お邪魔します」口ではそう言いながら、翔希の手はもう、自分の靴の位置を決めるべき場所を知っている。玄関の端、壁から一足分空けた位置。最初の頃は遠慮して一番端に詰めて置いていたのが、今は自然と村上の革靴の隣に並ぶ形に落ち着いていた。革靴を脱ぎ、揃えて置く。その隣には、何度も見てきた村上の黒い靴。その横に自分の靴が馴染んで並んでいる光景が、胸のどこかをくすぐる。「あ、そこに掛けといて」視線を上げると、村上がジャケットを脱ぎながら顎で示したのは、玄関横のハンガーラックだった。そこにも変化がある。以前はスーツとコートでいっぱいだったラックに、今は少し隙間が作られていて、そこに翔希のジャケットが掛
新宿駅方面に向かう大通りは、雨上がりの光をまとっていた。さっきまで降っていた小雨が止んだばかりで、街路樹の葉からは時おり雫が落ち、アスファルトの上に小さな輪を広げる。車のヘッドライトと、ビルのネオンが濡れた路面に映り込んで、色の境界線を曖昧にしていた。高橋翔希は、その光のゆらめきをぼんやりと追いながら、肩にかけたバッグの持ち手を握り直した。会社を出たときよりも、少しだけ空気が冷たくなっている気がする。スーツの襟元に入り込む湿った風が、ほてった首筋を撫でていく。隣では、村上遥人が同じ速度で歩いていた。歩幅はほとんど同じで、一歩進むたびに靴底の音が微妙にずれて重なっては、また離れていく。信号待ちで横断歩道の前に立ち止まると、周囲には同じようなスーツ姿の会社員たちが集まってきた。手には折りたたんだ傘、紙袋、コンビニの袋。それぞれの一日の終わりが、同じ赤信号の前で足並みを揃えている。翔希は、何気なく右側に立った。遥人との距離は、肩と肩がかすかに触れるか触れないかくらい。以前なら「近すぎる」と感じて半歩引いていた距離だが、今はその微妙な接触が、むしろ落ち着きをもたらしていた。赤信号の光が、二人の顔色をわずかに変える。車道を走り抜けていくタクシーのライトが、視界の端で流れていく。排気ガスと、濡れたアスファルトが混ざった匂いが、吸い込むたびに胸の奥に重くたまった。ふと、指先に柔らかいものが触れた。自分の手の甲に、誰かの指がかすかに擦れたような感覚。翔希が視線を落とすと、遥人の左手の甲が、ほんの少しだけ自分の右手に寄っていた。以前なら、反射的に引っ込めていたはずだ。血の気が引いて、周囲に誰かが見ていないかと慌ててきょろきょろしただろう。けれど、今は違かった。翔希は、わざと何でもない顔をしたまま、その指先に自分の指をそっと重ねた。人混みの中で、ごく自然な動きに見えるように、慎重に。誰かの視線があるとしたら、その程度の触れ方なら、たまたまぶつかったくらいにしか映らないだろう。重ねられた指先が、一瞬だけ緊張したように固くなり、それからゆっくりと力を抜いた。遥人の指が、わずかに握り返してくる。ポケットの中に一緒に手を突っ込んでいるわけでも、露
夕方のチャイムは、このフロアには鳴らない。代わりに、各自のモニターの右下で、定時を知らせる小さなポップアップが静かに消えていく。高橋翔希は、それを斜めに視界に入れながら、まだ開いたままの見積書の数字をひとつひとつ確認していった。桁の打ち間違いがないか、単価が最新のものになっているか、営業の勘と、ここ一年で身についた「管理部がどこを気にするか」という感覚で、ざっと全体を見渡す。隣のデスクでは、四月に入ってきたばかりの後輩が、未だに慣れない様子でテンキーを叩いている。数字を打つ指先が、少しだけぎこちない。「ここ、単価こっちね」翔希は椅子ごとそちらへ滑り、モニターを指さした。「あ、すみません」「いや、最初っから全部できる人いないんで。単価の表、最新のやつブクマしといたほうが早いですよ」「はい…ありがとうございます」口をついて出る言葉が、気づけばすっかり「先輩」側のものになっている。半年前までは、自分も似たようなテンションで中村に助けられていたはずなのに、と翔希は小さく笑った。デスクの端に置いてあるマグカップには、もう冷めたコーヒーが半分ほど残っている。空調の乾いた風、コピー機の低い駆動音、人の話し声とマウスのクリック音が混ざった雑音。その全部が、毎日の背景として身体に染みついている。モニターのタスクバーに、チャットアプリのアイコンがひとつ瞬いた。社内用のツールだ。通知のポップアップに表示された送り主の名前を見て、翔希は意識して表情を変えないよう、背筋を伸ばした。「高橋くん、今日どんな感じ?」管理部の全体チャットに紛れて届いた、個別メッセージの一行。送り主は、村上遥人。数ヶ月前と違うのは、これが「管理部の誰か」ではなく、確実に自分の知っている誰かからのメッセージだということだ。画面越しではなく、生の声の温度を知っている相手。翔希はキーボードに指を滑らせた。「今、見積最終確認してるところです。あと十五分くらいで上がれそうです」返送したメッセージが送信済みの欄に沈んだ瞬間、すぐにまた通知が弾んだ。
それからの時間は、音を立てずに進んでいった。派手な出来事があったわけではない。ただ、気づけば、ホテルの白いシーツよりも、村上遥人の古い1Kの布団の感触のほうが、翔希の中で「いつもの夜」に近づいていた。ある平日の夜、高橋翔希は、いつもの新宿のビジネスホテルではなく、少し路地を入った先の古いマンションの前で立ち止まっていた。数週間前に初めて上がった階段。二、三本ほどペンキが剥げた手すり。雨上がりで少し湿ったコンクリートの匂いが、鼻の奥にまとわりつく。インターホンを押すと、少し間があってから、かすかに聞き慣れた声が返ってきた。「はい」「高橋です」「ああ、開けるね」ブザーの音とともにオートロックが外れ、扉が重い音を立てて開く。エレベーターのない階段を上がりながら、翔希は何度目かの、しかしまだ慣れきらない高鳴りを胸の中で確かめた。三階の廊下に出ると、薄いカーペットの匂いと、どこかの部屋から漏れるテレビの音が交じり合っていた。指定の部屋番号の前まで歩き、軽くノックする。「開いてるよ」内側からそう声がして、ドアノブを回すと、少し油の抜けた金属音がした。扉を引くと、見慣れてきたワンルームの景色が広がる。キッチンには、シンクに伏せられたマグカップが二つ。テーブルの上にはコンビニの袋と、簡単な総菜パック。部屋の中央には、布団ではなく、小さなソファとローテーブルが置かれている。その向こう側に、広げたままの洗濯物がハンガーに吊られていた。「お疲れ」キッチンの手前で、村上が片手を上げた。シャツの袖を肘までまくり、ネクタイはすでに外してテーブルの端に置いてある。眼鏡の跡が鼻の付け根にうっすら残っていた。「お疲れさまです。今日もありがとうございます」靴を脱ぎながらそう言うと、村上は小さく笑った。「そんなに改まらなくていいのに。ほら、適当に座ってて。ご飯、温めるから」「何買ってきたんですか」「たいしたものじゃないよ。コンビニの焼き魚とサラダと…あと、高橋くんが好きって言ってた唐揚げ」
朝の通勤電車が、ビル群の隙間を縫うようにガタン、と揺れた。高橋翔希は吊革を握りしめたまま、ドアの向こうに流れる景色をぼんやりと眺めた。窓ガラスには、スーツ姿の自分の顔が薄く映っている。ネクタイはきちんと締まり、ワイシャツの襟も、いつも通りに収まっているはずなのに、その「いつも通り」がひどく他人のものに思えた。昨夜、自分は誰かを抱いていた。それも、ただの「誰か」じゃない。村上遥人という名前を、何度も喉の奥で転がしながら、相手の体温にしがみついていた。肩に噛みつくときの塩辛い汗の味も、耳元で震えた息も、まだ肌のどこかに貼り付いている気がする。そのすぐ翌朝に、こうして満員電車に押し込まれて、会社へ向かっている。このギャップに、軽い眩暈みたいなものが込み上げた。ドア横の広告には、新築マンションやブライダルフェアのポスター。笑顔のカップルの写真に「理想の未来を一緒に」と白い文字が踊っている。昨日までなら視界の端をただ通り過ぎていたはずのその言葉が、今日は妙に目に刺さった。理想の未来。自分の理想は、何だったんだっけ、と翔希は思う。二十代半ばの営業職。数字は悪くない。上司からの評価もそこそこ。いずれ結婚して、どこかの郊外に2LDKでも構えて、週末に大型スーパーでまとめ買い…そういう「普通」が、なんとなく自分の前にも用意されているのだと、どこかで信じていた。でも今、あの薄暗いホテルの部屋や、古い1Kマンションの見慣れない天井が、頭の中で強く残っている。あの場所で、村上を抱きしめていた自分と、この広告の中の「未来」を目指す自分は、同じ人間なのか、本当に、と考えると、足元がふわついた。電車が駅に滑り込み、乗客がざわ、と動き出す。人の波に押されながらホームに降り、ビルへ向かう。オフィスビルのエントランスに入ると、冷房の冷たい風がスーツの布越しに肌を撫でた。エレベーターホールには、あちこちのフロアへ向かう社員たちが集まっている。二十階のボタンのライトがぼんやりと光っていた。翔希は、その列の中に自然に混ざる。扉が開き、人がぎゅっと詰め込まれる。革靴の匂い、スーツの生地に染み付いた柔軟剤と香水の匂いが







