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9.三日間の「気のせい」

Author: 中岡 始
last update Last Updated: 2025-12-04 10:31:33

翌朝の通勤電車は、いつも通りに混んでいた。

吊り革はほとんど埋まっていて、ドアの近くには人が固まり、車内の空気はスーツの布と香水と汗が混ざった匂いで少しむっとしている。それでも、昨日アプリをインストールしたときに感じたあの妙な高揚感は、今のところほとんど表面に出ていなかった。

高橋翔希は、片手でバーを掴み、もう片方の手に持ったスマホの画面を一度だけ点けて、すぐにスリープに戻した。通知はいくつか来ていたが、どれも仕事用のメールやグループチャットで、昨夜のアプリからのものはなかった。

その事実に、わずかな安堵と、わずかな落胆が混ざる。

「何期待してんだよ」

心の中で自分に突っ込み、電車の窓に目を向ける。ガラスには、ぼんやりと自分の顔が映っていた。薄く隈のある目元、きちんと締めたネクタイ、無難な紺のスーツ。

ごく普通の、どこにでもいるサラリーマンの顔だ。

会社に着いてエレベーターを上がると、営業フロアの空気はすでに仕事モードに切り替わっていた。電話のコール音、キーボードを叩く音、誰かが上司に報告している声。いつものざわめき。

翔希も、そのざわめきの一部として自分の席に座り、PCを立ち上げ、メールをチェックし、今日やるべきタスクを頭の中で並べていく。午前中は既存顧客へのフォローと、午後は小さな商談が二件。昨日に比べれば軽い一日だ。

しばらく集中して仕事をしているうちに、昨夜のブルーライトの記憶は、意識の表層から少し引いていった。

管理部に行く用事ができたのは、十一時少し前だった。

先週提出した稟議書の承認ルートに変更が出て、決裁者の欄を書き換える必要があるというメールが届いたのだ。営業部側ではどうしようもないので、管理部に確認してくれ、と石田課長からチャットが飛んできた。

「じゃあ、行ってきます」

席を立ち、エレベーターで二つ上の階に上がる。

管理部フロアの自動ドアが開くと、空気の温度が少し下がったように感じた。営業フロアに比べて静かで、電話の音も声も抑えたトーンで流れている。

レイアウトも、もう見慣れたものだ。書類の棚が整然と並び、デスク上にはファイルとモニターと、白いマグカップ。歩くたびに、カーペットが足裏を少しだけ沈ませる。

いつも稟議関連を見てくれている管理部の女性に声をかけると、

「村上さんに確認してもらったほうがいいですね」

と、自然にその名前が出てきた。

「今なら席にいると思いますよ」

案内されて向かった先に、彼はいた。

デスクに座り、モニターに視線を落としながら、キーボードを軽く叩いている。濃紺のスーツに、白いシャツ。タイは濃いグレーで、小さなドットが入っていた。ジャケットのボタンは外されていて、座ったときに自然と開いた前側から、シャツの胸元がわずかに見えている。

その視界の端に、昨夜スマホの中で見た「顔のない胸元」が、突然重なった。

白い生地。

第二ボタン。

鎖骨の影。

一瞬、呼吸が詰まる。

「…あの」

声をかけたのは、隣の女性だった。翔希の喉は、半拍遅れて動く。

「村上さん、高橋さんが」

「はい」

顔を上げた村上の目が、すっと翔希のほうを向く。

いつも通りの、穏やかで、少し冷静な黒い瞳。そこに、昨夜のプロフィールの文言は一切浮かんでいなかった。当たり前だ。あれはただの文字列で、この人は現実の人間だ。

「おはようございます、高橋くん」

「おはようございます。あの、稟議のルートの件で…」

言いかけて、視線がまた胸元に落ちそうになるのを感じた。慌てて、顔を見ようとする。そうすると今度は、ネクタイを指で軽く整える仕草が目に入ってくる。

昨夜のプロフィール画面に戻りそうになる頭を、力ずくで現実に引き戻す。

「えっと、先週出したA社の追加オプションの稟議なんですけど、決裁ルートの変更のメールが来て…」

説明している間も、自分の声がどこか上ずっているのが分かる。村上は特に怪訝な顔をすることもなく、落ち着いた口調で話を引き取った。

「メール見ました。部長からの指示で、承認者がひとり増えたんですよね」

「はい」

「書式自体はそのままで大丈夫です。決裁者欄を一つ増やして、承認順…そうですね、二番目に追加してもらえれば。今、サンプル送ります」

彼は手元のマウスを動かし、社内チャットを開く。さらりとしたタイピング音が、静かなフロアに優しく響いた。

その横顔を見ながら、翔希の視線は無意識に首筋に滑る。シャツの襟から少しだけ覗く肌の色は、スマホの画面の中のそれと、確かに似ているように見えた。

いや、似ていると決めつけているのは、自分のほうだ。

「…これで大丈夫です。フォーマット送ったんで、それで差し替えてもらえれば」

「あ、はい。ありがとうございます」

軽く頭を下げる。

この短いやり取りの中で、自分の視線が何度揺れたか、もはや数えられなかった。胸元、ネクタイ、手首、指。いつもなら気にも留めない部分に、妙に意識が向いてしまう。

そのことに、自分で戸惑う。

フロアを離れ、エレベーターを待つ間、翔希は壁にもたれかかるようにして小さく息を吐いた。

「何やってんだ、俺」

自分に向けられたその言葉は、誰にも届かない。

スーツ越しに見える体のラインや、ネクタイを緩める仕草を、昨夜の写真と無意識に比較している自分。そんなことをしている自分に、どこか嫌悪に近い感情が湧いた。

営業部のフロアに戻ると、中村がすぐに気づいた。

「お、管理部行ってたの?」

「うん。稟議のルート変わったとかで」

「うわ、めんどくさ」

中村は椅子をくるっと回して翔希のほうを向く。

「で、また『困ったときの村上さん』?」

「まあ、そうなるよね」

軽く笑って返す。

「いいよなあ、高橋。困ったらすぐ村上さん頼れるじゃん」

「お前も行けばいいだろ」

「いや、あのフロア緊張すんだよな。なんか、ちゃんとしてる人たちの集まり、みたいな」

「まあ、分からなくはないけど」

言葉だけは軽く返しつつ、心の中では別の会話が続いている。

ちゃんとしてる人。

有能な先輩。

仕事をきっちり回してくれる人。

そのイメージと、「平日夜/短時間」「感情なし」「名前聞かないで」という、画面の向こうの誰かのプロフィールが、脳内で同じ場所に並ぼうとしているのを、必死に引き離す。

昼休み、オフィス近くのコンビニで買ってきた弁当をデスクで広げながら、話題は自然とプライベートに移っていった。

「こないださ」

中村が、唐揚げ弁当の蓋を開けながら言う。

「大学の友達が結婚するって連絡来て。相手がマッチングアプリの人なんだって」

「へえ」

「なんかもう、普通にそれがスタンダードになってるっぽいよな」

「まあ、周りでも増えてるよね」

箸で唐揚げをつまみながら答える。

「飲み会より効率いいとか言ってさ」

「分かる気はするけど」

「しかもさ、その友達、最初は遊び目的で始めたらしいんだよ。暇つぶしにチャットして、たまに会うくらいでいいやって。そしたら、そいつのほうがガチでハマって、今プロポーズしてんの」

「ありがちな話だな」

笑いながら言うと、

「だよなあ」

と中村も笑う。

「でさ、最近はゲイ用のやつとかもすげえじゃん」

箸が一瞬止まる。

「何見てんだよ、お前」

と軽く返すと、中村は慌てて手を振った。

「いや、俺は使ってねえよ。SNSで流れてきたりするじゃん。〇〇 for G とか、××とか。なんか、位置情報で近くの人出てくるやつ。あれ見て、『世の中マジでいろんな出会い方あるんだな』って」

「まあ、そうだね」

心臓が、さっきよりひとつ余分に打った気がした。

「てか高橋も、彼女欲しくなったらアプリ登録すりゃいいじゃん」

「お前、昨日もそんな話してなかった?」

「いいじゃん。こういうのはしつこいくらいがちょうどいいんだよ」

ふざけ半分の会話に、表面上はちゃんと乗っている。笑いもするし、ツッコミも入れる。

けれど、「ゲイ用のやつもすげえ」という一言は、妙に耳の奥に残り続けた。

昨夜、ブルーライトの向こうに並んだ「近くの人たち」。その中に、白いシャツの胸元だけが切り取られた写真があったことを、思い出す。

こんなふうに昼間、何事もなかったように唐揚げ弁当を食べている誰かが、夜になると、あの画面を開いて、「近くにいる人」を眺めているのかもしれない。

その中の一人が、同じ会社の人間である可能性。

「…考えすぎだろ」

心の中で、また同じ言葉を繰り返す。

その夜、自宅に戻り、シャワーを浴び、簡単な夕食を済ませても、なぜか本を開く気にはなれなかった。テレビをつけても、バラエティ番組の笑い声が耳に入ってこない。

ベッドに横になり、天井を見上げる。

枕元にはスマホがある。画面は真っ暗だが、そこにアプリのアイコンがあることを、指先は覚えている。

「開かない」

そう決める。

決めて、十分も経たないうちに、指はスマホを手に取っていた。

ロックを解除し、ホーム画面を出す。問題のアイコンは、他のアプリの中に紛れて、何事もなかったような顔をしている。

これを一タップすれば、例の画面に繋がる。

タップせずに、そのままホームボタンを押して閉じる。再び天井を見上げる。エアコンの風が頬を撫でる。

三十秒。

一分。

二分。

さっきより、天井が遠く感じる。

「…今日はやめとこ」

声に出してそう言い、スマホを裏返して置いた。

一晩目は、ギリギリで踏みとどまった。

それで何かが解決するわけでもないことは分かっていたが、「開かなかった」という事実だけが、自分にとっての綱みたいなものだった。

二日目。

午前中は順調に仕事が進み、午後になって、小さなトラブルが起きた。

既存顧客からの問い合わせメールに、添付する資料を間違って送ってしまったのだ。数値自体は大きく変わらないものの、仕様のバージョンが古いままだった。

「やっべ…」

メールの送信履歴を見て、翔希は額に手を当てる。

すぐに訂正メールを送れば済む話ではあるが、念のため、資料の中身を今一度確認し直したかった。仕様の細かいところは、管理部のチェックをもう一度入れてもらったほうが安心だ。

結局、また管理部に行くことになった。

昨日と同じように、自動ドアを抜け、村上のデスクのほうへ向かう。彼は、昨日と違うネクタイをしていた。濃い青に、細いストライプ。シャツはやはり白で、ジャケットは椅子の背にかかっている。

「すみません、ちょっといいですか」

声をかけると、彼は手を止めてこちらを見た。

「また何かありました?」

「はい…。さっき既存のところに送った資料で、古いバージョンを添付しちゃったっぽくて。数値自体は同じなんですけど、一応仕様の表現が最新のと矛盾してないか確認してもらいたくて」

項目を順に説明しながら、タブレットの画面を見せる。昨日と同じように、村上は落ち着いた表情でそれを受け取り、必要なポイントだけ押さえていく。

「ここですね。この表現だと旧バージョンのままだから、こことここだけ文言を最新のに揃えたほうがいいです。数値は大丈夫そうなので、『資料のバージョンが古かったので差し替えさせてください』って、素直に書いちゃっていいと思います」

「はい…助かります」

言葉と一緒に、胸から空気が抜けていく。こういうときの判断を素早く出してくれる存在がいることが、どれだけ心強いか。

それと同時に、胸の奥に、別の重さがじわりと滲む。

もし、この人が、あのプロフィールの持ち主だとしたら。

今、自分は、この人が知らないところで、この人の「裏側」に触れていることになる。本人が「名前聞かないで」と書いた場所に、勝手に自分の意思で踏み込んでいる。

「…本当に、関係あるのかどうかも分からないのに」

心の中で呟く。

罪悪感というにはまだ弱いが、胸の奥を指先でつつかれているような感覚。知らないでいれば楽だったものを、自分から覗き込んだせいで、余計な感情が生まれている。

「高橋くん」

村上の声が、現実に引き戻す。

「今日のは、完全に『うっかり』の範囲内だから、大丈夫ですよ。早めに気づけて良かったじゃないですか」

「…そうですね」

「僕たち管理部の人間も、ミスくらいしますから」

そう言って、少しだけ笑う。

その笑顔は、昨日も、一昨日も見たものだ。柔らかくて、相手を安心させる、穏やかな笑い方。その表情に、「感情なし」という単語を貼りつけることが、どうしてもできない。

それなのに。

自宅に戻り、シャワーを浴びたあと、いつものようにベッドに寝転がると、指はまた同じアイコンに伸びていた。

今度は、躊躇は少なかった。

アプリを開くと、「近くにいるユーザー」の一覧が更新される。画面上部の「オンライン」の緑の丸が、ちらほらと点灯していた。

スクロールを下に進めていく。見覚えのある名前、そうでない名前。いくつかが、昨夜と同じ位置にいる。

例のプロフィールは、少し下のほうにあった。

顔のない白いシャツの写真。

そして、その右上に、小さな緑の丸。

「オンライン」。

胸の奥が、きゅっと掴まれる。

ちょうど今、この瞬間。

この人は、どこかでこのアプリを開いている。

新宿のどこかのマンションかもしれないし、ホテルの一室かもしれないし、もしかしたら、さっきまで自分がいた街と同じ線路沿いのどこかかもしれない。

もしこの人が村上なら。

村上は今、管理部のフロアではなく、自分の部屋のどこかでスマホの画面を見ていることになる。誰かとチャットをしているかもしれないし、待ち合わせをしている最中かもしれない。

「今誰かとやってるのか?」

頭の中に、その問いが浮かんでしまった瞬間、舌の奥に苦い味が広がった。

別に、自分と何かあるわけでもない人の行動だ。誰と何をしていようが、口を出す権利も、知る権利もない。

それでも、「今この瞬間」という具体性を伴って、彼のプライベートを想像してしまうと、胸のどこかがざわざわと騒ぎ出す。

オンラインの表示が、ふっと消える。

アプリを閉じたのか、オフラインになったのか。

「…だから何だってんだよ」

自嘲気味に笑って、スマホを伏せた。

笑いながらも、その笑いの裏側には、はっきりとした嫉妬に似た色が混ざっていることに、自分で気づいていた。

三日目。

朝、電車の中で窓に映る自分の顔は、少しだけ疲れて見えた。睡眠時間が削られているわけではない。ただ、頭の中が昨日と一昨日の残り香でいっぱいだった。

仕事は、いつも通りに回っていく。

案件の進捗を確認し、クライアントにメールを送り、電話対応をして、社内ミーティングに出る。昼には中村とコンビニに行き、どうでもいい話で笑う。

日常は、何一つ変わっていない。

変わったのは、自分の視線の行き先だけだ。

ふとしたタイミングで管理部のフロアを思い出し、エレベーターの表示に「22」の数字が光るのを見ると、その向こう側にいるであろう村上の姿を想像してしまう。

スーツ越しの背中。

デスクに肘をついて考えごとをしている様子。

ペン先で書類の端を軽くトントンと叩く癖。

それらに、昨夜見た「オンライン」の緑の点と、白いシャツの胸元が重なっていく。

昼休み、中村がまた恋愛の話を振る。

「同期の〇〇さ、彼女できたらしいよ」

「へえ」

「アプリだって」

「またかよ」

「いや、マジで時代だよな。普通にさ、『どんな出会い方?』って聞いて、『アプリ』って返ってきても、もう誰も驚かないじゃん」

「そうだね」

「てか、高橋もそろそろだな」

「だから何がだよ」

「いや、ふと思って」

表面上は、昨日と同じように返す。

違うのは、心の内側だ。

「普通の出会い」と「アプリの出会い」が同列に語られているその会話の中で、「ゲイ用のやつも」と一昨日言った中村の一言が、また蘇る。

「…気のせいだろ」

コーヒーを一口飲みながら、心の中でそう繰り返した。

気のせい。

似てるだけ。

そう何度も言い聞かせる。

言い聞かせながら、夜になると、指は勝手にあのアイコンを探してしまう。

三日目の夜も、例外ではなかった。

シャワーを浴び、Tシャツに着替え、ベッドにゴロンと倒れ込む。部屋の照明は落とし、スタンドライトだけを点ける。柔らかい光の中で、スマホの画面だけが鮮やかに輝いた。

アプリを開く。ローディング。近くのユーザー一覧。

スクロール。

白いシャツ。

胸元。

プロフィール。

何度も見た文章。

「平日夜/短時間」

「感情なしの関係希望」

「名前聞かないで」

今日はオンライン表示はついていなかった。それなのに、胸の奥のざわめきは、昨日よりも収まらない。

「気のせいだ」

言葉は、もはや呪文に近い。

似てるだけ。

偶然だ。

たくさんいるうちの一人だ。

そうやって否定すればするほど、そのプロフィールに画面越しの意識が縫い付けられていく。指は他のプロフィールに滑ることもあるが、気づけばまた同じ場所に戻ってくる。

日常の会話や業務の中で、村上のことを考える時間が増えたのを、自分はまだ「尊敬が強くなったせい」だと信じている。

「あの人みたいに、状況を整理できるようになりたい」

「何かあったときに頼りにされる人でいたい」

そういった前向きな感情の影に、「この人が実は自分の知らない場所で何をしているのか知りたい」という、別の色の感情が静かに潜んでいることに、まだはっきりとは気づいていない。

ただひとつだけ確かなのは、最初の夜にインストールボタンを押したときの「どんな世界か見てみたい」程度の好奇心は、もう元の場所には戻らない、ということだった。

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