جميع فصول : الفصل -الفصل 30

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第二十話

 二日後。オーディション用の台本が刷り上がり、新人全員に配られた。ちなみに、山口さんは役者をやることになった。最初は渋ったようだが、「新人が困ってるならしょうがない」と出ることにしたそうだ。それと、キムさんと純子さんは制作のアドバイザー、タイガーさんは衣装・メイク・小道具のアドバイザーをすることになった。 前回の稽古では言われていなかったが、ケンさんが演出のアドバイザーを買って出た。アドバイザーを頼んだ二三年が全員引き受けたので、暇になったと言っていたが、部長だけあって面倒見が良いのだろう。オーディションは五日後に行われることが決まったので、今日はこれから自主練をする。 いつものように柔軟、筋トレ、ストップモーション発声練習を終えたあと、配られた台本の読み合わせをすることになった。全員で輪になって座る。「今回の台本『玉手箱の幻影』ですが、舞台は現代です。主人公は丸橋サトミという女性で、キタムラ商事という札幌に本社がある輸入雑貨の会社で働いている事務員です。この丸橋サトミには婚約者の三上ショウという営業社員がいます。三上が札幌から東北に出張へ行くんですが、岩手での仕事を終えて宮城へ向かう電車で大事故に遭います。三上は頭を打ったんですが、混乱してその場から逃げたあとに倒れます。で、病院に運ばれて目を覚ましたら記憶を失っています。その後退院できることになったんですが、病院代が払えないのでそのまま病院の清掃員として雇われます。 一方、丸橋の方は休暇をとって三上の母と一緒に三上の出張先の岩手へ向かいます。岩手の次の出張先である宮城には現れなかったのでその足跡を追います。で、予想はしていたんですが大事故を起こした電車に乗っていたことはわかったんですが、その事故の死傷者リストには含まれていないことがわかります。というところまでで休暇が終わり、丸橋と三上の母は帰ります。 それから三年が経過して、三上の母は丸橋に婚約の解消を申し出ますが、丸橋はそれを断ります。三上と丸橋の同僚の木戸ジンイチという男が出てきて、木戸から三上はもう帰ってこないので忘れたほうがいいと言われます。丸橋の親友で同僚の城田マイは丸橋を励まし続けていましたが、それが苦しくなってきています。 三上は浦島マモルという新たな名前をつけて暮らしていました。病院の入院代は払い終えましたが、清掃員は続けています。
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第二十一話

 新人公演が終わるまで中島さんが稽古を仕切ることになっていた。「配役は適当に決めます。丸橋サトミを裕子ちゃん、三上ショウを山口さん、木戸ジンイチをナベ、三上の母を理恵ちゃん、結城スズをみずとも、城田マイを瞳ちゃん、石山先生をガジン、永瀬シオリを由美ちゃん、小野フミカを私がやります」 中島さんは配役を座っている順番に振っていった。「若い番号のシーンから通して読んでいきます。それじゃあ、用意」 ぱん、と中島さんの手を叩く音が多目的ホールに響き、輪になって座ったまま読み合わせが始まる。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーシーン1 舞台上に椅子。丸橋サトミが座ってパソコンのキーボードを叩いている。上手から城田マイが走ってくる。城田マイ サトミ!丸橋サトミ どうしたの、マイ?そんなに慌てて。城田マイ 取引先から三上さんが来ないって連絡が来たんだけど、三上さんと連絡が取れなくて、ニュース見たら宮城でJRの大事故が起きたって、どこのテレビ局でもいま流れてて。 丸橋サトミが立ち上がる。丸橋サトミ うそ!?ショウが事故に遭ったの?城田マイ まだわかんない。死傷者リストはテレビで流れて始めてるけど、その中にはいないみたい。 丸橋サトミ、椅子の横に置いたバッグの中から携帯電話を取り出し、耳に当てる。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 読み合わせは進んでいく。裕子ちゃんも瞳ちゃんもうまくセリフを読んでいる気がする。そろそろ僕の出番だ。台本を持った指に汗がにじんでいる。「丸橋、ここにいたか。城田からもう聞いたか?」 どうなんだ、これ。うまくしゃべれてるだろうか。なんか棒読みな気がする。声が小さいかな?「木戸くん、聞いたよ。ショウ大丈夫かな」 裕子ちゃんは丸橋をうまく演じている。演劇経験者はやっぱり素人とは違うな。「あいつなら大丈夫だよ、きっと。とにかく落ち着けよ。悪い、トイレって言って抜けてきたからもう戻る」 文字を必死に追って声を出すが、感情を込める余裕なんてない。ボロボロな気がする。「うん。木戸くん、ありがとう」 シーン1の出番は終わった。いつのまにか両脇に普段出たことのない量の汗で冷たくなっている。僕は大きく深呼吸した。まだ始まったばかりだ。
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第二十二話

「スズさん、今日は夜勤じゃないんだろう?一緒に夕食どうかな」 六回目の読み合わせ最後のシーンに入っている。記憶を失った三上が浦島として生活しているところだ。看護婦の結城スズと付き合っていて、食事に誘っているところだ。僕は今まで人と付き合ったことも食事に誘ったこともないのでどうにも現実感がない。この言い方で合っているんだろうか。「マモルくん。わかった、残業にならないようにがんばるね」 理恵ちゃんの声には喜びの感情が入っている。台本から目が離せない僕にはわからないけど、きっと顔も笑っているんだろう。理恵ちゃんもけっこううまいなあ。どの程度うまいのか僕は素人だからよくわからないけど。 ぱん、と中島さんが手を叩き、読み合わせは終わった。「うふふふ、自分の台本が読まれるとなんか恥ずかしいけどうれしい」 中島さんは本当に嬉しそうだ。「それじゃあ次は、十分休憩したあとに台本持って立ち稽古に移ります。シーン1から、丸橋を裕子ちゃん、城田を瞳ちゃん、木戸をナベでお願いします」 いきなりか、早いな。まだちょっと読んだだけで動きを付けられる自信がない。入部してから最初の公演まではずっと照明と大道具のスタッフをしていて、公演後は既成の台本を使って人前でやる予定のない稽古をしていただけだから、そんなに身を入れてやっていたわけではなかった。だからまあ、僕の役者経験はほぼゼロと言ってよかった。 とりあえず、台本を読んでおくか。セリフを覚えたほうがいいんだろうな。数少ない自主練の経験から僕はそう考えた。台本を何度も読んでぶつぶつと口に出す。今度は台本を床に伏せてセリフを口に出してみる。途中まで言えた。全部はできない。十分だときついな。覚えきれなさそうだ。そんなことをしているうちに十分は過ぎた。
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第二十三話

「はい、では立ち稽古始めます」 僕は台本を持って立ち上がる。裕子ちゃんはすでに台本を持っていなかった。もう覚えたのだろうか。舞台上に用意されていたパイプ椅子に裕子ちゃんが座り、僕と瞳ちゃんは上手側に立つ。「ちょっと待って。舞台の設定は?」 裕子ちゃんが中島さんに尋ねる。舞台の設定?「あー、そうだね」 中島さんは立ち上がって上手側の壁から三メートルくらい離れたところにパイプ椅子を置いた。「ごめん骨折、そっちにもパイプ椅子置いてもらえる?」「はいよ」 骨折さんが小走りでパイプ椅子を運んだ。中島さんが骨折さんを苗字ではなく骨折と呼んでいるので、部になじんでるなあと頭によぎった。「えっと、あと二歩くらい奥……うん、ありがとう。はい、椅子のとこが上手と下手です」「用意……」 裕子ちゃんが両腕を前に伸ばす。ぱん、と中島さんが手を叩くと、裕子ちゃんはキーボードを叩くジェスチャーを始めた。「サトミ!」 台本を持った瞳ちゃんが僕の前を走っていく。「どうしたの、マイ?そんなに慌てて」 裕子ちゃんが瞳ちゃんの方を振り向く。「取引先から三上さんが来ないって連絡が来たんだけど、三上さんと連絡が取れなくて、えぇと、ニュース見たら宮城でJRの大事故が起きたって、どこのテレビ局でもいま流れてて」 瞳ちゃんが台本に目を落としたままセリフを言う。「うそ!?ショウが事故に遭ったの?」 裕子ちゃんは立ち上がって両手を胸の前で軽く握り合わせる。不安そうな様子が伝わる。次が出番だ。台本を持つ指先が冷たい。「まだわかんない。死傷者リストはテレビで流れて始めてるけど、その中にはいないみたい」 瞳ちゃんがセリフを言い終わるのを待って僕は早足で前に進む。
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第二十四話

「丸橋、ここにいたか。城田からもう聞いたか?」 最初のセリフは台本を見ずに言うことができた。でも早口になった気がする。セリフがもう頭からこれ落ちそうだ。裕子ちゃんがこちらを振り向き、心配そうな顔をしている。「木戸くん、聞いたよ。ショウ大丈夫かな」 あ、だめだ。台本見ないとセリフが出てこない。「……あいつなら大丈夫だよ、きっと。……とにかく落ち着けよ。悪い、トイレって言って抜けてきたからもう戻る」 僕は早足で上手へ出ていく。全然だめな気がする。「うん。木戸くん、ありがとう」 あ、そうか。裕子ちゃんのセリフを受けなきゃいけないからまだ舞台を出たらだめなのか。最初だから仕方ないのかもしれないけど、役者ってけっこういろんなことを考えなきゃならないんだな。今日は変な汗を出しっぱなしだ。 立ち稽古はその後も続いたが、八時すぎに終わりを迎えた。「えー、ちょっと早いんですが、今日の稽古はこれで終わります。すいません、がんばって台本書きます。オーディションは今日配った台本でやるので、みんなは読んで練習しといてください」 中島さんの締めの挨拶にみんなが『はい』と答え、解散した。「あー……」「どしたの、ナベ」 ジャージから私服へ着替えながら演技がうまくいかないなあと考えて知らないうちに声が出ていたところへ、ガジンが来た。「いや、役者って難しいね」「あー、ね」「なんかさ、自分の至らないところがたくさん見えてくる」「いいねぇ」「よくないよ。直したいんだよ」「楽しいだろ?」 たしかに。僕はガジンの方を向いて表情を緩めた。「……まぁね」 とん、と背中に衝撃を受けて振り返ると、裕子ちゃんがいた。体当たりされていた。「なんだなんだ、青春してるな!」 僕は驚いて裕子ちゃんを見つめる。「……あ、そっか。これが青春なのか」「え、なになに?どうしたの?」 裕子ちゃんも驚いている。「いや、うん。初めてだからさ。青春って。気づかなかったよ」「おー……そうなの?」 裕子ちゃんは少し戸惑っているみたいだ。「そうそう、高校まで色のない人生だったから、うん」「そっか!ナベ、おめでとう!」 ケンさんも会話に加わってきた。右手を差し出されたので思わず握手する。ケンさんの手の温度は僕よりだいぶ高かった。「あ、ありがとうございます。入ってよかったっす演劇研究
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第二十五話

 それからまた稽古したりアルバイトをしたりして、オーディション当日を迎えた。役は三つ。主人公の婚約者三上ショウ、その同僚木戸ジンイチ、三上ショウの担当医師石山先生。この三つの中だと、石山先生をやりたい。恋愛に絡む役柄はなんというか、荷が重い。もちろん医師の経験もないので自信を持ってやれるわけではないが、他の役に比べれば恥ずかしがらずにできそうだった。出番も少なめだし。 だから台本を読むのは石山先生を多めにしていた。そこまで多いセリフ量ではなかったけれど覚えることはできなかった。僕は暗記が得意ではない。長く続けていれば稽古中に覚えることができるようになるのだろうか。 その日は授業を普通に受けて、あっという間に午後六時の稽古時間を迎えた。いつものように柔軟運動や発声練習をするが、今日の発声練習ではなんだかいつも以上に大きい声が出た。「えー、それじゃあ十分後からオーディション始めます」 中島さんが宣言する。いよいよだ。僕は配られていた台本を読んでいたが、すぐにガジンや裕子ちゃんたちが声を出してセリフを読み始めたので、僕も声を出すことにした。「時間です!えー、それじゃあシーン1から順番に私が役を指定するので、指名された人は出てきて演じてください」 中島さんの声で現実に引き戻された。知らぬ間に集中していたらしい。一瞬で十分がすぎてしまった。なんとなく、この役やりたいですって言ってオーディションを受けるのかと思っていたが、全体のバランスを見られるらしい。それともこれから聞かれるのだろうか。「えー、ではシーン1は丸橋を瞳ちゃん、城田を裕子ちゃん、木戸をガジンでお願いします」「わ、うそ。いきなり?緊張する」 わたわたしている瞳ちゃんの気持ちはわかる。僕もトップバッターじゃなくてよかったと思っている。「三人とも準備いいですかー?いきますよー」「オッケーっす」「いいよ〜」「え?待って待って……はい、はい。大丈夫」 わりと落ち着いて見えるガジンと裕子ちゃんとは対照的に瞳ちゃんは緊張している。ガジンと裕子ちゃんは台本も持っていない。早いな。でも良かった、瞳ちゃんは台本を持っている。僕だけセリフを覚えていないとかだったら焦ってしまうだろう。「用意……」ぱん、と中島さんが手を叩く。「サトミ!」「どうしたの、そんなに慌てて」 オーディションの時間は過ぎてい
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第二十六話

 オーディションはシーン3まで進み、僕は医師の石山先生としてオーディションに臨む。シーン3は、事故に遭った三上ショウが目を覚ます場面だ。婚約者の三上ショウに山口さん、病院の看護婦の結城スズに林さんが指名された。 三人とも台本を持っている。台本を持たずにオーディションを受けているのはガジンと裕子ちゃんと理恵ちゃんの三人だけだった。みんなとのレベルがそんなに離れていないようで少しほっとする。「じゃ、いきますよー。用意……」 ぱん、と中島さんが手を叩く。 床の上に山口さんが仰向けで寝ている。病院のベッドをあとで作らなければならないだろうか。寝ている山口さんを林さんが覗き込んでいると、山口さんが目を開ける。林さんは山口さんの顔の前で手を振る。「気が付かれましたか?」 林さんが尋ねると、山口さんは林さんの方へ少しだけ顔を傾ける。「……ここは?」 山口さんはしわがれた声を発する。「ここは病院ですよ。あなたはいま入院しているんです。水、飲めますか?」 林さんは台本から目を離す。コップも何もないが、林さんは水差しからコップに水を入れるジェスチャーをして、山口さんの横に正座する。台本を床に置き、林さんは山口さんの頭を持ち上げて太ももに乗せ、水を飲ませるジェスチャーをする。「ありがとう、ございます」「先生を呼んできますね。少し待っていてください」 林さんは山口さんの頭を床へゆっくりと下ろし、台本をつかんで上手へ出る。僕はゆっくりと舞台に入り、その後を林さんがついてくる。「こんにちは、私はこの病院の医院長の石山といいます。あなたは頭を強く打ってここへ運び込まれたのです。ご気分はいかがですか?」 ゆっくりとしゃべる。病院の医院長なので、その方が貫禄が出るのではないかと思ったからだ。正解はわからないが、とりあえず自分の思ったようにやるしかない。「助けていただいて、ありがとうございました。俺は……あの、すいません。自分の名前が、思い出せません」 僕は目を大きくする。驚いたように見えただろうか。林さんと顔を見合わせる。台本にそう書いてあるからだ。「……そうですか。まあ、そのうち思い出すかもしれません。あまり気に病まなくていいですよ。頭を打つと、そういうことがありますから。いまは、体力の回復に努めてくださいね。点滴はしていましたが、三日間眠りっぱなしでしたので
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第二十七話

 手応えはよくわからなかったがオーディションは終わり、二日後に配役が決まることになった。次の日の昼、僕は部室で食事をすることにした。「おはようございまーす」 部室には十人近く部員がいる。テーブルの席が空いていたのでそこに座り、生協で買った弁当を置いた。「だからですね、百円でおなかいっぱいになるカップラーメンが至高なんですよ」 ガジンがなにやら熱弁している。「昼食代はもらってますけど、カップラーメンで済ませたら四百円浮くわけですよ。そしたらそんなにバイトしなくてもすむじゃないですか。ねえ、ナベ」 急に話を振られた。「おぉん?何の話?」 弁当のフタを開け、割り箸の袋を破く。今日は幕の内弁当を買ったが生協のレンジで温めた弁当はまだ湯気が出ている。温め過ぎだろうか。湯気とともに吸い込んだ匂いがおなかを刺激する。「昼食のコスパの話」「あー、いや俺ねえ、麺類だとあんまり腹が膨れないんだよね」 カップラーメンは安いけど食後一時間くらい、下手すると食べ終わってもお腹が減ってる気がする。「ナベは細いのに意外とたくさん食うよね」「燃費悪いんですよ。だからバイト代を食費の足しにしようかとか考えたりしますねぇ」 田中さんの指摘に答えつつコロッケを口に入れる。「え!?ナベ、バイトしてんの!?」 理恵ちゃんが驚く。そういえば言ってなかったか。「うん、夏休みからね」「え、なんのバイト?」 コロさんも驚いているみたいだ。「コンビニですよ」『あー』 その場の全員かどうかわからないが、謎に納得されたみたいだ。「『あー』ってなんですかみなさん」 なぜ納得されたのかよくわからない。「ぽい!」 田中さんが端的に表現した。「そー……ですかぁ?」 微妙に納得しがたい。「いや。ナベは家庭教師とかじゃない?」「そっちだ!」 どっちだ。ガジンの意見に田中さんが強く同意する。あいかわらず適当だな。「わかる」 理恵ちゃんにわかられてしまった。知的と思われているということだろうか。
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第二十八話

「あ、そういえば寿司屋の面接に行ったときのことなんですけど……いや、やっぱり不適切だからやめときます」「そこまで言ったら続けなよ。なんか気持ち悪いから」 ケンさんに促され、愛人と一緒にいたパワハラ気質の店長の話をした。「でまあ、ここで絶対働きたくないなー、と思ったんで落ちるように受け答えしてました」「え、どんなふうに?」「いや、なんかもうはっきり覚えてないですけど、仕事をするうえで大切なことはなんですかみたいな質問されたんですかね。そのときに、『倫理観です』とか答えてやったり。あれ?自分の長所を倫理観って言ったんだっけ。まあとにかく、店長の顔がぴくついてましたね」 爆笑が起こった。単純にうれしい。「ナベ受ける」「意外とハート強いな」 コロさんが目をティッシュで拭いていて、ケンさんも笑っている。こんなに受けるとけっこう気持ちいい。「ちょっとナベ見直した」 本人は否定したいだろうが笑いの神に愛されている田中さんに褒められたので、少しは自信を持ってもいいのかもしれない。『おはようございます』 中島さんと林さん、裕子ちゃんの三人が部室に入ってきた。「お、噂の新人たち」「え、なんですか?私たちの噂ですか?」 田中さんの言葉に中島さんが反応する。「田中おまえ、戯言ばっかいってんじゃねえよ」「戯言ってなんだよ」「ふざけた発言のことだよ」「ケン。無理」 田中さんがにっこり笑う。「どういうことですか?」 中島さんはぽかんとしていたので、ケンさんが説明する。「中島さんたちの話題とか全く出てきてないよ」「ごめんね。俺ふざけてないと死ぬ病気なんだ」 田中さんがまた適当なことを言ってるが、今のは嘘とも言えないだろう。「それはそれでちょっと複雑ですね」 気持ちはわかる。「麻美さん、配役決まった?」 ガジンの質問は一年全員が気にしていることだ。「だいたい固まった。けどまだ秘密」「裕子ちゃんは知ってるの?」 理恵ちゃんが探るように尋ねる。「知ってるけど言わないよ〜」 裕子ちゃんは笑顔ではぐらかした。「明日まで待っててね」「めっちゃ気になる〜」 理恵ちゃんは待ちきれないようだが、僕も同じ気持ちだ。とりあえず明日になればわかる。
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第二十九話

 配役発表の日になった。浮ついたまま柔軟や発声などの準備運動を終えると、中島さんが前に出てきた。大量の紙の束が置いてある。たぶん台本だろう。細い付箋のようなものがたくさん飛び出ているので、ページが変わるごとに挟んで目印にしていると推測できた。「えー、みなさんお待たせしました。それでは配役を発表します」 多目的ホールの中はぴんと空気が張り詰めた。「主人公、丸橋サトミは瞳ちゃん」「はい」 瞳ちゃんはちょっと驚いている。「主人公の婚約者、三上ショウは山口さん」「はい」 山口さんも俺が?という表情だ。「三上ショウの同僚、木戸ジンイチはガジン」「はい」 ガジンは微笑んでいて感情が読めない。男は三役しかないので、僕の役は石山先生になったはずだ。少しほっとする。「石山総合病院の看護婦、結城スズは由美ちゃん」「はい」 林さんは緊張している。「石山総合病院の医院長、石山先生はナベ」「はい」 やっぱりそうだった。安心すると同時に、本当に役者をやることになって僕も緊張してきた。「丸橋サトミの友人、城田マイは裕子ちゃん」「はい」 裕子ちゃんはにこにこしている。事前に知っていただろうから驚いてはいないのだろう。「三上ショウの母、三上トモコはみずとも」「はい」 みずともも緊張しているみたいだ。僕と同じく入部時にスタッフ希望と言っていた。「主人公たちの同僚、永瀬シオリは私で、以上になります。では続いて、今できてる分の台本を配ります」
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