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59.嫌悪

「よお、ジルダ」 歩いて伯爵家の門を出たジルダは、絶対に聞きたくない声を耳にした。「どこに行くんだ?乗せてやろう」 獣車の窓から顔を出していたのは、ナジームだった。「ごきげんよう。アシャール様。結構です。では」 いつも通りの上品さで、しかし早口でそう言うとジルダは再び歩き出した。「そう言うな。先日のことなら謝る。――それに、君と少しだけ話がしたいんだ」「わたくしにはありません。お話であれば、また、どこかの夜会でお会いした時に」「アバルト侯爵邸に行くんだろ?」 ナジームの言葉に、ジルダは足を止めて獣車の窓を見上げた。「以前君を見かけて、その――後ろをついて行ったことがあったんだ」「つまり、後をつけたと」 ジルダの容赦のない批判に、ナジームは苦笑いした。「まあ、そう言うことだ。気になる女性が不用心に貸し馬車なんかに乗ってたら心配するだろう?」 それでも後をつけたことには変わりない。 ジルダはやはり獣車に乗るのではなかったと後悔した。「明日から揚水ポンプの点検に帯同させてもらうんだ。それで、行く前に君に会いたかった」 ナジームの真剣な声に、ジルダは表情を緩めること無く、彼の顔を見た。「君らが北方の民族と呼んでる、俺たちアシャールの土地は、砂漠の影響で魔力が少ないのは知っているだろ?」 不意にナジームの口から出た北方の民族――アシャールの話にジルダは少しだけ興味を持った。 曽祖父は交易を結ぶために曾祖母と結婚し、アンドレア王国に来た。 だが、その後なぜか一度交易は中断され、再開したのは父が生まれた頃で、その交易にシトロン伯爵家は関わっていない。 曽祖父はジルダが生まれる何十年も前に亡くなっているし、交流など完全に途絶えている。 つまり、ジルダはアシャールの土地のことを何も知らないのだ。「そのおかげでアシャールは周辺の国からも魔獣からも侵略されることはなかった」 ナジームは続けた。「だが、この10年程で状況は変わってきた。周辺の国で魔獣の被害が深刻化すると、魔獣の被害の少ないアシャールの地に目を付け始めた。ネルフ――アシャールの言葉で王を意味するんだが、端的に言えば俺の親父が、周辺国から民族を守る為に、我々も国家として立ち上がるべきだって言いだしたんだ」「だから留学に?」 初めてジルダがまともに話しかけてくれたことが嬉
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60.婚約者の贈り物

 ジルダを目の前にして、カインは彼女の持つ優しい魔力を久しぶりに感じた気になった。 3日前も同じように目の前にいたのに、その時は相変わらず疎ましく感じていた。 だが、今日はどうだろうか。 この人はこんなに優しく温かい魔力をいつも自分に向けていたのかと自覚すると、カインは気まずさと心地よさをどう扱っていいか分からず、持て余していた。 これまでの態度が思い浮かばれて恥ずかしいし情けない。しかし、どこかでまだジルダを疎んじている自分がいる。 どこかで、「ジルダは自分を裏切った」という声が聞こえる気がするが、その声に抗いたい自分がいて、頭が混乱して考えがまとまらない。 日記の事やティン=クェンの事など聞きたい事が沢山あったが、まともにジルダの顔を見れない自分を隠したくて、手だけをジルダに預けて顔と体は横を向けていた。「カイン様――」 ジルダに名を呼ばれて、カインは飛び上がりそうになった。 ジルダの声を久しぶりに聞いた気がした。 こんなに落ち着いた女性の声だっただろうか?もっと舌足らずな幼い話し方ではなかったか――「カイン様の魔力が本日は安定していないようです。何かございましたか?」 カインの横顔を見つめながら、ジルダが問いかけた。「いつも通りだ。何もない――」 ジルダの方を見ないようにして、混乱を悟られないようそっけなく答えてから、カインは後悔した。 しまった――日記の事を切り出す機会だったのに。「そうですか――なるべく多めに魔力を吸収しておきますが、魔獣討伐は到着してすぐ行われるわけではありませんよね」 カインの対応の悪さには慣れているジルダは、特に気にする様子も見せずに答えた。 そして、部屋の隅に控えていた自分の侍女に目配せをすると、小さな包みを持ってこさせた。「こちらを」 ジルダは包みから、カインの瞳によく似た青い親指の先ほどの大きさの宝石が付いた首飾りを取り出すと、カインに差し出した。 首飾りの鎖には繊細な細工があしらわれており、赤みを帯びた金の鎖はどことなくジルダの髪を思い浮かばせた。「錬金術師に頼んで作ってもらったものです。――カイン様の魔力を安定させる効果があると思います」「錬金術師――?」 カインの脳裏に、いつかジルダと親しげだったあの錬金術師の顔が浮かんだ。 「あの、何という名だったか、以前屋敷に連れて
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61.支援

 イレリアはカインの出立を部屋から眺めていた。 なぜカインは昨日、急に席を立ったのだろう。自分が感情的になったからではない事は確かだ。 確認したくても、昨夜のあの表情を思い出すと、怖くてカインの前に立てなかった。 それに――。 さっきの事だ。ジルダが魔力吸収を終えて、帰って行く姿を窓から見ていたイレリアは自分の目を疑った。 いつもはサロンで別れると、すぐにイレリアの部屋に来ていたカインが、ジルダを車寄せまでエスコートして獣車を見送っていたのだ。 なぜ?カインはジルダ様を嫌っていたんじゃ―― それに、ジルダには求婚している男がいるはずだ。確か北方の民族の…… なのに、遠目から見たカインはジルダと離れ難い雰囲気に見えた。 そもそも二人は今年結婚を囁かれている婚約者同士だ。もしかしたら侯爵の口添えで関係を改善するような動きがあったのかもしれない。 そうなったら自分は―― イレリアの心にはっきりと、嫉妬と憎悪と言う感情が生まれた瞬間だった。「イレリア嬢の見送りはなかったね」 隊員が乗り合わせる獣車の中で、隣に座ったティン=クェンが言ったが、カインは答えなかった。 正直、イレリアが見送りに来なくてよかったと思っている自分がいる。 イレリアの事は愛している。 その気持ちに変わりはないはずなのだが、昨晩のあの笑みを見た瞬間、カインの心は凍り付いた。 まるで貴族じゃないか―― 貧民街にいたイレリアは貧しくとも美しく、精一杯生きていた。どんな表情も活き活きとして輝いていた。 だからカインはイレリアに心惹かれたのだ。 なのに、昨日見たイレリアは、まるで貴族のように上っ面だけの笑みを浮かべて取り繕おうとしていた。 カインは思い出しても不快感が拭えなかった。「イレリア嬢と言えば」 ダーシー卿が口を開いた。「社交界でもちきりだそうですよ。イレリア嬢の素晴らしさは」「ほお。例えばどんなだい?」 カインの代わりにティン=クェンが聞き返す。「私の妻から聞いた話ですが、なんでも貧民街の救済事業をなさっているとか――」 カインは自分の耳を疑った。 イレリアが?彼女はずっと侯爵家で教育を受けて、披露目を終えてからは社交に忙しいし、夜は自分と一緒にいたはずだ。 そんな話は一度も聞いていない。「その話を詳しく聞かせてくれないか?」「え?そうで
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62.傲慢な支援

 ヨルジュの提案はこうだった。 篤志家の炊き出しの予定は把握している。2日おきに城壁の近くにある、倒壊した危険な建物を撤去した小さな広場で行われている。その前にイレリアが炊き出しを行うのだ。「さすがに事業を全てとは行きませんが、炊き出し程度ならドレスを2、3着お売りになれば数回分の炊き出しの費用にはなります」 カインや侯爵から贈られたものに、お茶会や夜会などに合わせて飾り袖を作ったおかげで、イレリアのワードローブにはいっぱしの貴族令嬢ほどのドレスが並んでいる。 何度か手直ししたり、屋内用のドレスに作り替えたりしたものもあったが、おそらく贈った相手も覚えていない程の量だ。 ヨルジュの言う通り、いくつか売ってしまっても問題はないように思えた。「でも、今更ドレスを売っては怪しまれないかしら」 イレリアの不安に、ヨルジュは首を横に振って否定した。「イレリア様がお召しになったドレスは、どれも皆が記憶に留めていますので貴族相手には売れませんね。しかし、装飾を外し、手直しをすれば問題ありません。売値は下がりますが、それでも裕福な平民が喜んで購入する事でしょう」 外した装飾品はまた再利用するが、使用した糸なども良質の麻や綿のため売れる。 平民にとって服はとても高価なものだった。 生地を買って仕立てるのだが、その生地がひと巻きで平民のひと月分の収入程もするのだ。 そこから作れる服は2着ほどで、仕立ても針子への報酬は高額なので、余程でない限りは自分たちで行う。 町には古着屋もあるが、1着で生地代の半分以上もするとパン屋のおばさんが言っていたのを思い出した。 それでも、平民の中でも裕福な者たちは貴族を真似てドレスを着たりするのだ。 ほとんどは貴族から払い下げられたドレスだったり、下級貴族が売っていったものを古着屋で買うのだと。 イレリアは自分が今着ているドレスの値段など知らなかったが、それでもこの1着で平民が1年は遊んで暮らせるだろうことはわかっていた。 カインがイレリアのドレスは、全て最高級の物にするようにとアリッサに命じたからだ。 この暮らしも、貴族からの羨望も崇拝も、全てはカインが与えてくれたものだ。 カインを失うと言うことは、これら全てを失う。 イレリアはすぐさま準備に取り掛かるよう、ヨルジュに命じた。 ヨルジュの手腕により、全ての準備
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63.自尊心

 器を投げられ、石をぶつけられ、怒り猛る住民達に取り囲まれて、男達は内臓の煮物と血にまみれながら退路を断たれて立ち往生していた。「どけ!卑しい貧民が!」 男の言葉に住民達は更に激昂した。「俺らが卑しければ、イレリアを貶めようとしたお前らはなんだってんだ!」 農作業から帰ってきた男が、手にしていた鍬を振り上げて男達の荷車を叩き壊した。 車を牽いていたマーヴが怯えて逃げ出したが、止める者はいなかった。 荷車の切れ端や農具を持った住民達が、男達に詰め寄り、いよいよかというその時、篤志家の使いの者達が現れた。「何をしているんです!」 品のいい壮年の男性が人混みを掻い潜って中央に躍り出ると、酷く汚れた男の集団がそこにいた。 住民達は、口々に「こいつらがイレリアを陥れようとしたんだ」と叫び、興奮は納まることはなかった。「ひとまず落ち着いてください。――皆さん落ち着いて!」 ――壮年の男性の声は集団の声にかき消されていった。 その時、広場に一気に大量の水がぶちまけられ、人々は水の勢いに足を取られ転んだり流されて人垣がまばらになった。 誰かが放水のスクロールを使ったのだろう。突然の事に全員が呆気にとられ、その隙に粗野な男達の集団は人混みをかき分けて走り去って行った―― 侯爵邸でヨルジュから報告を聞いたイレリアは、思わずヨルジュを殴りそうになった。「あれほど、皆の扱いは丁寧にと言っていたのに――暴動になるほど彼らを怒らせるなんて……」 イレリアの声は怒りで震えていた。 ヨルジュは仕事のできる男だ。それは侯爵も認めている。 使いの男も、おそらくは働き者で面倒見のいい者を選んだのだろう。 しかし、貧民街の住民に対し、尊厳をもって接することができる人間などいないのだ。 多くの人は嫌悪か侮蔑、よくて憐みの目で貧民街の者を見る。 ただ家や仕事がなく、貧しいというだけで生きる機会さえ与えられない。 運良く生き延びても飢えと渇きと死の恐怖がずっと付きまとう。 働ける者は一生懸命に働くが、幼いイレリアがそうだったように、賃金は叩かれその日食うすらままならない程度の小銭を一日かけて稼ぐ。 それでもその賃金すら得られず、犯罪に手を染める者も中にはいた。 その道を踏み外したわずかな者のために、貧民街は卑しく汚らわしい場所として扱われていたのだ。 だが、
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64.揚水ポンプ

 イレリアを侯爵夫人の席まで案内すると、ロメオは「今日は女性だけの華やかな席ですから」と、爽やかに一礼して来た道を戻って行った。 その嫌味の無い洗練された言動に、招待された夫人たちは年甲斐もなくうっとりと溜息を漏らした。 茶会の話はロメオの恋人はまだ見つからないのか、いつ結婚するのかという話題から、いつしか昨日の事件の話へと移り変わって行った。「イレリア様の名を騙って暴動を扇動するなんて――」「イレリア様のお美しさに嫉妬した者の仕業ですわ」「お可哀想なイレリア様――」 いつの間に詳細を知ったのか、我も我もと情報を出し合った後、貴婦人達は口々にイレリアを慰めた。「ありがとうございます。皆様にそう言っていただけて、とても慰められますわ」 イレリアは侯爵夫人の隣に座って弱弱しく微笑んだ。「名を騙り貶めるとは本当に卑怯な事ですわ」 アバルト侯爵夫人が冷たい声で言うと、貴婦人達も皆一同に頷いた。「しかし一体誰が――」「誰であろうと、私のような卑しい身分の人間を貶めたところで、利益を得る貴族なんておりませんわ」 誰かが不安げに声をもらしたのを聞いて、イレリアは悲しそうに口元を抑えた。 貴族同士であれば、敵対する相手の家名に傷をつけ、名誉を失墜させる事ができても、イレリアは貴族ではない。 エスクード侯爵家に後見を受けてはいるが、何かあれば後見を破棄すればよいだけの話で、イレリア一人が被害を被るだけだ。 弱々しく目を臥せると、改めて自分の立場が脆く弱いものである事を痛感して悔しさがこみ上げてきた。「まぁ、――一人だけおられるではないですか」 フィッツバーグ子爵夫人が扇で口元を隠しながら愉快そうに言うと、その場の全員が一人の女性を思い浮かべた。 イレリアは、フィッツバーグ子爵夫人に口付けを贈りたいほど感謝した。 1日半の道のりを経て揚水ポンプに到着したカイン達は、休む暇もなく事前に送られている食料やスクロールなどの物資を確認していた。「やあ、エスクード隊長どの」 聞き慣れない、しかし聞き覚えのある声に顔を上げると、赤い髪に浅黒い肌をした男が立っていた。「ナジーム・アシャール……」 カインは思わず忌々しげに名を呼んだ。「気軽にナジームと呼んでくれ。俺もカインと呼ばせてもらう」「名呼びを許した覚えはない」 カインが即座に拒否の意思を
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65.再びの襲撃

「ポンプの魔法陣の補修が完了しました」 魔導士の声で、カインは周辺に向けていた視線をポンプの魔法陣へと移動させた。 所々掠れかけていた魔法陣は、魔導士によって真新しい魔法陣へと生まれ変わったようだ。「魔力の充填をお願いします」 言われて、カインは自分の半分ほどの大きさの魔法陣に魔力を注ぎ入れた。 結界の外では、ハンターやナジーム達治安維持隊が、周辺の魔獣を狩っていた。 毎年の光景だ。 半刻ほどかけて魔力を入れ終えると、少しだけ魔力が軽くなった気がする。 次は結界だ。魔導士が新しい魔法陣をポンプに刻み込んでいる。 結界は途切れさせるわけにはいかない。 その為、新しい魔法陣を刻み込んで結界を切り替えるのだ。 結界が途切れるのは切り替わる一瞬だけ――大丈夫。15の時から3度目だ。 ずっと危険なんてなかった。「魔法陣の展開が完了しました。カイン様の魔力が充填されましたら結界の切り替えを行います」 魔導士の言葉に、カインは頷くと魔法陣に魔力を充填し始めた。 結界が展開できるまでの魔力を入れ終えると、魔導士が結界の起動を始めた。 ほんの数分――水が湯に変わる程度の時間だ。 事前に周囲のめぼしい魔獣は倒したし、今もハンターやティン=クェンたちが警戒を怠らずにいてくれている――もちろん、カルマイ卿たちも。 それでもカインは警戒は怠らなかった。 昨日大丈夫だったから今日は大丈夫という事はないのだということを、昨年の夏の月に嫌というほど経験している。 そして、カインの予感は的中した。「ゴ――ゴブリンだ!」 カルマイ卿の怯えた悲鳴のような声が背後から聞こえた。「持ち場を離れるな!ゴブリンを餌に大型が来るぞ」 ティン=クェンの緊張した怒号が響いた。 「あとどのくらいだ」「す――数分程度かと」 カインは魔導士を守るためにここを離れるわけにいかない。 大丈夫。ティン=クェンがいる。カインとロメオを除いては、同世代の中では最も魔力が強く、その魔力制御は幼馴染の誰よりも上手な彼は、近いうちに王国の守護騎士に任命されると呼び声が高い実力の持ち主だ。 ティン=クェンが本気を出せば、カインですら5回勝負して2回は負けるほどの実力だ。――残りの3回は引き分けだったが。「結界の起動後、どのくらいもつ」 カインは落ち着きを取り戻して魔導士に尋ね
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66.黒幕

「さすがにあの辺に大穴を開けるわけにはいかないだろ?」 隊員たちのところへ帰る道中、ティン=クェンは笑いながら胸元からスクロールを取り出し、カインに見せびらかすようにひらひらと振ってみせた。「土のスクロールに炎のスクロール。持っててよかったよね。――ところで、カインは何しに来たの?」 意地悪い笑みを浮かべながら、ティン=クェンはカインの顔を覗き込んだ。 カインは苦虫を噛み潰したような顔でティン=クェンの顔を見た。 ニヤニヤと楽しそうに笑う顔は、子供の頃のままだ。この根性悪には何を言っても無駄だろうと諦めの溜息をついた。「本当にお前は――」「性格が悪いのはお互い様だよ」 ティン=クェンは、含みを持たせた口調でカインの二の句を継いだ。 この一年のことを言っているのは、重々に理解できた。 そう言われるとカインは何も言い返せない。それをわかった上でティン=クェンが言っているのは、カインも理解していた。「遠出とは言え、今は仕事中だぞ。ティン=クェン卿」 以前とは違う、親しみのこもった皮肉がカインの口から出て、ティン=クェンは嬉しかった。「そうだね。――この辺りの主要な大型魔獣はこれで大体駆除できたと思うんだけど」「ああ。元々そう数は多くなかったが、今回はかなりの数を掃討できたと思う。――ティン=クェン卿のおかげで」「問題は、なぜこの辺りにゴブリンが出没したのか――だね」 ティン=クェンの言葉に、カインは深く頷いた。「それも、結界の切れ間を狙って――だ」 二人は無言になりながら、隊員たちの元へ足早に歩を進めた。「下がれナジーム!」 森を抜けようとした辺りで、ラエル卿の悲鳴に似た声がこだました。 カインとティン=クェンはお互いの顔を見合わせると、すぐに声の方角へと駆け出した。「ラエル卿!」 木々が開けた場所に出ると、かなり先でラエル卿とカルマイ卿、そしてナジームが何かと戦っているのが見えた。 大型魔獣ではない。 ラエル卿とカルマイ卿を守るように、ナジームが剣を振るっている。 その姿は、まるで剣舞のように軽やかで美しかった。「カイン――オヴィーの群れだ」 ティン=クェンの声に我に返ると、ナジーム達を襲っている魔獣の正体が見えた。 膝丈ほどの体長しかない小型の肉食獣が、彼らを取り囲んで代わる代わる襲い掛かっている。 それは
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67.帰宅

「しかしなぜ伯爵がカインを狙うんだ」 ティン=クェンの疑問はもっともだった。カインもそれには同意したが、議会室でのあの笑みはそれ以外説明が付かない。「でも――オルフィアス伯爵は法務貴族だぞ」 議会に参加する貴族の中でも、裁判を司る貴族を法務貴族と呼ぶ。 エスクード侯爵とアバルト侯爵も法務貴族を兼務している。 つまり、それだけ王宮に近しい存在であり、そういう人物が果たして国を脅かそうとするのだろうかと、ティン=クェンは混乱していた。いや、それはカインも同じだった。「そうだ――だが」 ティン=クェンは、椅子に腰かけて頭を抱えるカインの傍に跪くと、カインの手を握った。「落ち着くんだ。僕もオルフィアス伯爵は何かあると思う。調べてみるよ。――だが、君は首都に戻ったらやることがあるんだろ?」 ティン=クェンはカインを見つめて微笑んだ。 そうだ――僕はジルダに会わなければいけないんだ。「オルフィアス伯爵の事は任せてくれ」 ティン=クェンの言葉に頷くと、カインは漸く安堵したように息を吐いた。 ほぼ同時に、ダーシー卿が執務室の扉を叩いた。「――以上です。あと、魔獣の素材は5日後に首都に到着しますし、魔石の評価は2日後に出るそうです。――こちらはいつもの通りでよろしいですか?」 ダーシー卿は今回の討伐の収支報告を読み上げ、カインに確認した。「ああ。僕以外の皆で分ければいい。みんなでうまいものでも食えばいいさ」「それなら、隊長の分はイレリア嬢の個人資産としてお与えになればいかがですか。これからも支援事業などで物入りになるでしょうし」 エスクード侯爵家の資産から考えると、魔石の収入なんて大した事はないのはわかっていた。 だが、エスクード侯爵家はあくまで後見であって、イレリア個人に資産などない。 恐らくカインはそんなことなど気にも留めないのだろうと、ダーシー卿は老婆心が疼いて、欲のない隊長に耳打ちした。 カインはそこで初めてイレリアの存在を全く忘れていた事に気付き、愕然とした。 イレリアに出会ってから1年近く経つと言うのに、一度たりとも忘れたことがなかった何よりも大切な人のはずなのに――カインの動揺にダーシー卿は気が付かず、「そういえば」と呟いた。「さっき王宮で聞いた話ですが、貧民街で暴動騒ぎが起きたらしいですよ。すぐに収まったそうですが、なん
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68.囁かれる悪意

「僕は君が貧民街に支援をしていただなんて知らなかった」 侍女に茶を用意させ、カインとイレリアはソファに向かい合って座った。 前まではずっと隣に座っていたのに、なぜ最近のカインはこんなに離れて座っているのかしら。 イレリアはぼんやりとカインを眺めていたが、カインの言葉に息を詰まらせた。「そして、ついさっき聞いた話だが、誰かが君の名を騙って暴動を扇動したと」 カインが言葉を続けると、イレリアは涙を流した。 自分に会えた喜びよりも、そんな事を気にするカインが腹立たしく、涙があふれてきたのだ。 私はこんなに寂しかったのに――その時、イレリアの目にカインの胸元に光る青い宝石が目についた。 カインは今まで装飾品の類を嫌っていて、首飾りなどは特に付けたことがなかった。なのに、なぜ? 考えるまでもなかった。 討伐に出る前は付けていなかった。そしてその時最後に会ったのはジルダだ。 ジルダからの贈り物なのだ。 そう言えばカインはジルダにフェリスの毛皮を贈っていた。 社交界で話題になっていたのを聞いた。あれだけの品質のフェリスを集めて上掛けを作るとなると、王族しか買えない絹のドレスと同じくらいの価値になるのだと。 何とも思っていない相手にそんなもの贈らない。 何とも思っていない相手からのものなんて身に付けない。 イレリアの中で、嫉妬と憎悪が溢れかえるようだった。 だが、その対象がジルダなのかカインなのかは、イレリアにはもう分からなかった。 「私――わからないの。でも、アバルト侯爵夫人のお茶会で言われたわ――私の名を穢して喜ぶ人物は一人だけだと……」  泣きながら訴えるイレリアに、カインはどこか他人を見るような気分だった。 愛しいという感覚は確かにある。 しかし、彼女に触れたいとは思わなかった。 泣いている彼女を見て、心が突き動かされる衝動も感じている。 抱きしめて口付けをして――だが、それは他人の衝動のようにも感じられた。 衝動が沸き上がるたび、何か温かいもので抑えられている。そんな感覚だった。「ジルダが――?」 カインは漸く言葉を発することができた。 だがカインの葛藤は非常に長く感じたが、時間にすると一瞬の事だったらしい。 イレリアは溢れ出る涙をぬぐう事もせずに、カインを見つめた。「カイン――私はあなたに相応しい女性になりた
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