彼が振り返る前に、私はもういない
越智時人(おち ときと)が、私が働く市役所に迎えに来た。
窓口越しに、彼は突然、一通の婚姻届受理証明書を差し出した。
「実はな、これ、偽物なんだ。お前との再婚も、ただの暇潰しだ」
私が反応する間もなく、彼はもう一枚の証明書を手にひらりと振った。その口元は、何かを甘く思い返すようにほころんでいた。
「昨日、花華がな、俺の上に座ってキスしてきて……それがもう、たまらなくてさ。つい、こっちの本物を彼女と貰ってきちまった」
二度目の裏切り。バケツの冷水を頭から浴びせられたような気持ちだった。
信じられない。
私は彼を見つめ、震える声を絞り出した。「……どうして?」
「お前がバカだからだよ」
時人は、私の瞳が徐々に赤くなっていく様子を楽しそうに眺めながら、薄ら笑いを浮かべて、一枚のティッシュを差し出してきた。
「前に花華と三年間こっそりやってたときも、お前は最後まで気づかなかった。だから彼女と賭けたんだ。今度はどのくらいで気づくかってな」
そう言って、彼の視線が一瞬、私の首筋に残るキスマークに落ちる。一拍置いて、彼は肩をすくめた。
「花華は『せいぜい一年』って言ってた。だからこの一年、俺はわざと隙をたくさん見せてきたんだ。
でもな、こっちがもう演じるのに飽きても、お前は気づかなかったなんて。
今日が賭けの最終日だ。彼女に勝たせてやりたくて、機嫌を取ってやりたいんだ。
だから仕方なく、こうして自分から白状したってわけだ」