これからは月は堕ちない
「院長先生、今回の蔵原市の研究プロジェクトに参加することに決めました」
入江月乃(いりえ つきの)の声は揺るぎなく、眼差しには一片の迷いもなかった。
物理研究院の院長は顔を上げ、鋭い視線で彼女を見つめた。
「本当に決めたのか?行けば、少なくとも十年は戻ってこられないかもしれんぞ」
月乃は一度目を伏せ、そしてゆっくりと顔を上げた。その手には、すでに準備された申請書が握られており、迷うことなくそれを差し出した。
院長はしばし沈黙し、熟考の末、印を押した。
「七日後、手続きが完了したら、迎えを手配しよう」
背を向けて立ち去ろうとしたその瞬間、月乃はスタッフたちがひそひそと話している声を微かに耳にした。
「ねえ、あれって東条奥さんじゃない?研究基地って、すごく辺鄙な場所らしいよ。十年は戻れないかもしれないって……東条社長がそんなの許すと思う?」
月乃が部屋を出た時、その瞳には、自嘲と哀しみが滲んでいた。
一桐市では誰もが知っていた……東条優成(とうじょう ゆうせい)は入江月乃を深く愛していたと。彼は命を賭けてでも、彼女を守ろうとしていた。
そして彼女自身も、優成と共に一生を過ごそうと思っていた。
しかし、一ヶ月前、彼がなんと彼女の学生の一人と関係を持っていたことを偶然知ってしまったのだった……