虚無の世界から現に引き戻された木蓮は、スマートフォンに表示された田上伊月の名前を凝視した。なぜ、今、このタイミングで…。呼び出し音は執拗に鳴り続け、静寂と重苦しい空気で満たされたリビングを切り裂いた。木蓮の震える指が、ためらいながらもボタンを押した。無機質で冷たいスマートフォンから、切羽詰まった声が響いた。「もしもし、木蓮さん!木蓮さんですよね!?」田上の声は、いつも陽だまりのような温かさを湛えていたが、今は夜の闇に溶け込むような緊迫感に満ちていた。「……はい、私です」と木蓮は掠れた声で答えた。電話の向こうから、安堵の溜め息が耳に届いた。木蓮の心は、睡蓮の「将暉は私のもの」という叫びと、包丁を握った瞬間の虚無に引き裂かれていた。キッチンのシンクには、慌てて戻した包丁が冷たく光り、彼女の危うい一瞬を静かに訴えた。田上の声は、そんな木蓮を現実へと繋ぎ止めた。かつてのカウンセリングルームで、田上の温かな手が彼女の凍てついた心を溶かした記憶が蘇った。田上の声が、彼女の心に小さな希望の光を灯した。
「田上さん、こんな夜にどうしたんですか?」木蓮の声は震え、スマートフォンを握る手に力がこもった。戸惑う木蓮の姿が、ソファに座らせたティディベアの無垢な瞳に映る。
「木蓮さんのことが気になって電話しました」
田上の声は、切迫感を帯びながらも、カウンセリングルームでの陽だまりのような温かさを残していた。彼は、木蓮がカウンセリングルームのドアを閉める際の背中に、不穏な影を感じたという。個人情報だと承知しながら、カルテのデータから木蓮の携帯電話番号を探し出し、いてもたってもいられず電話をかけた。「田上さん、二
将暉と睡蓮はゲストルームのドアを閉じた。甘えるような睡蓮の涙声に、応える将暉のそれはこれまで聞いたことがないほどに優しかった。一人取り残された木蓮は、ショルダーバッグを手に取った。重苦しいリビングの空気から逃げるように、木蓮はベッドルームへと駆け込んだ。そこにあったのは孤独と痛みだけ……彼女の心は悲鳴をあげていた。広すぎるベッドに将暉の姿はなく、結婚してから肌の触れ合いは一度もなかった。夫婦になればもう一度振り向いてくれるかも、何かが変わるかもと僅かな期待を抱いたが、繋いでいた手はとうに離れ、二度と戻ることはない。木蓮は溢れる涙を堪え、ベッドに身体を横たえた。枕に触れる髪から、金沢港の海の匂いが漂い、頬を撫でる潮風と田上伊月の優しい微笑みが脳裏に浮かんだ。その温かな眼差しは、木蓮をそっと包み、凍てついた心を溶かした。涙が頬を伝い、彼女の手は宙に差し出された。「…田上さん」思わず漏れたその名に、木蓮は驚きを隠せなかった。いつの間にか田上は、今にも割れそうな薄氷の上で、倒れ掛かった自分を支える大切な人になっていた。睡蓮の「将暉は私のもの」や「そんな子、堕ろせばよかった」という叫び、将暉の「離婚はしない」という冷たい言葉が、木蓮の胸を抉った。ベッドルームの静寂が孤独を深める。田上の声…「木蓮さんの幸せはなんですか?」…が遠く響き、彼女は涙の中で小さな希望を探した。「私の...幸せ」木蓮は自分に言い聞かせるようにその言葉を繰り返す。「…」その時、木蓮はベッドルームのチェスト脇に置かれたスーツケースに気づいた。ゆっくりと起き上がり、その前に佇む。ランプシェードから漏れる柔らかな灯りに映し出された彼女の横顔は、思い詰めながらも決意に満ちていた。もう、キッチンで包丁を握ることはしない……お腹の双子のためにも、幸せになろう。木蓮はショルダーバッグに淡い桜色の母子手帳が二冊入っていることを確認し、胡桃色と亜麻色のティディベアをスーツケースに押し込んだ。狭い空間で、綿の入った顔は潰れ、腕は折れてしまった。その愛らしい姿に、彼女は小さく微笑んだ。この二体のティディベアは、双子にあげよう……喧嘩しないように、髪の色と同じものを選ぼう。木蓮の心に、希望の灯火と温かさが静かに広がった。木蓮はチェストの重い引き出しを開け、束ねた書類の奥から色褪せた銀行の預金通帳を取り出した。そこに
将暉との言い争いに心底疲れ果てた木蓮は、倒れ込むようにソファに身を預けた。「離婚出来ない」と彼が言い放った絶望感が、彼女の心を冷たく締め付け、瞼を閉じた。膝の上の胡桃色のティディベアの重さだけが、彼女の唯一の救いだった。その無垢な瞳は、幼い頃の睡蓮との確執を思い起こさせたが、今は木蓮の孤独をそっと抱きしめているようだった。大きく溜め息を吐いたとき、ゲストルームのドアが静かに開いた。足音も立てずに近づく気配に、殺伐としたものを感じた木蓮は、思い切り振り返った。そこに立っていたのは、青白い顔で思い詰めた表情の睡蓮だった。彼女は木蓮のショルダーバッグを一瞥し、淡い桜色の母子手帳を思い出したのか、口元を醜く歪ませた。「そんな子、堕ろせばよかったのに…」睡蓮の声は低く、虚ろな目に妖しい光が湛えられていた。「睡蓮、馬鹿なこと言わないで」木蓮は震える声で反発したが、睡蓮は小さくクッと笑った。「そんな愛されない子なんていらないじゃない」その言葉は、木蓮の心を鋭く抉った。睡蓮の目には、「花梨」を失った痛みと、将暉への執着が渦巻いていた。「今からでも遅くないんじゃない?」睡蓮は木蓮に堕胎を迫るように食い下がった。彼女の声は低く、絞り出すように沈んでいた。「もう遅いわ、それに私はこの子たちを産んで育てる」木蓮は腹に手を当て、双子の鼓動を感じながら、厳しい目で応えた。睡蓮は怯むことなく言葉を続けた。「愛されないのに?将暉はあなたの子なんて愛さないわ」その目は、現実と虚無を彷徨うような危うさで
漆黒の金沢港から金沢駅西へと向かう一直線の道路は、車もまばらで、信号機は全て青色で交差点を滑らかに通り過ぎた。低いエンジン音が響く車内で、木蓮は窓の外に流れる街灯とネオンの光をぼんやり眺めた。この静かな空間がもう少し長く続けば良いのに……そんな思いが、彼女の心をそっと包んだ。田上伊月のセダンは、夜の金沢を静かに走り、アクアブルーのフェリーターミナルが遠ざかった。後部座席には、胡桃色のティディベアが無垢な瞳で座り、淡い桜色の母子手帳がショルダーバッグに収まっていた。木蓮は腹に手を当て、双子の鼓動を感じながら、睡蓮の「将暉は私のもの」という叫びや、割れた玉子の残骸、包丁を握った危うい瞬間を遠く感じた。田上はバックミラー越しに、車窓を眺める木蓮の横顔を窺い見た。カウンセリングルームの白衣を脱いだ彼にとって、今の木蓮は患者ではなく、一人の壊れそうな女性だった。彼女の胡桃色の髪と、幼い少女のような横顔に、胸にあたたかなざわめきが広がった。それはカウンセラーとしての枠を超えた、純粋な保護欲だった。木蓮の孤独……睡蓮の裏切り、将暉との愛のない結婚、双子の未来への不安……を知る彼は、彼女を救いたいと願った。田上のハンドルを握る手に力が入った。やがて静かな住宅街に、田上伊月のセダンが滑り込んだ。街灯の柔らかな光が車を照らし、夜の静寂がエンジン音を優しく包んだ。彼は後部座席のドアを静かに開け、木蓮を優しくエスコートした。木蓮はお腹に手を当て、双子の鼓動を感じながら、ゆっくりと車から降りた。田上のさりげない気遣いが、彼女の凍てついた心を温かく溶かした。「ありがとうございました」木蓮は胡桃色のティディベアを胸に抱き締め、深々とお辞儀をした。その無垢な瞳のぬいぐるみは、幼い頃の睡蓮との確執を思い起こさせたが、今、田上の存在が
田上伊月は海風で乱れた髪を掻き上げ、木蓮の涙を見つめた。アクアブルーのLEDライトが金沢港フェリーターミナルの海面に揺れ、静かな波音が響いた。彼は一呼吸置き、「では木蓮さん、あなたの幸せを考えてみましょう」と穏やかに問いかけた。膝の上で両手を握り、前屈みになったその姿は、カウンセリングルームの温かな眼差しを思い出させた。木蓮はその問いに即答できず、口篭った。「…私の、幸せ」彼女の声は震え、夜の海風に消えそうだった。「そうです、木蓮さんの幸せです」田上はゆっくりと頷き、彼女の心に寄り添った。木蓮の中で、これまでの出来事が嵐のように往来した。本来ならば、将暉との間に授かった双子と穏やかな日々を送っているはずだった。「…幸せ」だが、将暉は木蓮と婚約していたにもかかわらず、この二年間、彼女を欺き、睡蓮との逢瀬を繰り返していた。睡蓮の突然の帰国、妊娠、そして木蓮の誕生日での将暉からの一方的な婚約破棄…お腹に双子を抱えたまま、木蓮は途方に暮れた。「幸せって…何…」そして先日、木蓮が将暉の子供を身籠っている事実が発覚した。彼女は双子の子供たちが和田コーポレーションの後継ぎとして輝かしい未来を約束されるなら、と将暉との愛のない結婚を決めた。だが、そこには温もりも会話もない、寒々しい新婚生活しかなかった。「将暉さんと暮らしていて、本当に幸せですか?」田上の問いは、木蓮の心を鋭く抉った。「幸せ?幸せを感じたこと
車窓に流れる夜景は、木蓮の沈んだ心を幾分か軽やかにした。金沢の街のネオンサインが、色とりどりに瞬き、雑踏の喧騒が遠く聞こえた。田上伊月のセダンは、煌びやかな街をすり抜け、金沢港フェリーターミナルへとハンドルを切った。時速60kmのヘッドライトが黒い波間に消え、エンジンが静かに止まった。ターミナルビルはアクアブルーのLEDライトに輝き、まるで夜の海に浮かぶ船のようだった。木蓮は窓の外を見つめ、胸の奥に小さな温もりが広がるのを感じた。「くまちゃんはお留守番にしますか?一緒に行きますか?」田上の陽だまりのような声に、木蓮は顔を真っ赤に赤らめ、慌てて後部座席に胡桃色のティディベアを座らせた。そのぬいぐるみは、幼い頃の睡蓮との確執を思い起こさせたが、田上の軽やかな言葉がその痛みを和らげた。木蓮は田上のエスコートで車を降り、エスカレーターに乗った。彼は身重の木蓮を気遣い、さりげなくその身体を支えた。その温かな手は、カウンセリングルームでの優しい眼差しを思い出させ、木蓮の心に希望を灯した。リビングに残した割れた玉子の残骸、睡蓮の「将暉は私のもの」という叫びが、遠い記憶のように薄れた。だが、睡蓮が家を飛び出し、将暉が追いかけた不在は、木蓮の胸にまだ小さな棘を残していた。彼女は腹に手を当て、双子の鼓動を感じながら、田上の背中に視線を向けた。ターミナルの光が海面に映り、静かな波音が響いた。「ちょっと座りましょうか」
木蓮は田上を待つ間、ソファに座り、胡桃色のティディベアを胸に抱き締めていた。そのフワリとした手触りと、無垢な瞳が、彼女のざわついた心を静かに落ち着けた。木蓮は小さく溜め息を吐き、幼いあの日に思いを馳せた。父親が色違いのティディベアを箱から取り出したあの誕生日、睡蓮が亜麻色のティディベアを選んでいれば、姉妹の確執はこれほど深くはならなかったのかもしれない。胡桃色のティディベアを睡蓮に取り上げられた小さな木蓮が、思い出の片隅で今も泣いている。彼女は涙を滲ませ我慢したが、心の奥に小さな傷が刻まれた。あの傷は、睡蓮が将暉を愛し、木蓮の誕生日を壊した夜、そして「花梨」の死産を経て、更に深い溝となった。テーブルの上のスマートフォンが短く震え、木蓮の心臓が緊張で跳ねた。彼女はソファから飛び起き、胡桃色のティディベアを胸に抱いたまま、慌ててスマートフォンを手に取った。壁掛けの時計を見上げると、針は田上が電話を切ってからまだ十分も経っていないことを示していた。車のハンドルを握る田上伊月が、いかに急いで駆けつけてきたのかが窺い知れた。汗ばんだ手でスマートフォンを握り締め、木蓮は通話ボタンを押した。「もしもし」と掠れた声で呟くと、電話の向こうから田上の柔らかな声が響き、まるでカウンセリングルームでの微笑みが目に浮かぶようだった。その声は、睡蓮の「将暉は私のもの」という叫びや、包丁を握った危うい瞬間を遠ざけ、木蓮の凍てついた心に温もりを注いだ。「田上さん」「お待たせしました。駐車場まで降りて来られますか?」「はい」