ゆりかごの中の愛憎

ゆりかごの中の愛憎

last updateLast Updated : 2025-07-09
By:  雫石しまUpdated just now
Language: Japanese
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綾野 菜月(28歳)は綾野住宅株式会社の取締役の長女として生まれた。 婿養子で会社社長である夫、綾野 賢治(35歳)は高校同窓会で再会した元恋人の如月 倫子(35歳)と不倫関係に陥る。 その事実を知った菜月は離婚を決意する。 そんな菜月の癒しは母の連れ子、血の繋がらない弟の綾野 湊(26歳)とのひとときだった。 不倫、裏切り、横領、サスペンス、恋愛、家族愛 これらを楽しんで頂ける作品です。

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Chapter 1

ゆりかご

 黒い瓦の総檜造りの和風家屋。母屋の離れには鹿おどしが響き、白に朱色の錦鯉が揺らぐ瓢箪池、辰巳石の門構え、赤松の枝が曲がりくねり空を目指し針葉樹の陰を作る。深緑のヤツデ、密やかな刈安色の石蕗、珊瑚色の石楠花しゃくなげ、白い灯台躑躅どうだんつつじの垣根、前庭には青々とした芝生が広がる。

菜月なつき、菜月、起きて」

 軒先に揺れるハンギングチェアはゆりかごのように揺れ菜月を眠りに誘った。その手のひらの下には臙脂色えんじいろの装丁が白く擦り切れた赤毛のアンの本があった。

「・・・・菜月」  

 菜月は陶器のような白い肌をしていた。伏せたまぶた、長い睫毛まつげは薄茶の瞳をそっと隠し、浅い眠りはぽってりと愛らしい唇で寝息を立てた。

「菜月、ねぇ、菜月?」  

 柔らかな日差しに菜月の顔を覗き込むのは血の繋がらない弟のみなとだ。

「菜月、起きて」  

 湊の切れ長の目は菜月を愛おしそうに見下ろし、その薄い唇は繰り返し義姉の名前を耳元で囁いた。

「起きて、菜月。もう帰る時間だよ」

 菜月が目をます気配はない。

(・・・・・・・・)  

 湊はハンギングチェアを揺らさないようにそっと菜月へと屈み込んだ。もう少し、あと少しで互いの唇が触れる距離で菜月の息遣いを感じた。

「・・・・あ、湊?」  

 菜月の閉じた長いまつ毛がゆっくりと開き、湊は弾かれるように顔を離した。

「なに、どうしたの?」

「もうすぐ夕方だよ?賢治けんじさんがマンションに帰る時間じゃないの?」

「あっ!もうそんな時間?!」

 賢治とは菜月の夫だ。一年前に結婚した。それは二年前の事だった。いつまでも義弟の湊に甘え離れようとしない菜月に業を煮やした綾野建設あやのけんせつ株式会社の社長であり父親の綾野郷士あやのごうしが縁談の話を持ちかけた。

 鹿威ししおどしの音が響く座敷に呼び出された菜月は普段とは面持ちの異なる物々しい雰囲気の両親を前に縮こまった。

「菜月、もう湊、湊と言う歳でもないだろう。いい加減観念して見合い話を受けたら如何だ」

「お父さん」  

菜月は慌てた。

「今度の相手は条件も学歴も申し分ない。見た目も悪く無いだろう」

「そうだけど」  

菜月はこの縁談を断ろうと必死だった。

うちの会社綾野住宅と深い繋がりがある会社の息子なんだよ」

「うん」  

然し乍ら、郷士の口調は有無を言わさぬ物言いだった。

「会うだけ会ってみてくれ」

「・・・・・分かりました」

 菜月は父親から是非にと勧められ、見合いの席で将来の夫となる四島しじま工業株式会社の三男、 四島賢治しじまけんじと出会った。第一印象は悪くなかったが会話の端々はしばしに軽薄さを感じた。

「はじめまして、四島賢治です」

「綾野菜月です」

「お綺麗ですね」

「そんな事・・・ありません」

「いえいえ、本当の事ですよ。こんな美しい方と結婚出来るなんて幸せ者です。親父に感謝しないと」

 そしてこの婚姻は所謂いわゆる、政略結婚だった。

 菜月はこれまで何度か見合いをしたがどの男性とも縁付かなかった。それは相手の男性を、義弟の湊と比べてしまう事が往々おうおうにしてあったからだ。

「菜月さん」

「なに、お母さん、どうしたの思い詰めた顔して」

「四島さんとのお見合いなんだけど」  

 今回の見合い相手の賢治については母親の ゆき も好ましく思わなかったようで、「菜月さんが気乗りしないのなら、このお見合いはお断りしても良いのよ」と言ってくれた。 「そんな勝手な事は許さん!」  結局、父親の郷士ごうしに押し切られた形でこの縁談はまとまった。

「菜月さん、今後ともよろしく」

「はい。こちらこそよろしくお願い致します」」

 賢治は高学歴で上背もあり見栄えも良かった。しかも一級建築士の資格も持っていた。申し分のない相手だった。

(・・・いつか好きになれるだろう)

 見合いから結納、入籍、結婚式と粛々と事は進んだ。賢治は婿養子となり、綾野賢治あやのけんじと名を変え菜月の夫となった。 (・・・きっと好きになれるだろう)  然し乍ら新婚旅行先での初めての夜、菜月は賢治に対して違和感を感じた。賢治の指先が肌に触れた瞬間に鳥肌が立ったのだ。それは怖気おぞけと表現しても差し支えなかった。

「菜月さん、大切にするよ」

「は、はい」

 これまで口付けさえした事のない相手と一夜を共に過ごしたが初めてのセックスは一方的で激しい痛みを伴った。ベッドのシーツには赤い染みが出来た。

「なに、菜月さんははじめてだったの?」

「・・・・はい」

「なんだか得した気分」

「そうですか」  

 鼻歌混じりに煙草を吸い始めた賢治の後ろ姿に愛情は微塵みじんも感じられなかった。菜月はこの賢治おとこに処女を捧げたのだ。 (こんな事を言う人を本当に愛せるの?)  それでも菜月は良き妻であろうと慣れない家事に勤しみ毎朝笑顔で賢治を会社へと送り出した。

「菜月、今夜いいか?」

「きょ、今日は生理なの」

「なんだ、それなら仕方ないな!おやすみ!」

「おやすみなさい・・・」  

 ただ夜の営みセックスは鳥肌が立ち苦痛でしかなかった。賢治も菜月に拒否されている事を薄々気付き始めたらしくベッドの中では背中合わせに眠る日が続いた。 (これって、セックスレス、よね)  今後、綾野家の跡継ぎをと両親に望まれた時、手を繋ぐ事さえ難しい賢治とどうすれば良いと言うのだろう。

 そんな賢治は菜月が綾野の家に入り浸りする事を好ましく思っていない。ハンギングチェアに寄りかかっていた菜月の顔は青ざめた。空を見上げれば夕焼け空、賢治が帰宅する時間だ。

「賢治さんに怒られない?」

「ど、どうしよう」

「マンションまで車で送って行くから早く支度して」

「うん、ありがとう、いつもごめんね」

 それでも菜月と賢治は傍目はために見れば仲睦まじい新婚夫婦に見えた。ただひとつ湊には賢治について少し気掛かりな事がある。  先週の金曜日の事だ。賢治の黒いフラッグシップミニバン、アルファードが自宅マンションを通り過ぎ深夜の繁華街へと走り去ったのを見掛けたのだ。 (こんな時間にどこへ行ったんだ)  見間違いだろう、新婚一年目で浮気をするなんて有り得ない。

湊は最悪の事態を打ち消し平静を装っていたが、菜月の言葉にそれはもろくも崩れた。

「湊、聞いて!」

「な、なに・・・・どうしたの急に」

 湊のBMWの助手席に乗り込んだ菜月が珍しく声を荒げた。

「なんだか最近、賢治さんから変な匂いがするの!」

「どんな匂いなの?」

「ムスク系の柔軟剤だと思う!もう頭が痛くなる!」

(まさか・・・・香水?)

「嫌いな匂いなの!賢治さんは笑ったけど重要案件よ!」

「賢治さんはなんて言ったの?」

「会社の事務の女の子の柔軟剤だよって!」

「そう」

 賢治は湊と同じ綾野住宅で働いている。会社内に柔軟剤の匂いをき散らすような女性社員は一人もいない。 (これは、まさか)  湊は指先に力を入れて車のハンドルを握った。

「あっ!もう帰ってる!どうしよう」

「そんなに怯えなくても大丈夫でしょ?」

「だって凄く機嫌が悪くなるの」

 賢治の黒いアルファードが駐車場に停まっている事を目視した菜月は慌てて助手性のドアを開けた。

「湊、送ってくれてありがとう!」

「お礼は良いから、早く行って!」

「うん!おやすみなさい!」

「おやすみ」  

 ゆりかごのようなハンギングチェアに揺られる菜月。菜月の涙は何よりも重い。菜月を悲しませる事は絶対に許さない。湊はアクセルを目一杯めいっぱい踏み込んだ。

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ゆりかご
 黒い瓦の総檜造りの和風家屋。母屋の離れには鹿おどしが響き、白に朱色の錦鯉が揺らぐ瓢箪池、辰巳石の門構え、赤松の枝が曲がりくねり空を目指し針葉樹の陰を作る。深緑のヤツデ、密やかな刈安色の石蕗、珊瑚色の石楠花しゃくなげ、白い灯台躑躅どうだんつつじの垣根、前庭には青々とした芝生が広がる。「菜月なつき、菜月、起きて」 軒先に揺れるハンギングチェアはゆりかごのように揺れ菜月を眠りに誘った。その手のひらの下には臙脂色えんじいろの装丁が白く擦り切れた赤毛のアンの本があった。「・・・・菜月」   菜月は陶器のような白い肌をしていた。伏せた瞼まぶた、長い睫毛まつげは薄茶の瞳をそっと隠し、浅い眠りはぽってりと愛らしい唇で寝息を立てた。「菜月、ねぇ、菜月?」   柔らかな日差しに菜月の顔を覗き込むのは血の繋がらない弟の湊みなとだ。「菜月、起きて」   湊の切れ長の目は菜月を愛おしそうに見下ろし、その薄い唇は繰り返し義姉の名前を耳元で囁いた。「起きて、菜月。もう帰る時間だよ」 菜月が目を醒さます気配はない。(・・・・・・・・)   湊はハンギングチェアを揺らさないようにそっと菜月へと屈み込んだ。もう少し、あと少しで互いの唇が触れる距離で菜月の息遣いを感じた。「・・・・あ、湊?」   菜月の閉じた長いまつ毛がゆっくりと開き、湊は弾かれるように顔を離した。「なに、どうしたの?」「もうすぐ夕方だよ?賢治けんじさんがマンションに帰る時間じゃないの?」「あっ!もうそんな時間?!」 賢治とは菜月の夫だ。一年前に結婚した。それは二年前の事だった。いつまでも義弟の湊に甘え離れようとしない菜月に業を煮やした綾野建設あやのけんせつ株式会社の社長であり父親の綾野郷士あやのごうしが縁談の話を持ちかけた。 鹿威ししおどしの音が響く座敷に呼び出された菜月は普段とは面持ちの異なる物々しい雰囲気の両親を前に縮こまった。「菜月、もう湊、湊と言う歳でもないだろう。いい加減観念して見合い話を受けたら如何だ」「お父さん」  菜月は慌てた。「今度の相手は条件も学歴も申し分ない。見た目も悪く無いだろう」「そうだけど」  菜月はこの縁談を断ろうと必死だった。「うちの会社綾野住宅と深い繋がりがある会社の息子なんだよ」「うん」  然し乍ら、郷士の口調は有無を言わさぬ物言いだった。
last updateLast Updated : 2025-07-06
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湊と菜月
 菜月と湊の出会いは遡さかのぼるること十四年前、綾野の家の座敷だった。菜月の母親は菜月が物心つく頃には病気で還らぬ人となっていた。以来、郷士は男手ひとつで(家政婦の多摩さんもいるが)菜月を育てていた。「菜月、ちょっと来なさい」   それは菜月が中学二年生に進級したばかりの四月、自室で数学の宿題に頭を悩ませていた時の事だった。父親のいつになく緊張した声色に何事かと座敷に顔を出すと色白で優しげな面差し、薄紫に藤の柄の色留袖を着た上品な女性が正座していた。「菜月、父さんの友だちだ」「お友だち?」「そうだ」「はじめまして、菜月さんね?」「はい、はじめまして」   紹介された女性は ゆき と名乗り三十六歳だと言った。 ゆき は度々クッキーや手作りのマドレーヌを持って遊びに来た。父親は始終笑顔で、お手伝いの多摩さんも話し相手が出来たと喜んでいた。  それから二ヶ月経った頃、ゆき が一人の青年を連れて綾野の家を訪ねて来た。「こんにちは菜月さん」「 ゆき さん、こんにちは、この人は誰?」 ゆき はその青年の肩に手を添えながらお辞儀をするようにと促し、青年はポリポリと頭を掻きながら頭をペコリと下げた。「私の息子の 湊みなと 、よろしくね」「湊、さん」 「はじめ・・・まして」「初めまして、こんにちは」 湊 は上背があり大人びて見えたがどこかあどけなく、菜月はそのアンバランスさに魅力を感じた。白いシャツにジーンズがよく似合っていた。 (うわ、かっこいい)  菜月は胸のときめきを感じ、その整った顔立ちに見惚れた。「菜月さん、湊 は小学五年生なの。色々教えてあげてね」「・・・・・えっ!五年生!?」 まさか目の前の青年が年下でまだ小学生だと知った菜月は驚きを隠せなかった。湊 もまた、菜月の透き通るような美しさに心臓を鷲掴わしずかみみされた。(か、可愛い・・・な、菜月ちゃん) お互いに一目惚れだった。「ねぇねぇ、湊 くん」「湊 でいいよ」   湊 は覗き込む菜月の薄茶の瞳に顔を赤らめた。「湊 って綺麗な名前だね、何か意味があるの?」「うん、お父さんが海上自衛隊に勤めていたんだ」「だからみなと、船の港だね」「そうなんだ」「お父さんは船の上で働いているの?」「僕が小さい頃に癌で死んじゃったんだ」「・・・・ごめん」「気にしないで」   
last updateLast Updated : 2025-07-06
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招かざる訪問者
 桜並木が続く犀川さいがわでは鮎釣りの長い竿が何本もルアーを川面に投げ入れ初夏の味覚を求めている。御影大橋みかげおおはしの河川敷には小型犬のリードを持ち散歩を楽しむ高齢夫婦の仲睦まじい姿や、堤防に腰掛け賑やかな高等学校生たちの姿があった。   そんな河川敷を見下ろす南向きの五階建てマンション、グラン御影みかげが菜月と賢治の自宅だった。  何事にものんびりと浮世離れした菜月娘を憂うれいた郷士父親が綾野住宅所有物件の分譲マンションを娘夫婦に当てがった。ただしマンションの登記名義人は綾野菜月となっていた。   グラン御影みかげはセキュリティ対策が万全で、マンションコンシェルジュ常駐は勿論の事、防犯カメラも複数台設置、防犯警備会社は365日24時間体制で監視に当たっている。マンションエントランスは暗証番号のオートロック式、自宅玄関にはモニターフォン、当然シリンダーキーと徹底している。さらに歩いて500mの位置に御影みかげ交番があった。「ええ、お父さん、こんなの面倒くさい」「お前は間が抜けているからな!これでも足りないくらいだ」「えええええ」 案の定、菜月は羽毛布団のセールス業者を招き入れ、要いりもしない羽枕はねまくらを買う羽目になり郷士に叱責しっせきされた。この件に関しては 湊 も頭を悩ませ、抜き打ちでマンションを尋ねてみればインターフォンで声を掛ける前にエントランスの扉が開いた。「菜月、駄目じゃない!」「えぇ?なんで・・・ 湊 だもの、普通開けるでしょう?」「僕の後ろに強盗犯がいたらどうするの!」「えっ! 湊 が大変!」「それはもしもの話!大変なのは菜月だよ!とにかく誰彼だれかれ構わず簡単にマンションの中に入れない事!」「はあ〜い」「本当に分かってるの!?」「うん!」 菜月はそう笑顔で答えたが本当に分かっているのかいないのか、不安しか残らなかった。 その日は朝から曇り空で菜月はソファに座りベランダに干した洗濯物を眺めながら迷っていた。このまま雨が降らなければ綾野の家に遊びに行ける、けれど雨が降れば庭先のハンギングチェアで微睡まどろみながら本を読む事は出来ない。 (雨が降って来たらお洗濯物も濡れちゃうし、今日は家にいようかな)  大きく溜め息を吐いた菜月はキッチンに向かった。ケトルを火にかけぼんやりとそれを眺めた。(・・・・このままで本
last updateLast Updated : 2025-07-06
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白檀の香り
 湊は早々に仕事を切り上げて菜月のマンションを訪れた。居ても立ってもいられなかった菜月はベランダから来客用の駐車場を覗いていたのだろう、湊の車が後部発進でサイドブレーキペダルを踏むとエントランスのインターフォンを指で押す前にガラスの扉が開いた。(・・・・な、菜月!もう!あれだけ言っているのに!) 防犯の大切さをあれだけ言っても覚えられない菜月の頭の中はどうなっているのだろう。湊は大きな溜め息を吐いてエレベーターのボタンを押した。5階から降りてくるエレベーターの箱の中に足を踏み入れた湊は思わずハンカチで鼻と口を塞ふさいだ。充満する淫靡いんびな香りは湊のスーツにまで染み付き気分が悪くなった。(なんだ、この匂いはクリーニングが必要だな) それは移り香どころの騒ぎではなく瓶から直じかに香水を床に振り撒いたような毒々しさだった。 「お世話になっております、綾野住宅の綾野です。グラン御影みかげの消臭清掃をお願いします。はい、急ぎでお願いします」  湊は若くして賃貸物件管理部門の部長職を担っていた。早速、提携企業に連絡を入れエレベーター周辺のメンテナンスクリーニングを依頼した。この到底、趣味が良いとは言えない異臭いしゅうは即刻排除すべき案件だった。(前に来た時はこんな匂いはしなかった) それは5階でより強く感じた。辰巳石たつみいしの廊下、最上階の角部屋が菜月が暮らす503号室だ。その匂いは503号室へと向かっていた。ピンポーン 玄関先で待ち構えていたかのように玄関ドアが勢いよく開くと菜月が湊に飛び付いた。首に回した細い腕、絹糸のような巻毛が湊の頬に、首に、肩に巻き付いた。それはまるで主人の帰りを待ち侘びていた犬のような喜びようだった。「ちょっ、ちょっと菜月!」「湊!いらっしゃい!久しぶり!」「久しぶりって、3日前に会ったでしょう!?」「そんなの久しぶりだわ!」 菜月の熱烈歓迎ぶりに悪い気はしなかった。それどころかその華奢な背中に手を伸ばしたい衝動に駆られる。 (蛇の生殺しだよ、これじゃ)  戯じゃれれ付く菜月を引き剥がすと廊下で湊は足を止めた。菜月が言うように柔軟剤ではない、香水の香り、それも男性を虜とりこにする花の香り。(これは、白檀びゃくだんの香水だ) 菜月は強い香りのものを好まない、香水も嫌う、柔軟剤も数滴垂らす程度で「その柔軟剤に意味がある
last updateLast Updated : 2025-07-06
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口紅
 湊はソファの端に腰かけ、目の前のコーヒーテーブルに置かれた冷めた紅茶をじっと見つめていた。部屋の中は重苦しい静寂に包まれ、時折、菜月の小さなため息だけがその静けさを破った。湊の胸の内では、賢治への嫌悪感と怒りが渦を巻いていた。 賢治の不倫行為は、もはや疑いの余地がない。湊はそれを確信していた。菜月の横顔をそっと盗み見ると、彼女の目は赤く、頬には涙の跡が残っている。いつも明るく笑顔を絶やさない菜月が、こんなにも打ちひしがれている姿を見るのは初めてだった。湊の心は締め付けられるように痛んだ。(このまま曖昧にするなんて、絶対に許さない) 湊は拳を握りしめた。賢治の裏切りは、菜月だけでなく、彼女の家族、友人、そして何より湊自身に対する侮辱だった。菜月が望むなら、協議離婚の手続きを進める。慰謝料の請求はもちろん、財産分与では賢治に一文たりとも渡さないつもりだった。賢治の実家、四島工業の名門一家にも、愚かな息子の尻拭いをさせる必要がある。湊の頭の中では、すでに法的手続きや交渉のシナリオがぐるぐると回っていた。  だが、それ以上に湊の心を支配していたのは、郷士への思いだった。菜月の父である郷士は、菜月を誰よりも大切にしていた。父親がこの事実を知れば、賢治を許すはずがない。湊は父親の鋭い眼光を思い出し、ぞくりとした。「湊、ありがとう・・・・こんなとき、そばにいてくれて」 菜月が小さな声でつぶやいた。彼女の手は震え、膝の上でぎゅっと握り合わされていた。湊は言葉を探したが、喉が詰まって何も言えなかった。ただ、そっと菜月の肩に手を置いた。彼女の体は、まるで壊れ物のように儚く感じられた。 その時、突然、エントランスのインターフォンが鳴り響いた。甲高い電子音が静寂を切り裂き、湊と菜月は同時に飛び上がった。心臓がドクンと大きく脈打つ。「ちょっと待って」 菜月が立ち上がろうとするのを、湊は素早く手を挙げて制した。「僕が対応する。落ち着いてて」 湊は菜月に軽く微笑みかけ、インターフォンの呼び出しボタンに手を伸ばした。モニターには、赤い制服を着た郵便局員の姿が映っていた。路肩には、郵便局の赤い軽自動車が停まっているのが見えた。「綾野さん、小包をお届けに参りました」 モニター越しに、落ち着いた男性の声が聞こえた。郵便局員の手には、白い小さな箱が握られている。湊は一瞬、眉を
last updateLast Updated : 2025-07-06
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口紅②
 湊はテーブルの上に置かれた白い小包を手に取り、伝票をじっと見つめた。瞬間、彼の顔色がさっと変わった。伝票には、送り主として「如月倫子」の名前と、「きさらぎ広告代理店」の住所がはっきりと印刷されていた。湊の胸の内で、怒りと不信感が渦を巻いた。如月倫子――賢治の不倫相手とされる女性の名前が、こんな形で目の前に現れるとは。「菜月、如月倫子からのプレゼントだよ」 湊は低く、抑えた声で言った。「えっ!」 菜月がソファから身を起こし、目を大きく見開いた。彼女の声には驚きと恐怖が混じっていた。湊は菜月の肩をそっと押さえ、ソファに座らせた。「落ち着いて。刃物でも入っていたら大変だからね」 湊は努めて冷静を装いながら、キッチンからカッターナイフを持ってきた。小包の表面は無機質な白で、まるで何かを隠しているかのように無言の威圧感を放っていた。湊は慎重にテープを切り、箱を開けた。中には、発泡スチロールの梱包材に包まれた小さな物体が入っていた。湊がそれを手に取ると、菜月が身を乗り出して尋ねた。「それ、なに?」「口紅だよ」 湊は金色のスティックを手に持ち、ゆっくりと回転させた。深紅の口紅が顔を覗かせ、その先端には唇の形を模したカーブがくっきりと残っていた。明らかに使用済みだった。「や、やだっ!」 菜月が叫び、思わずソファの背もたれに身を押し付けた。彼女の顔は青ざめ、目には恐怖と嫌悪が浮かんでいた。湊もまた、胸の内で沸き立つ怒りを抑えるのに必死だった。この口紅は、ただの贈り物ではない。如月倫子からの挑発――いや、菜月に対する明確な侮辱だった。 湊は伝票をもう一度確認した。そこには、送り主の名前と住所に加え、電話番号が記されていた。菜月が震える声で言った。「湊、この電話番号…賢治さんの携帯電話番号だわ」 湊の眉がピクリと動いた。「それにしても、なんでここの住所がわかったんだろう」 彼は冷静に考えを巡らせた。如月倫子が菜月の自宅を知っているのは、偶然とは思えなかった。「賢治さんが教えたのかも」 菜月が小さな声でつぶやいた。彼女の目は、どこか遠くを見つめているようだった。「まさか、わざわざ不倫相手に自宅の住所を教えるとは思えないな」湊は首を振った。賢治は愚かかもしれないが、そこまで無謀だとは思えなかった。湊の頭の中で、さまざまな可能性が駆け巡った。倫子が独自に
last updateLast Updated : 2025-07-06
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義理の姉と弟
 湊 の顔を見上げた菜月の瞳には力強い光が宿っていた。それは決意、賢治と決別するという意思の表れだった。「・・・・菜月?」 菜月は頬に残る涙の跡を手で拭うとソファから立ち上がりキッチンへと向かった。ケトルに注ぎ入れる水がこれまでの後悔した日々をシンクの中へと流した。「湊 ちょっと待ってて、お茶淹いれるから」「ありがとう」「紅茶で良い?」「うん、紅茶が良いな」 菜月はティーカップとソーサーを準備しながら 湊 を向く事なく呟いた。「私、賢治さんが初めての人だったの」「・・・・うん」「もう終わった事だけれど、賢治さんが不倫をする様な人だって見抜けなかった自分が嫌」「仕方がないよ、お見合いだったんだから」 ケトルから激しく湯気が立ち昇り蓋がカタカタと揺れた。「私、湊 が良かったな」「・・・・え」「湊 と・・・」※民法734条1項ただし書き 「ただし、養子と養方の傍系血族との間ではこの限りではない」 湊は民法734条1項のただし書きを目にした瞬間、十四年間、蓋をしていた菜月への恋情が溢れ出した。 例外的に連れ子同士の婚姻は民法上何の問題なく認められていた。幼い日の思い出は今も心の中に残り、菜月と 湊 は特別な感情で繋がっていた。   菜月の縁談が流れる度に、 湊 は郷士に民法734条1項のただし書きの件を話し菜月との婚姻を申し出ようと何度も口を開き掛けた。その度に、母親は湊の稚拙な行動を見透かして咎めるような目で「やめなさい、駄目よ」と首を横に振った。 今回の四島工業賢治と菜月の婚姻は郷士が強く望んでおり、湊も ゆき もこれまで世話になった郷士に逆らうような真似は出来なかった。(・・・・賢治さんが不倫をしているのならば僕は) そこでテーブルの上にティーカップが置かれた。芳醇なアールグレイの香りが漂った。 「どうぞ」 「ありがとう」  菜月は自然な動きで 湊 の隣に座った。その横顔は美しく、絹糸の巻毛が光に透けて見えた。「菜月」「なに?」「賢治さんの事はもう決めたの?」「なんでそう思うの?」「顔付きが、上手く言えないけれど泣いていた時と顔付きが違うよ」 ティーカップを口に付け、大きな溜め息を吐いた菜月は 湊 の顔を凝視した。「離婚します」「・・・・え」「私、賢治さんと離婚します」「決めたの?」「うん、たった一年
last updateLast Updated : 2025-07-06
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義理の姉と弟②
 黒い瓦が輝く総檜造りの和風家屋。その母屋の離れでは、鹿威しがカコーンと静かなリズムを刻んでいた。瓢箪池には白と朱色の錦鯉がゆらゆらと泳ぎ、辰巳石の門構えがどっしりと構える。赤松の枝は空を目指して曲がりくねり、針葉樹の陰を芝生に落としていた。深緑のヤツデ、密やかな刈安色の石蕗、珊瑚色の石楠花、白い灯台躑躅の垣根が庭を彩り、青々とした芝生が広がるその風景は、まるで時間が止まったような静けさを湛えていた。 敷地の一角には、場違いなほどモダンな綾野建設株式会社のガラス張りの社屋が建っていた。そこでは湊と賢治が働いている。ガレージには賢治の黒いアルファードが駐車していた。ピカピカに磨かれたその車は、まるで賢治の自己主張そのものだ。菜月と湊は、その車を見るだけで眉をひそめた。賢治の派手な振る舞いや、従業員を執拗に責める姿が頭に浮かぶからだ。「落ち着こう、菜月」  湊が低い声で言うと、菜月は小さく頷いた。「うん」「みんなが心配するからさ」「うん」 二人は深呼吸して気持ちを落ち着け、母屋の玄関へ向かった。重厚な木の扉をガラリと開けると、「あら、あら、あら、あら!」と家政婦の多摩さんが慌てて飛び出してきた。割烹着の裾で手を拭きながら、彼女はいつもの少しドタバタした笑顔で二人を迎えた。「菜月さん、お帰りなさいませ!」「あら、湊さん。ゴミですか? 捨てておきましょうか?」 湊は手に持ったゴミ袋を軽く振って笑った。「良いんだよ、多摩さん。これは大事な物だからね」「そうなんですか?」  多摩さんは首を傾げ、不思議そうな顔をしたが、すぐに菜月の方を向いた。「菜月さん、今夜はお夕飯食べて行かれますか?」「あ、頂こうかな」「南瓜と小豆のいとこ煮ですよ。ほっこりした味になるように、じっくり煮込みましたから!」「わぁ、楽しみ!」  菜月は精一杯明るい笑顔を作ったけど、心のどこかで小さな波が立っていた。湊がそっと菜月の肩に手を置くと、彼女はハッとして微笑んだ。 「菜月」「あ、うん。多摩さん、またあとでね」「はい、はい、はい、はい!」  多摩さんの元気な声に見送られ、菜月と湊は連れ立って座敷の奥の和室へと向かった。誰も使っていないその部屋は、どこか埃っぽくて、菜月は入るなりくしゃみをした。「ぶしっ! うわ、埃臭いね、ここ」「だろ? 久々に来たからな」 
last updateLast Updated : 2025-07-06
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亀裂
 賢治と結婚して綾野の家からマンションへ移り住んだ菜月は、気が向いた時、こうして綾野の家で過ごすことが多かった。けれど菜月は、ハンギングチェアに揺られ赤毛のアンの本を読み微睡まどろむ事はあっても、賢治が帰宅するまでにはマンションに戻っていた。賢治は菜月が、実家に入り浸ることを嫌がったからだ。それでいつも、賢治が帰宅するまでにマンションへと急いで帰った。 けれど、賢治の浮気が発覚した今、そんな気遣いが馬鹿らしく思えてきた。そこで菜月は、多摩さんに夕食に誘われありがたく頂戴する事にした。(もうこの際、賢治さんに叱られても良いわ!) 賢治の機嫌が悪い顔が浮かんだが、菜月は夕食の席に着いた。「菜月さんとお夕飯を頂くなんて久しぶりね」「うん」   同じ食卓を囲んだ ゆき は嬉しそうに微笑んだ。茶の間のテーブルに並べられたフクラギ魚の煮付け、天ぷら、南瓜かぼちゃと小豆のいとこ煮は菜月の好物だ。美味しそうに箸を付ける娘に ゆき が話し掛けた。「今度は賢治さんといらっしゃい」 菜月の表情が強張った。その瞬間を見過ごさなかった ゆき は怪訝そうな顔をして菜月を凝視した。「どうしたの?なにかあったの?」「あ、あの」 焦る菜月、そこで 湊 が助け舟を出した。「ちょっと喧嘩しちゃったんだよね」「まぁ・・・・・!」「そうなの、お洗濯物に買い物のレシートが入っていて、賢治さんのお気に入りの靴下が紙屑だらけになって」 「あぁ、なんだそんな事!ちょっと心配しちゃったわ」「大丈夫、新しい靴下買ったら許してくれたから」「菜月さん、気をつけなさいね」「うん」 菜月と湊は安堵の溜め息を吐いた。それでも気不味い菜月は箸を置いた。「賢治さんが待っていると思うからもう帰るね」「そうね、あまり遅いと心配するでしょうし、 湊 、マンションまで送りなさい」「うん、分かった。菜月、支度して」 すると多摩たまさんが「はい、はい、はい、はい」とタッパーウェアに南瓜と小豆といとこ煮を取り分け紙袋に入れて持たせてくれた。「ありがとう」「お口に合うか分かりませんが、賢治さんにどうぞ」「いつもありがとう、きっと喜ぶわ」「はい、はい」 いつもと違う菜月の翳りに、 ゆき は不安を抱いた。 ガレージに賢治のアルファードは停まっていなかった。定時で退社、その後どこで何をしているのか
last updateLast Updated : 2025-07-07
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亀裂②
「お茶でも飲んでいかない?」 菜月は玄関で湊を振り返り、軽い口調で誘った。夜の10時を少し回ったところ。御影のマンションの廊下はひんやりと静かで、遠くでエレベーターの機械音が小さく響く。 さっきまで一緒にいたのに、こうやって別れ際に話すのがなんだかんだ落ち着く瞬間だった。 「今日は帰るよ、また来るから」 湊はそう言って笑ったけど、菜月の目は玄関先に置かれた黒い革靴に釘付けになった。賢治の靴。雨に濡れて光るその革が、まるで不穏な予兆みたいに菜月の胸をざわつかせる。賢治、菜月の夫。結婚して1年、最近は帰りが遅いかと思えば、妙に早く帰ってきて不機嫌な態度を振りまく。菜月は気付いてしまった。いや、知りたくなかったけど、賢治が他の女と会っていることを。香水の匂い、スマホの通知、急に丁寧になるメールの文面・・・。全部、菜月の心に小さな棘を刺してきた。 「そう? じゃあ、おやすみなさい」「おやすみ」「送ってくれてありがとう」「どういたしまして」 湊は作り笑顔で踵を返し、エレベーターホールに向かった。菜月は閉まるドアの隙間から、湊の強く握られた拳に気づいた。(賢治さんの顔、今見たら本当に殴ってしまいそうだな・・・) 湊のそんな声が頭に響く気がした。菜月の胸が締め付けられる。湊は菜月の変化に気づいてる。賢治の不倫を水(見ず)に流したい菜月の気持ちも、きっとわかってる。だからこそ、湊はいつもそばにいてくれる。義理の弟だけど、血の繋がりがない分、どこかで遠慮しながらも、菜月を守ろうとしてくれる。その優しさが、今の菜月には痛いほど沁みた。  リビングのドアを開ける前、菜月は深呼吸した。「ただいま」 恐る恐る声をかけると、中から低く不機嫌な声が返ってきた。「・・・遅えな」 ドアを開けると、ソファに腕を組んで座る賢治がいた。厳しい顔つき、眉間に刻まれた皺。菜月の心臓がドクンと跳ねる。賢治の目は、まるで菜月を値踏みするように冷たい。「綾野の家に行ってたのか」 賢治の声は刺すように鋭い。綾野とは湊のこと。賢治は湊の名前を呼ぶとき、いつも苗字で突き放す。「うん、ちょっと用事があって」 菜月は平静を装いながら、持っていた紙袋をダイニングテーブルに置いた。袋の中には、多摩さんが持たせてくれたタッパーウェアが入っている。「南瓜と小豆の煮物、多摩さんが持たせてくれた
last updateLast Updated : 2025-07-07
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