ジョンのアシスタントは、それまでの媚びへつらうような態度を一変させ、傲慢な態度を見せた。「君が二川会長の部下だって言うなら、会長本人が来ればいいだろう?わざわざ小物一人をよこす必要なんてなかったのに」秘書は拳を握りしめ、歯を食いしばりながら言った。「私は会長の唯一の補佐です。私が来たってことは、会長を代表できるってことなんです!」しかしアシスタントはまったく意に介さず、流暢な英語で言い放った。「だったら、なおさらご本人に来てもらわないと困る。これが我々のジョンさんの意向だ」そう言って、ジョンのアシスタントはさっさとスタジオに戻り、ドアの外に立っている秘書のことなど気にも留めなかった。その態度を見て、秘書は内心かなり腹を立てたが、どうすることもできなかった。あの程度のアシスタントがこんなにも傲慢になれるということは、きっとジョン自身の命令があったに違いない。でなければ、こんな真似をするはずがない。仕方なく、秘書はしょんぼりした様子で帰り、そのままの内容を紗雪に報告した。紗雪は頬杖をつきながら、気だるげで自由な様子で言った。「それで、そのアシスタント、本当にそんな態度で話してきたの?」秘書はうなずいた。「はい。全部そのままの言葉です。あのアシスタント、ほんとにろくでもない奴ですよ。前はあんな態度じゃなかったのに!」紗雪はまるで気にした様子もなく微笑んだ。「まあ、よくある話よ。結局は、主に従ってるだけだから」その言葉を聞いた秘書は、たちまち冷静さを取り戻した。自分が二川会長に忠誠を尽くしているのと、同じようなものだ。紗雪の姿勢があるからこそ、彼の対人態度も決まる。背くなんてあり得ない。「わかりました、会長」紗雪はくすりと笑った。「いいのよ。ジョンが私に来てほしいって言うなら、行ってあげればいいさ」彼女は真紅の唇を上げ、不敵に微笑んだ。秘書はまだ少し心配そうだった。「でも、会長......どうもジョンって、以前と様子が違いますよ。前はこんな態度じゃなかったのに」紗雪は当然のように言った。「人が変わる時って、大抵は利益が絡んでる」「お金の話なら、まだ交渉の余地があるってこと」その言葉に、秘書も大きくうなずいた。確かに、一理ある。だが、それでもどこか腑
「頼んだよ。この件、君に任せておけばきっと大丈夫」紗雪は微笑みながら、去っていく秘書の背中を見送った。秘書も、紗雪の意図をしっかりと理解していた。彼女の分析を聞いたことで、自分自身が冷静になり、頭も冴えてきたように感じた。一見、彼女はこの事態に無関心のように見えるが、実際はすでに策を練っているのだ。そう思えばこそ、彼女の落ち着いた様子も納得できた。彼女の器の大きさに、秘書の尊敬の念はさらに深まった。もし許されるなら、これからも彼女にずっとついていきたい。そう強く思った。外に出た秘書は、自分のデスク近くで社員たちが集まって、あれこれ噂話をしているのを見かけた。その声は次第に大きくなり、彼の耳にも内容が届いてくる。彼は机をバンッと叩き、苛立ちをあらわにした。「今は勤務時間中だぞ。君たちは何をやっているんだ」「そんなに仕事をしたくないのか?だからこんな風に堂々と話してるのか?」その一言で、その場の空気は一変した。社員たちは一斉に黙り込み、秘書を見つめた。彼の言っていることが的を射ていることは、皆理解していた。しかし。事が実際に起こった以上、話題にするなというのも無理があるのでは?と感じる者もいた。そんな中、勇気を出して一人が声を上げた。「それなら教えてください。噂は、本当なんですか?」「つまり、ジョンさんは本当に、うちと協力したくないってことなんですか?」その質問に、秘書は思わず苦笑した。この人たちは、自分を何様だと思っているんだろうか。二川グループの社員であることが、全てをコントロールできる立場だとでも?「知ったところで、どうなるというのだ」そう言われて、質問した社員は言葉を失った。口をもごもごと動かし、やっとの思いで言った。「でも......ただ、事実を知りたいんです。それが、私たち全員にとってもフェアだと思いますし......」秘書は鼻で笑いながら言った。「真実を知って、それから?」「ジョンさんは君のことを知ってるのか?それとも、君が会長の代わりに交渉しに行くのか?」その言葉を聞いて、質問者は自然と視線を下げた。何も言い返せなかった。確かに、言い方はキツいかもしれない。だが、彼の言っていることは間違っていない。真実を知ったと
伊吹は通話を切られた携帯をしばらく見つめた後、ようやく部下に電話をかけた。「LC社のジョンについて調べろ。動きや行き先に何かあったら、すぐ俺に報告しろ」「はい」そう言って、二人は電話を切った。伊吹の目は冷たく鋭く光っていた。今度は、自分でジョンという男に会ってみるつもりだった。本当に噂通りのやり手なのかどうか、確かめてやる。ジョンがいなければ、二川なんて名前も聞いたことのない弱小企業にすぎないだろう。そう思うと、伊吹の気分は少し晴れた。「伊澄、安心しろ。俺に頼んだこと、しっかりやり遂げてみせるからな!」......二川グループ。「聞いた?海外プロジェクトに問題が起きたらしいよ!」「え?前は順調に話が進んでたんじゃなかったの?」「どういうこと?うちの会長がLC社のジョンとパーティーで直接契約をまとめたはずなのに、どうして問題なんか起きるの?」社員たちはざわめき、噂が本当なのかどうか混乱していた。しかし、その渦中にある当の本人・紗雪は、オフィスの中で淡々と座っており、表情からは喜怒哀楽の一切が読み取れなかった。その前では、焦った様子で歩き回る秘書の姿があった。彼は紗雪の落ち着き払った態度に、ますます焦りを募らせていた。「ちょ、会長、なんでそんなに余裕なんですか!?」紗雪は落ち着いた口調で言った。「じゃあ、私はどうすればいいと思う?」その問いかけに、秘書は一瞬言葉を詰まらせた。だが、紗雪が湯気の立つお茶を口元に運ぶ様子を見て、焦りは頂点に達した。「どうって、今のままじゃ駄目でしょう!ジョンのやつ、契約を反故にするなんて、人としてどうかしてますよ!あんなに順調に話が進んでたのに!」紗雪は席を立ち、窓際に歩み寄った。窓の外の車の流れを見つめながら、深く感慨にふけったように言った。「ビジネスっていうのは、こういう手段も普通なのよ」「それに、仮に私が今ここで焦ったとして......何が解決するっていうの?」その言葉に、秘書はハッとした表情を見せた。「そ、それもそうですね......じゃあ会長、私たちはどうすればいいでしょう?」「何もしない。ただ待つのよ」紗雪の瞳が細くなった。やはり、何か裏があるとしか思えなかった。たったこれだけの時間で、まだ正式
そうでなければ、伊澄をこれほど長く京弥のそばにいさせるはずがない。京弥は彼の一番の親友だ。もし二人が本当に付き合ったら、利益の方が大きい。伊吹は決意を固めて言った。「わかった、手を貸すよ」「伊澄は俺のたった一人の妹だ。助けない理由なんてない」その言葉を聞いた伊澄は、唇を綻ばせて甘えるように言った。「ありがとう。やっぱりお兄ちゃんが一番だよ」「何年経っても、一番私のことを気にかけてくれるのはお兄ちゃんだけよ」伊吹も感慨深げに微笑んだ。「小さい頃から、お前はずっと俺の後ろをついて歩いてた。お前のことを気にかけないわけがないだろう?」伊澄は言葉にしなかったが、その目には本物の幸せが宿っていた。兄との絆を、彼女は心から頼りにしていたのだ。もしこの妹が兄を利用して紗雪を打ち倒せるなら、それほど楽な方法はない。「でもさ、相手が誰かははっきり言わないと」伊澄は目を鋭く光らせた。「お兄ちゃんは知らなくていいの。ただ、私に危害を加えようとする女だってことだけ分かっていればいい」もしあのクソ女がいなければ、今頃自分は京弥兄と結婚していたかもしれない。借り住まいなんてせずに済んだのに。長い間、紗雪と京弥から冷たい視線を浴びせられ、無視され続けた怨念が、彼女の胸の奥で渦巻いていた。今こそ、復讐の好機だ。緩むわけにはいかない。「わかったよ。今日中に手配しておく。一人で鳴り城にいるんだから、お前も、自分の身を気をつけろよ」伊吹は少し妹を気遣いながら、そう言った。自分にはこの妹しかいない。幼いころからわがままだったことも知っているからこそ、この妹を制御できるのは京弥だけだと確信していた。親友としての信頼もある。もし本当に二人が結ばれるのなら、安心して任せられる。そう思っていた。だが今の彼は、妹を優先した。親友に妻がいると分かっていても、妹の悲しむ顔を見るのは耐えられなかったのだ。古来より、すべてを両立させる方法など、ほとんど存在しない。伊澄は胸が熱くなるのを感じた。この兄との長年の絆を思えば、彼が自分のために動いてくれるのも当然だった。だからこそ、彼女はこれまでこれほどわがままに振る舞えたのだ。鳴り城に来てからしばらく、両親から一度も連絡が来なかったのは
伊澄は机を叩いて言った。「何ボーッとしてるの?二川がもう手を出してるっていうのに、うちの会社が出遅れるわけにはいかないでしょ?」「そのプロジェクト、具体的に何についてなの?」そう言って、伊澄は秘書に視線を向けた。「主に海外の土地に関するもので、紗雪はその土地に新しいプロジェクトを立ち上げようとしているんですが......このプロジェクト、最初は二川グループの上層部もまったく乗り気じゃなかったんです」秘書は少し感心したように続けた。「でも......あの二川紗雪ってやっぱり商才があるんですよ。上の人たちが見限ってる中で、彼女は一人で道を切り開いたんです。本当に......」すごい、と言いかけたところで、伊澄の視線に気づき、秘書の言葉は喉で詰まった。それ以上、口が裂けても言えなかった。なぜこんな簡単なことを忘れていたのか。そう、伊澄と紗雪は犬猿の仲だったのだ。たとえ褒めたくても、今この場面で言うべきではなかった。後悔の念が込み上げてきたが、すでに口にしてしまったことは取り消せない。「......何か言いたい?続けて?」伊澄はうっすら笑みを浮かべて秘書を見つめた。秘書はすぐに沈黙し、その視線を浴びたままでは何を言う気力も湧かなかった。「いえ......ただ、今の状況では、我々がまずやるべきは二川グループ内部の対立を煽ることじゃないかと」「このプロジェクトを巡って、すでに二川グループでは紗雪に対する不満が出ているようですし、もし彼女がこの交渉に失敗したら......上層部は彼女を信じ続けないでしょう」その言葉を聞いて、伊澄はようやくハッと気づいた。そうか。これは一つの手だ。対立を煽るには、人の欲望を利用するのが一番手っ取り早い。「いいわね。そのアイデア気に入ったわ」伊澄は秘書の肩を軽く叩きながら言った。「人事部に行って、報奨を受け取ってきなさい。次もいい案があったら、どんどん提案して。検討してあげる」秘書も嬉しそうに答えた。「はい......!ご期待に応えられるよう全力を尽くします!」こうして二人の間で、快く一つの方針が固まった。特に伊澄にとっては、ただの秘書がまさかこんな知恵を持っているとは思いもよらなかった。確かにその通りだった。もしこの海外プロジェク
京弥は驚きの表情で紗雪を見つめた。額の前髪が少し濡れ、露出している肌は雪のように白く、全身から言葉では言い表せない艶やかさが漂っていた。その姿を目にした瞬間、京弥の瞳には赤みが差し、理性よりも本能が勝った。またしても、眠れぬ夜となった。翌日。紗雪が目を覚ましたとき、京弥はまだ隣で眠っていた。彼の彫りの深い顔立ちを見つめながら、紗雪は昨夜のことを思い返す。こうして見ると、この男にはそれなりに満足しているのかもしれない。今のような関係を保っていれば、それで十分。余計なことを考えなくて済む。彼女には、もう感情に重きを置く時間などなかった。二川グループは、彼女の手で変えていかなくてはならない。プロジェクトもここまで進んだ今、そう簡単に手を引けるわけがない。紗雪は、自分にも他人にも、立ち止まることを許せなかった。ベッドを離れる前に、紗雪は一度だけ京弥に深く視線を落とし、その後身支度を整えて会社へと向かった。彼女が出ていった後、ようやく京弥はゆっくりと目を開けた。さっきまで紗雪がベッドの上でじっと自分を見つめていたのは、彼にも分かっていた。ただ、目を開けなかっただけだ。二人の間にできた溝は、簡単には埋められないことも、彼には分かっていた。京弥は溜息をつき、眉間を指でつまむようにして目を閉じた。心が重かった。まだまだ頑張らないと。そう自分を奮い立たせるようにして、彼も会社へと出かけた。家にいるより、会社にいる方がましだ。家には、まだ伊澄がいる。彼女にどう対処すべきかと考えるだけで、頭が痛くなる。だったら早く会社に行った方がマシだ。それにしても、もうこんな状況なのに、伊吹はなぜ彼女を連れ帰ろうとしないのか。そう考えるたびに、京弥はますます頭痛がひどくなる気がした。この先、伊澄がいつになったら出て行くのか、見当もつかない。一方その頃、京弥が名前に出した伊澄は、会社で悠々自適に過ごしていた。伊吹が裏で根回ししてくれたおかげで、今の彼女は海ヶ峰社で完全に自由自在、深く考えずに済んでいた。彼女がこの会社で部長の地位にいるのは飾りじゃない。彼女は常に、紗雪の一挙一動を監視していた。紗雪が何か動けば、すぐに部下がその情報を報告してくる。伊澄は資料をめくりな