名も無き星たちは今日も輝く

名も無き星たちは今日も輝く

last update最終更新日 : 2025-05-27
作家:  内藤晴人たった今更新されました
言語: Japanese
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概要

泣ける

異世界ファンタジー

戦士

許し

後悔

敵対

エトルリア大陸の二つの強国ルウツとエドナ。 双方の間では長年に渡り無為の争いが続いている。 その戦乱の世で、心身に消えることのない傷を負った孤独な青年と、彼を取り巻く人々が織りなす物語。 戦闘・流血シーンを含みます。 苦手な方はご注意ください。

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第1話

第一章 第一部 蒼い涙 ─1─出会い

突然降りだした激しい雨に、ボクはあわてて商店の軒先に駆け込んだ。

ふるふると身震いして水を払い落とすと、ボクは丁寧に毛繕いを始めた。

いつからこの街にいたのかなんて、覚えていない。

物心ついた頃には、ネズミや鳥を狩ったり、ゴミ箱をあさったりして毎日を食いつないできた。

時には魚屋の商品に手を出して、店の主人にどやされることもあるけれど、街の人々は比較的ボクらには友好的だった。

そう、ボクは野良猫。

帰る場所のない根なし草。

さて、今日は一体どこで雨露をしのごうか。

相変わらず降り続ける雨を眺めながら、ボクは思案し首をかしげる。

ちょうどその時だった。

前触れもなく、ボクが居座る軒先に、一人の少年が駆け込んできた。

どのくらい走ってきたのだろうか、頭の先から爪先までびっしょりと濡れた少年は、まるでボクらのようにぶるぶると頭をふる。

同時にせっかく乾きかけたボクの体に、飛沫が飛んできた。

いい迷惑だ。

そう伝えるため、ボクは一声鳴いた。

それでようやく少年は、ボクの存在に気が付いたらしい。

そしてボクも、その時初めて彼の顔を真正面から見ることができた。

歳の頃は十二、三くらいだろうか、どちらかと言えば小柄な少年は、その夜空の色をした瞳でまじまじとボクを見つめてくる。

何か、文句でもある?

ボクは再び鳴いた。

瞬間、何の前触れも無く、少年はしゃがみこみ、ボクと視線を合わせてきた。

彼の濡れたセピア色の髪から、水滴がボクにこぼれ落ちてくる。

だから、迷惑なんだってば。

その場から離れようとした時、ボクの耳に、彼の声が飛び込んできた。

「……君も、一人なの?」

その声に、ボクは立ち上がるのをやめた。

そして、改めて彼を見やる。

質素ではあるが清潔な服を着ているので、『宿無し子』ではないだろう。

腰には何故か、年齢にはそぐわない短剣を差している。

けれど、それ以上に違和感を感じたのは、彼の『声』だった。

抑揚がなく、一本調子の……そう、感情が無い声。

首をかしげるボクに、彼は手を伸ばしてきた。

濡れて冷えきった手が、ボクの頭を撫でる。

「俺も、一人なんだ」

濡れた手が、頭から背に伸びる。優しく、ゆっくりと。

悪意は無いのは解っているのだけれど、これ以上濡れてしまってはたまったもんじゃない。

一つ抗議の声を上げると、彼は困ったような表情を浮かべ、降り続く雨をみやった。

「……いつまで、降ってるのかな……」

呟くように彼は言う。

でも、こればかりは、ボクに聞かれても解るはずがない。

そのまま街の様子を眺めること、しばし。

足早に走る人々。

行き交う馬車。

けれど、いっこうに雨はやむ気配は無い。

「困ったな……」

言いながら彼は、びしょ濡れの髪をかきあげた。

そして、大きくため息をつくと、改めてボクに向き直った。

すい、と彼の両腕がボクに向かって伸びてきた。

しまった。

そう思った時にはもう遅かった。

ボクは彼の腕の中におさまっていた。

濡れた服がまつわりついて、とても気持ち悪い。

抗議の声をあげようとした時、ボクの視線は彼のそれとぶつかった。

夜空の色をした瞳には、どこか寂しげな光が浮かんでいる。

「少し走るけど、我慢しろよ」

そう言うと、彼は軒先から走り出した。

やや激しさを増した雨が、ボクらを打つ。

彼はどこへ行くんだろうか。

ボクはそんな事を思いながら、おとなしく身をゆだねていた。

彼の腕の中で揺られること、十分くらい。

目の前には、高い塀と、こんもりとした緑が現れた。

ボクの記憶が正しければ、確かそこは『宮殿』と呼ばれる場所。

この国の偉い人が住んでいる場所のはずだ。

彼はその裏門から中に入り、慣れたようにその中を駆け抜ける。

朝、昼、夜、と一日三回鐘を鳴らす『聖堂』という建物の脇をすり抜けて、彼はその裏側へと回った。

そこには、白い石造りの建物が並んでいる。

何でこんな所に。

首をかしげるボクとは対照的に、彼は一瞬足を止め乱れた呼吸を整えると、まるでボクらのように忍び足で建物に近寄り始めた。

つられてボクも息をひそめる。

と、その時だった。

「導師さまー。お兄ちゃん、帰って来たよー」

ふと、ボクは顔を上げる。

すぐ真上の窓から可愛い女の子の顔がのぞいていた。

同時に彼は、小さく舌打ちをする。

出かけていたことを、知られたくなかったのかな?

ボクは彼の顔を覗きこむ。

すると今度は、若い女性の顔が、窓から現れた。

「まあ、こんなに濡れて……。一体どこに行ってたの?」

とがめるような、だが優しい声に、彼はそっぽを向きながら答えた。

「……墓参り」

短い答に、『導師さま』は困ったように言った。

「とにかく、中に入って体をお拭きなさい。……あら、それは?」

『導師さま』は、ようやくボクの存在に気が付いたらしい。

ボクを抱く彼の手に、一瞬力がこめられる。

「あー、ネコ! お兄ちゃん、どこから連れてきたの?」

先ほどのかわいらしい声が再び響く。

『導師さま』は困ったようにボクと彼の顔を見比べる。

そして、優しい声で続けた。

「面倒は自分で見るのよ。早く入りなさい。風邪をひいてしまうわよ」

ことのほかあっさりと許可がおりたのに、彼は少し驚いたようだった。

が、無言でうなずくと、彼は入り口へ向かって再び走り出す。

その背中に、『導師さま』の声が投げかけられた。

「そうそう、猊下(げいか)が探していらしたわよ。すぐに着替えて、お伺いなさい」

「わかりました」

短く答えると、彼はボクを抱いたまま建物の中へと入った。

ようやく雨から解放されたボクは、小さくくしゃみをした。

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第一章 第一部 蒼い涙 ─1─出会い
突然降りだした激しい雨に、ボクはあわてて商店の軒先に駆け込んだ。 ふるふると身震いして水を払い落とすと、ボクは丁寧に毛繕いを始めた。 いつからこの街にいたのかなんて、覚えていない。 物心ついた頃には、ネズミや鳥を狩ったり、ゴミ箱をあさったりして毎日を食いつないできた。 時には魚屋の商品に手を出して、店の主人にどやされることもあるけれど、街の人々は比較的ボクらには友好的だった。 そう、ボクは野良猫。 帰る場所のない根なし草。 さて、今日は一体どこで雨露をしのごうか。 相変わらず降り続ける雨を眺めながら、ボクは思案し首をかしげる。 ちょうどその時だった。 前触れもなく、ボクが居座る軒先に、一人の少年が駆け込んできた。 どのくらい走ってきたのだろうか、頭の先から爪先までびっしょりと濡れた少年は、まるでボクらのようにぶるぶると頭をふる。 同時にせっかく乾きかけたボクの体に、飛沫が飛んできた。 いい迷惑だ。 そう伝えるため、ボクは一声鳴いた。 それでようやく少年は、ボクの存在に気が付いたらしい。 そしてボクも、その時初めて彼の顔を真正面から見ることができた。 歳の頃は十二、三くらいだろうか、どちらかと言えば小柄な少年は、その夜空の色をした瞳でまじまじとボクを見つめてくる。 何か、文句でもある? ボクは再び鳴いた。 瞬間、何の前触れも無く、少年はしゃがみこみ、ボクと視線を合わせてきた。 彼の濡れたセピア色の髪から、水滴がボクにこぼれ落ちてくる。 だから、迷惑なんだってば。 その場から離れようとした時、ボクの耳に、彼の声が飛び込んできた。 「……君も、一人なの?」 その声に、ボクは立ち上がるのをやめた。 そして、改めて彼を見やる。 質素ではあるが清潔な服を着ているので、『宿無し子』ではないだろう。 腰には何故か、年齢にはそぐわない短剣を差している。 けれど、それ以上に違和感を感じたのは、彼の『声』だった。 抑揚がなく、一本調子の……そう、感情が無い声。 首をかしげるボクに、彼は手を伸ばしてきた。 濡れて冷えきった手が、ボクの頭を撫でる。 「俺も、一人なんだ」 濡れた手が、頭から背に伸びる。優しく、ゆっくりと。 悪意は無いのは解っているのだけれど
last update最終更新日 : 2025-03-18
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─2─孤児院
室内に入ると同時に、ボクらは子ども達に取り囲まれた。 ボクと同様ずぶ濡れになった少年は、無言でボクを子ども達に押し付けると、少し機嫌悪そうにどこかへと歩み去っていく。 どういうつもりなんだよ。 ボクは抗議の声を上げる。 それが届かなかったのか、聞こえないふりをしているのか、彼は振り返ることは無い。 子どもに取り囲まれたら、後は予想通り。 広間に連れてこられたボクは、子ども達に撫でられまくった。 その間、ボクは自分を取り囲む人間達を観察する。 さっきの女の子は、彼を『お兄ちゃん』と呼んでいたけれど、全然似ていない。 歳も、見かけもバラバラな子ども達。 一体ここは、何なのだろうか。『家族』という訳ではなさそうだ。 そうこうするうちに、先ほどの『導師さま』がやってきた。少し困ったような笑みを浮かべて。 「さあさあ、食事の時間よ。手をよく洗って、食堂へいきなさい」 優しい声に、子ども達は口々に返事をしながらボクの前から去っていく。 少し暗い室内に取り残されたボクは、小さく伸びをすると、ボサボサになってしまった体を丁寧に舐め始めた。 未だ腑に落ちないボクの目の前で、扉は音もなく開いた。 とっさに毛繕いをやめ、顔を上げる。 そこに立っていたのは、あの少年だった。 けれど、街で会った時とは違って生成りのくるぶし丈の服を着ている。 首をかしげるボクの前に彼は座ると、何やら手に持っていた包みを床の上に広げた。 「こんな物だけど、食えるか?」 どうやら彼は、自分の食事を残して持ってきたらしい。 ボクにとっては、これ以上ないごちそうだった。 おとなしく食べ始めたボクを見ながら、彼はわずかに笑った。 「ここは、『孤児院』って言って……ここにいる子どもは、みんな一人なんだ」 そんなボクを見つめながら、彼は静かに切り出す。 一瞬ボクは食べるのをやめて、彼の顔を見上げた。 「導師さまがここのみんなの『母さん』なんだ。君もさっき、見ただろ?」 なるほど。だからみんな、全然似ていないのか。 納得して、ボクは再び食べ始める。けれど、彼の言葉は、更に続く。 「本当に親の顔を知らなければ、それを受け入れることができるんだろうけど……。俺の父さんと母さんは、もうどこにもいないから……」 だから
last update最終更新日 : 2025-03-18
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─3─殿下
突然のすごい音に、ボクは跳び跳ねた。 そして、ぼさっと柔らかい寝台に落ちる。 鐘の音がこんなに大きく聞こえるなんて……そうか、ここはいつもの街じゃなかったんだっけ。 気が付いて、ボクは周囲を見回した。 その耳に、彼の声が飛び込んできた。 「目が覚めたのか?」 見ると、テーブルの脇に座り頬杖をついている彼がいた。『似合わない』と自分でも言っていた神官の服を着て。 そして、テーブルの上には、何だか良く解らない分厚い本が開いた状態で置いてあった。 寝ていたとはいえ、彼が起きたのに気がつかなかったなんて。 こいつ、一体何なんだ? 驚くボクに、彼は微笑を浮かべながら床を指差した。 そこには昨日同様、彼が残してきたとおぼしき食事が置いてある。 すとん、と寝台から降り立ち、ボクはそれを食べ始める。 彼はしばらくそんなボクを見ていたが、やがてあの分厚い本を読み始めた。 すっかり食べ終わってボクが毛繕いを始めると、彼は静かに立ち上がる。 食べ物が置かれていた布を拾い上げ、丁寧に折り畳むとそれを懐へしまいこんだ。 でも、いつも残してくるなら、君の分が足りなくなるんじゃないの? 鳴きながら見上げるボクの頭を、彼はくしゃくしゃとかき回した。 せっかくきれいにしたのに、台無しじゃないか。 抗議の声を上げるボクに、彼は笑った。 「本当によく食べるな」 大きなお世話だよ。 再び鳴くボクに背を向けて、彼はテーブルに戻ると、分厚い本を読み始める。 一体何を読んでいるのかな。 興味を覚えて、ボクは使われていない椅子の上にに飛び乗り、そこからテーブルの上に飛び移る。 「これは、『祈りの書』。一応、修行しないといけないから」 ボクの視線に気が付いた彼は、本から目を離すことなく言った。 恐る恐る、ボクも眺めてみる。 見開きのページにはびっしりと蛇かミミズがのったくったような模様が印刷されている。 いや、模様じゃなくて文字かな? どちらにしても、ボクには意味が解らないから同じことだ。 テーブルの上で伸びをして、そのまま丸くなる。 静かな室内には、彼がページをめくる音だけが響く。 どのくらい時間が経っただろうか。 あまりの静かさに、ボクが眠ってしまいそうになった頃、不意に扉を叩く音が
last update最終更新日 : 2025-03-18
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─4─初陣
数日後、ボクらは孤児院を出た。 子どもたちは口々にまた来てね、と言いながら、いつものごとくボクをもみくちゃにする。 少々乱暴な送別会が終わると、ボクは彼の後を追った。 引っ越し、なんていっても荷物なんてたいしたことはなかった。 僅かな着替えと、古ぼけた剣が一本。 それをまとめて背負った彼は、迷うことなく歩みを進める。 いつも練兵場へ行くのとは正反対の方へ向かっているのは、ボクにも解った。 この方向に、何があるんだろう。 そんなボクの疑問に答えるかのように、周囲の空気はがらりと一変した。 道ばたを走り回る子ども達。 窓から翻る洗濯物。 まるで街みたいだ。 「ここは、『兵舎地区』。近衛兵みたいな、陛下の御身辺を常にお守りする兵と、その家族が住む所」 言いながら、彼は最も奥まった所にある家に歩み寄り、扉に鍵を差し入れた。 かちゃり、という音の後、扉はぎしぎしと開いた。 さっそく駆け込んだボクは、屋内に入るなり、盛大にくしゃみをした。 床には一面、ホコリが積もっていたのだから。 「どうやら、ずいぶん長いこと、使われてなかったみたいだな」 言いながら、彼は荷物を寝台の上に放り投げた。 すると盛大にホコリが舞った。 「今からでも、戻っていいんだぞ。いや、帰った方が良いかもしれない」 大きなお世話だよ。 ボクはぽん、と跳ね上がって寝台の上に着地する。 そして、その上に放置された物を見つめた。 ふとその視界に、鈍く光る剣が入ってきた。 それは、いつも殿下との稽古で使っていたそれじゃない。 「これは、『宝剣』。勇者の称号を持つ人間に与えられる物」 言いながら彼は剣を手に取った。 ボクはそれを良く見ようと、彼の膝の上に無理矢理潜り込む。 「皇帝陛下への絶対の忠誠と、それを示す戦を行う者に与えられる力の象徴、だとさ」 なんだよ、それ? わけが解らず瞬くボクに、彼は苦笑を浮かべて言った。 「良く解らないだろ? 俺にもまったく意味不明だ。……でも」 剣の柄を撫でながら、彼は低く呟く。 「行く限りは、勝つ。そして、生き延びてみせる」 その彼の手を見て、ボクは息を飲んだ。 彼の手が、僅かに震えている。 あわてて彼の顔をボクは見上げる。 凍りついたような夜空
last update最終更新日 : 2025-03-19
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─5─告白
立ち尽くす殿下。 表情を崩さない彼。 その間でうろうろするボク。  「どうした? 本当の事を言っただけじゃないか」 言いながら、彼は笑った。 視線同様、おぼつかない足取りで、彼はこちらに歩み寄る。 言葉を失う殿下とボクの前を素通りして、彼は扉に手をかけた。 「お前……酔っているのか?」 殿下の言葉に、ボクはあらためて彼を見つめる。 確かにその右手には、中身が半分程になった緑色の瓶が握られていた。 それをテーブルの上に置くと、彼は崩れるように寝台に座り込んだ。 あわててボクも、その隣に飛び乗る。 「すまなかったと思っている。けれど……」 言いさした殿下の言葉が途切れたのは、彼が身に着けていたマントを殿下へ向けて放り投げたからだ。 「……持って行け。深窓のお姫様がずぶ濡れになる訳にもいかないだろ? ……多少血の匂いが染み付いているかもしれないけど、我慢しろ」 「そうじゃなくて、私は……」 「いいから、早く行け! ……これしか生きる道が無い事は、俺自身が一番知ってる。だから……」 あなたが気にする事は、何もない。 囁くような小さい声で、彼は言った。 彼の隣にいたボクの耳に辛うじて入る大きさだったので、それが殿下に届いていたかは、定かでは無い。 マントとボクら。 しばらく交互に見つめていた殿下は、また来る、とだけ言い残して家を出て行った。 二度と来ない方が、あなたのためだ。 そう小さくつぶやくと、彼はふらりと立ち上がり、甲冑を乱暴に外し始めた。 一つ、また一つと、まるで恨みがあるかのように、彼はそれを床へ投げつける。 そのたび、がちゃがちゃと派手な音が鳴り響いた。 やがてそれらをすべて脱ぎ捨てた彼は、家の奥へと姿を消した。 程なくして、浴室から盛大に水の流れ落ちる音が響いてきた。 身体中に染み付いた戦場の匂いを洗い流すかのように。 そして、滝のような音がついにやんだ。 代わりに水のしたたり落ちる音が近付いてくる。 そして再び現れた彼を見て、ボクは思わず後ずさった。 濡れたセピアの髪は、顔や首にまつわりついている。 そこからしたたり落ちる水は、均整の取れた上半身をこぼれ落ちていく。 その上半身には無数の傷が刻みこまれていた。 ……だから彼は、いつも
last update最終更新日 : 2025-03-20
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─6─静かな冬に
冬はあっという間に訪れた。 暖炉には赤々と炎がたかれ、ほの暗い室内を柔らかく照らし出す。 その暖かい光の中で、彼は相変わらず本を写すという作業を続けていた。 その作業に一体どんな意味があるのか、ボクにはまったく解らない。 一心不乱に作業を続ける彼を、丸まりながら見つめる日々が過ぎていった。 そんなある夜、彼はいつもよりかなり早くその作業を切り上げると、頬杖をつきながらボクに言った。 「今日は『年越しの祭』だ。孤児院……猊下からお誘いを受けているんだけど、来るか? あまり気は進まないけれど……」 それって、逆にすっぽかす方がまずいんじゃないの? 寝台から飛び下りると、ボクは彼の足元で鳴いた。 諦めた、とでも言うように小さく吐息をつくと、彼は静かに立ち上がると、大きく伸びをした。 防寒用のマントを神官の長衣の上から着込むと、彼はボクを促して外にでた。 はりつめたような冬の外気に身震いするボクを、彼は問答無用で抱き上げた。 「降って来たら雪だろうな」 呟く彼の胸元で、ボクは注意深く周囲を見回した。 どこの部屋にも明るい光が灯っている。 みんな、静かにお祝いしているんだろうな。 そんなことを考えるボクの頭上を、彼の声が通過していった。 最後に家族で過ごしたのは、いつだったかな、と。 そのうち、家族で過ごした時間よりも一人の時の方が長くなる。 そう言う彼の表情は、夜目がきくボクにもはっきりとは見えなかった。 やがて、目の前には石造りの建物が現れた。 無言で彼が扉を叩くと、音もなく開かれた。 「まあ、ずいぶんと他人行儀じゃない。早くお入りなさいな」 優しい微笑みを浮かべながらボクらを迎え入れた『導師さま』に向かって決まり悪そうに一礼すると、彼はボクを床におろした。 同時に子ども達の歓声が聞こえてくる。 「たまにはこちらにも顔を出しなさい。……ここも貴方の『家』なんだから」 後ろ手で扉を閉めながら、彼はつまらなさそうにうなずく。 「猊下も首を長くしてお待ちよ。貴方と来たら、出陣の時も帰還の時も、挨拶一つしなかったそうじゃない?」 ……かなり、まずいんじゃないの? 見上げるボクを完全に無視すると、彼は大股に歩き出す。 あわてて後を追おうとするボクに、導師さまは笑顔を浮かべな
last update最終更新日 : 2025-03-21
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─7─ 別れ、そして……
年が明けても、ボクらの生活は変わらなかった。 相変わらず彼は神官の長衣を着こんで、いつ終わるともしれない作業を続けている。 そしてボクは、寝台に丸まってそんな彼の姿を見つめている。 ふと、かりかりというペンが紙を削る音が止まった。 あわてて顔を上げると、彼が立ち上がり扉の方へ向かうのが見えた。 何事だろう。 瞬きするボクをよそに、彼は無言で扉を開く。 と、そこには、何やら包みを抱えた殿下が立っていた。 「どいてくれ。とにかく、中に入れろ」 「……わざわざのお運び、どういうことだ?」 そう言う彼の口元には、どこか斜に構えた笑みが浮かんでいる。 そう言えば孤児院からの帰り道で……。 「宴会、宴会。それがすんだら茶話会。一体あいつらは何を考えているんだ? まったく、ただの無駄遣いとしか思えない!」 殿下は深窓のお姫様らしからぬ大股で入って来るなりそう言い放つ。 扉を閉める彼に向かいテーブルの上にある物を片付けるよう、視線で命令した。 大当たりだろ? とでも言うようにボクを見てから、彼はテーブルの上を占領していた本と紙の束を寝台の上へと移動させる。 そうしてできあがった空間に、殿下は持ってきた荷物を広げ始めた。 銀の食器にティーセット。 もちろんそれは空ではなく、温かい湯気のたつ料理や菓子で満たされていた。 「……茶話会と宴会は無駄遣いと言ったのは、どこの誰だ?」 「さて、どこの誰だったかな」 そうはぐらかしてから、殿下は皿の一つを手に取り、寝台の上で固まっていたボクに歩み寄る。 そして、これはお前の分だ、と言って、それを床の上へと置いた。 「……わざわざ作らせたのか?」 「人間だけ食べて、こいつだけお預けという訳にもいかないだろう? 猫好きの侍女に教えてもらって、私が作った」 さて、遅まきながら新年の祝いといくか。 そう言う殿下を彼は呆れたように眺めていたが、やがてあきらめたようにつぶやいた。 「まるで、ままごとだな」 「腐るな。私の命令だ」 皿と殿下、そして彼をボクは代わる代わるみつめる。 やれやれ、とでもいうように彼がうなずくのを確認してから、ボクはすとん、と床へ降り立った。 「さて、始めるか。無礼講で構わないぞ」 「……酒も無いのに?」 「お前に酒は危険だ」
last update最終更新日 : 2025-03-22
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第二部 鎮魂曲 ─1─ 地位と名誉と
下級とは言え、貴族の物としてはあまりにもみすぼらしい墓石に、老婦人は持ってきた花束を手向けた。 そしていつものように合掌し深々と頭を垂れる。 この冷たい石の下には、彼女の一人息子がその妻と共に眠っている。 隊長命令に背くという武官としては致命的な行為を犯し、皇帝から死を賜った息子と、将来を悲観しその後を追った妻が。 その結果老婦人とその孫の家は、代々受け継いできた騎士籍は皇帝預かりとなり、貴族籍より除名という厳しい処分を受けた。 今では周囲からは裏切り者と後ろ指をさされながら、皇都の片隅でひっそりと身を隠すようにして暮らしている。 改めて老婦人は、墓石を見つめる。 除名された貴族籍への復活と預かりとなっている騎士籍とを取り戻すという悲願のため、最後に残された肉親である孫が今戦場へ引き出されようとしていた。 けれど彼女にとって、今更身分などはどうでも良いものになっていた。 とにかくその無事の帰還を祈るため、彼女はここへやって来たのである。 けれど墓石は何も語ろうとはしない。 深く溜息をつき、彼女はその場を離れた。 人気のない、木漏れ日が降り注ぐ共同墓地の中を、老婦人は背を丸めながら家路につく。 近く皇都を離れる孫のために、好物を用意してやろう、と思いながら。 と、その時だった。 墓地の中でも一際じめじめとした所にある、皇国に仇なす逆賊者達が埋められている場所へと向かう苔むした脇道から、前触れもなく一人の青年が姿を現した。 殆ど訪れる者もない、忌まわしい場所へと続くその道から。 年の頃は、老婦人の孫と同じくらいだろうか。 一目見てそれと解る下級神官の質素な長衣を身につけ、首からは何やら古代語が刻まれた護符を下げている。 全く癖のない真っ直ぐなセピア色の髪は背に届くほど長い。 自分を見つめる視線に気が付いたのか、青年は一瞬驚いたように顔を上げる。 そして、僅かに会釈をすると足早に遠ざかっていく。 ほんの刹那、交錯する両者の視線。 殆ど黒と言っても良い青年の藍色の瞳から老婦人が感じ取ったのは、言葉に出来ないほど深い後悔の念と寂しさだった。 遠ざかっていく青年の後ろ姿を、老婦人はなぜかずっと見送っていた。    ※ ユノー・ロンダートは悩んでいた。 いや、むしろ困惑して
last update最終更新日 : 2025-03-23
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─2─ 無紋の勇者
『蒼の隊』。 それはルウツ皇国の中でも極めて特異な存在だった。 ルウツの主な戦力は、色分けされた名で呼ばれるのが習わしである。 かつてロンダート家が所属し、皇宮警備や皇都の治安維持を主な任務とする皇帝直属の『朱の隊』。 皇帝を支える代表的な五つの伯爵家がもつ『緑』・『白』・『黒』・『黄』・『紫』の各隊。 そしてユノーが今回配された『蒼の隊』である。 『蒼の隊』はいかなる門閥にも属さない、流れの傭兵や、のし上がろうとする平民、そして失地回復をもくろむ没落貴族などから構成される、いわば混成部隊だった。 そのありとあらゆる階層出身の混成部隊を率い、由緒ある五伯家以上の働きをさせているのは、格を重んじる皇国で唯一の平民出身の司令官だった。 記録上の軍歴は約二年半。 だが初陣より一部隊を率いて以来、未だ敗戦を知らない。 その平民出身の彼のことを、庶民は尊敬を込めて、敵国はこれ以上ない畏怖の念を込めて、そしてルウツの高官や名だたる貴族達は蔑みを込めて、こう呼んでいた。 『無紋の勇者』と。 だが、華々しい働きとは裏腹に、その素性はあまり人々には知られてはいない。 解っているのは、司祭館にある孤児院で育ち、ルウツの大司祭であるカザリン・ナロード・マルケノフの養子となった、という事。 もっともこの養子縁組は、平民である彼が一部隊を率いる『勇者』の位を得るために、子爵家の出身の大司祭が動いた形ばかりのものだとも言われている。 シーリアス・マルケノフ。それが、その渦中の人物の名前だった。 彼を直接知る人は、口をそろえて言う。あの人は得体の知れない人だ、と。 深い藍色の瞳は常に無表情で、何を考えているのかを決して他者に悟らせることはない。 そして、自分以外の存在はおろか、自分自身にさえも関心が無いように見える。そう評する人もいた。 噂には当然尾ヒレが付いているだろうから、何処までが本当で、どこからが憶測なのかが解らない。 何より、ユノーは辞令を受け実際に出陣するとの段になっても、その人の顔を一度も見ることはなかった。 理由は簡単である。 平民であるという出自のため、司令官たるその人は、戦場以外での公の場で陣頭に立つことを許されていなかったからだ。 まさかとは思ったが、実際に宮殿に入りユノーを待っていた
last update最終更新日 : 2025-03-24
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─3─ 渦中の人
この一歩一歩が、自分を確実に死へと導いている。 そう思うと、ユノーは情けなくも身体の震えを止めることが出来なかった。 騎馬の群がたてる規則正しい金属音に混じって、ユノーの手綱を握る指先がカチカチと小刻みな音を立てていた。 何事かと彼の脇をすり抜けていく古参の騎兵や騎士達は、くすんだ癖毛の金髪と優しげな水色の瞳のせいで実年齢よりも幼く見えるユノーの顔をのぞき込む。 そして彼らは等しく同情するように溜息をついて、ユノーを追い越していく。 恐らくユノーの置かれた状況を理解してのことだろう。 この『寄せ集め隊』には、しばしば同じような境遇の人間が配置されるのが慣例となっているのだから。 「初陣なのか?」 急に背後から声をかけられ、驚きのあまりユノーは馬から落ちそうになる。 何より、こんなに接近されるまで気配を感じ取ることが出来なかった自分自身を、ユノーは恥ずかしく思った。 そんな自己嫌悪に捕らわれながらも、彼はようやく鞍の上に腰を落ち着ける。 すると、声をかけた当の本人はあっさりと馬首を並べる。 こちらを見つめるその鋭い視線を、ユノーは無言で受け止めた。 「初陣で騎士待遇か。さすがは血筋がはっきりした貴族様だな。どこの馬の骨とも解らない俺とは大違いだ」 皮肉混じりに投げかけられた言葉を、ユノーは珍しく怒りを含んだ声で否定した。 「そう言われても今回は仮待遇です。今は貴族籍から除名処分中なので、この戦いで死んででも軍功をあげなければ、本当に家名が取りつぶしになってしまいます」 身分を盾にして遊びに来たわけではない。 そう生真面目に答えるユノーに、横に並ぶその人は含み笑いで応じる。 更なる怒りを感じながら彼は隣に並ぶその人を注意深く観察した。 年の頃は、さして変わらないように見えた。 せいぜい一つか二つ違い、というところだろう。 けれど、その人が身にまとっている空気は、明らかに幾度も修羅場をくぐり抜けてきた人の……戦場に生きる人のそれだった。 それを裏付けるように、馬具や甲冑には数え切れないほどの傷が刻まれている。 一方、その容貌はと言えば『歴戦の猛者』らしからぬ整った物だった。 背中に届くほど長く癖のないセピア色の髪は無造作に束ねられて、風に吹かれるのに任せている。 だからといって浮
last update最終更新日 : 2025-03-25
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