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君は時の流れに消えていく

君は時の流れに消えていく

By:  身不二Completed
Language: Japanese
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高梨夏希(たかなし なつき)は三本の肋骨を折って、ようやく精神病院から逃げ出した。 逃げ出した後、真っ先に向かったのは遺体提供の同意書にサインするためだった。 「高梨さん、ご説明しておきますが、これは特殊な提供です。新型化学侵食剤の実験にご遺体が使われます。最終的には骨の欠片さえ残らない可能性が……ご理解いただけますか?」 胸の鈍痛を押さえながら、夏希は息を詰ませた。折れた肋骨が呼吸を邪魔し、声は擦れた送風機のようだった。 「……願ってもないことです」

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第1話
高梨夏希(たかなし なつき)は三本の肋骨を折って、ようやく精神病院から逃げ出した。逃げ出した後、真っ先に向かったのは遺体提供の同意書にサインするためだった。「高梨さん、ご説明しておきますが、これは特殊な提供です。新型化学侵食剤の実験にご遺体が使われます。最終的には骨の欠片さえ残らない可能性が……ご理解いただけますか?」胸の鈍痛を押さえながら、夏希は息を詰ませた。折れた肋骨が呼吸を邪魔し、声は擦れた送風機のようだった。「……願ってもないことです」彼女は引きつった笑みを浮かべた。泣いているような表情だった。どうせ余命幾ばくもない。国の役に立てるなら本望だ。診断書には「筋萎縮性側索硬化症」--通称ALSの文字が躍っている。さらに合併症で肺感染症を併発し、余命は一ヶ月を切っていた。担当者の目に憐憫が滲んだ。「科学研究へのご協力、感謝いたします。これは微々たるものですが……」痙攣する手でお金入りの封筒を受け取った。神経薬の過剰摂取の後遺症で、指が勝手に震える。このお金は児童養護施設に寄付し、最後に墓参りを済ませたら、あとは静かに死を待つつもりだ。よろめきながら外へ出ると、樹木の陰で待ち伏せていた男たちと目が合った。「いたぞ!こっちだ!」「逃げやがって……戻ったら電気ショックでぶっ殺すぞ!」血の気が引く。反射的に走り出す。胸腔に鋭い痛みが走り、鉄の味が喉に広がる。恐怖で筋肉が硬直し、警備員の多いビルへ必死で駆け込んだ。勢いあまって誰かにぶつかり、封筒の中のお金がばら撒かれた。硬い胸板に顔を打ち付け、耳元に騒ぎ声が響く中、冷たい薫りが鼻腔を刺した。「高梨夏希」低音の声が宣告するように名前を呼ぶ。凍りついた彼女の眼前には、五年ぶりの神尾直人(かみお なおと)が立っていた。より鋭くなった眉尻、冷徹さを纏った貴公子然とした顔。だがその視線には、紛れもない嫌悪と憎悪が渦巻いている。心臓を掴まれたような痛み。目頭が熱くなる。「神尾……社長」追ってきた男たちが直人の姿にたじろぐ。直人は夏希を睨みつけ、声を絞り出した。「誰の許可で戻ってきた?」俯いたまま答えない。あの夜、資産家の息子に精神病院へ押し込められ、五年間虐待されたことは、彼には伝わっていないのだ。直人の視線が男たちへ移ると、彼らは地面
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第2話
「神尾社長、大変申し訳ございません。このクソ女のせいでご不快な思いをさせて……すぐ連行いたします!」男が猛然と踏み込み、夏希の髪を掴んでぐいと後ろへ引っ張った。「このクソ女!お金を盗んで逃げようとしやがって……死にたいのか!」頭皮が裂けるような痛みに、彼女は苦悶の声を漏らす。膝から崩れ落ちた際、腕を路面に擦りつけ深い擦り傷ができた。「放して!あれは私のお金だ!」「貧乏人の分際で、どこにそんな金ができるんだ!」抵抗しようとした夏希の後頸部を男が押さえつけると、彼女は突然硬直した。精神病院での電気ショック療法を思い出したのだ。顔から血の気が引くのを感じながら、震えが止まらなかった。「ほら、大人しくなったろうが」男が罵りながら引きずろうとした瞬間、冷たい声が響いた。「いい加減にしろ。神尾グループの前で何たる醜態だ」直人がカードケースからカードを一枚取り出すと、男の足元へ投げ捨てた。「金を持って消えろ。二度と会社の前に近づくんじゃない」男が慌ててカードを拾い逃げ去ると、直人は夏希の手首を掴んで社内へ引きずり込んだ。背中を壁に叩きつけられる衝撃で、彼女は目眩を覚えた。檻のような腕が覆い被さる。「高梨夏希……五年ぶりだな。まるで野良犬みたいな身なりで現れるとは」直人の憎悪に満ちた声が鼓膜を刺す。「まさに天罰だ」その瞬間、夏希は全てを打ち明けそうになった。だが喉元で言葉を飲み込む。神尾幸子(かみお ゆきこ)との約束を思い出したのだ。五年前の誘拐事件--夏希をかばい、誘拐犯に連れ去られた幸子。再会した彼女は両足を誘拐犯に折られ、顔も傷つけられた。炎上する廃工場から脱出寸前、幸子は夏希の手を握り締めて泣いた。「夏希ちゃん、あなただけでも……夫と弟には、きれいなままの私を覚えていてほしいの」そう言い残し、炎の中へ消えていった。清らかな幸子。輝ける直人。だが自分は誘拐犯の巣窟をくぐった身--汚れ役は彼女一人で十分だって、夏希がそう思ってた。「夏希……姉さんは?姉さんはどうした!」直人が血走った目で抱き締めてきた夜、夏希は涙を笑顔に隠して答えた。「死んだわよ。『二人のうち一人しか助けない』って匪賊が言うから。私が生きたいから、あの人は死んだの」直人の瞳が怒りと絶望で歪むのを、今でも鮮明に覚えている。幸子
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第3話
握り締められた手首に鋭い痛みが走り、夏希は眼前の獣のような男を見上げると、ふと艶やかに笑った。「この程度の報いですか?幸子さんは死んだのに、私はまだ生きていますよ」その言葉に男の理性は崩れ、目が暗く濁った。直人は突然、夏希の首を扼し、力を込めて締め上げる。呼吸を奪われた彼女の顔は青ざめ、喉から「グッ」という苦悶の音が漏れ、生理的な涙が頬を伝った。窒息死するかと思った瞬間、男は手を離した。脱力した魚のように床に崩れ落ちた夏希は、激しく咳き込む。涙で滲んだ視界の先で、直人が蹲む姿が見えた。冷たい刃物のような声が響く。「生き地獄にしてやる」再び伸ばされた手が空中で微かに止まり、次の瞬間、彼女の襟首を掴んで引き裂いた。「ビリッ」と布が破れる音。男の怒声が炸裂する。「これは何だ!?」指痕の下に、紫黒く変色した深い痕が夏希の喉を横切っていた。血の気を含んだ唾液を飲み込み、夏希は震える手で傷を隠そうとする。精神病院で刻まれたものだ。彼らは「窒息療法」と称し、首を吊り上げながら毎日こう囁いた。「繰り返せ。高梨夏希は卑劣な女で、神尾直人にふさわしくない」涙を流しながら、彼女は繰り返した。「高梨夏希は……卑劣な女です……」最初の二年は最後の言葉を拒み、三年目からは麻痺したように呟くようになった。もはや直人に値しない、と。直人の指が痕に触れた瞬間、夏希の痙攣が激しくなる。涙を流しながら、彼女は笑みを浮かべた。「海外じゃ、こんな特殊な遊びが流行ってるのよ」直人の怒りが爆発するのを見据え、ためらわず続ける。「あなたとの夜より……ずっと刺激的だったわ」男は夏希を引きずり上げ、休憩室へ放り込んだ。ベッドに叩きつけられると、暴力的な気配が覆い被さる。衣服を引き裂く音。夏希が震える声で問う。「千春さんに顔向けできますか?」冷笑が返ってきた。「勘違いするな。千春は妊娠している。お前は単なる性欲処理の道具だ」「高梨夏希、これがお前の報いだ。借金を返すか、あの連中に引き渡されるか、選べ」「妊娠」「性欲処理の道具」--その言葉が鉄槌のように脳髄を叩く。夏希は震えるまぶたを閉じ、引き裂かれる心臓を抱えて抵抗を断念した。抱擁も慈しみもない。男の荒々しい復讐行為に、文字通りの「道具」として蹂躙される彼女の耳元で、執拗な問いが響き続ける。「奴らも同
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第4話
彼女の腕、肩、背中には、びっしりと刻まれた文字が残っていた。精神病院に入った当初、夏希は直人が自分を救い出してくれるよう祈り続け、苦痛に耐えるたび、爪で皮膚に「直人」と「夏希」の名を刻むことでかろうじて踏みとどまっていた。一年、三年、五年……次第に「夏希」の文字は消え、残ったのは「直人」だけになった。二人の再会を望むことは諦めたが、直人だけが生きる支えとなった。しかし今、その信仰は崩れ、彼女にはもう立ち直る力もなかった。シャワーの水を浴びながら、夏希は声を絞り出すように泣いた。夜、体調が回復しないまま酒席に呼び出され、嘲りと笑い声の中、杯を空け続けた。一方で千春は直人の腕に抱かれ、優しく気遣われている。直人は夏希を走り使いにし、ふらつく足を必死に堪えさせた。最後に客を送り出した夏希は花壇に倒れ込み、嘔吐した。直人は冷たい目で傍らに立ち、札束を撒き散らした。「拾って拭け」痙攣する手を押さえ、夏希は報酬を一枚一枚拾い上げた。あの施設に戻りたくない。あんな穢れた場所で汚されるくらいなら--綺麗に溶けて、骨の欠片すら残さず消えてしまいたい。直人と千春の婚約式が迫り、準備は全て夏希に任された。「オークションのネックレスを千春が気に入った。手段を選ばず落とせ」「会場の装飾は千春の好みじゃない。豪華客船でやり直せ」「ジュリエットローズを空輸し、隅々に飾れ。食事も全て千春の好みで」昼は二人の要求に応え、夜は直人の性欲の道具となり、毎朝起き上がるのもやっとだった。式当日、壇上に立ったのは彼女ではない。千春が直人の腕を組み、祝福の視線を一身に浴びる。賛嘆の声が耳に響く中、夏希は暗がりの隅で目を閉じた。ふと、自分が直人と婚約した日の夢を見た。「捕まえた。これで夏希は俺のものだ。俺が死なない限り、一生離さない」深い瞳に吸い込まれそうになり、指にリングを嵌められる。祝福の声が「末永くお幸せに」と囁くが、夢の中の彼女は涙で顔を濡らしていた。人間が天地に勝てるはずがない。彼女は死ぬ--もう並び立つことなどない。目を覚ますと、眼前に千春が座っていた。「高梨夏希、久しぶりね」赤ワインを傾けながら、千春は見下すように笑った。「今さら泣いてるなんて……あの時あんな事をしたくせに」夢の涙を慌てて拭う夏希
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第5話
「高梨夏希、何をしているの!?」やはり背後から直人の怒声が響いた。彼は大股で近づき、夏希を睨みつけた。「どうして千春に意地悪をするんだ!?」最初に込み上げたのは笑いだった。千春に虐げられてばかりの自分が、他人をいじめることなんてあるはずがない--そう言い返そうとした瞬間、ふと直人の瞳に揺らめく期待のようなものが見えた。彼は何を待ち望んでいるのか?もしかして、自分が嫉妬していると勘違いしているのか?夏希は睫を伏せ、病的な痙攣を起こしている手を背後に隠した。声は氷のように冷たい「私に話しかけてきた男性を追い払ったんですよ。どうして彼女を責めてはいけないんですか?」直人の目から光が消えた。次の瞬、その瞳は凍りついた。「償わせる」ウェーターが次々とグラスを運ぶ。夏希はすぐに意味を悟り、拳を握りしめながらグラスを手に取った。頭から酒を浴びせた。「続けろ」男の声に震えが走る。何杯も注ぎ続け、髪から頬を伝う酒に観客の嘲笑が重なる。「高梨夏希じゃないか!自業自得だよ」「神尾さんがどれだけ寵愛してたと思ってるんだ」服が張り付く不快感と痙攣が止まらない。直人は千春を連れて去り際に命じた。「十時間、ここに立たせておけ」夜更けまで晒し者にされた夏希がよろめきながらデッキを歩くと、酔い潰れた直人が部屋の前で倒れていた。避けようとした足が、不自然な紅潮に引き戻す。熱があった。胸が締め付けられる。彼女が必死に直人を部屋に運び、水を飲ませてタオルで顔を拭いてあげた。医者を呼ぼうとすると、袖を掴まれた。「……行くな」夏希の胸がぐらりと揺れた。結局、彼女はその場に留まることにした。直人の額のタオルを何度も替え、一睡もせず見守り続けた。夜が白み始める頃、ようやく熱は下がっていった。ふらつくほどの疲労に襲われたその時、ドアがノックされた。現れたのは千春だ。千春が硬直した表情を浮かべるのを見て、夏希は黙ってタオルを彼女の手に押し付けた。嗄れた声で言った。「彼が目を覚ましたら……あなたが看病したって伝えて」足を引きずりながら部屋を出た途端、視界が暗転した。デッキで気を失い、再び目を覚ました時は高熱にうなされていた。七日間のクルーズ旅行--その後三日間、彼女は断続的に熱に浮かされ続けたが、幸い、直人が接触してくることはなかった。船医
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第6話
高梨夏希はその瞬間、涙が溢れそうになった。しかし喉元の痙攣を必死に押し殺し、直人の腕を力任せに振りほどくと、すぐ横にいた医師に飛びついた。「『看病』って何よ?船の上での出会いだけで十分じゃないんですか?」彼女の声は驚くほど冷静だった。医師が慌てて言葉を返そうとした瞬間、直人の怒鳴り声が響く。「出て行け!」医師が急いで部屋を出る途中、直人が夏希をベッドに叩きつける音がした。「高梨夏希……お前はそんなに男欲しやがるのか!?」「ええ、だってあなたじゃ物足りないですよ。昔、海外にいた時は一日に何人も替えていたのよ。あなたは退屈すぎるんです」直人の瞳から最後の情動が消えた。彼は彼女を押し倒し、暴力的に呟いた。「なら、存分に味わえ」激しい痛みが襲う。精神病院での電気ショック、首絞め、鞭打ちの記憶が蘇り、今がいつなのか分からなくなった。直人はただ彼女を苦しめるためだけに行為を続け、終わると冷たくドアを蹴破って去った。薄暗い室内で夏希は崩れた体を丸めた。痙攣が起き、涙とともに嘔吐感が押し寄せる。これが望んでいたことなのか?直人の前で自分を貶め、徹底的に嫌悪させること。だが、あまりに痛い。体が引き裂かれるような疼きに、今すぐ消えてしまいたいと思った。シャワーを浴び終えると、直人からのメッセージが届いていた。「クルーズのロビーへ来い」到着すると、直人は冷たい視線を投げかけ、残飯の山を顎で指し示した。「食え」夏希は動かなかった。喉の痙攣が悪化し、食べ物を口にすると吐き出す日が続いていたそのせいで、また一段と痩せ細っていた。直人が札束を彼女の顔に叩きつけると、彼女は震える手で箸を握った。千春が直人の胸に寄りかかり、甘えた声で囁く。「直人さん、夏希さんを許してあげて」直人は嘲笑った。「残飯が気に入らねえなら、処分させればいい」夏希は機械的に咀嚼を続けた。かつては嫌悪した味ばかりだが、精神病院では食べられるだけで感謝しなければならなかった。喉が軋む。我慢したが、ついに吐き出してしまった。直人の顔が歪む。「高梨夏希……本当に汚らわしい」「全部食い終わるまで、出るな」彼は千春を連れ、嫌悪感を露わに立ち去った。夏希は吐きながら無理矢理飲み込んだ。喉に血の味が広がり、意識が遠のく。甲板の冷気
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第7話
冷たい海水が口と鼻を覆い、夏希は虚しくもがいた。泳げるはずなのに、全身から力が抜けている。体は沈み続け、空気が押し潰され、海面の光が遠ざかっていく。窒息による意識の遠のきと共に、抵抗する気力も消えた。このまま死んで海底に沈み、記憶のない魚に生まれ変われたら--そんな思いが頭を掠める。それなのに、脳裏に繰り返し浮かぶのは神尾直人の声ばかりだった。「夏希、愛してる。俺たちは何度生まれ変わってもずっと一緒だ」--まさか目を覚ますとは思わなかった。目覚めた時、彼女は拘束帯でベッドに縛り付けられていた。電気ショックの器械が見当たらないだけが、精神病院に戻されたのではないとわかる救いだった。三日間、誰も話しかける者がいない。食事と薬を運ぶ看護師さえ、彼女の問いかけに無反応のまま。崩れそうな時、病室の扉が開いた。現れたのは小田卓也(おだ たくや)--神尾幸子の夫だ。卓也の瞳には嫌悪が渦巻いていた。彼は近づくと、夏希の頬を平手で打った。「高梨夏希……よくも戻ってきたな」夏希は唇を噛んで黙り込む。「直人があんなに愛し、幸子が大切にしていたお前が……なぜ彼女を殺した?お前が死ねばよかったんだ!なぜ直人は海からお前を引き上げた!」野獣のように吠える卓也に対し、夏希は腫れた頬を押さえ、目は虚ろだった。長い沈黙の後、卓也は冷たく告げた。「小山千春が造血障害で、骨髄移植が必要になった。お前の型が一致した」何かを意識してきたように、夏希が震える瞳を上げると、卓也は嗤った。「直人も了承済みだ。午後に骨髄採取する。これがお前の償いだ」「知ってるか?千春は五年前、火事で直人を助けた恩人だ。二人は切り離せない」「火事……五年前……?」夏希の喉が軋んだ。違う--あの時、炎に飛び込んだのは私だ。「直人に会わせて!」「直人はお前に会いたくない」卓也が去ろうとした瞬間、夏希が必死に叫ぶ。「待って!小田さん!私、だめなの……!」看護師たちが暴れる彼女を押さえつける。涙で顔を濡らしながら、彼女は哀願した。「ALSなんだ……神経障害があるから、骨髄提供なんて……」無機質な声が返った。「神尾様の指示です。これが貴女の贖罪だと」夏希は抵抗をやめ、麻酔針が刺さるのを感じた。涙が頬を伝う。違う……直人、私に
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第8話
直人を見つけた卓也は、拳を振り下ろした。相手は避けようとしなかった。「よくも傍にあの女を!神尾直人、お前は幸子に顔向けできるのか!?人殺しだぞ!まさか未練でもあるのか!」揺らめく街灯の下、直人の瞳がかすかに震えた。長い沈黙の後、彼は淡々と問うた。「あの人は……どうしている」卓也は荒々しく息を吸い込み、嗤った。「ああ、元気だよ。金さえくれりゃどこかで遊び暮らすってさ。お前の顔なんか見たくもないらしい」直人の目から光が消えた。冷たい夜風が二人の間を吹き抜ける。「そうか」半月後、夏希は廃品回収場で拾った車椅子で墓所を目指した。神尾幸子の墓は急な坂道の途中にある。車輪が砂に埋もれて動かなくなると、彼女は地面に身を投げ出し、血の滲む手で這い上がり続けた。墓碑に辿り着いた時、爪先から滴る赤が灰色の石を染めていた。写真の中の幸子は、彼女が望んだ通り、穢れなき笑顔のままだった。「幸子さん、会いに来ました」「ずっと……秘密は守りました。幸子さん、あちらでは笑っていらっしゃいますか?」マーガレットの花弁が涙に揺れる。夏希の爪の割れた手が墓碑を撫でた。「私が会いに行く時、どうか……この姿でも嫌わないでくださいね」夏希が額を墓碑に押し当てると、冷たさが傷口に染みた。懐かしい声が耳朶を撫でる--『夏希は私の妹よ。いじめたりしたら承知しないからね』あの日、直人の肩を叩きながら笑う幸子の体温が、今は石のように冷たい。「直人に……酷いこと言われました。幸子さん、私の味方でいてくれますか?」返答のない問いかけに、夏希は『もう……幸子さんも私を嫌ってるのかもしれない』と思った。墓所を後にする途中、彼女は石段から転げ落ちた。その場でしばらく気を失い、全身傷だらけで這い上がった。車椅子に戻りかけた時、黒塗りのセダンが急停車した。降りてきた直人が血まみれの彼女を見て眉をひそめる。夏希は痙攣する手を背中に隠し、「足を滑らせただけです」と先回りして言った。「お前がどうなろうが知ったことか。廃人になれば拍手してやる」夏希は表情を保てず、胸が抉られるような痛みを覚えた。直人が舌打ちすると、運転手に彼女を車へ押し込むよう命じた。車内にはタバコの匂いが充満していた。直人はただ一本また一本とタバコを吸い続け、ハンカチを放り投げながら、冷たい声で言
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第9話
直人と千春の結婚式が間近に迫っていた。全国のスクリーンを埋め尽くすほど神尾家の財力を誇示する婚約発表に、メディアは騒然としていた。夏希はそれを良いことだと思った。直人の命を救った恩を千春に横取りされても、直人はきっと彼女を愛している。二人は幸せになるだろう。直人の人生も正しい道を歩み、輝かしい未来が待っている。ならば、自分は消えるべきなのだ。身繕いを済ませて家を出た夏希だったが、すぐに背後から覆いかぶさられ、意識を失った。気がつくと、彼女は縛られていた。同じく拘束されていたのは、小山千春だった。恐怖で顔を涙で濡らす千春に、誘拐犯は逆上して怒鳴りつけた。「神尾直人の前でもっと泣き叫べよ!」しばらくして、男の一人が駆け込んできた。「金を持ってきたぞ!」二人は外へ引きずり出された。「一億円だ。人を返せ」誘拐犯は札束を詰めたスーツケースを覗き込み、哄笑する。「いいよ!だが、選べるのは一人だけだ」千春が泣き叫んだ。「直人さん、助けて……!」夏希の体が氷のように冷えた。誘拐犯が合図すると、背後にある廃屋に火が放たれた。炎が渦巻く中、二人は同時に持ち上げられた。「お前のせいで家族を失った……今度はお前が愛する女を失う味を味わえ!選べ!」直人の視線が夏希を一瞬掠めた。その時、誘拐犯の部下が人目を盗んで直人に頷いた。直人は微かに息を吐くと、静かに告げた。「千春、こっちに来い」覚悟はしていた。それでも、夏希の体は震えを止められなかった。あの時、自分が「幸子さんと私、どちらかを死なせるなら私が生きる」と直人に告げたように。今度は彼が自分を選ぶ理由などない。誘拐犯が手を離すと、千春はよろめきながら直人の元へ走った。「潔いね」嘲笑う声と共に、夏希の体が炎の中へ放り込まれた。視界の最後に映ったのは、千春を優しく抱き留める直人の背中だった。二人は振り返ることなく去って行った。轟音と共に焼け落ちる梁に直撃され、夏希は血を吐いた。炎に吞まれる瞬間、彼女の人生は終わりを告げた。
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第10話
一方、部下が神尾直人のもとに急ぎ寄り、小声で報告した。「神尾社長、出口の手配は完了しました。高梨夏希さんを迎えに行きましょうか?」千春が視線を向けると、直人の手が一瞬止まり、嗤うように笑った。「行く必要などない。足があるんだから、自分で逃げられないはずがないだろうが」誘拐犯の手下--直人の指示に従う男が慌てて戻ってきた時、火勢はまだ衰えていなかった。周囲を見回し、彼の表情がこわばる。「人は?」少し離れた場所で待機していた手下が恐縮したように答えた。「兄貴、ここで誰かを待つように言われたけど……誰が出てくるのかわからなくて。誰も見かけませんでした」手下の顔から血の気が引いた。「出てこなかった……!?」彼の表情が一変し、炎の海を見つめて叫んだ。「急げ!中に入って助け出すんだ!」高梨夏希がもはや助からないと悟っていても、実際にその姿を目にした瞬間、胸がざくりと痛んだ。崩れ落ちた梁が腰を折り、半焼けの顔はもはや原型を留めていなかった。「兄貴……神尾社長に報告するべきでは……」「報告なんて必要ない。自業自得だ」「あの人は高梨さんを憎んでる。どうでもいいことだ。そのまま処理しろ」手下は深く息を吸い、冷静を装って言い放った。「葬儀社に連絡だ」惨たらしい遺体を見下ろしながら、彼もまた胸を締め付けられる。「神尾社長の態度は明らかだ。お前を見捨てたんだから……俺が冷酷だと思わないでくれ。あの人の新しい生活を邪魔するな」直人の命令は「高梨夏希をここから追い出し、二度と姿を見せないようにせよ」だった。死ほど徹底的な「消滅」があるだろうか。一同が葬儀社の到着を待つ中、現れたのは黒ずくめの謎の車だった。黒い制服の男が遺体の身元を確認すると、哀れみを込めた視線で担架に載せ、真っ白な布で覆った。「遺体寄付の契約に基づき、搬送させていただきます」手下は初めて知った。夏希が極秘で遺体提供の契約を結んでいたこと、そしてそれが普通の寄付ではないことを。『なぜそんな契約を?自分が死ぬとわかっていたのか!?』黒服の男は去り際にふと振り返り、ため息をついた。「高梨さんは本当に優しい方でした。慰謝料は全て児童養護施設へ寄付するとのこと。ご遺族の方々、どうかお力落としのないように」「国家機密に関わるため同
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