LOGIN夫の初恋の人は、もう助からない病気にかかっていた。 夫の神谷雅臣(かみや まさおみ)はよく星野星(ほしの ほし)に向かってこう言った。「星、清子にはもう長くはないんだ。彼女と張り合うな」 初恋の人の最期の願いを叶えるため、雅臣は清子と共に各地を巡り、美しい景色を二人で眺めた。 挙句の果てには、星との結婚式を、小林清子(こばやし きよこ)に譲ってしまったのだ。 5歳になる星の息子でさえ、清子の足にしがみついて離れなかった。 「綺麗な姉ちゃんの方がママよりずっと好き。どうして綺麗な姉ちゃんがママじゃないの?」 星は身を引くことを決意し、離婚届にサインして、振り返ることなく去っていった。 その後、元夫と子供が彼女の前に跪いていた。元夫は後悔の念に苛まれ、息子は涙を流していた。 「星(ママ)、本当に俺(僕)たちのこと、捨てちゃうのか?」 その時、一人のイケメンが星の腰に腕を回した。 「星、こんなところで何をしているんだ?息子が家で待っているぞ。ミルクをあげないと」
View Moreたとえ星と離婚することになっても、今この瞬間だけは、病み上がりのせいか、胸の奥に妙な感情がかすかに芽生えていた。「雅臣......聞いてる?」清子の声が、その思考を遮った。雅臣は我に返り、胸の奥に生じた違和感も一瞬で霧散する。掠れた声で言った。「星を呼べ。すぐにここへ来るように」清子は、彼が星を糾弾するつもりだと考え、うなずいた。「分かったわ」病院からの連絡を受けた星は、朝食を済ませた後、ゆったりと病室へ向かった。扉の前に着いたとき、中から清子の声が聞こえてきた。「雅臣、一口だけでも食べて。食べなきゃ治らないわ」しばらくして、低くかすれた声が返る。「......いい、食欲がない」なおも彼女が説得しようとしたとき、星は扉をノックして入室した。入ってきた彼女を見た瞬間、雅臣の瞳にかすかな光が宿る。思わず彼女の手元に視線を落とすが――持っていたのはバッグだけ。花束もなければ、彼女の得意とする薬膳もない。瞳がわずかに陰る。星が目にしたのは、清子が湯気を立てるお粥を手に、彼に食べさせようとしている場面だった。どうやら彼は受け入れる気がなさそうだった。星はそのお粥を一瞥し、さらりと告げた。「小林さん。雅臣の口は相当贅沢になってるわ。外で買ったお粥には口をつけない。自分で煮れば、きっと食べるはずよ」元々はそこまでこだわる男ではなかった。ただ、この数年、彼女が手ずから整えてきたことで、舌が肥えてしまっただけだ。星の姿を見た清子の表情が冷たくなる。「あなた、雅臣に許しを乞いに来たの?」星は淡く笑んだ。「許しを乞うのは私じゃなくて――彼の方よ」視線を雅臣へと移し、気のない調子で問いかける。「体調はどう?」雅臣は彼女をじっと見つめ、掠れ声を落とす。「......お前の煮たお粥が食べたい」清子の顔が固まった。だが星は表情一つ変えない。「食べたいなら小林さんか、使用人に頼めばいいじゃない。私はもう、あなたの家政婦じゃないのよ」黒い瞳に、彼女の冷淡な顔が映り込む。かつてなら、病気や怪我のときに見せた彼女の心配げな表情は、そこにはなかった。まるで他人を見るような目。声が不意にかすれる。「......星。そんな態度とって
影斗は気怠げに笑った。「雅臣は星ちゃんを屈服させたいんだろうが、彼女は翔太の母親だ。しかも彼に背いたことなど一度もない。そんな相手に、ビジネスの駆け引きを持ち込もうものなら......俺どころか、葛西先生だって黙っていないさ」奏の件については、すでにニュースで目にしていた。だが、彼が動こうとは思わなかった。星本人のことなら全力で守る。だが、その周囲の人間までは――彼はそこまで善人ではなかった。今回介入したのも、奏と彩香の一件が、星に関わると知ったからだ。ところが調べてみれば、思いもよらぬ収穫があった。影斗の目が愉快そうに細められる。「最初にきちんと説明していれば、星ちゃんも多少は信じただろう。だが両手に欲を抱えて立ち回った結果、賢さが仇になった。自惚れの代償を払うことになるさ」病院では、雅臣がゆっくりと意識を取り戻していた。霞む視界の先、細い影がベッド脇に突っ伏している。「......星」かすかな声が漏れる。するとその影は勢いよく顔を上げ、喜びに満ちた声が響いた。「雅臣!目が覚めたのね!」雅臣は一瞬戸惑い、思わずつぶやく。「......清子?どうしてお前が」「あなたが怪我をしたのよ。当然、付き添うわよ」清子は彼が周囲を見回しているのに気づき、何を探しているのかを悟った。拳を握りしめながらも、声はいつも通り優しい。「雅臣......星野さんは、手術が終わったあと病室には入らず、そのまま帰ったわ」雅臣の瞳が暗く沈む。「......何か言っていたか」彼の表情を探るように、清子は答える。「ただ一言――彼は私に何もできないと。それだけ言って出ていったの。雅臣、彼女はあなたを殺しかけたのよ。絶対に許しちゃだめよ!」だが雅臣はすぐには同意せず、遠くを見つめるように思考を漂わせた。ふと脳裏をよぎったのは、熱を出したときのことだった。過酷な残業の末に高熱を出し、倒れ込んだあの日。一昼夜、眠らずに傍らで看病し続けてくれたのは――星だった。意識が戻るや否や仕事に行こうとする彼に、彼女は初めて声を荒げた。「倉田秘書。たかが数日、社長が休んだくらいで傾く会社なら、いずれ潰れるわ。本当に雅臣を思うなら、この時期に書類なんて持
さらに厄介なのは、翔太の存在だった。清子という愛人のせいで離婚にまで至り、ついには刃傷沙汰にまで発展した――そんな話題、上流社会においては格好の酒肴となる。神谷家も雅臣も、これ以上の醜聞は許されない。その意図を察した航平は、しばし黙考したのちに口を開いた。「星......それは賭けだ。もし雅臣が本当に意地を通すつもりなら、君自身を犠牲にすることになる」だが星はあっさりと笑った。「それでもね。この鬱憤を晴らさなきゃ、いつか本当に手を下してしまうかもしれない」航平は言いかけて、結局は口をつぐんだ。――もうここまでこじれてしまったのだ。奏の件が雅臣の仕業でないことも、今さら伝えるべきではないだろう。そのころ。影斗は部下の報告を聞き、眉をわずかに上げた。「つまり、彩香にちょっかいをかけた遠藤とかいうのは、雅臣の差し金じゃないと?」「はい。実は......川澄奏の身内です」「身内、か」影斗は渡された資料に目を走らせ、漆黒の瞳を細める。「奏のスキャンダルを流したのも、雅臣じゃなくて川澄家?」「その通りです。川澄家の人間は奏を家に戻したがっています。しかし本人が拒否したため、強引に追い込もうとしたようです」「本人は、それを知ってるのか?」「恐らく知っているはずです。家族が何度か接触しています」影斗はソファに身を預け、唇の端に皮肉めいた笑みを浮かべた。「分かっていながら、星ちゃんには黙っていた......あの男も腹黒いな」部下がさらに報告を続ける。「調査の途中で、航平も同じ件を探っているのを見ました。彼も恐らく、事情を把握しているはずです」影斗の唇に、意味深な弧が浮かぶ。「奏は黙っているし、雅臣の親友であるはずの航平まで、口を閉ざしている。本来なら星ちゃんに情報を流しているはずの彼が、わざと黙っていて、雅臣に濡れ衣を着せている......面白いじゃないか」宿題をしていた怜が顔を上げた。「お父さん、じゃあ星野おばさんに教えてあげないの?」影斗はちらりと息子を見下ろし、どこか楽しげに答える。「奏も航平も、そろって沈黙を選んだ。なのに俺がわざわざ口を出すと思うか?雅臣の人望のなさは明らかだ。親友すら庇わない。俺が助け舟を出
医師が姿を現した。「幸い急所は外れていました。命に別状はありません。しばらく安静にすれば回復します」担架が押し出されると、清子は脇に立っていた星を押しのけるように、まるで妻のような顔でベッドに駆け寄った。「雅臣......!大丈夫なの?」勇も星との言い争いなど忘れ、慌てて雅臣の容体を確認する。そのまま雅臣は病室に運ばれていった。星が様子を見ようと足を向けた途端、勇が立ちはだかる。「雅臣を見たいのか?だったら俺に頼めよ。頼んだら、気分次第で通してやるよ?」ちょうど医師と話を終えた航平がその場に来て、この光景を目にし、慌てて口を開きかけた。だが星は一切迷わず背を向けた。「そう。なら、やめておくわ」呆気にとられる勇。――どうして、いつも予想どおりに動かないんだ?「おい、待てよ......!」呼び止める声も虚しく、星は振り返ることなく歩き去った。航平は短く勇に言い残す。「私が見てくる」足早に追いかける航平の背中を見送り、勇の胸に妙な違和感が残る。普段は他人事には首を突っ込まない男が、どうして今日に限ってここまで熱心なのか。病院を出たところで、航平が追いかけてきた。「星、どこへ行く?送るよ」星は立ち止まった。「帰って、シャワー浴びて休むわ」彼はそこでようやく気づく。服にまだ血がこびりついていることに。「私が送ろう」「ええ」星は素直に頷いた。車が走り出す。運転席から見えるのは、蒼ざめて疲れ切った彼女の横顔。航平の胸に痛ましさがよぎる。「星、どうして私を待たなかった?私なら雅臣を説得できたかもしれないのに」「無理よ」首を振る星。「清子のことでは、誰も彼を動かせない」航平はしばし黙り、低くつぶやく。「それでも......他に方法はあったはずだ。あんな衝動的なことをして、もし雅臣が......」最後まで言い切る前に、星が遮った。「やるからには勝算がある。心配しないで。彼が私を追及することは絶対にないわ」航平の指がハンドルの上で止まり、瞳に一瞬暗い影が走った。「どうしてそんなに言い切れる?雅臣に何か言われたのか?」彼は兄弟同然に雅臣と共に過ごしてきた。だからこそ分かる――雅臣は
「雅臣が目を覚ますころには、この女はとっくに逃げてるさ!」勇が怒声を上げる。航平は宥めるように口を開いた。「雅臣は手術室に運ばれる前に言った。目が覚めてから話をつけろと。勇、感情的になるな。雅臣の言葉に従おう」だが勇は星を指差し、狂ったように怒鳴り散らす。「こいつは雅臣を殺しかけたんだ!許されるわけがない!ここに置いておくより、さっさと警察に突き出して、牢屋の中で思い知るべきだ!」このところ、星は一切の隙を見せなかった。勇は何度挑んでも成果を得られず、苛立ちは募る一方だった。そんな彼がようやく掴んだ「弱み」を、易々と手放すはずがなかった。だが星は冷ややかに立ち尽くす。表情には一切の動揺もなく、まるで他人事のように。さらに事態を動かしたのは、警察の到着だった。「通報がありました。――容疑者はどこですか?」勇と清子は同時に彼女を指差す。「こいつだ!こいつが雅臣を刺したんだ!さっさと捕まえて死刑にしてくれ!」警官たちは星を見やる。だが彼女は逃げるでもなく、平然とその場に立っていた。「あなたが人を殺したのですか?」「いいえ」淡々と答える。「嘘だ!」勇は尾を踏まれた猫のように喚く。「認めないだと?罪を重くする気か!」星は一瞥し、冷たく言い返した。「殺したと言うなら、死体はどこ?」「雅臣は......手術室で処置を受けてる!」「つまり生きてるわけね」「星!お前は雅臣が死ねばいいと思ってるんだろ!」星はもはや相手にせず、警官に向き直る。「私は殺していません。――負傷と殺人は別の話です」警官は眉をひそめた。「一体どういうことです?」航平が口を開いた。「誤解です。私たちは友人同士で、殺人なんて事実はありません。確かに怪我はしましたが、不慮の事故のようなものです。もし本当に事件なら、当人が目を覚ましたときに訴えるはずでしょう」温厚で理知的な口調は、激情する勇よりもずっと説得力があった。警官は彼をじっと見た。「本当に誤解なんですね?」「もしそうでなければ、本人が目を覚ましたときに必ず通報するでしょう」一行の様子からも、ただの内輪の揉め事だと察した警官たちはうなずいた。「分かりまし
空気が、一瞬にして凍りついた。やがて清子が堪えきれず、甲高い悲鳴を上げる。「きゃっ......!殺人よ!」勇も我に返り、反射的に雅臣へ駆け寄ろうとした。だが清子が必死に腕をつかむ。「勇......怖いわ」星の姿は、確かに冷酷な殺し屋のようだった。その光景に勇は足を止め、思わず身構える。雅臣がやられたのは油断していたからだ。警戒していれば、彼女に刃を届かせることなど不可能だったはず。雅臣は腹に突き立った刃を見下ろし、瞳孔を震わせた。その瞳には驚愕と、信じられないほどの痛みが浮かんでいた。「......なぜだ。星、お前は俺を殺したいのか?」星の長い睫毛が、蝶の羽のように震える。その顔色は血の気を失った紙のように白く、握った手はわずかに震えていた。初めてのことなのだ。恐怖が全くないはずはない。だがその瞳だけは、冷徹な決意で揺るがなかった。「雅臣......あなた、この前言ったわよね。私に復讐の機会を与えるって。――今、その機会を使ったの。あなた、ちゃんと約束を守ってくれる?」雅臣の唇がかすかに上がり、低くかすれた声が漏れる。「......そんなに憎んでいるなら、なぜ心臓を狙わなかった?」星は感情の欠片もない笑みを浮かべる。「そうしたら私は殺人犯になるでしょ。安心して、どんなに憎んでいても、命までは奪わないわ。――人を殺せば、自分も償わなきゃならないもの」そのとき、騒ぎを聞きつけて扉が乱暴に開かれた。航平が駆け込んでくる。目の前の惨状に、表情が一変した。「星、大丈夫か!」勇はすぐさま声を荒げる。「航平!早くその狂った女を取り押さえろ!雅臣を刺したんだ!」航平の目に一瞬の動揺がよぎる。彼は約束の時間より四十分も早く来ていた。星がわざと知らせなかったことに、そのとき気づいた。彼女は初めから、自分を巻き込みたくなかったのだ。航平が星の傍に歩み寄ろうとした瞬間、雅臣の声が割り込んだ。「航平......これは俺と星の問題だ。お前が口を挟むな」航平は足を止めるが、なおも雅臣から目を離さなかった。その瞳には、警戒と警告が宿っていた。星も理解していた。この一撃が通じたのは奇襲だったからだ。二度目は
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