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庵を発ったのは、朝日がまだ山の向こうで目を覚ましていなかった頃だった。リリウスはカイルのあとを追い、湿った山道を下っていく。夜の名残が枝葉に宿り、風が冷たく頬を撫でた。──そのときだった。視界の端に、崩れかけた天蓋がちらりと揺れた。振り返ると、何もない。だが一歩、足を進めた瞬間──焼け焦げた空間が、目前に広がった。炭になった祈祷台、灰に埋もれた聖布。焦げた空気が肌を刺す。「まだ……ここにいるの」少女の声が、空気に混じって囁かれた。「リリウス!」カイルの声が届いた瞬間、幻は崩れた。視界が戻る。カイルが腕を伸ばし、落ちかけたリリウスの体を支えていた。「また感応したのか」「……一瞬、だけ。でも……あの子の声が……」カイルは唇を引き結び、深く息を吐いた。※王都に戻る前、急報が届いた。──神殿跡地で魔力の震動を検出。封印の安定性が急速に低下。軍本部は即座に対策を始めた。再封印の儀式。ただし、封じる“対象”については明言されなかった。「彼女のことは……記録にない。ならば“存在しなかった”とする」それが、上層部の判断だった。さらに、神父マルティナの庵にも監視がつくという通達があった。「視たこと」は、すべて“記録に残らない祈り”として処理されようとしていた。※カイルは執務机の前で、拳を握っていた。「本当に、それでいいのか……」言葉にした瞬間、自分の立場が揺れるのを感じた。リリウスは、その隣で椅子に腰を下ろしていた。「封じるべきか、救うべきか……誰にも分からない。でも僕は……あの子が祈り続けていた理由を、知りたい」「知ったところで、どうする」「終わらせてあげたい。ずっとあの場所に縛られて……それでも祈っていた彼女を」カイルの目が動いた。※その夜。リリウスは眠りの中で、再び“感応”に囚われた。──炎。崩れる柱。震える少女の背中。「わたしを……終わらせて」その声は、たしかに聞こえた。リリウスは目を開けた。胸が痛いほどに速く鼓動している。(ずっと……続けてる。祈りを、誰にも気づかれず、誰にも届かないまま……)祈りの終わりを望んでいた。それは、死ではなく、“終息”を。彼女の魂が、ようやく安らげる場所を。朝になり、リリウスはカイルの部屋を訪れた。「……僕は、もう決めました」カイルが顔を上げる。
夜が明けきる前、リリウスは山道をひとり歩いていた。細く折れた枝、湿った空気、苔に沈んだ足跡。森の奥に、灯火がひとつ、微かに揺れている。それが、目指す場所だった。古びた祠を抜けた先に、小さな庵があった。屋根は斜めに傾き、扉も重そうに閉じられている。それでも、そこには人の気配があった。──あの神父が、生きている。リリウスが一歩踏み出すと、扉がわずかに軋みを立てて開いた。「……君か」静かな声だった。立っていたのは、白髪の神父だった。目は細く、皺の刻まれたその表情には、どこかで見たような祈りの残響があった。「名を」「リリウス・クラウディア」その名を聞いた瞬間、神父の目がうっすらと開かれた。「……やはり。あの時、記録に残した名だ」「記録……?」神父は扉を開け、リリウスを中へ通した。※庵の中は、祭壇こそないが、空気が神殿に似ていた。石壁にかかる古布、焼け跡の残る祈祷具。それらすべてが、彼の記憶と重なる。「君は、“視える”のだろう」「……はい。感応で、神殿の中にいた少女を視ました」神父は頷き、椅子に腰を下ろした。「彼女は、祈祷に選ばれた子だった。あの地に封じるために。いや、“彼女自身”を封じるために、あの儀式は行われた」「なぜ……そんなことを」「彼女は、視えすぎた。感情の奔流に晒され、世界を取り込むようになってしまった。あのままでは、彼女自身が壊れる……あるいは、“誰かを壊す”」リリウスは息を呑んだ。「だから封じた。彼女の“祈り”を鍵としてな」「その祈りが、今も……」「続いているのだろう。でなければ、君のような者が、こうして現れるはずがない」リリウスは拳を握る。「僕が視た彼女は、まだ“そこ”にいた。崩れる神殿で、祈りを続けていた……」「それが、封印の証だ。だが、封は弱まりつつある」神父の目が、深く沈む。「君は、彼女と“繋がった”のかもしれない。血ではなく、魂の共鳴で」「……僕の力は、彼女に由来している?」「断定はできない。ただ、君の名はあの地で既に記されていた」「それは──」問いかけようとした瞬間、外から足音が近づいた。振り返った庵の入口に、ひとりの影が立っていた。カイルだった。「……あまり勝手をするな」カイルの声は低く抑えられていた。次の瞬間、彼の腕が伸びる。リリウスの肩に触れ──その
──祈りは、終わっていない。その言葉が、リリウスの中で何度も反響していた。療養中の部屋。結局、リリウスはあの後熱を出し、数日間伏せっていた。ようやく熱も下がり、身体は多少重いなりにも動くようになっていた。けれど、心の方は静まらなかった。机には、何枚もの紙が並べられている。感応で視た神殿の構造。封印の儀式。少女の姿。そして、その場に立っていた自分の足元。「僕にしか、伝えられないなら──やるしかない」手は止まらなかった。記憶を線に変え、祈りを図にし、わずかな断片を繋ぎ合わせていく。そのときだった。扉の向こうから、重い足音。現れたのは副官。そしてその後ろに、軍の高官がいた。「リリウス・クラウディア。上層部の命令だ。本日より、神殿事件に関するすべての調査・接触を禁ずる」言い換えれば、能力の使用制限。「体調の安静を理由に、別棟での療養へ移ってもらう」それは“保護”の名を借りた、事実上の隔離だった。「理由は……?」「お前の力が、暴走の危険を含むと判断された」副官は口を噤んだまま目を伏せていた。(視た者は……縛られるのか)リリウスの中に、熱が広がった。※その夜、部屋の灯りは落とされていた。けれどリリウスは眠っていなかった。扉の下から差し込むわずかな光。机の上に残した手紙には、短くこう記してある。──見捨てることは、できません。彼は軍服ではなく、旅装に身を包んでいた。古い外套を羽織り、薄くした荷物を背負う。(祈りの続きを知るには、“あの人”に会うしかない)副官が教えてくれた名──マルティナ神父。十数年前の神殿で祈祷を司っていた最後の生き残り。今は北の山間、祠の奥に庵を構えているという。「一晩で辿り着くのは無理でも……」窓を開けて外に出る。夜風が冷たく頬を叩く。でも不思議と痛くなかった。誰かに見つかる前に──と、足を進めたそのとき。視線を感じた。振り返ると、遠くの書斎の灯りがゆらいでいた。誰かが立っている気配。けれど確かめることなく、リリウスは闇へ溶けた。※書斎の中、カイルは窓辺で立っていた。月明かりに照らされた紙の上には、リリウスの走り書きが一枚。「……行ったか」背後から副官が現れる。「追いますか?」「そうだな……しかし」カイルは静かに言った。「まずは、見せてもらう。“視た者の行
──祈りは、終わっていなかった。焦げた世界が静かに反転する。焼け落ちた神殿の瓦礫が逆巻き、空へ戻り、崩れた柱が立ち直る。そしてそこに、リリウスは立っていた。見たこともないはずの神殿の中。けれど、その空気の重さと、石の匂いは確かに“知っていた”。祭壇には灯りがあり、儀式の装飾が整えられている。誰かが祈りを捧げ、誰かが歌を歌っていた。その最奥。リリウスの方を、ひとりの少女がじっと見ていた。細い体。灰色の衣。瞳は薄い琥珀。その目に映るものが、恐れではなく、静かな覚悟だったことをリリウスはすぐに理解した。「……君は」声を出したつもりだったが、音は空気に溶けた。少女は何も言わない。ただ視線を逸らさず、胸に何かを抱えていた。それは、小さな祈祷書──あるいは、“封”そのものかもしれない。視界が揺れた。次の瞬間、外から轟音。神殿の壁が震える。兵の怒号。足音。祈りの声が掻き消されるようにかき乱されていく。少女がそれでも動かず、ただ強く祈る姿が焼き付く。その口元がわずかに動いた。「──封じなければ」言葉ではなかった。けれど、確かに伝わってきた。彼女は何かを“閉じ込めていた”。それが“焼かれた理由”だった。「君は、ここに残ったんだ……」リリウスの胸に言葉が浮かぶ。──あの子は、まだ祈っている。その瞬間、世界が激しく割れる。天井が崩れ、火の手が回る。空間が赤く染まる。リリウスは倒れそうになりながらも、少女の方へ手を伸ばした。だがその指先に届く前に、別の“気配”が現れた。冷たい、深い、底のない何か。──視てしまったのか。耳元で、誰かが囁く。──まだ早い。目を閉じろ。沈め。戻れ。声は感情ではなかった。意志そのものだった。(……誰?)問いは届かなかった。少女の姿が遠ざかり、神殿が崩れ、火に呑まれていく。──すべてが灰に還る直前。リリウスはようやく、自分が“視てはいけない何か”を跨いだのだと知った。※現実に戻ったとき、世界は静かだった。カイルの腕の中、リリウスは目を開いた。薄く光の差す空が見える。「……生きてる」そう呟いたのは、どちらか分からなかった。「目は覚めたか」カイルの声。リリウスは小さく頷いた。「……“あの子”がいた。まだ、そこに」「視たのか」「はい。神殿の中。祈っていた。僕
神殿跡地へ向かう馬車の中、リリウスは何度も指先を握っては開いた。空気が重い。言葉を発せば、それが砕けてしまいそうで、何も言えなかった。カイルが隣に座っていた。窓の外を眺めていたが、突然声を落とした。「見たくないなら、帰ってもいい」「……いいえ。僕の力が反応した場所なら、僕自身が確かめなければ」カイルはそれ以上何も言わなかった。馬車の車輪が小石を踏む音だけが、しばらく続いた。※神殿跡地は、想像していたよりもずっと静かだった。柱は焼け落ち、天蓋は失われ、苔むした石畳がその下に広がっている。空は灰色、陽も差さない。まるで、この場所そのものが、まだ“過去”に留まっているかのようだった。周囲を警備する兵士たちは、神妙な面持ちで距離を取っていた。「呪われた土地」「誰も近づきたがらない」──そんな言葉が漏れ聞こえる。それでも、リリウスは迷わず奥へ進んだ。足元には、焼け残った祈祷道具が散乱していた。焦げた金属の輪、煤けた布片、剥落した装飾壁。なぜか、それらが懐かしくすら思えた。見たことのないはずの風景に、胸の奥がざわめく。(僕……ここにいた?)そんな錯覚さえ、否定できなかった。「……あの夜」不意に、カイルが口を開いた。「俺はこの神殿に“命令を実行する者”として来た」リリウスは振り返らなかった。ただ耳を澄ませた。「神殿に潜伏していた反乱分子を排除せよ──それが任務だった。だが現場に着いたときには、すでに内部で何かが起きていた」「……焼かれていた?」「いや、“祈っていた”」その言葉に、リリウスの足が止まった。「誰かが、何かにすがるように祈っていた。俺には意味が分からなかった。……ただ、剣を収めた」それが、カイルの語る“過去”だった。リリウスはゆっくりと、神殿の中央──かつて祭壇があった場所へ歩み出た。焦げた大理石。その上に立った瞬間、空気がわずかに変わった。(……ここだ)立っているだけで、皮膚の下に何かが染みてくる。記憶でも、魔力でもない。もっと曖昧で、それでも確かに“残されている何か”。目を閉じる。風の音が止まる。灰色の世界のなかに、微かな光が現れる。──誰かの声。『お願い……まだ、生きていて……』子どもの泣き声。祈る声。それが、焼け落ちた空の中に響いていた。「──っ……!」頭が、軋む。世界
──お前が見ていたのは、俺の記憶かもしれん。カイルの声が、夜の静けさに溶けていた。それなのに、耳の奥にずっと残っている。翌朝、リリウスは早くに目覚めていた。体は少し重い。それでも、今は別の“重さ”の方が気になっていた。(あれが、カイルの記憶……なら、僕が感じた“感情”も、彼のもの?)命令の声。崩れる神殿。焼ける祈り。昨日描いたスケッチを手に取り、静かに机に向かう。「もう一度、見せて……」誰にともなくそう呟いて、意識を深く潜らせる。紙に残された線、色、構図。それをなぞるように、記憶の扉がゆっくりと開いていく。──風の音。熱。涙の匂い。そして、聞こえた。「進軍を許可する」「Ωは隔離。感情の揺れに巻き込まれるな」鋭く、冷たい命令の声。けれどその裏に、どこかで叫ぶような苦しみもあった。(この声……カイルだ)若い、まだ未熟さが残る声。でも、それでも彼は命令を下していた。兵士として、王の血を背負う者として。その記憶がリリウスの胸に流れ込む。次の瞬間、視界が弾けた。痛み。激しい眩暈。「──っ!」鼻血が落ちる。額を机にぶつけかけ、慌てて手をついて支える。呼吸が浅くなる。意識が遠のく。(やっぱり……これは“見る”だけじゃ済まない)それでも、逃げなかった。(ここで止めたら、僕は何も変われない) リリウスはフラつく足取りのまま、執務室へ向かった。カイルは既に資料に目を通していた。その気配はいつも通り。淡々として、冷静だった。「カイル様」「感応の続きか」「……はい。少し、確信が持てたんです」カイルが視線を上げる。「あなたは、あの場で“命令をしていた”。それも、迷いながら」「……よく見えていたな」「つまり、僕が視ているのは“記録”じゃない。“あなたの感情そのもの”なんです」カイルの表情は変わらない。だが、その目がわずかに揺れていた。「感応とは、そういうものなのか」「……たぶん。繋がった相手の“最も強い感情”に、引っ張られる」沈黙が落ちる。けれど、その沈黙は拒絶ではなかった。「それで? 何を確かめたい」「……この力の出どころです。僕が拾ってるのは、他人の感情か、それとも──もっと別の何かか」カイルは立ち上がり、窓の外に視線をやった。「その答えは、案外すぐ見つかるかもしれん」「え?」カイル