【2015年3月】前の客が吸ったのであろうタバコの香りが残る、安いビジネスホテルの窓から見える東京の街は、夜の光で冷たく輝いていた。こんなところに泊っているなんて悠真が知ったら、多少は気の毒に思ってくれただろうか。プチ家出の際も、贅沢はしなかった。冷たくされた腹いせに旦那の稼ぎで豪遊する妻も世の中にはいるようだが、それと同じことをするのは私のプライドが許さなかった。悠真に隠れて更新していたライフハック系ブログや、フリマアプリの収入ですべてまかなっていた。当然ながら、愛のない養父母の元へ帰るという選択肢は最初からなかった。今は悠真から渡された“報酬”でまとまったお金もあるが、すぐ手を出す気にはなれなかった――数日前のあの夜、悠真の冷たい瞳と百合子の影を背に、家を飛び出した私。スーツケース一つでこのホテルに身を寄せ、新居を探す日々を送っていた。双子を守るため、新しい人生を始めると決めたのだ。“報酬”は新生活の資金に充てたかった。だが同時に、心のどこかで、悠真への愛がまだ疼く。借り物の身分で縛られた私でも、彼を愛していたのは本当だった。彼から受け取ったお金に手を出せないでいるのは、まだ未練があるからかもしれない。それに、彼の言葉――「浅ましいよ、遥花」が、いまだに私の胸につっかえている。倹約も、その「浅ましい」という言葉を否定するための無駄な努力のように思えた。とにかく、この過渡期のような日々も、じきに終わる。新しい部屋を見つけたのだ。狭いアパートだが、双子と私の未来を築くには十分だ。翌日、契約のため、住民票を取りに区役所へ向かった。カウンターの職員が事務的な声で告げる。「道仲様――いえ、大道寺遥花様」と、いきなり旧姓で呼ばれて驚く。いや、旧姓はどちらだろう? 嫌な予感がした。「どうやらお伺いした内容と齟齬があり、あなたはまだ大道寺家の籍に入られたままのようです。離婚届、提出されてませんね」予感が的中し、心臓が止まりそうだった。悠真の怯えた瞳、最後の「離さないぞ」が頭をよぎる。あの言葉は、ただの気の迷いじゃなかったのか?それに「役所には俺の方から出しといてやる」と、彼の方が言ったのだ。そんな言葉を信じた私が浅はかだったのか。いずれにしても、私が動かなければこの借り物の婚姻関係は終わらない。双子の命を守るため、私はもう彼から独立すると決めたのに――。突然、鋭い腹痛が襲ってきた。お腹を押さえるが、痛みは止まらない。視界が揺れ、意識が遠のく。「大丈夫ですか!?」役員の声が遠く聞こえる。次の瞬間、すべてが暗闇に落ちた。※目を開けると、白い天井と消毒液の匂い。知らない病院のベッドだった。医師が、穏やかだが心配そうな顔で私を見下ろしている。「大道寺さん、意識が戻ってよかったです」だが、私は気が気じゃなかった。「私……お腹に双子がいるんです! 子供は無事ですか!? 子宮頸管無力症で、リスクが高いって言われて……」「安心してください、お子さんも無事ですよ」言われて、安堵と恐怖が同時に押し寄せる。双子は無事。でも、この子たちの存在を、あの家に知られたくない。「先生、このこと……夫には伝えていませんよね?」「旦那さん? 緊急のため役所の方から連絡先をいただきまして、携帯電話にも職場にもかけてみたのですが、会議が長引いてると言われてしまいまして……」「お願いです」私は医師の手を握り、声を震わせた。「私が妊娠していることは、誰にも言わないでください。夫にも、ステアリンググループにも」医師は一瞬、驚いたように目を見開いたが、「何やらわけありのようですね。そもそも奥さんが倒れられたときに電話に出られない旦那さんなんて、おかしいと思ったのですが……」やがて何か納得したように、静かに頷く。「了解しました、遥花さん。こういうとき、できればご家族のサポートを得ることが重要なのですが、そこに困難があるのであれば、今は母体の精神的な安定が一番の優先事項です。あなたの意志を尊重します」その優しい声に、涙がこぼれそうになる。でも、泣くわけにはいかない。双子のために、私は強くならなければならない。※退院後、私は決意を固めた。悠真が動かないなら、私が動くしかない。ステアリンググループの若夫人という肩書きを、完全に捨てる時だ。ステアリングタワーの最上階、総帥――悠真の父のオフィスに向かった。秘書は驚いた顔をしながらも、私を通してくれた。広大なオフィスに、総帥が座っていた。白髪交じりの髪、鋭い目。だが、私を見るその瞳には、いつもと違う柔らかさがあった。「遥花君、急な訪問だな」総帥の声は低く、落ち着いている。「何か用か?」私は深く息を吸い、言葉を紡いだ。「総帥、婚姻契約の解除を申し入れます」総帥の、白くて太い眉が上がる。私は続ける。「二年間、私は若夫人として務めました。でも、もうその役割は終わりです。悠真と築き上げてきた家庭は、私の居場所ではありませんでした」養父母の「借り物の娘」という言葉、百合子の不倫の影、玄関の封筒――偽りに満ちたあの家を思い出す。もちろん、それらの話を打ち明けはしない。話したのは、すべて私の力不足であるという内容だ。それでも総帥は何かを察したように静かに聞き、深いため息をついた。「君は惜しい人材だった。誠実で、知性がある。本当に、それでいいのか?」彼の声には、無念の色がにじむ。私は頷く。「はい。私の決意です」※翌日、再びステアリングタワーの会議室にて。総帥から呼び出された悠真が現れた。その顔は、怒りと混乱で歪んでいる。「また同情を買うつもりか?」部屋に入るなり、叫んだ。「俺を悪者に仕立てて、満足かよ!」総帥は白い眉を上げて言う。「悠真よ、遥花君はお前に対して何一つ不満は述べなかったぞ。なのに、その態度はなんだ。まるで聞いた話と違うな。これでは本当に、お前の方に非があったように見受けられるが」ハッとして悠真は口をつぐむ。私も、そんな哀れな彼の姿は見たくなかった。かつての彼の姿を感じられないだけでなく、もはや本当に可哀そうなだけの人にすら思えてくる。ただ、同情してもいられない。双子を守るため、強くならねば。静かに悠真を見つめる。自分でも想像以上に冷たい目をしてしまっていたのか、彼は一瞬、私を見て息を呑んだ。「本日をもって、婚姻契約の解除を正式に申し入れます」私の声は淡々と響く。「ステアリンググループの“若夫人”という肩書きも、そこに付随する一切の権利・利益も、全て放棄いたします」会議室の空気が凍りつく一方で、総帥は静かに頷く。離婚届は、すでに秘書の手に渡っている。悠真は何かを言い返そうとしているように見えた。だが、私の決意に圧されたのか、口を開くことはなかった。彼の瞳に、怯えた光が揺れる。あの夜の「離さないぞ」という言葉を思い出すが、それがもう数十年も過去のことのように感じられた。秘書の手から、同時にその場に呼び出されていた役所の職員の手に、離婚届が渡された。「確かに」と、職員の一言で、今度こそ私達の夫婦生活は幕を閉じた。私は会議室の人々から背を向ける。ステアリングタワーのガラス窓から、東京の街が見えた。この借り物でしかなかった世界から、私は自由になる。双子と、私だけの新しい人生を始めるために。
カップの中のコーヒーは、すでに冷たくなっていた。カフェの個室で、百合子から打ち明けられた話を頭の中でまとめながら、ズズッとすする。「やっぱり、困っちゃいますよね……こんな大昔の話をされても」彼女の目が、俺の過去を覗き込むように光る。慌てて逸らし、個室のガラス窓越しに、冷たく輝く東京のビル群を見つめる。彼女が打ち明けたのは、俺が10歳のころに遭った、誘拐事件の話だった。思い出したくもなかった恐怖と絶望の過去。あのとき、俺の人生は終わっていてもおかしくなかった。それを助け出してくれたのが、一人の少女――当時まだ6歳の、佐野百合子だったというのだ。「もう少し、詳しく聞かせてくれないか――その、思い出せる範囲でいいし、辛くなるなら、途中でやめてもいい」百合子は頷く。「大丈夫ですよ。ぜんぶ覚えていますから……それにこれは、私にとっては大切な記憶でもありますから。その、不謹慎に思われたら申し訳ないですけど」俺は首を振る。感情なんてどうでもいい。今はただ、真実が知りたかった。「あの日実は、私も誘拐されて、別の部屋に閉じ込められていたんです」「――君も?」「ええ。驚かれるでしょうが、当時、私の父が経営するダスクコーポレーションは、ステアリンググループの過去の取引先だったんです。だけど、リーマンショック以降の投資の失敗で没落してしまって」ダスクコーポレーション。遥花の養父母が経営するルミナスコーポレーションは、リーマンショックのあとで急成長していた。一方でダスクは没落。ルミナスもダスクも、どちらも運輸で財を成したステアリンググループに関係する、物流関連の企業だ。業界の明暗を分けた二つの企業が、こんな形で俺の人生に絡むとは皮肉だ。「あの日、暗闇の中で、私は一人でした。手足を縛られ、冷たいコンクリートの床に座って、ただ震えていたんです」いつもは耳障りなくらい高めの百合子の声が、強く抑え付けたようにグッと低くなる。「でも、そのとき男の子の叫び声を聞きました。私だけじゃない、他にも誘拐された子がいる。助けなきゃと、不思議な気持ちが湧いたんです。自分よりも誰かのことを優先したいという気持ちに駆られたのは、ひょっとしたらあの時が初めてかもしれません」徐々に記憶が戻ってくる。叫んでも誰も来ない。喉が枯れ、飢えと恐怖が俺を蝕んだ。父の顔も、母の声も、頭から消えて、絶望
【2015年5月】離婚から3ヶ月、俺の生活は空虚だ。ステアリングタワーの最上階に君臨する父の冷徹な目や、ガラス張りのオフィスでの会議の重圧に追われる日々。「後継者たれ」という父の命令や、書類の山、数字の羅列。それが俺のすべてとなった。俺の離婚報道は、ささやかながら世間を賑わせた。離婚のきっかけや原因は何だったのかという突撃の取材も電話で舞い込むようになり、社員達にはすべてシャットアウトするよう通達された。それでも「モラハラが原因か?」「夫の不倫か?」などの記事が書かれ、もしかして遥花や百合子が記者に情報を売ったのかと慌てて雑誌を買い漁り、読み込んだりもした。だが載っている情報はどれもデタラメで、記者の妄想の域を出ない話ばかり。SNSの反応を見ても、誰も信用してないようで胸をなでおろす。一方、ステアリンググループ企業の株価は、なぜか軒並み急騰したりもした。「総帥の息子が離婚したことで、グループとしても注目を浴びたんだろう」「これならどんどん入籍してもらって、どんどんバツを重ねてもらわないと」などと、株主たちの勝手なネットの書き込みを見ては、辟易とした。逆に遥花の養父母が経営するルミナスコーポレーションは、大きく株価を落とした。取引については離婚後も変わらず続けるという約束が交わされはしたが、その次の月には早速、出荷の枠が減らされていた。これを株価のせいだけと捉えてよいものか。会社と会社の関係性も、人間関係となんら変わることはない。信用を失えば希薄になっていくだけだ。父はさっそく、俺の次の婚姻先を考えているようだった。「心配するな。信用が絶たれたとしても、新たな信頼関係を築けば良いのだ」。珍しく優しい言葉をかけてくれながらも、太くて真っ白の眉毛は強張っていた。結局俺は、駒としか見られていなかった。また繰り返しだ。別の取引先と政略結婚が結ばれ、またグループの利益のためだけの、愛のない生活が始まる。遥花との生活の方がよほどマシだったと思うだろう。夜になると、遥花の涙が頭をよぎる。あの夜、俺は彼女を「浅ましい」と嘲り、銀行カードを投げた。妻だった女性にそんな態度を取ってしまったことが、自分でも信じられなくなる。「離婚しましょう」と突きつけられた声、去っていく彼女を載せた車のテールランプ。それらの記憶が、いまだに胸を締め付けてくる。あの時の俺は、何かに憑りつか
【2015年3月】前の客が吸ったのであろうタバコの香りが残る、安いビジネスホテルの窓から見える東京の街は、夜の光で冷たく輝いていた。こんなところに泊っているなんて悠真が知ったら、多少は気の毒に思ってくれただろうか。プチ家出の際も、贅沢はしなかった。冷たくされた腹いせに旦那の稼ぎで豪遊する妻も世の中にはいるようだが、それと同じことをするのは私のプライドが許さなかった。悠真に隠れて更新していたライフハック系ブログや、フリマアプリの収入ですべてまかなっていた。当然ながら、愛のない養父母の元へ帰るという選択肢は最初からなかった。今は悠真から渡された“報酬”でまとまったお金もあるが、すぐ手を出す気にはなれなかった――数日前のあの夜、悠真の冷たい瞳と百合子の影を背に、家を飛び出した私。スーツケース一つでこのホテルに身を寄せ、新居を探す日々を送っていた。双子を守るため、新しい人生を始めると決めたのだ。“報酬”は新生活の資金に充てたかった。だが同時に、心のどこかで、悠真への愛がまだ疼く。借り物の身分で縛られた私でも、彼を愛していたのは本当だった。彼から受け取ったお金に手を出せないでいるのは、まだ未練があるからかもしれない。それに、彼の言葉――「浅ましいよ、遥花」が、いまだに私の胸につっかえている。倹約も、その「浅ましい」という言葉を否定するための無駄な努力のように思えた。とにかく、この過渡期のような日々も、じきに終わる。新しい部屋を見つけたのだ。狭いアパートだが、双子と私の未来を築くには十分だ。翌日、契約のため、住民票を取りに区役所へ向かった。カウンターの職員が事務的な声で告げる。「道仲様――いえ、大道寺遥花様」と、いきなり旧姓で呼ばれて驚く。いや、旧姓はどちらだろう? 嫌な予感がした。「どうやらお伺いした内容と齟齬があり、あなたはまだ大道寺家の籍に入られたままのようです。離婚届、提出されてませんね」予感が的中し、心臓が止まりそうだった。悠真の怯えた瞳、最後の「離さないぞ」が頭をよぎる。あの言葉は、ただの気の迷いじゃなかったのか?それに「役所には俺の方から出しといてやる」と、彼の方が言ったのだ。そんな言葉を信じた私が浅はかだったのか。いずれにしても、私が動かなければこの借り物の婚姻関係は終わらない。双子の命を守るため、私はもう彼から独立すると決めたのに――。
ステアリンググループの後継者――それが俺の人生の全てだ。父の冷徹な目と、終わらない会議室の重圧の中で、俺はただ従うように育てられた。自分で選べたものは何一つない。好きな服も、友だちも、将来も。全部、父が決めた「帝王学」の一部だった。この豪華な邸宅も、ただの檻だ。遥花との結婚もそうだ。二年前、父が「ビジネスのため」と押し付けた政略結婚。彼女の養父母が大手取引先の物流系企業であるルミナスコーポレーションだと聞いた時、俺は素直に信じた。だが初めて会った夜、屈託のない笑顔を見せながら俺に身を委ねてきたその女性を抱きながら、かえって怖くなった。人は誰しも打算的に動くものだ。遥花もそんな人間に違いないと思ったのに、まるで裏表が無いように振舞う彼女を見ながら、「正体がつかめない女」だと怯えた。ひょっとしてこれは全部、遥花自身が仕組んだ罠じゃないのか? ルミナスコーポレーションも、2008年のリーマンショック以降、景気回復による物流需要と共に急成長した企業だと聞く。それ以前には名前も聞いたことのないような中小企業だったはずだ。叩き上げである養父母の企みもあるだろうが、それもすべて遥花の思惑で、俺を縛るための策略だったんじゃないのか? そう疑い続けて、俺は彼女に嫌悪と警戒を抱いてきた。「悠真……好きよ。あなたと一緒になれて良かった……。私の人生はすべて“借り物”だったわ。だけどあなたに出会えてようやく、ようやく私自身の人生を手に入れることができた。ずっと愛してる。いっぱい、いっぱい愛させて……」そう言われ、夜のベッドで情熱的に求められたこともあった。俺も男なら、誘われたなら応じてしまうのが性というものだ。正直、体の相性も悪くなかった。妻として愛せなくても、娼婦だと思えば最高の相手なのではないか。そんな考えが湧いては、醜悪な自分自身に嫌悪感を抱いたりもした。百合子が現れたのは、結婚して半年ほど経ったころだったろうか。転入してきた社員たちの研修で、「何か質問はありますか」と俺が尋ねた際、「はい!」と気持ちよい声を発して手を挙げた彼女の手首には、目立つような傷があった。今どき手首に傷のある女性なんて珍しくはない。ただ普通はリストバンドなどを巻いて隠しているものだ。確か、妻の遥花も巻いていたように思う。理由は知らない。ただ養父母の元でいろいろ厳しく躾けられたのもあるだろうし
寝室の空気が凍りつく。離婚届を前に、悠真は明らかに動揺した様子だった。だが、しばらくして。彼は頭を何度か振り、大きなため息をつくと、急に嘲るような笑みを浮かべてこう言った。「お前が、俺を捨てる気か?」その声は低く、拳を握りしめた手はわずかに震え、取り繕っているのがわかる。しかしその口から発せられる言葉は、相変わらず無慈悲だ。「遥花、お前はいつもこうだ。何を企んでる? この結婚だって、お前の養父母の――ルミナスコーポレーションの計画だったんだろ? それが……今度は、離婚だって? そんなことしてどうする。慰謝料でもせびるつもりか?」胸が締め付けられる。慰謝料? 私がそんなものを欲しがる人間だと? 悠真を愛していた。心のどこかで今も愛している。なのに彼の目には、やはり私は養父母の道具としか映っていないのだ。「いいえ。そんなもののためじゃない」私も声が震えたが、もう後には引けない。「親の都合なんて関係ない。私自身がもう、この家にいる理由を見いだせないの。だからよ」悠真の目が細まる。「理由を見いだせない、か」次の瞬間、彼の手が私の首に伸びた。「また新しい策略か? 今度は何を狙ってる!」指が食い込み、息が苦しくなる。でも、私は目を逸らさなかった。「あなたには本物の愛が必要なんでしょう?」言葉を喉から絞り出す。「あなたは、私より百合子さんが大切なんでしょう? なぜサインできないの? 私なんかと別れて、堂々と付き合えばいいじゃない!」悠真は怯えるような顔をした後、首から手を離した。一瞬だけ私から目を逸らしたが、じきにハッとしたような表情を浮かべ、「……なるほど、スキャンダル狙いってわけか?」彼の声が、鋭く切り込む。「俺が彼女と不倫してるとでも思ってやがるんだな……離婚して、俺を週刊誌に売り出す気だろう。お前ならやりかねないな!」慰謝料の次は、スキャンダル目的だと――正気だろうか?私の愛したあの優しい笑顔を、ほんの一瞬でも見せてくれた彼は、もうそこにはいなかった。目の前にいるのは別の生き物。冷たく、疑い深い、知らない男だ。絶望に打ちひしがれる私から、悠真は離婚届を奪う。ペンを握る手を震わせながら、乱暴に署名を殴り書き、しっかりとこちらに見せつけてくる。「これで満足か、遥花? 役所には俺の方から出しといてやるよ。ほら、ついでにお前への“報酬”だ!」彼の
【2015年2月】朝の光がカーテンの隙間から差し込み、温かな腕に抱かれる夢を溶かした。目を覚ますと、頬に残る甘い感触が消え、冷たい天井だけがそこにある。胸が締め付けられるように痛んだ。隣の枕は、いつものように空っぽだ。夫の大道寺悠真(だいどうじ ゆうま)――ステアリンググループの御曹司であり、あの冷たい瞳の持ち主は、もう一ヶ月もこの東京・港区に構える屋敷に帰っていない。広い寝室に、私の吐息だけが響く。二年前、悠真との結婚を「愛の始まり」だと思った。ルミナスコーポレーションの経営者である養父母に育てられ、ビジネスの駒として厳しく躾けられた私にとって、この婚姻は初めて「本当の家族」をくれる希望だった。でも、それは悪夢の始まりだった。「お前は借り物の娘だ」「恩を返せ」。養父母の声が今も耳に残り、企業間の冷たい取引の記憶が時折よぎる。私の愛だけは、借り物なんかではない、私自身のものだと思っていた。そう思いたかったのに。再び夢の中へ戻りたいという欲望に駆られる。“好きだよ、愛してる”と、甘い声で囁きながらベッドの中で深く私を抱きしめてくれた悠真。そんな彼とはもう、夢の中でしか会えない。そもそも結婚当初の彼も、実際にそんな風だったろうか。もはや過去を美化しすぎた妄想か、ただの夢かとも思えてくる。ふと、お腹をさする。何やら違和感があった。最後に「あれ」がきたのはいつだったろう。季節やストレスなどの影響によって時期がズレることもあるが、心当たりがないこともなかった。悠真が酔った勢いで私を抱いたのは、まさに最後に彼が家に帰ってきた一ヶ月前だ。まるで性処理道具のように扱われ、私の心は打ちひしがれた。当然、避妊もなかった。「夫婦だろ。何を気にしてやがる」アルコール臭い息を吐きながら悠真は言った。わかっている。ステアリンググループという大きな組織の跡取りの妻として、子を為すことは私の義務だ。また、時には夫のストレスの捌け口になることだって妻の使命。それでも、彼の腕の中で愛を感じたかった。大切な夫婦の営みに、そうした心の安らぎを望むのは悪なのだろうか。許されないのは、私が所詮“借り物”の存在に過ぎないからなのか。気怠さを振り払いながら、近くの産婦人科の予約を確認する。予感が的中したとしたらどうしよう。わからない。ただ、先のことなど思案する余裕はなかった。午前中の予約