離婚後、禁欲系ボスが妊娠中の元妻にこっそりキス

午後十時、王朝ホテル。

池田音瀬（いけだ おとせ）はドアプレートを確認した。7203号、スイートルーム。

ここだ。

スマホが鳴った。池田俊夫（いけだ としお）からのLineだった。

——音瀬、お前のおばさんが承諾したぞ。杉村社長をしっかりもてなせば、すぐに弟の治療費を払ってやるそうだ。

音瀬は画面を見つめ、青白い顔のまま無表情だった。

もう何も感じなくなっていた。痛みすらも。

父親が再婚してからというもの、彼の目には音瀬と弟の存在などなかった。十数年間、継母の冷遇や虐待を黙認し続けてきたのだ。

衣食に困るのは当たり前、暴力や侮辱は日常茶飯事だった。

そして今度は、商売の借金を理由に男の相手をしろ……と！

音瀬が拒めば、弟の治療費は即刻打ち切られる。

弟は自閉症を患っている。治療を止めるわけにはいかない。

動物の親でさえ、我が子を喰らうことはないというのに、俊夫は獣以下だ！

弟のために、音瀬に選択肢はなかった……

部屋の前に立ち、音瀬は深く息を吸い込み、手を上げてノックした。

ドアはわずかに開いており、軽く押しただけで開いた。

部屋の中は暗く、光一つなかった。

音瀬は眉をひそめ、手探りで中へ進んだ。「杉村社長、入ります……っ」

突然、力強い腕が彼女の首を締め上げ、そのまま壁に押しつけた。

音瀬の背中が強く打ちつけられ、濃厚な男の気配が一瞬で彼女を包み込んだ。

男の低い声が荒々しく響き、指の力が増す。「俺に何をした？」

音瀬の頭は真っ白になった。何が起こっているのか理解できない。

喉を締め上げられたまま、必死に首を振り、途切れ途切れに声を絞り出す。「わ、たし……な、にも……しら、な……い……」

首を締めていた手が突然離れる。代わりに男は彼女の細い腰を掴み、自分の方へ引き寄せた。

鍛え上げられた筋肉の輪郭が、音瀬の柔らかな体にくっきりと押し付けられる。

見えなくても分かる。男の体は異常なほど熱を帯びていた。

口を開けば、吐息さえも熱い。「チャンスをやる。俺を突き放せ！今すぐ出ていけ」

音瀬は目を見開いた。出て行けって？

杉村社長は彼女の態度が気に入らないのか？積極性が足りないとでも？

ダメだ。弟のために、ここを出るわけにはいかない！

ここまで来た以上、躊躇なんてしていられない！

「出て行かない……今夜は……私はあなたのものです」

彼女は両腕を男の首に回し、つま先立ちになって手探りで唇を重ねた。

ぎこちなく、不器用な口づけ。

男は全身を震わせた。女の唇は柔らかくひんやりとしていて、その瞬間、彼の最後の理性までもが灰となって燃え尽きた！

「汚れてないか？」

男の息は荒くなり、苦しげに押し殺されていた。

音瀬は深く考える余裕もなく、ただ唇を震わせながら屈辱に目を閉じた。

「……汚れてない」

「本当のことを言ったほうが身のためだぞ！」

言い終えると、彼女の体を横抱きにし、そのままベッドに放り投げ、自身も覆いかぶさった。

「いい子だ。今夜が終われば、お前は俺のものだ」

たくましい手が彼女の腰を押さえつけ、寝具に沈める。しゃがれた声が耳元で響いた。

熱を帯びた唇が容赦なく降り注ぐ……

羞恥と痛みが入り混じる中、音瀬は唇を噛み、ぎゅっと目を閉じた……

次第に耐えきれなくなり、涙ながらに懇願するも、男は聞く耳を持たず、なおも激しく求め続けた。まるで尽きることのない欲望のように。

一晩中、死んでは生き返るような……

音瀬は痛みによって目を覚ました。

男の腕に抱かれたまま、微かに漂うタバコの香りと、ミントのようなコロンの匂いを感じた。

悪くない香りだった。

音瀬は起き上がろうとしたが、腰に回された腕に押さえつけられた。

「起きたか？」

男が身を翻し、彼女の上に覆いかぶさる。音瀬は息を呑み、身動き一つできなかった。

「いい子だ。お前、嘘はついてないな、もう俺のものだ」

冷たい指先が頬をなぞる。その声はどこか満足げだった。

「一緒に風呂入るか？自分で歩けるか？抱いてやろうか？」

「えっ？」

音瀬は恐る恐る拳を握りしめ、慌てて首を振った。「い、いいです……あなたが先に……」

「チッ」

男は鼻で笑い、恥ずかしがっているのだと勝手に解釈した。無理強いはしない。

「なら、俺が先に入る」

彼女の頬をつまんでから、さっとベッドを降りた。「待ってろよ」

待てって？正気か？

あれだけ弄んで、まだ足りないっていうの？

バスルームの明かりが灯り、ようやく闇に包まれた世界から解放された。

音瀬は慌てて身を起こした。

「っ……！」

動いた瞬間、鋭い痛みが走り、息を呑んだ。どこか傷ついているのかもしれない。

それどころじゃない。バスルームの光を頼りに、床に散らばった服を掴み、痛みに耐えながら素早く身に着ける。男が出てくる前に、音瀬は部屋を飛び出した。

ホテルを出た瞬間、スマホが鳴った。

音瀬は画面をスライドし、通話を取る。「言われたことはやったわ。誠くんの治療費……」

「このクソガキ！ふざけてんのか？」

継母の池田祥子（いけだ しょうこ）の怒鳴り声が耳をつんざく。

「昨夜どこで何してたんだ？菜月（なつき）の代わりに杉村社長をもてなすって、自分で言ったんだろ？それなのに行かなかった？よくもまあ、あのバカ弟の治療費をせびれるもんだね！」

音瀬は冷ややかに笑った。「私が出る時、杉村社長は風呂に入ってたわ。まさか誤魔化すつもり？」

「ふざけるな！」祥子は怒鳴り散らした。「今すぐ戻ってこい！杉村社長を怒らせたら、その借金、あんたが払えるのか？」

怒鳴りつけるだけ怒鳴りつけて、一方的に電話を切られた。

音瀬は唖然とした。祥子の様子は冗談を言っているようには見えない。だけど昨夜、瀬は確かに……

杉村社長じゃなかった？じゃあ、昨夜の男は一体誰？

一体、どういうこと？

……

ホテルの部屋で、大塚拓海（おおつか たくみ）は中に入り、カーテンを引いた。空はほのかに明るくなり始め、青白い朝の光が差し込んできた。

バスルームの水音が止まる。

桐生湊斗（きりゅう みなと）がバスルームから出てきた。腰にはバスタオルを巻いている。

すらりとした長身、広い肩に引き締まった腰。モデルのように完璧な体つき。端正な顔立ちは、昨夜の満足を滲ませ、どこか気だるげだった。

彼は大塚を一瞥し、部屋の中をぐるりと見回す。あの子の姿が見当たらなかった。

眉をひそめる。「女は？」

大塚は一瞬きょとんとし、首を横に振った。「僕が入った時には、誰もいなかった」

湊斗の唇がわずかに上がる。視線を落とした先、純白のシーツに残る鮮やかな紅。目を細め、軽く笑った。

「逃げた？」

待ってろって言ったのに？

まったく、言うことを聞かないやつだ。

唇の端が、悪戯っぽく歪む。

成人してからというもの、女を宛がわれることは何度もあったが、最後までいったのは、昨夜が初めてだった。

誰かに薬を盛られ、そのまま思い通りにされてしまった。

薬のせいか？それとも、あの女が特別だったのか？

「拓海、昨夜のことを調べろ。それとあの女を探し出せ」