翌朝、重い体を引きずり抜け殻のようにベッドから這い出る。鏡に映った自分の顔は、青白く別人のようだった。
(昨夜の出来事が夢だったらいいのに……)
悪夢のような出来事に一睡もできなかった。ぼんやりとした頭で離婚協議書を見つめる。
(十億という高額な慰謝料は、彼の玲に対する愛情の深さなのか、それとも財産目当てで近づいた女への手切れ金なのだろうか。彼はそれほどまでに、私を追い出したがっているのだろうか?)
考えても答えは出ない。ただ彼の心がもうどこにも自分にはないと突きつけられただけだ。
慰謝料の金額には興味がなかった。ただ桁外れの金額を提示してまで離婚したがっている瑛斗とこれ以上やり取りをするのがつらかった。それにお腹の子どもを育てていくことを考えたら、彼の要求を黙って従うことにした。
リビングにも寝室にも彼の姿はなかった。執事に聞くと昨夜は一旦帰ってきてすぐに家を出たとのことだった。
(私と顔を合わせるのも嫌ってことなの?瑛斗は私が出ていくことを当然だと思っているのだろうか……。だからもうこの家にはいないの??)
食欲はなかったが、お腹の子どもたちのためにも少しでも栄養を摂らなくてはいけないと思いトーストとフルーツを口にした。今は何を食べても味がしなくてどれも同じに思えた。
「もしもし、三上先生?華です。今少しいいですか?」
「あー華ちゃん、調子はどう?つわりとか気持ち悪くなっていない?」
「大丈夫です。先生、ストレスって双子に影響するでしょうか?」
「直接的な絶対の原因とは言えないけど、悪影響ではあるね。それに華ちゃんは妊活で授かったこともあって流産の可能性も高いハイリスク妊娠だし。……どうしたの?一条くんと何かあった?」
「いえ、これからのことを考えたら瑛斗さんもお仕事忙しいから一人の時間が多いのかなと思って。」
「そういうことね。これから色々と変化も大きいし一条くんには色々二人で話し合った方がいいかもね」
「はい……。ありがとうございます。」
離婚のことは伏せて医師に相談の電話をした。妊娠の事はまだ三上先生しか知らず相談できる人がいなかった。三上家と神宮寺家は古くから付き合いがあり、専属医でもある。三上先生の事は医師としても人としても信頼していた。三上先生も医師として私の三年の妊活を支えてきてくれた人だ。
(昨日は言えなかったけれどせめてお腹の子たちのことだけは伝えておきたい……。私に気持ちがもうなくなっていたとしても子どものことを知ったら気持ちが変わるかもしれない。)
三年の時を経て、やっと私のお腹に子どもたちが舞い降りてきた。瑛斗だって妊娠を待ち侘びていたに違いない。同じ気持ちで喜べないにしても、子どもを授かった事実だけは伝えておきたかった。
彼の会社に行き、車を地下駐車場に止めて歩き始めると、入口からちょうど瑛斗が出てきたところだった。駆け寄って声を掛けようとした時に聞き覚えのある声が先に聞こえてきた。
「瑛斗!!!」
声の主は玲だった。二人は待ち合わせでもしていたのだろうか。玲は自然と瑛斗の元に駆け寄り話しかけている。私は二人にバレないように柱に身を隠し息をひそめた。二人の声が聞こえてくる。
「瑛斗、会いたかった。私はずっと瑛斗のことが好きだったの。瑛斗が離婚を切り出してくれて嬉しい。」
「華に口座のことを言ったが何のことか分からないって顔をしていたぞ。」
「それは演技よ。姉は昔から嘘だけは上手いの。いつも周りを欺いて良い思いばかりしているんだから。」
「華がそんな人だったなんて。全然見えなかった。なんで嘘なんて、嘘は大嫌いなんだ。」
「無理もないわ。他にもたくさんの人が騙されている。実の父だって気づいていないんだもの。瑛斗、可哀そう。辛かったわよね。姉の事なんて、私が忘れさせてあげる。それに私、妊活なんてしなくても元気な赤ちゃんをたくさん産むことが出来ると思うわ。子どもが出来たら瑛斗のお父様たちも喜ぶでしょう?」
玲はそう言うと彼に顔を近づけた。
吐き気がこみ上げてきて私はそのままこの場を後にした。幸い二人には気づかれていないようで今も何か話している。
(離婚届にはまだサインしていない。私たちはまだ夫婦なのに……。それなのに玲と離婚後の話をしているなんて……。もし、私が妊娠していることを知ったらこの子たちまで奪われてしまうの……?)
息をするのも苦しくなり私は家へと戻った。部屋に戻りお腹に手を当てる。小さな命が確かにここにいる。彼に、そして玲に子供たちを奪われるわけにはいかない。
私は、震える手でスーツケースを開き荷物を詰め始めた。彼のもの、二人の思い出の品……全部壊してめちゃくちゃにしたい衝動を押さえて、今後必要な物だけを厳選していく。すべてを詰め込み、最後に家の中をゆっくりと見渡した。
部屋にはあちこちに瑛斗との思い出が散らばっていた。彼との結婚が分かった料亭での結納の写真、結婚式、引き出物に特注で作った海外ブランドのカップ、婚約時に貰った3カラットのダイヤの指輪……。どれも瑛斗との大切な思い出だった。
(これまでの日々は何だったのだろう……。あんなに幸せだったのに。もう二度と戻ってこないなんて……。)
涙が止めどなく溢れてくるが、子供たちのためにも自分のためにも私は強くならなければならなかった。念願の妊娠を知った日は、瑛斗が私に愛がないこと、そして別れたがるほど嫌がられていたことを知る日となった。
震える手で離婚届と離婚協議書に署名する。結婚指輪を書類の上に置き、最後にもう一度だけ家の中を見渡した。
「さようなら……。私の愛した人。私の愛した家……。どうぞお幸せに……」
決して癒えることのない傷を心に抱えながら、私は静かに家を後にした。
エレベーターに乗りながら三上は今日の一連の出来事を振り返っていた。(……もしかして華ちゃんは妊娠のことを誰にも話をしていない?)夫の瑛斗と共に会社を経営している空という男性が私の元へ来て、華の様子を聞いてきた。「この書類は本当か?華さんは妊娠しているのか?」探偵でも雇ったのか、見せられた写真には盗撮でもしたような距離感でお腹の大きくなった華が映っていた。そして、コピーだろうが妊娠が分かった時に華に渡した妊娠報告書も持っている。その只ならぬ様子に驚き、空がどこまで把握しているか確かめることにした。「この書類や写真はなんですか?本人が知らないところで撮ったように見えますが。」「そんなこと今は関係ない。この書類が事実かどうかだけ答えてくれればいい。」妊娠が分かった翌日に華から電話が来たときの事を思い出した。(双子を一人で育てることは可能か?そう言っていたが、あの時既に夫婦関係は破綻していたのでは……そして妊娠を告げずに去ったのか?)「……患者のプライバシーに関することなのでお答えできません。そのような書類も誤解を与えるといけませんので返してください。」「
コンコン----社長室のドアがノックされて俺と空が視線を向けると、そこには玲が立っていた。「瑛斗?三上先生から話聞いた?まさか、お姉ちゃんが妊娠していたなんて……。」「……なんでそのことを?」「今、ここに来る途中で三上先生に会ったの。三上先生が瑛斗の会社にいるなんておかしいから理由を聞いたら、お姉ちゃんが妊娠していたって。」「ああ……。断言はしなかったが間違いないと思う」俺が沈んだ声で返すと、玲は声を震わせながら涙ながらに続けた。「しかも、それが瑛斗ではなく別の男性だなんて。私、瑛斗の気持ち考えたら悲しくて悔しくてしょうがないの……」「え?なんだって!?玲?それは本当か?」「……ええ。三上先生から聞いたわ。でもこれが本当ならお姉ちゃんが出ていったのも納得いくわよね。お姉ちゃんは、他の人の子どもが出来たから瑛斗の元を去ったのよ!!そうでなければ、夫である瑛斗に言わないなんておかしいもの。今頃、タイミングよく離婚を切り出されて良かったと喜んでいるのよ。だからすぐにサインして家を出ていったんじゃないの?」「…………。」
「空……華は本当に妊娠しているのか?」三上がいなくなってから空に聞き返した。「ああ、間違いないよ。瑛斗が仕事に集中できてなかったから気になって華さんのことを調べてもらっていたんだ。そうしたら、ほら……」空は別の封筒から華の写真を見せてきた。そこにはお腹だけが大きく膨らんでいる華の写真が何枚も写されている。日を重ねるごとにお腹も目立ち、誰もが妊婦と分かる状態だった。「華さんが家を出てから五か月。写真のお腹の膨らみを考えると9か月か臨月らしい。でもそれなら瑛斗も変化に気が付いたはずだし華さんも妊娠のことを話したはずだ。それで詳しく調べたら……」先ほどの『双胎妊娠』と書かれた妊娠報告書を見せてきた。「三上も否定しなかったということと、日に日にお腹が大きくなっていることを考えると双子の妊娠は間違いないと思う。」「そうか。俺は、俺は……、俺はなんてことを華にしてしまったんだ。」離婚を切り出した時の切なそうな華の顔を思い出す。あの時、華も話があると言っていたが俺が先に離婚話を切り出したので華は何も言わずに寝室へ行ってしまった。顔を歪めて大粒の涙を流しながら俺を見つめていた華。
「華が妊娠していた……?まさか……そんな状態で俺は華を追い出したと言うのか?なあ、華は今どんな状態なんだ?どこにいる?」空と争っていた三上の元へ行き、華の状態を問い詰めた。「患者のプライバシーのため私の口からは言えません。あなたは夫なんだからご自身で聞けばいいのでは?」たった今、妊娠を知ったばかりの俺が華と連絡が取れるわけがない。しかし、三上はそのことを承知の上で冷たくあしらうように言い返してきた。三上は華の実家・神宮寺家の専属医だ。いくら結婚して一条家も繋がりが出来たとしても神宮寺家への忠誠心から華のことは話さないだろう。「では失敬。」苛立ちながら書類を取り戻すと、三上は部屋を出ていった。一方、玲はこの日も瑛斗に復縁してもらうために会社に顔を出していた。しかし、入ろうとした時に部屋から瑛斗が驚き叫ぶ声が聞こえて全てを悟った。(あの女が、妊娠……? 離婚させてせっかく瑛斗から引き離したというのに……。瑛斗との繋がりを持つ子供がいるなんて絶対に許せない……!すべて私の計画通りに進んでいたはずなのに……。あの女、絶対に許さない。必ず徹底的に潰してやるんだから。待っていてね。お・ね・え・さ・ま。)部屋の前で立ち聞きしていたが、三上と鉢合わせになった。「ああ、これは玲さん。お久しぶりです。帰ってきていたんですね。」「姉はどんな状態なの?私は神宮寺家の人間よ。話してよ」「申し訳ございませんが、いくら身内でも華さんから承諾を得ないと私の口からは話せません。瑛斗さんも気にしていましたし、あなたと瑛斗さんで華さんに連絡をすればいいのではないのですか?」そう言ってにこやかに微笑み去っていった。(あの三上って男なんなのよ。私は神宮寺家の令嬢よ。なんで私の言うことが聞けないの?連絡できないだろって見下しているような態度もムカつく!!)
「また華さんのこと考えているの?離婚したんだからもう忘れなよ」親友でありビジネスパートナーでもある空の言葉が重く胸に響く。華が出て行ってからもう四ヶ月が経つ。離婚を切り出した翌日、家に帰るとリビングのテーブルには離婚届と結婚指輪が置かれていた。その後、華からは一度も連絡はない。「まさか華があっさりとサインするとは思わなかったんだ……」苛立ちを隠せずスマホを弄びながら呟く。「妹とヨリを戻すために離婚を切り出しておいて、戻ってくるのを期待していたのか?」空の言葉は正論すぎて言い返す言葉が見つからない。(あれほど俺のことを好きだった華があんなにもあっさりと離婚に応じるとは思わなかった。難航すると思っていたから、わざと冷たい態度をとったのにすぐに家を出ていくなんて。もしかして玲の言う通り今までの華は全て演技だったのか? 本当はずっと俺と別れたかったのか?)ぐるぐると巡る思考の渦に頭が締め付けられる。「離婚のことはまだ両親に話せていないんだろう?いい加減、話した方がいい。先月、お前の父さんが“華さんは元気か”と気にかけていたぞ」「……何と答えた?」「元気でやっていると思う、と答えておいた」安堵と罪悪感が同時に押し寄せる。家のこと、会社のこと、そして華のこと。すべてが重くのしかかり離婚の二文字を口にする勇気が出なかった。社長室で一人になり、華との生活を思い返していた。この結婚は、神宮寺家との繋がりを得るための政略結婚だった。最初は家のためだと割り切っていた。しかし、華の純粋で真っ直ぐな瞳に見つめられるうちに、政略結婚ということは忘れて純粋に彼女に惹かれていった。だが今まで割り切った態度を取った手前、急に華に対して愛情表現をすることが出来なかった。俺は、何かきっかけを探していた。今までのことは忘れて華と新しい生活をやり直すためのいい出来事を……。もし、子どもが出来ていたら父親として、夫として華を支えたいと思っていた。しかし、玲の告白ですべてが変わった。帰国した玲はその足で瑛斗の元に来て泣きながら訴えてきた。「私、無理やり海外へ行かされたの……。すべてお姉ちゃんのせいよ。一条家の財産を得るためには私が邪魔だったみたい。だから海外へ行くよう父たちを欺いたのよ。瑛斗も騙されているの。嘘だと思うならこれを見て。」そこには、華の名義の海外口座で多額の金
翌朝、重い体を引きずり抜け殻のようにベッドから這い出る。鏡に映った自分の顔は、青白く別人のようだった。(昨夜の出来事が夢だったらいいのに……)悪夢のような出来事に一睡もできなかった。ぼんやりとした頭で離婚協議書を見つめる。(十億という高額な慰謝料は、彼の玲に対する愛情の深さなのか、それとも財産目当てで近づいた女への手切れ金なのだろうか。彼はそれほどまでに、私を追い出したがっているのだろうか?)考えても答えは出ない。ただ彼の心がもうどこにも自分にはないと突きつけられただけだ。慰謝料の金額には興味がなかった。ただ桁外れの金額を提示してまで離婚したがっている瑛斗とこれ以上やり取りをするのがつらかった。それにお腹の子どもを育てていくことを考えたら、彼の要求を黙って従うことにした。リビングにも寝室にも彼の姿はなかった。執事に聞くと昨夜は一旦帰ってきてすぐに家を出たとのことだった。(私と顔を合わせるのも嫌ってことなの?瑛斗は私が出ていくことを当然だと思っているのだろうか……。だからもうこの家にはいないの??)食欲はなかったが、お腹の子どもたちのためにも少しでも栄養を摂らなくてはいけないと思いトーストとフルーツを口にした。今は何を食べても味がしなくてどれも同じに思えた。「もしもし、三上先生?華です。今少しいいですか?」「あー華ちゃん、調子はどう?つわりとか気持ち悪くなっていない?」「大丈夫です。先生、ストレスって双子に影響するでしょうか?」「直接的な絶対の原因とは言えないけど、悪影響ではあるね。それに華ちゃんは妊活で授かったこともあって流産の可能性も高いハイリスク妊娠だし。……どうしたの?一条くんと何かあった?」「いえ、これからのことを考えたら瑛斗さんもお仕事忙しいから一人の時間が多いのかなと思って。」「そういうことね。これから色々と変化も大きいし一条くんには色々二人で話し合った方がいいかもね」「はい……。ありがとうございます。」離婚のことは伏せて医師に相談の電話をした。妊娠の事はまだ三上先生しか知らず相談できる人がいなかった。三上家と神宮寺家は古くから付き合いがあり、専属医でもある。三上先生の事は医師としても人としても信頼していた。三上先生も医師として私の三年の妊活を支えてきてくれた人だ。(昨日は言えなかったけれどせめてお腹の子たちのことだけ