あれは四月なのに、雪が降った日だった。
桜が満開なのに、雪が降って桜に奇麗に積もったんだ。 それはそれは幻想的で、そんな世界に出会えたことに驚き、そんな中でまさか自分の人生をも変える出来事に出会うなんて、信じられなかった。 運命を変えた一日だった。 あの日、あなたはあの雪桜の中を歩いていたんだ。 スマホばかり見て、私を見ていないあなたを避けようとして、雪で滑った私にあなたは言った。 しかも笑って言った。 「パンツ見えてますよ?」 なんで「大丈夫ですか?」じゃなくて、そんなセリフなのよって、あの時はすごくムカついたけど、自分を肯定できるようになったのも、自分を好きになれたのもぜんぶ、あなたのおかげだよ。 龍太郎、今、どこにいますか? 会いたいです……。 「はぁ、はぁ、はぁ」 息が上がって喉が痛いよ、龍太郎《りゅうたろう》。 足が鉛《なまり》みたいに重いよ。 それでも私はあなたを探し続ける。 私はまだあなたに一番、大切なこと言えてない、ずっと言えなかった。 なんやかんやで、あなたときちんと向き合うことから逃げてきた。 お願い、神様。 龍太郎が決断する前に、もう一度会わせてください。 お願いします—— あなたにもし、また会えたら言いたいことがあります。 「私を変えてくれたのはあなたです、ありがとう」 ⭐︎⭐︎⭐︎ 「ねぇ、鈴山《すずやま》さん、最近、婚約してる彼とはどうなの? 上手くやってる?」 あ~、出た出た、パートの葉山さんたちだ。葉山さんは古株で、この会社にもう三十年いるらしい。 嫌だな、昼休みなのに、パートさんたちの体験談を混えての聞き取り調査。 『私の時はこうでああで』と結局言いたいのだ。 私は今、仕事の休憩時間なのだけど、遅番だったから、会社で一番のうわさ好きの葉山さんを含む、このメンバーと昼休みが一緒になってしまった。 葉山さんは強いから、みんな逆らえない。逆らわないことも生きる術《すべ》だってことはみんな知ってる。 でなきゃ、会社勤めなんてできない。 「あ、はぁ……。まぁ、ぼちぼち……」 嘘だった。作り物の笑顔で私はなんとか答えた。 「そう、それならいいのよ~。最近、鈴山さん、元気ないんじゃないって、みんなで心配してたのよ~。ねぇ?」 「そうそう、葉山ちゃんがね、鈴山ちゃんが彼氏と別れたんじゃないか、って言い出してね~。それなら良かったわぁ」 葉山さんの機嫌を取るのが上手な西田さんが笑いながら、会話に加わる。 私は手が震えてきた。この話題には触れられたくない。すぐに限界がきた。 「あ、あのあんまり、こういう話は……」 私は動悸がしだした。 「最近はなんちゃらハラスメントってすぐにいうじゃな~い。でもそんなこと言ってたら、なんにも話できないし、壁ができるだけよねぇ。そのひとの人間性もわからないし」 「そうそう。一緒に働くのにコミュニケーションは必要不可欠よ」 「そうよね~」 周りの人たちも同調する。パートさんたちが悪魔にしか見えない。 羨ましい……。平和だから、人の様子を観察して色々言えるんだよね。 「でも元気なかったから、心配しただけで悪気はないから」 西田さんがうつむく私に声をかけた。 「さ、最近、少し体調が悪くて……。それで……」 そう答えるので私は精一杯だ。 「あらぁ、まさかおめでたなの⁉︎」 葉山さんが嬉々とした様子で訊いてきた。格好のネタができたと言わんばかりに。 そんなわけない。 婚約者だった絢人《けんと》とは一ヶ月前に終わったし、最後に肌を重ねたのなんて、もう三ヶ月以上前だ。 私は涙腺が少しずつ、崩壊する音を聞いた。 「そのぐらいにしてください、ここは会社です。プライベートに干渉するのはよくないですよ」 声を出したのは係長だ。まだ若い。詳しくは知らないけど、まだ二十代のはずだ。 仕事もできるうえに爽やかイケメンで、女性はもちろんのこと、男性からも人気がある。 「あ、あら、係長いらしたんですか? お疲れ様です」 「今から係長も休憩ですか。ごゆっくり~っ」 パートさんたちが顔の色を無くし、蜘蛛の子を散らすように去っていった。 「大丈夫ですか?」 係長の優しい声が頭上から降ってきた。「あ、あのそれで治療費と、ここの個室料金はいくらですか?」 私は光太郎の返事が待ちきれない。 たぶん治療費は入っている保険でどうにかなるだろうが、このオプション的な特別個室料金は、保険では賄《まかな》えない。 確実に自腹だ。たった今、会社を辞めることにした人間にはきつい。 「ああ。ここのお金は要らないよ。体調が悪い中、龍太郎に連れ回されたんでしょ? そう聞いてるけど……。自分のせいだって」 光太郎の返事は意外なものだった。 龍太郎は自分のせいだと思ったらしい。 「いや、それは違います。私に原因がありますから、入院費用は自分で払います。保険がある程度はきくと思うし……」 「え~、でも龍太郎がねぇ、自分で払うって言ってるし……。どうしても払いたいなら、龍太郎に払えばいいんじゃない? 僕はどっちでもかまわないから」 龍太郎、どうしてそこまで……。 日頃から、自己管理ができてなかった私の責任だよ。 「それでさ、過労になりそうな原因は? 思い当たることがあるかなぁ? 過労も甘く見てると命を落とすからね」 命……。光太郎の言葉は私の胸に刺さった。 「まぁその……プライベートで色々あって悩んで、それが仕事にも影響を与えて、悪循環を生んでしまったんです。最近夜勤の後も、ぜんぜん寝れてなくて……」 「そうかぁ。悪循環かぁ。う~ん……」 光太郎は腕組みしながら、考え事をしている。モデルみたいに奇麗な肌だ。 「なら、もういっそ、夜勤のない仕事に変えて、環境を整えるようにした方がいいね。なんてったって身体が一番だし」 光太郎はあっけらかんと言い放った。 「そうですね。夜勤のある仕事はさっき辞めました。私も自分の生活を見直してみます」 さすがに左遷《させん》のことは言えない。自分が悪いのはわかってるけど、これ以上、惨《みじ》めになりたくない。 「あ、そうなんだ。いいんじゃない、まぁ人生色々あるし。英断だと僕は思うよ」 光太郎はけろりと言葉にする。 「これからは自分の体をもっと大切にします。はい」 このひとと龍太郎、性格、ぜんぜん似てないな。龍太郎はこんな感じじゃないもんな。なんていうか、口下手な部分があるっていうか……。 「それで、次の仕事は? なにか当てがあるの?」 光太郎はなにか含んだ言い方をしてきた。 「
龍太郎に耳を甘噛みされた—— しかも一度じゃなく、三度も……噛まれた。 龍太郎の息が首元にかかった。 背中がぞわりとした。全身が自分のこもった熱に反応してしまう。 それがイヤじゃないから、危険だ! このままだと、こいつのペースに乗せられる! 私は龍太郎を突き飛ばした。 「もうッ! な、なにするの! し、信じられない!!」 身体の力が抜ける。私はその場にヘナヘナと座り込んだ。 「ふっ」 龍太郎が私のそんな姿を見て、満足そうに口の端に笑みを浮かべた。 「だいたい、なに? お仕置きって⁉︎ 私、龍太郎にそんなことされるようなことしてない!」 「なに言ってんだ⁉︎ おまえ、田村がおまえに気があるの知ってて、この部屋で二人きりになったよな?」 突然、なに言いだすの? 二人きりになった? 「意味がわかんない。係長はただお見舞いにきてただけでしょう⁉︎ それに会社のこととか、そういう話しかしてない……」 私は反論した。突然告白もされたが、龍太郎にわざわざ話すことでもない。 「じゃあ、なんでさっき手を握りあってたんだよ! それに返事ってなんだ?」 うわ、やっぱり聞かれてた。 なに、もしかして入り口のところにずっといたの?? 「そ、それは……」 私は返答に窮した。なにこのひと、メシ友も独占したいタイプなの? 本当に友達がいないのか……。 私の中にある疑問が生まれつつあった。ほんとに私、メシ友なの……? 「まったく……! 油断も隙もないな。いいか、今度あの男がきても二度と、二人きりになるなよ⁉︎ そんなことしたら、今度は今日みたいに軽い罰じゃ済まさないぞ」 龍太郎はまるで私がひどく悪いことをしたかのように、大きくため息を吐いた。 ……え、な、なんなの、それ。今日のが、軽い罰? 「あの、なんで罰を受けなきゃならないの?」 私は納得できなくて尋ねた。だって、このひとの彼女でもなんでもない。 「いいか⁉︎ おれはな、おまえが妙な男に変なことをされないように、心配してやってるんだからな⁉︎ 」 龍太郎は少し語尾が荒かった。 え……? こいつがそれを言う? 今しがた私、こいつに変なこと(罰)されたばかりですけど……。 「おまえ、さっきだっておれが入ってきてなかったら、大変なことになって
なっ! 胸の音⁉︎ そ、それはつまり、龍太郎に聴診されるってこと⁉︎ 「安心しろ。昨日もおれが聴診した」 龍太郎はなんでもないことのように言う。 うわぁぁぁぁっ!! 既済《きさい》だったんだ~!! 手遅れだぁ!! 信じられない。信じられない、信じられないよ~! こいつ、なにしてくれてんだ~! ブラもパンツとおそろいで、ベージュの色気のないものだよ、どうせ!! 見られたんだろうか? この貧相な体を……。いいや、こいつは絶対に見てる! 見ていないはずがない! 「おまえ、今、色々考えてるだろうが、おれは医師で、おまえはここでは患者だぞ?」 龍太郎の冷静な声に、私は我に返った。 あ、……龍太郎は仕事をしているだけだ。 私は龍太郎にそういうことされるのは、耐えられないぐらい、死にたいぐらい恥ずかしいけど、龍太郎にとっては、いつものことで、なんでもないことなのかもしれない。 「じ、じゃあ、鈴山さん、また顔を出すね。返事はまた今度でも。剣堂先生、うちの鈴山をよろしくお願いします」 係長は荷物をまとめて慌てて、病室から出て行った。 「うちのか……」 龍太郎はぽつりとつぶやいたが、すぐに看護師に指示を出し、看護師さんが私の血圧やら、体温、脈などを測っていた。 「熱は下がったな。……若干血圧が低いな。まぁ、許容範囲か。これは様子見でいいか……」 龍太郎が一人でぶつぶつ言い出した。仕事モードらしい。 「さて、鈴山さん、肺の音を聴きますね」 龍太郎が聴診器を手に持っている。 龍太郎に背中に手を入れられるの私? 超恥ずかしいんだけど……! やがて聴診器が背中に入れられた。龍太郎の手が時折触れて、聴診器が当てられていく。 緊張でガチガチに固まってしまう。手が当たった時がもう最高に恥ずかしい。 「鈴山さん、大きく息を吸って、吐いて」 私は龍太郎に言われたとおり、『大きく吸って吐いて』を何回か繰り返した。 「呼吸音に異常はなしですね」 龍太郎が背中から聴診器を抜いた。 ……龍太郎って、仕事中はすごく真面目なんだな。 「今度は前ですね。心臓の音を聴きます」 私は恥ずかしさを我慢して、病衣の下から入ってくる龍太郎の手と、聴診器を受け入れた。 聴診器とともに、龍太郎の手も微かに当たっ
「鈴山さん、僕ら会社はね、君のことを考えて異動はどうか、という話をしているんだ。けっして君が必要ないとか、そういうのではないことは、理解してほしい」 係長の眉が下がっている。本当はこんなこと言いたくないはずだ。 ……わかってる。わかってるけど、係長の顔を今は見れない。見たくない。 「あの鈴山さん、こういう時にこそ、僕がなにか君の力になれないかな?」 係長の緊張が混じった声が私の耳に届く。 「……いえ、理解はしています。皆さんの私への配慮も感謝しています。ですが、少し待ってもらえませんか? 突然のことで、私も戸惑っていて……。心が追いつかないというか……。係長には、今までこれ以上ないってぐらい助けていただきましたし……。なので、これ以上は……もう十分です」 私はなるべく感情が読み取られないように、平静を装いながら話した。 「鈴山さんの体調次第でかまわないんだけど、来週あたりにでも、返事をもらえたらいいんだけど……」 係長がさらに困った顔をしている。 ……来週か……。私が抜けた後の穴埋めが必要なのだろう。 製造には行きたくない。今よりも流れ作業だ。それにお給料も違ったはず。せっかく役職まで登り詰めたのに? でも会社を辞めたら、寮に入っているから、住む場所もなくなる。 自分にはなにもなくなる—— あの飲んだくれの父親と、暗い顔をして奴隷のように働く母のもとに帰るの? 弟はほとんど家にいないし、あそこは私にとって息苦しい場所。 製造……。こうなったのは自分せいだ。この際、どんな仕事でもいいじゃないか……。 ——お前、自分が楽しいと思える生き方しろよ。 龍太郎の声が頭の中に聞こえた。楽しいと思える生き方……。 ……新しい自分になりたい。 そうだ、苦しくても、しんどくても、自分で生き方は選ばなきゃ……。 もう十分、頑張った。あそこにいる限り、絢斗に縛り続けられる。 「……係長、私、仕事辞めます……」 顔を上げると、悲しい顔をした係長の姿が私の瞳に映った。 「そうか。そうだよね……。体調が悪い時にこんな話を、本当にごめん……」 「いえ、もとはといえば、自分が悪いですから。突然ですみません!」 私は頭を下げた。 「いや、有給がかなりあるから、来月末退社で大丈夫だよ」 係長が静かに言った。
「か、係長!」 私は龍太郎の腕を振りほどいた。 「チッ」 龍太郎の舌打ちが聞こえた気がした。 「わ、わざわざお見舞いに来てくださったんですね」 私は立ち上がり、係長を出迎えた。 「あ、い、いや、そ、そのなんか邪魔したのかなって……」 係長の顔に戸惑いが見える。 ……あぁ、もう、最悪だ。入院してるのに、こんなところを見られて、絶対に軽蔑された……。もう終わりだ。 「いえ、全然そんなことはないですよ。あ、あのどうぞ。こちらに座ってください」 私は係長にソファをすすめた。もぅ、どうにでもなれ! 「あ、ああ。じゃあ、少しだけ」 係長は新婚さんの家にお邪魔するような、気まずい雰囲気を纏《まと》いながら、部屋に入ってきて、ソファにぎこちなく腰かけた。 そこに龍太郎がやってきて「こんにちは」と挨拶し、係長に名刺を渡した。 「私は剣堂龍太郎といいます。彼女の担当医です」 柔らかい物腰で丁寧に話す龍太郎。 ……え? 担当医だったの⁉︎ 初めて知ったわ。 「これはこれは、ご丁寧にありがとうございます。鈴山さんの勤務先の会社で係長をしております。田村隼司《たむらしゅんじ》といいます」 係長が立ち上がって、軽く会釈してから、龍太郎から名刺を受け取っていた。 今度は係長が名刺を取り出して「よろしくお願いします」と龍太郎に手渡していた。 爽やかな笑顔で丁寧に、両手で名刺を受け取る龍太郎の姿は、私の知ってる彼とは別人だった。 なんというか、洗練された大人の男だった。 「へぇ、剣堂龍太郎さん……。お医者様ですか。すごいですね。もしかして、剣堂って……、あの剣堂総合病院の?」 名刺を見た係長が少し目を見開いた。 「ああ、それは父の病院ですね。兄が今は副院長をしています」 龍太郎が落ち着いた美声で返答をしている。 あれ、龍太郎ってまともな会話できたんだ。……って上にもまだお兄さんがいるの? てか、やっぱりあの剣堂総合病院だったんだ。まじでそんな御曹司だったの⁉︎ うっそ。 「それはすごいなぁ。あんな大病院の、《《僕ら》》とはなんだか世界が違いますね~」 係長のそのひとことに、龍太郎の目の色が冷たい色に変わった気がした。気のせいだろうか。 「面会時間は決まっていますので、時間厳守でお願いします。では私
私は龍太郎にしぶしぶ自分の連絡先を教えた。断れなかった。 彼は指を動かし、私の番号をスマホに登録している。 私はベッドから起き上がっていて、龍太郎はベッドに腰かけていた。 ……二人きりの病室。 「あ、あの今日は総合病院で、お仕事じゃなかったんですか?」 私は龍太郎の全身をちらちら見ながら話す。 白いシャツにブラックのアーガイル柄のベスト、黒のスキニーパンツ。 ……先日も思ったけど、足、長いなぁ。体の半分が足? 体の作り、どうなってんの? それにやっぱりむちゃくちゃかっこいいよね……、悔しいけど、それは認める。 なんでこんなひとが『メシ友』に困るんだろう? 「おい、なにジロジロ見てんだよ。見惚れてんじゃねぇぞ」 龍太郎が平然と言い放つ。 ……前言撤回。こんなひとだからいないんだ。 「み、見惚れてなんかいませんよ。それより仕事はどうしたんですか?」 私は再び問いただす。 心臓に悪い突飛な行動が多いから、早く帰ってほしいなんて言ったら、なにをされるかわからないから、口が裂けても言えない。 「今日は午前中だけ外来。今、受け持ち患者も二人しかいなくて、そんなに忙しくない。夕方まで時間あるからな」 龍太郎がスマホを触りながら口にした。 げっ!! まさか夕方までここにいるの⁉︎ その時、私のスマホが鳴った。 ……誰だろう? 知らない番号だ。とりあえず出るか……。 通話ボタンを私は押した。 「も、もしもし……?」 「あ、もしもし? おれだけど?」 隣から龍太郎の声がした。こいつかい!! 「きちんと登録しておけよ。そして着信があったら、なるべく早く必ず掛け直すこと、いいな?」 うわっ。こっわ。 「そんなこと言われなくても、きちんと掛け直しますよ」 えーと、この番号は苗字だけでいいか。 「剣堂さんっと」 私は登録ボタンを押した。 「剣堂さんじゃない」 私の横に座りなおして、横からスマホを覗《のぞ》きこんできた龍太郎が、不満そうに言った。 「は?」 あなたの苗字、剣堂さんではなかったですか? 私は確認するように龍太郎の顔を見る。 「龍太郎」 「え?」 なにを言ってるかわからず、私は聞き返した。 「龍太郎で登録しろ」 なんで? そこどうでもよくない? た