LOGINやめてと叫んだところで、画面の中の義母に声が届くはずもない。 義母はそのままクローゼットの物色を続けて、私が独身時代から大事にしているブランドバッグを手に取った。 独身の時、憧れていた高級ブランドのバッグ。お給料やボーナスをやりくりして貯金し、お高いのを覚悟して買ったのだ。 普段遣いするには高級すぎるから、こうしてクローゼットにしまっておいて、陽菜の保育園入学式だとか、友人や親戚の結婚式の時だけに張り切って使うようにしていた。 もちろん汚してしまわないように最新の注意を払っていた。 きれいな手で触って、クリーニング用の布も常備していたのだ。 今もきれいに掃除した上で、袋に入れてクローゼットにしまい込んでおいた。 それを義母は遠慮のない手つきで取り上げた! がさつな手つきで袋をはぎとり、ブランドバックを取り出す。(ああっ、やめて! そんなに爪を立てて引っ張ったら、傷がついてしまう) 見ている私は気が気でない。 画面の中の義母はバッグを掲げて満足そうな表情だ。 それからぞんざいに袋をクローゼットに戻し、去っていった。「…………」 当然のことだが、義母が私のバッグを借りると事前に伝えたことはない。勝手に持っていったのだ。 そういえば以前、バッグに小さな傷がついていたことがあった。 大事に使っていたからとても驚いたが、どんなに気をつけていても多少の傷みはある。そう思ってあきらめていたけれど、あれも義母の仕業だったのかもしれない。「勝手に人の物を持っていくなんて、泥棒じゃない」 たとえ後から返したからといっても、帳消しにはならない。 ましてや高級バッグ傷をつけた疑いもあるのだから。そして当然、その傷については知らん顔されているのだから。 問い詰めて、二度とバッグを持ち出さないよう言い渡さなければならない。言うだけじゃ聞かないだろうから、鍵の取り付けも必要だ。(私の家なのに、私のものを勝手に持ち出されて、居場所すらない) そう思えば、怒りとやるせなさがふつふつと胸に湧いてきた。 だがここで泣いている暇はない。陽菜と私自身をあいつらから守ると決めた以上、行動を起こさないといけない。(お義母さんへ連絡しても、きっとごねられるから。先に鍵をつけてしまうべきかしら) 私は考えながら、ふと、流れっぱなしになっていたWEBカメラの映像を見
翌日、私は何食わぬ顔で家を出た。 和也はいつも通り、私の作った朝食を食べていた。 こんな状況でも朝食を作ってもらって当然という顔をしているのだから、まったく呆れ果てる。「ママ。しんぱいなこと、あるの?」 保育園までの道のりを歩いていると、陽菜が不安そうに話しかけてきた。(いけない。この子に負担をかけないようにしないと) ちょっと無理やりに笑顔を作る。「いいえ、大丈夫よ。陽菜ちゃん、今日は保育園で何をするのかな?」「こうえんに、おでかけ!」 陽菜も笑顔に戻って言った。「そっか。今日は晴れの予報だからね。いっぱい遊んできてね」「うん!」 この子との触れ合いだけが今の私の癒しである。 こんなに可愛いのに、実の父親である和也があんなに冷淡なのが信じられない。 親として我が子の成長を見守らないなんて、悲しいを通り越してもったいないとさえ思う。この子は日々大きくなっているというのに。 陽菜を保育園に送り届けた後、私は満員電車に飛び乗って出勤した。◇◇ 残業を終えて陽菜を迎えに行き、家に戻る。 相変わらずくたくたに疲れていたが、今日は奇妙な興奮があった。 ――寝室のクローゼットに設置した、WEBカメラ。 勤務中は迷った末に、リアルタイムの確認はできなかった。 見るなら帰宅して落ち着いてからだ。 帰った家には誰もいない。 和也も義母も姿が見えない。 最近の和也は時折、帰りが遅い。 出張だと言って泊まりで不在にする日もある。 私の中で疑念は膨らむ一方だが、今はWEBカメラが先だ。 一応、クローゼットを確認する。「あれ? 私のお気に入りのバッグがない」 違和感どころか、はっきりと朝と違っていた。 なくなったバッグは独身時代に買ったブランドもので、大事に使っていたものだった。 あれを私がなくすはずがな
「今後、お義母さんがうちに来るなら、食費と光熱費として毎月5万円を生活費に上乗せして払って」 和也はやっと顔を上げて、不機嫌に眉を寄せた。「は? 家族が来てるのに金を取るのかよ。ケチくさいこと言うな」「家族という言葉を盾にして、私の生活スペースを勝手に侵しているのはあなたよ。だいたい、お義母さんとお義姉さんはあなたの家族であって、私の家族ではない。ここはペアローンで私にも権利がある。管理責任を果たせない人をタダで入れるリスクは負えないわ。嫌なら、お義母さんから鍵を返してもらって」「……チッ」 和也はそれ以上言い返せず、舌打ちをして黙り込んだ。 というか、ここまで言われても鍵を返してもらうと言わないのが驚きだった。◇ 夕方、仕事を終えて保育園に陽菜を迎えに行き、帰宅する。 和也の車はなく、家の中は静まり返っていた。義母も今はいない。 玄関の宅配ボックスには、昨日注文しておいた監視カメラがもう届いていた。「ママ、それなあに?」 陽菜が不思議そうにカメラの箱を覗き込んでいる。「おうちを留守にしている時に、悪い人が入ってこないように、見張る道具よ」「へぇー!? どろぼうさんを、おいはらうんだね!」 陽菜は感心したように、監視カメラをぺたぺたと触った。「さあ、陽菜ちゃん。ママは着替えてくるから、遊んで待っていてね」「うん! 今日のごはん、なに?」「ロールキャベツよ。春のキャベツは美味しいからね」「わあ、やった! ひな、ロールキャベツ好き!」 陽菜はウキウキとスキップを始めた。うーん、可愛い。 部屋を一周した陽菜がブロック遊びを始めたので、着替えをするため自室に行った。(やれやれ、今日も疲れたわ。特に合鍵の件。和也には本気で愛想が尽きた) そんなことを考えながら、クローゼットを開ける。「……え?」
自室のドアを閉めて、内側から鍵をかけた。 ベッドで陽菜を寝かしつける。「ママ。ばあばとあきこおばちゃん、けんかしたの?」「大丈夫よ。喧嘩したわけじゃないからね」 陽菜は不安そうにしていたけれど、背中をトントンと叩いてやったらだんだん眠くなったようだ。 やがてスウスウと寝息が聞こえてきた。 リビングからは、まだ義母と和也の話し声が聞こえてくる。 何がそんなに楽しいのか知らないが、やけに盛り上がっている。 私は暗い部屋の中でスマートフォンを取り出し、メッセージアプリを開いた。 香奈さんに和也が私の許可なく合鍵を渡したこと、そして義母が我が物顔で居座っている事実を淡々と入力して送信する。 深夜になってから、香奈さんから返信があった。『お義姉さん、本当にごめんなさい。私の詰めが甘かったせいで……。兄が勝手に合鍵を渡したなんて、情けなくて涙が出ます。お義姉さんにまた辛い思いをさせてしまって、本当に申し訳ありません』(香奈さんは悪くないのに。悪くない人が誠意をもって謝ってくれて、悪い人たちは無視している。間違っているわ) 画面越しにも伝わってくる謝罪の後に、具体的な提案が続いていた。『兄はもう、お義姉さんの敵です。勝手に合鍵を渡した事実は、管理責任の放棄として強力な離婚理由になります。これからは母が来た日の記録をつけてください。それと生活費として光熱費や食費を多めに請求して、経済的な負担を負わせるべきです』 メッセージは続く。『家庭用でいいので、監視カメラも買いましょう。勝手なことをしないように、目を光らせておかないと』「アドバイスありがとう。生活費を請求するのはいい案ですね。最近、和也さんは家計に入れる生活費を減らしがちなので、よく伝えてみます。監視カメラもさっそく、買っておきます」『生活費を減らしている? そんなことまで……』 香奈さんがショックを受けている。 そういえば和也の仕打ちに慣れきってしまっていたが、生活費
「あいつは関係ねえだろ。香奈がうるさく言うから、わざわざあいつがいない時間を狙って呼んだんだよ。それに、母さんたちには合鍵も渡しといたから。いちいち俺が開けなくても、いつでも遊びに来れるようにな」 和也の口から出たその言葉に、私は自分の耳を疑った。「合鍵!? 私の許可もなく勝手に渡したの? ここはペアローンで私の資金も入っている家よ」「ここは俺の家でもあるんだよ。親を自分の家から締め出すなんて、薄情なことできるわけないだろ。誰に鍵を渡そうが俺の自由だ」 和也は自分の行動を完全に正当化し、それどころか私を非難した。 彼の中には夫婦の共有財産という概念も、妻のプライバシーを尊重するという考えも最初から存在しないのだ。 するとソファに座っていた義母が、勝ち誇った顔で口を挟んできた。「そうよ真由美さん。家族なんだから水臭いこと言わないでちょうだい。それに先日壁の修理代、30万円も私が立て替えてあげたじゃない。私がお金を出してあげたんだから、いつ遊びに来ても文句はないはずよね。この家の一部は、私が買い取ったようなものよ」 30万円の肩代わりが、彼女の中ではこの家を自由に使える「権利」に完全に変換されていた。 自分の孫が他人の家を壊し、その修理代を払うのは親族としての責任であるはずなのに。 その時、晶子さんが私の手に持っているデパートの紙袋に目を留めた。「あら、それケーキじゃない? デパ地下の箱でしょ」 晶子さんはソファから立ち上がると、私の手から強引に紙袋を奪い取った。「ちょっと、晶子さん! 返してください」「いいじゃない、ケチケチしないでよ。ちょうどお茶にしようと思ってたのよ」 晶子さんは私の抗議を無視して、勝手に箱を開けた。 中に入っていた3つのイチゴのタルトを無造作に取り出し、テーブルの上に乗せていく。「わあ、美味しそう。お母さん、和也、ケーキあるわよ」 陽菜が私の足元に隠れるようにして、「ひなのケーキ……」と小さな声で呟いた。その声は明らかに怯えていた。
ある金曜日の夕方。私は仕事を終えた後、駅前のデパートの地下に立ち寄った。 ショーケースには、色とりどりのケーキが並んでいる。(どれも美味しそう。どれにしようかな。んー、やっぱり陽菜が好きなイチゴにしよう) 私は期間限定のイチゴのタルトを3つ注文した。 私と陽菜、それに一応、和也の分だ。 過酷な日々を乗り越えた自分へのささやかなご褒美であり、怖い思いをした陽菜を喜ばせるためのプレゼントだった。 保育園のお迎えに行くと、陽菜は私を見つけて駆け寄ってきた。「ママ、きょうはおみやげある?」「ええ、美味しいイチゴのケーキよ。お家に帰って、ご飯を食べたら一緒に食べようね」「やった! イチゴ!」 陽菜は嬉しそうに私の手を引く。 私たちは帰り道を歩いていく。 夕焼けの長い影が伸びる道路は、もうすっかり春になっている。 散りかけの桜の花びらが、少しだけ残って風に舞っていた。 この数日間、陽菜も落ち着いて眠れていた。 離婚に向けた準備は着々と進んでいる。 だからこそ、今はこの平穏な日常を少しだけ味わいたかったのだ。 自宅の前に到着し、私はバッグから鍵を取り出した。 ドアノブの鍵穴に差し込もうとしたその時、妙な違和感に気がついた。 ガチャリ。 鍵を回す前に、ドアノブが重たい音を立てて開いたのだ。 私は眉をひそめた。和也が帰っているのなら、鍵をかけ忘れるはずがない。 共働きで留守にする時間が長い我が家において、施錠は絶対のルールだ。 警戒しながらゆっくりとドアを開けると、玄関のタイルには見覚えのある2足の靴が脱ぎ捨てられていた。 ラメの入った派手な赤いパンプスと、かかとのすり減った茶色いローファー。 晶子さんと義母のものだ。廊下の奥にあるリビングの方から、テレビのバラエティ番組の大きな音と、聞き慣れた下品な笑い声が聞こえてくる。 香奈さんが実家で厳しく釘を刺してくれたばかりなのに、どうしてここにいるのだろうか。
カチンと来る。 あまりにも当然のように投げつけられた言葉に、指先がピクリと動いた。「じゃあ、男の仕事って何? あなた、今日家で何をしてたの?」 思わず言い返すと、和也は今度こそスマホを置いた。馬鹿にしたような笑みを浮かべる。「外で働いて稼ぐことに決まってるだろ」「私だってフルタイムで働いているわ。あなたと変わらないくらい」「はあ? 俺の方が年収高いだろ。俺は450万、真由美は400万だろうが!」 和也は胸を張って、勝ち誇ったように言い切った。 たった50万の差である。 税金を引かれたら、月の手取りなんて数万円の違いしかない。(だいたい私の年収が低めなのは、陽菜を産ん
「……っ」 怒りで、持っていた布巾を握りしめる手にギリギリと不自然なほど力がこもる。 なぜ、あなたが被害者ぶっているのか。 私が「見てて」と頼んだのに、あなたはスマホから目を離さなかったではないか。 コップをちょっとよけておくとか、そんなことくらいでよかったのに。 そもそも子供の横で食事をしているのだから、少しは気を配ってくれてもいいはずだ。 言い返す言葉は山ほどあったけれど、今は時間がない。 言い争いをしている暇など、1秒たりともないのだ。 私は無言で雑巾を引っ掴み、四つん這いになって床の麦茶を拭き上げる。 冷たい麦茶がフローリングに広がり、無残な水たまりを作って
洗面台の前を陣取っているのは、和也だった。 彼はかれこれ20分以上、鏡の前から動いていない。 美容室専売の高級なヘアワックスを指先に伸ばし、前髪の立ち上がりをミリ単位で調整しているのだ。 彼は自分の外見には妙なこだわりを持っている。 「商社マンは第一印象が命だからな」と豪語しているが、その実態は指示待ちの中堅社員に過ぎない。 で、会社に行く時はああやって念入りに身だしなみを整えるが、休日はスウェットでだらっとしている。 いつものことだった。 私なんて自分の顔に化粧下地を塗る時間すら惜しいというのに。 同じ時間に出勤するはずなのに、なぜこの男はこんなにも優雅な朝を迎えて
ピピーッ、ピピーッ、ピピーッ! 目覚まし時計のけたたましい音で、私は目を覚ました。 時刻は午前6時ジャスト。火曜日の朝である。 あと5分、いや3分だけ眠らせてほしい。 切実な願いを込めて布団にすがりついたけれど、隣でモゾモゾと動く小さな生き物がそれを許してくれなかった。「ママぁ……あさ?」「そうよ、朝よ。ひなちゃん、おはよう」 3歳の娘、陽菜(ひな)が目をこすりながら起き上がってくる。 ぽやぽやの髪の毛は芸術的な寝癖を描いていて、まるで小さなヒナ鳥のようだ。 かわいい。世界で一番かわいい。 この愛らしい生き物のためならば、私の睡眠時間など喜んで差し出そうではないか