ANMELDEN出国の前日、紗月は家を片づけた。結婚写真を額から外し、処分する袋に入れた。恭介と一緒に選んだ食器も、記念日ごとにもらった贈り物も、必要としてくれる人に譲った。母から相続したビルは、売らなかった。恭介の痕跡が残っているからと手放すなら、それもまた、彼の選択に引きずられることになる気がした。紗月は専門の管理会社と新たに契約し、賃料の管理と建物の維持を任せた。所有者の欄には、水瀬紗月ひとりの名前だけがあった。寝室の引き出しを空にしていると、小さなカードが出てきた。【まま だいすき】悠真が5歳のとき、初めて書いた文字だった。「だ」と「す」の大きさがばらばらで、ハートは片側が潰れていた。紗月は、カードを捨てなかった。結婚写真と、子供のカードを、同じ袋に入れる理由はない。嘘から始まった家族の中でも、悠真を抱いて笑ったあの瞬間だけは、本物だった。本棚の上には、緑色のティラノが残っていた。誠一から写真が届いた。悠真が定期検査を終えて、病院の前で笑っている。手には、同じ形の恐竜のぬいぐるみを持っていた。【悠真は、きちんと治療を受けている。新しい学校にも慣れてきた。君が元気でいてくれるよう願っていると、伝えてほしいそうだ】紗月は返信した。【私も、悠真が元気でいてくれることを願っています。薬の内容が変わったら、教えてください】少し迷ってから、もう一文付け加えた。【大好きだと、伝えてください】空港へ向かう前、紗月は誰もいない家を最後に見回した。恭介と選んだソファのあった場所は空き、本棚には悠真のティラノだけが残っていた。管理人には、子供が取りに来たら、保管場所を開けてやってほしいと頼んだ。翌日、紗月はひとりで飛行機に乗った。初めて暮らす街。新しい組織。誰も待っていない家。怖くないと言えば、嘘になる。けれど、怖さと自由は、一緒にやってきてもよかった。慣れた嘘の中にとどまるより、知らない場所でも、自分で選んだ方角へ進みたかった。飛行機が滑走路を離れるとき、結婚アルバムを削除した。悠真の写真は、そのまま残した。フォルダの名前も、飾らなかった。【悠真】その名前だけで、十分だった。数か月後。シンガポール国際ゲノム研究センターに、新しい研究棟が開設された。紗月は白衣を着て、廊下を歩いた。研究室のドアには、金属のネームプ
恭介の会社は、結局、民事再生手続きに入った。名義を盗用して借りた金を出資金に偽装していたと知られ、主要な取引先が契約を打ち切った。恭介は代表としての権限を失い、残った株式には、被害回復のための差押えが行われた。彼は最後まで、紗月のせいにした。「告訴さえ取り下げていれば、会社は助かったんだ」けれど会計監査の報告書には、会社の金を玲奈の住まいや個人旅行、架空のコンサルティング費用に使った記録が、びっしり並んでいた。1億5,000万円が入る前から、会社はすでに、損失で資本が目減りした状態だった。会社を壊したのは、告訴状ではない。恭介の帳簿だった。玲奈も、もう「パパの会社のおばちゃん」として、悠真の周囲をうろつくことはできなくなった。裁判所は、実の母親として治療費や生活費を分担し、養育についての指導とカウンセリングに参加するよう求めた。「私には、お金がありません」玲奈がそう主張すると、恭介は、玲奈名義のマンションを処分すればいいと言い返した。玲奈は恭介が約束した対価だと言い、恭介は犯罪で得た財産だから自分とは関係がないと言った。2人は、悠真の定期検査の費用とカウンセリング代を、どちらが多く負担するかで、そのたびに争った。紗月に負わせるときには、家族のための当然の出費だった金だ。和代は、あれほど望んだ実の孫を手に入れた。けれど子供は、相続財産を運んでくる名前ではない。定期検査の日を覚えなければならない。夜に悪夢を見れば、誰かがそばに座ってやらなければならない。カウンセラーは、和代が悠真の前で紗月と玲奈の悪口を言ったことを確認し、彼女ひとりに養育を任せることに反対した。結局、誠一が主な養育者になった。彼は悠真の前で誰の悪口も言わず、紗月と連絡を取りたいという子供の気持ちも尊重した。最初の面会交流の日、恭介と玲奈は廊下にいるうちから言い争った。「私が先に抱くわ。母親なんだから」「3年間隠れてたくせに、今さら何だよ」悠真は相談室の中で2人の声を聞き、爪を噛んだ。カウンセラーは、すぐに面会を中止した。生物学上の親であるだけで、保護者としての資格が完成するわけではなかった。その夜、悠真から音声メッセージが届いた。【ママ、ティラノ元気? あとで取りに行くね。ママも、ちゃんとご飯食べてね】紗月は何度も聞き返してから、短く返した
大きな手続きが一段落するまで、10か月以上かかった。家庭裁判所は、親族関係の資料が虚偽であり、実の両親の存在が隠されていたことを確認した。養子縁組と戸籍に関する手続きが進み、悠真の記録は実際の親子関係に沿って訂正された。悠真が暮らす場所は、児童専門家の意見を踏まえ、誠一の家に決まった。誠一は、悠真の学校と病院から遠くない場所へ引っ越した。真っ先に子供部屋を整え、紗月が書いた服薬表を冷蔵庫に貼った。引っ越しの前日まで、紗月は悠真と一緒にいた。服を季節ごとに分け、病院の予約日と食物アレルギー、悪夢を見たときにつけておく常夜灯の明るさまで書き出した。最後の箱には、恐竜のおもちゃが入った。引っ越しの日、悠真は泣くまいとして、唇をぎゅっと結んでいた。「ティラノ、ママの家に置いていっちゃだめ?」「置いておきたい?」「うん。あとで、取りに来られるから」紗月は、緑色のティラノサウルスを1体、本棚の上に残した。「取りに来てもいい?」「先生とおじいちゃんと、相談して約束を決めようね」「ママも、約束して」2人は、小指を絡めた。車が走り出すと、悠真は後ろの窓に手のひらをつけた。紗月も同じように手を上げ、車が角を曲がって見えなくなるまで立っていた。玄関へ戻ると、悠真が脱いだ小さなスリッパの跡が床に残っていた。ずいぶん経ってから、ようやくドアを閉めた。刑事裁判の一審では、恭介と玲奈による文書偽造と、融資詐欺への関与が認められた。虚偽の養子縁組資料と、1億5,000万円の資金の流れも、判決文に記された。和代もまた、養子縁組と贈与の計画に関与した部分について、別途責任を問われた。離婚の判決も、確定した。婚姻関係が破綻した主な責任は、恭介にあるとされた。不倫だけではない。虚偽の不妊診断、実子の存在の隠蔽、偽りの養子縁組、名義を盗用した融資。そのすべてが、判断の根拠になった。1億5,000万円の融資については、紗月に債務が存在しないことを確認する判決が出た。銀行は根抵当権を抹消した。恭介の会社と玲奈へ流れた金は、回収の手続きに入った。紗月は、もう一度、登記事項証明書を取得した。母が遺したビルの権利部乙区から、あの見知らぬ記載が消えていた。【根抵当権抹消】個人信用情報からも、1億5,000万円の債務が消えた。偽の署名によって生じ
真実が明らかになったあとも、悠真はしばらく紗月と暮らした。家庭裁判所は、生活環境を急に変えるべきではないという児童専門家の意見を受け入れた。恭介と玲奈の刑事手続きは進行中で、少なくとも学期が終わるまでは、慣れた家と保護者が必要だった。紗月は今までと同じように朝食を用意し、学校へ送り出した。夜には薬を飲ませ、眠る前に本を読んだ。変わったのは、パパが帰ってこないことだけだった。恭介の靴と、寝室の結婚写真がなくなった。玲奈おばちゃんが送ってくるプレゼントも、途絶えた。悠真はひとつずつ空白に気づきながらも、紗月が話すまで我慢しようとしているようだった。「パパ、お仕事で遠くに行ったの?」「パパがしてしまった悪いことを、今、大人たちが確かめているの」「ママとけんかした?」「うん。でも、悠真が何とかしなきゃいけないことじゃないよ」「ぼくがいい子にしてたら、パパ、帰ってくる?」紗月はすぐに首を振った。「悠真がいい子にしても、大人のした悪いことは消えないの。悠真がわがままを言っても、大人がしなきゃいけないことは、なくならないよ」悠真はわかったと言ったが、夜になると歯ぎしりをするようになった。学校では、友達がネットの記事で見た名前を口にしたという。記事に悠真の名前はなかった。それでも、周りの大人の顔だけで、自分に関係のあることだと気づいていた。紗月はカウンセラーと、伝える言葉を何度も考え直した。「偽物のママ」「本物のママ」という言い方はしないと決めた。産んだ人と、一緒に暮らしてきた人がいる。間違っていたのは、大人たちがその関係を隠したやり方なのだと説明することにした。土曜日の午後。カウンセラーも一緒に、公園の隅のベンチに座った。大切な話が始まる前から、悠真は紗月の手を握った。「パパと玲奈おばちゃんは、悠真が生まれたときから、大事なことを隠していたの」紗月は、悠真にわかる言葉だけを選んだ。「悠真を産んだのは、玲奈おばちゃん。パパは最初から、悠真のパパだった。でも、ママには、別の人の子だって言っていたの」悠真はしばらく、まばたきだけをしていた。「じゃあ、ママは?」「ママは悠真が4歳のときに出会って、家族になったの。それは、本当だよ」「でも、もう家族じゃないの?」紗月は息を整えてから、答えた。「大人たちが、法律できちんと
玲奈の録音ファイルが提出されると、恭介は声が捏造されたものだと主張した。「今どき、AIで作れないものなんてありますか?」出所のはっきりしない、民間の鑑定書を差し出す。だが、元のスマートフォン、クラウドへのバックアップ時刻、通話履歴は一致していた。録音の途中に入っていた車の案内音声は、当時の恭介の車の移動記録と合っていた。いくつかのファイルには、彼が玲奈の名前を呼ぶ声まではっきり残っていた。デジタル・フォレンジックの結果が出ると、恭介は主張を変えた。「母が、悠真を家に迎えろと強く迫ってきたんです。私は反対したんですが、逆らえませんでした」和代は息子の供述が記された書面を受け取ると、すぐに捜査員へ電話をかけた。「私がいつ、書類を偽造しろなんて言いました? 玲奈の子をよそに置いておくのは、家の恥だと言っただけですよ!」スピーカー越しに聞いていた真帆が、紗月を見た。和代は息子をかばおうとして、悠真の存在を最初から知っていたことを、自分で認めてしまった。玲奈は、待っていたようにメッセージを追加提出した。【和代:紗月の気が弱くなっているうちに、先に養子の話を進めなさい】【和代:あなたが実の母親だということだけは、絶対に知られちゃだめよ】今度は和代が、玲奈に恭介をたぶらかされたと主張した。すると玲奈は、恭介のほうから結婚を利用した詐欺を持ちかけた録音を出した。恭介が母親の圧力を持ち出せば、和代は息子が作った融資書類など見たこともないと線を引いた。親族のグループチャットも、1日で証拠の保管庫になった。和代は「嫁の財産は、いずれ孫のもの」と書き、恭介はその文章を消せと急かした。削除されたメッセージは、すでに親族のスマートフォンやサーバーに残っていた。互いをかばっていた人たちが、我先にと画面の写しを捜査機関へ提出した。ひとりが言い訳をするたび、別のひとりが、その嘘を壊した。会社でも、同じことが起きた。取締役会で、恭介は言った。「家庭の問題で、会社が攻撃されています。社長を守らなければ、社員の生活も守れません」財務担当の取締役が、会計資料を画面に出した。「社長個人の航空券、相沢玲奈さんのマンション、実体のないコンサルティング費用。どうして会社の帳簿に載っているんですか?」恭介は答えられなかった。名義を盗んで借りた1億5,000万
恭介は、すべての責任を玲奈に押しつけた。「玲奈は紗月に嫉妬していました。悠真を奪われるのを恐れて、養子縁組の資料を作り上げたんです。融資も、会社の資金を用意すると言って、独断で進めたことです」弁護人を通じて提出した意見書には、玲奈が執着心の強い愛人として描かれていた。恭介は彼女を会社から解雇した。マンションも、自分の金で買ったわけではないと線を引いた。悠真の養育費は、親子関係についての手続きが終わるまで払えないと伝えた。玲奈は、その書類を読んで、しばらく笑っていた。「結局、私まで捨てるんだ」その日の午後、真帆から連絡が来た。「玲奈が資料を渡したいって。直接会いたいと言ってるけど」「謝罪を聞くつもりはない」「わかってる。私の事務所で、証拠だけ受け取ろう」玲奈は小さな外付けストレージを持って現れた。化粧気のない顔は、数日のうちにやつれていた。「社長は、何度も約束を変えました」紗月は何も言わず、記録媒体を見ていた。「あなたの財産の整理がついたら、離婚するって。悠真を連れてきて、3人で暮らすって言ったんです」玲奈は養子縁組のあとも、実の母親だという事実を隠す代わりに、毎月金を受け取っていた。恭介はその金を、生活費ではなく「待っていてもらうための金」と呼んだ。「それで、録音したんですか?」「最初は、約束を忘れないでほしくて。そのうち、私まで捨てられる気がして」記録媒体には、8年にわたる通話の録音と、メッセージのバックアップが入っていた。いずれも、玲奈自身が参加した会話だった。元のスマートフォンも、一緒に提出された。最初のファイルから、恭介の声が流れた。――紗月は、家族に弱いんだ。俺が不妊だって言えば、見捨てられない。2つ目のファイル。――悠真は、親戚の子だってことにすればいい。育ててるうちに、財産だって自然とこっちへ来る。3つ目には、融資の計画が入っていた。――治療の日なら、余裕なんかないだろ。書類は俺が作る。お前は銀行で本人確認だけ済ませればいい。――ばれたら、どうするの?――紗月は俺を疑わないよ。自分の体が悪いんだと思ってるから。紗月は再生を止めた。植えつけられた罪悪感を、恭介自身の声でもう一度聞く。その瞬間、お腹に注射を打った夜が、いっぺんに蘇った。「続けてください」次のファイルには、玲奈の声もあ