LOGIN秘密の交際が始まって一ヶ月が経った。
澪の生活は、表面上は何も変わっていなかった。朝早く起き、満員電車に揺られ、編集部で仕事をこなし、夜遅く帰宅する。
でも、その日常の合間に、蓮との時間が織り込まれていた。
週に三回、澪は蓮の家を訪れた。仕事の後、夜九時過ぎ。蓮のスケジュールが空いている日だけ。
マンションのエントランスで、澪はいつも周囲を確認してから中に入った。エレベーターに乗り、最上階のボタンを押す。心臓が高鳴る。
ドアが開くと、蓮が待っていた。
「おかえり」
「ただいま」
この言葉の交換が、二人の儀式になっていた。
蓮の家では、二人は完全にプライベートな時間を過ごした。
ある夜、蓮は約束通り料理を作ってくれた。和食。鯖の味噌煮、小松菜のお浸し、豆腐とわかめの味噌汁。
「すごい。本格的ですね」
澪が驚くと、蓮が照れくさそうに笑った。
「母が料理上手で、小さい頃からよく一緒に作ってたんです」
「お母様、素敵な方なんですね」
「はい。でも、僕がアイドルになってから、あまり会えてなくて」
蓮の表情が、少し曇った。
「実家は大阪なんです。年に数回しか帰れない」
「寂しいですね」
「まあ、これも仕事だから」
蓮はすぐに笑顔を作った。でも、澪には分かった。彼が、家族を恋しく思っていることが。
食事の後、二人はソファに座ってテレビを見た。深夜のバラエティ番組。Stellarも時々出演する番組だ。
「あ、これ、先月収録したやつだ」
蓮が画面を指差した。そこには、Stellarのメンバーたちが笑いながらゲームをしている姿が映っていた。
「蓮さん、楽しそうですね」
「演技ですよ、半分は」
蓮が苦笑した。
「バラエティって、求められるキャラを演じなきゃいけないんです。僕はリーダーだから、しっかり者で、真面目な役回り」
「でも、実際もそうじゃないですか?」
交際三ヶ月目に入った頃、澪は異変に気づき始めた。 最初は小さな違和感だった。 編集部で、同僚たちがStellarの話をしている時。「柊蓮って、本当にかっこいいよね」「でも、近寄りがたい感じがする。完璧すぎて」「そうそう。でも、そのギャップがまたいいんだよね」 澪は黙って聞いていた。心の中で、違う、と叫びながら。 彼は完璧じゃない。夜、一人で泣くこともある。疲れて、弱音を吐くこともある。 でも、それは誰にも言えない。 二重生活の重さが、少しずつ澪の心に重くのしかかってきた。 そして、ある日のこと。 美咲が澪に声をかけてきた。「澪ちゃん、最近どう? なんか疲れてない?」「いえ、大丈夫です」「本当に? クマできてるわよ」 美咲が心配そうに澪の顔を覗き込んだ。「無理してない? 仕事、大変?」「少し、忙しいだけです」 嘘をついた。仕事が忙しいのは事実だが、本当の理由は別にあった。 蓮との時間を作るため、澪は睡眠時間を削っていた。夜遅くまで蓮の家にいて、帰宅は深夜二時過ぎ。朝は七時に起きなければならない。 慢性的な睡眠不足。 でも、蓮と過ごす時間は、何にも代えがたかった。「ちょっと休んだら?」「大丈夫です」 澪は笑顔を作った。美咲は納得していない様子だったが、それ以上は追求しなかった。 その夜、澪は蓮の家を訪れた。 ドアを開けると、蓮が心配そうな顔で澪を見た。「澪、やつれてない?」「そんなことないです」「嘘。顔色悪いよ」 蓮が澪の頬に手を当てた。「最近、ちゃんと寝てる?」「寝てます」「また嘘」 蓮が優しく言った。「僕のせいだね。無理させてる」「そんなことないです」「でも――」
秘密の交際が始まって一ヶ月が経った。 澪の生活は、表面上は何も変わっていなかった。朝早く起き、満員電車に揺られ、編集部で仕事をこなし、夜遅く帰宅する。 でも、その日常の合間に、蓮との時間が織り込まれていた。 週に三回、澪は蓮の家を訪れた。仕事の後、夜九時過ぎ。蓮のスケジュールが空いている日だけ。 マンションのエントランスで、澪はいつも周囲を確認してから中に入った。エレベーターに乗り、最上階のボタンを押す。心臓が高鳴る。 ドアが開くと、蓮が待っていた。「おかえり」「ただいま」 この言葉の交換が、二人の儀式になっていた。 蓮の家では、二人は完全にプライベートな時間を過ごした。 ある夜、蓮は約束通り料理を作ってくれた。和食。鯖の味噌煮、小松菜のお浸し、豆腐とわかめの味噌汁。「すごい。本格的ですね」 澪が驚くと、蓮が照れくさそうに笑った。「母が料理上手で、小さい頃からよく一緒に作ってたんです」「お母様、素敵な方なんですね」「はい。でも、僕がアイドルになってから、あまり会えてなくて」 蓮の表情が、少し曇った。「実家は大阪なんです。年に数回しか帰れない」「寂しいですね」「まあ、これも仕事だから」 蓮はすぐに笑顔を作った。でも、澪には分かった。彼が、家族を恋しく思っていることが。 食事の後、二人はソファに座ってテレビを見た。深夜のバラエティ番組。Stellarも時々出演する番組だ。「あ、これ、先月収録したやつだ」 蓮が画面を指差した。そこには、Stellarのメンバーたちが笑いながらゲームをしている姿が映っていた。「蓮さん、楽しそうですね」「演技ですよ、半分は」 蓮が苦笑した。「バラエティって、求められるキャラを演じなきゃいけないんです。僕はリーダーだから、しっかり者で、真面目な役回り」「でも、実際もそうじゃないですか?」
三日間、澪は答えを出せなかった。 仕事中も、蓮のことばかり考えていた。彼の言葉、彼の表情、彼の手の温もり。全てが澪の心を占領していた。 スマホには、蓮からのメッセージが毎日届いていた。「おはようございます」 「今日も一日、頑張ってください」 「無理に返信しなくていいです。ただ、澪さんのことを考えています」 その優しさが、澪をさらに混乱させた。 そして、三日目の夜。 澪は決心した。 スマホを手に取り、蓮にメッセージを送った。「明日、お時間ありますか? お話ししたいことがあります」 すぐに返信が来た。「あります。どこでも行きます」 翌日の夕方、澪は新宿の静かなカフェで蓮を待っていた。個室のある店。人目を避けるため。 ドアが開き、蓮が入ってきた。黒いキャップに マスク、サングラス。完全な変装。でも、澪にはすぐに分かった。「お待たせしました」 蓮がマスクを外し、微笑んだ。「いえ、私も今来たところです」 二人は向かい合って座った。沈黙。 澪は深呼吸をした。「蓮さん、私……」「はい」「あなたの気持ち、受け取ります」 蓮の瞳が、大きく見開かれた。「でも、条件があります」「何でも聞きます」「まず、私はまだあなたのことをよく知りません。本当の、素のあなたを」 澪は蓮の目を見つめた。「だから、時間をください。ゆっくりと、お互いを知る時間を」「もちろんです」「そして、この関係は秘密にしてください。あなたの仕事に影響が出るのは避けたいから」「分かりました」 蓮が嬉しそうに微笑んだ。「じゃあ、これから僕たち……」「まだ恋人じゃありません」 澪が慌てて付け加えた。「まずは、友達として。そこから始め
Stellar事務所からの提案は、すぐに現実のものとなった。 翌週の月曜日、澪は上司から呼ばれた。「澪、ちょっといいか」 編集長が、珍しく柔らかい表情で澪を見ていた。「はい」「Stellar事務所から、君を指名で映像編集の仕事を依頼したいという話が来ている」「指名、ですか」「ああ。通常の雑誌の仕事とは別に、彼らの公式YouTubeチャンネル用の映像編集をしてほしいらしい。もちろん、報酬も別途出る」 澪の心臓が高鳴った。「柊蓮本人が君の編集を気に入ったそうだ。才能を認められたんだな、澪」 編集長の言葉に、澪は複雑な気持ちになった。嬉しい。でも同時に、罪悪感もあった。 自分は、ただのファンだ。プロとして蓮の仕事を評価されているのに、心の奥底では、彼に会いたいという個人的な感情が渦巻いている。「受けてくれるか?」「はい、喜んで」 答えは、既に決まっていた。 その日の午後、澪は事務所から送られてきた映像素材を確認した。Stellarの最新ライブ映像、リハーサル風景、メンバーたちの日常。膨大な量のデータ。 そして、その多くに蓮が映っていた。 澪は一つ一つの映像を丁寧に見ていった。編集者として、最も効果的なカットを選ぶ。でも同時に、ファンとして、蓮の表情を追ってしまう。 矛盾している。 でも、やめられない。 編集作業は深夜まで続いた。澪は自宅で、ヘッドフォンを耳に当てながら、タイムラインを調整していく。蓮の歌声が、直接脳に響き込んでくる。 そして、ある映像に気づいた。 リハーサルの合間、蓮が一人でスタジオの隅に座っている場面。カメラは彼を捉えていないはずだったが、たまたま広角レンズの端に映り込んでいた。 蓮は顔を両手で覆っていた。 肩が小さく震えている。 泣いている? 澪は映像を一時停止し、拡大した。確認できない。でも、明らかに彼は何かに耐えているように見えた。
取材から一週間が経った。 澪の日常は、いつも通りに戻っていた。朝の満員電車、デスクワーク、先輩の指示、夜遅くまでの残業。でも、何かが違った。 蓮に会ったという事実が、澪の心に小さな変化をもたらしていた。 以前は画面越しでしか見たことのなかった彼が、今は現実の人間として澪の記憶に存在している。彼の声の質感、彼の瞳の色、彼の笑顔の温度。全てが、リアルな記憶として澪の中に残っていた。「澪ちゃん、この記事のレイアウト、もう少し調整してくれる?」 美咲の声で、澪は現実に引き戻された。「あ、はい。すぐやります」 澪はパソコンの画面に集中した。今週号の特集記事――その中に、Stellarのインタビューも含まれている。澪が撮影現場で受け取ったライブ映像を編集し、記事に添える予定だ。 編集作業をしながら、澪は蓮の表情を何度も見返した。インタビュー中の彼、撮影中の彼、休憩中の彼。どの瞬間も完璧で、隙がない。 でも、やはり気になる部分があった。 インタビューの最後、カメラが別のメンバーに向いた瞬間。蓮が深く息を吐き、目を閉じる一瞬の映像。その表情には、深い疲労が滲んでいた。 澪はその部分を拡大し、じっくりと見つめた。「大丈夫かな」 また、同じ言葉を呟いていた。 その時、デスクの電話が鳴った。「はい、編集部です」「あ、すみません。田中美咲さんはいらっしゃいますか?」 男性の声だった。丁寧で、落ち着いた口調。「田中は今、外出中です。ご用件をお伺いできますか?」「実は、先日のStellarの取材の件で、追加の撮影をお願いしたいんです。事務所の者ですが」「追加の撮影、ですか」「はい。今回の記事、かなり好評だったらしくて。それで、もう少し詳しい特集を組みたいという話が出てまして」 澪の心臓が高鳴った。追加取材ということは、また蓮に会える可能性がある。「分かりました。田中が戻りましたら、折り返しご連絡させます」「お願いします」 電話を切った後、澪は深呼吸をした。落ち着け、と自分に言い聞かせる。でも、心は既に浮き足立っていた。 美咲が戻ってきたのは夕方だった。澪は早速、事務所からの電話を伝えた。「追加取材? 珍しいわね」 美咲は興味深そうに言った。「まあ、Stellarは今、勢いがあるからね。もっと深掘りした記事を作るのは悪くないわ」「で
相沢澪が初めて柊蓮を見たのは、三年前の夏だった。 雑誌『SPOTLIGHT』のアシスタント編集として働き始めて半年。先輩に言われるがまま徹夜で記事のレイアウトを調整していた深夜、休憩がてら開いたYouTubeで、偶然その映像に出会った。 新人アイドルグループ「Stellar」のデビューライブ。 画面の中央で歌う青年の瞳が、澪の心を射抜いた。柊蓮――当時二十三歳。黒髪に切れ長の瞳、端正な顔立ちに反して、どこか儚げな雰囲気を纏っていた。 だが澪の心を掴んだのは、彼の容姿ではなく、その歌声だった。 高音の美しさ。言葉の一つ一つに込められた感情の深さ。そして何より、曲の間奏で見せた、ほんの一瞬の――疲れた表情。 きっと誰も気づかなかっただろう。カメラはすぐに別のメンバーに切り替わり、蓮はまた完璧な笑顔を取り戻した。でも澪は見てしまった。その一瞬の、張り詰めた糸が今にも切れそうな顔を。「この人、無理してる」 澪は呟いた。画面を何度も巻き戻し、その瞬間を確認した。間違いない。彼は笑顔の裏で、何かを必死に押し殺している。 それから澪は、柊蓮の隠れファンになった。 隠れ、というのは文字通りの意味だ。職場でもプライベートでも、誰にも言わなかった。アイドルのファンであることが恥ずかしいわけではない。ただ、なんとなく、彼への想いを言葉にすることが憚られた。 自分の気持ちが、単なる「ファン」の域を超えていることに、薄々気づいていたからかもしれない。 仕事から帰ると、澪は小さなワンルームのデスクに向かい、イヤホンを耳に差し込む。Stellarの楽曲を流しながら、自分の編集作業を進める。蓮の声が耳に流れ込むと、不思議と集中力が増した。 週末には必ずStellarの映像をチェックした。YouTubeの公式チャンネル、音楽番組の録画、ファンが撮影した非公式の動画。あらゆる映像を見漁り、蓮の表情を観察した。 そしてあるパターンに気づいた。 蓮は、カメラが自分を捉えていないと思った瞬間、表情が変わる。ステージ上で仲間と談笑していても、ふと視線を落とす瞬間がある。その時の彼の顔には、深い疲労と、どこか諦めに似た影が浮かんでいた。「大丈夫かな、この人」 澪は画面越しに、会ったこともない青年を心配した。握手会やライブに行く勇気はなかった。いや、行きたくな