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相沢澪が初めて柊蓮を見たのは、三年前の夏だった。
雑誌『SPOTLIGHT』のアシスタント編集として働き始めて半年。先輩に言われるがまま徹夜で記事のレイアウトを調整していた深夜、休憩がてら開いたYouTubeで、偶然その映像に出会った。
新人アイドルグループ「Stellar」のデビューライブ。
画面の中央で歌う青年の瞳が、澪の心を射抜いた。柊蓮――当時二十三歳。黒髪に切れ長の瞳、端正な顔立ちに反して、どこか儚げな雰囲気を纏っていた。
だが澪の心を掴んだのは、彼の容姿ではなく、その歌声だった。
高音の美しさ。言葉の一つ一つに込められた感情の深さ。そして何より、曲の間奏で見せた、ほんの一瞬の――
きっと誰も気づかなかっただろう。カメラはすぐに別のメンバーに切り替わり、蓮はまた完璧な笑顔を取り戻した。でも澪は見てしまった。その一瞬の、張り詰めた糸が今にも切れそうな顔を。
「この人、
澪は呟いた。画面を何度も巻き戻し、その瞬間を確認した。間違いない。彼は笑顔の裏で、何かを必死に押し殺している。
それから澪は、柊蓮の隠れファンになった。
隠れ、というのは文字通りの意味だ。職場でもプライベートでも、誰にも言わなかった。アイドルのファンであることが恥ずかしいわけではない。ただ、なんとなく、彼への想いを言葉にすることが憚られた。
自分の気持ちが、単なる「ファン」の域を超えていることに、薄々気づいていたからかもしれない。
仕事から帰ると、澪は小さなワンルームのデスクに向かい、イヤホンを耳に差し込む。Stellarの楽曲を流しながら、自分の編集作業を進める。蓮の声が耳に流れ込むと、不思議と集中力が増した。
週末には必ずStellarの映像をチェックした。YouTubeの公式チャンネル、音楽番組の録画、ファンが撮影した非公式の動画。あらゆる映像を見漁り、蓮の表情を観察した。
そしてあるパターンに気づいた。
蓮は、カメラが自分を捉えていないと思った瞬間、表情が変わる。ステージ上で仲間と談笑していても、ふと視線を落とす瞬間がある。その時の彼の顔には、深い疲労と、どこか諦めに似た影が浮かんでいた。
「大丈夫かな、この人」
澪は画面越しに、会ったこともない青年を心配した。握手会やライブに行く勇気はなかった。いや、行きたくなかった。大勢のファンの一人として彼の前に立ち、数秒間の会話を交わして終わり。そんなの耐えられない。
澪が望んでいたのは、蓮の「本当の顔」を見ることだった。カメラの前でも、ファンの前でもない、素の彼。疲れた時には疲れたと言える彼。笑顔を作らなくてもいい彼。
でもそれは叶わぬ願いだと、澪は分かっていた。
二十七歳の雑誌編集アシスタント。毎朝七時に起き、満員電車に揺られて出社。先輩の指示に従い、記事の校正、レイアウト調整、取材のアポ取り。昼食は近くのコンビニで買った菓子パン。夜は十時過ぎまで残業。帰宅後は簡単な自炊をして、シャワーを浴びて、就寝前に蓮の動画を見る。
これが澪の日常だった。
特別な才能もない。特別な美貌もない。特別な何かを持っているわけでもない。ただ真面目に、コツコツと仕事をこなす、どこにでもいる普通の女性。
そんな自分が、輝くアイドルに恋をするなんて。
「馬鹿みたい」
澪は自嘲気味に笑った。スマホの画面には、先週のStellarの音楽番組出演時の映像が流れている。蓮が新曲を歌い、数百人の観客が熱狂的に彼の名を叫んでいる。
あの世界と、この六畳一間のアパート。
どれだけ離れているんだろう。
澪はイヤホンを外し、窓の外を見た。東京の夜景が、無数の光を放っている。どこかであの光の中で、蓮も今日一日を終えようとしているのだろうか。
そんなことを考えながら、澪は眠りについた。
――そして、運命の日は突然訪れた。
それは二〇二四年十月、秋の始まりの頃。
「澪ちゃん、ちょっといい?」
先輩編集者の田中美咲が、澪のデスクに近づいてきた。美咲は三十二歳、編集歴七年のベテラン。面倒見がよく、澪にとっては姉のような存在だった。
「はい、何でしょうか」
「来週の特集、覚えてる? 『今、輝く若手エンターテイナー』特集」
「はい、覚えてます」
「その取材なんだけど、Stellarのインタビューが入ることになったの」
澪の心臓が跳ねた。
「Stellar、ですか」
「そう。事務所側から『SPOTLIGHT』を指名してくれたらしいの。で、取材は来週水曜日。場所は渋谷のスタジオ」
美咲は澪の様子に気づかず、続けた。
「で、ね。今回の取材、澪ちゃんにも同行してもらおうと思って」
「え」
「インタビュー自体は私がやるけど、写真撮影の段取りとか、ライブ映像の編集素材の受け取りとか、細かい作業があるでしょ。澪ちゃん、そういうの得意だし」
澪の頭が真っ白になった。
Stellarの取材。
つまり、柊蓮に会える。
三年間、画面越しでしか見たことのなかった彼に。
「澪ちゃん? 大丈夫?」
「あ、はい! 大丈夫です! 喜んで!」
澪は慌てて答えた。美咲が不思議そうな顔をする。
「なんか、テンション高いわね。もしかしてStellarのファン?」
「いえ、そんな……少し、曲は知ってますけど」
嘘をついた。美咲に本当のことを言えば、きっと取材に同行させてもらえなくなる。ファンが取材に入るのは、ジャーナリズムの倫理に反する。澪もそれは分かっていた。
「ふーん。まあいいわ。じゃあ、来週水曜、午後二時集合ね。場所の詳細は後でメールするから」
「分かりました」
美咲が去った後、澪は深呼吸をした。
手が震えている。
会える。本当に会える。
でも、どうすればいい? 何を話せばいい? いや、話せるはずがない。澪はただのアシスタント。蓮と直接会話する機会なんてないだろう。
それでもいい。同じ空間にいられるだけで。
澪はスマホを取り出し、蓮の最新の写真を見つめた。画面の中の彼は、いつもの完璧な笑顔を浮かべている。
「会えるんだね」
澪は小さく呟いた。
その夜、澪は興奮で眠れなかった。布団の中でスマホを握りしめ、Stellarの楽曲を繰り返し聴いた。蓮の声が、いつもより近くに感じられた。
来週水曜日。
あと五日。
澪の心は、期待と不安で満たされていた。
翌日から、澪は取材の準備に没頭した。Stellarの過去のインタビュー記事を全てチェックし、彼らの楽曲の歌詞を分析し、最近の活動を綿密に調べた。
「澪ちゃん、そこまでやる必要ないのよ」
美咲が苦笑しながら言った。
「でも、準備は大切ですから」
「まあ、その真面目さが澪ちゃんのいいところよね」
真面目なんかじゃない。ただ、蓮のことをもっと知りたいだけ。
澪は心の中でそう答えた。
そして水曜日がやってきた。
朝から澪は落ち着かなかった。何度も鏡の前に立ち、服装をチェックした。黒のパンツスーツに白いブラウス。髪は後ろで一つに結び、メイクは控えめに。仕事用の格好。目立たないように。
でも、心の奥底で、小さな期待があった。
もしかしたら、蓮が自分に気づいてくれるかもしれない。
「馬鹿みたい」
再び自嘲する。そんなわけない。彼は毎日何百人、何千人のファンと接している。澪みたいな地味な女性に気づくはずがない。
午後一時半、澪は渋谷のスタジオに到着した。美咲はすでに到着しており、スタッフと打ち合わせをしていた。
「澪ちゃん、来た? じゃあ、機材のセッティング手伝って」
「はい」
澪は撮影機材の準備を手伝いながら、入り口を何度も見た。まだStellarのメンバーは到着していない。
そして午後二時。
スタジオのドアが開いた。
最初に入ってきたのは、マネージャーらしき男性。その後ろから、五人の青年が現れた。
Stellarのメンバー。
そして、その中心に――柊蓮がいた。
澪の息が止まった。
実物の蓮は、画面で見るよりもずっと美しかった。いや、美しいという言葉では足りない。彼の存在そのものが、空間を支配していた。黒いシャツに細身のジーンズ。シンプルな服装なのに、まるでファッション誌から抜け出してきたようだった。
「Stellarの皆さん、ようこそ。今日はよろしくお願いします」
美咲が挨拶する。メンバーたちが礼儀正しく挨拶を返す。
蓮の声が聞こえた。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
低くて、落ち着いた声。画面越しで聞くのと、直接聞くのとでは、こんなにも違うのか。
澪は機材の影に隠れるようにして、蓮を見つめた。彼はスタジオ内を見回し、スタッフたちに丁寧に会釈している。その所作の一つ一つが洗練されていて、まるで舞台の上にいるようだった。
「では、インタビューの前に、軽く撮影を済ませましょうか」
カメラマンが提案した。メンバーたちが指定された場所に並ぶ。
撮影が始まった。カメラマンの指示に従い、メンバーたちがポーズを取る。その間、澪は照明の調整を手伝いながら、蓮の様子を観察した。
彼は完璧だった。
どの角度から撮られても、どんな表情を求められても、瞬時に応える。プロフェッショナル。まさにその言葉がふさわしい。
でも――。
撮影の合間、カメラマンが機材を調整している時。蓮がふと、肩を回す仕草をした。そして首筋を軽く揉んだ。
疲れている。
澪には分かった。三年間、画面越しに彼を見続けてきたから。あの仕草は、蓮が疲労を感じている時の癖だ。
「お疲れ様でした。では次はインタビューに移りましょう」
美咲がメンバーたちをソファに案内した。澪はカメラの横に立ち、録音機器のチェックをした。
インタビューが始まる。
美咲の質問に、メンバーたちが順番に答えていく。新曲について、今後の活動について、ファンへのメッセージ。定型的な内容だが、彼らは真摯に答えている。
そして蓮の番になった。
「柊さん、リーダーとしてグループをまとめる上で、一番大切にしていることは何ですか?」
蓮は少し考えてから答えた。
「メンバー一人一人の個性を尊重することです。僕たちはそれぞれ違った強みを持っている。その違いを認め合い、助け合うことが、Stellarの強さだと思っています」
美しい回答だった。まるで台本を読んでいるかのように流暢で、隙がない。
でも、澪には分かった。
彼の瞳が、少しだけ曇っている。
インタビューは一時間ほどで終了した。メンバーたちが休憩に入り、スタッフがお茶を用意する。
「澪ちゃん、ライブ映像の素材、受け取ってきて」
「はい」
澪はマネージャーから指定されたUSBメモリを受け取るため、控室に向かった。心臓がまだドキドキしている。蓮と同じ空間にいた。それだけで、信じられない出来事だった。
控室のドアをノックする。
「失礼します」
「どうぞ」
中に入ると、マネージャーがソファに座っていた。
「あ、編集の方ですね。少々お待ちください」
マネージャーが鞄から何かを探し始める。その時、控室の奥から人の気配がした。
澪が振り返ると――蓮が立っていた。
二人きり。
いや、マネージャーもいるが、彼は鞄の中身に集中している。
蓮と澪の視線が、初めて交差した。
澪の心臓が激しく鳴った。何か言わなければ。でも何を?
「あの……」
澪が口を開きかけた瞬間、蓮が微笑んだ。
それは、今までに見たどの笑顔とも違っていた。カメラの前の完璧な笑顔でも、ファンに向けた営業スマイルでもない。どこか儚く、それでいて温かい笑顔。
「お疲れ様です」
蓮が言った。
「あ、お疲れ様です」
澪は慌てて頭を下げた。顔が熱い。きっと真っ赤になっている。
「はい、これです」
マネージャーがUSBメモリを渡してくれた。澪は受け取り、もう一度頭を下げて控室を出ようとした。
その時。
「あの」
蓮の声が、澪を呼び止めた。
澪は振り返った。蓮がこちらを見ている。その瞳に、何か言いたげな光が宿っていた。
「はい?」
でも、蓮は首を横に振った。
「いえ、何でもありません。今日はありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございました」
澪は控室を出た。廊下で深呼吸をする。手が震えていた。
会った。話した。たった数秒の会話だったけど。
澪はUSBメモリを握りしめた。これが、彼との唯一の接点。大切に仕事をしよう。
その後、取材は無事に終了した。Stellarのメンバーたちがスタジオを去る時、澪は遠くから見送った。蓮が最後に振り返り、スタッフ全員に深々と頭を下げた。
そして、彼は去っていった。
澪の日常が、再び始まった。
でも、何かが変わっていた。
その夜、澪は受け取ったライブ映像を編集しながら、蓮との短い会話を何度も思い返した。彼の声、彼の笑顔、彼の瞳。
全てが鮮明に記憶に刻まれていた。
「また会えるかな」
澪は画面の中の蓮に問いかけた。
答えは返ってこない。
でも、澪の心の中に、小さな希望が芽生えていた。
それは、運命の歯車が回り始めた音だった。
週刊誌の記事が出てから三日後、決定的な瞬間が訪れた。 澪が編集部で仕事をしていると、受付から内線電話がかかってきた。「相沢さん、来客です。Stellar事務所の方が」 澪の心臓が止まりそうになった。「分かりました。すぐ行きます」 会議室に向かうと、スーツを着た中年の男性が二人待っていた。「相沢澪さんですね」 一人が名刺を差し出した。Stellar事務所、マネージメント部長。「はい」「単刀直入にお聞きします。あなたは、柊蓮と交際していますか?」 澪は深呼吸をした。 嘘をつくべきか。でも、もう無理だと分かっていた。「はい」 その言葉が、全てを変えた。「そうですか」 部長が冷たい目で澪を見た。「では、いくつか確認させてください。交際期間は?」「四ヶ月ほどです」「きっかけは?」「取材で知り合って……蓮さんから告白されました」「向こうからですか」 部長がメモを取った。「相沢さん、あなたは元々Stellarのファンだったと聞いていますが」「はい」「それで、意図的に近づいたのではないですか?」 澪は怒りを感じた。「違います。仕事として、真摯に取り組んでいました」「でも、結果的に柊と親密になった」「それは……はい」 部長が立ち上がった。「相沢さん、あなたの行為は、ジャーナリストとしての倫理に反しています。そして、柊のキャリアに深刻な影響を与えています」「分かっています」「分かっているなら、別れてください」 澪の心が引き裂かれそうになった。「今すぐに、柊との関係を断ってください。そうすれば、事務所としても穏便に処理できます」「もし、断ったら?」「法的措置も
それは、交際四ヶ月目のことだった。 ある日、澪が編集部に出社すると、オフィス内が妙にざわついていた。「見た? 今朝のネットニュース」「え、何があったの?」「Stellarの柊蓮、女性とのデート写真が流出したらしいよ」 澪の心臓が凍りついた。 慌ててスマホでニュースサイトを開くと――。 トップページに、見覚えのある写真が掲載されていた。 公園を歩く二人の人物。マスクとサングラスをした男性と、女性。 先週、蓮と散歩した時の写真だ。 記事のタイトル:『Stellar柊蓮、謎の女性と密会!? 交際の可能性も』 澪の手が震えた。 写真は少し遠くから撮られていて、顔は鮮明には写っていない。でも、蓮だと分かる人には分かるだろう。 そして、自分も。「誰なんだろう、この女性」「モデルとか女優じゃない?」「でも、顔が見えないよね」 同僚たちが噂話に花を咲かせている。 澪は席に座り、深呼吸をした。 落ち着け。まだ特定されていない。大丈夫。 その時、スマホが振動した。蓮からのメッセージ。「見た? ごめん。気をつけてたのに」 澪は返信した。「大丈夫です。まだ私だとは特定されていません」「でも、時間の問題だよ。事務所が調査を始めてる」 澪の心臓が激しく鳴った。 昼休み、澪は外に出てカフェで一人考え込んだ。 このままでは、いずれ自分が特定される。 そうなったら、蓮のキャリアに傷がつく。 どうすればいい? 別れる? その選択肢が頭に浮かんだ瞬間、澪の胸が締め付けられた。 嫌だ。蓮と別れるなんて、考えられない。 でも、このままでは――。 午後、澪が編集部に戻ると、美咲が深刻な顔で待っていた。「澪ちゃん、ちょっと話がある」 会議
交際三ヶ月目に入った頃、澪は異変に気づき始めた。 最初は小さな違和感だった。 編集部で、同僚たちがStellarの話をしている時。「柊蓮って、本当にかっこいいよね」「でも、近寄りがたい感じがする。完璧すぎて」「そうそう。でも、そのギャップがまたいいんだよね」 澪は黙って聞いていた。心の中で、違う、と叫びながら。 彼は完璧じゃない。夜、一人で泣くこともある。疲れて、弱音を吐くこともある。 でも、それは誰にも言えない。 二重生活の重さが、少しずつ澪の心に重くのしかかってきた。 そして、ある日のこと。 美咲が澪に声をかけてきた。「澪ちゃん、最近どう? なんか疲れてない?」「いえ、大丈夫です」「本当に? クマできてるわよ」 美咲が心配そうに澪の顔を覗き込んだ。「無理してない? 仕事、大変?」「少し、忙しいだけです」 嘘をついた。仕事が忙しいのは事実だが、本当の理由は別にあった。 蓮との時間を作るため、澪は睡眠時間を削っていた。夜遅くまで蓮の家にいて、帰宅は深夜二時過ぎ。朝は七時に起きなければならない。 慢性的な睡眠不足。 でも、蓮と過ごす時間は、何にも代えがたかった。「ちょっと休んだら?」「大丈夫です」 澪は笑顔を作った。美咲は納得していない様子だったが、それ以上は追求しなかった。 その夜、澪は蓮の家を訪れた。 ドアを開けると、蓮が心配そうな顔で澪を見た。「澪、やつれてない?」「そんなことないです」「嘘。顔色悪いよ」 蓮が澪の頬に手を当てた。「最近、ちゃんと寝てる?」「寝てます」「また嘘」 蓮が優しく言った。「僕のせいだね。無理させてる」「そんなことないです」「でも――」
秘密の交際が始まって一ヶ月が経った。 澪の生活は、表面上は何も変わっていなかった。朝早く起き、満員電車に揺られ、編集部で仕事をこなし、夜遅く帰宅する。 でも、その日常の合間に、蓮との時間が織り込まれていた。 週に三回、澪は蓮の家を訪れた。仕事の後、夜九時過ぎ。蓮のスケジュールが空いている日だけ。 マンションのエントランスで、澪はいつも周囲を確認してから中に入った。エレベーターに乗り、最上階のボタンを押す。心臓が高鳴る。 ドアが開くと、蓮が待っていた。「おかえり」「ただいま」 この言葉の交換が、二人の儀式になっていた。 蓮の家では、二人は完全にプライベートな時間を過ごした。 ある夜、蓮は約束通り料理を作ってくれた。和食。鯖の味噌煮、小松菜のお浸し、豆腐とわかめの味噌汁。「すごい。本格的ですね」 澪が驚くと、蓮が照れくさそうに笑った。「母が料理上手で、小さい頃からよく一緒に作ってたんです」「お母様、素敵な方なんですね」「はい。でも、僕がアイドルになってから、あまり会えてなくて」 蓮の表情が、少し曇った。「実家は大阪なんです。年に数回しか帰れない」「寂しいですね」「まあ、これも仕事だから」 蓮はすぐに笑顔を作った。でも、澪には分かった。彼が、家族を恋しく思っていることが。 食事の後、二人はソファに座ってテレビを見た。深夜のバラエティ番組。Stellarも時々出演する番組だ。「あ、これ、先月収録したやつだ」 蓮が画面を指差した。そこには、Stellarのメンバーたちが笑いながらゲームをしている姿が映っていた。「蓮さん、楽しそうですね」「演技ですよ、半分は」 蓮が苦笑した。「バラエティって、求められるキャラを演じなきゃいけないんです。僕はリーダーだから、しっかり者で、真面目な役回り」「でも、実際もそうじゃないですか?」
三日間、澪は答えを出せなかった。 仕事中も、蓮のことばかり考えていた。彼の言葉、彼の表情、彼の手の温もり。全てが澪の心を占領していた。 スマホには、蓮からのメッセージが毎日届いていた。「おはようございます」 「今日も一日、頑張ってください」 「無理に返信しなくていいです。ただ、澪さんのことを考えています」 その優しさが、澪をさらに混乱させた。 そして、三日目の夜。 澪は決心した。 スマホを手に取り、蓮にメッセージを送った。「明日、お時間ありますか? お話ししたいことがあります」 すぐに返信が来た。「あります。どこでも行きます」 翌日の夕方、澪は新宿の静かなカフェで蓮を待っていた。個室のある店。人目を避けるため。 ドアが開き、蓮が入ってきた。黒いキャップに マスク、サングラス。完全な変装。でも、澪にはすぐに分かった。「お待たせしました」 蓮がマスクを外し、微笑んだ。「いえ、私も今来たところです」 二人は向かい合って座った。沈黙。 澪は深呼吸をした。「蓮さん、私……」「はい」「あなたの気持ち、受け取ります」 蓮の瞳が、大きく見開かれた。「でも、条件があります」「何でも聞きます」「まず、私はまだあなたのことをよく知りません。本当の、素のあなたを」 澪は蓮の目を見つめた。「だから、時間をください。ゆっくりと、お互いを知る時間を」「もちろんです」「そして、この関係は秘密にしてください。あなたの仕事に影響が出るのは避けたいから」「分かりました」 蓮が嬉しそうに微笑んだ。「じゃあ、これから僕たち……」「まだ恋人じゃありません」 澪が慌てて付け加えた。「まずは、友達として。そこから始め
Stellar事務所からの提案は、すぐに現実のものとなった。 翌週の月曜日、澪は上司から呼ばれた。「澪、ちょっといいか」 編集長が、珍しく柔らかい表情で澪を見ていた。「はい」「Stellar事務所から、君を指名で映像編集の仕事を依頼したいという話が来ている」「指名、ですか」「ああ。通常の雑誌の仕事とは別に、彼らの公式YouTubeチャンネル用の映像編集をしてほしいらしい。もちろん、報酬も別途出る」 澪の心臓が高鳴った。「柊蓮本人が君の編集を気に入ったそうだ。才能を認められたんだな、澪」 編集長の言葉に、澪は複雑な気持ちになった。嬉しい。でも同時に、罪悪感もあった。 自分は、ただのファンだ。プロとして蓮の仕事を評価されているのに、心の奥底では、彼に会いたいという個人的な感情が渦巻いている。「受けてくれるか?」「はい、喜んで」 答えは、既に決まっていた。 その日の午後、澪は事務所から送られてきた映像素材を確認した。Stellarの最新ライブ映像、リハーサル風景、メンバーたちの日常。膨大な量のデータ。 そして、その多くに蓮が映っていた。 澪は一つ一つの映像を丁寧に見ていった。編集者として、最も効果的なカットを選ぶ。でも同時に、ファンとして、蓮の表情を追ってしまう。 矛盾している。 でも、やめられない。 編集作業は深夜まで続いた。澪は自宅で、ヘッドフォンを耳に当てながら、タイムラインを調整していく。蓮の歌声が、直接脳に響き込んでくる。 そして、ある映像に気づいた。 リハーサルの合間、蓮が一人でスタジオの隅に座っている場面。カメラは彼を捉えていないはずだったが、たまたま広角レンズの端に映り込んでいた。 蓮は顔を両手で覆っていた。 肩が小さく震えている。 泣いている? 澪は映像を一時停止し、拡大した。確認できない。でも、明らかに彼は何かに耐えているように見えた。