LOGIN力強く引かれた腕に、澪の体が引き寄せられる。「……っ!」 ぐらついた足元を支えられ、そのまま綾人の胸へ倒れ込んだ。 鼓動が聞こえる。 自分のものではない、力強く落ち着いた鼓動だった。「澪」 低い声が頭上から降ってくる。「……怪我は」 澪は震える呼吸を整えながら、小さく首を横へ振った。「だ、大丈夫……です」 そう答えたものの、足にはまだ力が入らない。 綾人は何も言わず、澪の肩へ手を添えたまま体勢を整えさせる。 その手は驚くほど優しかった。「立てるか」「……はい」 澪は小さく頷く。 その声を聞いて初めて、綾人は静かに息を吐いた。 無事だ。 その事実を確かめるように、一瞬だけ目を閉じる。 そして――。 ゆっくりと、美羽へ視線を向けた。 美羽は数歩離れた場所で立ち尽くしていた。 その顔から、さっきまで浮かべていた笑みは消えている。「綾人……さん」 思わず一歩後ずさる。 まさか彼がここに駆けつけてくるなんて、思ってもいなかった。綾人は来場者との歓談中だった。 澪から離れた、そのわずかな隙。 計画は完璧だったはずだった。 美羽の視線が大きく揺れる。 綾人は何も答えない。 ただ静かに、美羽を見つめる。 その瞳には、怒鳴り声よりも恐ろしい静けさが宿っていた。「何をしている」 短い、温度のない声に、美羽は慌てて首を振る。「ち、違うんです! お姉ちゃんが急にふらついて……っ! だから支えようと――」「黙れ」 初めてだった。綾人が人の言葉を強い口調で遮ったのは。澪は目を丸くして綾人を見る。 長い前髪から覗く鋭い視線に、美羽の口が止まる。「……俺は見ていた。お前が澪に手を掛けたところを」 静かな声。 美羽の顔から血の気が引いていく。「ち、違います……っ! どうして私がお姉ちゃんにそんなことするんですか!?」 美羽は目に涙を溜める。綾人は少しだけその眉をしかめた。「違わないだろう。お前が澪に執着していることは知っている」 綾人は一歩前へ出る。 美羽も無意識に一歩下がる。「個展でも、お前は澪を傷つけるために、花を利用した」 さらに一歩。「そして今日は、人を利用した」 また一歩。「澪を、どうするつもりだった」 その言葉に、美羽は息を呑んだ。 綾人の声は終始静かだった。 だからこそ、一つひ
ブランド『花日和』の発表会は、大きな拍手に包まれながら幕を開けた。 壇上を降りた澪のもとへ、多くの来場者が笑顔で集まってくる。「白石先生、とても素敵なお話でした」「私も帰ったら、お花を飾ってみたくなりました」「明日、さっそくお花を買いにいこうと思っています」「私は、花日和を購入してみようかと――」 一人、また一人と声を掛けられるたび、澪は照れくさそうに微笑みながら頭を下げた。「ありがとうございます。そう言っていただけて、とても嬉しいです」 少し離れた場所では、林田たち社員も安堵したように笑顔を交わしていた。「先生のお話で、このブランドの想いがしっかり伝わりましたね」「ええ。本当にお願いして良かったです」 会場には穏やかな歓談の時間が流れていた。 ◇「白石様」 そのとき、一人のホテルスタッフが澪へ近付いてきた。「はい」「会場の外で、先生にお会いしたいという方がお待ちです」「私に、ですか?」 澪は少しだけ首を傾げる。「お名前は伺っておりますか?」「申し訳ございません。お名前までは……」 スタッフは申し訳なさそうに頭を下げた。「ただ、『少しだけお時間をいただきたい』とのことで」「……そうですか」 今日の来場者だろうか。 何か質問などがあるのかもしれない。「分かりました」 澪は小さく頷いた。「すぐ戻りますと、林田さんへお伝えいただけますか」「かしこまりました」 スタッフは一礼し、その場を離れていった。 ◇ 澪は会場を出る。 ホテルのロビーは、先ほどまでの賑わいとは対照的に静かだった。「どなたでしょう……」 辺りを見回す。 人影はまばらだが、自分のことを待っていそうな人はいない。 さらに進むと、大きなガラス扉の向こうに屋外テラスへ続く階段が見えた。 外の空気は心地よく、秋風が優しく吹いている。「こちら、かな……?」 澪はゆっくりと外へ出た。 長く続く石造りの階段。 その下には、小さな庭園が広がっている。 しかし——。「誰もいない……?」 約束の相手は見当たらない。 不思議に思いながら、澪はゆっくり振り返ろうとした。 ◇ 一方、その頃。 会場内で、綾人は来場者から挨拶を受けながらも、ふと視線を巡らせた。「……澪は?」 隣にいた相良が辺りを見回す。「
壇上へ一歩踏み出す。 会場中の視線が、一斉に澪へ集まった。(すごい……) こんなに多くの人の前へ立つのは初めてだった。 胸の鼓動が速い。 手のひらが少し汗ばんでいる。 それでも、ゆっくりとマイクの前へ立った。「……本日は、お忙しい中、お越しくださりありがとうございます。ただいまご紹介に預かりました、白石澪です」 少しだけ声が震えた。 それでも会場は静かだった。 誰一人として急かさない。 澪は小さく息を吸う。「私は、お花屋さんで働いています」 穏やかに話し始める。綾人の傍での仕事と両立しながら、アンジェリケでも働いていることをゆっくりと紡いでいく。「毎日たくさんのお客様とお話をしていると、『花は好きだけど難しそう』、『飾ってみたいけれど、自信がない』という声を、本当にたくさん聞きました。それは、ワークショップの講師を始めてからも」 客席では何人もの人が静かに頷いている。「私も最初は、どうしたらいいのか分かりませんでした」 少しだけ眉を下げて笑う。「でも、お話を聞いているうちに気付いたんです」 一呼吸置く。「皆さん、お花が嫌いなんじゃないんです」 会場が静まり返る。「好きだからこそ、大切にしたい。枯らしてしまったらどうしようって、不安なんです」 その言葉に、何人もの来場者が顔を見合わせた。 思い当たる節があるのだろう。「だから、この『花日和』は、お花を上手に飾るためのブランドではありません」 澪は『花日和』のロゴへ視線を向ける。「まずは一輪。その一輪を、お家へ迎えていただく。そんな、小さなきっかけになれたら嬉しいと思っています」 客席最前列。 綾人は静かに澪を見つめていた。 言葉を飾らない。 難しい表現もしない。
ブランド『花日和』発表会。 開場時間を迎えたイベントホールには、次々と来場者が姿を見せ始めていた。「こちらへどうぞ」 スタッフの案内を受けながら、スーツ姿の男性や華やかな装いの女性たちが受付を済ませていく。 百貨店関係者。 花屋の店主。 雑誌編集者。 ライフスタイル誌の記者。 それぞれが会場へ足を踏み入れるたび、中央に展示された『花日和』の商品へ自然と足を止めていた。「これが新ブランドですか」「可愛らしいですね」「一輪挿しも素敵」 小さなガラス瓶を手に取り、興味深そうに眺める人。 冊子を開き、「分かりやすいですね」と頷く人。 会場には、穏やかな期待感がゆっくりと広がっていく。 ◇「白石先生」 林田が澪を呼ぶ。「皆さまへ、ご挨拶だけお願いいたします」「は、はい」 澪は小さく返事をしたものの、胸の鼓動はどんどん速くなっていく。(すごい人……) 会場を見渡す。 思っていた以上に、多くの人が集まっていた。 その視線の先には、『花日和』のロゴ。 そして、自分が考えた小さなガラスの一輪挿し。 夢みたいだ。 けれど、夢ではない。「もしかして……白石先生ですか?」 近くから声が聞こえた。 振り返ると、一人の女性が笑顔で立っていた。 胸元には、花屋の名札が付いている。「はい、そうです」「お会いできて嬉しいです」 女性は少し照れたように笑った。「個展のお話を雑誌で拝見しました」「ありがとうございます」 澪は驚いて目を丸くする。「『まずは花を好きになって欲しい』というお話、とても印象に残っています」 女性は会場中央のガラス瓶へ視線を向けた。「今回のコンセプトは『まず一輪から』なんですよね。実は私のお店でも、お花を飾ってみたいけど踏み出せないというお客様が多くて……」 優しく笑う。「今日のお話、とても楽しみにしているんです」「ありがとうございます」 澪は深く頭を下げた。 花屋でもそしてワークショップでも、自分も同じような言葉を、何度も聞いてきた。 だからこそ、このブランドが生まれた。 その想いが、少しずつ誰かへ届き始めている。 それが嬉しかった。 ◇「まもなく開始いたします」 スタッフの声が響く。 来場者たちが客席へ座り始める。 澪は舞台袖から、そっと客席を覗いた。
ブランド『花日和』発表会当日の朝。 神宮寺家の屋敷には、どこかいつもとは違う空気が流れていた。「澪さま、こちらをご覧ください」 芹香が姿見の前へ立つ澪のジャケットの襟を、そっと整える。 淡いアイボリーのジャケットに、落ち着いたベージュのワンピース。光の当たり加減では、薄っすらとピンクっぽくも見える。 派手さはないけれど、花のような柔らかさを感じさせる装いだった。「ありがとうございます」 澪は鏡の中の自分を見つめながら、小さく息を吐く。「やっぱり……緊張します」「当然でございます」 佐伯が穏やかに微笑んだ。「ですが、本日いらっしゃる皆さまは、澪さまを試しに来るのではありません」 澪が顔を上げる。「澪さまのお話を聞きたいと思われたから、お集まりになるのです」 その言葉に、澪は少しだけ肩の力を抜いた。「そう、ですよね」 そこへ、勢いよく扉が開いた。「澪さまーっ!」 ひまわりだった。両手には、小さな花束を抱えている。「頑張ってください!」「ひまわりさん」 澪が思わず笑う。「これは、応援の気持ちです!」 そう言って差し出された花束は、小さな季節の花が彩るとても可愛らしいものだった。「終わったら、またお話聞かせてくださいね!」「はい」 澪は嬉しそうに受け取る。 その隣では、桜がおずおずと前へ出た。「あ、あの……」 澪が視線を向けると、桜は少し照れながら小さく笑う。「き、緊張したら……深呼吸です」 その一言に、部屋の空気がふっと和らいだ。「ありがとうございます」 澪は笑いながら頷いた。 神宮寺家のみんなが、自分のことのように応援してくれている。 その事実だけで胸が温かくなった。 ◇「そろそろ出るぞ」 綾人が静かに声を掛ける。 澪は花束を芹香へ預けると、小さく頷いた。「はい」 玄関へ向かう。 黒い車は、すでに門の前で待っていた。 相良が後部座席のドアを開け、一礼する。「本日もよろしくお願いいたします」「こちらこそ、よろしくお願いします」 澪は車へ乗り込む。 その直前。「澪」 綾人に呼ばれ、振り返った。「はい」 綾人は澪の前まで歩み寄る。そして、ほんの一瞬だけ肩へ手を置いた。「大丈夫だ」 その温かな手の感触が、不思議と胸の奥の緊張をほどいていく。「……はい」 澪は
数日後の朝。 神宮寺家の庭には、澄み切った秋の空気が流れていた。 澪は小さなガラスの一輪挿しへコスモスを一輪だけそっと生ける。そしてそれを縁側に置く。 透明なガラス越しに映る花は、風に揺れながら優しく微笑んでいるようだった。「やっぱり、一輪だけでも素敵」 自然と笑みがこぼれる。 あの日、キアーロで話した『最初の一輪』。 その想いが、本当に形になった。 この小さな花瓶が、これからたくさんの人の暮らしへ届く。 そう思うだけで胸が温かくなった。 ◇「澪さま」 庭先へ相良が歩いてくる。「林田様より、お電話でございます」「林田さんから?」 澪は少し首を傾げながら部屋へ戻り、電話を受け取った。「おはようございます。白石です」『おはようございます、白石先生』 受話器の向こうから、いつもの穏やかな声が聞こえる。『本日は、ご報告がございまして』「ご報告、ですか?」『先日お送りした試作品ですが、先行販売させていただいたお客さまからも大変好評でした』 澪は思わず顔をほころばせた。「本当ですか?」『ええ。特に、小さな花瓶を最初の定期便へ同封する案は、多くの方から「ぜひ実現したい」と声が上がりました』「よかった……」 胸を撫で下ろす。 少しでも役に立てたのだと思うと、本当に嬉しかった。『そこで、もう一つご相談がございます』「はい」『ブランド「花日和」の発表会を開催することが正式に決まりました』「発表会……!」 思わず声が弾む。『百貨店関係者、花屋様、雑誌編集部、メディア関係者など、多くの方をご招待する予定です』 そんな大きなイベントなのかと、澪は一瞬、言葉を失った。『そして――』 林田は一呼吸置く。『ぜひ白石先生にも、ご登壇いただきたいのです』「……え?」 澪は固まった。『ブランドの想いを、先生ご自身のお言葉でお話しいただけませんか』「わ、私がですか!?」 思わず声が裏返る。『はい』「そんな……私、人前で話すなんて……」 電話口の向こうで、林田は優しく笑った。『難しく考えなくて大丈夫ですよ』「でも……」『先生のお言葉だからこそ、伝わることがありますし、先生のお言葉だからこそ我々は聞きたいんです』 その穏やかな声には、不思議な説得力があり、澪は口を噤んだ。『詳しい資料は本日中にお送り
初対面の人の……しかも、男性の家に泊まるなんて……。と、澪は使用人たちが布団を整えてくれる様子を部屋の隅で眺めながら考えていた。 けれど、自宅に帰れば美羽と顔を合わせなければいけなくなる。 美羽のことは今でも大切に思っている。だからこそ、自分の婚約者である拓真と唇を重ねていたあの光景に、澪の心はぐしゃぐしゃにかき乱されていた。(家には帰りにくいと思っていたから……ありがたいかも) いつもの自分であれば絶対にしない選択だ。結婚を約束した恋人だっている身。 けれど、今夜だけは――。 そう、澪は少し目を伏せて、小さく溜息を吐いた。 布団の中に入っても、澪はしばらく眠れなかった。
「こちらへどうぞ」 年配の女性に案内されながら、澪は何度も周囲を見回していた。 広い。とにかく広い。これを『普通の家』を称した綾人のことを思い出して、澪は苦笑いを浮かべるしかなかった。一体どんな風に生きていたら、これが『普通』という認識になるのだろうか。 磨き上げられた廊下はまるで旅館のようだ。屋敷のあちこちに飾られている生け花はどれも芸術作品のように美しかった。「すごい……」 居間として使われている部屋だろうか。その前を通りかかったとき、一際上品で、一際色鮮やかな花で彩られた生け花に、思わず声が漏れる。「ありがとうございます」 女性は嬉しそうに微笑んだ。「お花はどれも、綾人
車のドアが静かに閉まる。外の雨音が遠くなった。 澪は膝の上で手を握る。 隣には、先程出会ったばかりの男性が、窓際に頬杖をついて流れる景色を見ている。 車内は驚くほど静かだった。 隣に座っているだけなのに緊張する。 けれど……なぜだろう。不思議と怖くはない。 むしろ……どこか居心地の良ささえ感じてしまっているような――。「……寒くないか」 不意に掛けられた言葉に、澪の肩がびくりと跳ねた。「は、はいっ」 思わず声が裏返る。「全然、寒くないです」「それならいい」 「じ……神宮寺さんは、」 寒くないですか、と言いかけた言葉は、「綾人」 と短い声に遮られた。「え?」
「……澪?」 聞き慣れた声だった。 その瞬間、澪の体は強張る。 振り返った先には、息を切らせた拓真が立っていた。 雨に濡れた髪。 乱れた呼吸。 まるで必死に追いかけてきたみたいだった。「澪……!」 澪の姿を見て、安堵したように表情を緩めた拓真が、一歩近づいてくる。 けれど澪は思わず一歩足を後ろに引いた。 その仕草に、拓真の顔が傷付いたように歪む。「待ってくれ。話を聞いてほしい」「……」「誤解なんだ」 その言葉に、澪は思わず顔を上げた。 誤解。 その言葉が胸に刺さる。 だって澪は見たのだ。確実に。この目で。 ホテルの前で。 拓真が美羽に口づける姿を。「誤







